栄光の代償・元艦娘たちが語る対深海棲艦戦争(GHK出版新書)   作:蚕豆かいこ

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二   楽しき熱帯

 まだ夜が明けきらないうちに元長波は自宅を発とうとした。だが元長波は忘れている。自分に処方された七種の常備薬を忘れている。セルトラリンを有効成分とする鬱を抑える薬、はげしい動悸を抑える薬、痛みを抑える薬、睡眠導入剤、悪夢を抑える薬、起きているときに眠気を抑える薬、発作を抑える薬を忘れている。くそ。元長波は毒づく。元長波にはわからない。なぜ自分がよく物忘れをするのかわからない。お母さん、わたしは戦地に行くまえも、こんなに忘れっぽかった? 訊きたくても元長波にはもう母親はいない。ねえ、お父さん? でも元長波にはもう父親もいない。元長波自身は断言する。「軍にいたころ、わたしは任務でなにかひとつでも忘れたことはなかった。命令もいちど聞けば達成するまで一言隻句たがえず覚えることができた。2戦教(第2水雷戦隊教育選抜課程)の学習教育では教科書もノートもなかった。書かなければ記憶できないような奴はふるい落とされる世界だったからだ。それをわたしは首席こそ逃したものの合格した。へたな軽巡より長く2水戦に在籍してたんだぞ、あの2水戦に。そんなわたしが、なんで忘れ物なんか?」元長波にはわからない。元長波はいらいらする。仕切りのあるプラスチックのピルケースへ六種類の医薬品を充填し、発作を抑える薬だけは、ペンダントのピルケースへ詰めて、首にかける。左胸と、いまはない右胸のあいだに垂らす。特別な薬。

 元長波は洗面台の鏡を見つめる。鏡のなかから元長波が見つめ返してくる。員数を点検するように、目がふたつあることを確かめる。目はふたつ、鼻はひとつ、口もひとつ、耳はふたつ。元長波に欠けているものはない。

 しかし元長波はその顔が何度も破損したことを覚えている。かすめた砲弾に右の頬がそっくり削ぎとられて歯列と歯茎が丸見えになったことを覚えている。至近弾の衝撃波で左右の眼球が飛び出して視神経の糸によってぶらさがり、自身は腹部の裂傷から小腸をこぼしている僚艦の朝霜に「アメリカンクラッカーみてーになってんぞ」と笑われたことを覚えている。破片に鼻がえぐられて、帰還するまでのあいだ、仲間たちに「梅毒にかかったぜ」と自ら冗談を打って爆笑を誘ったことを覚えている。右腕は二十八回も元長波の体から離れたし、左腕も二十六回もげている。右足は七十回、左足は五十五回、吹き飛んだ。

 彼女が長波だったころに作戦行動によって受けた中等傷以上の負傷は、クロゼットの奥に追いやるようにしまわれたパンプスの空き箱を開けてみれば、つぶさに知ることができる。人は靴と腕時計で値踏みされるという翔鶴の助言にしたがって購入したジミーチュウの蓋がすこし浮くほどに溢れかえる名誉負傷勲章の山は、それすら元長波が人生のうち八年を軍に捧げた戦歴の一端にすぎない。

 だが元長波は五体満足でここにいる。体のどこかが欠損するたび修復させてきた。右の乳房以外には欠けた部位なんてない。健康そのもの。なのになぜ、退役して二年のあいだ苦しんだあげく、「教えてくれ。わたしはどうしちまったんだ」と藁にもすがる思いで助けを求めた元朝霜に勧められ、死傷艦娘支援局の紹介状をたずさえて門を叩いた復員艦娘病院で、重度のPTSDと診断されたのか。なぜ意味もなくいらいらするのか。なぜ物忘れをするのか。なぜ軍を退いて帰郷した三日後の昼下がり、自分に向けられた携帯電話のカメラのフラッシュに悲鳴をあげて家に逃げ込んだのか。臆病者だからだ。女々しいクソッタレだからだ。元長波は自分を責める。怒りに満ちた顔の映る鏡を睨む。敷波が鏡のなかの自分に向かって「ちがう、これはあたしの顔じゃない。おまえはだれだ」と叫んだ日のことを思いだす。自分の顔をそれと認識できなくなっていた敷波は鏡を殴って粉々に砕いた。深海棲艦が基地に侵入している。敷波はそうわめきながら拳を真っ赤に染めて鏡の破片をさらに細かく叩き割っていた。いまの元長波にはひとごとに思えない。敷波のはPTSDなんかじゃなくホーミングゴーストの症例だっただろ。そう言い聞かせて元長波は鏡から視線をひきはがす。ところが、鏡のなかの自分がそのままこちらを睨みつけていやしないかと、一度だけ振り返る。

 

「ここに越してきたときは、あんなビルはなくて、昇る朝日が見られたもんだが。街がどんどん変わっていく。これが復興なのかな」

 なにか忘れているものがあれば道々で購えばいいと確認作業を切り上げ、海老茶のキャリーバッグを道連れにマンションを出た元長波は、しみじみ述懐する。ビル街に隠された払暁に背をむけ、戦中でも天候不順以外の理由ではただの一度だけを除いて運転を取り止めることのなかった駅へと向かう。

 わたしは病気らしい。元長波はそう認めようとしている。病院で医者が診断したじゃないか。わたしは病気なんだ。病気は治さなくちゃいけない。手足は何度でも修復させられたし、従来の兵士なら黒のトリアージを付けてモルヒネを注射するにとどめていたであろうひどいけがも、現代医学は治してみせた。だからいまの病気も治るはずだ。

「治るのか?」それでも元長波は信じられないでいる。「治るのか?」

 

