栄光の代償・元艦娘たちが語る対深海棲艦戦争(GHK出版新書)   作:蚕豆かいこ

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二十五 渚より愛をこめて

 元瑞鶴の生家を後にした元長波は、駅へむけ杖をついて歩いていたが、前触れもなく口を開け、痙攣しながらアスファルトに崩れ落ちる。白目をむく。顎が外れそうになる。全身の筋肉が強張る。上半身が左に屈曲していく。彼女の意思ではどうにもならない。残る活力を総動員してペンダント型のピルケースから薬をてのひらにこぼし、震えながら口に放り込む。脳みそを粘土のようにこねられているような頭痛。頭のなかに回転する羽根があって、それが脳を切り刻んでいる。しばらく耐えていると薬効が現れ、波が引くように痛みも痙攣も緩解していく。杖にすがりつく。公衆トイレで休んでから、彼女はふたたび歩き出す。ピルケースを確認してみる。ペンダント型の中身は少ない。

「あと一回ぶんってとこかな」

 元長波は笑いをみせてから、嘆息した。

 

  ◇

 

 空からターボプロップのエンジン音が控えめに降り注ぐ。小型の双発旅客機が点となって青い空を航過していく。

「ああいう小さめのプロペラ機をみるたび、基地航空隊を思い出す、とくに双発はね」

 撃墜の危険性などなどみじんも気にかけなくともよい快適な空の旅を提供する一翼を見送ってから、元長波はまた歩く。

「なんで深海棲艦を倒すのに艦娘なんていう珍妙な兵種が必要だったかっていったら、突き詰めていえば、水爆もシャットアウトできるやつらの干渉結界を中和できるからだ。わたしたちは寄生虫の力を借りて発振した干渉波を、砲弾やら魚雷やらに貼りつけて敵にぶつけた。それでノイズキャンセリングみたいな原理で連中の結界を破ってたんだ」元長波はいう。「でも手元を離れた瞬間から弾頭に与えた干渉波は減衰していく。だからわたしたち駆逐艦はできるかぎり肉薄してたし、空母でさえ最大火力を叩きつけるためには被弾のリスクを負ってでも接近しなきゃならなかった。敵のシールドは波の性質があるから、結界密度がめちゃくちゃ高いときもあれば、比較的弱くなってる瞬間もあるんだけど、波形を可視化できるもんでもないし、弾着時にどの強度を引くかは運次第。鬼や姫クラスにもなると結界強度が最低のときでさえとんでもなく固くなる。干渉波を維持したまま攻撃が届くように夜陰にまぎれて至近から撃ち込むのが常套なんだが、それでさえ結界を破れない敵が現れはじめた」

 

 弾頭に付与した干渉波の減衰は、時間に対して単調減少ではあるが反比例ではない。艦娘から物理的に離脱して十秒前後のあいだで、グラフに表せば断崖絶壁のように急落し、漸近(ぜんきん)線に接近しながら下降をつづける曲線を描いて、およそ三〇〇秒で実用的なエネルギーを失う。

 アイアンボトムサウンドの特攻で、爆発物を抱いた艦娘に突撃させれば一定の効果があることは証明されていた。しかし育成に多額の血税を要する艦娘を必死の一撃に投じる「使い捨て」は経済的とはいえない。

 

 そこで考案された解決策が、戦闘で脳に不可逆的な損傷を負って自発呼吸もままならなくなった、あるいは昏睡状態から回復する見込みがないと三人以上の医師が診断を下した艦娘を個別に攻撃機に搭載し、目標に十数メートルまで接敵して爆雷撃を敢行するものであった。艦娘を完全に干渉波発生装置と割りきるのである。制御は遠隔操縦で行なう。微動だにしない艦娘ひとりと生命維持装置、武装、燃料さえ積載できればよいので機体は必ずしも大型である必要はない。機体規模は近距離小型旅客機に近いものとなった。無線信号で遠隔操縦することから操作の反映にタイムラグがつきまとい、回避行動が遅れることで被撃墜の可能性は非常に高いが、もとより乗っている艦娘は脳死もしくは植物状態である。

 

「入隊時にサインさせられたクソみたいに長ったらしい契約書のなかに、任期中にそういう状態になったら国の好きにしていいよってな感じの項目もぬかりなく書かれてあるわけよ。陸攻をみるたび、ああはなりたくねえよなって、仲間内でいったもんだ」

 

 陸上攻撃機は干渉波が強力な状態で命中させられる点だけでなく、単純な火力も空母艦娘の艦載機の比ではなかった。艦娘がもちいる魚雷は携行を考慮しているため野球のバットほどしかなく、航空魚雷はさらに小型だが、プラットフォームが全長十九メートル、全幅二十メートル、最大離陸重量十三トンの陸上攻撃機は、全長二・六メートル、重量二三〇キロの、艦娘登場以前に各国海軍が標準的に採用していた短魚雷を搭載できた。結界さえなければ、炸薬量四十四・五キロの破壊力に耐えられる生物はいない。

 

「いままでさんざ苦労させられた敵をいともたやすく木っ端みじんにしていくんだ。かろうじて生き残った敵も腕か足のいずれかが吹っ飛んでてとても戦える状態じゃない。とどめをさすだけの仕事してたら、ビスマルクがこういった。“まるで残飯処理ね”」

 

