栄光の代償・元艦娘たちが語る対深海棲艦戦争(GHK出版新書)   作:蚕豆かいこ

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二十二 青春の海、2水戦の海

 翌日、元長波は舞鶴の丹後街道を徒歩で散策した。

「ジャムから帰ってきてしばらくは、いまよりもずっとジャム島が近かった。目を閉じるたびに手足のない長波が現れた。ドアを開けた瞬間に深雪が目の前に立ってたことも」

 

 ホーミングゴーストを抑えるための定期カウンセリングも苦痛になった。「きょうは今週あった楽しかったことを思い出しましょう」。カウンセラーはコンピュータの液晶から目を離さないまま質問した。まるで元長波の本質はその画面のなかにあるとでもいうように。

「頼むから処方箋をくれよ。薬さえくれりゃわたしはそれでいいんだ」という元長波をさえぎってカウンセラーは続けた。「どんなときに気分が安らぎますか。なにをしたら心が満たされますか。散歩とか、おいしいものを食べたときとか」。いらいらが募った。だから正直に答えた。「おまえのそのまぬけ面をぶん殴ったら、さぞかし安らぐし満たされるだろうよ」。カウンセラーははじめて元長波に顔を向けた。よけいに腹が立った。こっちをみていようがいまいが不快感で口のなかが酸っぱくなる。「そのカボチャの種ほどもない脳みそによく刻んどけ。散歩しても気分は晴れないし、なにを食べてもなにを飲んでも、深雪の血と肉の味しかしないんだ!」。そして噛んでふくませるようにいった。「おまえにわたしは治せない。ジャムにいなかったおまえには。わかったら、さっさと、薬をよこせ」。

 

 敷波が鏡を粉々にしたのはちょうどそのころだ。

 

「彼女もわたしとおなじなんだなと思った」元長波がいう。「わたしもいつかおなじことをするのかもしれない、鏡ではなく家族を殴るのかもしれない。自分がモンスターになっちまったんじゃないかと不安になった。“わたしはこのまま生きて家族のもとに帰るわけにはいかない”。そう信じて疑わなくなっていた。自ら命を絶つか。だめだ。あの家の娘は訓練や任務に耐えられなくなって自殺したって、家族が後ろ指さされることになる。わたしは祖国のために深海棲艦の大群と勇戦敢闘したすえに戦死しなきゃいけない。だから2水戦をめざすことにした」

 

 舞鶴地方総監部のゲートは半分だけ開かれているが、元艦娘といえども民間人がみだりに入ることはできない。街道から施設へ懐かしさを込めた視線を投げかける。

 

「2水戦への志願は水雷屋ならむしろ奨励されてた。大企業は倍率七倍以上じゃないと優秀な人材を確保できないっていうけど、つまりはそれだ。おおぜいの志願者から選りすぐったエリートをふるいにかけて、徹底的にしごいて、さらにしごいて、そしてしごく。そうして生き残って、趣味はなんですかと訊かれたら“深海棲艦に新品のケツの穴をつくってやること”と笑顔で答えられる怪物だけが、ダブルヘッズ――旭日旗と錨に二本の交差する魚雷があしらわれた2水戦徽章(きしょう)をわたしたちはこうよんでた――をつけることを許される。候補生の一割も残らなかった年さえある。本土防衛の1水戦に対して、2水戦は外地へ殴り込みをかける。勢力下ではない海域へ、いのいちばんに投入されるんだ。なみの水雷屋じゃ務まらない。死亡率もきわめて高い」

 これだ、と元長波は確信したという。

「2水戦なら栄誉の死を与えてくれるぞ、英雄になれるぞ、自殺者や犯罪者じゃなく。そういうわけでわたしは志願のために準備をはじめた。とはいえ、いまでこそ2戦教……第2水雷戦隊選抜教育課程のことは、数多くの書籍やドキュメンタリーで語られてるし、ウィキペディアにもまあまあ詳しい解説が載ってるが、当時はわたしたちですら、どんな試験や訓練が待ってるか、その全貌はまったく伝わっていなかった。2戦教に行った奴が別人みたいな顔つきになって帰ってきたとか、そういううわさ話くらいでね」

 精神に問題があると判断されれば2戦教に参加できないかもしれない。元長波は自分を偽ることを覚えた。ジャム島に行く前の自分を必死に思い出した。カウンセラーにも従順になった。

「本当のわたしは叫びたがってた。助けてくれって。もしそうしていればだれかが手を差しのべて、真にわたしが行くべきところへ連れていってくれていたのかもしれない。ドアに戦闘ストレスのプレートがかかった部屋とか。だから叫ばなかった。2水戦に行けないってことももちろんあるけど、みっともないことをしたくなかった。クールな艦娘でいたかった。わたしは長波だぞって」

 赤ん坊を抱いている母親をみかけると無意識に目で追いかけている自分がいても、食べるものすべてが深雪の肉の味しかしなくても、なにごともなかったかのように、彼女は笑顔をみせつづけた。わたしは大丈夫だよ。大丈夫だ。大丈夫に決まってる。そうして心と体の食い違いが大きくなっていく。元長波の勤務評定をまとめる大艦隊長はその年に艦娘大学校を卒業したばかりの新米軽巡で、階級こそ上だったが、実戦経験もなければ部下ひとりひとりの内面まで見通すほどの慧眼(けいがん)もまだ育っていなかった。「うちの艦隊から2戦教の志願者がでることを誇りに思うわ。がんばって」。 表面上の数値だけをみて大艦隊長は2戦教への推薦状を書いた。ありがたい。元長波はそのとき本心から感謝した。