 駅に近づくにつれ、道路は大きくなり、車線もふえる。風穴のあいたビルなんてない。車道に穴ぼこもない。傷ひとつない街並みをひっきりなしに行きかう自動車に自転車。

 道行く若者たちはみんな活き活きとしている。だれも元長波には気がつかない。終戦後に産まれた子供たちはいまや続々と成人している。自動販売機で買ったミネラルウォーターをらっぱ飲みする青年のそばを通るとき、元長波はフィリピン海の真ん中で七日も漂流していたときのことを思い返している。あのとき自販機があれば、おなじ艦隊だった巻雲は海水なんか飲まなかったはずだし、体液の濃度バランスが崩れたことによる幻覚に誘われて落伍することも、ましてや沈んだりすることもなかったはずだ。

 毛のない小型犬ほどの動物を散歩させている男性とすれちがう。空前のブームとなっているペット用の深海棲艦だ。国内だけでもペット用深海棲艦は推計二〇〇〇万頭が飼育されている。

 愛玩用に品種改良された深海棲艦が、短い四肢をせわしなく動かして、楽しそうに飼い主に追従する。元長波はついじっとみつめてしまいそうになるのをこらえ、乱れそうになった足取りを整える。

 駅は健全な殷賑(いんしん)のなかにあった。だれもかれもが、仕事か旅行か、いずれにせよ往復を前提とした乗車を画策していた。行ったきりいつ戻れるかしれない疎開や出征を目的としているものなどいなかった。一両日のうちにまたこの駅へ帰ってくることをだれひとりとして疑っていないことはあきらかだった。いつか翔鶴に夜語りで教えてもらった『弱法師(よろぼし)』で俊徳丸がみた日想観(じっそうかん)の景色とはこのようなものであったろうかと、元長波は目を細めたりする。

 予約していた快速の列車に乗り込む。揺られているあいだ、頬杖をついて車窓から景色をながめていても、防砂林を抜けて視界が一気にひらけると、思わず身を伏せて「むやみに開豁地(かいかつち)に出るな!」と怒鳴りたくなる。デッキに煙草を吸いに出ていた乗客が戻るときにドアを開くたび、元長波は自動的に振り向いてしまう。はじめて復員艦娘病院へ診察に訪れたときの、うんざりするくらい根掘り葉掘り訊かれた問いのひとつに答えた内容を思いだす。「外に出るたび、目につく全員がなにをしているのかが気になってしようがないんです」。なにも変わってないじゃないか。もう二十年もPTSDプログラムやリハビリをしてきたが、いまでもあの問診のすべてにおなじ答えを返すだろう。事実PTSDの診断を下されつづけている。進歩がみられないのはもしかしたら自分のせいかもしれない。わたしのなにかが悪いから快癒しないのだ。「治るのか?」

 

 元長波は喫煙スペースへ煙草を吸いに立つ。Iustitia(ユスティジア)と流れるような筆記体が印刷されているソフトケースの尻を破って、煙草を一本抜き取る。フィルターに触れないように注意しいしい唇にくわえる。訓練を修了してはじめての任地となったブルネイ・ダルサラームの泊地で、がちがちに緊張していると、夜になって、先任である駆逐艦深雪から「はじめてかい?」と声をかけられた。自分がその年に艦娘学校を卒業したばかりのご新造(新入りの艦娘の隠語。新造艦と、女が寄生生物と合体して艦娘になるという考えかたをかけたもの)であることを、深雪らは承知しているはずだった。だからべつのことについて訊ねられているんじゃないかと考えた。セックスとか。問いがどちらの意味でも問題はなかった。処女だった。過酷な訓練のせいで生理も止まっていたことに気づく。自分が女の子だったということさえ忘れていた。「はじめてです」。深雪はにやりと湿った笑みで元長波に使い込まれた連装砲を向けた。ぎょっとする元長波に深雪はいった。「くわえなよ。右な。ああ、あんたからみて右だよ」。そのとき、煙草の臭いにようやく気がついた。深雪は煙草をおもいきり吸い、ハムスターみたいに口に貯めると、排莢孔(エジェクション・ポート)に接吻して煙を薬室へ吹き込んだ。元長波はおそるおそる砲口に口をつけて吸った。純真無垢な肺胞のひと粒ひと粒に行き渡らせた。未成年者の喫煙は一般常識に照らし合わせるまでもなく違法だが、法律は副流煙を吸うことまでは禁じていなかった。煙草をはじめて体験する者がだれしもそうするように、元長波も大いにむせた。深雪が快活に笑った。さっきとは打って変わって真夏の青空のような笑顔だった。まわりのみんなもそれぞれの流儀で笑った。巻雲は元長波の背中をさすってくれた。

 そこへ軽巡の酒匂が現れた。深雪は即座に煙草を踏み潰して隠匿した。察した元長波も喉の奥から気泡のように次々湧きあがってくる蠕動を我慢して先任駆逐艦たちに倣い直立不動となった。酒匂はしわぶきをけんめいにこらえている元長波の顔をじっくり覗き込んだあと、いった。「ぴゃああ」。元長波の堰は決壊した。吹きだすとともに咳き込んだ。またみんなが腹を抱えた。そうして元長波はあらためて艦隊の一員として迎え入れられた。十三歳だった。

「あのとき居合わせた艦娘でいまも存命なのは、わたしと酒匂さんだけ。わたしのはじめての艦隊で生き残ったのは、たったのふたりだけ……」

 右も左もわからない新入りの自分を、ほかの慣れた艦娘たちと同様に、艦隊というひとつの機械を構成する等質の部品として信用してくれた深雪たちは、終戦よりだいぶ前に戦没した。なのに自分は、こうして深雪の連装砲ごしに喫んだのとおなじ銘柄の煙草で紫煙をくゆらせている。それが元長波には不思議に思えてならない。

