栄光の代償・元艦娘たちが語る対深海棲艦戦争(GHK出版新書)   作:蚕豆かいこ

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二十  スティグマ

「長波さんは浄瑠璃がお上手でしたね」

 酒が回ってきた頃合で元神威がなにげなく口にして、元長波はみんなから是非にと請われた。興が乗っていたこともあり、携帯端末でネット上から拾った蛇皮線にあわせ、ひとくさり語ってきかせた。堂々たる吟声(ぎんせい)だった。元神威は元長波の音曲の腕前を知っていたが、ほかの四人は、はじめこそ興味本位だったものの、すぐに佇まいを直し、そのうちうっとりと聞き惚れて、終わると心からの賞賛を送った。元長波は照れた。

「パラオの翔鶴さんに習ったんだ。外地の生活で日本が恋しくなったときにって。でも、あの人のほうがわたしなんかよりもっと上手かった」

 パラオの翔鶴は空母艦娘として傑出していただけでなく、義太夫、長唄、端唄、茶道から和歌の心得もあって、書もかなりのものだった。古今東西の文学に通暁(つうぎょう)し、翔鶴による夜ごとの講話が元長波たち駆逐艦に与えた影響は計り知れない。

 元長波は元神威らに付け足す。

「みんなにも、あの翔鶴さんと会わせてあげたかったよ」

 

  ◇

 

 翌朝。新千歳空港には元神威が見送りに立った。

「どうかお気をつけて」

 元神威は目を潤ませる。元長波は敬礼のまねごとをして笑みをみせる。

「長波だったころ、遺書には葬儀無用、戒名不要って書いてたけど、それはいまでも変わってない。わたしが死んだら、そんな奴もいたなあって思い出してくれるだけでいい。できればアホみたいに笑ってるわたしをね。みんなにもよろしく伝えといてくれな」

 抱擁を交わし、元長波は颯爽と搭乗口へ向かう。元神威は目尻を拭いながら見送る。

 

 機内に案内された元長波は座席の柔らかさに満足する。

「2水戦には空挺降下の任務もあったからさ、そんときゃ輸送機で空まで運ばれるんだ。乗り心地? 最高だったよ。もう絶対乗らない」

 ウレコット・エッカクスに汚染された変色海域には護衛艦が進出できないため、空から強襲をかけられる空挺降下は、人工衛星ならびに高々度の航空機を撃墜する深海棲艦を撃滅したのちは多用された。

「落下傘があっても降下速度が二階から飛び降りたのとおなじくらいある。ちんたら降りてたら迎撃されるリスクがあるからさっさと着水できるようにそうなってた。ありがたいね。それでも降下中に対空砲火でばらばらになったり、着水したところにちょうど機雷があったりして、ぶじに降下できるのは七割そこそことされてた。二十隻が飛び降りたら作戦に参加できるのは十四隻ってこと。六隻失ったとしても上出来なんだとさ」彼女は肩をすくめる。「わたしも何度か骨折したり内臓破裂したりした。落ちたとこにちょうど暗礁があったりしてね。降下したのを最後に行方不明になった奴も多い。そんなだから降下前のカーゴルームは一種異様な雰囲気なのよ。やたらしゃべりまくる奴、石みたいに黙りこくってる奴。聖書読んでる高波もいたな。“祖国のために戦わせてくださることを感謝します”とかなんとかぶつくさいっててね、だれに祈ってんだって訊いた。その高波は“神に祈っています”。だからわたしは天井を指さしていってやったのさ。“いまなら近いから届くだろうよ”。あの高波はきっと神さまに愛されてたんだ。わたしは嫌われた。だからいまここにいる」

 現場に急行できて、なおかつ深海棲艦と遭遇しても対応できる空挺艦娘は、戦闘救難任務にも従事した。

「ビーコンをたどったらベーリング海でね。わたしたちは極寒地仕様の装備で降下した。アドノア島付近で漂流してる海防艦娘の国後(くなしり)を救助した。顔が半壊してて片方の目玉が丸見えになってて、右腕以外の手足がなかったけど、抱き上げたらまだ意識があった。さてこういうとき、彼女になんて声をかける? “よくがんばったな、助かるぞ!”って励ます? わたしはそいつのほっぺを思いっきり平手打ちしたんだ。そして怒鳴った。“艦娘のくせにおめおめと生き延びやがって、手間かけさせんじゃねえよ! このクソガキ!”……死にかけの人間を救助して優しい言葉で安心させると、緊張が解けてほんとに死んじゃうことがあるんだ。怒りは生命力のもとになる。その国後も、安堵から一転、まなじり吊り上げて、“このクソ女……”って虫の息で呟いてね。それみてわたしは、ああ、彼女は助かったな、と思ったってわけ」

 

 新千歳を発った飛行機は石川県金沢への航路に乗る。金沢の海軍転換艦隊総合施設には駆逐艦文月(ふみづき)だった女性がいる。そこは戦争で精神に耐えがたい傷を負った艦娘や元艦娘のための部隊で、健常な軍人に課せられる日々の業務を免除され、長期快復患者として扱われる精神病院。人間だった艦娘をもう一度、人間に転換する事業。深海棲艦との戦いはだれも予想できないほど長引いて三十七年も続いた。そのあいだに膨れあがった、トラウマに苦しむ艦娘を社会復帰させる終わりのない仕事は、もはや既存のシステムで対応できるものではなかったので、一〇〇〇億円をかけて、金沢を筆頭とした全国二十一ヶ所に、現代的な医療が受けられて、変形してしまった心というものに理解のある献身的な医師、カウンセラー、ソーシャルワーカー、セラピストが働く施設が新たに建設された。元長波もPTSDプログラムを受けるために七週間在籍していた。元文月は二十二年ものあいだずっといる。

「出す気がないのか、出る気がないのか」元長波は機窓から雲海を眺める。「いまだに亡霊にとりつかれてるんだよ。わたしだってね。亡霊はいつまでもまとわりついてくる。ホーミングゴーストとは、よくいったもんだ」

 

 熱核兵器の超熱量すら遮断してしまうフォトン・リアクティブ・シールドのために、深海棲艦は鉄壁の防御と陸海空を制する適応能力、生態系ごと経済圏を破壊する生物兵器をあわせもつ難敵として人類の前に立ちはだかった。人類は敗戦に敗戦を重ねた。最初の二年における深海棲艦災害の死者は全世界で三億人に達した。経済封鎖による餓死や疫病、政府の機能不全から勃発した内戦などの関連死もふくめれば、実際にはその数倍にのぼるといわれている。

 持てる核兵器すべてを申し合わせて炸裂させて地球とともに心中する以外の深海棲艦への対抗手段を人類が手に入れたのは、まったくの偶然だった。その端緒は父島や母島とともに小笠原諸島を構成する大戸島(おおとじま)に駆逐イ級(命名は後年)が仮死状態で流れ着いたことによる。いまから五十六年前のことだ。

 日本はイ級を即時回収。深海棲艦の生きたサンプルを手に入れた最初の国になった。しかしアメリカの猛烈な引き渡し要求と中露の干渉で三週間を無為に浪費した。

 そのあいだにも豪シドニーとメルボルンは深海棲艦の空爆で壊滅し、サーモン諸島を中心としたオセアニアは変色海域に呑み込まれ、ハワイとミッドウェーは陥落、インドとパキスタンは政情不安から開戦、核兵器の応酬に発展し、ビルマとコロンビア、メキシコ、アフリカ諸国は泥沼の内戦状態に突入していた。日本にもいつ中国やロシアや北朝鮮から弾道ミサイルが飛んでくるかわからない。一刻の猶予もなかったため、妥協に妥協を重ね、日米協同というかたちで解析が進められることになった。

 まず深海棲艦は、石油と鉱物資源を食物として利用し、原油の重質成分と無機物の滓の混合物であるアスファルトを排泄する、部分的に金属で構成された生物であることが判明した。ただし深海棲艦は自力で原油を精製することはできない。精製は体内に共生させているある種の寄生生物によって行なわれる。