 訓練には事前準備がある。適性検査をかねたASVABテストがそのひとつで、最初の関門だった。

 

「数学、四ヶ国語の語学、物理学、一般教養、暗号化、トロッコを右にやるとひとり死んで左だと五人死ぬがどちらに走らせるべきかとかいうわけわからんお題の小論文。これで志願者の二、三割は落とされるって聞いたから、日々の業務のあいまを縫って、椅子とケツが結婚できるくらい勉強した。かといって頭でっかちじゃだめだ。体も鍛え直さなきゃいけなかった。どのくらいやればいいのかわからなかったけど、半年で体重を五キロ増やしたよ」

 

 鍛えに鍛えた。一次試験はASVABテストと体力試験だった。試験会場は横須賀地方総監部だったので移動の手間はなかったが、当時朝霜だった同期と再会した。艦娘学校以来だった。「よお、おまえも受けんのか」。そう首に腕を回してきた同期は修業式のときと変わらない明るい顔だった。そのときの元朝霜は元長波がジャム帰りとは知らなかった。いくらか救われた気がした。元朝霜は自身の限界を知るために2戦教に挑むのだと語った。動機を質された元長波はあいまいに返した。

 体力試験の種目数は、腕立て伏せ、腹筋、垂直跳び、五〇〇メートルの平泳ぎ、片足一キロのブーツを履いての一五〇〇メートル走など十一にわたる。各種目の総合点で合否が判定される。

 

「一五〇〇メートル走にしてもさ、何分何秒で走れれば合格ってわけじゃなくて、一〇〇隻が先着した時点で、“はい、終わり”。それより下位のもんはスコアなしで切り捨てられる。十一の種目が全部そんな調子さ。真ん中より下は要らないってことらしい。日本一真剣な運動会だよ」

 

 三〇〇隻以上もいた受験者は一次試験で一〇〇隻にまで絞られていた。合格者は一ヶ月後に面接試験でふたたび横須賀に集められた。「おまえが受かるなんてな。てっきり落ちたと思ってたよ」。顔を合わせた元朝霜に元長波はこう返した。「わたしもだよ」。

 面接はひとりずつ行なわれた。試験を終えて部屋から出てくる艦娘は例外なく憔悴して青い顔をしていた。「気をしっかりもてよ」と後続の艦娘たちに助言するばかりだった。元長波の番がきた。目出し帽をかぶった数人が長机をはさんで彼女を待ち構えていた。

「面接官は現役の2水戦だったらしい。らしいってのは面接官がみんなバラクラバで顔わからなかったからなんだが、そんなテロリストみたいな連中が、“貴艦を2水戦に入隊させることでわれわれにどのようなメリットがあるか述べよ”とか問い詰めてくる。緊張はしなかった。いきなり撃ってくるわけじゃないし、落とされるようなこといわなけりゃいいんだから」

 すべての試験を終え、陸にいるときはただの筒型バッグが四肢のないあの長波にみえたり、海に出るたびに、歯茎から出血させながら溺れる巻雲をみたりしながら過ごしていると、待ちに待った命令が下った――2戦教に出頭せよ。

「それで、舞鶴の地方総監部に」元長波はゲート前に立つ守衛に敬礼してみせる。守衛は銅像のように動かない。元長波も気にしない。「人でごったがえしてる駅のホームでも、あ、こいつはわたしとおなじ2戦教の参加者だなってのはひと目でわかった。目が輝いてるし、足取りにも自信が感じられる。2水戦はみんなの憧れだからね」

 この時点で候補生は八十三隻になっていた。そのなかにはもちろん元朝霜の顔もあった。

 訓練なんて艦娘学校の焼き直しみたいなもんだろ、ここまで来られたわたしたちなら余裕さ……一次試験と面接ですでに顔見知りになっていた候補生たちは口々に期待と不安を投げ合った。およそ半数が2戦教に参加するのが二回め以上という経験者だ。初参加の艦娘たちは逸る気持ちを抑えきれず訊いた。「いったいどんな訓練をするの? ヘル・ウィークはほんとにやばいんですか?」。

 経験者たちは不敵な笑みを返した。「心の準備なんか無意味だ。あれは人間の本性が暴かれる」。

「上等だ」と元朝霜は答えた。「楽しませてもらおうぜ」。

 

 イン・ドックと呼ばれる一週間の準備期間を経て、いよいよあすから2戦教が本格的に幕を上げるという日曜の夜、元長波はジャム島の地下壕に戻った。ジャム島にいるときは時間も記憶も巻き戻る。夢だと気づけない。「なあ、あたしを食ってくれよ」と深雪がいう。「なあ、おまえもおなじ長波だろ、一緒に連れていってくれよぉ」と、肘から先がない両腕と太ももから下がない両足をばたつかせながら長波がいう。「お母さん」と天津風が自分の頸動脈にナイフを入れている。手を貸した時津風の顔が真っ赤に染まる。舞風の腐乱死体が、その内部にびっちり詰まっている蛆虫の移動でときおり生きているように動く。野分がその舞風からロボットのような動きで蛆虫をつまんで飢えをしのいでいる。全員がこちらをみる。「どうしておまえだけ助かったんだ?」。部屋に教艦が怒鳴り込んできた。訓練開始。夜明けも遠い午前四時だったが、元長波はこのときほど叩き起こされて幸せだったことはなかった。