 何度めかの灰を落としたところで、元長波は左手首につけてある腕時計を確認する。トイレに行く時間が数分後に迫っている。元長波は決まった時間にトイレに行くよう自分と約束している。

 席へ戻ると、指定席に知らない子供が座っている。すぐに母親が現れて元長波に謝りながら子供を引っ張っていく。「艦娘さんなの?」子供が無邪気に元長波へ問いかける。母親が頭をはたく。元長波は迷ったすえ口を開く。「ちがうよ」

 あの子供がなにを根拠に元長波を艦娘であったと見抜いたかはわからない。子供特有の勘かもしれないし、会う女性みんなに言っているのかもしれない。とにかく元長波はちがうと答えた。「うそはいってない。もう艦娘じゃなくなって二十二年になる」もしそうだと答えたらどうなるか、元長波は知っている。どこへ行ったの。深海棲艦を何匹殺したの。そのときどんな気持ちだった。何万回訊かれたか知れない質問が待っている。この二十二年で世界中の人間に問い質されたような気さえする。それでもまだ訊こうとする人間がいることに元長波は驚きを隠せない。元長波は呆れる。揃いも揃ってカウンセラーにでもなったつもりか?

 けれど相手は子供なんだから、と元長波は自分を落ち着かせようとする。こんな些細なことで苛立つ自分が心底いやになる。治療を受けていれば、いつかは腹を立てず、おなじ話を何度でも笑顔で話して聞かせることができるようになったのだろうか。元長波は考え込む。毎回ちがう人間からであるとはいえ、おなじ質問を幾度も投げかけられて、いいかげんうんざりする奴と、不純物のない笑顔を貼りつけて壊れた再生機のようにおなじ体験談を出力する奴。どちらが人間らしいだろうか。そして、人間らしいことが必ずしも正しいとはかぎらないということもまた、軍隊に所属していた元長波はよく知っている。

 

 けっきょく結婚はできなかったな。母に腕を引かれて自由席の車輛へ移っていく子が屈託ない笑顔で反対の手を振ってくるのに応じながら、元長波はそう身上を追懐している。「こんな小さな女の子たちを戦わせなければならないとは!」。そう嘆いた男性の海軍軍人は大勢いた。元長波たち艦娘を最前線へ送り届ける母艦となる護衛艦の乗員たちは、みな一様に「せめてドロップポイント(母艦から艦娘を出撃させる地点。転じて護衛艦が進出できる限界点)まではきみたちを死守する」と誓い、結果はどうあれ、彼らは言葉どおり常に身命を睹して職務を遂行してくれた。元長波たちが交戦しているあいだ、彼らは気を揉み、母艦へ帰投すれば、わが妹や娘であるかのように雀躍した。しかし戦争が終わったのち、彼らのほとんどは艦娘や元艦娘と結婚しなかった。除隊した元護衛艦乗りの男性は元長波にいった。「もう戦争を思いださせるようなものは、そばに置いておきたくない。あの子は香水の匂いがするんだ。わかるかい、女の子の匂いだ。血とオイルの臭いしかしないきみとはちがう」。彼は艦娘に志願せず深海棲艦をその眼でみたこともない民間人の女性と籍を入れた。

 正式に戦争終結の詔書が公布されて、それを合図とするように多くの艦娘たちの月経が再開した。これからはもう殺したり殺されたりするのではなく、子供を産んで育てる日々を体が期待しているのだと、みんな実感した。久しく見なかった経血に、感動の涙を流す艦娘さえみられた。

 女性としての機能を使わないまま一生を終えた艦娘は、数えきれないくらいいた。元長波もそのひとりになろうとしている。

 なにごとにも例外はある。元長波と一時期同じ艦隊だった駆逐艦嵐は、いまでは母親になっている。

 元長波の知る陽炎は、従軍中に知り合った機関科の男性とひそかに交際を重ね、ともに退役してからあらためて関係を築きあげ、結婚した。

 その陽炎は改二だった。夫となる男性も重々承知していた。むしろ陽炎のほうから身を引こうとしたのだ。「改二のわたしは子供が産めない。あなたの子が産める女性を愛してあげて」。男性は頑として聞かなかった。だから元長波は、いまだに子供のいない彼ら夫婦を無条件で祝福し、敬意と思慕の念をいだいている。

「わたしには無理だった。それを二十年経ったいまも維持している。それはなんでもないようにみえて、実はとてもすごいことなんだ」

 

 右側の座席から歓声があがる。左の窓側に席をとっていた元長波が首をのばす。車窓から望む、瑠璃にきらめく海に、小さな霧がわだかまっている。そのすぐ隣におなじような水煙が海面から噴きあがる。クジラの潮吹きだ。ここからでは人差し指の爪ほどの高さだが、距離を考えると、実際には見上げるほどもあるだろうことは容易に想像できた。大きなクジラでは一秒間に一五〇〇リットルの息を吐くという。やがて黒い巨体が海を割って跳ねて、派手に白波を撒き散らしながら海中へ戻っていった。乗客たちが思いもかけない大自然のショーに感嘆の吐息をもらす。携帯電話を構えて次のシャッターチャンスに備える。期待に応えたわけではないだろうが、クジラたちはまたジャンプをみせた。一回で一日に消費するカロリーの一パーセントを使うという跳躍は、何キロも離れていてなお迫力に満ち、見るものにある種の畏敬の念をかきたてられずにはいられない。艦娘として海の上にあるときも、移動途中で遭遇するクジラやイルカは貴重な娯楽だった。元長波はアマゾンカワイルカと戯れたこともある。