 対水上、対潜、対地だけでなく、基地航空隊は対空目標掃滅にも絶大な効果を挙げた。くんずほぐれつの空戦は望むべくもないが、なんといっても空対空ミサイルが使用できたからだ。深海棲艦の艦載機にもシールドがある。これを基地航空隊の戦闘機のミサイルなら突破できるのだ。射程二十キロ、速力マッハ二・五の槍にひとたび追尾されたら、飛行性能そのものはレシプロ機なみの敵艦載機は逃れようもない。深海棲艦の航空機は空を飛ぶという特性上、鳥がそうであるように莫大な余剰熱を常時放射して機体を冷却しなければならない。よって従前の赤外線誘導シーカーで比較的容易に捕捉できることもさいわいした。なお、健常な艦娘を戦闘機パイロットに育成する試みはコストの面で頓挫している。

 

 旅客機がみえなくなって、抗鬱剤と抗不安薬と眠気を抑える薬を服用した元長波が歩を進める。

 

「戦争は変わったと思ったよ。作戦が大規模であればあるほど、その趨勢(すうせい)は基地航空隊の働きいかんにかかるようになったんだ。あれだけ大暴れできるんならジャム島でああも中央が基地航空隊に拘泥したのもむりはないかなって思ったもんさ。とはいえ基地航空隊のおかげで艦娘がより安全に戦えるようになったかといえば、答えはノーだ。飛行場設営の好適地付近の制海権と制空権を確保し、施設部隊と資材の荷揚げを護衛して、飛行場ができたあとも敵襲に備えて、いざ決戦ってときには、ターゲットの捜索、それから現在位置を無線操縦のオペレーターに教えるために、わたしたちが突っ込んでかなきゃならなかった、レーザー指示器を後生大事に抱えてさ。レーザーは曲がらないだろ。それを陸攻の攻撃が当たるまでずっと照射しつづけるんだ。わかるだろ、隠れるものがない海でそれをやるってのがどういうことか……」

 

 元長波は山陰本線に乗り、はじめて配属された艦隊で旗艦を務めていた軽巡艦娘酒匂だった女性に会いに鳥取県へ針路をとる。山陰本線はおおむね日本海の海岸線をなぞるように走るが、鳥取県内ではまず摩尼山や本陣山を南へ迂回してから鳥取市を横断し、日本最大の湛水面積をほこる池である湖山池と鳥取空港のあいだをのぼって沿岸へもどる。よって車窓から鳥取砂丘をその片鱗すら望むことはできない。

「タダではみせないってことなのかもね。みたいんなら通り過ぎずに降りて、ついでになんか買ってけみたいな。鳥取にくる人間の九割は仕事か砂丘目当てだろうけど、残念ながら、今回はおあずけだ」田舎の風景に挟まれたローカル線の車内で元長波は窓外に目をやる。元長波には時間がない。砂丘自体は舞鶴時代によく海側から眺めた。鳥取砂丘は敵の上陸地点にうってつけだったからだ。

 

「それにしても」彼女はあくびを噛み殺す。暖房と規則的で小刻みな振動、つぎの停車駅を知らせる録音音声がまろやかに心地よい。「列車ってのはなんでこう眠気を誘うんだろうね。ゆりかごみたいだ」うつらうつらしそうになって、薬をまた口へ放り込む。

 

  ◇

 

「もしもし……ええ、長波です、お疲れさまです……ええ、いま湖山駅に……いまからそちらへ……いえ、場所さえ送信してくれれば……はい、失礼します」

 駅に降り立った元長波は、携帯端末に送られてきた地域検索サービスのルート検索を頼りに杖をつく。布勢までは徒歩で二十分。いまの元長波なら三十分かかる。耕作放棄地、作付けを待つ田畑、住宅地。元長波がキャリーバッグを転がすキャスターの音だけが響く。夜になれば表を歩く人間の足音を部屋のなかからでも聞き取ることができるだろう。

 

 築二十年の木造アパートの前に立つ。住居としては築古の部類に入る。だがそれでも戦争が終わったあとに建てられたものだ。建物が築古物件になる以上の時間が経ってもいまだに戦争を終えることができていない自分はなんなのか。考えながら呼び鈴を押す。あわただしい気配がして、ドアが開かれる。タートルネックを着た女性。かつて軽巡酒匂だった女性は、元長波の顔をみるなり涙ぐんで両手を伸ばす。

「会いたかった」

 抱擁したまま元酒匂は泣きじゃくった。

 元長波も目許を光らせながら背中を叩く。「ご無沙汰してました。採薪之憂(さいしんのうれい)があったとはいえ、不調法をどうかお許しください」

 元長波に元酒匂はしゃくりあげながら何度も頷いた。

「わたしも、あなたがいちばんたいへんだったときに、力になってあげられなかった」

 と五十歳の元酒匂は逆に詫びた。

 

 元酒匂はジャム島へ行かなかった。独立混成第60海上旅団が32軍の傘下に編入される直前、すでに2水戦の資格を持っていて空きができるのを待つ身だった彼女に、補充要員として異動がかかったからだ。当時はジャムが激戦地となるとは元陸奥の女性中将など一部を除いてだれも予想していなかった。元長波や深雪たちは晴れて2水戦への鶯遷(おうせん)が決まった元酒匂を心から祝福した。ジャム島の戦いが終わり、死に場所をもとめた元長波が2水戦に飛び込んで彼女たちは再会し、ともにブラジルへ教導のため転任した。

「河でアナコンダが出たときのこと、覚えてる?」落ち着いた元酒匂が居間へ導きながらいう。

「目測で五、六メートルくらいはありました。わたしも朝霜も磯風もギャーッてなりましたね、いつも深海棲艦と戦ってるのに」杖を玄関先に立てかけた元長波が壁に体重を預けて歩きながら返す。