 

「2戦教は年二回で、わたしたちのクラスはちょうどこの時期に」元長波の吐く息は白い。「暗くてとなりの候補生の顔もみえない。教艦たちの名前も知らない。自己紹介とかはなかった。でもなんの問題もない。どうせ候補生のうち七割以上は落ちるし、残れるくらい訓練やってりゃ教艦や助教の顔と名前も覚える。2戦教は全工程で半年。候補生にとっては半年もあるが、教艦たちにとっては、半年しかないんだ」

 

 呼集から整列までが遅いということで、腕立て伏せ一〇〇回のペナルティが課された。アスファルトに突っ伏して上下する。「なんだその動きは! アスファルトとオマンコしてんのか! そんなにやりたいならやらせてやる。五十回追加だ!」。腕がちぎれそうだった。なんとか食らいついていると、いきなり助教たちにホースで水をぶっかけられた。氷水のようだった。元長波は思わず顔をそむけた。「顔をそらすな!」。顔を正確に照準してくる放水で呼吸もままならない。上衣はタンクトップ一枚だから削岩機のようにがたがた震える。助教が見逃すはずもない。「おまえら寒いのか? じゃあ、あっためてやる。もう五十回追加だ」。

 教艦は休むひまを与えない。腕立て伏せが終わればすぐさま懸垂だ。みんな顔がゆがむ。合図に遅れるとペナルティで回数を増やされる。つぎに上半身のスクワットともいわれるディップス。もう腕がいうことを聞かなくなっている。しかし助教たちは候補生とおなじ訓練をこなしながらさらに罵倒するという離れ業をみせた。「できなきゃできるようになればいいんだ。おまえらこんなばばあができることに音をあげてるんだぞ。恥ずかしいと思わないのか?」。ようやく空が白みはじめた。元長波たちが助教らの顔を視認できたのはこのときがはじめてだった。完璧なフォームでディップスをしつつ怒鳴っている助教は駆逐艦娘の皐月だった。

 候補生たちはだれもが自分は2水戦になれるという自信を秘めている。だが終わりのみえないペナルティと、絶え間ない罵声の洗礼で思い知らされる。これが毎日つづくのか、と。

 サンドイッチ一個の朝食ののち、六隻の小艦隊ごとにグループわけされて、日本海の寒風吹きすさぶ砂浜に集合する。点呼すると八十二隻しかいない。開始三時間で早くも脱落者がでたからだ。だが同情する余裕もない。時間制限つきの六・五キロ走が待っている。三十二分で走破しなければまたも腕立て伏せのペナルティだ。

 

「言い訳させてもらうと、五キロマラソンの平均タイムが男で二十八分、女で三十二分。わたしたちはブーツを履いたまま、足場のわるい砂浜で六・五キロを三十二分以内。わお」元長波は舞鶴地方総監部に(そびら)を向けて歩きはじめる。

 

 制限時間以内であっても半分より下位の候補生は能力不足として段階審査会にかけられる可能性がある。段階審査会ではその候補生に訓練を続けさせる価値があるかどうか教艦たちが審理する。持久走だけではない。日々のあらゆる訓練で完璧をもとめられる。

 総短艇(そうたんてい)ではカッターボートを小艦隊であやつり波越えを競う。荒れる日本海の高い波が候補生たちを萎縮させる。四メートルを超える波にもまれて振り落とされ、候補生どうしが激突したり、一・五トンあるボートの下敷きになったり、パドルにぶちのめされることもある。転覆しないよう進む方法はただひとつ。小艦隊が一丸となることだ。一位になった班にはつぎのレース開始まで休憩を与えられる。転覆したり遅れが目立った班にはペナルティが課される。ある神通がリーダーを務める小艦隊が最下位になったので、彼女たちは腕立て伏せを命じられた。しかも神通はペナルティの途中でうめき声をもらした。助教の皐月のかみなりが落ちた。「なにしてる。おまえ軽巡だろ!」。皐月の怒りはすさまじかった。「おまえのそのだらしなさが実戦で仲間を殺すことになるんだ。軽巡のおまえがいちばんへばってるじゃないか。駆逐艦娘としていわせてもらうが、おまえの下で戦うなんて絶対いやだね。たかが訓練でこれじゃあな!」。軽巡と駆逐艦が並んでおなじ訓練を受ける2戦教では階級も艦種も関係ない。教艦か、候補生かだけだ。

「おまえは軽巡で士官だ。やる気あるのか?」。上下運動しながら神通は「はい」となんとか答えた。「じゃあ腕立てくらいさっさとやれ。やる気があるなら態度で示せ!」。神通の小艦隊は彼女以外の駆逐艦娘全員がペナルティを終えていた。神通はわるい意味で教艦たちの目を引いた。皐月だけでなく矢矧助教の叱責も飛んだ。「神通、仲間が早くレースに戻りたいんですって」「はい……」「あなたのせいで戻れないのよ。死ぬ気になってやってみなさい。仲間にできてなぜあなたにはできないの?」。