 何の前触れもなく海が気まぐれにみせた饗宴は、一分ほど続き、やはり前触れなく終わった。クジラたちは深い海へと還った。太平洋の青さは底がなかった。「アトイポクナシル」乗客らが写真の出来を確認しているなか、元長波がぽつりと漏らす。「アイヌの言葉で、海底世界って意味らしい。飛行艇母艦の神威に教わった。深海棲艦はそこからやってきてるんだとさ。不思議な奴だった。海と話ができたんだ。非番でもひまさえあれば海を眺めてた」肩を竦めるような所作をする。「いまはちがうらしいけど」

 通路ドアの上にある電光掲示板に文字が流れる。元長波以外の乗客はだれひとりとして眼もくれない。僚艦のひとりだった子日(ねのひ)は、まだ二歳だった三十九年前、この路線を走る列車に両親と乗って疎開していたとき、ちょうど海に面したいまの区間で空爆を受けた。ひとり娘を庇うように覆い被さっていた両親は即死し、子日――正確にはのちに駆逐艦子日となる女児――は一命をとりとめた。父母以外に肉親はいなかった。天涯孤独となった女児は国の運営する児童養護施設に引き取られた。政府は深海棲艦による爆撃と発表した。少女が艦娘への志願をだすのは当然の帰結だった。そうして初春型駆逐艦子日として配属されて、本人いわく「神さまの嫌がらせで」終戦まで生き残った。旅の前に連絡をとった。あの元子日はいまも生きていた。それすらも二日前まで知らなかった。お互い退役艦娘会に加入していないからだった。

「戦友会で、同窓会みたいなの、するだろ。十中八九、思いだしたくもないことを思いだしちまう。だれが悪いってわけじゃないんだ。強いていうなら、わたしが悪いんだろうな、ほとんどの退役艦娘が入会してるんだから。子日は、優しいから入らないんだと思う」

 かつてここで空爆があり、一〇六名が犠牲になったことを伝える無機質な文章ののち、電光掲示板は列車が千葉県に入ったことを知らせた。

 

  ◇

 

 列車は川にかかる構脚橋にさしかかった。後方へ過ぎ去っていくトラス構造の隙間から、海へと注ぐ流れを見下ろしていた元長波は、橋を通過してしまったのちも、ブラジルのアマゾン河警備隊へ教官として派遣された日々を偲んでいる。

「深海棲艦ってのは、海だけじゃなくて、川まで遡上してくるんだ。タパジョスやシングーみたいな大河はもちろん、イガラッペにまでね」支流のさらに傍流、カノア(カヌー)を使うような密林床の細流を現地の人々はイガラッペと呼んでいた。「わたしは乗らなかったけど。なんせ水の上でスケートができんだから。で、やっこさんは河口から一五〇〇キロも上流のマナウスにまで遡ってきて、おまけにそれが空母ならそこから内陸部を空襲されるもんだから、かなり手こずってたらしい。すごいよな、川の支流が北海道から九州まであんだから……もちろんブラジル政府も艦娘で対抗しなきゃいけないわけだけど、独力で対深海棲艦のノウハウを身につけてるひまもないから、日本に頼んだわけだ。飢える者には魚でなく釣りの技を与えるべしってことさ」

 アグレッサーの任も担う2水戦から一個小艦隊、すなわち長波だった元長波と、朝霜、陽炎、磯風、島風、軽巡酒匂の六隻が選ばれ、予備込みで十八隻ぶんの艤装を整備する五十七名の海上整備補給群のほか、管理隊、業務隊、会計隊、装備部の三十五名、計九十八名に、一万八〇〇〇キロ離れたブラジルへの赴任が命じられたのは、深海棲艦の支配下にあったハワイ諸島の元米海軍泊地奪還を目的とした〈波濤を越えて作戦〉(Operation Beyond the Surging Sea)が、事実上の失敗に終わった直後のことだった。孤軍奮闘をつづけていた米戦艦娘アイオワら第3艦隊を救出することには成功したものの、作戦遂行の結果、当時の海上自衛軍は戦争はじまって以来といわれるほどの損失を被っていた。そんななかでの渡伯である。もちろん艦娘のブラジルへの派遣は海軍としてははじめてだった。

「辞令が内示されたときは、マジかよっていうのが本音だった。海外、それも、ブラジルなんて! 反攻作戦の参加艦は内地で二週間前後の休暇をもらえるっていうのが通例で、みんな心待ちにしていたから、悪友の朝霜といっしょに悪い冗談だろうといいあって、信じないふりをしてたんだ。そしたら次の日、引率の酒匂さんが部屋にきて、ペラ紙渡して、いうんだ。“正式に辞令が出たから、お荷物をまとめてヒトナナマルマルに司令部に集まってね”(元長波はやけに甲高い声真似を披露した)。あれには参ったね。魚雷で耳栓をしたかった。けど仕事だから、しょうがない」

 まだ人工衛星や、高高度の航空機を専門に撃墜する深海棲艦がいた時代だった。海路はもちろん空路でも太平洋を横断することはできないため、輸送機でロシア東端からアラスカに渡り、北米と中米上空を経由してブラジルを目指した。マナウス国際空港に降り立ったときには、日本を発って十五日が経過していた。

「いろんな艦娘がいたな。真っ黒けの艦娘もいたし、ラテン系もいたし、コーヒー牛乳の艦娘もいた」コーヒー牛乳とは、白人と黒人の混血のことだ。南米には多いという。「びっくりしたのはシングルマザーばっかりだったことかな。おまけにどれも子沢山で、まだハタチにもならないのに七人も子供がいるとかいうのが珍しくない。しかも子供の顔がみんな違ってたりしてね。日本と違ってブラジルでは艦娘はモテるらしいんだ。子供の父親がだれなのかわかんないけど、本人たちはそんなこと気にもしてないみたいだった。でもみんなボニータ(美人)だったよ。驚いたのはもうひとつ、だれもブラをしてなかったのに、オッパイが割といいカタチしてたこと。こう、張りがあるんだ。ブラしてるとむしろ垂れるんだってさ。オッパイが甘えるとかなんとかで。それでわたしもしばらくはノーブラにしてたな。ああ、騙された。わたしが悪いんだけど。物事の表層だけをみて真似するのはよせってことだね」

