栄光の代償・元艦娘たちが語る対深海棲艦戦争(GHK出版新書)   作:蚕豆かいこ

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二十七 愛は、陽炎型のように

 俗に2水戦の離婚率は九十五パーセントを超えるというが、艦種や所属に関係なく、艦娘の婚姻生活には障害が少なくなかった。

「戦時中は、内地で挙式の日取りが決まってんのに急遽、海外へ派兵させられて、新婦は写真だけで結婚式に出席ってなことがままあった。出だしからそれよ。衛星通信がつかえるようになってからはスカイプで海を挟んで中継しながら式を挙げるやつもいたけどね。でも出征したまま不帰の客になることだってある。家を建てたばっかりなのに外地に転任が決まったりとかね。妊娠するにも大艦隊長、海上旅団長、海上師団長経由で本省の許可が必要だった。家族計画より軍の都合が優先さ。で、許可の申請にも艦隊内で順番が決まっていてね。先任よりさきに申請しちゃいけないって不文律があった。しくじって孕んじまったら同期に頭下げてカンパ募ってでもこっそり堕ろすのがしきたりだった」博多駅のホームに降りながら元長波はいう。耳元ではその生真面目な性分からだれにも相談できなかった浜風の子守唄が通奏低音のようにつづいている。

 

「戦地でも恋愛はあった。外地でながく勤務しているうちに、男娼とか、現地の住民だとか、内勤の軍人と恋に落ちるなんてのはざらだった。艦娘の任務はそりゃあつらいもんさ。くたばるはずの重傷を負ってもバケツで修復して、また前線に送られるんだから。バケツなんてもんが出る前の戦争なら片輪になれば銃後に帰れたのにな。死ぬまで海からは逃れられない。どうせ死ぬなら深海棲艦とさしちがえて、と考えるやつもいれば、どうせ死ぬなら深海棲艦なんかに撃沈されるんじゃなく、好きあってる男と一緒に自分たちの手で、と考えるやつもいた。そういう場合、艦娘は二番めか三番めに好きな男と心中した。そして、一番好きな男には、自分の死後の供養を頼んだんだ」

 では戦争が終わり、任務の拘束から解かれたのちは、艤装を下ろした元艦娘たちは円満な夫婦生活が営めたのか。

「妹のようになにくれと可愛がってくれた男の水兵や士官の多くは、わたしたちには食指が動かなかったみたいだ。ブルネイにいるときに終戦の詔書が渙発されて、そのだいぶ前から艦娘らしい仕事もなくなってたから実態としてはあんまり変わりがなかったとはいえ、やっぱり気持ち的にひと区切りついて、みんなが除隊後のことをああだこうだと夢みるように語り合ってたとき、ある駆逐艦娘が海軍士官に告白したんだ。その士官は船乗りでもあったからよく護衛艦にも乗り合わせてた。一緒に仕事してるうちに惚れちゃったんだろうね。勇気を振り絞って秘めたる想いってやつを打ち明けたわけだ。戦勝ムードにかこつけて。舞い上がってた。すると彼は笑ってこういった。“きみのことは大切に思っているが、艦娘と夫婦喧嘩にでもなったらなにをされるかわかったもんじゃない”。そして内地に結婚を前提に付き合ってる女性がいるとも教えられた。彼はつづけた。“もう戦争を思いださせるようなものは、そばに置いておきたくない。あの子は香水の匂いがするんだ。わかるかい、女の子の匂いだ。血とオイルの臭いしかしないきみとはちがう”。あの雰囲気ならうまくいくはずだったのになあ」元長波は寂しく笑う。「まあ、その駆逐艦娘ってのは、わたしのことなんだけど」

 

 新幹線中央改札口を抜けて、百貨店のように人でごったがえす駅ビル構内を、出口めざして杖をつく。通路という通路は店舗で縁取られ、それがビルの容積の許すかぎり張り巡らされている。ファッション、雑貨、量販店。なかでも外食産業が目立つ。長浜ラーメンの有名店のとなりに担々麺の専門店があり、対馬穴子のにおいが漂い、辛子明太子が山盛りになったどんぶりや、ビーフバター焼きといった、絵に描いたような博多名物がならぶ。地元民でも名物を毎日、口にしているはずはないが、外部の人間が想像する誇張されたイメージに、ここではことさら反抗することもなく、むしろ地名に紐づけられた名物を進んで配置することによって、抽象的にデフォルメされた博多を、博多自身があえて演じているかのようだった。

 

「あとんなって考えたら、無理もないことなのかなって思った。男ってのはある意味で女に幻想をいだいてるのかもしれない。五衰を知らないきれいな生き物ってね。かみさんの出産に立ち会ってEDになる男さえいるらしいよ。男は女が思う以上に繊細なんだ。なのに、任務を終えて母艦に帰ってきたわたしたちは、たいてい手足が揃ってない。お腹からぐにゃぐにゃの内臓が露出してるなんてめずらしくないし、目玉がだらりと垂れ下がってることも。顔が薔薇の花みたいにぐちゃぐちゃでだれだかわからなくなってたりとかね。だから、どんなに取り繕ってみてもこいつは血と内臓と糞尿が詰まった皮袋だってのが、実感としてわかってるわけだ。そんな女を抱けるかどうか。セックスのたびに、目玉とか腸が飛び出てて歯茎むきだしの血まみれの顔を思い出すのは、たしかにごめん被りたいだろうな」

 結婚をゴールインというが、実際にはそこで恋という夢が終わって現実がスタートするのかもしれない、と元長波はいう。なぜ婚姻生活をつづけられる元艦娘とそうでない元艦娘がいるのか、海軍が自殺する元艦娘とそうでない元艦娘の違いがどこにあるのか結論をだせていないように、元長波には答えが見いだせない。

「みんなにはみんなの理由がある。なんの瑕疵(かし)もないのに破局を迎えたやつだっている。わたしは、ただわたし個人に問題があったってだけなのかもしれない。うまくやってる元駆逐艦娘だっているんだから、ほら、あいつみたいに」

 観光客や勤め人を吐き出しては呑み込む博多口のファサードにたたずんでいる、元長波と似た年恰好の女性に顎をしゃくる。その女性は、待ち人をみつけ、弾けんばかりの笑顔で手を振りながら歩いてくる。行き交う人々もひしめく店も、すべてが色を失った書き割りとなる。いまのふたりにとって世界で彩色されているのはお互いだけだ。解体されてから元長波と会うのははじめて、内地で会うのもはじめてという女性は、体をぶつけるように抱きすくめ、

「やっと会えた!」

 と歓喜を爆発させた。かつてシリアルナンバー907-010927、陽炎型駆逐艦娘陽炎(かげろう)だった彼女は、あ、と声をあげて体を離す。

「ごめんなさい、わたしったら、つい。大丈夫?」

 病身の元長波を気遣った。

「わたしの弁護士が、いまので依頼人の余命が縮んだから損害賠償訴訟を起こすってさ」

 元長波に、元陽炎が口元を緩めて、

「そりゃ弁護士(ロイヤー)じゃなくて、うそつき(ライアー)ね」

 といった。元長波も笑った。あらためてふたりは抱擁を交わす。

「元気にしてたか、陽炎」

「それだけが取り柄みたいなものよ、長波」

 駐車場では元陽炎の夫が自動車で待っていた。他人にも自分にもうそがつけなさそうな好人物だった。「長波、こちらがわたしの主人よ。あなた、この人が話してたわたしの先輩。長波だった人」元陽炎があいだに入って紹介した。

「すみません、わたしのわがままに付き合わせてしまって」

 元長波は頭を下げた。元陽炎の夫は恐縮した。「元艦娘で、こいつの先任なら、ぼくにとっても他人じゃありませんよ」

 自らも海軍に籍を置いていた元陽炎の夫は、後部席のドアを開けて元長波を導いた。元長波は礼をいって乗り込む。元陽炎が夫を指さす。

「この人、わたしにはそんなエスコートしてくれたことないのよ」

「あなたにお会いできたらぜひお伺いしたかったのですが、うちの家内はエスコートが必要な女性でしたか?」

 頭をぶつけないよう腕でフレームに庇をつくっていた夫が元長波に訊ねる。元長波は現役時代の駆逐艦娘の役割を思い出して、

「むしろエスコートする側でしたね」

「ですよねえ」夫が勝ち誇った笑みを元陽炎に投げかける。元陽炎は苦笑いで肩をすくめる。そのなにげないやりとりに元長波は夫婦の絆をみてとっている。

「体の調子はどうなの? 歩きにくそうだったから」

 車が走り出してから元陽炎が助手席から訊く。

「老いさらばえてるんだよ。頭も目も耳も、足も悪くなった」

「わたしが三十九だから、長波はまだ四十二でしょう?」

「四十二だぜ、四十二。駆逐艦娘だったやつが。ばあさん通り越して生き仏の域よ。そりゃあ、歳は毎年とるんだから、いつかはなるもんなんだけど、まさか自分が四十代になろうとは、実際になってみるまでは思いもよらなかった」

 車中は三人の笑いで満たされた。

「あと、足が悪いのは脳腫瘍のせいなんだ」元長波は自分からあらためて病状を明かす。「余命ひと月もないんだってさ」

「なんか不思議ね。いまの時代だと余命ひと月ってたいへんなことみたいに思えるもの」

 元陽炎に元長波も同調する。「駆逐艦娘の平均寿命がひと月で、それ以上はオマケって感覚だったもんな。気がつけば二十歳になってて、いいかげんもうそろそろ沈むだろう、きょうかな、あしたかなって思ってたら、終戦に。その日をさかいに、わたしたちの平均寿命は十四歳から七十歳にいきなり伸びたんだ」

 

 終戦の日、元長波はブルネイにいて、元陽炎は霞ヶ関にいた。元長波は除隊まで2水戦にいたが、元陽炎はブラジルから帰国したのち広報に移った。2水戦の艦娘たちがとりわけ危険きわまる任務に従事していることを巷間に強力に宣伝し、正当な評価を得る必要がある。海軍のその方針は2水戦から広告塔になる人物の抽出を要求することとなった。当時子日だった女性はうってつけだった。これに加えて元陽炎をふくむ数隻が送り込まれた。

 艦娘の仕事は、深海棲艦と戦うだけではなかった。戦時中、海軍で行われたある定例記者会見で、記者が広報官に「海軍が最も重要視していることは?」と初歩的な質問をしたことがあった。だれもが「深海棲艦に勝つことだ」という返答を期待した。広報官はこう答えた。「納税者からの理解を得ることです」。

 

 五島列島の姫神島に泊地棲姫Ⅱが上陸するまで、深海棲艦はながいあいだ少なくない数の国民にその存在を疑われた。深海棲艦の存在は政府や軍による翼賛体制の確立を狙ったでっち上げだったと主張する陰謀論者は現在ですら後を絶たない。主戦力となる艦娘の供給源はほかでもない国民である。国民に理解を呼びかけるため、広報を無視することはできなかった。容姿が端麗な艦娘を選り抜いた海上儀仗隊(正確な表記は「海上儀じょう隊」)が設立されたこともあった。艦娘と深海棲艦との戦いを扱った映画が製作されるとあれば、軍は積極的に協力した。

 

 儀仗隊や映画ほどではなくともマスコミに関わった艦娘は少なくない。元陽炎もそのひとりだ。元陽炎は防衛省で広報室勤務を命じられた。

 着任した当初はテレビと雑誌の担当だった。広報はそれまでのお役所仕事――システムをより改善して利用者の利便性を向上させていくのではなく、システムに利用者が合わせることを強要して工夫も改善もしない――とはなにもかも勝手が違った。テレビの記者相手なら、武器装備の型通りの紹介だけでなく、訓練風景や、艦娘のプライベートなど、硬軟織り交ぜたメニューを取り揃え、素材としてつかいやすい切り口でまとめて、「夕方のニュースにいかがですか」と売り込みをかけなければならない。

「わりと楽しい仕事だったわ」と元陽炎は振り返る。「それまで海軍の世界がこの世のすべてだと思っていたのが、世間っていう外部から軍を眺めることになって、視野が開けたような思いだった。なにしろニュース番組も雑誌の誌面もかぎりがあるから一部の無駄も許さない。ときにはこちらの思惑以上に素晴らしい“宣伝”をしてくれたわ。なんせ、政府っていうのはPRのセンスが大破着底してるから」

 たとえば軍が手ずから新聞に広告を打つ。広告には、海軍がどれだけ若者の青春を燃焼させるにふさわしい組織であるか、いかにも教科書どおりに生きてきたという無害な顔の艦娘が、精製水のように透明で味もにおいも感じられない言葉を寄せる。「艦娘になる前、わたしはこれといった人生の目標を持てずにいました。艦娘になった今、親のような上官の方々、きょうだいのような仲間に囲まれ、とても充実した日々を過ごしています。まだまだ至らないところの多いわたしですが、国民の負託に応えられるよう、誠心誠意努力して参る所存です」。併載されている写真ではその艦娘がにぎった拳を掲げて笑顔をみせ、やや大きめの文字が重なる。「艦娘になれば、本当の自分に会える!」。果たして、この広告を見たどれだけの、それまで艦娘に興味を持っていなかった女性が、海軍への入隊を決意などするだろうか?