 皐月助教はひきつづき徹底して心身に負荷をかける。なんとか腕立て伏せをやりとげた神通を立たせて皐月助教は向かい合った。「おまえは軽巡だ。候補生には駆逐艦もおおぜいいる。おまえがあいつらを引っ張れ。おまえが手本になるんだ。この場は自分が仕切る、つねにその意識を忘れるな。おまえには特別に厳しくする。行け」。

 

 所属、階級、補職もばらばらな候補生たちの共通点はふたつ。駆逐艦娘または軽巡艦娘であること。第二に、志願者であること。

 しかし初日で三隻が脱落した。元長波の回想はつきない。

 

「リタイアするのは簡単だ。“やめます”、ただひとことそういえばいい。書類にサインして、宿舎の前にある鐘を三回鳴らして、おさらばさ。自分で決断したことだから教艦たちも最大限尊重する。脱落を申請したとたん、いまのいままで怒鳴りまくってた助教が別人みたいに優しくなるんだ。“全力を出しきったと思うか? これからの人生、ここでのことを思い出せばたいていのことはなんとかなりそうか?”。脱落申請した候補生がイエスって答えると“それがいちばんだいじなことなんだ。戻っても精進を怠らないでよ”って、皐月助教に握手されてるのをみたことがある。辞めた奴を腑抜けだとか根性なしだとかなじったりはしない。その優しさが脱落者にはいちばん堪えるらしいね。もうしごいてもらえる関係じゃなくなったって実感させられるとかで」

 

 訓練はいつでも辞められる。候補生には悪魔のささやきだ。2戦教参加者のわずか二十パーセントしか2水戦になれないという狭き門であることは知っていた。だれもが自分はその二十パーセントに入れると信じてきた。だが、自分は実は八十パーセントの側の艦娘だったのでは? きょうを耐えてもあしたがある。これがずっとつづく。冷たい海で身も心もぼろぼろだ。ふとこんな思いが候補生たちの頭をよぎる――辞めちまえ。熱いコーヒーとストーブが待ってるぞ。

 

「意欲はあるのに病気とかの不可抗力で失格になった奴は本当に気の毒だ。また受験からやり直しだからね。みんなはそれをロールバックって呼んでた。けがはバケツでなんとかなるが、病気はしょうがない。候補生はそれをなにより恐れてた。わかるかい? 病気になれば解放されるってんじゃなく、病気になったら訓練に参加させてもらえないって考えるんだ。そういう奴しか2水戦には入れないってことだ。要は気持ちの問題さ」

 

 教艦は専用の辞書がつくれるほど豊富な語彙で候補生を罵るが、けっして強制はしなかった。メッセージは明確だ。自分には2水戦に入る資格があるというのなら、結果で証明してみせろ。

 昼食もとれないまま昼過ぎになると服装と宿舎の立入検査だ。ブーツが汚れている、靴ひもの結び目が左右対称になっていない、姿勢がわるい、ベルトの金属バックルが曇っている。ささいな不備も教艦はめざとくみつける。「両手をついて腕立ての姿勢をとれ」。

 部屋の検査の厳しさは艦娘学校時代の比ではない。クロゼットのライフジャケットを逆さにして振る。砂が二、三粒こぼれた。ベッドのシーツに十センチのしわが一本あった。引き出しの中身が整理されていなかった。窓のサッシの直角になっている部分に埃が溜まっていた。教艦たちはライフジャケットとシーツと毛布を窓から放り捨てた。引き出しの中身をぶちまけた。表へでろと命じた。「両手をついて腕立ての姿勢をとれ」。初日の立入検査はほとんどのものが不合格だった。腕立て伏せに苦闘する候補生の下には汗で水溜まりができた。もうオットセイみたいな動きしかできない。「腕立てばかりで腕が疲れたか。ならべつのところも鍛えてやる。屈み跳躍、用意」。皐月助教が容赦なく責め立てる。とどめはこれだ。「まだ初日だぞ」。

 おなじ部屋のひとりでも不合格ならペナルティは連帯責任だ。立入検査の行なわれる月曜にそなえて週末は念入りに掃除をすること、仲間どうしで点検しあい、協力することを候補生は学ぶ。部屋の掃除に五時間かけた。ブーツは毎日磨いた。顔が映るくらいでないと検査に通らない。

 

 2戦教は前段と後段にわかれている。前段ではなによりも根性が試される。そのしめくくりが地獄の五日間と悪名高いヘル・ウィークだ。候補生たちはヘル・ウィークこそが難所だと構えていた。しかしそれは間違いだった。初日でさえ一分が一時間にも感じられる。

 

 候補生には長波がもうひとりいた。2戦教には三回目の挑戦というベテランだった。当時二十二歳の彼女は、十四歳だった元長波の班のリーダーでもあった。通常おなじ艦名の艦娘をひとつの艦隊に配備することはない。ホーミングゴーストにより自身を軍艦の生まれ変わりと信じているものが混乱してしまう事例があったからだ。ところがもともと少数精鋭(ハイパー・オペレーション・システム)の2水戦では、即応可能な艦娘の艦名が一隻も重複していないという都合のいいことがいつでもあるとはかぎらない。2水戦に出動命令が下って、現地の2水戦隊員が長波シリーズ六隻だけだったら、迷うことなく六隻の長波による艦隊が組まれることだろう。ホーミングゴーストを完璧に制御できること。それもまた2水戦の志願者にもとめられる資質だった。