 遠い異国での生活は毎日が驚きの連続だった。

「現地のコーディネーターに、魚を見つけたり、食べたくなってリクエストするときも、サカナといっちゃいけないって教わった。サカナはあっちの言葉でオナニーって意味らしい。朝霜なんかそれを聞いた瞬間、外に向かって“サカナ!”って大声で叫んでた。あいつはそういう奴さ。あとは、そう、人前で人差し指と親指の丸をつくっちゃいけないとか。日本じゃオッケーとかの意味だけど、ブラジルでは中指を立てるようなもんなんだってさ。もしやっちゃったらレイプされても文句いえないんだと」

 ことにアマゾンは元長波たちの河に対する概念を覆すものだった。フェリーから漁船といった民間船舶はもちろん、フリゲートや島のようなヘリ空母まで、大小さまざまな船が余裕をもって行きかっているので、濁ってはいるが海だと思っていたら、河だった。

「河でスケートしたけど、さすがというべきか、ほとんど海と変わらなかった。本流ともなると右も左も岸が見えなくて、三六〇度一面の水。水平線さえ見えるんだ。しかもちょっと円みを帯びてる。なにせ下流ともなると川幅が三〇〇キロもあるからね。目に映るのは空の青と川面の二色だけ。ひとくちにアマゾン河っていっても、いろんな河があるんだ。紅茶みたいに赤い河、味噌汁みたいにとろりと黄色く濁った河、コーヒーみたいな黒い河、カフェラテみたいに白く濁った河、そのすべてが、手づかみできるくらいの途方もない種類と数の魚を孕んでる。これまで日本だけで七八〇万人の女が艦娘になったっていうけど、アマゾンカワイルカと併走して遊んだなんてのは、きっとわたしたちだけさ。

 ある日、むやみやたらに暑いのに、コーヒー牛乳の艦娘が湖の真ん中でいつになく真剣に水面を睨んでるんだよ。なにしてるんだってそいつの兄貴に訊いたら、ピラルクを採るんだって。あのワニみたいにばかでかい魚の……。ピラルクは魚だけど肺呼吸するから、何十分かに一度は水面に息継ぎしに上がってくる。水はカフェラテだからその瞬間しか狙えない。熟練の漁師は、ピラルクの息継ぎを見つけたら――なにせでかいんで湯船に洗面器を逆さに沈めてひっくり返したときみたいに派手な音がするらしい――日がな一日、あの連中には珍しく忍耐強くボートの船上で待ち構えて、上がってきたところをすかさず銛で仕留めるんだとか。それを艦娘がやってるんだ、なんせ水の上に立てるからな。

 みんなで煙草ふかしながらぼけっと眺めてたら、それまで彫刻みたいに固まってたコーヒー牛乳が、電光石火の早業で主砲をぶっ放した。みごと、三メートルはあろうかという大物を捕まえたんだ。朝霜はこう呟いた。“ピラルクじゃなくて、深海棲艦と戦えよ”。わたしらは笑ったが、実際、彼女たちは戦うより、魚を採ることを運命づけられた人間だったんだ。わたしたちだって日本で秋刀魚獲ってたことあったから、あまり人のことはいえない。その晩はピラルクのご馳走になった。わたしたちに食べさせたくて獲ったらしい。ピラルクを食わずしてアマゾンを語るなってわけだ。石みたいに固い頭蓋骨を鍋がわりにして、肉も心臓も腸もかまわず放り込んで、米やら豆までぶちこんで、なにもかもいっしょくたにして、ぐつぐつ煮込む。

 連中の料理はほんと、この星で右に出るものはいないってくらい下手くそで雑を極めるんだが、骨からにじみ出た出汁の香りがあたりに漂ってね、腹が鳴ってしょうがない。そんでファリーニャをふりかける。

 ファリーニャってのは、山芋の親分みたいな奴をすりつぶして、煎って、ぱさぱさの粉にしたもんで、向こうの人間はとりあえずなんにでもファリーニャをかけて食べるんだ。これ自体はなんの匂いも味もない。けど水分を吸うと何倍にも膨らんで、お腹が風船みたいになるから、たぶん、日本のコンニャクとおなじで、空腹を満たすために考えられた食材なのかもしれないな。とにかくピラルクのスープをたっぷり吸ったファリーニャといっしょに、米と豆とピラルクの身を猫飯みたくごちゃ混ぜにしてね。仕上げにモーリョ・デ・ピメンタっていうソースをかける。これは刻んだ唐辛子やトマトにニンニク、セロリなんかを酢と油で和えただけのすげえ大雑把なソースなんだけど、見た目はソースってかサラダなんだよ。唐辛子のサラダ。そいつをピラルクの猫飯にどっさり。

 スープを一口すすってみたら、これがまあ、白熱と驚愕、なんともいえない。口のなかでうまみが暴れまわるのよ。一億年の歴史を閲した味さ。風味はタラに似てるかもしれない。朝霜は前言撤回、がつがつかきこんで、唐辛子の辛さに火を噴きながら汗だくで貪ってた。陽炎も皿に顔つっこんで頭から湯気が出そうになってたっけ。酒匂さんなんか“辛いのにやめられない”ってヒイヒイいってたよ。いや、ぴゅうぴゅうかな。暑い国で辛いものを食べると、一周回って涼しくなるもんさ。わたしたちと部落のみんなで酒宴ひらいて、それこそピラニアみたいにたかって。