「地元の艦娘はきょとんとした顔で、いきなりアナコンダを撫ではじめて。そうしたらボールみたいに丸まって」元酒匂はジェスチャーをまじえて柔和な顔をみせる。

「ダンゴムシみたいな防衛反応なんでしょうね。朝霜はアナコン団子とかいってましたが。でもって、コーヒー牛乳の艦娘が、丸くなっても大の大人が膝抱えたくらいもあるアナコン団子を笑いながら持ち上げて、“おまえたちも持ってみろ”みたいに差し出してきました」

「みんなで押し付けあったよね」元酒匂は椅子を引いて勧める。

「結局わたしがやることに」元長波は元酒匂の手を借りながら腰を下ろす。「意外と肌触りがよかった」

「現地の人たちは、こんなの子供だ、もっと大きいのがいる、乗ってたカノア(カヌー)ごと巻きつかれて呑み込まれた人間もいるって」

「あの人らの話はアマゾン河みたいに大きいですからね」

「だから、ブラジリアでは二メートルのミミズが採れるって聞いたときも、話し半分に聞き流したんだけど」

「マジでしたからね。ミミズ掘りのマエストロが町外れの荒野でおもむろに穴を掘ったら、おお、たしかに土中にぬらぬらした赤黒い肉の管、でもやっぱりそんなに太くないなあ、これじゃ長さもさほどではないなあってにやにやしてたら、出るわ出るわ、どこまでも延々とミミズの胴体が。当時のわたしがまっすぐに立って、腕を上へ伸ばしたよりもまだ長かった。一七〇くらいかな。最初の一匹でそれだから、二メートルのがいるってのもあながちうそじゃない、それで、みんなで“ははー、参りました”と」

 音信をとらなかった二十年以上の時間を取り戻すように、ふたりはとりとめのない話を楽しむ。「でも、アマゾンのワニは精力絶倫で、死んでからでもアレをさすってやるとムクムク大きくなるっていうのは、さすがに眉につばつけてると思いますけどね」「おいしかったけどねえ」「“アマゾネス”たちに技術指導したときのことを? ここはこうだ、あれはああだ、違う、そうじゃなくてこれはこうしてあれはああして……って説明してたら、笑顔のままいきなりどっか行って、夕食どきになってやっと帰ってきた。しかもけろっとした顔で。悪びれることもないし、怒りや憎悪もない、きょうはじめて会ったみたいにニコニコしながら。あれほどに清々しく徹底的な拒絶は、あとにもさきにもみたことがありません」「ストレスに対する拒否反応なんだろうけど、なにか少しでもわずらわしくなると、話の最中でも三猿みたいになにもかもシャットアウトして、はい、さよなら、だもんね。ただでさえ、あしたのことはあした考えるっていう人たちだもん。あんなふうに嫌なもの、面倒くさいものからは素直に遠ざかるっていうのが、ほんとの人間のありようだったりするのかも」「インディオの血を引く艦娘たちは、役割とかしがらみとかと無縁だった狩猟採集時代の人間に近いのかもしれませんね。最近の若いもんは責任感がないだとか、ちょっと叱るとすぐ折れるとか、おっさん連中は嘆くけど、なんの、アマゾンのあの連中にくらべれば、かわいいもんですよ、ほんと」

 熱狂、惑溺、遡行、爆笑、旅愁、黄昏。いま、元長波はまさに駆逐艦娘長波で、元酒匂は軽巡艦娘酒匂になっている。

 

「海のど真ん中で、艦隊が孤立したことも」

 元長波がいうと元酒匂も「あった、あった」と複雑に笑う。

 アマゾンに行く前、2水戦に入る前、ジャム島に転属する前の、元長波にとっては最初の艦隊での強烈な記憶。

 酒匂だった目の前の女性や、深雪、敷波、巻雲たちと、ほかの一個小艦隊の艦娘らと一緒にティルトローター機に詰め込まれて作戦海域へ向かっているとき、雁行(がんこう)していた僚機がなんの予兆もなく爆発した。一機、また一機と火だるまになって墜ちていった。海にも空にも敵の影はない。元長波らの乗る機が最後に残った。元長波は、搭乗機の前半部が消失する寸前、出征前に遺影用に撮影したカメラのストロボよりもまばゆい爆光が機体をつらぬいたことを覚えている。

 

 テラワット級のレーザーで人工衛星を撃墜するソシエテ諸島の深海棲艦が、大気圏内の航空機をも射程に入れるようになったと判明した、はじめての事例だった。深海棲艦は人類の人工衛星を駆逐するいっぽうで自分たちの軍事衛星を地球同期軌道に投入していた。アーサー・C・クラークが衛星を中継した通信のアイデアとして、赤道上の地表面とおなじ速度で地球を周回する高度の利用を考案したことからその名がつけられたクラーク軌道で、深海棲艦の衛星は誘電体多層膜ミラーを展開させ、地上からのレーザーをリレーさせることで、地球の裏側の人工衛星のみならず、高度二〇〇〇フィート以上の飛行物体を例外なく狙撃するのである。

 宇宙へ進出した深海棲艦がついに絶対の制空権を確保したという事実に世界は震撼したが、はるか三万五七八六キロの天空より閃いた光線の鉄槌に輸送機が撃墜され、海へ投げ出されながらも命からがら助かった元長波たちにとっては、正確な現在地も定かではない大海原からいかにして生還するか、それだけが問題だった。

