栄光の代償・元艦娘たちが語る対深海棲艦戦争(GHK出版新書)   作:蚕豆かいこ

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二十四 鶴は翔んでいく

「瑞鶴さんのことは知ってるか?」別れ際に病身を案じる言葉をかけた元磯風が、さぐるように付け足した。

「タウイタウイにいた?」元長波に元磯風が頷く。ひまわりのような笑顔がよく似合う空母艦娘の颯爽とした麗姿が鮮やかに甦る。この世の人間がみんな彼女のようだったらと願わずにはいられない女性だった。「生きて終戦を迎えたとは聞いたけど」

 元磯風の眉が曇る。「知らないのか。時間はあるか? 遠くはない。住所を教えるから、あしたにでも行くといい。先方へはわたしから連絡を入れておいてやる」

 

  ◇

 

「はい、110番、兵庫県警察です。事件ですか、事故ですか」

「事件です」

「どうされましたか」

「家庭内暴力です」

「家庭内暴力。けがはされていますか」

「母が、母の目の上から血が出てるんです。何度も殴られて」

「血が出てる。あなたは大丈夫ですか」

「はい、大丈夫です」

「場所を教えてもらえますか」

「姫路市の、――」

「――、はい、わかりました。ご住所もそこですね?」

「はい」

「いまパトカーがそちらに向かっています。救急車は必要ですか」

「たぶん」

「では救急車もこちらで手配します。殴られたのはいつですか」

「ついさっきです」

「相手はいまどこにいますか」

「二階の自分の部屋に。彼女が通報しろと。きのう、タイホされるようなことをしてやるとわめいていたんですけど、ああ、本当にこんなことをするなんて。もうわたしたちには面倒をみきれない!」

「落ち着いて。相手は武器を携帯していますか」

「いいえ、素手です。でも彼女は軍隊にいたことがあるの。艦娘だったの。だからわたしたちではとても」

「わかりました。素手での暴行で、相手はお宅の自分の部屋にいる。お宅にはあなたとお母さんと相手のほかにだれがいますか」

「それだけです」

「その三人ですね。あなたとお母さんはいまどこにいますか」

「一階のリビングです」

「おふたりとも一階のリビング。お母さんは落ち着きましたか」

「血が……」

「きれいなタオルで押さえててあげてください。もうすぐ救急車が到着します。警察がそちらに向かっていることを相手は知っていますか」

「わたしの声が聞こえてると思う」

「パトカーが到着するまでこのまま通話にしておくことはできますか」

「え?」

「そちらにパトカーが着くまで、このまま通話にしておくことはできますか」

「はい。え? お母さん、なに? ああ!」

「どうしました?」

「やめて! こないで!」

「どうしました?」

「――――」

「大丈夫ですか」

「もういや……」

「大丈夫ですか。なにがありました?」

「あの子が降りてきたの。また上がっていったわ」

「なにかされましたか」

「いいえ、なにも」

「あなたと相手との関係は」

「わたしの妹です」

 

「兵庫本部、姫路27現着」

「現着了解。マルガイと接触したということでよろしいか、どうぞ」

「これより家のなかに入り確認する。しばらく待ってもらいたい。どうぞ」

「兵庫本部了解。受傷事故等留意(かた)願いたい」

 

「姫路27から兵庫本部」

「兵庫本部、どうぞ」

「家の二階の窓から女が飛び降りてきた。対象の女にあっては、PCの上にのぼって、放尿。公妨の容疑で午後十時三十六分、緊逮。どうぞ」

 

  ◇

 

 元磯風を訪ねた翌日の朝、元長波は予定から一時外れて播但線で南に下った。携帯端末が振動する。トイレの時間だ。尿意があるわけではない。だが彼女は一定時間ごとにトイレに立つ。ただ便座に座って、なにも出ないことをたしかめ、手を洗い、また席に着く。

 

 艦娘の一ソーティーあたりの平均任務時間は四十八時間だった。作戦によっては二週間も母艦を離れて行動する。その間、排泄は海に垂れ流しか、オムツの着用で対応していた。人間がもっとも無防備になるのは排泄時だから、作業や見張りに従事しながら用を足せる工夫は重要だった。海軍のオムツはすこぶる優秀だった。大手オムツメーカーが軍むけに新開発した高級不織布の表面材は、尻を濡らすひまもなくオムツ内側へ尿を送り込み、その吸水速度は砂漠におさおさ劣らない。吸水材は二リットルもの水を呑み、ゼリー状に固まることで尿が染みだしにくく、さらに防水シートはミクロの穴が無数に開けられていて、液体は漏らさず、湿気のみを外に逃がす。伸縮材と徹底的に人体を研究して生まれた形状は、戦闘で体を激しく動かしても完全に追従し、通気性を確保しながら外漏れを防ぐ。これら多層構造がすべて生分解性の素材であるため海にそのまま投棄できる点も艦娘たちに強く支持された理由だった。ポリウレタンやポリオレフィンなどの石油製品をもちいた従来品が採用されていた時代は、環境保護の観点から、排泄物をたっぷりたくわえた使用済みオムツを母艦まで持ち帰らねばならなかったのである。

 元長波も現役時代はオムツを穿いて出撃した。

「もよおしてもいちいちトイレに行かなくていいんだ。便利だよ、たかがクソ小便のために作業を中断しなくていいんだから……。みんなそうしてたし、軍にいたころは気にならなかった。よくいうだろ、乞食と役者は三日やったらやめられないって。どちらも初日は必死だから周りが目に入らない、二日めには知り合いに見られないかびくびくする、三日めにはどうでもよくなる、そんでもってもう元の暮らしには戻れなくなる……。人間てのは、恥ずかしいと思う気持ちは三日で消えてなくなるんだ。慣れるんだよ。なにしろ周りは女しかいないし、だれもかれもがオムツ穿いてるか、立ったまま澄まし顔で海を便所がわりにしてる。慣れさえすればこれほど楽なもんはない、便所に行くのが死ぬほどわずらわしくなる」

 艦娘は砲や魚雷よりオムツを選ぶと元長波は語る。

「もし敵戦艦の砲弾で上半身を吹き飛ばされて、使命感と道義心に溢れた僚艦が下半身だけでも連れて帰って、遺骨にして、帰国後にあらためて遺族のもとを訪れたとき、母親は涙を流しながらこんなことを訊くかもしれない。“そのときあの子は、ウンチまみれのオムツなんて穿いてませんでしたよね? 真っ白なオムツのまま逝けたんですよね?”。そこで弔問の労をとってくれた僚艦にうそをつかせるわけにはいかない。彼女が胸を張って“ええ、聖母マリアでも使い回したくなるくらいきれいでしたよ”と報告できるようにしておかなくちゃいけない」

 元長波は遠い目をする。

「でも、退役して、そのままもとの生活に戻ったら、どうなるか。オムツもしてないのに、つい小便や糞を垂れ流してしまうんだ。ももが濡れてようやく気づく。そして毒づく。“ちくしょう!”。しくじるたびに、こんどこそ尿意や便意がきたら便所に行こうと自分に言い聞かせるんだが、何年も体に染み付いた習慣はなかなか治せない。つぎにもよおすときにはうっかり忘れてる。これもクソッタレTBIのせいなのかな。いやクソッタレなのはわたしか……」

 いっそ現役のときみたいにオムツを穿こうとした。家族から露骨にいやな顔をされた。「子供や年寄りでもあるまいし、恥ずかしいからやめて。わたしたちがご近所さんから笑われる」。元艦娘がいる家はよくも悪くも町中から耳目をあつめる。介護が必要な老親がいるわけでもないのに、元艦娘がたびたびドラッグストアで介護用オムツを購入している姿が目撃されれば、口さがない世間の人々はたちまちうわさの種にする。

 もともと女性は、腹圧性失禁――重いものをもったり、くしゃみをした拍子に尿漏れする――が男性にくらべて多い傾向にあるが、事態はより深刻だった。尿意を覚える暇もあらばこそ、底に穴のあいた桶のように、溜まることなくそのまま尿が流れていってしまうのである。 大便もおなじだった。

「惨めだったよ。戦地に行って、海原を縦横無尽に駆け回って、そして勝利して還ってきた艦娘ともあろう者が、一からトイレトレーニングが必要だなんて……小さな子供だってトイレに行けるっていうのにさ。わたしはそれすらできないんだ。自分で自分が信じられなかったし、腹立たしかった。どうしようもないのが余計にね」