 後年の研究によれば深海棲艦と寄生生物との共生関係は水平伝播であることが確認されている。深度一万メートル級の大深海で孵化した直後の深海棲艦には寄生生物が存在せず、環境中やウレコット・エッカクスのマイクロオキシジェンが大量につくる硫酸イオンで呼吸する。硫酸イオンの呼吸は酸素よりもエネルギー効率で劣るため、運動は活発的ではなくゆっくりとしたものである。

 第一幼生には口も肛門もなく卵黄の養分のみで成長し、孵化から二十四時間前後で第二幼生へ変態する。

 第二幼生と第三幼生はほかの生物の死骸やデトリタス(海底に堆積した有機物のゴミ)を漁ると考えられる。ここまでの時点では原油はむしろ毒物でしかない。

 第四形態で寄生生物と遭遇して体内に取り込み、生殖機能を喪失し、原油への耐性を獲得すると同時にエネルギー源として積極的に摂取するようになる。寄生生物がどのようにして第四形態の深海棲艦と邂逅を果たすのか、それらはいまだに謎に包まれている。なお、寄生されなかった深海棲艦は幼生成熟して、繁殖活動に専念するようになる。

 

 イ級の体内から摘出した寄生生物はたとえ原油が潤沢な環境であっても、単体では三十六時間以内に一〇〇%死滅することが確認された。この寄生生物は遺伝子レベルで深海棲艦への寄生に特化しており、寄生虫へ進化する以前はどのような生物だったのか推測することはできない。

 回収から十六日後、寄生生物を全頭摘出したイ級が仮死状態から突如目覚め、研究者数名を殺害、設備にも損害を与えたものの、その場に居合わせた陸上自衛隊(当時)の隊員らによる携帯型対戦車ミサイルの斉射を受け損傷、再度沈黙した。火器が通用したことは想定外だった。隊員たちの攻撃意図は、結界をイ級に展開させ、その隙に研究者らを避難させるための囮にすぎなかったからである。結界は防壁として優秀な反面、展開中は深海棲艦側からも外部へ攻撃できないことは当時すでに経験則により導き出されていた。しかし結界は展開されなかった。できなかった。

 

 昆虫のアリマキが体内のバクテリアなしでは生命を維持できないように、共生関係にある二種の生物は一方を排除すると他方も個体の生存または繁殖活動が阻害されてしまうことはよく知られている。寄生生物は自由状態で生存できなかった。深海棲艦もまた、寄生生物が空位の状態では生命活動に必要なエネルギーを生産できないのではないか。研究者たちは寄生生物のいくつかをイ級に戻して原油を供給した。寄生生物はイ級の体内で分裂増殖をはじめた。増えるたび間引かれて、イ級の寄生生物保有数は厳密に管理された。死なない程度にしかエネルギーを得られない数。貴重なサンプル。寄生生物の牧場。

 研究の結果、干渉結界の展開にも寄生生物が重要な鍵を握っていることがわかった。結界は一種の共振現象により強化されている。波の性質を持つのだ。ならば、寄生生物を利用して逆相波形を発生させ、ぶつけることで深海棲艦の結界を中和できないか。しかし寄生生物は裸では長時間生存できない。宿主が必要だ。なにを宿主とすればよいのか。イルカやアシカなど海洋生物への移植を試みたが、定着はみられなかった。

 ときをおなじくしてイ級の遺伝子情報の解析が終了した。その結果は研究チームを震撼させた。イ級の体組織から得られた核酸を構成するヌクレオチドの塩基配列は、ある動物とほぼ一致していた。

 人間である。

 その驚愕すべき事実は深海棲艦研究に少なくない混乱をもたらしたが、遺伝的に酷似している人間になら寄生生物が定着するかもしれないという仮説の提唱も導いた。一週間後には志願者十名に移植実験が施された。新薬の臨床試験にこぎつけるまで何年もかかることを鑑みれば性急ではあるが、そのころにはドイツやイタリア、アメリカ、イギリス、フランスにも深海棲艦の死体が漂着し、各国が急ピッチで研究を進めていたため、日本の優位性が失われつつあったのである。

 日本における最初の定着実験で八名は失敗だったが二名が被寄生に成功した。その二名はどちらも女性だった。

 

「いまなら、寄生虫が適合するのは女だけってのは常識だし、男八人がだめでうまくいったふたりが両方とも女って時点で気づけって思われるかもしれない。でも国内だけじゃサンプルの数があまりに少ないからね。あらゆる可能性を検討する必要もあったわけだし、なかなか条件を絞りきれなかったんだろう」元長波は目を伏せる。

 

 他の国々も日本同様に人間への移植しか寄生体を有効に利用する方法はないという結論に収斂し、成功例が女性の被験者のみという実験結果も得ていた。

 このとき各国が互いに手を結び、情報を公開しあっていれば、寄生生物は深海棲艦以外では人間の女性にしか定着しないことが早期に判明し、研究も加速していたかもしれない。実際にはどの国も深海棲艦関連の情報は国家機密として外交カードに利用するのみで足並みを揃えることはできなかった。一例として、アメリカは日本が入手した深海棲艦のサンプルとデータには自由にアクセスできたが、アメリカの研究チームが発見した成果や、米本土に打ち上げられるなどして回収された深海棲艦の情報については、日本への提供を「その義務がない」と拒んだ。

 

「深海棲艦っていう人類共通の敵がいるにもかかわらず、世界はまだ国家という枠組みにこだわって、無駄に犠牲を増やしたんだ。いやはや」と元長波は呆れる。

 

 寄生体の定着に成功したかにみえた女性たちは、ふたりともが十八時間以内に死亡した。とめどない血便。吐血。意識が混濁するまでのたうちまわった。最終的にはかろうじて人間の面影を残すだけのただの赤黒い肉塊となった。解剖したところ、彼女たちの臓器は液状化し、骨格の溶解および脳細胞の液状化まで確認された。寄生体がキャリアとなってウレコット・エッカクスに感染したことが原因だった。寄生体から殺人バクテリアを完全排除する技術が開発されたことで被験者はようやく移植から魔の十八時間を生き延びられるようになった。マイクロオキシジェンが生産されず、酸素は空気由来にかぎられるため、エネルギーの転換速度は深海棲艦に比べると見劣りする。つまり戦闘単位としてみると単独での性能は深海棲艦の完全下位互換となるが、やむを得なかった。

 寄生体を移植された女性は水上歩行を可能とする程度に干渉波が出力できたが、結果的に深海棲艦のデチューンとなっているため、防御手段に使えるほど強力なフォトン・リアクティブ・シールドは展開できない。

 しかし物理的に近距離にある物体に干渉波を短時間だけ付与させることはできた。この結果に関係者は狂喜した。干渉波の性質を維持した物体を深海棲艦の結界に接触させると互いが波長を打ち消しあう。深海棲艦の結界を無力化できるのである。付与できる時間はわずか三〇〇秒だが、深海棲艦と直接に接触する必要がないことは運用上の大きな利点といえた。

 しかしまだ問題があった。護衛艦に寄生生物移植女性を乗り組ませ、対艦ミサイルへ干渉波を付与して発射するプランが提案されたが、深海棲艦のもつ高度なステルス性がレーダーおよび熱線映像装置による捜索も捕捉も困難なものにしていた。

 すなわち、移植女性自身に火器を携行させ、もって干渉結界中和と同時に打撃を与えて深海棲艦を殲滅する有視界戦闘案が消去法で選択されたのである。

 武器、装備は既存のものを流用するか、新規に設計開発するか議論されていたころ、移植女性らに奇妙な変化が見受けられるようになった。意味不明な虚言を弄しはじめたのだ。被験者のひとりにヒアリングを実施したさいの音声記録が残されている。防衛省は特定機密案件であることに加え被験者個人への配慮として公開を拒んだが、音声データがインターネット上に流出し、拡散された。当時、寄生生物移植と併せて物議を醸すことになる。

 

 まず、名前をお聞かせください。

「軽巡洋艦、〈大井〉です」

 ○○(被験者の氏名)ではなく?