 

「旗艦のわたしがしっかりしなきゃいけなかったのに、長波ちゃんたちには苦労させちゃったね」

 元酒匂は暗い顔になる。

「あんな状況じゃ、だれにもどうしようもありませんでしたよ」

 だが元酒匂の顔は晴れない。

「巻雲ちゃんのことも……」

「わたしたちみんなの責任です。酒匂さんだけのせいでは」

 PTSDプログラムではっきりさせられた、元長波が最初にトラウマを負った時点まで立ちもどる。

 

 内陸の出身ながら訓練と幾度かの実戦で海はすっかり見慣れたものだと自負していたが、海の無慈悲なまでの壮大さ、碧海の美しく圧倒的な無辺際を突きつけられて、新兵を脱するまでには至っていなかった当時の元長波は、ただただ無力、茫然とするばかりだった。無人島でもいいから陸地があれば休めるが、岩礁ひとつ見当たらない。

 

「世界中が海になってしまったみたいでした」と元長波はいう。

「機内ですでに艤装を着装してOSMもぜんぶ持ってたのが不幸中の幸いではあったけれど」元酒匂も記憶のレコードに針を落とす。「何日も揺れる海の上で救助を待った。食べものも尽きて、つぎに水が。海水と混ぜて文字通り水増ししたけど、五日が限界だった。容赦のない日射しが降り注いで体から水分がしぼりとられる。足下には艦隊のみんながお腹いっぱい飲んでも飲み干せない十四億立方キロメートルの海があるけど、飲むわけにはいかない。これは堪えたよね。目の前に水があるのに飲めないのはね……」

「いっそ一滴も水がないほうがましでした。人間にとって海は砂漠より利用できる水が少ないですからね」

「この海のむこうに日本があるって思うと、なんだか不思議な気持ちだった。フィリピン沖ってことはわかってたから、フィリピンじゃなくて、北に走って日本に帰ろうかって思った」

 わたしもだと元長波は(がえん)じる。

 

 遭難時はその場から動かず救助を待つのが鉄則だ。しかし墜落地点は海のただなかだった。航空機はレーダーの管制下で運航されるが、太平洋は広大すぎるために、地上レーダー施設、艦上レーダーのいずれでもカバーできない空白地帯がある。輸送機編隊が墜とされた海域はまさにレーダーの空白地帯だった。パイロットは緊急事態を宣言するひまもなくコクピットごと蒸発した。予想される捜索範囲は日本の本州よりも広い。消息不明に軍が気づくまであと十八時間はかかる。そこから捜索隊が派遣されて、精衛填海(せいえいてんかい)を恐れず干し草の山から針を捜すようにして自分たちを発見するまで、何日かかるか。そのとき自分たちは生きているだろうか。

 相乗りしていた小艦隊と臨時に統合して元酒匂が旗艦となって生存者をまとめた。相手方の旗艦は助からなかったからだ。元酒匂は星座から現在座標を読み、計画的にフィリピンへ航行することに決めた。燃料がなくなれば寄生生物は休眠状態に入るため水上を歩くこともできなくなる。極限まで燃費を追求した経済的な速度を厳守しなければならなかった。うまくいけば七日でルソン島にたどり着ける。

 そのあいだはほぼ不眠不休を強いられた。海面に座ることはできるが、横になるわけにはいかない。物理的に可能でも、海上に寝そべるとどうしても渇きに抗えず海水を飲んでしまうからだ。

 深雪が声を上げた。指さす方向には海面を音もなく裂く三角形の背びれがあった。サメが近づいていた。「あわてないで、そのまま、そのまま」。元酒匂が艦隊を鎮めた。巨大なサメは一同の足元を追い越して悠々と去っていった。サメは視力が低く、はっきりと対象の輪郭がみえないので、姿かたちで判断するのではなく不規則な動きをするものを獲物と思って噛みつく習性がある。逆に獲物と認識しなければ絶対に攻撃しないため、とりあえず噛んでみて食べられるかどうかたしかめるということはない。砲はあるが、もしサメを傷つければ、一〇〇キロ先で一滴の血が海に落ちても追跡できるというサメの嗅覚を刺激してしまい、四方から新たな群れがあつまってくる危険性がある。海の上で騒がずやりすごすのが上策という元酒匂の判断は正解だった。

 空腹、疲労、深海棲艦とサメの恐怖、夜間の冷温……生存者たちを苦しめたものを数え上げれば枚挙にいとまがない。しかしそれらをすべて合わせても、喉の渇きひとつが苦難の王者として元長波らの頭上に堂々と君臨した。雲の一片もなく、めいめい尿をあつめては飲んで、あるいは海水を汲んだ容器にビニール袋をかぶせて太陽にさらし、内側に付着した蒸発水にむしゃぶりついたりして、なんとか命をつないだものの、とても足りない。人間は体重の二十パーセントの脱水で死にいたるが、日射の厳しい洋上では十パーセントの水分を失った時点で命はない。四パーセントの水分喪失でも運動能力は十五パーセント低下する。もしいま敵と遭遇すれば平常時の八割の実力しか出せないまま対処に迫られることになる。海の水がとてつもなく旨そうにみえた。随伴艦のだれかが口にしようとするたび、当時酒匂だった彼女の叱責が飛んだ。水、水、と生命からの渇望が艦隊に渦巻いた。