 

「アイオワは艦娘になってマジで変わったらしいけどな」元長波が後部座席から口を挟む。

「そうなの?」

「そうか、陽炎はタウイタウイにいなかったんだっけ。そこにいたガンビア・ベイがアイオワとミドルスクール時代の同級生でね、学校じゃアイオワはそりゃもう目立たないナードだったらしいよ。ガンビアの記憶にあるアイオワは、真っ黒な髪をきつい三つ編みのおさげにして、デコも丸出し、そばかすがあって、度の強い眼鏡かけて、歯の矯正具つけてるせいで少ししゃべっては唾をすすらなきゃいけなかったんで、だれとも付き合わずに本ばっか読んでるガリ勉だったんだとさ。で、海軍に入って、新しい環境ってことでチャンスと思ったのか、あのチアリーダーみたいな感じにキャラ変えたと。艦娘になってから再会したときは、最初だれかわからなかったとか」

「そういう意味じゃ、艦娘になって変わったといえるかもしれないわね」

「でもまあ仕事は真面目で優秀だし、それでいて言語の違いを超えた雄弁さがあるっていうか、頭は回るし、ごく自然に気づかいもできるし、素直で気持ちのいいやつだった」

「あなたたちと違って警察沙汰なんか起こさなかったしね」と元陽炎が笑う。

「若さっていうのは悍馬みたいなもんなんだよ」と元長波も笑う。

「そんなに警察のお世話になることが?」

 打ち解けてきた元陽炎の夫が運転しながら会話に参加する。

「若いころの悪事を自慢したいわけではありませんが」元長波は断りを入れてから、「2水戦はバーでよく騒動を起こすということで有名です。わたしたちは不利な状況でも深海棲艦と戦って生き残るすべを叩き込まれてる。でも中身は子供のまま。このふたつが同居してるのが、2水戦なんです。どんな人間になるかわかるでしょう? ところで、繁華街やバーでは、やたら見ず知らずの人間に絡みたがるチンピラがみられます。肩をぶつけてきたり、にやにやしながら睨みつけてきたり。たいていは無視することと思います。でも2水戦にそんなことをすれば、なにせ子供ですから我慢できずに殴り倒します。相手がだれかはそれから考える。精神が未熟なのに、腕力と白兵戦の心得だけはあるからたちが悪い。基地の上官も喧嘩をするなとはいいませんでした。無駄だから。ただ“自分からは仕掛けるな”という最低限のROE(交戦規定)だけは徹底させ、わたしたちは厳守しました。だからいちおう弁明しておくと、2水戦がらみの喧嘩は、2水戦がなんだ、おれにかかればいちころさ、ヒイヒイいわせてやったぜ、そう仲間に自慢する武勇伝をほしがる連中の稚拙な功名心からはじまるんです」

「われわれ男連中は上官から、酒場で2水戦にだけは絶対に喧嘩を売るなと釘を刺されていました。法的に自殺と認定されるという冗談も」

「仮にも女なんだからバーでは口説かれたいのにね」元長波はそういって笑った。「あれは何度めかの派兵を終えて待機任務で佐世保にいたころだったっけ。わたしと朝霜と磯風の三隻でちょっと遠出して、新しいバーを開拓しに行ったんです。見慣れない女三人、それも十代の子供が、艦娘の身分証があるとはいえ我が物顔で酒飲んで、煙草ぷかぷか。騒いでもいた。案の定、ごろつきたちが難癖つけてきました。おれたちの税金で飲む酒はうまいか、寄生虫飼ってるような女は失せろ、みたいな感じで。売り言葉に買い言葉を繰り返してたら、相手のひとりが“そんなに飲みたいなら飲ませてやる。おごりだ”って、朝霜にビールぶっかけたんです」

 ハウスミュージックに満たされた店内をびんやテーブルが飛んだ。悲鳴がこだました。立っていたのは駆逐艦娘三隻だった。

「そうしたら、あの店の常連には2水戦に喧嘩を売る骨のあるやつがいるらしい、と鎮守府でうわさになりました。ほかの2水戦のやつらが喜び勇んで通い詰めました。するとチンピラたちのあいだでも、あの店には2水戦が毎日きてるらしいぞとうわさが広がって、ある夜、仕返しをかねて準備万端待ち構えていたらしいんです。その夜は留置場が満員御礼になったそうですよ。わたしと朝霜はその日は行かなかったんですが」

「なんで?」元陽炎が訊いた。

「入渠してたんだよ。わたしももう十八歳かそこらだったからさ、時間がかかって」元長波がいうと元陽炎は納得する。高速修復材で促進される細胞分裂の速度はもともとの活性に依存する。年齢を重ねて細胞の分裂が遅くなると修復材による治療時間も長くなっていく。元長波がはじめて入渠したとき、右腕は希釈液でも十分少々で再生した。佐世保にいた2水戦の大半が酒場を経由して留置場に無断外泊することになった夜は、元長波は昼の任務でひさしぶりに重傷を負って鎮守府にいた。空から落ちてきた砲弾がすぐ後ろで爆発して、破片が右の二の腕を切断し、衝撃波が音速より速く後頭部をぶちのめした。目玉が両方とも飛び出した。おなじく負傷していた朝霜だった同期に「アメリカンクラッカーみてーになってんぞ」とからかわれた。希釈された修復材では右腕一本を再生するだけで一時間以上もかかるようになっていた。

 元長波はこのときに外傷性脳損傷(TBI)患者の仲間入りをした。元長波の目玉を流星のように眼窩から射出させた衝撃波は脳もぐらぐら揺らした。新しいことを記憶しにくくなった。ひとつのことに長時間集中できなくなった。意味もなく激昂するようになった。ドックで適温の修復材溶液に浸かりながら欠損部位がのんびり再生していくさまを眺める元長波はまだ知らなかった。自分の脳が壊れたことも、2水戦の仲間たちが例のバーでならず者たちと大乱闘を演じたことも。

「いまでもその店がある街は、艦娘はいっさい出入り禁止なんだそうです」

 と元長波は思い出話をしめた。

 

 艦娘は喧嘩くらいなら逮捕されても起訴はされず、されたとしても棄却される。その一件でも2水戦だけが早々に釈放された。問題はマスコミ対策だ。

「そういう事件が起きるたび、先手を打ってメディアに連絡をとって、最低でも事実を正確に報道してもらう、あわよくば手心を加えてもらうようにお願いするのも、わたしたち広報の仕事だったわけ」元陽炎がいう。

 テレビ、雑誌の広報担当でキャリアを積んだ元陽炎は新聞担当に移っていた。防衛省記者クラブとの付き合いで元陽炎は、新聞こそが名実ともにいまなおマスメディアの頂点に位置し、しかも鎮守府に集まる新聞記者たちは、いずれ劣らぬ多士済々であると実感させられた。

「孫子が“兵は国の大事なり、死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり”(戦争は国民を生きるか死ぬかの瀬戸際に立たせ、国家存亡の危機に陥れてしまうから、軽々に考えていてはいけない)というように、いつの世でも国防は最も重大な関心事だし、実際に日本は深海棲艦と戦争してる真っ最中なんだから、各社はどこも一級の腕利き記者を防衛省記者クラブに送り込んでたの。味方につけることができたら心強いけど、軍の小飼いじゃないから油断がならない。うまく利用するのが上策なのよ。あいつに恩を売っといて損はないと思わせるというか。それは相手としてもおなじことだっただろうけど」

「記者クラブの除名をほのめかして、いうこと聞かすとかは?」

「いちばんやっちゃいけないことね。言論統制だファシズムだと騒ぎ立てられることになる。利用するっていっても基本的にジャーナリストには頭が上がらなかったわ。彼らのペン一本で軍の評判が決まるもの。前線の艦娘がどれだけ戦果を挙げても、マスコミに取り上げてもらえなかったり、まして批判なんかされてしまったら、仲間たちの血の犠牲もすべて水の泡。だからなんとかご機嫌をとった」

 内局広報課、海軍幕僚広報室、各地方総監部広報室は競うように記者サービスに努めた。夜の広報室はさながら居酒屋の観を呈した。

「接待の面でいうなら海軍は陸と空より有利だったかもね。潜水艦娘に獲らせたオコゼとかアコウづくしの料理とか出せたから」

 そういう元陽炎も広報担当として積極的に記者と酒を酌み交わし、本音をぶつけあった。記者たちは軍の度重なる不祥事を舌鋒するどく批判し、元陽炎は元陽炎で「不祥事は面目ないことですし、報道されてしかるべきですが、幼くして親元を離れた艦娘たちが、遠い海でわが国のために命がけで挙げている成果についても触れなければ、御社としても公平性を欠くのでは?」と報道姿勢について忌憚なく反論した。そうしてはじめて信頼が生まれ、単なる仕事上の付き合いを超えた親密な人間関係が構築できると話す。

 

 なかにはジャーナリストの威光を笠に着て権柄づくな態度をとる記者もいたという。

「ゴルフの接待があってね、北海道に記者クラブの人たちを招待したの。航空券もホテル代も全部広報室もちでね。空港からゴルフ場に行く車のなかで、ある記者のゴルフバッグがないことに広報班長が気づいた。大の男が大わらわになって、べつのバスに乗ってる記者に知られないうちに探そうと急いで空港にとんぼ返りしても、どこにもない。わたしも一緒に随いていってたんだけど、班長ったら真っ青になってたわ。このままじゃ、軍はロストバゲッジするような三流会社に自国民を乗せるのか、だなんて書かれかねない。軍は大恥をかく。そのお鉢は必ずわたしたちに回ってくる」

 沈痛な思いで広報班長と元陽炎はゴルフ場へ戻った。元陽炎は携帯端末で代替のゴルフ用品を購入できる店を探しながら、こんなことのために艦娘になったのだろうかという疑念が払拭できなかった。

「結局、どうなったんだ」

 元長波がせきこんで訊くと、

「そいつ、元からゴルフバッグなんて持ってきてなかったのよ。自分は接待される側なんだから手ぶらで来て当たり前、道具はもろもろ一式こちらが用意するものと思ってたんですって」

 元陽炎は馬鹿馬鹿しそうに答えた。

「他人のクラブでゴルフやって楽しいのかね」

「他人に用意させたものだからこそ楽しめるっていう人種だったんでしょうね」

 

 しかし多くの記者は話のわかる手練れだった。こんなこともあったと元陽炎は話した。かつて潜水艦娘部隊のトンガ海溝偵察作戦を〈緯度0大作戦〉と名づけた全国紙から配置されていた、ある社会部の女性記者と、元陽炎は格別に気が合った。立場の違いこそあれ、広報室や六本木界隈の居酒屋でたびたび深酒し、女だてらに天下国家を論じるのが日課になった。記者の帰宅途上に元陽炎の官舎があるときは新聞社の社用車に便乗させてくれるほどの仲だった。

 某日、その女性記者から相談を受けた。「わたしが駆け出しのころにお世話になった京都府の支局長から、五年前のMI作戦のおりに奇襲された本土を第234海上師団と連携して防衛せしめた、かの第140海上師団に、海上師団長を表敬したいと要請されたのですが、よろしくお願いします」。お安い御用と元陽炎はさっそくに第140海上師団広報を通じてアポイントをとった。海上師団長はMI作戦当時から代替わりしていたものの、孤塁死守の苦境を乗り越えた自負、また得られた教訓は大きく、いまも自分をふくめ隷下は祖国蹂躙を防いだ先人たちの系譜に連なるものとして恥じるところのないよう、ひとりも余さずたゆまぬ努力に励んでいる、訪問は望外のよろこびだと、もろ手を上げて歓迎した。海上師団長は訓練施設の案内を買って出たばかりか、支局長と昼食までともにした。

 その日の夕刻、女性記者が海上幕僚広報室を訪れ、元陽炎に支局長の第140海上師団訪問セッティングの礼を述べてから、「折り入ってお話が」と神妙な顔つきになった。「京都支局長とのお話のなかで、140海上師団長が、“欧州貴族には高貴な者こそ国家と大衆へ奉仕する義務があるという伝統があります。現に、ドイツでは歴史ある貴族の家からビスマルクやグラーフ・ツェッペリンが輩出されていますし、英王室でも女性は一度は艦娘にならなければならず、現在タウイタウイ泊地に英国から海外特派されているウォースパイトもロイヤル・ファミリーのメンバーです。日本でも皇室のかたがたが率先して艦娘をふくめた軍への勤務をしていただけるようになれば、国民の国防意識もさらに高まることが期待できるのではないか”というような趣旨の発言をされたそうです。京都支局長はひそかに録音もしていたようで、これを記事にしてゲラを本社に送ってきたんです。本社は特ダネとしてあすの朝刊に出す方向で一致しました。いちおう、お耳に入れておこうと思いまして」。

 元陽炎は手足の末端から血の気が引いた。軍が皇室に文句をつけている――そんな記事が世に出ればどうなるか、考えるまでもない。世論は(かなえ)の沸くがごとしとなり、防衛省が非難の矢面に立たされ、防衛大臣の辞職どころか、内閣が倒れるところまで元陽炎にはたやすく想像できた。140海上師団長はもちろん、海軍大将、防衛省事務次官は更迭されるだろう。表敬訪問をお膳立てした元陽炎も辞表を書かなくてはならない。

「そこでわたしは、海にいてとびっきりやばかったときのことを思い出した」元陽炎はいう。「圧倒的劣勢で、生きるか死ぬか、一秒ごとにコイントスで決められていたような戦闘を。それにくらべれば、なんてことはないって、一気に冷静になったわ」

 取り乱すことなく、元陽炎は自分でも驚くほど泰然とした顔で対応した。「そうなんですか、報道の自由はわが国が世界に誇ることのできる美徳のひとつですからね。しかし、その記事が実際に紙面に掲載された場合、果たして御社の利益にかなう結果になるでしょうか。釈迦に説法になりますが、皇室関連の話題がいかにデリケートであるかは、ご承知のことと思います。今回の件を報じるにあたっては、軍と皇室の関係、また日本の国防における“高貴なる者の義務”の適否に至るまで、広く世に問うことになるでしょう。それは御社の経営ないし、報道戦略に、かならずしも合致するとはいえないのではないですか」。そこでわざと表情を和らげて、「わたしは京都支局長の表敬とうかがっていたものですから、正式な取材ではないと考えていました。140海上師団長もそう信じていたからこそ、非公開の施設を案内し、実弾射撃訓練までご覧に入れて、腹を割ってお話しをさせていただいたわけです。よもや天下の四大紙に数えられる御社が、恩を仇で返すような仕打ちはなさらないと信じていますよ」。記者はしっかりと頷いて広報室を後にした。