 石頭の鍋に入らなかった部分はバーベキューにしたけど、食べても食べても全然、減らないんだ。あそこらへんの食事ってのはパンタグリュエル式*1なんだけどね、獲物が獲物だけにいつにも増してパンタグリュエル式になった。ふだんは獲れたピラルクは干し肉にして売るんだとか。でかいやつを一頭獲ると一週間は働かないで暮らせるらしい」

 ピラルクだけでなく、アマゾンは珍味の宝庫だった。

「ピラニアも食べたよ。二度揚げしてレモンとしょうゆをかけるといくらでも進むんだ。日本人はとりあえずしょうゆがあればなんとかなるから持っていって正解だった。不思議なのが、わたしたちがピラニアをばんばか釣ってるすぐ横で、子供たちが裸ん坊で水遊びしてたことだ。危ないよな。現地の人間にしかわからないなにかのトリガーがあるんだろう。でもカンディルだけは怖がってた。尻といわず何といわず、穴という穴から入りこんで、体のなかを食い荒らすから」

 元長波の眼はいま元長波の体を離れ、時間さえ飛び越えて、当時を眺望しているかに思われた。しかしそれは実のところ、元長波の肉体はいまここにあっても、心胸はいまだに現役時代に留まっていることの証明であったのかもしれなかった。

「カランゲージョっていう蟹が絶品だった。ドブみたいに臭い泥に棲む蟹なんだけど、それをまた豪快に大鍋で何十匹も湯がいて、赤くなったのをそのまんまどんと出してくる。()粉木(こぎ)みたいな棍棒もいっしょに持ってくるんだ。自分で割れってことだよ。付け合わせはやっぱりファリーニャとモーリョ・デ・ピメンタ。

 甲羅を叩き割って、湯気の立つ白い身をアチアチいいながらほじくって、モーリョにつけて、ホホウと物は試しに頬張ってみる。いまでもおぼえている、噛むとじゅわあっと迸る熱い汁の、あのしっとりとした繊細でほのかな甘み、そのなかに隠れてる奥深い滋味。ぷりぷりの歯ごたえ。

 一口めで顔を見合わせたあとは、もうみんな夢中になって、飢えた野生児みたいにひたすらしゃぶって、啜って、舐めて、また殴って、ほじくる。沈黙の熱狂でほじって、ねぶって、ときおり思い出したようにベトベトの手でビールを流し込む。ふうっと息をついて、自分が呼吸も忘れてたことに気づくんだけど、そんなことどうでもいいとまた格闘に戻る。なにもしゃべらずカランゲージョの山をわれさきにやっつける。島風も額に珠の汗を浮かべて忘我の境地で殻のなかまでむしゃぶりついてた。わたしたちだけじゃなく、ほかのテーブルの客たちもみんな没頭してるんだ。蟹を食うときには無言になるってのは、万国共通みたいだ」

 アマゾンでいちばん気に入った魚はと訊かれたら、元長波はプレコを挙げると決めている。口が吸盤になっているナマズの仲間で、流木や石に吸い付くことができる。大アマゾンには星の数ほどの種類のプレコが蠢いている。

「プレコでもグリーンロイヤルとオレンジフィンカイザーが美味かった。蟹みたいに全身が甲羅で覆われてて、焚き火のなかにそのまんま放り込む。で、見てるこっちが心配になるくらい丸焦げにしちまう。炭のかたまりみたいになったところで、甲羅を割ると、雪みたいに真っ白な身が現れる。身はホクホクで味はカニに似てる。品がないけどしゃぶって食うとたまらない。

 オレンジフィンカイザーは、鮎みたいに岩のコケを削り取って食べてるせいか、やっぱり鮎そっくりの味がする。風味がスイカみたいに爽やかで、ハラワタのほろ苦いのがビールに合うんだ」

 しかし、すべての魚が美味だったわけではなかった。

「クユクユ(オキシドラス)は不味かった。血抜きはちゃんとしたんだけど、臭くて臭くて。デンキウナギも駄目だった。筋っぽくて、くそ固い上にブルーチーズなみにニオイが強いし、味もない。一口も喉を通らなかった。細長い魚は美味いもんなんだけど、あれだけは例外」

 四十日間の派遣で、元長波たちはときに実戦をともにしながらアマゾンの河川で“アマゾネス”たちに戦術の手ほどきをし、現地の参謀相手にも教官となって学習訓練を施した。その功績が認められ、元長波たちにはブラジル政府から南十字星国家勲章コメンダドール位が授与された。いまは元長波の部屋の抽斗のなかで例のパスポートとともに恭しく保管されている。

「純朴な人たちだったよ。時間は守らなかったけど。何時にこいっていうと笑顔でオーケー、オーケーと返事しといて、三時間くらいは平気で遅れてくる。朝と昼と夜というぐあいでしか時間を認識してないんじゃないかとまで思えるよ。だから朝七時集合っていっておいても、じゃあ昼十二時くらいまでなら朝だから大丈夫だな、みたいな。最初は呆れてたけど、まあ、あんなふうに時間に縛られないのが人間のほんとの生き方なのかもな。目が覚めたら起きて、食べるぶんだけ魚釣って、あとはギターでも弾いて昼寝。万事その調子だった。