「お願いだよ酒匂さん、海の水飲ませてよ」。敷波の懇願も元酒匂は断固として撥ね付けた。

 元長波はというと、元酒匂の目を盗んで海水に口をつけようとして、巻雲に止められた。

「でもよう、どっちみち飲まなきゃ死ぬんだ、なら一か八か飲んだほうが」「だめ!」。巻雲の声はからからに渇いた口と喉で掠れていた。「飲まなかったらあと何日かは持ちこたえられる。でも、飲んじゃったら絶対に死ぬんだよ」。巻雲の幼顔(おさながお)は脱水による体温の異常上昇でトマトのように紅く染まっていた。全員が似たような状態だった。元長波が海水の魔力に誘引されるたび巻雲に制された。巻雲の監視の目は元長波から片時も外されることはなかった。

 墜落から七日め。元酒匂も脱水が限界に近づいて注意力が減退していた。目がかすんで随伴艦の顔もろくにみえない。疲労と睡気が頂点に達している。ふだんならどうということはない、胸くらいまでの波をひとつ越えるだけでも、そのたびに全身の片隅に残留しているなけなしの気力をかきあつめなければならなかった。それが二、三秒に一回ある。

 元長波はほとんど意識を失いかけていた。外界からの刺激にも反応が鈍くなっていくなか、元長波の意識には雨漏りのように悔恨が滴った。青雲の志を抱き、家族の経済的事情のため軍の道をえらんで、一年の訓練生活に甘んじてようやくいっぱしの艦娘として最前線の末席に連なったかと思いきや、まさか、敵との撃ち合いに破れて轟沈するのでなく、ただひろびろとした海で道に迷って、その生涯を閉じることになろうとは。

 艦娘学校で教わった、絶海の孤島に漂着した駆逐艦娘たちのごとく、自分たちの末路も学習教育の戦訓と逸話に組み込まれるのだろうか。兵隊のしくじった話は他人事だと思っていたが、やけに親しいものとなった。同時に、十四歳という幼さのためにどこかで自分を人生の主人公だとうぬぼれていたが、なんのことはない、自分もまた、後世のだれかに「こんな間抜けにはなるまい」と教科書で流し読みされる無名の脇役でしかなかったのだと思い知らされるようだった。

「水、水が飲みたい」「一滴でいいから冷たい水を」「きのうからずっとおしっこが出てない」「酒匂さん、お願いだから、海の水を飲ませて」「やだ、もうやだよ」「長波の意識レベルがやばい。こいつはもうだめだ。最後に海水でいいから飲ませてやろう」「喉が塞がりそうだ」「海水飲んじゃだめっていうなら、水くださいよ」……士気は低下し、2水戦有資格者の酒匂をもってしても綱紀を粛正しようもない。ひとおもいに海水を末期の水にしようという空気に駆逐艦娘たちが染まりはじめる。

 そのとき、ずっと沈黙していた巻雲が、なにを思ったかおもむろに海面に這いつくばった。「海水を飲んだらどうなるか、みせてあげます」。いうが早いか顔を海へ突っ込んだ。喉を鳴らす。「飲んじゃだめ!」。元酒匂の警告も、頭を首まで沈めている巻雲には届かない。

 しばらく喉へ海水を送り込んでいた巻雲が、ずぶ濡れの顔を跳ねるように上げた。ひと息ついた当時十五歳の巻雲は、あきらめたような笑みを虚脱状態の僚艦らへ向けた。「みんな、あと三十分だけ待って。わたしがどうなるかをみて、それで飲むかどうか決めて」。すでに水分の欠乏で腎機能が弱りきっていた巻雲には最後のとどめとなった。じきに眼鏡の奥で目の焦点が合わなくなり、「痛い、痛い、いたたた」とうわ言のように繰り返した。十分もすると濃い紫に変色した歯茎から重油のように粘つく真っ黒な血液がにじみ出てこぼれた。なにもない水平線へ向かって「ママ、ママだ。ただいま」と出血の止まらない口で話しかけ、そちらへ単身針路を変えた。引き留めようとしてもだれひとり燃料に余裕がない。追えば道連れになる。孤影となった巻雲はやがて立っていられなくなり、海に寝そべって痙攣しはじめた。「おいしい、おいしい」。倒れたまま海水をむさぼる巻雲の顔には苦痛と恍惚とが等配分されていた。

 波の音。風のざわめき。艦隊は前進しながらもう一度、巻雲のいた方向を振り返った。丈のあまった袖だけが水面に浮かんでなびいていた。それもすぐ海に呑まれていった。

 

 以来、元長波の夢にも、元酒匂の夢にも、巻雲は現れる。血のかたまりのような肉塊が水底から浮かび上がってきて、巻雲の声で語りかけてくる。それは元長波には「どうしてあなただけが助かったの」という言葉だが、元酒匂の夢では「水が飲みたい、水を飲ませて」ということになっている。元酒匂は退役してから就寝前には水でいっぱいのコップを枕元に置くようになった。そうすると巻雲は夢に出てこない。コップを置かなかった夜はかならず現れる。ここでも戦争はつづいている。

 

 元長波と元酒匂の自己を見つめ直す記憶の旅は、シャングリラ事件にまでおよんだ。

 ネビルシュート作戦において、元長波は基地航空隊を展開させるための飛行場設営に適した島の確保で任務を終えたが、元酒匂の仕事はそこからだった。彼女が所属していた艦隊には〈シャングリラ〉の殲滅に直接おもむく任が与えられた。〈シャングリラ〉は、かつてディープブルー作戦で熱核攻撃に被爆して損傷を受けたヲ級個体だった。

 