「ええ、○○です。いまわたしはなんていいました?」

 〈大井〉と。

「それです、それがわたしの名前」

 でもあなたはいま、○○とおっしゃいました。

「わかりません。でもわたしは〈大井〉だと思うんです、いや○○? 昭和十九年七月十九日? そう、これはわたしの記憶じゃない。〈大井〉の記憶。いえ、わたしに○○の記憶が入り込んできているの? ねえ、わたしは〈大井〉なの、○○なの? 北上さんを呼んでください。彼女ならなにかわかるかも」

 どなたですか?

「北上さんです。わたしと一緒だった」

 (ペーパーノイズ)あなたの血縁者にもご友人にも、また職場の上司、部下、同僚、あらゆる関係者に北上という人物は存在しません。

「それは○○の知人や友人でしょう。わたしには関係ありません。わたしとおなじ重雷装巡洋艦になった北上さんはどこですか」

 あなたは○○さんでは?

「わたしはだれなの? 〈大井〉がわたしのなかで日に日に大きくなっていくのを感じる。ということはわたしは○○だったのよね、もともと○○だったわたしが、〈大井〉に食われていっているというの? お願い、助けて、わたしが○○だったというのなら、このままだとわたしが消えてしまうことになる。もう○○を自分の名前だとは思えないの。わたしは〈大井〉じゃない。わたしは。わたしは」

 

 被験者はいずれも条件をそろえるため本籍、知能、病歴、既往症、薬物の使用歴、精神健康診断、信仰、思想信条、家族構成、交遊関係など、徹底的にふるいにかけられて選別された完全無欠の人材である。彼女も例外ではない。明晰な才媛である彼女とは思えない妄言の数々。他の被験者五名も、自らを駆逐艦〈電〉、〈叢雲〉、〈五月雨〉、〈吹雪〉、〈漣〉とそれぞれ名乗り、記憶の混乱を訴えた。肉親にも興味を示さなくなったケースすらあった。自称〈電〉は自分の母親の写真をみせられて、困惑した顔で担当官に尋ねた。「このかたは、どなたなのですか?」。

 共通点は、どの移植女性も太平洋戦争(第二次世界大戦のうち、日本とアメリカ・イギリス・シナ・オランダなど連合国とのあいだの戦争。一九四一年十二月八日に、日本がマレーおよびハワイ真珠湾を攻撃したことで戦端が開かれた。日本は初期において優勢だったが次第にアメリカとの国力の差が明確となり戦況は悪化、連合艦隊壊滅と本土空襲、原爆投下、ソ連参戦にともない、一九四五年八月十五日に降伏した)時の軍艦を名乗ることだった。また彼女たちは自称する軍艦の艦歴を詳細に暗唱できた。起工日から戦歴、配属された部隊と僚艦、戦没までの経緯。とくに歴代艦長以下すべての乗員、二〇〇名あまりから三〇〇名の官姓名をリストアップさせたものを記録と照合したところ、万遺漏なく正確に合致したという事実はチームにこれ以上ない驚嘆を巻き起こした。

 

「研究者のなかには、海底に眠る軍艦の魂だかなんだかが寄生虫を介して被験者にダウンロードされたとかいう仮説を出した奴もいたらしい。わたしは懐疑的だね。魂なんて。なあ?」

 目に薄笑いを滲ませる元長波も、教わった覚えのない駆逐艦〈長波〉の艦歴をそらんじることができる。しかし元長波は自分に〈長波〉の記憶がダビングされたことをきっぱりと否定する。

「人間は意外といろんなことを記憶できる生き物なんだ。進水日だの戦没日だのいうデータは調べようと思えば子供でも調べられるんだから、なにかで見聞きしてたまたま覚えてたってだけってことも考えられる。そもそも無機物が動物みたいに記憶を保存しておけるわけがない。まして記憶がほかの生物に転移するなんておとぎ話もいいとこさ。だいいち、有史以来、人間は飽きもせず戦争を繰り返してて、天文学的な数の戦死者がいるってのに、なんで太平洋戦争の軍艦限定なんだ? わたしは〈長波〉に乗艦した累計二八三名の乗員と救援で拾った〈南海丸〉の乗組員五十一名すべての氏名を覚えているし、一二一七人の長波シリーズ全員に同様の記憶が確認されてたらしいけど、まあ偶然だろう。わたしはわたしさ。長波を拝命したけどそれはあくまでTACネームみたいなものだし、いまはもう長波じゃない」

 

 真偽はともかく寄生生物移植にともなう記憶の混濁と精神汚染は懸念事項であるので、自己同一性の維持を目的とした定期的なカウンセリングが実施された。元長波のように艦船の記憶と同居しながら自我を明瞭に保つことができる移植女性もいれば、カウンセリングで施した精神のプロテクトが侵食され、呑み込まれ、自分は軍艦の生まれ変わりだと思い込むものもいた。両者の違いがどこからくるのかはわからない。おなじ長波シリーズでも、なにかにつけ田中頼三少将(旧日本海軍の軍人。最終階級は中将だが〈長波〉座乗時は少将だった。深海棲艦戦争時にはすでに故人となって久しかった)を引き合いに出すことの甚だしい女性がいたという。

 軍艦の記憶との混同が激しいもののなかには、自身は潜水艦をみたことすらないにもかかわらず極度に恐れたり、自称している艦が沈没した地名に強い嫌悪感を示す例が認められた。〈赤城〉を名乗る被験者はミッドウェーに並々ならぬ執着をみせ、〈扶桑〉との記憶の同化を主張する女性はレイテ島やスリガオ海峡に過剰反応した。

 〈千代田〉を自称する被験者は、存在しない「姉妹艦」があたかも目の前にいるかのように振る舞った。「ね、千歳お姉もそう思うでしょ?」「……申し訳ありませんが、だれに話されてるんですか?」「ああ、ごめんなさい、姉にいったんです。ほら、あなたの後ろにいるでしょう?」。その部屋には被験者とカウンセラーのふたりしかいなかった。

 

 研究者たちは「とっくに終わった戦争にいつまでも縛られている亡霊のようだ」と口をそろえた。いつしか移植女性が患う虚言癖と記憶混同を指して、ホーミングゴースト(まとわりつく亡霊)現象と呼ぶようになる。

 ホーミングゴースト現象は継続的なカウンセリングで軽減できるものの、それまでなんら問題なかった移植女性が戦闘ストレスなどの原因で精神の均衡を崩し、自己同一性を失うケースもあった。元長波が配属された最初の艦隊で先任だった敷波はジャム島から生還したある日、鏡に映った顔を自分だと認識できなくなった。

「みんな来て! 深海棲艦が侵入してる」

 戦争中のある日、敷波は基地にあるトイレから助けを呼んだ。

 駆けつけた元長波たちがみたのは、両手の拳を彼岸花のように真っ赤に染めながら鏡のかけらを殴り続ける敷波の姿だった。憲兵に聴取された敷波は、深海棲艦が自分に化けて鏡のなかに入り込んでいたのだと証言した。

 

 自己と軍艦の記憶とを区別できるように精神面での支援体制が整えられていた時代でさえ、敷波のような例がみられた。いわんや黎明期の移植女性たちにおいてをやである。心のケアが顧みられることはなく、まずは深海棲艦と戦って勝つことが優先されており、防衛省は、

「深海棲艦は米英の生体兵器」

 と彼女らに刷り込むことでむしろナショナリズムを煽った。その一環として、移植女性に装備させる火器は、実際には口径三十ミリでも十二・七センチ砲、八十四ミリ砲を二十・三センチ砲などと呼称し、逆に深海棲艦の使用武器は五インチ単装砲というようにヤード・ポンド法で命名した。任務にも日常生活にも支障をきたすだけでしかなかったホーミングゴーストを逆手にとった。愛国者という役割を与えたのだ。効果は絶大だった。大昔の戦争時代からタイムスリップしてきたかのように、移植女性たちはわれさきに敵前へ殺到し、異口同音に天皇陛下万歳と叫んで沈んでいった。

 