 みんな優しくてわたしたちを歓迎してくれた。ある部落のお母さんは、島風の制服をみて、“若いのにこんな小さな服しかないなんて、かわいそうに”って山のようにごはん食べさせてくれたりね。自分たちは着るものといえばシャツ一枚、下着もせいぜい二枚くらいしかもってないってのにさ……。その村は、かつては首狩り族だったっていってた。戦いに勝った証として敵の首級を持ち帰ってたんだ。日本の武将とおなじだよ。首を多くコレクションしてる男ほど強いってことになる。だからいちばん偉い人間を首長っていうんだ。もちろんいまは首なんか狩ってないけど、ご先祖がむかし獲ってきた首は、家の屋根裏、つまりいちばん高いところに大事にしまってあった。みせてもくれたよ。十二、三の頭蓋骨が飾りつけられててね。いまでも年に一度、お祭りみたいに供養の儀式をしてるらしい。供養を怠ると、ひとりでに首がカタカタ鳴ったり、屋根裏から落ちてきたりするんだってさ」

 首を狩っていた世代の最後のひとりだという長老を紹介された。ひ孫や玄孫に囲まれて日がな一日煙草を吸っている好々爺だった。正確な年齢はだれにもわからない。

「話を聞いてみたかったけど、耳が遠くなっててね、なにいってもにこやかに笑うだけ。あんな、歯も一本か二本しか残ってない、河を眺めて煙草吸うだけのおじいさんが、大昔とはいえ首を切ってたなんて、ちょっと想像できなかった。でも、そのおじいさんの喉には刺青があった。それは敵の首を狩った勇者しか彫ることを許されない刺青らしい」

 共同で戦果をあげたときは、日本側は現地の艦娘たちの手柄にするということにしていた。譲られた“アマゾネス”たちは大喜びで深海棲艦の首を切った。村に持って帰るのだという。ときには首を巡って争いになるので仲裁に入ることもあった。

 集落の男たちは、例外なく裸体で、体操選手のような肩幅と肉付きとをしていて、身に着けるものといえば、陰茎に装着しているペニスサックだけだった。大部分の男は、髪の毛の先から、足の指にいたるまで、ウルクという植物の実から採った練り染料で赤く染まっていた。ウルクはまた彼らの言葉で赤を意味した。彼らにとってウルクは赤で、赤とはウルクであった。だから、老成した魚体の後半部が燃えるように赤く染まるピラルクは、魚を意味するピラに、ウルクがついて、赤い魚、ピラルクと呼ばれるのだった。

「でもさ、その男たちが裸になって化粧をするのは、特別な行事がある日だけで、ふだんはエアコンの効いたブラジリアのオフィスで、スーツに身を固めてパソコン相手に仕事をしているんだってさ」と元長波は笑いをこらえる。

「河がでかいからか、どの人もだいたい話がでかかった。リオ・ネグロ(ネグロ河)が埋め尽くされるくらい深海棲艦の戦艦や空母が遡上してきたとか、敵の艦載機で昼が夜みたいになったとか。わたしたちも嘘だとはわかってた。そんな数の深海棲艦をみて生きていられる人間なんかいやしないし、アマゾンの水辺で生きる人ってのはただでさえ怪しい話ばっかりするからな。やれ、アナコンダが船に巻きついて船ごと丸呑みにしただの、やれ脱獄した囚人が河を泳いで渡ってたらジャウー(体重二〇〇キロを超える大ナマズ)にひと呑みにされただの、バクのオスは発情期になるとイチモツが一メートルにもなるだの、じゃあそんなモノを受け止めるメスのアソコはどうなってるんだって腕を突っ込んでみたら、肩までずっぽし呑み込まれただの……。

 悪気があるわけじゃないんだ。ただ単になにかにつけオーバーなんだよ。リップサービスってのかな。だからわたしたちもいちいち突っ込まずに、ホウホウ、ヘエヘエ、すごいですなあって」

 悠久の大自然を映していたかのような元長波の眼が、ふいに現実へと戻った。

「何年かまえに、あの流域にダムが作られることが決まったって聞いた。戦争が終わって、社会経済が発展して、人口も増えつづけてるから、あの国も自力でエネルギー問題を解決しなくちゃならない。それで何十種類もの魚が絶滅したとしてもね。あの素朴で美しい部落がダムに沈むのは悲しいけれど、わたしは日本から見守るほかない」

 

  ◇

 

 途中の駅でいちど下車した元長波は、そこの売店で弁当を買い求めた。クレジットカードで決済する。プラチナでもゴールドでもない、ただのカード。2水戦に所属していたころはブラックカードを持たされた。2水戦の特権だった。「外地に赴任してるあいだだけだけど」元長波はいう。

「防衛省が保証人だから、請求は軍が肩代わりしてくれる。当時十五歳だった。生まれてはじめて持つクレジットカードがブラックカードなんておかしな話だろ? そんときはまだ子供だったから、これがクレジットカードか、くらいにしか思ってなかった。武器とか携帯食糧みたいな装備品のひとつさ。子供ってのは怖いな」

 列車に戻って弁当を開く。

「死ぬまでにいっぺんでいいから駅弁ってのを食ってみたかったんだ」

 とじ紐をほどく元長波は願い事が叶った子供のような笑みをみせる。白飯を覆うきつね色の大判なとんかつにはたっぷりとソースが乗っている。

「2水戦は海外の国々へ出向くことが多いからさ、任務も特殊だったりするし、そのときどきで必要なものも違ってくる。どうしてもお役所の背広組じゃカバーできない品ってのがあんのよ。諸外国の海軍との合同演習やディスカッションに参加したり、連合軍っていうとおおげさだけど、共同戦線張ったりもするから、ちょっとした外交官の扱いになるし、そうなると相応の格が必要なんだ。じゃあこれでもろもろ用立てろってことで、ブラックカードなわけ。作戦の成功に寄与するんなら、ある程度は個艦の裁量に委ねられてたんだ」