 うろたえる同僚たちをよそに、元陽炎は広報室で時計とにらみあいながらじっと時間をすごした。朝刊の締切時刻は二十二時、二十四時、二十五時、二十五時半の四段階ある。配達に時間のかかる地方の印刷所としては早く原稿がほしい。だから本社から離れた地域ほど早い締切時刻で版を刷る。遅い版になるほど締め切りにも余裕があるのでより最新のニュースが盛り込める。全国紙の本社は東京にある。おなじ日の朝刊でも、東京から遠い地方に配達される版は締切時刻が早いので情報としては古い。都内で配達されるのは最後の版だから、最新の情報が入った完成形が配達される。田舎で購読する全国紙では昨夜のナイターの試合結果が途中までしか入っておらず、地元紙では最後まで載っているというようなことがあるのは、本社から配達地域までの物理的な距離で締切時刻が変わってくることによる。新聞記者たちは午前二時以降に災害や大事件が起きないように夜毎祈るという。

 元陽炎もこのときほど締め切りに胃痛をおぼえたことはなかった。二十二時がすぎ、二十四時がすぎた。二十五時になっても連絡がない。

 時計がついに二十五時半を示し、元陽炎がため息をついて椅子に座ったまま伸びをして、辞表の入った引き出しに手をかけたとき、例の記者が広報室へなんでもないような顔で訪ねてきて、まるであしたの天気について話しているようにさりげなく「記事は取り下げになった」と伝えてきた。元陽炎も「ふうん」としか答えなかった。なにごとも起こらなかったような、ただ退勤時間が遅い以外はいつもの水曜日だったという様子で、記者も元陽炎も社用車で家路に就いた。

「まさかわたしひとりの説得だけで見送りになったとは思えないけどね。編集部や経営陣が再考した結果、ネタが危なっかしくてやめたってだけかもしれないし」

「とはいえ一度は掲載が決まってたんだろ? それが覆ったんだから少なからずおまえの忠告が影響したんじゃないか。わたしなんかよりよほど胆が据わってるよ。やっぱりエスコートするほうが向いてる」

 車内は爆笑に包まれた。

 艦娘の戦場は海だけではなかった。深海棲艦のいない本国の、霞ヶ関の、コンクリートで囲まれた都市の、ビルのなかの、情報で輻輳する広報室もまた、艦娘にとっての戦場だった。

 戦後の社会も、元艦娘にとっては戦場なのかもしれない。

 

「では、積もる話もあるでしょうから、ぼくはそこらへんをぶらぶらしていますよ」

 家に着いてひと息入れていると、元陽炎の夫はそういって廊下へ出るドアに手をかけた。

「奥さんをしばらくお借りします」

「そんなのでよければ、いくらでも」元陽炎の夫はほがらかに笑う。元陽炎も怒るふりをして笑う。

 元陽炎の夫が出ていく音を聞き届けてから、元長波は、

「いい旦那さんじゃんか」

 とちょっかいを出した。

「あげないわよ」

「盗るかよ。すぐに未亡人になっちまうだろ、あっちが」

「もう生理は上がったの?」

「終戦から五年めくらいだったかな。仮にわたしが生理上がってなくて、まだくたばらなかったとしてもだな、いまから仕込んで産んだら、子供が高校卒業するころには還暦だぜ」

「いっそ長波とあの人との子供なら可愛がってあげられたかもね。もっと早く連絡をとればよかったわ。“長波、子宮を貸してちょうだい、あと卵子”って」

「倫理とか道徳とかを、クソと一緒にサーモン海に捨ててきたのか。しかもわたしの都合は無視かよ」

 ふたりは動物の子供がじゃれあうように軽口を交わした。元長波いわく、減らず口が駆逐艦娘のあいさつだ。

「未婚者として気になることなんだが、旦那さんのどこに惚れ込んで結婚を決めたんだ?」

 興味本位で質問すると、茶を淹れた元陽炎は、

「たぶん、相手のどこかを好きになって結婚した夫婦って、いつかうまくいかなくなると思うのよ」

 と、カウチに腰を下ろしながら自分の茶に口をつけた。元長波には思いもかけない返答だった。

「わたしも元艦娘仲間とか、仕事でみてきた夫婦のことしかわからないから、ただの独断と偏見ってやつなのかもしれないけど」

「わたしが聞きたいのは、まさにそれさ。つづけてくれ」

「女が男を好きになる理由はいろいろあると思う。ワイルドなところが好きだとか、トークが上手くて楽しませてくれるから好きとか。でもそれって、十年後にはそのまま嫌いな理由になるのよ。ワイルドだった男はただガサツなだけに思えてくるし、話が面白い人はひとりになりたいときも話しかけてくる鬱陶しい人になる。だから、ここが好きっていう理由は、いらないのかもしれない」元陽炎は茶を含んだ。「わたしがあの人を選んだのは――こんなことをいうと怒られるかもしれないけど――明確にあの人のどこが好きか、よくわからないの。ただ、一緒にいることが負担にならなかった。会話のない沈黙すら心地よかった。たぶん、これからの人生で、こんな人は二度とわたしには現れないだろうって思った。一緒にいてほしい人には、はっきりと言葉で伝えて、理解を請い、がっちりと係留しないと。取り替えがきかない、失いたくない人だと気づいたら、なにを置いても絶対に手放しちゃいけないのよ。出逢えたというチャンスをしっかり手繰り寄せて、黙っていてもいまの関係がつづいてくれるなんて甘えず、自分の弱さを包み隠さず並べてみせて、こんなわたしでもあなたに心臓を預ける覚悟はできているから、あなたの隣にいさせてと、許可を得るの」

 告白したときの彼の反応は、「ぼくのほうからいうつもりだったのに、先を越されちゃったな」だった。

「いまどきの人たちは、子供ができたのをきっかけに籍を入れるっていう場合が多いんでしょうけど、わたしにはそれがないから、できればわたしのほうからいいたかった。戦争のおかげで、いまでも朝起きるたびに“きょうが人生最後の日だとしたら、わたしはなにをするべきか?”って考えられるようになってたから。ま、戦争から勇気はもらえたわ」

「“人生最後の日だとしたらなにをするべきか”……なるほどな」

「わたしが思うに、自分はいつまでも生きていられる、ずっと若いままでいられるってなんの根拠もなく信じてるから、多くの人は毎日を無駄に流されるまま過ごしちゃうんじゃないかしら。わたしたち駆逐艦娘はつぎのソーティーから帰ってこられる保証がなかった。きょう死ぬかもしれない。それが毎日つづいた。長波もいってたでしょ、あのときのわたしたちの平均寿命は二十歳、駆逐艦娘なら十四歳だった、それが戦争が終わった瞬間に七十だか八十だかになった……。そう考えると、命っていうのは時間そのものであるともいえるのよね。十四年が八十年になったわけだから。しばしば戦争の話を職場の人たちからせがまれて、生と死がべったりと密着したあのころのことを聞かせると、たいていの人がこういうの……“いまの話で生まれてはじめて、死というものを意識しました。怖いです”。なにが怖いのかっていうと、死ぬことが怖いっていう。わたしには理解できなかった。命とは時間なのよ。ということは、仕事をするならそれだけ寿命を差し出してるってわけ。終身雇用なら四十年の寿命を提供して対価を得てる。なら、本当にいまの仕事は自分の寿命を差し出すのにふさわしいものなのか、ほかにもっとやりたいことはあるんじゃないかって考えるはず。仕事をするとしたら、全力を尽くしても、会社のお荷物になるような働きぶりでも、失う時間はおなじ。命は時間であるなら、時間を無駄にするということは、命を失ってるのとおなじことよね。なぜ時間を失うことは平気でやれるのに、死ぬ、つまり命を失うことが怖いのかっていう話になる」

「たしかにな。きょう死ぬ、あした死ぬって意識していれば、一日だって無駄にはしない。自分にとって本当にするべきことはなにか真剣に考えるし、答えがみつかればすぐに行動に移すだろう」

 脳腫瘍が発覚してから仲間たちに会おうと決心したわたしのように、という思いを込めて元長波はいった。

「そう。一日一日を寿命だと考えていればおのずと後悔のない選択ができる。なにもせずに過ごした場合とわずかとはいっても差がつく。そうして十年も経てば大きな違いになる。振り返ったとき、きっといままで毎日がんばってきた過去の自分に感謝したくなる。わたしは、未来の自分に感謝される人間でありたいの。あのときああしていればみたいな後悔なんてしたくなかった。いまのわたしは、ちゃんと彼に気持ちを伝えることができた自分に感謝してる」

 元陽炎は澄んだ瞳を伏せ、

「まして、わたしは子供が産めないもの。あの人はそんなわたしでもいいっていってくれた。わたしの人生でいちばんの戦利品よ」

 自らの下腹部に手を当てた。

 

 元陽炎は現役中、改二になった。艦娘は深海棲艦から摘出した寄生生物を移植することで深海棲艦と戦う能力を得る。自由生活では生存できない寄生生物は生き延びるために人間を代替の宿主とする。寄生生物は艦娘の体内で枝分かれするように分裂して増殖する。一定の密度になると寄生生物の一部がオスに性転換する。しかし寄生生物どうしは生殖しない。一隻の深海棲艦に寄生している寄生生物は遺伝的にすべて同一個体である。艦娘もまた、建造時に寄生生物を二頭以上移植すると体内で激しく争い、生き残った一頭だけが定着する。そこから自らのコピーを量産して宿主のなかに王国を築く。

 よって、いくら性転換しても、宿主の体内にいる寄生生物はすべて自分とまったくおなじ遺伝子をもつクローンであるために、交配しても意味がない。

 ならば寄生生物はどうやって生殖するのか?

 寄生生物は、まず性転換したオスが血流に乗って、宿主である深海棲艦の生殖器官をめざす。やがて卵巣に侵入したオスは、深海棲艦の卵子と、自分の精子を受精させる。この直後にオスは死ぬが、受精卵はなんら問題なく育っていく。こうして深海棲艦は寄生生物の幼生を産むことになる。宿主の生殖器官を自分専用に改造してしまう寄生虫はほかにフクロムシが知られているが、卵子まで利用するのは極めて特異である。

 

 同様の現象は艦娘でも起きる。オスの寄生生物が卵巣にたどりつくと卵子に精子を結合させようとする。しかし、寄生生物と人間の受精卵は着床しない。人間が犬を獣姦しても子供が産まれないのとおなじである。むしろ寄生生物が分類的にまったく縁のない深海棲艦の卵子を利用できることのほうが異常なのであるが、その謎は解明できていない。

 とはいえ、人間の卵子でも受精卵の着床がなされないだけで、受精自体はする。つまり卵子を無駄遣いされることになる。

 生きているかぎり生産できる精子と違って、卵子の数には限りがある。卵子は素体である卵母細胞のかたちで卵巣中の卵胞(らんほう)という個室にひとつずつストックされている。女性は一生ぶんの卵胞と卵母細胞をもって生まれてくるが、これらは思春期を迎えるまではいったん休眠に入る。この休眠状態にある卵胞が原始卵胞である。

 思春期になり、卵胞刺激ホルモンと黄体形成ホルモンの合図を受けると、毎回二十個ほどの原始卵胞が活動を再開し、六ヶ月かけて成長をはじめる。

 発育を同時にスタートさせた二十個のうち、最終段階まで成熟できる卵胞はひとつだけである。選ばれた卵胞はついに破裂し、内部で大切に育まれていた卵子が排出される。これが排卵である。用済みになった卵胞は黄体というホルモン爆弾に変わり、プロゲステロン(黄体ホルモン)とエストロゲン(女性ホルモン)を大量に分泌して子宮内膜を良好な状態に維持し、受精卵の着床を支援する。

 ヒトの女性は、生まれたときには二〇〇万個の原始卵胞と卵母細胞を持っているが、初潮を迎えるころには二十万から三十万個にまで減少している。さらには一回の月経ごとに十代では一〇〇〇個が、三十代では三〇〇個が、卵子になれないまま死滅していく。二〇〇万個の原始卵胞のうち排卵できるのはわずか四〇〇個前後といわれている。2戦教によって徹底的にふるいにかけられた精鋭だけが2水戦になれるのとおなじだ。選び抜かれた原始卵胞だけが卵子を産む資格を勝ち取れる。

 排卵は通常、二十八日に一度であり、初潮から閉経、すなわち原始卵胞のストックが尽きるまでは、平均して三十五年から四十年間となる。

 オスの寄生生物が分泌するホルモンは原始卵胞を強制的、かつ高速で卵子にまで成熟させることが確認されている。このホルモンは、本来はプロゲステロンやエストロゲンとおなじく、深海棲艦の卵子と自身の精子の受精卵を、より確実に着床させる役割があると考えられる。

 オスの寄生生物は、艦娘の原始卵胞をどんどん発育させて排卵させては、着床しない受精卵をつくっていく。しかも通常の月経も並行して進む。そのため艦娘の閉経は通常の女性より遥かに早い。

 寄生生物によってすべての原始卵胞を消費され尽くされてしまうと、新たな変化が生じる。寄生生物はひたすら枝分かれの増殖に専念し、個体数が激増することから干渉波の出力が上昇する。より強固な結界を有する深海棲艦とわたりあえるようになるのだ。それは艦娘として次なる階梯(かいてい)へ昇ったことを意味する。これを軍ではさらなる改、改二と呼称した。

 改二の艦娘は、原始卵胞をすべて寄生生物に消費されてしまうほどの長期勤続に耐えた、それだけ死なずに生き延びて任務をこなしてきたことを意味し、性能向上もあって尊敬の対象となる。また改二になると外貌が美しくなるという俗説もあった。寄生生物のオスは、宿主の卵子がなくなったあと、排卵した卵胞のように死ぬまで着床支援ホルモンを分泌しつづける。このホルモンは女性ホルモンと酷似した性質をもつ。女性ホルモンにはコラーゲンやヒアルロン酸の合成を促進する作用があるため、美肌の効果があり、髪のキューティクルも整えられる。しかも、女性ホルモンは乳房の発達にも大きな影響を与えることが知られている。

 よって、改二になった艦娘は、肌のきめが細かくなり、髪には艶が生まれ、バストもアップして、女性的な魅力が増す傾向にある。艦娘たちのあこがれの的にならないわけがなかった。

 いつ改二になるか、それは個人差が大きい。おなじ長波シリーズでも、期別が下の艦娘が閉経して改二になっていくなか、元長波は現役中に卵胞が尽きることはなかった。

 元陽炎は改二だった。同期のなかでは最初の改二ということもあって自慢して回り、生理痛に悩む僚艦に、「あんたまだ卵産んでんの」とからかうこともよくあった。月経がないことはそれだけで肉体的にも精神的にも楽だった。子供は産めないが、平均寿命十四歳の駆逐艦娘にとっては、欠点でもなんでもないはずだった。