 やがて寄生生物を移植して深海棲艦と戦う力を手に入れた女性たちは、軍艦の魂を受け継いだ女と揶揄され、だれからともなく艦娘(かんむす)とあだ名されるようになった。

 

「さすがにわたしたちの代じゃ、深海棲艦を送り込んできてるのはアメリカ、なんて欺瞞はもう教えられてなかったけどね。アメリカからどやされたらしいよ。でも、艦娘に艦の名前を与えたり、持たせる武器を十二・七センチ連装砲だとか四十六センチ三連装砲とか大仰な名前にしてたのは、そんときの名残なんだろうな」元長波はいう。

 

 深海棲艦がはじめて出現してから四年後、政府は海上自衛隊(当時)が艦娘への志願者を民間から募り、これに寄生生物を移植して戦闘を前提として運用することを可能とする一三六八の法案、いわゆる艦娘関連法を国会に提出。野党は「審議が不十分」として全党が欠席し、法案は強行採決された。当時の野党第一党党首はその日の記者会見で「事実上の徴兵制度。断じて許すわけにはいかない」と述べ、総理の不信任案提出を表明する。しかし総理はそれを見据えていたかのように伝家の宝刀を抜いた。衆議院解散。総選挙で国民の審判を仰いだのだ。各党総力戦の様相を呈した解散総選挙は投票率八十・八パーセントというかつてない注目と関心を集め、与党は野党連合に対しわずか三議席の僅差で勝利した。ようやく対深海棲艦戦争に向けて国が動きはじめた瞬間だった。

 当初、志願対象は成人のみであったが、世界第六位という総延長の海岸線を誇る日本は海から来攻する深海棲艦への対処にただでさえ困難を強いられ、開戦から七年後には五島列島姫神島(ひめがみじま)に泊地棲姫Ⅱひきいる敵艦隊が陣を構えるなど、いくら艦娘を建造しても足りないという戦況が続いた。

 政府は段階的に志願可能年齢を引き下げる法案を可決していった。一時期は六歳の幼児まで志願の対象とした。最終的には小学校卒の満十二歳からとなった。未成年の志願可能法案は非常の措置という体裁のため一年かぎりの時限立法だったが、戦時中は通常国会でその特措法を一年延長することが毎年の恒例行事であった。

 多大な犠牲にほんの少しの幸運が合わさり、ようやく泊地棲姫Ⅱを撃沈に追いやった直後、国連が成人していない艦娘を少年兵と断じ、「最悪の形態の児童労働」と非難。米ワシントンD.C.と英ロンドンで相次いで開かれた国際連合安全保障理事会常任理事国五ヶ国の高官級会談がベースになっていることからワシントン・ロンドン宣言と通称された総会決議は、未成年の艦娘を戦闘任務に従事させることを即時かつ永久に停止し、その志願は十八歳以上とすることなどを加盟各国に要求した。

 

「でも、当の常任理事国からして子供の艦娘を決議のあとも使い続けたんだ。“子供たちのことを考えろ”と叫んでいるその口で年端もいかない艦娘たちの挙げた戦果を称えていた。声明は国連の存在意義を形骸化させないためのパフォーマンスに過ぎなかったってわけ。ほとんどの国がそれを理解してた。ところが日本は真に受けちまった」

 

 国連の決議を攻撃材料に当時の野党が艦娘の拡充を厳しく非難した。少女を兵器にするのではなく別の方法を模索するべきだと。衆院選での勝利が辛勝に過ぎなかったことも与党に重くのしかかった。事実、解散総選挙の翌年に行なわれた参院選では与党は大きく議席を減らして野党が過半数を占め、いわゆるねじれ国会を招いていた。つぎの衆院選はどう転ぶかわからない。政府は十八歳未満の艦娘志望者募集を一時中止した。このセルフ・ネイヴァル・ホリデイにより日本は艦娘の建艦競争においてひとり足踏みし、世界に引き離されることとなる。

 

 元文月は、ワ・ロ宣言以前にわずか六歳一ヶ月で艦娘になった、最年少の志願者だ。シリアルナンバーは302-070001。

「正真正銘、最初の文月だよ。そして、最初に改二になった文月で、最初に成人した駆逐艦娘。伝説の英雄」元長波は高度を落としはじめた機内でつぶやく。飛行機は乗客を地上へ下ろすため安全な着陸を試みようとしている。パラシュートを背負わせて放り出すのではなく。

 横風を受けながら滑走路に進入する。優しい接地。シルキーランディング。「快適な着陸だ。機長は軍出身じゃないな」元長波は笑みを漏らす。

 拾ったタクシーの運転手に行き先を告げる。海軍転換艦隊総合施設。

「艦娘さんですか?」

「知り合いがね」

 艦娘たちから「きちがい病院」と忌み嫌われ、いまや海軍OBの天下り先としてなくてはならない存在となった施設へ向かう車中で、元長波は初老にさしかかった運転手の男性と話す。

「あの(きちがい病院といいかけて)病院にかかる艦娘を乗せることは多いの?」

「艦娘さんも乗せますし、ご家族のかたをお送りすることもありますね」

「艦娘が車内で暴れだしたり、いきなり切れたりしない?」

「無口なかたとか、声が大きいかたとか、いろんなかたがいらっしゃいますが、まず、礼儀正しい人ばかりですよ。着くまでのあいだ、お客さんみたいに背筋を伸ばしたいい姿勢で微動だにしません」

 元長波は、脚を組んだり腕組みをしようかと慌てたが、いまさらという気がして、なかば意地になってそのままの完璧な姿勢を保った。

「たまに、お金を払わないまま下りていく艦娘のお客さんはおられますね。でもしばらくしたら必死な顔で戻ってきてお支払いされます。こちらも、あの施設に通われてる艦娘さんにはそういうところがあるとわかっていますから、あえて声をかけたり追いかけたりせずに、待ってあげるんです。ご自分で気づくまで」

 戦地から日常へ帰還した艦娘たちには、いわゆるふだんの生活というものが二十四時間気の抜けない任務でしかなかった。ちょうど入隊したての訓練生にとっての軍隊生活がそうであるように。

 日常生活に溶け込めないでいる元艦娘に周囲の人々はこういう。「どうしてこんな簡単なこともできないの?」。本人もそう思っている。「どうしてわたしはこんな簡単なこともできないの?」。帰還前にレプリカの街で受けた市民生活の演習だけでは補えないものがある。

「彼女たちはもがいています。海に出て戦うことのできないわれわれの代わりに青春を捧げてくれたように、いまも戦っているんです」

「そうだね。彼女たちは英雄だった」

「いえ、それは違います」運転手は断言する。「彼女たちは、いまでも英雄なんです」

 

 大きな建物がみえてくる。光触媒塗料で壁面が純白に保たれた施設。元長波いわく「すげえ豪華でご立派な便所みたいなところ」。元長波がプログラムを受けていたのは群馬の施設だが、外観の印象は変わらない。

 忘れずに運賃を支払う。なにか忘れていないか不安になる。ひとつのことをちゃんとやり遂げるとほかのなにかを忘れる。元長波は、これといって意識せずに仕事をして日常生活を送っている人を、すごいな、と思う。よく時間を守れるな。よく毎朝起きられるな。よく忘れ物をせずにいられるな、と。

 

 施設の受付で名を告げるとしばらく待つよういわれる。通院しているらしい陰鬱な女性とすれ違う。Tシャツには錨とハートと日本列島を意匠にとり込んだポップなイラストがプリントされている。「あなたは祖国のためになにをしましたか?」「わたしは艦娘になりました」というメッセージの込められたトレードマークだ。彼女はみずから艦娘だったことを沈黙のうちに公言している。だがどこか不安そうでもある。

 

「あの人はたぶん、自分が艦娘として戦争に行ったことは恥ずべきことじゃないって信じようとしてるんだろうね。自分と戦ってるんだ」

 

 元長波は警察署や市役所のような喧騒とともに待合室で時間を潰す。水槽が置かれている。ダッチアクアリウム(水草を花壇のように高密度かつ整然と植栽したレイアウト水槽)を舞台に、フグを薄っぺらにしたようなハチェットフィッシュと赤ら顔のラミーノーズテトラが群舞する。