 いかんなくリーダーシップを発揮するベテランの長波について、元長波はひと目で好印象をいだいたという。

 

「集団行動してると自然と輪の中心になってるっていうやつ、たまにいるだろ。生まれながらに魂の王冠を戴いてるっていうか。努力だけじゃ得られない、人を導くなにかの力が彼女にはあった。彼女自身もそれを自覚してて、率先して責任を果たし、不平不満をいっさい口にせず、つねに集中して、細かいところにまで気を配ってた。彼女は六・五キロ走ではいつもドンケツを走ってた。遅れてるやつの背中を押したり、励ましたりするためだ。教艦たちも一目置いてたよ。目標にするべき存在だと思った、長波としても、人間としても」

 

 おなじ長波だからか、ベテランの長波もまた八歳下の元長波をいたく気に入った。前回は肺炎にかかってロールバックになった、ことしこそは受かってみせる、今回でだめなら2水戦をすっぱりあきらめる。そんな心情まで元長波にだけ吐露した。「2水戦に入りたくて艦娘になったようなものなんだ。2水戦こそ、あたしのめざすべきゴールなのよ」。訓練で泥や砂にまみれていても輝いてみえた。いまでもそのまぶしさをよく覚えている。

 

 教艦は候補生のいかなる手抜きも見逃さなかった。2水戦の門番ともいえる教艦たちはいずれも2戦教を卒業している。訓練のメニューはすべて教艦たちが考案して自分たちでテストを行ない採用を決めたものだ。2水戦としての実戦の経験を反映させた、2水戦のメンバーとして最低限要求されるラインに到達できない艦娘をはじくしくみになっている。いっぽうで、訓練をやり抜こうという決意があれば、一次試験を通過したものならついてこられるよう綿密に計算されてもいる。

「わたしは、なにかというとすぐ根性をもちだす奴は信用しない。最初からなにも考えてないってことだからよ」。矢矧助教は困憊している候補生らに言って聞かせた。「しかしながら、経験上、最後にものをいうのは根性であるということもまた、事実だと思ってる。おなじ戦力でぶつかって、双方ともに知恵をしぼって、技術をつくして、じゃああとはなにで差をつけるかっていったら、もう根性しかない。人間の体は賢いから、まだ七十パーセントしか力を使っていないのに限界だと錯覚させる。それだと余力を残して死ぬことになる。残りの三十パーセントを引き出すには錯覚がつくりあげた限界を打ち破らなければならない。そこで根性が必要になってくる。あなたたちには、それを学んでもらう」。

 

 二日めの訓練は障害コースでの競争だった。前日の疲れを残す候補生の前に高さ十メートルはあるネットの壁、雲梯、モンキー、ロープの橋、丸太のアスレチックが立ちはだかる。弱音を吐く艦娘は少なくなかったが、ジャム島のジャングルをさまよった経験のある元長波はなんとも思わなかった。ここには明けても暮れても人間の殺害を企てている敵などいない。戦線崩壊以降のジャムでは、どこにどの艦娘がいるか、その生死すら司令部は把握できていなかった。ジャム島にいたとき、彼女は世界から孤絶していた。翻って2戦教は、計画的にストレスを与えるよう管理された人工の戦場であり、候補生たる彼女の存在を教艦らは承知している。監視されているということは目を離さないでいてくれるということだ。修復材もある。きついがそれだけだ。ベルを鳴らせばいつでも辞めることができる。ジャム島には脱落申請のベルなんてなかった。

 疲れきっている候補生を教艦はボートに乗せた。ブイのある沖合いで足ヒレをつけさせると海の真ん中へ落とした。

「ここから陸に戻る方法を教えてあげるわ」。矢矧助教は船上から傲然といい放った。「泳げ」。

 水温十三度の海をウェットスーツもなしで一マイル力泳した。凍てつく海水に体温と体力が奪われる。命の危険さえ覚える。「右足がつりました」。ある藤波がいまにも溺れそうになっていた。皐月助教の答えは簡潔だった。「じゃあ左足で泳げ」。

 冷えた手足から感覚が失われていく。厳しい寒さで気力も萎える。何隻もの候補生が泣きながらボートの縁にしがみついた。低体温症の疑いがあるものは船に引き上げられた。「八かける九は?」。皐月の問いに、毛布をかぶった早波(はやなみ)は「八かける九は、七十二です」と歯の根が合わないながらも速答した。低体温症の初期症状は、錯乱、無関心状態、簡単な計算もできなくなる、などがある。問題ないと判断された早波は海へ戻された。

「どうしたの。あんたたちは唇の色もぜんぜんわるくないわよ」。朝雲助教が、船に上げられたまま膝をかかえて尻が根付いたように動こうとしない候補生たちを見下ろす。「休ませてあげたでしょ。早く泳いで。これがまだ半年もつづくのよ」。震える候補生のひとりがぽつりと呟いた。「もう泳げません」。脱落するかと朝雲助教が迫ると、その候補生は無言で何度も頷いた。

 寒中水泳はヘル・ウィークを除けば前段訓練で最多の脱落者をだした。浜で待っていたベテランの長波は寒さに髪まで震わせながら「毎回のことよ」と、四十分かけて泳ぎきった元長波を迎えながらいった。「何十隻も海に散らばってる候補生に、教艦たちは細かく目を光らせてる。ほんとにやばいときは教艦が全力で助けてくれる。だからあたしたちは遠慮なく限界に挑めるのよ」。その言葉どおり、低体温症におちいった艦娘はひとりも出なかった。