「だって、まさか生きてるうちに戦争が終わって、しかも一生添い遂げたい人までみつかるだなんて、想像もしてなかったんだもの」

 彼女たちは戦争を勝利というかたちで終わらせた英雄だった。英雄は戦後も幸せでいなければならない。そんな重圧を世間から感じたことは一度や二度ではなかった。

「艦娘から人間にもどって、女として充実した第二の人生を歩まねばならない。だれかがはっきりそう言ったわけじゃないわ。けれど、華々しい活躍をした英雄が、戦いの終わったあとに失業者になり、いつまでも過去の栄光にすがってアルコールに溺れるなんて、だれもが幻滅するに決まってる。やがては鬱陶しがられるの。“あなたには感謝している、でもいつまでも面倒はみられない”ってね。戦争を生き抜いたバイタリティと運を持ち合わせている英雄は、戦後も民間でひとかどの人物になれるとみんな根拠もなく信じている。その幻想を笑顔でおしつけてくる。戦争で生き残ることと幸せになれることは、まったくべつの才能なのに」

 十八歳で閉経した元陽炎が述懐する。

「幸せというタグをつけるために結婚したわけじゃないわ。彼のことは愛してる。心から愛してるから結婚した。けれど、わたしは愛する彼の子供も産めないの。街を歩いているとき、ふと彼の視線が子連れの家族に動くときがあるわ」

 元陽炎は自分の両手に視線を落とす。

「わたしは普通の女性たちのように赤ちゃんをこの手に抱けない。わたしと同年代や若い母親、そう、戦争に行かなかった彼女たちのように、子供の入学式に出たり、授業参観に行ったり、PTAに入ったり、反抗期で手を焼いたり、成人式で晴れの姿をみることもできない。孫の顔だって。彼はそれでもいいって言ってくれてる。わたしという人間を愛しているからべつにいいんだって。だけど、わたしには、彼のその優しさがつらい……」

 元陽炎は顔をおおった。

「わたしだって、子供の名前で悩みたかった! 産着(うぶぎ)はどれにしようかって迷いたかった! お母さんっていわれたかった! そのすべてを捨ててしまったの、このわたし自身が。しかもそれを自慢さえしてた。バカだったの。大バカだった……」

 嗚咽する元陽炎に、元長波はかけるべき言葉を失った。やっとの思いでいえたのは、

「養子とかは……」

 という、およそこの場にふさわしくないことがわかりきっている問いだった。

「彼にもいわれたわ。でもね、あの人の血もわたしの血も入っていない子供を愛する自信が、わたしにはなかった。愛って、すばらしいもの、美しいものって思われがちだけど、じつはとっても排他的だと思うの。わたしたちは人類愛のために深海棲艦っていう異物を排除したわけでしょ。それとおなじ。愛した人以外はいらない。赤の他人を家庭に入れたくなんかないわ」

 元陽炎は涙をぬぐいながら答えた。

「だからわたし、あの人に言ったのよ。“だれでもいいから、女性と子供をつくって。その子をふたりで育てましょう。あなたの血が半分入っている子なら、わたしはきっと愛せるから”」

 元長波は愕然とするしかない。元陽炎の目にも声色にも冗談は含有されていなかった。

「そうしたらね、こっぴどく怒られた。あの人があんなに声を荒げて怒ったの、はじめてだった。それからわたしを抱きしめてくれたの。きみだけでいいんだって。でもわたしは知ってる。結婚が決まったとき、あの人が両親や親戚の人たちから“石女(うまずめ)なんかと結婚したら孫の顔もみられないじゃないか。この親不孝もの!”と責められていたことを。針のむしろの彼が、それでもわたしを愛しているから絶対に結婚すると庇ってくれていたことを」

 元陽炎はふたたび顔をくしゃくしゃにした。

「彼には申し訳ないことをしてしまったわ。わたしは後悔しない選択をしたつもりだったけれど、それは結局、わたしのひとりよがりだったんじゃないか、本当に彼を愛しているなら、身を引いて、ちゃんと子供が産める女の人と一緒になれるよう祈るにとどめるべきだったんじゃないか。わたしは、わたしのわがままで彼の人生を台無しにしちゃったんじゃないか。そう思うと不安なのよ……」

 泣きじゃくる元陽炎を元長波はただとなりに座って抱き寄せた。なにもいうことなく、ずっとその頭を撫で、背中を叩いてやった。

 元陽炎の夫が帰ってきたときには、元陽炎はすっかり落ち着いていた。

「おかえり。ちょうど思い出話がひと段落したところよ」

 元陽炎は笑顔をつくってみせる。

「泣いてたのか?」

 充血した目に気づいた元陽炎の夫は、あいまいな笑みのまま質す。元陽炎は少しだけ迷ったが、すぐさま彼女らしい快活な笑みを浮かべ、

「女の秘密!」

 宣言してから、元長波に「ねー」と女生徒のように同調をもとめた。真夏の青空よりも爽やかな表情だった。元長波もすかさず「ねー」と返す。元陽炎の夫は「仲間外れとは手厳しい」とおどけてみせる。

 きっと彼ら夫婦はこれからも苦悩をかかえ、そのたびに折り合いをつけながら乗り越えていくのだろう。彼らにならできるはずだ。そう元長波は信じている。

 

「生きてるあいだにまた会えて、よかったよ」

 翌早朝、博多駅まで見送りに立った元陽炎を元長波は片腕でハグした。

「じつは脳腫瘍なんてヤブ医者の誤診でした、とかいう古典的な展開で、また会いにきてくれたっていいのよ。お腹が妊婦みたいになるまで博多のおいしいところを案内するから」

 元陽炎もまた涙を目尻からひとすじこぼして懐抱する。置き去りにされる子供がすがりついているようでもある。

「そんときはよろしく頼もうかな。もしわたしがほんとにおっ死んじまったら、あの世の名所をほうぼう案内してやるよ。なんせあっちは金とか健康とか心配しなくていいからな。飲み放題だぜ」

 そういって、元長波は、笑みをたたえながら、

「できるだけゆっくり来いよ」

 体を離して、拳を突きだした。元陽炎も拳をつくる。軽くぶつける。

「じゃあな」

 元陽炎を指差しして、手を振り、新幹線の改札へ向かった。元陽炎は、エスカレーターに乗った元長波が階上へ消えたあとも、声を殺して泣くばかりで、しばらくそこを立ち去ることができなかった。

 

  ◇

 

 戦争中、毎日はおなじように始まった。艦娘たちは事務仕事のように遺書をしたため、死や性にまつわる冗談を交わしながら、髪や爪を切って同封した。旗艦の煙草から火を移した煙草を()んだ。防弾ベストを締めた。イヤー・プロテクションを装着した。細い手首が折れてしまいそうなほどに大きなG-SHOCKの時間を合わせた。戦術情報が視界に投影される拡張現実コンタクトレンズを目に着けた。マウスピースをふくんだ。耐火性手袋をはめた。艤付員らの手を借りて艤装を神経と接続した。艤付長の指示にしたがって砲塔や魚雷発射管の動作チェックをした。「抜錨」という号令とともに、母艦のウェルドックから海へと躍りでていった。海で自分たちを待ち受けているものがなにかよくわかっていた。艦娘たちは、海水を飲んだ巻雲が幻覚に引き寄せられて隊列から落伍し、笑いながら沈んでいくのをみた。親潮が生きたままハ級に噛み砕かれて食われるのをみた。神風が頭を撃たれて倒れ、首がないのにじたばたともがくのをみた。志願年齢の下限が六歳だったころに入隊した十歳の海防艦娘福江(ふかえ)が、すでにこと切れた同期から飛びでている臓物を腹腔に押し込んで、どうして生き返らないのかと首をかしげているのをみた。ポーラが脳溢血によってろくに航行もできなくなった隙を衝かれてピンク色の水柱になるのをみた。変色海域で全身がばらばらになった僚艦が赤い海に散るのをみた。艦娘たちは、血の赤とウレコット・エッカクスの赤の境目を探そうとした。きょう、自分は生きるのか、あの赤に溶け込むことになるのか。やがて沈んでいった僚艦の末期の言葉が不意に聞こえるようになり、仲間の燃えるにおいが前触れもなく鼻を掠めるようになり、心臓が休まることなく激しく鼓動し、自分の意思とは関係なく涙が溢れるようになる。彼女たちには戦争がどのようなものかわかっていた。勝者はいない。敗者すらいない。映画のようなフィナーレはない。終わりがない。家に帰れる日までひたすらがんばり、戦後の人生もおなじようにがんばりつづけなければならない。

 彼女たちは戦争のがんばりから立ち直るためにがんばっている。

 それで元朝潮はジャム戦にかかわる記事を壁に貼りつけるようになったのかもしれない。元神威はビジネスとしての狩猟をはじめたのかもしれない。元山風は金魚を集めるようになったのかもしれない。元霞は自ら命を絶ったのかもしれない。元瑞鶴は家を出たのかもしれない。

 戦争が終わって二十二年が過ぎても、彼女たちはいまだに戦場にいて、戦争を戦っている。艦娘はだれもがそうだ。だが、必死にがんばったところで、戦争はどこまでもつきまとってくる。

 

 喫煙スペースから自分の座席へ戻る途中、列車内の通路を歩いていた元長波は、一瞬、灼熱と悪臭のブルネイにいるような錯覚に陥って、立ち止まる。通り過ぎた座席に座っていた子供。寒いのか親がかけたブランケットから床に届かない小さな足首が垂れていた。それが目に入ったせいだ。

 

 元長波は動悸に耐えながら席に着く。

「わたしが最後にブルネイに赴任していたとき、その年に2水戦になったばかりっていう清霜が配属されてきたんだ。かわいいやつだった。ホーミングゴーストの関係で艦娘は同型艦にはより強い同属意識をいだくことが多いんだけど、わたしも朝霜も、それ抜きでかわいがってやった。妹ができたみたいでね」

 あるとき、ブルネイに派兵されていた海上師団の男性士官が現地女性に性的暴行をはたらいたことがあった。男性士官の身柄は日本とブルネイ間で締結されていた地位協定によりブルネイ側には引き渡されず本国へ帰任となった。ブルネイに限らず以前から海軍の在外基地における事件、事故はあとを絶たなかった。しかも「重要な案件以外、第一次裁判権は日本側が有する」という取り決めがあって、重要かどうかの判断も日本に任せることになっていた。

 事実、在外日本海軍関係者の犯罪について、終戦前の五年間に起きた事件は約一万五〇〇〇件、うち現地で裁判が行なわれたのは五〇〇件足らずであり、九十九パーセントの裁判権を現地政府が建前上「自主的に」放棄している。

 在ブルネイ日本海軍基地の周辺では反日を掲げた大規模な抗議活動が連日行なわれた。かねてより地位協定改定が切望されていたが、住民たちのたまりにたまった日本海軍への不満が、強姦の一件でついに爆発したかたちだった。深海棲艦の活動が沈静化に向かっていることも作用した。

 戦争終期、在ブルネイの日本軍は深海棲艦ではなく路上で爆発するIED(即製爆弾)に悩まされるようになっていた。日本軍の車列がジュルドンの平凡な街道を進んで、とある十字路を越えたとき、先頭から二輌めのトラックが真上に飛び上がった。巧妙に偽装されていたその手製の地雷がなぜ一輌めではなく二輌めで爆発したのかはわからない。とにかく車輛は火だるまになった。それを合図にするように、建物や道路の影から小銃やRPG(ロケット推進擲弾)による攻撃が車列を襲った。撃ち合いは二時間続いた。この事件で五人の男性兵士と十二人の艦娘が死亡した。そういうことが幾度か続くうち、艦娘たちは腹部が異状に膨れている犬の死体や、風に飛ばされずに置かれてある重そうな段ボール箱や、道路に向けて転がっている樽や、路肩に駐車してある車がIEDだとわかるようになった。それでもブルネイでは二日に一回IEDが爆発した。

 街のどこかで爆弾が爆発したり、撃ち合いが起きるたびに、日本軍は武装勢力に協力している情報提供者を探し出し、家宅捜索し、ときには急襲した。夜中に陸軍の特殊部隊がドアを蹴破って突入し、家人を取り押さえ、家のなかをひっくり返した。急襲する家を間違えることもあった。それはブルネイ人の反日感情に油を注ぐ以外の効果はなかった。ある日、ジュルドンで家宅捜索を受けている家を遠巻きに見つめながら、住民は言った。「この街はふたつの勢力に牛耳られている。日本軍と、反日武装勢力だ。武装勢力に協力すれば家宅捜索を受けるし、日本軍に協力すれば武装勢力に殺されてしまう」

 国道沿い――IEDの爆発を皮切りとした銃撃戦が展開された道路――の薄汚れた壁には、反日スローガンが日に日に増えていった。「アラーのほかに神はなし」「不信心者の日本人を殺せ」「神を侮辱する売女どもよ、日本へ帰れ」といった具合だ。そういう情勢のなかでの性的暴行事件だった。市民感情はどのIEDよりも過激に爆発した。

 ブルネイ・マレー語のシュプレヒコールが基地を取り巻いていたその日、元長波たちは2水戦のオフィスでうわさ話の花に水をやっていた。元長波の後輩にあたる浜波が「バンダルスリブガワン(ブルネイの首都)の知り合いから聞いたんですけど」とつっかえながらいうには、被害女性は事件の一ヶ月前から「いい金づるつかまえた」「日本の軍人」と周囲にもらしていた。水商売を営んでいたが、裏路地から目抜通りへ店舗を移転するなど、急に羽振りがよくなったという。

 しかし、男性士官は赴任のあいだだけの遊びのつもりであったのに対し、被害女性はどうやら「裕福な日本人との」結婚を当て込んで親族から借金を重ねていたらしい。男性士官にその気がないことを知るや、慰謝料目当てか腹いせか、レイプされたと騒ぎはじめた、というのが真相であるようだった。