 

 群馬の施設にも似たような水槽があったと元長波は思い出す。アクアリウムには癒しの効果があるからしばらく水槽を眺めてみてください。そう担当医にいわれた。そのとおりにした。三十分後、戻ってきた担当医は、まったくおなじ姿勢のまま水槽を凝視している元長波に唖然とした。元長波は水槽をみていろといわれたから従った。軍では命令されたらその命令に集中しろと叩き込まれた。意味は考えるな、いわれたとおりにやれ。担当医に声をかけられなければ元長波は何時間でも水槽をみつめていただろう。

「わたしもハイリスクに認定されてたんだ。あの自殺した霞みたいに」元長波が明かす。

 退役から二年、自分の身になにが起きているのかわからなかった。なぜ他人に怒りがこみ上げてくるのか。なぜ眠ると夜ごとジャム島へ帰るのか。なぜ朝に起きられないのか。なぜ日中に起きていられないのか。なぜ約束や予定の時間を忘れてしまうのか。

 

 みかねた家族が、どこでみつけてきたものか地元の精神衛生事務所に相談し、元艦娘のケアマネージャーをつけたこともあった。ケアマネージャーの仕事はカウンセリングではない。友人のようにお茶を飲みながらただ雑談を交わしたり、スーパーマーケットや薬局へいっしょに行ったり、重い鬱病で片付けができないクライアントの手伝いをしたりと、寄り添うことで精神面での支援をする。性的虐待の被害者、精神病患者が彼らのおもな顧客だった。トラウマに悩まされる復員艦娘もまた市場として開拓の価値ありとみなされた。元艦娘のことは元艦娘がいちばんよくわかっている。おなじ元艦娘だからこそ話せることもあろうし、「わかるわ」のありきたりな一言にだって、とてつもない説得力を持たせられるだろう。元艦娘のクライアントを元艦娘のケアマネージャーに任せる。それはとてもすばらしいアイデアであるように思われた。実際は?

 

 元長波は艦娘として出征した経験のある年下のケアマネージャーを自宅に招いて、どうでもいいようなとりとめのない話をしているうち、腰まで伸ばした黒髪に顔が隠れがちになっている女性とすれちがってフラッシュバックしたこととか、夢のなかで真っ赤な海から内臓を裏返しにしたような肉塊がいくつも現れて、それらが巻雲や深雪や手足のない長波や敷波や清霜の声で「どうしておまえだけ」と話しかけてくるなどということまで打ち明けた。

「わかるわ」。ケアマネージャーは彼女にいった。「辛いわよね。もうがんばらなくていいのよ。いっしょうけんめい働いたんだもの」。軍では駆逐艦(いかづち)だったというケアマネージャーに大いに慰められ、同時に元長波は大いに傷ついた。おなじ復員艦娘であるはずなのに、この差はなんだ? わたしは自分のことで精いっぱい。いやクソの始末さえままならないくらいで、過ぎたことをいつまでも引きずってるクソッタレだ。だがこの元雷はどうだ。おなじ元艦娘、おなじ駆逐艦だったというのに、こうしてケアマネージャーとして雇用されるにあたって必要な介護支援専門員の資格を取得するため、まず前提となるなにがしかの国家資格をもったうえで五年以上の実務を経験し、ようやく受験が許されて試験に合格してのけるという気の遠くなるような努力を重ね、仕事とはいえ、いまや他人のサポートをするまでに克己(こっき)を果たしている。元艦娘というハンディはおなじはずだ。それでいて元雷は雇用というかたちで自立し、社会の一員となった。いっぽうで自分はまだなにも新しいことを成し遂げていない。なぜなのか。わたしが弱いからだ。元長波は自分を責めた。あの元雷をみろよ。対しておまえはなんだ? 戦地に行ったからなんて言い訳は通用しないぞ、条件はおなじなんだからな……。劣等感ばかりが募った。三回目の訪問ののち、元長波は事務所に契約打ちきりの電話をかけた。事業改善のためとかでアンケートを頼まれたことまでは覚えている。しかしどう答えたかは記憶にない。「惨めすぎたから忘れちまったのかもしれない」元長波はいう。

 

 複数の医者をドクターショッピングして処方されたセルトラリンやレボトミン、クロルジアゼポキシド、トラゾドン、アリピプラゾール(いずれも向精神薬)、エスゾピクロン(睡眠薬)を酒で流し込んでは留置所で目覚め、我慢強い母にストレステストを課すことになって、ようやく、自分の力ではどうにもならないと認めざるを得なくなった。「教えてくれ。わたしはどうしちまったんだ」。彼女が頼ったのはきょうだいでも母親でもなく、退役してずっと連絡していなかった元朝霜だった。

 

 連れ込まれた復員艦娘病院にて治療を受ける過程で、海軍転換艦隊総合施設のPTSDプログラムを勧められた。「冗談だろ? わたしがあのきちがい病院に? あれだろ、みんなで集まって、自己啓発セミナーみたいに自分の身の上話なんかをして、傷を舐めあうんだろ? やだね」。だが結局は七週間のプログラムを選択した。

「きちがい病院に入るってことは自分で自分をきちがいだって認めることだ。みっともないから行きたくなかった。でもさ、いちばんみっともないのは、助けが必要なくせに助けを求めない奴のことなんだ。たしかにここは外側がとびっきりきれいな便所だよ。つまり、クソがしたいくせに便所に行きたがらないのとおんなじだって朝霜の奴に諭されたんだ。だからわたしは七週間がかりのクソをしに行ったのさ」

 

 だが群馬の施設には空きがなかった。半年待ちと窓口で伝えられた。どの海軍転換艦隊総合施設もおなじだった。窓口の担当者に元朝霜はいった。「こいつが半年のうちに首を吊らないって断言できるか? いますぐ専門家の助けが必要なんだ」。元長波がなだめた。実際には八ヶ月待った。

 PTSDプログラムでは施設にずっと滞在した。入所にあたって渡されたパンフレットにはこうあった。

「持ち込み禁止のもの。剃刀、ハンガー、ボールペン、シャープペンシル、鉛筆、万年筆、ハサミ、フォーク、先割れスプーン、その他鋭利な品物。ネクタイ、スカーフ、六十センチ以上の紐、スニーカー、編み上げブーツ、ストッキング、長い靴下、タオル、陶磁器、不発弾、延長コード、コンセントにつなぐタイプの電気器具、ビニール袋……」。元長波は、わたしはそういう人間にみられてるんだな、と思った。復員艦娘病院やプログラムに助けを求める艦娘たちの多くは強烈な自殺願望にさいなまれている。戦争が終わってから昨年までの二十一年間の元艦娘の自殺者数は、三十七年つづいた戦争中の艦娘の自殺者数を超えた。そのひとりが、たとえばジャム島で元朝潮とおなじ隊だった元霞だ。

 施設に移るための面接は問診だった。新しい参加者の責任者がオフィスで元長波に訊ねた。

「死傷艦娘支援局は復員艦娘病院からの診察結果と提言を検討した結果、あなたをハイリスクに指定したいらしい。そのことを知っていた?」

「いいえ」

「知らない? そうか。だがハイリスク認定は恥ずかしいことじゃない。まずは自分の置かれた状況を冷厳に直視すること。それが認知心理療法の出発点だ」

 彼女の現状を査定するために質問リストにある質問をする。

 悪い夢をみる?

「はい」元長波はある特定の表情で答える。その朝も深雪の肉を噛む夢をみて、どうしようもないので、なにものかに怒鳴りながら家の壁に穴を開けた。だからそのときの元長波の疲弊した顔には、ジャムで土に埋めた深雪の肉を掘り返して食べたときの表情が貼りついたままだった。

 おなじ夢を繰り返しみる?

「はい」

 それは過去のできごとの追体験?

「はい」

 眠れない?

「はい」

 PTSD?

「そう診断されました」

 TBI?

「そう診断されました」

 鬱病?

「そう診断されました」

 日常生活が苦痛?