 ベテランの長波は関節が凍ったようになっている元長波を抱き寄せた。「ほら、こうすると、少しでもあったかいでしょ?」。それからいたずらっぽく笑った。「ほんとはあたしがあったまりたいだけなんだけどね」。

 すると「あたいも仲間に入れろよー」と、ずぶ濡れで妖怪のようになっている朝霜が恨めしそうに抱きついてきた。今回にかぎらず訓練中に寒さをしのぐには体温で暖めあうほかなかった。ときには団子になって固まったまま放尿した。なんともいえないぬくもりで、まさに地獄に仏だった。おこぼれにあずかろうとみんながさらに身を寄せ合う。そのとき手に入る温かいものといえば小便しかなかったからだ。自分といわず他人のといわず、小便が待ち遠しかった。

「うしろをみろ」。足がもげそうな厳寒で一マイルを泳ぐという試練に耐え抜いた元長波たちに、皐月助教が大きな声をかけた。砂浜で元長波たちは振り返った。暗鬱な曇天の下に毒液のような海が広がっている。遠くに波で揺れるブイを指さす。スタート地点のブイだ。「この距離を泳ぎきったんだ。どうしてできたと思う」。答えられずにいると、皐月は断言する。「おまえたちの実力だ!」。

 

「教艦にこういわれて涙を流さない奴と、わたしは友だちにはなれないだろうな。まあ、そのときのわたしは凍え死にそうで、泣く余裕なんかなかったけど」

 と元長波は手をすり合わせて息をかける。

 

 2戦教の訓練について、元朝霜は仲間たちに当時こう語っていたという。「訓練は毎日きつくなる。きょう以上の艱難辛苦はねえなと思って寝ると、翌日にはあっさり更新してくる。訓練がはじまるたび、“きのうまではなんとかなったけど、きょうこそは無理だろ”って嘆く。でもなんだかんだやり遂げてきた。無理難題を課してるようで、じつは全力を尽くせばぎりぎり突破できるように計算されてんだ。ここでは訓練を成功させるといつも自分で自分に驚いてる。あたいにはこんな力があったのかって。人間の限界は自分で思ってるよりももっと上にあるんだ。だから、だいじなのは“こんなのできっこない”と背を向けようとする自分に勝つことだ。教艦たちが教えたいのはきっとそれなんだよ」。

 

 しかしだれもが自身のリミッターを外して一〇〇パーセントの力を発揮できるわけではない。二週間を終えるころには候補生の数は半分以下の三十七隻に減っていた。

 そしてついに究極の忍耐力が試されるヘル・ウィークに突入する。ヘル・ウィークの目的は単純明快だ。極限の状況に直面したとき、逃げるのか、耐えるのか、それを見極める。

 一時間かけてパドルで砂浜に穴を掘る。掘り終わると穴を埋める。また穴を掘る。わずかでも手を休めると助教の怒号が飛ぶ。ペナルティ。「いいか、なにかをやれっていわれたら、時間内に集中して、ありったけの力で遂行しろ! 穴を掘れっていわれたら掘れ! 埋めろといわれたら埋めるんだ! マンコで煙草吸えっていったら吸うんだよ!」。掘った。埋めた。掘っては埋めて、埋めては掘った。

 おなじみの総短艇はヘル・ウィークでも健在だ。しかも夜だから冷えるうえに恐怖心を煽る。暗闇の海で転覆して波に呑まれる。小艦隊の仲間が相互に助け合う。もしひとりだったら命の保証がないと学ばせる。

 水温十度の波打ち際に並んで仰向けに寝転がる。冷水に胸まで洗われる。水はときとして容赦なく顔までかぶさってくる。鼻に海水が入る。咳き込んでいるうちにつぎの波がくる。冷たさに悲鳴がそこここからあがる。「だまれ! 女みたいにわめくな!」と皐月助教の叱責がさらに追い詰める。候補生たちが波の拷問と呼んで恐れるこの訓練は、いつ終わるかすら教えてもらえない。助教だけでなく、ヘル・ウィークから本格的に訓練を監督する課程主任の木曾教艦が一隻一隻を見張る。どこにも逃げ場はない。脱落を申請する以外には。

 六・五キロ走も変わらず行なわれる。制限時間に間に合わないと小艦隊の全員が連帯責任でペナルティだ。歯を食いしばって走る候補生を木曾教艦が拡声器で執拗に揺さぶる。「2水戦の資格をとっても、定員の枠が空かないと配属されることはない。せっかく苦労して資格をとったのに2水戦に入らないまま任期を終える艦娘もいる。もうひとりの自分のささやく声が聞こえないか? どうしてこんなつらい目に遭ってるんだろう。こんなことしたって報われない。早く家に帰って温かいコーヒーが飲みたいな。母さんは元気かな。ボーイフレンドはどうしてるかな。いつまでも帰らないわたしに愛想をつかして、いまごろべつの女を抱いてるかも」。 このような訓練が夜明けまでつづく。つぎつぎとリタイアがでた。日曜の夜からはじまり、月曜の朝陽が顔を覗かせるまでに五隻が脱落した。