 それが本当なら、どちらにも非がないとはいえない、いっそその話をメディアにリークしてはどうだと、元長波たちは冗談まじりに爆笑した。普段から風や砲声に負けないよう声を張り上げてしゃべるくせが身に染み付いている彼女たちだった。大きなエネルギーで発振された話し声は、室内の空気を振動させるだけでは満足してくれなかった。

 いきなりドアを蹴破るくらいの剣幕で2水戦の先任艦娘が乱入してきて、その場にいた艦娘たちは残らず殴り飛ばされた。

「めったなこと口にしてんじゃねえ! 上のもんの耳に入ってみろ、どうなるかわかんねえのか。一度警告したぞ。つぎはその横に裂けたマンコみたいな口を工廠のバーナーで溶接してやるからな。覚えとけ!」。信頼の揺らいでいる本国の立場を考えれば当然の措置だった。先任艦娘は台風のように立ち去っていった。

「かわいそうなのは清霜だよ。清霜はわたしたちの下世話な話には参加せず、ただおなじ2水戦ってことで部屋にいただけなんだから。朝霜がうめきながら、“(きよ)、とんだとばっちり食らわしちまったな”って声をかけた」

 すると、ほほが赤く腫れた清霜は、直立不動になって低頭した。「いえ、いい勉強になりました!」。元長波もふくめ、だれもが「なにが勉強だよ」と口ではいいながら、恨み言のひとつもいわない十六歳の最後任に相好を崩した。この一件で清霜は元長波らの全面的な信頼を勝ち取った。まさに末妹のような存在だった。

「でもブルネイの対日感情は日に日に悪化の一途をたどった。わたしたちにブルネイから出てけというもの、日本海軍が駐留してるから仕事にありつけてるもので住民は二分された。あのころはどこの泊地も似たようなもんだったはずだ」

 ある三人家族が基地に助けを求めてきた。たまたま元長波らも目にしたが、日本海軍と仕事上の付き合いがある一家だった。そこの七、八歳の一人息子は家計を助けるために靴磨きの商いをしていて、元長波らもよく世話になっていた。自分のブーツを磨くことは艦娘の仕事だが、任地で現金を使うことも日本軍人としての大切な役割だったからである。

 父親は、「反日団体から脅迫されている。保護してほしい」と門衛に訴えた。母親はしがみつく息子を不安そうに抱いている。門衛も対応を決めあぐね、佐官クラスに繋ぎをとったが、「われわれではどうすることもできないので、現地警察に頼んでもらいたい」としか返答はなかった。一度前例をつくればあとからあとから押し寄せてくる。

「ゆうべ、武装勢力がうちにきて、日本人と口を利けば皆殺しにするといわれた。子供だけでも助けてくれ」。父親が涙を流して両膝をついて再度懇願しても、門は冷たく閉ざされたままだった。一家は消沈して帰途についた。子供が一度だけ振り返った。黒い瞳が恐怖に沈んでいた。

「なんとかしてあげられないのかな」。清霜はいい募った。元長波が呼ぶまで、清霜は一家の背中を所在なさげに見送った。

 翌日になって、その家族が死体となって発見されたとの連絡が現地警察から寄せられた。

 現場は一家の自宅だった。身元確認の一環として基地の海軍関係者もきてほしいという。軍の警務隊が向かうことになり、深海棲艦の空襲にそなえて艦娘数隻も同行した。清霜はぜひにと申し出た。

 日射しの強い日だったと元長波は記憶している。警務隊に随行した元長波は靴磨きの少年の家へはじめて足を踏み入れた。空調すらない貧しい家だった。子供が学校にも行かず靴磨きをしなければ食べていけない家。暑熱。悪臭。

 無言の出迎えを受けた元長波たちは、みな眉間にしわを刻んだ。父親と母親は壁に並んで背を預けていたが、首から上がなかった。ふたりとも目が半開きになった自分の頭部を抱かされていた。壁には死者のものとおぼしき血で「裏切り者」と大書されてあった。

「あの子は?」。清霜の声で元長波も思い出した。靴磨きの子供がいない。警官はベッドを示した。清霜が薄汚れた掛布団をそっとめくった。閉じられた両目から乾いた血の跡を流して眠る子供が現れた。清霜がむせび泣いた。「おなじ国の人に、どうしてこんなひどいことができるの。この子がなにか悪いことをしたの?」。

 元長波はというと、清霜を置いて、外で警戒している元朝霜らのもとへ戻った。

「白状するよ、わたしはその子供の死体に興味がなかった。物体としての死体にも、それが物語る事象としての死も」元長波の顔には消耗しきった人間特有の表情が掠める。「なんせその子は日本人でもなければ艦娘でもなかった。どちらかならわたしはきっと血を分けた家族のように痛憤したにちがいないけれど、どちらでもないならただの他人という以上の感慨は持てなかった。わたしはその自分の感情がわれながら興味深かった。ひとつひとつ系統だてて整理するために、わたしは家の外にでたんだ。清霜は変わらず子供の死体にすがってた。泣きながら、自分にできることを模索して実行に移そうとしていた。わたしは背中を向けていたけど、気配で、抱き起こそうとしているらしいとはわかった。遺体にみだりに触るなよと思ったけど、止める気力もなかった。暑かったんだ。ため息をついた」

 つぎの瞬間、彼女は後ろから、音より速い速度の見えない壁に激突された。壁は元長波の体をたやすく貫通し、内臓をふるわせて駆け抜けていった。音が消えた。耳鳴り。脳圧の急上昇による頭痛。元長波は自分の声すら聞こえなかったが仲間たちに怒鳴った。「伏せろ!」。爆発のとき、ちょうど口を開けて息を吐いていた瞬間だったので肺は破裂せずにすんだ。周囲を見渡す。背後を振り返る。凄惨な殺人現場だった家が、一瞬のうちに砂煙と岩石の瓦礫に変貌していた。「清霜! おい、清霜はどこだ!」。元長波たちは安全を確かめたのち瓦礫を力づくで掘り起こした。駆逐艦娘たちの爪が剥げて岩と砂が血を吸った。見つかったのは、清霜の右足首だけだった。

「連中は子供を殺しといて、かっさばいて、はらわたのかわりに爆弾を詰め込んどいたってわけだ。ガキの死体なんかどうでもいいと見捨てたわたしがそのために助かって、清霜は抱きしめようとしたせいで吹っ飛ばされた」

 元長波は右の拳をぱっと開いてみせた。

「これのどこに因果応報が? 艦娘になった以上、いつかは深海棲艦とやりあって沈むもんだと思ってた。遺書も書いてた。だけど、人間のしかけた爆弾で、陸で死ぬなんて。あんなにいい奴が」

 愛は排他的なものだと思う。元陽炎の言葉が思い返される。

「わたしは愛する対象を限定してた。つまり同胞だ。日本人か、艦娘か。同胞であるかぎりわたしはそれを愛することができた。博愛主義なんてのはけっきょく、だれも愛してなんかいないんだ。でもあの清霜はちがった。あれをこそ献身というんだ。清霜は、わたしなんかとは違う、正しいヒューマニズムに命を奪われた」

 

  ◇

 

 小倉駅で乗り継いで宮崎駅をめざす。宮崎には、陽炎型駆逐艦娘(あらし)だった女性がいる。小艦隊こそ異なるが、ともに独立混成第60海上旅団に所属し、ジャム島でおなじ壕にこもった、あの嵐だ。だれよりも歌が上手だった嵐。だれよりも男勝りだった嵐。

「こっちから行くっつったのに」

 博多駅から五時間かけて到着した宮崎駅をでた元長波は、回遊魚のような人々の流れにあってただひとり、柱のそばに立っている女性をみつけて苦笑いする。記憶にある嵐の顔と、その女性とが、二枚のスライドが重なるように一致する。髪をながくしているが間違いない。むこうも名前を呼ばれたように元長波に視線を向け、顔が明るくなる。

「待ちきれなかったんだよ」四十五歳の元嵐は杖が手放せない元長波に気を遣いながらいった。「二十八年ぶりで合ってるよな?」

「ああ、二十八年だ」元長波は繰り返した。二十八年前、ジャム島が戦線崩壊して、元長波は司令部の南部撤退にともなって放棄された野戦病院から、泥まみれになっての逃避行で壕にたどり着いた。壕内には嵐や敷波のほか、32軍だけでなく地方人も身を寄せあっていた。軍の拠点に民間人が入り込むなど考えられないことだが、熾烈な砲爆撃に住居も家財も焼却されては、地方人も藁にもすがる思いで32軍の壕に逃げ込むほかなかった。南部には難民と化した地方人のいる壕がいくらもあった。壕がすでに地方人で充満していて撤退してきた艦娘や兵が入りきらない場合もあった。軍が無理矢理に壕から地方人を追い出す例もあった。元長波がもぐりこんだ壕のごときは、独立混成第60海上旅団の大艦隊がどれも壊滅しかけて、しかも部隊がばらばらに分断されて頭数が極端に減っており、先客の地方人たちがいてもなお生存者を全員収容できる余裕があったから、たまたま同居が成立しているというだけのことだった。

「あの壕をでたあとは、どうしてたんだ?」

 ワンボックスの後部席に元長波の荷物を乗せつつ元嵐が尋ねる。荷物の預かりかたひとつとってもどこか手馴れている。

「島をうろうろしてたよ、ゴキブリとか食いながら。はぐれてた深雪にも会えた」

「長波の旗艦だった深雪か? 最初に割り当てられた壕であたしたちと一緒だった?」いいながら元嵐が元長波の乗車を手伝う。

「そう、その深雪」

「生きてるのか?」

 元長波は「いいや」と答えるにとどめた。さすがに深雪の肉を食うというかたちで一体となって生還したとはいえない。

「気の毒に」イグニッションにキーを差して回す元嵐の言葉には心からの愛惜があった。

 元長波は礼を述べる。息を吸い込む。「それはともかく、きょうは世話になるよ」

「どうぞどうぞ、二日でも三日でも泊まってけ」

「迷惑じゃなかったか?」

「泊めてといわれて嫌がる民泊なんて、ないんだよ」主婦のかたわら副業で民泊を経営している元嵐は、年長というだけではない、親だからこそできる落ち着いた顔つきでいった。子供を産むということは、大地に根を下ろすようなものなのだろうか。

「民宿ならわかるけど、民泊ってのはどういう客がくるもんなんだ?」

 元長波は訊ねた。

「ターゲットはバックパッカー。宿泊費をなるべく安く抑えたいっていう一定のニーズがあるんだ」

 元嵐は流れるように車を走らせる。これまでの利用客はすべて外国人だという。

「バックパッカーは、快適さだけがパッケージングされた紋切り型の旅行じゃなくて、自分の足で好きに歩いて、その国の庶民的な文化や習慣を肌で感じたいっていう人たちだから。ビジネスホテルや旅館は、すでに飽きちゃってて、かといってカプセルホテルやネットカフェは味気ない。あたしたちだって普段の生活でホテルをつかうことはないだろ、彼らはまさにその国の“普段の生活”を体験したいんだってさ」

「なら、民泊はうってつけかもな」

 宮崎駅まできた予約客をこうして車で迎えるのだと運転しながら元嵐が説明する。

「どこの国の人間が多いとかいうのはあんの?」

「国籍でいえば、とくには。アメリカ人もいたし、ドイツ人、中国人も。中国人の場合は日本製品を大量に買うための拠点につかう、とか。中国人以外ではだいたい白人が多いね。黒人の予約は、不思議ときたことない」

「わたしと同期の朝霜も、外人のお遍路さんはほぼ白人だって話してたな、黒人のお遍路がひとりもいないってことはないはずだけど。白人は旅が好きなのかね」

「そうでもないと、わざわざ海の果てに新大陸をみつけになんて行かないよな」

 他愛ない会話は、どこまで相手の人生に踏み込んでいいかの確認だ。最終的に行き着くところはおなじであっても、手順を踏んで、馴染ませながら進めていかなければならない。最初から膣を子宮口までペニスで貫いてはならない。入り口から少しずつ侵入し、互いに呼吸を合わせて肉を混ぜていかなければならない。

「民泊は、やっぱり自分の家の一室を間借りさせて?」

「もちろん。子供が独り立ちしたら、家が急に広くなってさ。部屋が余ってるんなら、民泊でもやってみようかって、あたしが。ローンの返済の足しにはなるかなーって」

「旦那さんは?」

「昼間は仕事。だから、民泊の運営はほぼあたし」

 助手席の元長波からは、ハンドルを握る元嵐の左薬指に光る指輪がよくみえる。

「宿泊してるあいだ、家の出入りは?」

「自由だよ。ゲストに鍵渡してる」

「ええ? 危なくないか? 家んなかに男とふたりっきりになることもあるわけだろ?」

「もちろん、全く見ず知らずのを無条件でなんて泊めないよ。ちゃんと事前にチェックはする。あたしみたいに部屋を貸したい人をホスト、借りたい人をゲストっていうんだけど、ホストとゲストのマッチングサイトってのがある。そこに登録すれば、ゲストは地理や宿泊費なんかの条件で検索をかけて、好みのホストを探せるわけ。そのサイトでは、ホストにもゲストにもそれぞれレビューがつけられる」

「ここの民泊はいいとこだったなあってゲストが高評価入れたり、あのゲスト部屋汚して帰りやがったっつってホストが低評価つけたり?」

 そうそう、と元嵐はごくごく自然に受け答えした。民泊のシステムについてはこれまでにも幾度か質問された経験があるのだろう。「だから、うちでは優良なレビューのゲストだけを受け入れるようにしてる」

「なるほど。ゲストからしたら低いレビューつけられるとどこのホストにも泊めてもらえなくなるから、ルールを遵守する姿勢は期待できるわけだな。ほかにも信用できる客か見極めるポイントはなにかあったりする?」

「アカウントにちゃんと顔写真があって、登録されてる名前をSNSで調べて実在する人物なのか確認したりとか。IDやパスポートの個人情報登録ができているかもだいじだね。やましいところがないってことだから」