「基地航空隊のエアカバーを受けながらわたしたちはビキニ環礁へと向かったわ。そう、〈シャングリラ〉が指揮をとっているであろう敵泊地へ殴り込みを。あんなにおぞましい深海棲艦は見たことがなかった。辺りが暗くなると〈シャングリラ〉の周囲の海は青く光るの。二十海里離れていても水平線が輝くほど。とても美しい光だったわ、この世のものとは思えないくらいに。雲霞のような敵機の群れをかきわけて、針の振り切れたガイガーカウンターががりがりとひっきりなしに音を刻むなか、旗艦〈シャングリラ〉を倒すことには成功したんだけど、その代償として、決戦に参加したわたしたちはみんな、一生消えない呪いをかけられてしまった」

 

 元酒匂はタートルネックの襟を下げた。白い喉には切開術の跡があった。

 

「わたしの喉も、夜になると〈シャングリラ〉のように光るの。甲状腺を全摘したいまもだよ。わたしは生涯にわたって、甲状腺ホルモンをはじめとした二十八種類もの薬を毎日飲みつづけなければならなくなった……」

 

 作戦後、〈シャングリラ〉は深海海月姫(しんかいくらげひめ)と正式名称が定められ、その寄生体をもとに大型正規空母艦娘サラトガが実用化されただけでなく、ライセンス生産が許可されていたZ1やビスマルクと同様に日本が国産化できるようになったことは大々的に広報された。しかし、直接対決におもむいた艦娘たちが退役後も後遺症に悩まされた事実が顧みられることは、少ない。

「いくら修復材でも、放射線障害まで無害化できるわけじゃないからね」

「むしろ、細胞分裂の活性化という原理で傷を治す修復材との相性は、最悪でしょうね」

「ネビルシュート作戦の参加艦のうち、長門さんは皮膚がんが見つかって、闘病の甲斐なくあっという間に筋肉や骨、肺、腎臓にまで転移して……。長門さんが入院してから、わたしは時間を見つけてはお見舞いに通った。彼女はもともと面倒見のいい、旗艦にふさわしい艦娘だったけれど、わたしのことは配属当初からとくに可愛がってくれた。わたしのどこかを気に入ってくれたのか、ホーミングゴースト現象にひきずられただけなのかはわからないけど、わたしがあの長門さんにひとかたならぬ恩があることには変わりないから。長門さんが好きだったアイスクリームも毎回持っていってあげたわ。艦隊にいたころは毎月、トン単位で食べるほどだったんだよ」

 おかしそうに話す元酒匂に元長波も誘われて笑う。

「長門さんは生真面目だから、医師に食事を制限されているんだとはいっていたけど、それが本心じゃなくてただの建前にすぎないことくらいわかってた。だから、わたしはぴゅううとか、ぴゃああとかいって聞き流しながら、いつも冷凍庫をアイスクリームでいっぱいにしてたの。そうでもしないと口にしてくれないから。でも、最初のころはお見舞いのたびに空になっていた冷凍庫に、だんだんとアイスが余りはじめて、長門さん自身も日を追うごとに痩せ細っていくのがわかった。抗がん剤の副作用で髪も眉も脱け落ちて、半身を起こすだけでもつらそうで、なにを食べても吐いてしまうと。“そのうち、この体が家具に変身するかもしれんな”なんて冗談をおっしゃってたけど、駆逐艦の子たちがお猿さんみたいにぶらさがっていた、あのたくましい二の腕も、最後のほうにはこれくらいしかなかったわ」

 そういって元酒匂は、中指と親指で環をつくってみせた。

「そのころになると、全身の痛みがとても激しいみたいで……まるでベッドがフライパンで、それに全身を焼かれているようだといってた。モルヒネで一日中眠ったままになることが多くなって、たまに起きたかと思うと、たぶん、ご自分が旗艦だったころにまで記憶が逆行してたんだろうね、“艦隊、この長門につづけ”とか、“夾叉か、つぎは当てる”とか、そら言を呟くばかりだった」

 それまで冷静に語っていた元酒匂が、言葉を詰まらせる。

「わたしの勤務時間中に亡くなったから、最期を看取ることはできなかった。ほんものの家族じゃないから危篤の報せを受けても早退の許可が下りなかったの。母や姉が亡くなったとでも偽ればよかった……実際、わたしにとって彼女はそれらに等しい存在だったから。でもわたしをびっくりさせたのは、病院に駆けつけたときのことよ。病室には、長門さんの息子さんふたりと娘さんがいた。三人とももう成人して結婚もされていて、次男のかたとは何度かお見舞いのときにお会いしたことがあったけど、あとのおふたりとは初対面。彼らは母親の遺体を前に、嘆くでも悲しむでもなく、もう遺産相続について揉めていたの。次男のかたは、お母さんが入院してからもろもろの費用や手続きいっさいの面倒を見てきたから遺産はすべて自分のものだと言い張り、長男さんと娘さんは、自分たちも法定相続人だから均等にもらう権利があると……わたしは信じられなくて、それこそ艦娘になってはじめて放心状態になってしまって、お互いを罵りあっているお子さんたちをよそに長門さんの手を握った。寝ているときとは違う、なんの力も入っていない、ぐにゃりとしたその手には、まだほんのりと温もりが残っていたわ。まだ温かいうちから、彼らはお母さんとの思い出やお葬式の段取りではなく、お金のことで言い争っていたのよ。血の繋がりのない他人の身ながら、わたしはなんだか情けなくなった。わたしが艦娘だと知ると、娘さんはわたしにこういった。“国からの弔慰金や遺族年金はいくらなのか教えてちょうだい”。なんと答えたのか覚えてないわ。勇戦活躍した大戦艦ということで国葬が営まれたけれど、戦没扱いじゃなかった。あくまで任務とは無関係の病死ってことになってた」