「はい」

 まわりの人間が深海棲艦にみえるときがある?

「はい」人とおなじ姿をした深海棲艦と幾度となく戦った。元長波には人間と深海棲艦の区別がときおりあいまいになった。こうつけくわえた。「外に出るたび、目につく全員がなにをしているのかが気になってしようがないんです」。

 責任者は最後に元長波を真正面から見据えて、いった。「あなたはスタートラインに立った。自分でなにもかも背負い込むのではなく、しかるべき機関に支援を求めるというスタートラインに。われわれはあなたを支援できるだろう」。

 書類を手渡されてオフィスを出た。契約書にはハイリスクのスタンプが捺されていた。「最高」。元長波はため息をついた。

「プログラムではなにをやったか? いまいち覚えてないんだよな。“高校でなに勉強した?”ってのと似たようなもんかもね。ええと、まず最初の三日は独房みたいなとこに入れられた。暴力行為や攻撃性がみられなかったら施設内をうろつけるようになる。素行がよければパソコンを使ったり――まあなにを検索して閲覧したかオンラインで監視されてるんだが――長いタオルを使ったり、向かいにあるセブンイレブンまでの外出が認められた」

 日課は、六時に起きて、十時に消灯。朝と夜の七時には点呼がある。だがそれは訓練のためではない。それまでの十二時間をぶじに生き延びたことを確かめあうためだ。これから何十年も生きていくと考えることは彼女たちにはつらい。だから十二時間だけがんばってみよう。それが終わったら、また十二時間がんばろう。それを六十回繰り返すうち、彼女たちは、いつのまにか一ヶ月が過ぎていることに気づく。「奇跡なんてものはないんだ」。点呼の都度、精神医は患者たちにいった。「きみたちこそが奇跡なんだ」。

「グループセラピーもやったよ。戦争でなにがあったか日記に綴って、それをひとりずつ読むんだ。トラウマがつくられた時点にまでさかのぼる。記憶と向き合う。“だからわたしはこんなふうになっちまったんだ”ってね。そして今後どんな人間になりたいか目標を発表する。夜んなったら決められた薬もらって、目の前で飲んで、検査官に口のなかとか舌の裏までみせて、はい、おやすみ」

 心理士の提案で、毎日、ほかのみんなと一緒に、鏡に向かって「おまえは価値のある人間だ」と話しかけた。みじめだな、と思った。敷波のように殴って粉砕したかった。映っている自分ごと。

 プログラムは画一的だった。だれもがおなじプログラムを消化した。治療を望む元艦娘は大勢いた。効率が求められた。最大公約数の治療プランだった。

 そうして七週間過ごして、元長波は施設のスタッフやまだプログラムの残っている元艦娘たちの前でスピーチした。しろといわれたからだ。「わたしは社会に戻り、新生活をはじめます」。まるで仮釈放を申請する囚人だった。たいした違いはない。拍手をする精神医やソーシャルワーカーやセラピストやカウンセラーを眺めながら、元長波は「彼らは怪物を社会へ解き放とうとしているのかもしれない」と心配になった。施設はPTSDプログラムを修了した証明の卒業証書をくれた。血を流し続ける傷の上に絆創膏を貼っただけだと元長波はいう。卒業証書を絆創膏として傷をおおい隠そうとした。それが二十年前だ。

 

 手前を低く、奥へいくにしたがって高くなるよう階段状に揃えられた有茎草の森を背景に、ラミーノーズテトラの群れが踊る。元文月の担当医がやってくる。元文月の家族は十年以上も面会に来ていないという。

「記憶が駆逐艦〈文月〉のものと完全にコンバートされてしまっているんです。艦娘になる前の記憶はもうありません」安月給に甘んじて猛烈に働く医師は閉鎖病棟まで歩きながら元長波に説明した。

「彼女は、自分が駆逐艦〈文月〉で、いままで海の底で静かに眠っていたが、深海棲艦という新たな脅威から日本を守るために人間の姿で生まれ変わったのだと、本気で信じています」

 その元文月は後にも先にもないほどの適合率をマークした。睦月型は干渉波の出力が低強度であることで知られる。彼女もそうだった。しかしカタログスペックでは計測できない、兵士としての天性の才能とでもいうべきなにかが彼女にはあった。生まれつきもっていたのか、低年齢で艦娘となったために身についたものなのかはわからない。

「しかし副作用というべきか、通常の艦娘より強くホーミングゴースト現象が発現することが問題でした。精神年齢は成長せず、つねに躁状態で、会話は時系列がいちじるしく前後するため成立しづらい。文月は言動が幼いというイメージが世間に定着したのは彼女が原因でしょう」

 それでも運用を続けたのは、

「艦娘としてはきわめて優秀だったからです。赫々(かっかく)たる戦果を残しました。三十二年の兵役で名誉の負傷勲章二〇二五個、紅綬褒章、それに瑞宝大綬章。まさに英雄でした。事件を起こすまでは」

 終戦の三年前から深海棲艦の勢力は急激に減少し、人々は永遠に続くかに思われた今次の戦争にも終わりがあることを悟りはじめた。戦後のことを考えなければならない。積み上がった戦時国債。棚上げされていた領土問題。国内の経済格差。終戦に向け戦時体制から平時へと円滑に移行できるよう早い段階からの準備を迫られた。出口戦略のひとつが軍縮だった。終戦の前年には、艦娘無制限時代以来はじめて志願の募集枠が削減された。

「そんなおり、彼女がたまたま休暇で買い物に訪れていた街で、市民団体が艦娘軍縮論を唱える演説をしていたんです。彼女は彼らを素手で三人殺害し、六人に重傷を負わせ、駆けつけた警察官にも五人の重軽傷者を出したすえ逮捕されました。取り調べに対し、彼女は市民団体を“深海棲艦の手先だ”と。人に化けた深海棲艦が世論を操作して艦娘戦力を削減させ、こちらの弱体化を待ってふたたび大攻勢をしかけてくるという妄想にとりつかれていたのです」

 閉鎖病棟につながる通路の扉を開錠する。

「すぐさま解体、不名誉除隊となり、身柄は軍法会議ではなく検察に引き渡されました。軍としては苦渋の決断だったと思います。英雄を軍が死刑にすれば現役の艦娘や退役艦娘会とのあいだにしこりが残る、複数の殺人を犯した艦娘を庇えば軍そのものへの風当たりが厳しいものになります。ですからいち早く彼女に関する一切を司法に委ねたのです。まるで手を洗って自分にはなんの関わりもないとジェスチャーしたピラトのように」

 廊下を渡る。窓の鉄格子が気を滅入らせる。 

「裁判では弁護団は一貫して心神喪失を訴え、責任能力はないとして無罪を主張しました。刑法第三十九条です。一審は有罪で無期懲役、二審は逆転無罪、最高裁で検察側の上告が棄却され彼女のすべての殺人と傷害、公務執行妨害の無罪が確定しました。代償として、という表現が妥当かどうかはわかりませんが、復員艦娘病院へ無期の措置入院が命じられ、ここができたときは真っ先にハイリスクに指定されて移されました。最初の文月は、最初に成人した駆逐艦娘であり、最初のハイリスク艦娘でもあったのです」

 元長波が通された部屋は、隣室とのあいだがガラスの壁に仕切られていた。

「マジックミラーです。向こうからこちらはみえません」

 いま元文月をスタッフが個室から連れてきているという。

「職員には絶対に彼女に反論しないよう言いつけてあります。彼女が入院して二日めのことです、きょうはなにをしたらいいかまだ教えてもらってない、訓練か哨戒か、当直なら仮眠とっておかなくちゃという彼女に、投薬を担当していた職員がふと、口を滑らせました。もう戦争は終わって深海棲艦はいないし、あなたはもう艦娘ではないのだから、なにもしなくていいと。まだそのころは彼女の性質がわれわれにもわからなくて。彼女はこう呟いたそうです」

 

“しれーかん、こいつきっと深海棲艦だよ。やっちゃっていーい?……うん、わかった”

 