 そうして客を厳選しても、外国人旅行客に「なんてエキゾチックなんだ」と圧倒的人気を誇る和室が提供でき、元嵐が英語に堪能ということもあって、空室になる日は月に片手で数えるほどしかない。寝ることができてトイレとシャワーがあれば御の字というゲストばかりだから、同室に何人も宿泊するということに頓着しない。バックパッカーはむしろ旅先で相部屋になることの偶然の出会いと交流を楽しむ。一日二五〇〇円だから、仮にひと月あたり二十五日をゲストふたりが使用していただけで、住宅ローンの返済はじゅうぶんにペイできる。

「銀行を儲けさせるためにあくせく働いてるようなもんだよ」

 そう自虐していても、元嵐は家庭を築き、母になり、マイホームを手に入れている。そのすべてを持っていない元長波にはまぶしい存在に思える。

「持ち家ってのは、やっぱ憧れるよ。家そのものというより、家を建てるっていうひたむきさ、潔さに」元長波は正直にいってみせる。「茶化してるわけじゃなくてね。三十年のローンを組むってことは、三十年後の自分を信じるってことだし、土地を買うってことは、そこから逃げ出さない覚悟を決めるってことだから」

 そうともいえる、と元嵐はほほえむ。「艦娘だったころは、三十年後どころか来月まで生きてるとすら断言できなかったしな」

 しかし、元嵐は家というものに夢をいだいていなかった。恐怖すらしていた。だから夫にマイホームの購入を何度提案されても、「住めりゃいいんだから、このまま賃貸でいいじゃん。手狭になったら広いとこに引っ越しすればいいし、子供が独立したらまたふたりでちょうどいい物件に移ればいいんだし」と、ことごとく乗り気でなかった。しかし夫は、元嵐がただ謹み深いだけだと好意的に解釈した。

「普通は女のほうが家建てたいってせがむんだろうけどね。ふたりめが産まれて、そのときあたしが二十五歳で、旦那は三十。返済期間を考えれば、家を買う準備をはじめる最後のチャンスだった」

 家という光溢れる牢獄をほしいと思わない気持ちに変わりはなかったが、反面、老後まで自分との将来を見据えてくれている夫の決心が、元嵐にはうれしくもあった。ならありがたく協力するべきだ。無目的だった貯金は頭金のための貯金に変わった。

 とはいえ、

「モデルハウスの展示場に行ったりするだろ? あれって、自分たちがそういう家に住んで、新しい生活をしているところを想像して楽しむもんだと思うんだけど、全然、ぴんとこなかった。凝ったガーデニングはいったいだれが手入れするのか、テラスでバーベキューなんて絶対やらない、ましてスカイバルコニーにガーデン用テーブルやら椅子やら出してご飯とか、テント張るだとか、間違いなく最初の半年で飽きる。なのにそれがいかにも永遠につづくように演出してある。なんていうか、不気味だった」

 見学にきていたほかの家族の女性が、調理しながらでも食卓までみわたせるピカピカのシステムキッチンの使い心地をたしかめるように、意味もなく引き出しを開け閉めする。新築の家でその新車なみに値の張るキッチンに立って腕を振るう自分を思い浮かべていたのだろう。そのとき自分は幸せだろうか、きっと幸せに違いない、と。

 女性が近くで待機していた女性社員を呼んで質問する。色は、機能は、食器洗浄機の有無は。社員はここぞと、しかしおしつけがましくならないようアピールする。「やっぱり、日々の暮らしはキッチンを中心に動きますから。使いやすいキッチンだと、お料理はさらに楽しくなりますし。たとえばこのワークトップはセラミックで、熱々のフライパンをじかに置いたりしても傷みませんから、とても使い勝手がいいんです」。それに妻はこう感嘆する。「やっぱりおなじ女だからかしら、目の付け所っていうか、わかってるなって感じするわぁ」。しかし元嵐は知っている。さきほど別の家族の夫婦に、男性社員が一言一句おなじ説明をしていたことを。要は受け取り手がどう聞くかの問題にすぎない。

 

 付属品であるはずがないスタイリッシュな輸入家具、家庭用ワインセラー、ちょっとしたデッドスペースを如才なく緑で飾る観葉植物、シックな壁際で演奏者をまつアコースティックギターが、まるでこの家を買えば自動的についてくるかのような顔でパントマイムをしている。「こういう家で暮らすのが、幸せな人生なんですよ」とでもいわんばかりに。

 本棚に収まる本はすべて英字の洋書で占められる。家は生活の場であるはずだ。しかし客に人生最大の買い物をさせるには、なによりも現実を忘れさせてやらなければならない。夢をみせ、非日常の興奮でトランス状態に導き、スーパーのチラシを見比べて一円でも安い店へ自転車をこぐ倹約家から正常な判断力を奪うのだ。日本語の新聞や雑誌は、錆びついた日常生活を思い出させて、観客を一気に現実へ引き戻す。夢の世界では生活臭はタブーでしかない。

「だからさ、モデルハウスっていうのは、家の見本とかサンプルとかじゃなくて、ありゃディズニーランドかなんかなんだよ。ディズニーランドじゃ夢心地になってるからポップコーンが三五〇〇円でも買っちまう。それとおなじで、モデルハウスはあくまでアトラクションであって、見て楽しむことはあっても、それそのものを買うわけじゃない。家っていう二五〇〇万のポップコーンを買わせるための、テーマパークなんだと思うわ」

 販売価格の三倍はかけているといわれるモデルハウスを、そのまま建てられる家族がどれだけいるだろうか。モデルハウスは季節を超越する。そこには凍てつく冬もなければ、過酷な陽射しの夏もなく、紅葉とともに実りの終局を告げる秋すらもない。うららかで快適な春だけが、いつまでも終わることなく閉じ込められている。雨も台風もなく、おとぎ話のようにあたたかい春と好天だけの世界があったとしたら、そんな家も許されるのかもしれない。

 問題はここが地球で、日本だということだ。いざプラン作りにとりかかると、出番を終えた理想は、その座を現実になんの未練もなく明け渡す。台風銀座の宮崎ではスカイバルコニーでの食事やベランダ・グランピングは望むべくもない。星空を仰げるということは雨ざらしになるということだ。余裕ができてからととりあえずカーポートを断念する。車は青空駐車となる。ブロック塀の安っぽい見た目を嫌ってむき出しにした周囲に、緑の植え込みを巡らせる日は? 家は通行人の視線を遮ることなく裸身を晒す。生活の利便性を優先したら想定よりも坪単価が高くて、設計プランには妥協に妥協を重ね、思い描いていた家とはかけ離れたものに変貌していく。

 夢が醒め、モデルハウスと家は別物だということに気づいたときには、もう土地も押さえていて、具体的な設計案も固まり、資金計画表もできている。坂を転がる車輪に自身を止めるすべはない。営業マンにいわれるまま話が進み、ああすればこうすればといまさら思いつくことばかりだが、やっと手に入れた念願のマイホームであることに変わりはない。「これでいいんだ」「これがいいんだ」と自分を納得させる。

 

「旦那には感謝してる。元艦娘のあたしと結婚して、家まで建ててくれたんだから」

 元嵐のその言葉に、元長波はうその成分を検出することはできない。

 

 到着した家は立派な戸建てだった。表札を出して一人前と世間はいう。世間とはだれなのだろう? 通された六畳の和室には炬燵が据えられている。

「この子が指名率ナンバーワンとうわさの」

 元長波の問いに、元嵐は「引っ張りだこ」と笑って返す。「この部屋をみせると、“一度でいいから畳の上に布団を敷いて寝てみたかったんだ”って大喜びするゲストがね、けっこういるんだよ。なにがそんなにいいのかわかんないけど、とにかく稼ぎ頭の部屋だね」

「では失礼して」

 元長波が炬燵に足を差し込む。

「ああ……」

 硬直していた筋肉が液体になる。漏れた声に元嵐が「おばさん通り越しておっさんじゃねえか」と大笑いする。再会してから、元長波ははじめて、目の前の女性に駆逐艦娘嵐の面影をみることができた。

 このあとは夕食まで予定のない元嵐も炬燵に入る。

「軍にいたころ、知り合いにリシュリューが一隻いたんだ、フランスの。そいつが基地のレクリエーションルームに置かれた炬燵にえらくご執心でね。出ろっつっても出やしない。とうとう寝息立てはじめやがった」天板に腕まくらして元長波がいう。「案の定、つぎの朝、風邪ひいてやんの。“どうして暖かくしてたのに風邪ひくの”って、鼻水垂らしながらめっちゃ不思議がってた」

「実際、ここに泊まるゲストも、炬燵で寝ようとするから、油断ならないんだよ」元嵐も苦笑する。

 

「嵐は、ジャムのあとはなにを?」

 かじかんでいた指先がすっかり解凍されたあたりで、元長波が聞き出す。

「使いもんにならなくなってね」元嵐は自嘲の笑みを浮かべていう。「壕に救助がきたときも、信用できなかった。“こいつも深海棲艦なんじゃないか?”って」

 人語で生存者たちを洞窟からおびきだす深海棲艦は元嵐に根深い不信を植え付けた。体調が悪い日は、人間が深海棲艦に思えてならなかった。

 部屋でくつろいでいると、深海棲艦がドアを蹴破って襲いかかってきた。「タスケニキタゾ、タスケニキタゾ」と繰り返しながら。そういう夢がひっきりなしにつづいた。

 夜は元嵐をフラッシュバックで苦しめた。暗闇が元嵐をジャムの壕へ引きずり戻す。タスケニキタゾ。耳を塞いでも声が頭蓋で反響する。その声は鼓膜を振動させるのではなく、脳みそに住み着いているからだ。タスケニキタゾ。ジャム島から生還したばかりだった元嵐はほとんど発狂した。「電気を、電気を消さないでくれ! 暗くなるとあいつらの声が聞こえるんだ。俺をジャムに戻さないでくれ」。

 元嵐は休暇ののちブインへ派兵された。幻聴は悪化し、動悸ははげしくなり、呼吸困難になり、夜だけでなくただの暗がりまでも異様に恐れ、多くの光を求めようと目がちかちかした。基地にある戦闘ストレスのドアに助けを求めた。それで帰国が決定された。

 水上分隊長だった元嵐は水上班長のひとりに、水上分隊の艦娘を集めてくれと伝えた(水上分隊は四隻編成。駆逐艦娘のみで構成されていることが多い)

「悪いけど、俺は内地に戻ることになった」。切り出すと、部下と後輩たちは目を伏せたり、お互いの顔を見合わせたりして、戸惑いをみせた。

「なにか問題でも?」。部下の初春が沈黙を破った。

「精神衛生上の問題だ。アクセル踏んでも走らないんだ。自分になにが起きてんのか俺にもわからない。でもこのままここにいたら、おまえらの安全が保証できない」。いいながら、元嵐は情けなかった。あんなになりたいと願っていた艦娘になって、順調に昇進もしていたのに。

 三日月がいった。「いつ帰ってくるんですか?」。元嵐は返答に窮した。「長いことかかるかもしれねえし、帰ってこねえかもしれねえ」。

 元嵐の部下だった三隻の艦娘はかわるがわる握手をし、「短いあいだでしたけど、お元気で」のあとに、十代の子供らしい言葉を繋げた。やっかみを装った、下手くそで、瑞々しいねぎらいだった。元嵐はそのときほど後ろめたい気持ちに襲われたことはない。けがもしていない、がんがみつかったわけでもない、なのに自分は前線から逃げようとしている。

 翌朝、水上分隊は新たな旗艦に率いられて輸送艦に乗り込んで出発した。ひとり残った元嵐はなにもすることがなかった。酒のつまみになりそうなものを山のように買い、水上分隊の部屋の机に積み上げ、「みんなで食ってくれ」とメモを残した。

 ようやくヘリコプターの到着時刻になり、元嵐は荷物をまとめて通路を歩いた。ブインの基地を横切っているあいだ、元嵐の気分は最悪だった。艦娘として働きたいのに精神がいうことをきかない。「なにが気に入らねえんだよ」。自分にそういいたかった。「なにが気に入らねえんだよ!」。

 発着場では別の一個大艦隊の艦娘たちが整列していた。ヘリコプターが降りてきた。艦娘たちがフォーティンブラスにしたがう兵士たちのように吸い込まれていった。だが、搭乗しようとした元嵐の衣服を海曹長がつかんだ。「おまえは別の便だ」。ヘリコプターは元嵐を置いて離陸していった。入れ換わりにまたヘリコプターがきた。胴体に赤十字が描かれていた。死傷者後送用のヘリだった。「俺はもう死んでるんだ。壊れてるんだ」。ダウンウォッシュを浴びながら、そんなことを思った。

 復員艦娘病院は、元嵐を海軍転換艦隊総合施設へ入院させることを決めた。規則正しい生活。他人を尊重し、おなじくらい自分を尊重することを学ぶプログラム。心に傷を負った艦娘や元艦娘たちが円形に椅子を並べ、自分の身上や将来に向けた決意を発表しあうセラピー。そして寝る前には窓口に列をつくり、処方された薬をその場で()んで、舌の裏をみせる。

 施設の卒業時に元嵐は解体の決定を知らされた。「これがいまのあなたにとって最善の選択なんだ」と説明された。おめでとうございます、あなたはもう使い物になりません。元嵐にはそう聞こえた。

 退役して日常生活に戻った。軍が斡旋した外郭団体に再就職して日々を過ごした。いまこうしているあいだにも自分が逃げ出した海で仲間たちが戦っている。そう考えると焦躁がつのった。だが元嵐にしかみえない深海棲艦が相変わらず襲撃してくる。タスケニキタゾ。タスケニキタゾ。

 そうしているうちに、元嵐はおなじ職場で働くひとりの男性と距離が近くなった。仕事帰りによくふたりで酒を飲んだ。「艦娘だったんだ」「そうなんだ」「書類上は名誉除隊なんだけど、体よく追い出されたようなもんなんだ」「へえ」「いまでも深海棲艦に襲われるんじゃないかと、怖くてたまらないときがある」「そうか」。安っぽい慰めはなかった。男にありがちな、武勇伝を延々語るなどということはなかった。自分は女の気持ちがわかるんだという露骨なアピールもなかった。ただ話を聞いてくれるだけだった。いい男だと思った。腕の中が心地よかった。相手が結婚するまでは不当に専有していたかった。だからある日、プロポーズされたときは信じられなかった。