 インターネットの通販には大いに助けられた。だれとも顔を合わさずオムツが買える。「いまは離婚届もネットのフリーマーケットで買う時代なんだとか。ああ、わかるよ。その気持ち」シートで元長波は健康な表情をつくってみせる。

 大手インターネット通信販売会社によると、介護用オムツの売れ行きは二十年前から年々右肩上がりがつづいている。この需要が本来想定されていた老人介護によるものか、元艦娘の女性たちによるものなのかは、わからないとしている。

 あるメーカーが元艦娘むけと銘打って成人女性用のオムツを販売したことがある。性能面はもちろん、ランジェリーのようにおしゃれなデザインが売りだったが、予想に反して売れ行きは伸び悩んだ。発売から三年で製造も終了となっている。

 メーカーはマーケティングを行なって需要を見込んだからこそ販売を決定したはずだった。なぜ売れなかったのだろうか。

「そんなのがあったなんてわたしは知らないけど、あったとしても遠慮してただろうな。やっぱり、顔の見えない通販でも、そりゃあ女だもの、隠れて買いたいのが本音だよ。だからわたしたち専用に作ったものよりは、いままでどおり介護用のオムツで代用したいっていう奴が多かったんじゃないかな」

 いずれにせよ、いつまでもオムツを穿き続けるわけにはいかなかった。だから元長波は、尿意も便意も知覚していなくても、決めた時間にトイレに行く。

 

  ◇

 

 姫路市に入った元長波は列車を下りる。

「わたしが知ってる瑞鶴さんは、タウイタウイで世話になったんだけど、生まれたときからリーダーだったっていわれても異論はないって人だった。艦娘だって人間だからね、口先だけの先任なんていくらでもいたさ。でもあの瑞鶴さんはいつも行動で示してた。泊地所属の艦娘じゃ最多の撃沈数を記録してて、しかも出撃のたびに更新する。これはとんでもないことなんだ。何十っていう艦載機を同時に管制する集中力。機体に付与した干渉波が弱体化する時間を見計らって帰還させ、稼動戦力を常時維持するマネジメント能力。いや、それよりなにより、戦果を稼げるほどの最前線に出張って、なお轟沈せずに何度も、何年も出撃できるほどの、ずばぬけた危機管理能力。そして気高さ。彼女は自身のスコアよりも、僚艦を全員連れて帰ることを誇りに思うっていう人でね。わたしもあまのじゃくだからさ、死んでこいってふんぞりかえってのたまうやつのいうことには逆らいたくなるけど、瑞鶴さんみたいに、絶対にだれも死なせないっていう人の下だったら、ああ、この人のためなら死んでもいいなって思っちゃうんだ」

 実力もあってその瑞鶴は殊勲のコレクターとなった。瑞鶴は、殊勲手当の賞与を独り占めせず、かならず僚艦との飲み会で散財した。「わたしひとりじゃ取れなかったんだから!」。それが瑞鶴の口癖だった。

 海軍にはいくつもの伝統がある。艦娘たちにも伝統がある。そのひとつが、年に一度だけ、旗艦は随伴艦の言いなりになるというものだった。

「いつ、だれが思いついて広めたのかわからないけどね。伝統ってそういうもんだろ。いつもは命令ばかりの旗艦と、隷属してる随伴艦の立場が逆転するんだ。日ごろの恨みとばかりに随伴艦があれ持ってこいだの肩揉めだの、くだらない、他愛のない命令を下す。旗艦はおとなしくしたがう。恨みを買ってる旗艦ほどひどい目に遭う。随伴艦もあとが怖いからあんまり無茶はいわない」

 瑞鶴率いる艦隊にもそのときがきた。伝統にのっとり、わざわざ泊地司令が部屋にきて「三、二、一、いま」と開始を宣言した。

「そんときの瑞鶴さんときたら!」元長波は目で笑う。「小間使いみたいになって、へい、へいって、雑用をてきぱきこなしてさ。わたしらのほうがむしろ恐縮して、しかも他人になにかやらせるなんて、あまり経験がないから、背中掻いてとか、煙草買ってきてとか、思いつくかぎりの使い走りさせたんだけど、すぐにネタがつきた。なのに、瑞鶴さんときたら、“さあ次は? 次は?”って顔してくるから、わたしたちが命令する側なのに“早く終わってくれ”って」

 消灯時間前、ふたたび司令がきた。「三、二、一、いま」。元長波たちは「やっと終わった」と脱力した。

「これも伝統なんだけど、終わったら随伴艦一同から旗艦へお小遣いをくれてやるのね。わたしたちも熨斗袋に包んで“ごくろう”って渡したら、“は、ありがとうございます!”って瑞鶴さんが平身低頭で押し頂いた。これで正式に逆転劇は終わり。やっかいな伝統だ」

 何ヶ月かしたのち、瑞鶴の部屋を訪ねると、神棚に熨斗袋が飾ってあったのをみつけた。「まだ使ってないんですか?」と驚いて訊くと、瑞鶴は、はにかんで笑った。「なんかもったいなくて」。そういう女性だった。

 こんなこともあった。まれにみる激戦で、海はウレコット・エッカクスのためではなく艦娘の血で赤く染まった。元長波らの艦隊も、自力航行可能だが全員が負傷しており、弾薬も底をつきた。「どうすんです?」魚雷のない元朝霜がいった。「どうするって、そりゃあ」艦載機はあるが持たせる兵装がない瑞鶴は含み笑いで返した。「逃げるしかないじゃない」。

 撤退をはじめて半日経ったころだった。小さな島のそばを抜けようとしたとき、岩陰から重巡ネ級が姿をみせた。十数メートルという至近距離だった。元長波たちは仰天した。ネ級も仰天しているようにみえた、と元長波は記憶しているが、のちに元朝霜から聞いたところでは「無表情だった」という。どちらの記憶が正しいかはわからない。とにかく元長波たちは咄嗟遭遇戦に備えた。弾がないので構えるだけだった。

 ネ級もまた、腰から生えた二本の尾をもたげ、その先端にある砲口をむけたまま、撃ってはこなかった。

 膠着が続いた。元長波は思った。こちらの残弾がないように、相手も弾切れなのではないか? 仔細に観察してみるとネ級も無傷ではなかった。

 瑞鶴が手で随伴艦を制した。元長波らは砲を下ろした。

「瑞鶴さんは、いきなりネ級に敬礼したんだ。あれほど完璧な敬礼はなかなかお目にかかれない。わたしたちもなにがなんだかわからないまま敬礼した。そのまま、ゆっくり、島から離れた。ネ級はじっとこちらをみつめてくるだけで、最後まで、攻撃してこなかった」

 小島が豆粒になると、瑞鶴は「助かった」と息を吐いた。敵前逃亡だった。瑞鶴は疲労を感じさせない、よく通る声でいった。「わたしたちはなにもみなかった。そういうことにしとこう」。元長波らは頷いた。瑞鶴は白い歯をみせた。「これでわたしたちは共犯者ね」。

 

 元長波はいう。「ああ。あの瑞鶴さんの共犯者なら、よろこんでなってやるさ」

 

 白鷺城の異称に恥じず、眺めていると雪目になりそうなほどの至純の白亜をまとった姫路城。そこからほど近い新興住宅地の一角を訪ねる。呼び鈴を押すと、待っていたかのようにひとりの女性が応対にでる。元長波は、よそゆきの表情で出迎える彼女の顔の皮一枚下に、長年にわたって蓄積された憔悴と疲弊と諦念とが、いまだに代謝されることなく汚泥となって沈殿しているのを透かし見た。自分の母親の顔とおなじだ、と元長波は思った。PTSDにさいなまれる元艦娘とひとつ屋根の下で暮らす家族は、みんなおなじ顔になる。