「職員は全身を五十六ヶ所、骨折し、あばらの骨が折れて肺に突き刺さり、脳挫傷も起こしていて、そのまま帰らぬ人に。一審では心神喪失で無罪の判決が下されましたが現在は控訴審を待つ身です。また法廷での長い戦いが待っているでしょうが、おそらく彼女には理解できていないでしょう。彼女は深海棲艦をやっつけたと思っているのですから」

 ガラスを隔てた隣室の扉がひらく。防弾仕様のマジックミラーを挟んでいるのにこちらの部屋にも緊張が走る。異様な空気を感じて元長波は腕を組む。

 スタッフに続いて室に入ってきた病衣姿の老婆が指示されたとおり椅子に腰かける。不自然な亜麻色の髪。解体されて生来の黒髪が生えはじめた元文月がパニックを起こしたからだ。定期的にスタッフが彼女を刺激しないよううまくいいくるめて染髪しているという。にこにことした顔には六十歳という年輪が彫刻刀を入れたようなしわというかたちで刻まれているが、受ける印象は変わらない。天真爛漫。戦歴を感じさせないあどけない表情。むしろ昔と変わらなさすぎて違和感がある。子供のまま老婆になってしまったかのようだ、と元長波は戦慄する。ガラス越しの老女は終戦から時間が止まっている。

「ねーえ、深海棲艦はどこ? 文月ね、いっぱい、いーっぱいお仕事しなくちゃいけないの」

 スタッフに話しかける元文月の声がマイクを通して元長波らのいる部屋へ流される。スタッフは椅子に座った元文月とおなじ目線までしゃがんで傾聴する。

「あのね、深海棲艦をいっぱい殺したら、しれーかんがなでなでしてくれるの」

 スタッフらは笑顔で応じながら元文月の手錠と床とを鎖でつなぐ。元文月は意に介していない。艤装の一種だと説明したら素直に拘束具を受け入れたと医師が元長波に解説する。

「しれーかんになでなでされたらね、文月、なんだかほわほわして、とーっても幸せな気持ちになるの。文月、しれーかんだーいすき。しれーかんだけじゃなくてね、水無月ちゃんとか、睦月おねーちゃんとか、うーちゃんとか、あとね、あとね」

 元文月がなにかに気づいたようにまばたきする。マジックミラー越しにこちらの部屋へ視線を移す。元長波と目が合ったとき、幼さと老いの同居する顔に花が咲いた。

「あ、長波ちゃん! 来てくれたんだぁ、うれしー」

 医師たちがざわめく。元長波だけは泰然としていた。元長波は医師に切り出す。「会わせてくれないか」

 元長波が入室すると元文月が幼児のように黄色い声をあげる。老婆が動くたび鎖が硬質の音を響かせる。

「覚えててくれて光栄だ」

 元長波は笑顔をつくりながら簡素なスチールのテーブルを挟んで椅子に腰を下ろす。

「覚えてるよぉ、いっしょにあの戦争を戦った仲間だもん」

 元文月は喜色満面で迎えた。あの戦争とは深海棲艦戦争のことなのか、前の戦争のことなのか。

「ねえ、長波ちゃんはいままでどこの鎮守府にいたの? 外地?」

 元文月は無邪気に尋ねてくる。元長波は医師に目配せをする。医師は頼むように頭を下げた。

「海外の泊地を転々としててね。休暇で日本に戻ってきたところなんだ。申しわけない、ずいぶんと間が空いてしまった」

 元長波は言葉を選んだ。元文月が目を細める。

「そうなんだ。いいなあ。あたしなんてずっと海に出られてないの。新造艦の子たちの指導とかあ、座学の講師とかで。あたしみたいに長く戦った艦娘のお話は貴重なんだって。あたしが先生なんだよー、すごいでしょー」

「あんたが先生」

「あたしの経験が役に立つのはうれしいけど、やっぱりあたしも海に出たいよ。潮風浴びたい」

 元文月の教え子役は女性のスタッフが務めている。

「でもね、こうしていまのうちに新しい艦娘を増やしておくことも大事なんだよ」

「どうして?」

「奴らがね、またくるの」

「奴ら?」

「決まってるじゃない、深海棲艦だよお」

 まばたきを忘れた元文月の瞳には一点の曇りもない。清澄すぎる海のブルーホールのように底がみえなかった。人間がこんな目をするのかと元長波は不安になる。美しい目だった。だがそれは微生物の生存さえ許さない潔癖の美しさだった。

「奴らはね、力じゃあたしたちに勝てないもんだから、みんなを洗脳しはじめたの。深海棲艦の数が減りはじめたから艦娘も減らすなんて、ほんとバカだよねー。海溝の底にだって潜れるんだから一時しのぎで潜伏してるに決まってるじゃん。海のなかを全部調べたわけでもないのに、深海棲艦は人類に惨害をもたらすに可能とされる絶対数をすでに下回っている、ですって。笑っちゃうよねぇ。まるで自分の視野の限界が世界の限界だって信じてるみたーい」

 元文月はショーペンハウアーを引用しながら無邪気に体を左右に揺らす。

「でね、でね、あいつらの一部は、よりにもよって人間になりすまして社会に溶け込んでるの。ほら、ヲ級とか、ル級とか、鬼とか姫とか、人間みたいな奴いたじゃない? ああいう奴らがなに食わぬ顔してあたしたちの隣人になって、内側から切り崩そうとしてるの。深海棲艦はもういないんだから艦娘を減らすべきだってあちこちでさえずって、みんなを騙してるんだ。政府の人たちまで。もしかしたら政府にまで深海棲艦がもぐり込んでるのかもしれないよ。えーっと、なんだっけ、南米かどっかの国に、敵の国のスパイが首相になっちゃったってとこ、あったでしょ。きっとあれだよぉ。あたしたちの日本がどんどん深海棲艦に犯されていくんだ。そのうち皇室の血まで汚す気かも。長波ちゃんもそんなのやでしょ? だよねぇ。よかった。長波ちゃんは長波ちゃんのままで」

 ひとりで話を進めていく元文月は蒸留されたような義憤と公憤しかなかった。

「だれも文月のこと信じてくれないの。深海棲艦は変装うまいんだぁ。ばれないように血まで赤くしてるの。ほんとびっくりした。人間に化けた深海棲艦の奴らが、艦娘を削減しようなんて、街のど真ん中で見え透いた宣伝工作してたから、文月ね、そいつぶん殴ったの。そいでねー、耳をちぎったら、赤い血が出たんだよ。おかしいなーってベロ引っこ抜いたら、やっぱりヘモグロビンの血を吐くの。卑怯だよね、赤い血を流して人間のふりするなんて。化けの皮を剥がしてみんなの目を覚まさせなきゃって思ってね、両目をえぐっても、二本の腕を、こう、逆に曲げてひきちぎっても、両足をねじ切っても、お腹を破って中身を出しても、おちんちん踏み潰しても、ほんと、血も肉も人間そっくりだった。あれじゃみんな騙されてもしょうがないよね。そいつらの仲間も追っかけて念のためにばらばらにしたんだけど、すごいよ、背骨取り出してみたら寄生虫飼ってなかったの。すごい進化だと思わなーい? 寄生虫なしで深海棲艦が生きてるなんて! ばれたらいけないから細胞にでも同化してたのかなぁ。深海棲艦だって白状させようとボコボコにしてたら警察に邪魔されたんだぁ。きっと警察はもう奴らに掌握されちゃってるんだね。許せないなあ。どうしたらあいつらの正体をみんなに知らせることができるのかなあ。石油じゃなくて人間とおなじものを食べて、血も赤く染めて、文月たちとおなじ言葉をしゃべるんだもん。見た目で区別なんてつきっこないよ。ここにもいたし、ううう、本当に卑怯。艦娘がいらないなんていう奴はみんな深海棲艦に決まってるのに」