「信頼できるやつだったから、いつかはお似合いの子をみつけて所帯もつだろうなと思ってたけど、まさかこっちにくるとは思わなかった。あたしには結婚する資格がないと思ってた。厳密にいえば、母親になる資格が」元嵐はいう。「子供を手にかけている母親を止めなかったあたしに、家庭をもつ権利なんてあるわけないと」

 しかしいまの元嵐は二児の母になっている。

「妊娠が発覚したとき、“うれしい”っていう気持ちもあったけど、“やっちまった”って思ってる自分もいたんだ。ジャムの壕であたしが見殺しにしたあの赤ん坊が、復讐のためにお腹に宿ったんじゃないかって思ったときもあった。どんな子が産まれるんだろう、出産してすぐあたしのほうをみて、“どうしてぼくを見捨てたの”っていうんじゃないかなんて、バカなことを考えた。産むまで毎日不安だった」

 新たな命はなんの問題もなく育ち、産まれた。女の子だった。かねてから夫とふたりで思案して選んだ名前をつけた。

 自分には罪がある。だが子供に罪はない。なにがあっても大切にしていかなくてはならない。陣痛の残る元嵐はすやすやと眠るわが子を抱きながら心に誓った。

 元嵐は闇と悪臭の洞窟にいた。タスケニキタゾ。外では深海棲艦が生存者を探しもとめている。元嵐はむずかる赤ん坊の首を絞めている。体重をかけて気道を塞ぐ。不意に空が晴れたらしく、入口から差し込んだ陽光が曲がりくねった坑道の壁に反射を繰り返して、元嵐たちのいる深部までかすかに届いた。動かなくなった赤子の顔が浮かび上がった。その赤子は、愛娘だった。

 絶叫した。目を醒ました。驚いた娘が火のついたように泣き叫んだ。元嵐は寝汗で濡れたまま抱き上げてあやした。ごめんね、ごめんねと。

 

「育児ってどんなもんなの。やっぱたいへん?」

 元嵐が「サービスだ」と冷蔵庫から出してきたビールをお猪口に酌してもらいながら、元長波はなんとなく訊いてみる。

「戦争だよ」

 元長波にビールを注がれる元嵐が灯火のようにほほえむ。

「子供ったって人間だから。いっちょまえに自我があるから、思い通りにはいかないことばかりだった。じっとしててっていっても聞きやしない。優しくしてくれたらだれにだって懐くしね。憎たらしいくらい。自分の利益になる相手かどうか見極める嗅覚だけは、超一流」元長波に礼をいって、つづける。「赤ちゃんは天使だなんていうけど、それは寝てるあいだだけ。起きてるときは悪魔。しかも育児にゃ休日がない。ハイハイしだしてからは余計に目が離せなくなるし。赤ちゃんの頃は、持て余さなかった日は一日もなかったよ」

 お猪口で乾杯する。ビールはグラスになみなみ注ぐよりお猪口で少量ずつ飲むほうが旨い。最初のひと口めの感動がずっとつづく。

「夜泣きとか?」

「そりゃあもう、すごかった。ノイローゼになりかけた。こりゃ、濡れた半紙を顔に置きたくもなるなって思った」

 真夜中でも容赦ない泣き声に悩まされ、夢のとおり絞め殺してしまうのではないかと自分を恐れていたころ、元嵐は育ての親に電話で相談した。どうすれば夜泣きをやめさせられるのか。実母よりも遥かに尊敬している養母の返事は、思いもかけないものだった。

「夜泣きをやめさせる必要はないって。要するに、夜泣きは頭がよくなってる証拠なんだってさ」

「頭がよくなってる?」空になった元嵐のお猪口を満たしてやる。

「養母がいうには、あたしたちは、家のなかだろうが外だろうが、人の家だろうが外国だろうが、どんな光景をみても、そこから受け取る基本的な情報はどこでもおなじだから、別になんとも思わない。でも赤ちゃんにとっては、みるもの聞くもの、すべてが初体験のものばかりなわけだ。大人なら必要な情報だけを自動的に拾うけど、赤ちゃんはすべての情報が一気に脳へなだれ込んでくる。どの情報が必要か必要じゃないのかっていうのがまだわからないから全部拾っちゃうんだ。毎日が情報の洪水ってわけ。でも、入力が多いからって処理能力までが高いわけじゃない。人間は昼間の記憶を夜に整理する。これが夢なわけだろ。赤ちゃんの場合あまりに処理する情報の量が多くて、オーバーフローを起こして、それで感情が混乱して泣くんだって。赤ちゃんが夜泣きしてるのは、脳みそがアップデートされてるってことで、だから夜泣きをするたびにうちの子は賢くなってる、そう思いなさいっていわれた」

「大胆な考え方だ」

「だろ。なんというか、救われた気分がしたよ。その日からは夜泣きが気にならなくなったし、むしろ頼もしく思えるようになった」

 また、養母の教えは、元嵐に天啓をもたらした。

「トラウマってのは精神の傷だ。病気だ。傷や病気は治さなくちゃならない。だからトラウマもきれいさっぱり消さなきゃならない。そう考えてた。でも、トラウマも自己の一部として、一緒に生きていく道だってある。そう考えられるようになった」

「トラウマと一緒に」

 生きていく。元長波には思いもよらない発想だった。

「無理に忘れようとしても、忘れられるもんじゃない。忘れたくないっていう自分もいるんだ。つらい記憶を削除したら、自分が自分でなくなる気がしてね。ならいっそ、トラウマを抱き締めてさ、一生ずっとそばにいてくれる友だちだとでも思ったほうがいいんじゃないか、ってね」

 ジャム島の夢をみるときは、知らず知らずのうちにストレスを与えていた肉体や精神がSOSを発しているのだと思うことにした。休養を優先した。ジャム島は遠のいた。

「トラウマに助けられたこともある」と元嵐はいった。「前の職場でのことなんだけど、やたら横柄な女の先輩がいたんだよ」

「どんなふうに?」

「女だということを盾にしているというか。深海棲艦との戦争で自分たち女性は人生を懸けて国を守ったんだ、あなたたちがいま生きていられるのは女性が必死に戦ったおかげだ、だから女はなにごとにおいても男より優先されなければならない、そういう考えの持ち主でね。仕事中に携帯いじってるのを男の上司に注意されたら“女のわたしに口出しするんですか? 戦時中、わたしたち女は戦争に行く役目を背負わされて、ずっと抑圧されてきたんですよ!”……傑作なのが、そいつ、艦娘でもなければ海軍にも行ったことないんだ」

「なんだそりゃ」元長波は失笑した。

「で、あなた戦争に行ってないでしょって指摘されると、“戦争に行かないことで周りからプレッシャーを受けてたわたしの気持ちがわかるんですか! わたしもフリハラの被害者なんですよ! わたしは被害者!”って、地団駄踏んで喚く。みんなから煙たがられてた」

 艦娘にならない女性に対して海軍へ志願するよう周囲が圧力をかけることを、女性たちはフリートハラスメント、フリハラと呼んだ。

「フリハラなんていうやつ、マジでいたんだ……」

 元長波がいうと、元嵐は微苦笑しつつ何度も頷いた。

「そういう女がいちばん憎んでる人間はどんなやつか、わかる?」

 元嵐が訊いた。元長波は肩をすくめる。

「それはな、本物の元艦娘だよ。そんなもんがすぐそばにいれば、自分は戦争のせいで我慢を強いられてきた女ってアドバンテージがなくなる。なんせ本当に戦争に行ってきた女がいるんだから。そんなわけで、その先輩に目をつけられた」

 ねえ、お子さんいるんでしょ、保育料ってどのくらい。ことしの夏はどこに旅行に行くの、航空会社は、ホテルは。根掘り葉掘り訊かれた。そんなことを知ってどうするのかわからなかったが、波風を立てたくなかったので素直に答えた。「そんなに安いの? いいなぁ。うちは世帯収入が一〇〇〇万超えてるから保育料も高いのよ」「あらぁ、温泉。うちはモルディブ行くのよ、ファーストクラスが人数分ぎりぎりとれて。ホテルもねー、三つ星」「あ、そうだ。ところでさぁ、みて、このバッグ。自分へのごほうびで先週買ったんだけど、これ十万だったの。これで十万なら安いわよねぇ」。ひとしきり聞かされて、なにか釈然としないまま席に戻ったあと、ただ先輩に「うちのほうが上なのよ」と優位性を主張されただけだったということに、ようやく気がついた。

 その先輩は、元嵐が同僚と休憩中に世間話をしていると、いきなり割り込んできては、さりげなく自慢をしていった。「こないだ、うちの子が試験で学年十位だったの、前回よりも落ちててちょっと不安なのよね。ところで、あなたのお子さんはだいたい何位くらいなの?」。

 またなにかにつけ、元嵐を見下そうとする努力を怠らなかった。仕事上の伝達で「ここの取引先は来週の水曜までは連休だから」といわれたので、確認の意味で「じゃあ次に行くのは木曜日ですね?」と訊くと、「当たり前じゃない、水曜の次は木曜に決まってるでしょ。バカじゃないの?」。万事がその調子だった。

「そういう先輩がいても、普通は我慢して、なんとかうまくやっていこうとするんだろうけどね」ほろ酔いの元嵐はいう。「ひさしぶりに、ジャムで下の娘の首を絞めてた。それで、あたしの精神が悲鳴をあげているんだなってわかって、さっさと転職することにした」

 職場を去るといううわさが伝わると、さっそく例の先輩が嫌みをいった。「辞めちゃうの? なにか悩みごとがあったんなら相談してくれればよかったのにぃ、わたしたちのこと信用してくれてなかったの?」。わたしたち、と自然に自分が職場の人間の代表を気取っていることが癇に障ったが、わざわざことを荒立てることはないと聞き流した。「でも、だれも引き留めてくれないのねぇ。だめよぉ、こういうときは引き留められるくらいの人間にならなきゃ。そんなんじゃどこも拾ってくれないわよ」。しかしその顔には、自分の精神的優位を脅かす元艦娘がいなくなってくれてせいせいしたと書いてあった。

 先輩の言葉とはうらはらに、退職した直後から待っていたように転職のオファーが複数舞い込んだ。まじめに仕事をしていればだれかはみていてくれるのだと実感した瞬間だった。

「PTSDのおかげだよ。あのまま我慢していたら心が折れてたかもしれない。つらいなら逃げればいい。でも人間っていうのは、ついがんばろうとしてしまう。我慢っていうのは美徳だと思うだろ、でも我慢は、本来は“わがまま”って読むんだ。本当はなんの得にもならないのに、耐えてる自分がかっこいいとかで、ストレスを溜め込んで、結果的に周りに迷惑をかける。我慢なんかしないほうがいいんだ。あたしのトラウマが我慢の潮時を教えてくれた」

 いって、元嵐はお猪口をぐっとあおった。元長波は感心している。

 

 元嵐の夫と、上京していたふたりの娘が帰ってくる。玄関からの声に「和室よ」と元嵐が呼びかける。顔も声も、妻と母のものへ切り替わっている。三人が元長波と元嵐が炬燵で暖まっている和室へ顔を出し、「あ、お客さま?」と上の娘があいさつする。元嵐が元長波を紹介する。「母がお世話になってます」下の娘が元嵐似の顔に満開の花を咲かせる。元長波は「わたしのほうが、お母さんにお世話になったんだ」と応じる。母親が夢のなかで幾度となく絞殺したふたりの娘は、揃って無邪気な喜色をほほに上らせた。夫は笑顔のまま「ほら、邪魔をしちゃだめだよ」と娘たちをうながす。大学生だという娘ふたりは、笑いながらもけっして礼を失しないよう、作法どおりに部屋をあとにした。丁寧な物腰は両親のしつけのたまものだろう、と元長波は思った。

「わたしがあの子らの歳だったころより、ずっと礼儀がなってる」

 元長波に元嵐は、ビールを口に運びながらも喜んだ。

「お互いにおかえりをいう家庭があって、子供たちも順調に自分の道を進んでる。わたしには眩しいよ」

「長波は、幸せってなんだと思う」

 元長波の杯に新しく開けたビールを注いでいた元嵐がいった。陰のある顔だった。元長波が答えられないでいると、

「あたしたちは、子供のころは艦娘になって深海棲艦と戦って、お国のために散るのが女の幸せだって教えられた。でもいまじゃ、結婚して母親になることが女としての幸せっていわれる」元嵐は息を吐いた。「女の幸せっていうのは、世の中が勝手に定義して、押しつけてくるもんなんだ、いつだって」

 元長波も、二十歳も半ばを過ぎるころから、結婚はしないのか、子供を産むなら早いほうがいいと、周囲に口を出されることが増えた。三十路にさしかかると「早く結婚しないと手遅れになるよ」とほとんど脅された。まるで結婚していることが社会人の証明書だとでもいわんばかりに。自分の面倒でたくさんだった。四十になるともうだれもなにもいわなくなった。

「結婚するのが女の幸せだなんて、いったいだれがいいだしたんだろうな」

 元長波はつぶやいた。

「女は子供を産んで一人前。――何度聞いたかわかりゃしない。子供を産んだからって無条件で神さまかなんかになれるわけでもないのに」元嵐は吐き捨てる。「子持ちの母親が、まだ子供ができない同性に向かって、やたら上から目線でものをいったり、自分は子供を産むっていう社会的意義を遂行したけどあなたは違う、みたいな感じで冷たく接してるのを、あたしは数えきれないくらいみてきた。親になったからといって、それだけで人格的に成長するとは、あたしは思えない」

 そういう母親たちの二言めはこれだ。「あなたは子供がいないからわからないのよ」。

「子供を産めば幸せになれる。それははっきりいって幻想だよ」母親である元嵐は断言する。「結婚した、子供を産んだ。そうなるともうどこにも逃げられないし、妻として、母として、その逃れられない役割を、一生背負っていくしかない。逃げても逃げても追いかけてくる役割と。だから、自分の選択は間違ってなかったと言い聞かせるために、結婚することは幸せ、親になることは幸せ、結婚も出産もしてない女は自分より下の人間なんだと思い込もうとする。まあ実際、そうでもしなきゃやってられないってとこはあるけど。子供を産んだからって幸せになれるとは限らない。でも確実に責任だけは増える。要は、その責任の重さを幸せと思えるかどうかだろうな」