「瑞鶴さんにお世話になったものです」元長波はしかるべき挨拶として名乗る。

 女性も深々と頭を下げる。

「あの子の姉です。こちらこそ、妹がお世話になりまして……」鼻をすする。顔を上げるとすでに涙ぐんでいる。詫びながら元長波を家へ上げる。

「六年まえのことです。ここ数日、妹の姿をみていない……そう気づいたときには、もう遅かったのです。わたしも朝に仕事へ出て夜遅くに帰る生活ですから、妹と会わない日がつづいても、すれ違いになっているだけだろうと、あまり気にはしていませんでした」元瑞鶴の姉は訥々と語った。その声に後悔が滲んだ。「両親もおなじで……もしかしたら、あのときのわたしたちは、妹の顔もみず、怒鳴られることもない日々に心が安らいで、あの子に積極的にかかわろうとする気持ちが、もうなくなっていたのかもしれません」

 元瑞鶴の姉が当時のことを語って聞かせる。部屋の扉をノックしても返事がなかった。恐々としながら開けてみると、もぬけの殻である。まさか、という思いが頭をよぎった。妹を最後にみたのは何日まえだったかを姉と両親は話し合った。けさは妹をみたか。みていない。きのうはみたか。みていない……。三人とも、自分は近ごろ元瑞鶴をみていないが、家のだれかが一日一度くらいは妹と顔を合わせているだろうと、とくに根拠もなく考えていた。しかし話を突き合わせてみると、どうやら八日前の日曜に父が深夜にトイレに立ったさい、通りがかったリビングキッチンで元瑞鶴が電灯も点けずに冷蔵庫を漁っていたところを目撃したのが最後らしかった。そのときはとくに声もかけなかった。元瑞鶴はぎくりと振り返って、トイレへ通じるアコーディオンカーテンを開ける父を、冷蔵庫の室内灯を頼りにじっとみつめていたが、やがて「なんで怒らないの」とひどく掠れた声で呟いたという。父はなにも答えずにトイレに入った。用を足して出たとき、リビングに元瑞鶴の姿はなかった。その日が日曜であることを父はよく覚えていた。母の声はおののいた。「きょうは月曜よね、それはゆうべのことじゃないわよね」。先週の日曜だった。それで八日ものあいだだれも元瑞鶴の所在を知らなかったことがあきらかになって、家は静かな騒ぎとなった。

「心当たりのあるところへはすべて電話をかけました。市川の磯風だったかたにも……」元瑞鶴の姉は弱々しく首を横に振った。「妹はどこにもいませんでした。まるで最初からどこにもいなかったかのように、彼女は忽然と、かき消えてしまっていたのです」

 いつ家を出ていったのかもわからない。日記も書き置きもなく、SNSもしていないから、足跡をたどろうにも手がかりがなかった。それでも発覚してから何日か、鶴首(かくしゅ)して帰りを待ったが、元瑞鶴は姿をみせないばかりか、どこからもなんの連絡もない。それが六年と三ヶ月経ったいまも続いている。年老いた父母は娘の安否をたしかめることすら叶わないまま失意のうちにこの世を去った。伽藍のように広く感じられるようになった家で、元瑞鶴の姉だけが、たったひとりで妹の帰りを待ちわびている。家と土地は持っているだけで負担になる。金銭的にはやはり厳しいという。ひとりで暮らすなら売却してアパートにでも居を移したほうが賢明だと知人たちにも助言された。しかし彼女は、できるかぎりはいまの家で待つと譲らなかった。

「だって、この家があの子の帰ってくる場所であるはずなんです。知らない土地で生きていくのに疲れた妹が、帰る家をもとめて、ふらりとここへ戻ってきたとき、なにもない更地になっていたり、別の家が建って、別の家族が住んでいたら、とても悲しむと思うから」

 元瑞鶴の姉は話した。

「妹は正義感の強い子でした。家に女はふたりもいらない、お姉ちゃんはお父さんとお母さんをお願いね。そういって軍に志願したんです。艦娘学校へ行く前日には写真屋さんで遺影を撮影しました。でもあの子ったら、シャッターを切られるときに、まるで記念撮影みたいに弾けんばかりの笑顔になって、ピースサインまで振りかざして。そんなうれしそうな遺影があるかって父は呆れたんですが、あの子はそれを額に入れるといって聞きませんでした。“お葬式なんて辛気くさいに決まってるんだから、遺影は明るい顔のほうがいいの!”と。箱にしまった遺影を、妹は“わたしの代わりだと思ってね”と父に手渡しました。わたしたち三人は涙が溢れてくるのを止めようもありませんでした。まだ死ぬと決まったわけではないのだからと、かえって妹になだめられるかたちになって……」

 まさにわたしの知っているあの瑞鶴だ、と元長波は写真屋での感涙を誘うひとコマを容易に想像することができた。

 はたして遺影を使わなくてすむ僥幸(ぎょうこう)に恵まれた。だが終戦の翌年に帰国し、艦娘でも海軍でもなくなった元瑞鶴を迎えに行った姉は、ほかの帰還者たちとともにタラップを降りてくる妹をみて、こう思った。「どくろみたいだわ」。

 ふたたび家族の一員となった元瑞鶴は、退役前に取得していた資格――軍隊でしか通用しないMOSや、退役したと同時に失効する特例資格などではない、ちゃんと社会で役に立つ資格――を活かして神戸の損害保険会社に再就職した。第二の人生が開けると家族は信じて疑わなかった。戦争が楽しい記憶ばかりであるはずがない。だが、妹ならその泥の堆積物からでも今後の人生の役に立つ黄金をみつけることができるはずだ。国民として最高の義務を完全に遂行し、生きて戦争の終わった時代を歩む果実を手に入れた彼女には、それを何者にも邪魔されることなくまるごとほお張る権利があった。前途は洋々とひらけているはずだった。しかし、

「ある日、会社から電話がきました。妹が何日も無断欠勤していると。母は驚いて悲鳴をあげたそうです。話をきいたわたしもびっくりしました。だって、妹は毎日、ちゃんと出勤していたんです」

 元瑞鶴は、会社に行くふりをして、夜までどこかで時間を潰し、出勤をよそおっていたのだった。

「妹が帰ってくるなり父は妹を怒鳴りつけました。どこでなにをしているのかと。妹はうなだれて、しばらく黙っていました。母は泣いていました、“どうしてなの”と。父に問い詰められて、妹はようやくぽつぽつと話しはじめました」

 

 救国の英雄として鳴り物入りで入社した会社だったが、持ち前の明るさと艦隊旗艦や教導部隊長など要職を歴任した経歴を買われて配属された営業部で、元瑞鶴は思ったように成果を挙げられなかった。当時三十三歳だった。三十路過ぎの新入社員はただでさえ扱いにくい。しかも同業種でキャリアを積んで転職してきたというわけでもない、能力面では新卒同然の、年齢ばかりを重ねた三十三歳だ。それでも軍隊出身だから、上司には絶対服従、与えられた仕事はかならずやり遂げるものと会社は期待していたらしい。しかし三十三歳の元瑞鶴にとって先輩や直属の上司は年下になる。互いが距離を測りかねた。民間で働いてきた彼らと、軍以外の世界を知らずに生きてきた元瑞鶴とでは話題も合わなかった。

 職場の仲間だけでなく、取引相手からもよく注意が会社に入れられた。「おたくの営業担当は世間話ができない」。軍事や飛行機など、自分が興味のある情報なら延々と話すが、それ以外の話題が非常に乏しい。なにが取引先との商談におけるとっかかりになるかわからないから興味のない分野でもとりあえず片っぱしから頭に入れておく、という意識に欠ける。商売では商品のスペックは二の次だ。まず会社の顔となる営業担当者が顧客に気に入られなければ商品をみてももらえない。

 一緒に食事をしながら会話をして取引相手との距離を縮めることもできなかった。食事を五分ですませる軍隊の陋習(ろうしゅう)から、元瑞鶴もまた解放されることはなかった。

 仕事を一から教え込まなければならず、職場では仲間との折り合いがつかない、営業成績も最底辺――元瑞鶴は社内で孤立を深めていった。

 ある日、元瑞鶴は、出社しようとして、会社の前で足がすくんでしまい、どうしてもエントランスをくぐることができなかったという。雑踏にまぎれて行きつ戻りつしているうち、始業時刻が過ぎた。元瑞鶴はパニックになった。逃げ出した。知らない町を当てもなく彷徨した。昼になった。いまさら出社などできない……元瑞鶴は、大阪湾で寄せては返す波をぼうっと眺めて夕刻まで過ごした。会社帰りのサラリーマンたちに混じって帰宅した。家に会社から電話がきていないか怯えながら。