 それに、と元長波は名物の弁当を使いながら明かす。

「あした死ぬかもしれない身だからね、冥土の土産っていうか、お小遣いって意味合いもあったんじゃないかな。白状するといくつか私物も買った」

 ブラックカードを使ったはじめての買い物は、キャンディだった。

「絵の具みたいなピンクとブルーのロリポップ。会計をカードで済ませると、なんだか大人になった気がしてね。すまし顔で得意になって舐めてたら、提督が“それはカードで?”って訊いてきた。“ブラックカードで買ったキャンディはひときわおいしい”だなんて答えたら、“いまのおまえは、グリーン車はほかの車両より速いように感じるって言ってるやつみたいに間抜けだぞ”。みんな大爆笑さ。あとで聞いた話だが、カードを私的に使う奴の最初の買い物は、決まって下らない、はした金のものばかりらしいんだ。わたしはみごとにその統計を補強したってわけだ。服とかバッグとか、ほかにもっとマシな買いもんがあるだろうにな。なにしろ小学校だの中学校だのから軍に入って訓練ばかりで、いちども社会に出てないから、みんな世間知らずなんだよ。必需品はぜんぶ官品で間に合ってたし、想像できる贅沢ってのが、わたしの場合、せいぜいキャンディくらいなもんだったんだ。子供だったんだよ。みんな」

 しかしなかにはとんでもない買い物をした艦娘もいた。

「結婚式の挙式から披露宴までカードで支払った川内がいたな。二回もお色直ししてさ。費用はカードだからご祝儀まる儲けだよ。ただ、その川内は、骨肉腫でMST(生存期間中央値。余命)一ヶ月と宣告されていてね。バケツ……ああ、高速修復材をわたしたちはこう呼んでたんだが、それの副作用よ。川内はどんな艦娘よりも戦った。ソーティーが多いだけじゃなく、なによりわたしたちをよく守ってくれた。2水戦で叩き込まれた“仲間が傷つくくらいなら自分が傷つけ”ってのを地でいってた。とにかく前へでて、敵陣に突っ込んで、自分を撃たせて敵を発見するんだ、まるで獲物の巣穴に潜り込むイタチみたいに。わたしたちのその狩りの方法を聞いたときのアイオワの第一声が“You gotta be shittin' me(うそでしょう)!”だったな……。そんなだからバケツを原液のまま使われることも多かったし、本人もそれを望んだ。バケツは細胞分裂を極端に活性化させることで外傷を治すもんだが、それはつまり、がんのリスクを高めるってことだ。ふつうの健康な人間でも一日六〇〇個のがん細胞が生まれてる。戦時の艦娘はその五倍から二十倍だ。川内は病気を理由に婚約者に別れを切りだした、“こんな先の知れた女に付き合うことないよ”。だが相手が聞く耳持たなくてね。“もし逆の立場だったら、きみはさっさと次の男に乗り換えるのか?”……これに川内は一発KOだった。幼馴染みって奴だよ。わたしたち非番のもんでこっそり尾けて、ソナーにちょいと手を加えた指向性マイクで電話をデバガメしてたんだが、朝霜なんかおいおい泣いてね。戻ってきた川内からあらためて話を聴きだして、そう、何食わぬ顔で。せいぜい冷やかしてやったよ。メルトダウンしちまいそうだった。で、ブルネイに彼を呼んで派手に結婚式さ。当時の提督が媒酌してくれた。お祭りみたいな式だったなあ。終わったあとはキャディのコンバーチブルで空き缶をいくつも引こずってさ。傑作だろ、空き缶なんて。三十年まえったってドラマでもやらないよ、そんな石器時代みたいなこと……でも、なにか、定番ってのかな、いかにもそれらしいことをしてみたかったんだと思う。歳が歳だろ、他人の結婚式にも出たことがなかったから」

 花嫁は輝くほどに美しかった。

「わたしは、海水で制服が生乾きの川内がいちばん美しい川内だといまでも信じて疑わない。だけど、真っ白なドレスをまとった川内は、ああ、眩しかった。フェンタニル(医療用麻薬)のパッチでようやく立つことができるってほど病状が悪化してるなんて思えないほど綺麗だった。ほんの一瞬、彼女が死病に冒されてるなんてうそなんじゃないかって疑ったよ。でも、プレコって熱帯魚は死ぬ寸前になると恐ろしく美しくなるっていうが、つまりはそれだったんだ。彼女は残された最後の生きる力を全力で燃やしてたんだ」

 ブラックカードをつかい、カリフォルニアでクラブ33に行った艦娘もいた。

「朝霜に子日に、磯風、山風……わたしは行かなかった。そこまでしてディズニーランドで酒飲みたいわけじゃなかった。いま思うと惜しいことしたもんだよ。もう一生入れない。こんな日にはカリフォルニアを夢見るのさ、なんてね」

 元長波の食事ははやい。弁当をもう平らげている。「犬みたいだろ。ゆっくり食えばいいってのはわかってるんだが、どうにもくせが抜けないんだ」艦娘学校で訓練していたころに与えられた食事時間は五分だった。食事はほとんど燃料補給のような意味合いしかなかった。献立に熱い味噌汁があったときは飲み水用の氷で無理やりに冷まして、さらに白米を投入し、一気にかきこむというような工夫が必要だった。冷やし中華がでたときなど最悪だったと振り返る。「食事に一時間かけてもいい生活ってのが、どうにもしっくりこない。いまでもね」

 ターコイズブルーのショルダーバッグからプラスチックのピルケースを取りだした元長波は、日中に眠くなることがないよう精神刺激薬を服用した。十二時間寝ても動く気になれないことはめずらしくなかった。首から下げているペンダントのほうのピルケースを服の上から指で揉む。

*1
仏作家フランソワ・ラブレーの小説『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の主人公である巨人の名がパンタグリュエル。巨人なので健啖を極める。つまり鯨飲馬食のこと


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