「おいくつだったんですか」

「五十歳。後衛を務めることが多い戦艦でもあの長門さんほど長く前線に立ち続けた艦娘はほかにいないわ。でも、わたしももう、彼女の亡くなった年齢に追いついちゃった。わたしなんかが」

 目尻を拭って元酒匂はつづけた。

「プリンツ・オイゲンちゃんとは、ドイツに帰国したあとも季節ごとに手紙を交わしていたんだけどね、除隊してから、白血病と診断されたって……。あの作戦から三年後のことだった。椅子に座っているだけでお尻と太ももの裏が内出血を起こすとか、白内障にもかかって、テレビを見るのもひと苦労だとか書いてあった。長波ちゃんも知ってるだろうけど、抗がん剤治療や放射線療法はただ過酷なだけでなく金銭的負担も大きいでしょ、退役艦娘は公共交通機関や医療費が無料だったのが、ドイツでも日本同様、法改正で段階的に廃止されたから、オイゲンちゃん、“レモンの種が泣くまで搾り取られちゃうみたい”と書いてた……オイゲンちゃんなりの精いっぱいのユーモアだったんだと思う。いつも笑顔を絶やさない子だったから。あの子の明るさに何度救われたか。でも、それまでは手書きだったのに、その手紙からは印字になってたの。彼女がどんな思いで手紙を綴っていたかと思うと……」

「あのオイゲンが」元長波はやるせない顔になる。そのプリンツ・オイゲンは、ジャム島に救援にきたプリンツ・オイゲンだった。「恩給などはなかったんですか」

「作戦に従事したために重度の放射線障害に苦しめられることになったと、戦傷病者特別援護法を利用して恩給を願い出たわ。でも、“作戦の遂行と症状とに因果関係は認められない”ってことで、全員の申請が却下に。かりに〈シャングリラ〉との交戦で被曝したとしても発病が早すぎる、作戦後五年以内に発症した被曝者は作戦以前から罹患していた可能性があるっていう理由からだって。おかしな話。ならなんで、いまだにビキニ環礁は高濃度汚染区域として立ち入りが禁止されてるんだろう」

 

 深海海月姫ひきいる敵艦隊を覆滅した翌週、天皇皇后両陛下ほか一二〇万人の復仇を果たした記念として、東京の日比谷公園には石碑が除幕をみた。碑文はこう刻まれている。「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」。

「犠牲者はいつもこうだ。文句だけは美しいが……」元長波は苦い顔でいう。「命に軽重はないけど、戦った艦娘たちにもその名文句を捧げてほしいよ」

 ネビルシュート作戦の日程は除幕式の日取りありきで決められたといううわさもある。そのため放射線からの防護措置や回避策がじゅうぶんに施されないまま作戦が強行されたのかもしれない。

「いまでは、わたしたちが使える医療制度は一般市民とおなじ健康保険だけになった。命懸けで戦って、その結果、働きたくても働けない体になってしまったのに、戦争に行かなかった人たちとおなじ制度しかないの」

 元酒匂は深海海月姫と干戈(かんか)を交えた僚艦たちのその後を元長波に聞かせた。

「あの作戦でわたしたちを敵艦載機の猛撃から守ってくれた照月ちゃんと摩耶さん――摩耶さんは艦娘学校で助教をしていて、懇請のすえ現場復帰したっていう人だった――は、がんの治療と再発を繰り返して、最後には困窮から満足な治療も受けられないまま亡くなったわ。わたしといっしょに夜戦で〈シャングリラ〉を追撃した綾波ちゃんは、作戦からほんの三ヶ月後に、急性白血病で……。大鳳さんも、子宮がんがリンパに転移して、手の施しようがなくなって……。ご遺族からお手紙をいただいたんだけど、最期はスパゲッティ・シンドロームで、モルヒネで眠ったまま息を引き取ったので、お別れもいえなかったそう」

 元酒匂は滔々と語った。

「オイゲンちゃんも、もういないの。最後の手紙は、“わたしたちがしたことは、この程度の価値しかなかったのかな”っていう言葉で結ばれてた。彼女のお母さんからの手紙も同封されてた。昏睡状態がひと月つづいて、回復する見込みはないと医師に告げられて、家族で悩みに悩みぬいた結果、しかるべき手続きに則って生命維持装置を外したと。お葬式をすませ、身辺を整理していたらこの手紙を見つけたので、わざわざ送ってくれたって。日本もドイツも戦没者慰霊式典を開かなかった。あんなにいい子だったのに」

 元酒匂は元長波の来訪にあわせて用意していたアルバムを開いてみせた。さまざまな国の、さまざまな艦娘たち。ネビルシュート作戦決戦艦隊が出撃する直前に撮られた集合写真もあった。長門、プリンツ・オイゲン、照月、摩耶、綾波、大鳳、翔鶴、酒匂だった彼女、ほか大勢の艦娘たちが決意に満ちた顔を並べている。

「ネビルシュート作戦に参加した艦娘で残っているのは、もうわたしだけ。わたしもそう長くないと思う。弁護士の先生といっしょに国を相手取って戦ってきたけど、たぶん、時間切れでわたしの負けかな。こんな戦いが待ってるなんて、みんなと海にいたころには想像もしてなかった」