 いちど無断欠勤を犯した以上、もはや出勤などできようはずもなかった。マリアナやサマールの死闘にも一歩も退かなかったのに、自分の失態を責め立てるであろうものたちが待ち構えている職場に針路をとる勇気は、どこをさがしてもみつからない。しかも悪意からのいじめを受けているというわけでもなく、譴責される原因はほかならぬ自分の過失と不甲斐なさにあることが、元瑞鶴をさらに追い詰めた。逃げ場がない。翌日は暗憺たる心持ちで駅に行った。永遠に駅に着かなければいいと本心から願った。改札に入ろうとしたとき、急にはげしい腹痛に襲われた。人ごみをかきわけてトイレに駆け込んだ。PT小鬼群が腹のなかに入り込んで腸を好き勝手に食い荒らしているような痛み。水のような下痢はいつまでも治まる気配をみせなかった。こもっているうちに発車ベルが響いた。出勤時刻に間に合う最後の電車だった。声を聞かれないよう流水音の擬音装置を働かせながら、元瑞鶴は忍び泣いた。

 混雑する時間帯が過ぎ、うそのように閑散としたホームで元瑞鶴は目を腫らしたまま、ベンチに腰を沈めてただ虚空をみつめた。どれほどの時間そうしていたか、「先輩? 瑞鶴先輩ではないですか?」という声でようやくわれに返った。

「やっぱり先輩。お久しぶりです」。終戦の数年前に正規空母として元瑞鶴の艦隊へ配備され、彼女が手ずから面倒をみて鍛え上げた元加賀だった。その元加賀は幼少のみぎり、両親の無理心中にきょうだいともども巻き込まれて、ただひとり死に損なった。軍に入ってからも他人に心を閉ざしたままだった。そんな自分の闇を照らしたのはあなたという太陽だったと、元加賀は声を感激で震わせた。「あなたにはたいへんお世話になりました、言葉ではいいつくせないほど。あなたはわたしのために本気で怒って、涙を流して、そしてわたしなんかを仲間と認めてくださった。いまのわたしがあるのは、すべてあなたのおかげなんです」。投げかけられる感謝は元瑞鶴には刃に等しかった。元加賀は旧情を温めるべくすこぶる饒舌になっていた。「むかしのわたししか知らない人に会うと、びっくりされるんですよ、あんなに無口で仏頂面だったのにって」。そんな元加賀に元瑞鶴は生返事をするのがようようだった。

「先輩は、いまどちらでお仕事を?」。元瑞鶴が平静をよそおいつつ社名を告げると、元加賀は手を叩いた。「大手じゃないですか。さすが先輩」。

 そういう元加賀も、いま会社員として忙しい日々を送っているとのことだった。「朝から晩まで馬車馬みたいに働かされてます。あれもこれもみんなやらなくちゃいけない。でも結果を出せればきちんと評価されますし、達成感もある。戦争を生き抜いたことも自信につながっています。さきごろはわたしの出した企画が通って、言い出しっぺということで、プロジェクトリーダーまで任されてしまいまして。いまもそれで提携先と打ち合わせに行くところです。まるで飛脚みたいに行ったり来たりですよ」。元加賀はわざと疲れた表情をしてみせた。充実感のある疲労だった。ホームに電車が入ってきた。「先輩も外回りですか? まさか、いまから出勤ではないでしょう?」。元加賀は軽い冗談だという顔でいった。元瑞鶴は自分の心が重油のようなもので黒く塗りつぶされるのがはっきりわかった。

「ごめん、わたし急ぐから」。耐えられなくなった元瑞鶴は、会社とは反対の方向へむかう電車に逃げるように飛び乗った。走り出した車内で乗客の目も気にせず歔欷(きょき)した。また夜になるまで海で波の数をかぞえながら時間を浪費した。

 いつまでも無断欠勤する毎日が続くはずもないとはわかっていた。だが、どうしようもなかった。

 

 元長波は信じられない気持ちで聞いていた。あの美しく、はつらつとして、正確無比な戦局眼で作戦を運び、艦隊を強力に牽引し、だれからも愛される艦娘だったあの瑞鶴の英姿からは、にわかには信じがたい話だった。元長波は、公園のベンチに腰かけて母親の持たせてくれた弁当をひとりぼっちで食べている元瑞鶴を想像した。惨めさに泣きながら箸を進めていたかもしれない。

 多数の艦載機を同時に操る技能も、五分で食事を終わらせる早食いの特技も、手旗信号をすばやく読み取る技術も、保険会社ではなんの役にも立たなかった。何年も地道に訓練と実戦で鍛えてきた自負を粉々に打ち砕かれたにちがいない。元長波はわが身に重ね合わせながら思った。創造性をもとめられ、ミスをしない以上の成果を挙げ、口は出すが金は出さない物分かりの悪い客に頭を下げる仕事は、ある種の退役艦娘には耐え難い。

「それなら、もっと自分に合う部署に転属を願い出るとか、いっそ転職でもすればよかったのに……せめてわたしたちに相談でもしてくれたら」

「できなかったんでしょうね」元長波は自身の体験を交えて答える。「自分がPTSDを患ってるなんて、認めたくないんです。言葉にすれば認めたことになる。自分は頭の病気なんだという、つらい現実を受け入れなければならなくなる」

「PTSDって、そんなに恥ずかしいことなんですか? 病気なんですから向き合わないと治らないのでは」

 元長波は悲しい顔をする。

「敵から受けた名誉の負傷でもない心の傷なんてものを、戦争が終わったのにいつまでもひきずっている、しかも強くあれと徹底的に教育された艦娘が。屈辱です。だから自分は病気じゃないと言い張る。それで適切な治療も受けられず、ますます症状が重くなる」

 病気は病気でもがんなら病院へ行く。わかりやすい病変がある。PTSDやTBIは自分でも認めたくはない。外傷も出血もないから周囲の理解を得がたいと理解している。いつまでも仕事を覚えないとか、物忘れが激しいとか、遅刻が多いとかいった、ただのだらしなさを病気のせいにしているだけだ、とみんなに思われるのではないか……そんな不安が拭えない。「え? 取引先との会合をすっぽかした? ごめんなさい、わたしTBIで記憶が抜け落ちることがあるの。わたしのせいじゃなくて、戦争のせいだから、わたしを責めないでね」。そう平然といってのけることができればどんなに楽だろう。そして元瑞鶴は言い訳を自分に許す女性ではなかった。

 

 退職した元瑞鶴は自宅で静養に専念することになった。とにかく心と体を休ませるべきと家族は考えた。元瑞鶴の好きにさせた。彼女には時間が必要なのだと。元瑞鶴はある日、川の水面を歩いて渡ろうとして溺れかけた。火にかけたやかんの蓋がカタカタと音をたてると悲鳴をあげてテーブルをひっくりかえした。なにを話すにも断定形と命令形だった。ウォッカの一・五リットルのびんを一日で空けるほど酒に溺れた。いつまでもオムツがとれなかった。

 昼夜の区別がつきにくくなって、不眠と過眠の両方に悩まされた。元瑞鶴は現役だったころ新機軸となる夜間航空攻撃システムの運用試験でテストベッドとして参加していた時期があった。当然のことながら任務は夜間に集中した。長期間の昼夜逆転生活が鬱病と概日リズム睡眠障害を引き起こしたのかもしれない。元長波はそう推量した。

 朝はみんなで食事をしようね。家族は元瑞鶴と約束した。規則正しい生活が回復への一歩だと考えたからだ。元瑞鶴も最初はいわれたとおりにした。だが、鎮痛剤、抗鬱剤、抗不安薬、過覚醒を抑える薬、幻聴を抑える薬、睡眠剤、抗悪夢薬、気分安定薬、抗精神病薬など、服用する薬の種類と数が増えるにつれて、朝起きるのも困難になっていった。

「十二時間寝ても目を覚ましていられないとか?」

「そういってました。どうしてそれを?」

 夜戦を主たる任務としていた元長波は弱々しく肩をすくめる。「わたしもそうだから」

 いつまでも元瑞鶴の調子は改善をみなかった。むしろ悪化しているようだった。部屋だけは不気味なほどいつも片付いていた。それを家族にも強いた。父親がリビングのテーブルで新聞を読んでいた。飲み物をとりに席を立った。テーブルには新聞が広げられ、椅子は引かれたままだった。そこへ元瑞鶴が二階から降りてきた。「どうしてよ」見るなり元瑞鶴は怒鳴った。「どうしてそのまんまにしとくのよ。信じられない」。わめいた。叫んだ。手がつけられなかった。