 元文月が身をよじらせて唐突に笑いはじめる。

「だめだよう、くすぐったいったら。いまは長波ちゃんとお話してるの」

 つぎに元文月はテーブルに目を動かした。

「こぉら、みんな喧嘩しないの。ひまなのはわかるけどおとなしくしてて。ね?」

「だれと話してるんだ」

 元長波はいぶかしむ。

「だれって、妖精さんだよう。そこでボクシングごっこしてるでしょ?」

 元文月は手錠をはめられた右手でテーブルの上を指さす。

「テーブルの縁に座って足ぷらぷらしてる子とか、ほらほら、あそこ、だるまさん転んだしてるよ」

 元文月は、元長波をみて、あ、とよろこぶ。

「長波ちゃんの肩登ってる。右の肩」

 元長波が雷光の速さで自分の右肩を向く。なにもない。

「妖精さんも長波ちゃんに会えてうれしいってー」元文月が元長波の肩に手を振る。

 ホーミングゴースト現象の典型的な症状のひとつに、掌に乗るような小さな人間の幻覚をみるというものがあった。艦娘だけにしかみえない存在。空母艦娘が運用する艦載機は無人機だが、艦娘たちはその妖精が搭乗していると主張する。妖精はあらゆる場所にいるという。元長波も寄生生物の移植手術を受け麻酔から覚めた直後から妖精を視認しはじめた。二頭身の小人があちこちで遊び回っていた。世界が変わったとしか思えなかった。幻覚だろうと思ったが、おなじ妖精がその場にいる艦娘全員にみえている事実は説明がつかなかった。

 解体されると妖精たちは姿を消した。いまの元文月にはなにがみえているのだろう。

「ねえ長波ちゃん」妖精をなだめた元文月が小首をかしげて元長波をみつめる。「お願いがあるの」

「お願い?」元長波は肩が気になっている。

「あたしをここから出してほしいの」

「それは……むりだ」

 元長波は力なく笑う。

「だって深海棲艦、皆殺しにしないと! 政府にまで食い込んで法律変えたりして艦娘のみんなをいじめてる奴らをね、みーんなみーんな殺すの。深海棲艦を倒すために文月たちはいまの時代に生まれ変わったんだもん」

 元文月が屈託なく哄笑する。元長波はいたたまれない心持ちになる。この元文月はわたしだ。いつまでも時計の針を進めることを拒んでいる。戦争が終わったことを認めていない。わたしたちはあの戦争でとっくに死んでいる。ただ息をしているというだけだ。終戦から二十二年も経つのに戦争のことにこだわり続けるばかりで、人間としてなにひとつ成し遂げてこなかった。そればかりか世間が戦争を忘れようとすることを許さない。忘れて前へ進む人々の足首をつかんで振り向かせる。まさに亡霊だ。わたしや、この元文月そのものが、社会を悩ませるホーミングゴースト(まとわりつく亡霊)なのだ。

「なあ、文月」元長波は手を伸ばして還暦を迎えた英雄の手に重ねる。「もう戦争は終わったんだ。わたしたちはもう戦わなくていいんだよ。もうあんたもわたしも艦娘じゃない。あんたはあんなに戦ったじゃないか。いいかげん楽になっていいんだ」

 元文月の、丸めた紙をひろげたようにしわだらけの顔から、笑みが抜け落ちていく。ひびわれた口唇が言葉を紡ぐ。

「おまえ、だれ?」

 元長波にはぬるま湯に浸した筆で背中をなぞられたような悪寒があった。

「長波ちゃんはそんなこといわない。おまえはだれだ。だれだ!」

「落ち着いてくれ、わたしは」

「だまれ。長波ちゃんの声でしゃべるな! おまえなんかが長波ちゃんの顔をするな。それは長波ちゃんのものだ」

 元文月が声を荒げる。元長波の手をひっかく。スタッフらが部屋になだれ込んできて元文月を制圧する。テーブルに頭部を押さえつけられた元文月がマムシのように目を三角にして元長波をにらみつける。憎悪で煮えたぎる目だった。元長波は血のにじむ手の痛みも忘れて呆然とたちつくす。

「かえせ!」

 元文月が唾とともに叫ぶ。

「長波ちゃんをかえせ! にせものめ。かえして。かえしてよ!」

 老眼から涙がこぼれる。しわの水路を満たして流れていく。

「困ります」

 迷惑顔を隠そうともしない医師が鎮静剤の注射器を手に元長波のそばを抜ける。針の先端から薬液がわずかにほとばしる。喉が裂けるような絶叫を暗い口腔からほとばしらせている老女に打つ。目から明確な意思の光が失われていく。

 

  ◇

 

 喫煙所で元長波はIustitia(ユスティジア)に火をつける。最初にブルネイへ配属されて以来愛煙している銘柄。彼女の手は震えている。

「わたしは駆逐艦で、戦争中はなにもかも上が判断してわたしたちに命令してた。それこそ朝何時に起きるか、歯みがきの時間、朝食の時間といったものから、出航に必要な装備、出発の時間、目的地までの航路設定まで、一日二十四時間のやることなすこと、すべて命令にしたがってこなしてりゃよかった。だからわたしは自分で選んで判断して決定するってのができないんだ。この煙草だって、自分であれこれ味わって選んだんじゃない。深雪から教わったんだ。自分の吸う煙草でさえ!」

 彼女の手のなかでソフトケースが握りつぶされた。Iustitia(ユスティジア)Fortitudo(フォルティトゥード)と並んで艦娘にもっとも人気のある銘柄とされている。

「わたしがきょう、したことも、正しかったのかどうか。現実をみろといえばいいのか、あれの空想に付き合ってあのまま浸らせたままにしてやればよかったのか……土壇場になって選べなくなった。わたしにはどうすることもできない、どうすることも……」

 うめく元長波が、不意に細かく痙攣する。頭を押さえる。頭蓋骨にひびが入ったような激痛。煙草が落ちる。言葉にならない声をもらして倒れ、唾液の泡を吹きながら、白目をむいて、顔をゆがませる。

 感電しているようにままならない手でペンダント型のピルケースから錠剤を取り出し、やっとの思いで口に含む。薬が溶けると症状が治まっていく。

「脳にね、腫瘍があるんだ。テニスボールくらいの」

 落ち着いた元長波は自分の頭を指でつつきながら、ふたたび煙草を喫む。錠剤の詰まったペンダントを首もとへしまう。

「高濃度乳房って奴で乳がんの発見が遅れた。そのせいで、オッパイ切ってもすでに転移したあとだったんだ。しかも脳みそに根を下ろしやがった。“MST(余命)は? 三ヶ月? それともひと月とか?”って医者に訊いたらさ、“いまこの瞬間にまだ生きていられることが奇跡だ”って、バカをみるような目でいわれたよ」

 元長波はため息とともに紫煙を吐いた。

「戦地にいるときは、自分はどんなふうにして死ぬんだろうって、そればかり考えてた。仲間に置き去りにされるのかな、あの長波みたいに。魚雷でピンク色の水柱になるのかな、あのポーラみたいに。機雷に巻きつかれるのかな、あの白雪みたいに。ナ級にばりぼり食われちまうのかな、あの対馬みたいに。戦艦棲姫の連れてるばけもんに雑巾しぼるようにして胴体をねじ切られちまうのかな、あの秋月みたいに。自分の内臓をかき集めながらくたばるのかな、あの名取みたいに。自分のことがわからなくなって天井からぶら下がるのかな、あの敷波みたいに。七日も漂流したあげく海の水を飲んで幻覚みながら沈むのかな、あの巻雲みたいに。……終戦直後にバナナが原因で死んだっていう兵隊の故事があるけど、まさかこのわたしが、戦争では死なずに、脳腫瘍なんてね」

 腫瘍がみつかったのは一ヶ月前だった。

「二十二年も時間を与えといてなんにもしなかったわたしに、神さまがいいかげんにしろって切れたんだろうね。だからわたしはあの戦争と向き合うことにした。みんなと会って、話して」

 旅をはじめた理由を元長波はそう語った。

「さあ、いつ死ぬかわからないなんて戦争以来だ。戦友たちに会いに行こう。生きていようと、死んでいようと」

 元長波は立ち上がる。ふらつきながらも、自分の足で前へと歩く。


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