 五日と半日、一三二時間連続で訓練を行なうヘル・ウィークでは、最初の三日は一睡もできないが、水曜日からはレースに勝てば十分かそこら仮眠がとれる。そうやって睡眠時間を自力で稼ぐ。しかしレースはチームで競う。2戦教は個人主義を否定しチームが第一だと学べるようすべてが周到に練られている。

 完調でもひとつひとつの訓練が心身を限界まで酷使する。それを眠ることなく立て続けに行なうという高いストレス環境は候補生たちの心に非情なまでに負荷をかけていく。

 元長波はといえば、皐月助教から「おまえだけヘル・ウィークに入ってから日が経つごとに活き活きとしていってるな。いいだろう。両手をつけ」と不思議がられたほど、この訓練を心底から楽しんでいた。眠るとジャムの壕が待っている。眠らずに体を動かしていればそれだけジャム島が遠くなった。一生ヘル・ウィークが続けばいいとさえ思っていた。

 

 火曜日。真夜中の浜辺で足を海水に浸けながら冷えきった携帯食糧で夕食をとった。遠くに街の灯火が墨汁のような海面に映っている。そんななか「辞める」とひとりの候補生が元長波たちに告げた。ベテランの長波だった。「マジで?」。元朝霜が思わず聞き返した。元長波も耳を疑った。リタイアだって? ことしに懸けてるっていってたじゃないか。今回だめだったらあきらめるって。

「あんたがそう決めたってことは、めちゃくちゃ考えたすえの決断なんだろうなってのはわかる。でも、ほんとにわかっていってんだよな、どういうことか」。元朝霜にベテランの長波は「ああ、わかってる。もう限界だ」。その言葉には迷いがなかった。一瞬だけ元長波と目があった。とても澄んでいた。吹っ切れた目だった。

 ベテランの長波は皐月助教に呼ばれた。

「本当に辞めるのか?」

「辞めます。もう決めました」

「いまならあいつらのところへ戻ってもいいぞ」

「いいえ。この六年で、自分は2水戦には向いていないということがわかりました」

「辞めるんだな?」

「自分でもよくわからないのですが、一時間前までは、なにがなんでも2水戦になるんだと固く心に誓っていました。自分が脱落を申請するなんて想像もしていませんでした。でも」と海の向こうへ視線を移した。「街の灯りをみながら寒さに震えて携帯食糧を食べていると、スイッチを切ったようにやる気がなくなったんです。こんな気持ちではとてもヘル・ウィークに打ち込めません」

「いま冷静だな?」

「はい」

「わかった。木曾教艦のところへ行ってこい」

 そうしてベテランの長波はクラスを去った。

 ここまでクラスを引っ張ってきたベテランの長波の脱落で、候補生たちのあいだに動揺が広がった。この訓練には欠陥があるのではないか? あの猛者が辞めたんだ、いま脱落しても恥じることはないさ……。後を追うように脱落者が続出した。結局、その夜だけで十二隻が立てつづけに脱落した。

 あまりの疲労と寒さと眠気、精神的なショックで、昆虫のように目の前の刺激にしか反応できなくなっている元長波らを水曜の日の出が照らす。波の拷問を受けている候補生たちに木曾教艦がいった。「もしおまえたちが、万にひとつでも2戦教を卒業できて、2水戦に定員が空いていたら、その日から一人前の2水戦としておれたちと肩を並べることになる。そのときそいつがまだポリウォグ(オタマジャクシ。海軍では赤道祭未経験者をさす。転じて未熟者)だったら、こっちの命にかかわる。この半年でおれたちが背中を預けるに足るレベルにどうしてもなってもらう。中途半端な奴を卒業させるくらいなら、だれも卒業しないほうがマシなんだ」。候補生はみな必死で訓練にしがみついているつもりだった。だがじつは教艦たちのほうが必死だということをこのときはじめて理解した。教艦たちにとって2戦教とは、戦場をひとつよけいにかかえるようなものだった。

 

 月曜と火曜で多くの脱落者をだしたヘル・ウィークも、木曜にさしかかると逆に脱落しなくなる。金曜の夕方、砂浜での持久走を終えた元長波たちに、皐月助教が出し抜けに宣言する。「以上をもって、ヘル・ウィークを終了する」。あまりの唐突さに呆然とする。ようやく意味を理解できた十三隻の候補生は雄叫びをあげ、泣きながら抱き合ってよろこびをわかち合った。教艦たちの表情も明るい。「もう一度ヘル・ウィークをやりたい人」。朝雲助教が手を挙げながらいう。候補生たちは笑顔で声を揃える。「いやです!」。

 こうして前段訓練というひとつのゴールに到達した元長波たちは、再訓練を命じられた若干名の前期候補生と合流し、土日を挟んで、新しいスタートとなる後段訓練に臨んだ。

 艤装を着装したまま六時間の山歩き。候補生は水の入った紙コップを手にしている。喉が渇く。思わず飲みたくなる。例の神通がつい飲んでしまう。

 木曾教艦が行軍をとめた。「そこの神通が抜け駆けをした。おれたちはあと五十メートルでおまえらに水を飲ませるつもりだった」。こう続けた。「水を捨てろ。全員だ」。

 ほかの教艦たちに「捨てろ!」と怒鳴られてようやく捨てた。予定の行軍が終わったあと、木曾教艦は全員を整列させたうえで神通にいった。「指揮艦なら自分が飲む水があれば部下に飲ませろ。食う飯があったら先に部下に食わせろ。いいか、自分たちより先に水飲んで飯を食う上司を部下は絶対に信用しない。食べ物の恨みは恐ろしいぞ。痛みを進んで引き受ければ、部下は自然とついてくる。自覚をもて」。週末でたるんでいた候補生たちの士気があがる。