 元瑞鶴は海軍転換艦隊総合施設を受診しなかった。姉は妹の反対を押し切ってでも施設に行かせるべきだったと後悔している。どの段階で施設に相談すればよかったのだろう。軍の報告書に書かれてあったように「利発で、外交的、礼儀正しく、愛国者で、よく働き、優しくて真面目な、義務感に溢れる女性」だった妹が艦娘になると宣言したときだろうか。戦争に行く前、とびきりの笑顔を収めた遺影を撮影した日だろうか。戦争が終わって、解体されて帰郷し、シーツにしわのひとつも許さないほど潔癖になって、社会復帰に失敗したときだろうか。それとも、泥酔して家族に暴行した夜、通報を受けて駆けつけたパトカーの屋根にのぼって、小便をしたときだろうか。 

 

「妹は家族の自慢です。贔屓目でしょうが、りっぱな子です」元瑞鶴の姉は、これまで何度も何人もの人間にいってきたことを元長波にも主張する。「二度と帰れないかもしれないのに、自ら望んで海に行ったのです。だから、生きて帰ってきたときは、心の底からうれしかった。これからはきっと素敵な毎日があの子を待っているんだろうって、信じて疑いませんでした。軍へ行って別人みたいになってしまった艦娘のかたがいるとは聞いていましたし、事前に海軍から送られてきたパンフレットにも“辛抱強く見守ってあげてください”って書いてありましたけど、妹にかぎってそんなことはないと……。けれど、そのとおりだった。わたしたちも、たぶんあの子本人も、絶対に認めたくなかったけど、妹は壊れてたのよ……」

 壊れてた。元長波もおなじだった。「教えてくれ。わたしはどうしちまったんだ」と頼った元朝霜は、まず防衛省の外局で死傷艦娘に関する行政が所掌の退役艦娘庁に連絡し、回された死傷艦娘支援局に説明して、元長波にそこへ行けといった。理解できなかった。死んでもいないし、傷もないのに。「いいから行くぞ」。元朝霜が付き添ってくれた。戦闘ストレスと書かれたプレートの部屋で、すべてにあてはまる精神科医の問診を受けながら、元朝霜は間違っていなかったと彼女は理解した。壊れていた。死んでいた。

「わたしたちは、なにがなんでも妹をサポートしようとしました。きっとたいへんなことがあったんだろう、せめてこの家は妹が安心して心の傷を癒せる場所にしないとって。でも」

 姉は迷いながらも続けた。

「何日も、何日も、とくに職を辞めてから、あの子の様子はひどくなるばかり。つらかったのはわかるけど、もういい加減にしてよっていうのがわたしの本心でした。戦争が終わってもう何年も経つのに、いつまで引きずってるのよって。いつあの子に怒られるか、わたしたちはいつもびくびくと……でもいつかは、むかしのあの子に戻ってくれるものと」

  両親に、既婚者なら夫に、軍は「思いやりをもって接してあげてください」と忠告した。「焦らないで」とも。艦娘として戦地に赴いて奇跡的に生きて帰ってきた彼女たちを深く愛していた者たちほど、それを忠実に守った。ベッドのシーツがほんのちょっとしわになっているだけでわめきちらされ、「あんたは最低の出来損ないだ。ちゃんと赤い血が流れてるかどうか、その不恰好な鼻をへし折ってたしかめてあげようか」と罵られ、髪をひっつかまれて床に顔を押しつけられても、必死に耐えた。いつかもとに戻ってくれるはず。そう信じていた。だって、軍は「きっと大丈夫」と約束してくれたのだから。彼らは健気だった。

 元瑞鶴は感情をコントロールできなくなっていた、と姉はいう。気分にむらがあり、こみ上げてくる怒りをどうにもできず、ちょっとしたことで感情が爆発した。深夜でもおかまいなしだった。意味をなさない叫び声をあげて地団駄を踏んだ。

「戦地であの子になにがあったのか」、それを元瑞鶴は明かそうとしなかった。「話せば少しは楽になれるかもしれないわ。お願い、話して。わたしたち、たったふたりの姉妹じゃない」。落ち着いているときに訊いた。

 すると元瑞鶴はウォッカの注がれたグラスを離さず訊き返した。「お姉ちゃんは艦娘に志願した?」。

 姉は答えた。「いいえ」。元瑞鶴が海軍にいたころ姉は大学へ進学していた。

「じゃあ、姉妹じゃない」。元瑞鶴は姉のほうに目もくれずに暗い声でいった。

「どうして?」「艦娘の姉妹は艦娘だけよ。おなじ訓練を耐えて、お互い戦場で命を預けあった。固い絆で結ばれてた」。元瑞鶴は断言した。「わたしの姉は翔鶴姉だけだよ。たとえそれがわたしの会ったことのない翔鶴姉でもね」。姉はそれ以上なにもいえなかった。

 

「艦娘の結びつきは、そんなに強いものなんでしょうか」

 元瑞鶴の姉が元長波に尋ねる。理解したいという真摯な面持ちがある。

「たとえばわたしは駆逐艦でした。艦隊行動中の駆逐艦の仕事は、対水上と対潜警戒です。横方向と、水平線より下の海を見張るわけです」元長波が身振りを加えて説明する。「空母は艦載機をつかって空を見張ります。進行方向に索敵機を飛ばして、水上と空中に敵がいないかたしかめる。駆逐艦は基本的に目線より下を注視します。空から敵機に爆弾でも落とされたらひとたまりもありません。でも絶対に上はみない。その瞬間にこっちが敵潜や雷跡を見落とすかもしれないから。信じるんです、空母や対空警戒に割り当てられてる仲間を。彼女たちもわたしを信じてる。空母は艦載機から送られてくる映像をモニターしてなきゃいけないし、防空艦は空から目が離せない。足元ががら空きなわけです。互いが互いの仕事を完全に果たしてるって信じているからこそ、わたしたちは自分の仕事に集中できる」

 逆に空母に足元を気にされることは駆逐艦にとって最大の屈辱とされる。元瑞鶴が空と空中投影型ディスプレイの艦載機映像から目を離すことは一度たりともなかった。元長波はその事実が自宅の靴の箱に詰め込んである負傷勲章すべてよりも価値のある勲章だと思っている。元長波にとって元瑞鶴とはそういう女性だった。

 

「日常生活ではそんな仲間はなかなかできないでしょう」元長波は言葉をえらんだ。「もう無理だと思った局面を共に乗り切ったときの高揚感は言葉にできません。汗まみれ、血まみれ、油まみれの体で仲間と抱き合って泣きながら迎えた夜明けは、最高に美しかった。――生きている。そのよろこびを分かち合う戦友がいるってことは、これ以上ないほどの幸せです。その感動を知っている人間にとって、戦後の日常が味気ないものに思えることは否定できません」

「戦争のない、安穏とした時代の人間関係が、薄っぺらいとか、うわべだけにしか思えないということですか?」

「そう受け取ることも可能です」

「あなたもそうでしたか?」

「くらべてしまうことは、しばしば」元長波は正直に告白した。

「妹もそうだったのでしょうか」

 一般社会で築いた関係がまがいものにみえたのかもしれない。血をわけた家族でさえ戦地の仲間に劣ると思ってしまったのかもしれない。

「でも、あの子は帰ってきたときから、すでに別人だったの」

 

 何年かぶりの帰国と再会でも、妹には、彼女と不可分だったはずの笑顔はなかった。食卓に置く調味料の向きまでそろえるようになっていた。夜中に部屋からすさまじい絶叫が響くことがたびたびあった。最初にそれがあったのは? 帰還した初日の夜だ。「ごめんなさい、ごめんなさい」と、ひとりしかいないはずの部屋で何度も繰り返していた。戦後に馴染めなかったことだけが元瑞鶴を失踪に追いやった原因ではない。やはり戦地でなにかがあり、それが妹を変えたのではないか。姉はそう推論を述べた。

「だとしたら、あの優しくて愛される妹に、なにがあったのか」

 軍隊に行かなかった姉には知りようもない。

「わたしが知っている瑞鶴さんは、おそらくあなたがご存知の妹さんそのものだったと思います」元長波も推し量る。「わたしが転属になったあと、終戦までのあいだに、なにかがあったんでしょうね」