 

 元酒匂らを苦しめたのは放射線だけではない。

 

「最近ではね、命を国に捧げたはずの艦娘が、国相手に裁判を起こすなんて、国賊だっていう声もあるの。いきなり知らない人から電話がかかってきて、“艦娘だった奴がよく国を訴えられるもんだな、金の亡者め、恥知らず!”とか罵られて、一方的に切られるっていうことも」

 差出人不明の郵便物もしばしば届くという。

「これね、おととしのお正月にきた年賀状。こっちはことしに送られてきたの」

 年賀状には、

“明けましてご不幸でした うそつきやろう にせものやろう 日本のハジサラシ 死ねばじごくだ”

“大変だ 大変だ 金ほしさにやぼこいた売女が勝つなんて 良心があるのか”

 と殴り書きされていた。ほかにも何通とある。いずれも筆跡が異なっている。消印も共通点をみなかった。

 

「最近、不思議に思うことがあるの。艦娘として外地に出征するとき、出航する護衛艦に乗ったわたしたちに手を振って見送ってくれた人たちと、この葉書を出した人たちがおなじだったら、と……。そして、どんな顔で書いて、投函したんだろうかと」

「きっと、違う人間ですよ。世の中にはどうしようもないクズっていうのがいるんです。そういうやつは、自分が取るに足らない、いてもいなくてもいい存在だってことが心のどこかでわかってるから、それを認めたくなくて、がんばっている人や偉大な人間を貶めようとするんです。他人を冷笑することで精神的に優位に立とうとしているクソッタレのマスかき野郎どもです。こんなもの、焼いちまったほうがいい」

 アルミ箔はないかと元長波がまくしたてると、元酒匂は戸惑いながらもキッチンへ行き、アルミホイルを手にもどってきた。

 元酒匂の許しを得てからアルミホイルで即席の灰皿をつくり、その上で元長波はライターで年賀状に一枚一枚火をつける。ホイルに置かれた葉書が声なき悲鳴をあげながら燃えて萎縮する。罵詈雑言が炎のなかに消えていく。

「酒匂さんは、美しい思い出だけをいっぱいに抱えるべきなんです。こんなくだらない、薄汚い有象無象の遠吠えごときに、記憶の容量をとられるなんてもったいない」元長波は微小の燃え残りをところどころに宿した灰をみながら吐き捨てた。

「そういってもらえて、踏ん切りがついた。もしかしたらわたしが悪いことをしてるからこんなものを送られるのかもしれない、ちゃんとこういった声にも耳を傾けなきゃいけないって思うときもあったから……」

「無視するんです。差出人の名前も住所も書かれてないでしょう、反撃を受けない安全地帯からじゃないと批判もできない腰抜けばかりなんですから、耳を貸す価値もないですよ」

「そうだよね。こんなもの大事にもってても、しょうがないもんね」

 元酒匂は元長波にありがとうといってから、灰の盛られたアルミホイルをシンクに運び、たっぷりの水で濡らしてから丸めて捨てた。

 

「作戦のあと、翔鶴さんは……」もどった元酒匂に元長波は訊ねた。どうしても知りたかったことだった。

「翔鶴さんは、戦後になってリンパ節結核と糖尿病を併発して、合併症で目が見えなくなって、左足を切断する手術を受けたんだけど、それからすぐに原発不明がんで。戦争が終わってから十年めのことよ」

 そうか、と元長波は悔やむ。終戦から十年といえば経済白書が「もはや戦後ではない」としめくくられた年だ。元長波がパラオ泊地で世話になった翔鶴は、ネビルシュート作戦に際して元酒匂らとおなじ決戦艦隊に異動となった。

「彼女の配属が決まったとき、だれもが複雑な思いだったと思う。ただの翔鶴じゃない。あの420-010016の翔鶴さんだもの。わたしだって」

 元酒匂が麻のように絡まったままの胸中を覗かせる。

「翔鶴さんにいい感情を持たない艦娘がいたこともたしかだった。でも、あの翔鶴さんがいなかったら、艦娘になれなかった人もその場にたくさんいた。だれもがそれを理解してた」

 実際、ネビルシュート作戦における決戦艦隊の二個独立混成海上旅団にかぎってみても、八割以上の艦娘が艦娘無制限時代突入後に建造された、いわゆる“ポスト・ホリデイ”世代だった。

「どんな人なんだろうってずっと思ってた。実際に会ってみて、作戦に向けた訓練をともにして、信じられなかった。“こんなすばらしい人が?”って」

 元酒匂は元長波をみつめた。

「本当にあの人がやったことなの?」

 元長波の瞳にも感傷の色が混じる。

「わたしがパラオであの翔鶴さんと出会ったとき、子日もいたんです」元長波は厳しい顔で告げた。「軍事指導でブラジルに一緒に行った、あの子日ですよ」

 元酒匂の目が小さくない驚愕に見開かれる。

「あとから考えれば、あの翔鶴さんは子日にはとくに目をかけていたようでした。転属で別れるってなったときに、あいつには打ち明けたみたいです」

「子日ちゃんは何て?」

「うわさなどで以前からうすうすは知っていましたけど、はっきりと本人から伝えられたことで、やっぱりどうにもやりきれない気持ちはあったらしいです。翔鶴さんには、“できれば話さないままでいてほしかった”と……」元長波は答えた。

 元酒匂は息を吸って吐く。吸って吐く。意を決していう。

「でも、あの翔鶴さんこそ、本物の愛国者よ」


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