 無人島を敵地と仮定し、水路での潜入から敵地上陸を行なう。水陸両用車やLCACをビーチングさせるために海岸の障害物を爆破して一掃する。つかうのは本物のプラスチック爆弾だ。護衛艦を一隻沈められる爆薬をしかける。へたをすればだれかが吹き飛ぶ。ヘル・ウィークがこの世でもっとも厳しい訓練だという思いがまったくの間違いだったと痛感する。実際に起爆させて威力のほどを肌で実感する。水柱は摩天楼だった。

 本隊から離れた遊撃を主任務とする2水戦は後方支援を受けられないまま継戦することもある。より高度な修理と整備も自分で行なえるよう、武器の完全分解から組み立ても修得する。

 候補生たちは、訓練の性質が前段とはあきらかに変わってきていることに気づく。候補生の意志を試す訓練はない。選別から教育へ移行したことは大きなモチベーションとなった。

 

 行軍訓練では規定の重さの砂を詰めた背嚢を背に十マイルを踏破した。負傷者という設定でかわるがわる仲間を担ぐ。2水戦では一隻の仲間を救うために十隻が死地に飛び込む。

 この訓練の前に各自が自分の背嚢をつくった。示達された重量は二十キロ、プラスマイナス二キロ。行軍訓練には教艦も参加する。矢矧助教に「わたしたちの背嚢もつくっといて」といいつけられた元長波と元朝霜は、顔を見合わせてにんまりとした。復讐するはわれにあり。重くつくってやれ。二十七キロの砂を詰め込んだ。

 教艦と候補生が十マイルをともに走った。汗だくの教艦らを横目に、元長波も元朝霜も笑いを懸命にこらえた。

 しかし、行軍訓練のゴール地点には重量計があった。汗で前髪が額に貼りついている皐月助教がいった。「よーし、リュックの重さを量るぞ」。ふたりは腕立て伏せ五〇〇回のペナルティで罪をつぐなうことになった。

 

 実弾の射撃演習にむけて空砲で訓練する。不眠不休のため疲労で判断力が鈍り、安全への配慮がおろそかになってしまう。砲に弾薬が込められたまま安全確認の合図をだす、銃口管理の違反、指定されたダウンレンジ(ターゲットのいる方向)と逆を向いて発砲しようとした、などなど。木曾教艦は痛烈に非難した。

「おれも教艦として四年、2戦教をみてきたが、武器に対する危機管理、操作、断トツで最悪だ。こんなへたくそどもはみたことがない」。

 のちに、元長波は2水戦で三期下の浜波から「あ、あ、あたしのときも、最悪だ、こんな出来のわるい連中ははじめてだって、い、いわれました」と聞いた。毎年恒例らしい。

 予行演習が功を奏し、夜戦を想定した実弾の射撃訓練は成功に終わった。

 

 武装した状態でヘリからのファストロープ、輸送機からの空挺降下課程を経て、元長波たちはついに最後の日を迎えた。

 半年前に訓練をはじめた八十三隻のうち十一隻と、途中で合流した七隻の十八隻が、2戦教を卒業する。海軍大将を筆頭とした賓客と、教艦、スタッフ、親族から祝福される。「おめでとう! よくがんばったね!」。皐月助教が顔をくしゃくしゃにしながら手を差し出す。テレビの取材もきていた。当時のニュース映像に、たった数秒だが、皐月助教からもらい泣きしながら手を握る元長波の姿をみることができる。

 2水戦の徽章が授与される。六十五グラムという重量以上の重みに感無量の顔となる。

 例の神通は今期の最優秀候補生として表彰された。最高のサプライズだった。候補生と教艦たちの万雷の拍手に送られて登壇して、主賓の海軍大将からじきじきに祝辞を受けた。「きみの成長ぶりにはめざましいものがあった。すばらしいリーダーだ。いつか次代の候補生をみてくれるか」。教艦としてのスカウトだった。「ご命令いただければ」。凛々しい顔で神通は応じた。

 式典の最後に神通は候補生を代表して宿舎前の鐘をめいっぱい鳴らした。2戦教を辞めるときの鐘だ。彼女たちは卒業というかたちで2戦教を辞めるのだ。

 

 元長波はいう。

「あのころのわたしは、まだ心が半分ジャムにいた。どんなに訓練が厳しくてもどこか他人事だった。皮肉だがそのおかげで2戦教をやり抜けたんだ。でも朝霜や神通やほかのみんなは、困難に真正面から立ち向かい、克服した。本当にすごいのはあいつらだ。わたしは違う」

 

 卒業からときを置かずして2水戦に欠員がでたため、元長波や元朝霜に異動がかかり、正式に2水戦としてのキャリアをスタートさせることになる。

 2水戦では新たな出会いもあった。たとえば、いまは兵庫県市川町でゴルフクラブの鍛冶職人をしているという、磯風だった女性だ。


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