「いったい、なにがあったのでしょう」

「わたしの経験からでしか申し上げることはできませんが」

 前置きする元長波に、元瑞鶴の姉は、それでもいいから考えをきかせてほしいと懇願した。

「なにか戦闘ストレスになるような出来事があったとして、それ自体は、じつはたいしたことではなかったかもしれません」

「どういうことですか」

「心っていうのは、体とおなじで、傷がつくと血を流すんです」元長波は自分の心臓あたりを指差す。「流れた血を受け止める器があります。その大きさには個人差がある。家族ともいえる僚艦が目の前で沈む。心の傷になる。血が流れる。最初の一回で器がいっぱいになる艦娘もいる。何回か経験しても溢れない艦娘もいる。その違いがどうして生まれるかはわかりません」両手で杯を象る。「妹さんの器はとても大きかったのだと思います。だから僚艦の轟沈を目の当たりにしても、本人ですら自身の出血に気づかなかった。いくつもの死をみつめてきたタフな艦娘だから大丈夫と本人も周りも思ってたはずです。でも、身近な人間の死なんて慣れるものではありません、まともな人間ならね。ただ傷が増えるだけです。最後の最後、それまで何度も経験したはずの随伴艦の轟沈で、そのこと自体は心の血を一滴垂らすだけだったかもしれませんが、すでに溢れんばかりだった器が限界を超えて、ついにこぼれてしまった。ちょうど、コップになみなみと水を満たして、表面張力でなんとかもちこたえてる状態のときに、ひとしずくでも垂らすと一気に溢れて流れ出てしまうように」杯を模していた手が解かれる。元瑞鶴の姉は、溜まっていた血が流れ落ちて床に跳ねるさまを幻視している。

「こうなった艦娘は、もう二度と海に立てません。今度は自分が沈む番だという確信にとり憑かれるんです。もし戦時中だったら泊地やキャンプの救護所で精神医に診断を下してもらって、後方へ送られていたでしょう。でも、おそらく、ちょうどそのときに終戦になった。正確には、もう深海棲艦の大規模な攻勢はないと世界が認めたから終戦宣言がなされたんですが、つまり、もう正規空母の出番はないという時局になっていたんです」

 

 日本海軍においても終戦の十ヶ月前から正規空母および戦艦の出撃数は激減していた。公式記録では日本の正規空母最後の出撃は終戦六ヶ月前、横須賀所属の三個独立混成海上旅団によるものだ。しかもこれは純粋な敵邀撃のためではなく、威光ある艦隊の掉尾(とうび)を飾るための、半ばデモンストレーションの意味が大きかったといわれている。

 

「正規空母は優先的に解体されました。妹さんは心の器が血まみれになっていることに気づく前に解体されたのかも。軍から民間への転換で忙殺されて、自分がどんな状態にあるのか自覚できないまま、またしかるべき機関が彼女の精神の問題を認識するひまもないまま、除隊となってしまったのではないでしょうか」

 

 すべては憶測でしかない。円満な第二の人生を歩めない元艦娘がいることの理由は軍もいまだ答えを見出せていない。外傷性脳損傷が元艦娘に与える影響について研究している医師たちは、三度の海外派兵ののち隊舎で自殺したある艦娘の検死解剖で報告書にこう書いている――解剖の結果、脳変性疾患が原因で記憶障害、混乱、鬱、妄想、衝動的行動などが起きるようになったという証拠が発見された。

 脳変性疾患は、脳に絶えず衝撃を受けるボクサーやサッカー選手などのスポーツ選手にもみられる。爆弾で繰り返し衝撃を受けてきた艦娘が社会に復帰できなかったり自殺する理由はこれなのだろうか。PTSDではなく、物理的に脳を襲い、理性と自制心を奪う病気のせいなのか? いずれにせよ毎月東京で開かれる海軍自殺防止調査会議を構成する将校たちは、だれもがおなじ疑問にぶつかることになる。なぜ、おなじ戦闘を経験して、市民生活にすんなり移行できる元艦娘がいる一方で、自暴自棄になってあまつさえ自ら命を絶つ元艦娘がいるのだろうか。

 軍は自殺する艦娘の共通点を探そうとしている。現役のうちに自殺する艦娘もいれば、除隊後に自殺する元艦娘もいる。元駆逐艦だったものもいれば、元戦艦だったものもいる。PTSDと診断されていた艦娘もいるが、そうでない艦娘もいる。精神衛生の治療を一度も受けていなかった艦娘もいたが、自殺艦娘のうち半数以上は治療を受けていた。はっきりした要素は頼りないほどわずかな点ばかりだった。海外派兵の回数が多いほど自殺しやすい。おなじ回数なら短期間に集中しているほうが自殺しやすい。既婚者は未婚にくらべ自殺しにくい。至近弾を経験した艦娘で、寝る前に自分の体験をだれかに話した艦娘のほうが、話さなかった艦娘よりもストレスが軽減されている。しかし、いくら自殺艦娘の事情を文面にしたところで、パターンがわかるわけではなく、パターンがわかったところで、効果的な治療法がわかるわけではない。寄生生物を移植する適合手術に原因があるのか。ホーミングゴーストが関係しているのか。個人の資質ではなく、女性を兵士として戦地へ大量に動員する対深海棲艦戦争という、歴史上前例のないタイプの戦争が問題なのか。調査はいまだ中間報告の域を出ていない。

 

 海軍には海軍の報告書がある。元瑞鶴の姉には彼女の報告書がある。「どくろみたい」になった妹が帰ってきてから姿を消すまでのあいだ、生活をともにした記録だ。海軍の報告書は正式な書面で公文書管理法第六条に基づいた方法で保管されている。元瑞鶴の姉の報告書は携帯電話で作成され彼女のパソコンのフォルダに保管されている。妹が帰国してから事態は悪化しつづけ、姉は家で起きていることをつぶさに記録しておきたくなった。携帯端末で打たれた文章は、元瑞鶴の精神崩壊の記録となった。

 

 六月三十日。「無断欠勤を重ねた妹が退職した。その次の日、仕事が休みだった父が甲子園の地方大会の中継で母校の試合を途中から観戦していると、妹が自室で家中に響く大声で悲鳴を上げて暴れた。試合終了のサイレンに反応したらしい」

 七月五日。「家を出ると玄関先にゴミ袋がいくつもあった。中身は妹の集めていた模型ばかりだった。模型はどれも粉々に壊されていた」

 十二月十一日。「妹は一時間以上も水道で手を洗っている」

 一月五日。「トイレで妹が嘔吐している。過食症かもしれない」

 三月二十日。「脱衣所に歯が落ちていた。父も母も自分のではないという。歯はぼろぼろだった」

 四月二十八日。「妹と父が大喧嘩をした。妹は父の髪をつかみ、床におしつけ、怒鳴りまくった。父でさえ軍隊だった妹には勝てない」

 九月三日。「妹はこのところ一睡もしていないらしい。新聞配達や郵便配達がこの家を監視しているといいだした。あいつらは深海棲艦とグルになってる、と爪を噛んでいる。夜中、わたしたちが寝静まっているとき、大声で叩き起こされた。この家には盗聴器が仕掛けられていると。深海棲艦に盗聴されているといって聞かない。自分の部屋へ帰っていった。わたしたちは呆然としたまま取り残された」

 九月十七日。「妹がゴミを漁っていた。リサイクルできるものは選り分けて、できるだけゴミの量を減らさなければならない、やつらがゴミから情報を集めているからだ、という。やつらが銀行口座とクレジットカードの使用歴を調べているから買い物は現金でするようにと命令された。彼女は自分の通帳やキャッシュカードもハサミで細切れにしていた。こんなとき翔鶴姉がいてくれれば、と何度も口にする。あなたの姉はここにいるのに」

 十一月一日。「妹は完全に昼夜が逆転している。艦娘の軍縮はとんでもない大失敗だった、政府が深海棲艦とつながっているんだ、地球侵略に邪魔な艦娘を排除するためにやつらは政府と接触したんだ、政治家はみんな売国奴だ、姫路と豊富(とよとみ)の変電所は隠れ蓑だ、あそこから艦娘をオカシクする電波が出されてる、だからわたしはこんなことになってる、でもまだこれは序の口だ、オカシクする電波はまだ実験段階で、いずれはあんたたちのような艦娘にならなかった人間にも作用させられるようになる、あんたたちはわたしをきちがいだと思っているんだろうけど、近いうちにみんながこうなる、やつらは世界中の人間をきちがいにするつもりだ、そのほうが侵略しやすいからだ、というようなことばかり話している」

 十二月五日。「妹が、ゆうべ、太平洋の海底でたいへんなことが起こった、という。わたしのなかにわずかに残っている寄生虫の因子ではっきり感じたと。深海棲艦が新たな軍団をつくった、もうすぐ本当になにもかもがトンデモナイことになる、盗聴器の線を切った、といった。それは家の固定電話の電話線だった」

 三月二十四日。「妹がわめきちらしている。逮捕されるようなことをしてやる、といった」

 三月二十五日。「母のなにげないひと言が癇に障ったらしい妹が、母を何度も殴った。血が出た。死にたくなければ通報しろと妹がいう。警察も深海棲艦の仲間だから、元艦娘が事件を起こしたと聞けばすっとんでくるはずだ、それでわかると。通報した。パトカーが何台もきた。妹は二階の窓から、やっぱり深海棲艦だ、と叫んだ。飛び降りてパトカーの一台にのぼり、そこでおしっこをした。妹は逮捕された。警官がわたしに、妹さんは精神病にかかっているか、と尋ねた。わたしは、その疑いがあるだけと答えた。わたしたちは被害届を出さなかった。公務執行妨害だったが検察も不起訴にした」

 こういったことが逮捕と釈放のあとも十一年と五ヶ月つづいて、元瑞鶴は失踪した。

 

 壁の不自然な高さにカレンダーがかけられている。元瑞鶴が怒りに任せて殴ったくぼみがあるからだ。リビングの床には抉れたような傷がある。沸騰したやかんの音に怯えた元瑞鶴がテーブルをひっくり返したからだ。勝手口のガラスはいまもガムテープで目張りがされている。元瑞鶴がつかんで放り投げた自分の遺影の額縁で割れたからだ。

「彼女の部屋をみせてもらっても?」

 姉は承諾して二階へ案内した。

「あの子がいなくなってから、そのままにしてあるんです」先導して階段を昇る姉の言葉に、元長波は、いつか元瑞鶴が帰ってくる日のために手をつけていないのだと思った。

 奥の部屋を開けた。姉に断ってから足を踏み入れた元長波は言葉を失う。フローリングの部屋には、隅に置かれたゴミ箱とベッド以外、なにもなかった。テレビも、机も、パソコンも、姿見も、本棚も、ポスターの類いも、なにひとつない。軍で何度か入れられた営倉に似ているが、これが懲罰房ではなく、個人の趣味とプライベートに満たされていてしかるべき私室であるということが、なによりも異様だった。人間の住む空間とは思えない。ある意味でグロテスクな光景に、元長波は眩暈すら覚えた。

「ここは妹がいなくなる前からこうなっていました」行方をくらます前に身辺を整理したのだろうか、という元長波の希望的観測に近い疑問を見透かしたように元瑞鶴の姉がいった。「もともとはもっといろんなものがあったんです。軍に行く前から飛行機や軍艦の模型が大好きで、よくつくっては飾っていました。ところが、そう、会社を辞めたあとから、どんどん捨てはじめて……」

「辞めてから失踪するまでは?」

「十三年になるでしょうか」

 元瑞鶴は退職してすぐ携帯電話も解約したという。十三年ものあいだ外界から隔絶され、壁と床と天井しかないこの殺風景な虚無の地獄で、どうやって過ごしていたのだろう。難問に逢着すると同時に、姉が元瑞鶴の部屋に手をつけていないといった意味がようやくわかった。たしかに私物らしい私物がないのでは片付けようもない。

 広漠(こうばく)な海を当てもなく泳ぐようにさまよっていた目が、ふとクロゼットに止まった。

「開けてみても?」

 どうぞ、と促され、元長波は壁にもたれかかりながらクロゼットまで歩き、折れ戸を引いた。襟にファーのあるモスグリーンのブルゾンが一着、ハンガーにかけられている。ほかにはなにひとつない。「夏物も冬物も、大方持っていったみたいです。だから、いっときの気まぐれや出来心ではなく、覚悟の家出ではないかと父はいっていました」姉の話を背中で聞いていた元長波は、もう一度承諾を得てからブルゾンのポケットをさぐった。紙製の箱があった。板チョコほどの大きさで、パッケージには英語の商品名や内容量が無機質に並んでいる。

「わたしたちもそれをみつけましたが、中は空っぽでしたし、なんの箱かもわからなかったので、ポケットへ戻したんです」

 元長波は英文の成分表示に目を通す。「モクロベミドですね。服用薬です」

「どういうお薬なんでしょうか」

「抗鬱剤です、しかも重度の鬱病患者が使う。とても効き目が強い。鬱だけじゃなく、慢性的な疲労感や、社会不安にも効果が」

「社会不安?」

「人前でなにかをする、たとえば、取引先と話をするとか、レストランで食事するとかが、異常に怖い。不特定多数の面前でスピーチなんて死に勝るでしょうね。単なるあがり症じゃなくて、緊張しすぎて全身が震えたり、はげしい動悸があったり、嘔吐したり、身体的な症状がでる」

 

 説明しながら元長波は、あの瑞鶴だった社交的な女性がモクロベミドを有効成分とする抗鬱剤を服用していた事実が受け止めきれずにいた。空母は戦艦や重巡同様、艦隊の旗艦を務めることが多いため、ただの一戦力としてだけでなく、艦娘大学校にて随伴艦を指揮するリーダーの教育も受ける。艦娘大学では朝礼時に五分間講話と呼ばれるスピーチがある。日替わりで各艦があらかじめ定められていたテーマに沿ってクラス全艦の前で五分の演説を行なう。終わるとほかの学生艦娘らが意見を述べ、論理を戦わせる。ディスカッションを通して、部下を動かすリーダーに欠かせないコミュニケーション能力を培っていく。

 事実、元長波のよく知る瑞鶴は、彼女ほどリーダーにふさわしい艦娘は、パラオの翔鶴という例外を除けば、世界の海に目を向けても発見できないだろうと思わせる英傑だった。人当たりはすこぶる良好で、豪放磊落、納得いかなければ上官にも食ってかかるが、部下を人前で怒鳴ったことは一度もなく、どんな拗ね者でも、彼女の前に立つと、自らの処世がいかに幼稚であるかを思い知らされ、胸襟を開いて深い信頼を寄せずにはいられなくなるのだった。諧謔(かいぎゃく)を解し、自然と周りの人間を前向きにさせる力があり、だれもが認めるスコアを叩き出していながら、その輝かしい戦歴を鼻にかけなかった。ひとりの人間として完成された、理想形とさえいえる女性だった。そんな瑞鶴だった彼女が、社会不安?

「たしか、あの子」不眠、手足のしびれ、立ちくらみ、全身がかゆいといった体調不良を訴えていなかったか元長波が質すと、瑞鶴の姉が思いだす。「会社に行こうとして、玄関先でふらついて転んで、下駄箱に頭をぶつけたことが。血が出ていたのでわたしも母も病院に行くよういいましたが、とくに返事もしないまま駅のほうへ……」

 ふらつきはモクロベミドの典型的な副作用だ。しかし、一度の転倒だけで治療薬の服用を見抜き、そこから元瑞鶴がどんな症状、悩みを抱えているのか推理することは不可能だろう。

「でも、この薬は」元長波は英字で埋め尽くされたパッケージをみせた。「まだ日本じゃ認可されていません。個人輸入したんでしょう。海外の強い薬に頼らざるをえないほど苦しんでたんだな」

 元長波はモクロベミドを飲んだことはなかった。元長波の常用している抗鬱剤の有効成分はセルトラリンだ。モクロベミドより効果も副作用も少ない。三十年近くPTSDとTBIで苦しむ元長波でさえ、セルトラリンで済んでいる。瑞鶴、あんたはどれほどの苦しみを負ってたんだ? あんたほどの素晴らしい人間が、なんだってこんなクスリになんか? 心のなかの瑞鶴に問いかける。瑞鶴は背中を向けてうつむいたままなにも答えない。

「この空き箱がここにあったのは」元長波は自分に置き換えて思考してみる。「単純に捨て忘れていただけという可能性もありますが、これをみつけさせることによって、あらゆる事物に責め立てられている自分の状態を、その一端でも理解してもらいたかったのかもしれません」

 元瑞鶴の姉はとうてい得心できないという顔をする。そこには埋めがたい断絶がある。戦地からもどってきた元艦娘は、娑婆(しゃば)の人間たちからすれば言葉も常識も通じない別の世界の生き物にみえるのかもしれない、と元長波はあらためて思い知らされる。

 

「わたしたちは帰国するとき、お偉いさんの政治家から祝辞を受けたことがあります。長ったらしかったけど、彼は最後にこう締めくくりました。“きみたちは自由だ”。彼はわたしたちから大歓声を浴びると思っていたのでしょうが、わたしたちは休めの姿勢のまま、なにもいいませんでした。その政治家は肩透かしを食らった顔をしかけて、とっさに無表情でおおいましたがね。ほかのみんなはどうだか知らないが、彼が決め台詞をいったとき、わたしはこう思ったんです」

 元長波はため息に混ぜて、いった。

「自由? そんなものがほしいとでも思ってたのか?」

 元瑞鶴の姉には不可解しかなかった。彼女は元長波に対してだけではなく、元瑞鶴、ひいては艦娘だった女性たちすべてに対して、理解することへの白旗を揚げている。

「小学校を出ると同時に艦娘になりました。それからはずっと軍隊です。軍ではわたしは本名ではなく艦名で呼ばれていました。艦娘はみんなそうです。駆逐艦長波として十二から二十歳まで生きてきた。長波はわたしのすべてだった。成してきたこと、やらかしたこと、仲間と飲んで食べて歌った日々。すべてが長波の二文字に凝縮されてたんです。それをある日、突然捨てなければならなくなった。取り上げられたっていってもいいかな。あとに残ったものは? なにもない。軍隊でしか通用しない資格と常識だけ、交友関係も艦娘仲間だけ、ほかの世界のこと、世間一般のことなんかなにも知らないし、将来の夢も、これといった趣味も特技もない、ただの二十歳の女。再就職しようとして“あなたを年一五〇万で雇って、うちにどんなメリットがありますか?”と訊かれてもなにも答えられない、からっぽの、つまらない女。焦りましたよ。わたしから長波を取り上げたら、なにも残らないじゃないかって」

 元長波は元艦娘の代表のつもりで言葉を紡いだ。

「いままで積み上げてきたものがそっくりそのままゼロにさせられちゃうんです。無駄な日々を続けました。海の上でたったひとりあがいているようでした。あがいているけど、どこにもたどり着けそうにもない。どこへ行けばいいかもわからない。だれか命令してくれよ。だれか必要としてくれよ。長波でなくなったわたしを受け入れてくれよ。それが叶わないならあの日々へもどしてくれよ。毎日、そんな無益なことばかりを」

 元長波は自分自身と向き合いながら話す。

 武器も持たなくていい。真夜中に非常呼集をかけられることもない。食事に一時間かけてもいい。部屋を掃除しなくてもだれにも怒られない。座学も訓練もない。休日にはブドヴァイゼルをあおりながら一日中映画を観て寝っ転がっていてもいい。毎日温かいお風呂に入れて、ふかふかのベッドで朝まで寝られる。憧れていたはずだった閑雲野鶴(かんうんやかく)の生活に、なんとか順応しようとして、なにもできないでいるうちに、どんどん時代が変わっていく。いつのまにか知らないビルが建っていて、風景も変貌していく。軍でなにくれと面倒をみてやった後輩が、いまでは自分よりもはるかに年収を稼いで、プライベートも充実させている。

 

「海にいたころは、わたしたちが世界を回しているんだって実感できてた。歴史(History)男の物語(His story)っていうけど、いま歴史をつくってるのはわたしたちだって、大きな作戦を成功させるたびによろこんでた。時代はわたしたちのあとについてくるってね」

 自らの幼さを披瀝した元長波は弱々しい笑みをつくる。

「時代が、わたしを置き去りにしていく。あのころ、わたしは時代のさきを駆けていたのに、もう、いまのわたしにはだれも一瞥もしてくれない。長波でなくなったおまえに用はないといわんばかりにね。実際、長波以外にわたしには取り柄がなかった。本当は人間は何にだってなれるんだ。なろうと思いさえすれば、その勇気がありさえすれば」

 不動産業者となった元朝霜、ダイビングのインストラクターとなった元伊168、社会福祉士となった元朝潮、農業と狩猟の新しい未来を提示する実業家となった元神威、ウィッグのチーフスタイリストとなった元山風、アイアンヘッドの職人となった元磯風らが脳裏によぎる。

「そのためにはまず、いまの自分がひとりの裸の人間であるってことを認めなくちゃいけない。つらいことです」

 誰何(すいか)されて、わたしは長波だ、といえばそれで通った。存在を認めてもらえた。長波にふさわしい役割を与えてもらえた。何時に出発してこの航路で目的地へ行けと命令してくれた。いまは違う。また新たに一から努力し、なにものなのか、なにができるのかを知ってもらい、自分で目標を設定し、そこへたどり着くまでの航路を自分で考え、進んでいかなければならない。たったひとりで海に放り出されたような孤独感ばかりがつのる。そしてなにもしなかった空虚な日々だけが積み重なる。

 

「だから、わたしには、妹さんの気持ちがわかるような気がする」

「ええ、あなたにはあの子のことがわかるのでしょうね。きっとわたしたち以上に」

 元瑞鶴の姉はふっ切れたような表情でいった。

「あの子が会社を辞めて、まだわたしたちに暴力をふるうようになる前、そこの縁側に腰かけて、ぼうっと中庭を眺めていたことが」元瑞鶴の姉が指差すほうをみやる。リビングから通じる坪庭は小さいながらも手入れが行き届き、サンダーソニアやコルチカム、エーデルワイス、プリムラ・ジュリアン、そしてアルストロメリアがつつましやかな花を咲かせて彩っている。

「穏やかな日差しが心地よい日でした。あの子はぽつりと、“タウイタウイに帰りたいな”ってつぶやいたんです。行きたいじゃなく、帰りたいと。わたしは“あなたの家はここでしょ?”といいました。妹は、自分のいったことの意味にはじめて気づいたようにおどろいた顔でわたしをみました。それから悲しそうな目になって、また庭をみながら、そうだね、と」

 元瑞鶴の姉も、元長波も、しばらく庭に視線を送りつづけた。さびしげに座っている元瑞鶴の背中が風景に重なる。

「戦争がなくて、妹が艦娘になんかならなければ、こんなことにならずにすんだのでしょうか。それとも、べつのかたちで、こうなっていたのでしょうか……」

 その問いに対する答えを元長波は持ち合わせていない。

「警察には捜索願を出してはいますが、正直にいえば、期待はしていません。朗報がないかわりに訃音(ふいん)も届いていませんが、身元がわからないとか、遺体が発見されていないだけということも考えられます。生きていればもう五十五歳。あと九ヶ月であの子が失踪してから七年になります」

 失踪から七年経てば法律上は死亡したとみなされる。

「いまも軍人年金があの子の口座に国から振り込まれています。でも死亡扱いになれば、軍人年金は打ち切られ、遺族年金に変わります。そのときわたしは妹の死を実感として受け入れることができるのか。いまはまだわかりません。踏ん切りがつくかもしれないし、やっぱりここで待ちつづけるかもしれない。いまでも妹の家出がなにかの間違いであってくれたらと無性に願うことがあります。奇想天外なからくりでもいい。家族に顔を合わさない生活をつづけることで何日かみかけなくても不審に思われないようにして、艦娘時代の仲間のかたがたとひそかにつなぎをとって見事に失踪を演出したのでもかまわない。肉親を裏切り、世間をあざむいて、裏でこっそり舌を出しているのでもいい。どこかで生きているのであれば……帰ってくる気がなかったとしてもいいから、どこかでひっそりとでも生きつづけていれば……」

 一縷の希望を覗かせた元瑞鶴の姉は、最後にいった。

「戦争が終わって、たくさんの人たちが帰ってきました。でも結局、わたしの妹は、戦地から帰ってくることはなかったのです」


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