 いまの元嵐は、陽炎型駆逐艦娘〈嵐〉のホーミングゴーストからは解放されたが、妻というゴースト、母親というゴーストを背負っていた。

「あんた自身は、いまの自分を幸福だと感じるか?」

 元長波の問いに、妻であり母である女は、

「好きになった男と結婚できた。ふたりの子供にも恵まれた。どんだけ手がかかっても、やっぱり自分の子供だからね、可愛いもんだよ。あたしにはもったいないくらいのもんが手に入った。たいへんだったことも多いけど、それも全部ふくめて、幸せだって、ああ、思えるよ」

 真正面から見据えながら、かすかな笑みとともに何度も小さく頷いた。そしてつづけた。

「あたしは幸せだ。あたしは幸せにならなきゃいけない」

 虎落笛(もがりぶえ)が家の外から聞こえた。

「それは、あんたが海軍に入ったことと関係が?」

「あたしが艦娘になった理由は、長波には話してなかったっけ。ジャムで会ってジャムで別れたもんな」

 元嵐は笑って凝り固まった体勢を直した。

 

 どっから話せばいいのかな。あたしが二歳か三歳のころに親が離婚してさ。母に引き取られた。

 母は恋多き女って奴でね。男をとっかえひっかえ……。父が親権を譲ったのは、裁判で負けたからなのか、あたしが自分の子供かどうかわからなかったから放棄したのか……母があたしを引き取ったのだって養育費目当てだった。あたしの目の前で月にいくら使えるって金勘定してたから。

 離婚してからも、母の男癖の悪さは治らなかった。あたしはひとりで冷凍の食事をチンして、ひとりで食べてた。

 母が帰ってきたんで、玄関に迎えに行ったら、知らない男を連れてた。その男はあたしを見るなりこう言った。

「コブつきかよ。話が違う」

 母は母で、

「違うの、別れた旦那の子供だから、気にしないで」

 なにが違うんだかな。つぎの週、母はあたしの靴を部屋に持ってきて言った。

「これから人が来るから。あたしは独身で子供もいないってことになってるから、あしたの朝まで部屋から出てこないで。声も出しちゃだめよ」

 あたしはその夜、この世界のどこにもいないってことになった。お笑い番組を見ても笑っちゃいけない、泣ける映画を見ても泣いちゃいけない。ヘッドフォンをかぶって、自分でもびっくりするくらい無表情でテレビを見てた。壁越しに母と顔も知らない男のお盛んな声がするもんだから、ヘッドフォンは耳栓がわりにもなった。息を潜めて、トイレに行きたくなっても惣菜の空容器に出したりしてさ、あたしなりに母の言いつけを守ってたんだけど、いつかはバレるよな。男に別れられるたび、母は酒に溺れた。ある日、泥酔した母があたしにいったんだ。

「あんたがいなけりゃ、あたしはもっと自由に生きられたのかなあ……」

 勝手に産んどいてよくいうよ。

 あたしはその夜、家を出た。アテがあったわけじゃない、とにかく母とおなじ家にいたくなかった。あとで気づいたんだけど、その日、あたしの誕生日だったんだ、傑作だよな。十五歳のね。十五の夜さ。バイクは盗まなかったけど。

 でも子供がひとりで生きてくなんて無理だ。腹は減るし、やっぱり屋根のあるところで寝たい。橋の下で寝たこともある。自販機の釣り銭を漁ってたら、そこらを縄張りにしてるホームレスにすごい剣幕で怒られた。

 どうしようもないからあたしは、自分が女だってことを使った。適当な男に声をかけて、飯と、ひと晩寝泊まりさせてもらうかわりに、セックスする。一宿一飯の恩義だよ。ひとりなんか女を殴りながらヤるのが趣味の奴がいてさ。ひどい目に遭った。それからはできるだけまともそうな男を選ぶことにしたよ。人を見る目は養われたかもな。面白いのが、ヤッてるときは夢中で腰振って、ガキの胸にむしゃぶりついてくるくせに、終わったあとになって急に、

「こんなことしてちゃいけないよ、親御さんが悲しむぞ」

 とか説教しはじめるのがけっこう多いんだ。ゴムつけてるとはいえ、いまさっき間抜け面さらしてナカイキしたやつが、なにいってんだって話だよ。

 そんなことを繰り返してるうち、自分が母親とおなじことしてるって気づいた。もうなにもかも嫌になった。自分が女であることがたまらなく汚らわしく思えた。男に生まれてたら違う人生があったのかなと思ったりもした。それで自分のことを俺なんかいってみたりしたけど、なにか変えられるわけもなかった。ただ食べるために体を売るだけの毎日だった。

 いつものように会社帰りのリーマンみたいなのを引っ掛けた。マンションに連れてかれたら明かりがついてた。まさかと思ったら、そのまさかだよ、きれいな若い女の人が出迎えてきてさ。あんときのあたしはどうかしてたんだな、左手の薬指に気づかなかった。

「どうしたのこの子?」

「拾ってきた。お風呂とご飯を頼む」

 ……奥さん、最初は驚いてたけど、いきなり転がり込んできたあたしに嫌な顔ひとつせずに、旦那さんのためにつくってたはずの手料理食べさせてくれてさ。そんときまで手料理っていうの、食べたことなかったんだ。生まれてはじめてだった。おいしかった……ご飯ってこんなにおいしいんだって思ったよ。布団もさ、奥さんが添い寝してくれたからかな、いままで寝たどんなベッドよりあったかく感じた。

 次の日さっさと出ていこうとしたら、いろいろ訊かれた。勇気を出したよ……いきさつ話したら、奥さんが、母のことを、許せないって怒りだして、しまいには泣きはじめた。きのう会ったばかりのあたしなんかのために。

 旦那さんのほうは、しばらくなんにもいわずに黙ってたけど、腕組んで、

「どんな事情があっても、未成年をいつまでも匿うわけにはいかない」

 そりゃ当然だよな。奥さんは「そんな」って同情してくれたけどね、最悪、この夫婦が誘拐の罪に問われかねない。やっぱり帰るべきだなって思った、そのときだった。

「だから、きみをわたしたちの養子にしようと思う」

 あたしは最初、意味がわからなかった。ゆうべ会ったばかりのあたしを養子だって?

「うちの子になれば、うちにずっといてもだれにもなにもいわれない。うちには子供がいないから気兼ねしなくてもいい」旦那さんは当然のことのようにいった。奥さんも乗り気になってた。

「もちろん、きみの意志が最優先だ。きみさえよければ、わたしたちはぜひ、うちの子になってほしいと思ってる。十五歳以上なら実の親の承諾はいらないからね。本人の意思で養子縁組ができる。でも、もしきみが自分の家のほうがいいというなら、わたしたちはきみの意志を尊重する。きみが選ぶんだ」

 そういわれて、あたしはあの母親がいるあの家を思い出した。あの家で暮らしてた日々を。あの家に帰る? いままで当たり前だと思ってたいろんなことが、たったひと晩、その夫婦の家で過ごしただけで、もう二度と帰りたくない、とあたしに思わせた。もうあの家で生きていける自信がなかった。ぬくもりを知ってしまったんだ。あたしはなんとか「ここにいたい」っていえたよ。

 そうと決まったら早かった。旦那さんはまず事実関係の確認のため、あたしの家に行って母と直接話をした。いくら法的に不要とはいっても実の親だからね。留守がちだったみたいで三度めでようやく会えたっていってた。帰ってきた旦那さんは、なんだかやりきれない顔してたよ。いうべきかいわないでおくべきか迷ってたみたいだけど、きみは当事者だから知っておく必要があるとか、あまり思い詰めることはないとか、いろいろ前置きを述べて……たぶん、わたしが少しでもショックを受けずにすむようにしようっていう心遣いなんだろうな、いい人だなぁって、暢気に構えてた。

 で、旦那さんがいうには、おたくの娘さんを養子にしたいって切り出したら、母はあっさりと「いいですよ」って。「あの子の父親と連絡とれなくなって。飛びやがったのよ、あいつ。だからもう養育費入らなくなっちゃったの。あてにしてたのに。でももうお金が入ってこないんじゃあね、家に置いとくだけ赤字になるのよね。軍にでも行かせようと思ってたんだけど、めんどくさいからもういいや。養子でもなんでもお好きにどうぞ。なんならおたくにあげますって、一筆書いたげましょうか?」だってさ。警察に捜索願すら出してなかった。当のあたしは、母がどんな人間かわかってたから、いかにもあの人らしいなって、とくになにも感じなかったんだけどね。

 書類上の手続きをすませて、正式に夫婦の子になった日、旦那さんに、ひとことだけでいいから、実の母親にあいさつをしておくべきだっていわれた。いい思い出はないかもしれないが、産んで、育ててくれたことに対するけじめだって。遠慮したかったけど、これが最後だって思って、養父になった旦那さんに付き添われて行ったんだ。「いままでお世話になりました」そしたらインターホン越しに「そ。さよなら」……それで終わり。感動もクソもない。踏ん切りはついたけどね。

 夫婦はあたしをそれはそれは大切にしてくれた。本当はあたしはこのふたりの子供で、なにかのまちがいであの女のもとで育てられてたんじゃないかって思うときがあるほど。至れり尽くせりだよ。お礼の方法なんて体しか知らなかったからさ、「どうやってお返しすればいいですか」って訊いたら、「きみの人生を見つけてくれればじゅうぶんだ」だって。あんなお人好し、みたことない。

 あたしはあたしなりに恩返しの方法を考えた。サラリーマンにみえた養父は海軍の募艦担当官だった。だからあたしは十八のときに言った。艦娘になるって。

 養父は思いとどまらせようとして、ぐっとこらえた。やめろなんていえるわけがない。自分は人の娘を艦娘にして戦場へ送ってるんだから。ただ「どれほど危険な仕事かわかってるのか」って訊くだけ。わかってるって答えた。養父は「そうか」っていって、あした地方協力本部へくるようにとだけ伝えた。あたしは頭を下げた。

「短いあいだでしたが、お世話になりました」

 実母のときとはちがって、心をこめてね。いまのうちにいっとかなきゃって思った。あした会うときは、父じゃなくて、軍の担当官としてだから。

 適性検査に合格して、艦娘学校へ行くために家を出るとき、見送りに立ってくれた養母が、あたしの背中へ「元気でね! 元気でね!……」と二回、声をかけてきたのを、いまでも鮮明に覚えてる。

 実の子供でもないあたしを精いっぱい愛してくれた、あのふたりの期待だけは裏切れない。りっぱな艦娘になってみせる。そう誓った。

 でも実際には、あたしは生き残ってしまった。しかも精神的な理由で除隊。恥ずかしかった。悔しかった。せめて英霊になりたかった。国のために轟沈した英霊になって、あのふたりの美しい思い出になりたかった。なのに、おめおめと帰ってきたあたしを、ふたりは大粒の涙を流して温かく迎えてくれたんだ。頭が上がらないよ。

 世間のいう幸せの定義が変わって、いまは死ぬことじゃなくて家庭を持って親になることが女の最終目標ってことになった。養父母の恩に報いるためにも、あたしは幸せになって、手の届く範囲の人間を幸せにしなくちゃいけないんだ。

 

 吐き出すようにしゃべり終えた元嵐が喉を鳴らしてビールを飲み干す。

「親に復讐してやりたいって思ったことはないの?」元長波は好奇心から訊いた。

 元嵐は苦笑いした。

「あたしにとって、実の両親はそんな価値もないんだ。それにあたしがもし殺人なんかやらかしたら、養父と養母だけじゃなくて、いままで世話してくれた人たちに幻滅される。それだけは耐えられない。しょうもない生い立ちの人間でも立ち直って、社会に貢献できるってことの見本になりたい。そうすれば、あたしみたいなやつに手を差しのべる人も増えるかもしれない。いまのあたしには家族もいる。あたしの人生はもうあたしだけのものじゃないんだ」

 元嵐は、ながい星霜を経て(かど)がとれ、磨かれ、まるくなった石のような笑顔でいった。

 

 軍にいたあいだに、元嵐の家庭環境にはふたつの変化があった。ひとつは養父母が子供に恵まれたこと。元嵐は自分がお役御免になったと思った。実子がいれば、自分は沈んでも養親をあまり悲しませずにすむだろう。

 しかし、養父は航海中の輸送艦へ寄せた電話で、「たとえ子供ができても、きみがわたしたちの最初の子であることには変わりない。これからもわたしたちをいままで同様に親だと思ってくれ。そして、この子のお姉さんになってくれないだろうか」と、温かい言葉をかけてきた。元嵐は電話口で泣くばかりで、決まりきっている返事は、喉で糸のように絡まった。

 もうひとつは、実母から音信があったことだ。ショートランドに赴任していたとき、基地に元嵐あての電話があった。どうやってか、元嵐が艦娘という名の特別職国家公務員になったことを知り、連絡先まで突き止めたものらしい。

 実母は「あたしが悪かったわ、いっしょに暮らしましょう、親子がいっしょに暮らすのは当然のことなんだから……」と、猫なで声で訴えた。

「丁重に断ったよ。いまは任務に集中したい、あたしはもう親離れしたんだ、巣立った鳥が巣に戻ったりしないだろって」

 その三日後、元嵐は実母の訃報を受け取った。

「付き合ってた新しい男のかみさんに刺されたって。いつかはそうなる予感はしてた。そういう生活をしてたんだから自業自得だ。つくづく勝手な人だよ。勝手に産んどいて、勝手に死ぬなんて……」

 元嵐にとって家とは、実母に「いないことにされる」場所だった。息をひそめ、部屋から出ずに排泄し、母の嬌声から耳を塞ぐ牢獄だった。内心では養親と過ごした家庭にあこがれていても、脳髄にこびりついた実家の記憶がホーミングゴーストとなって影を落とす。――マイホームがあれば幸せだって? あたしは母のいた家でちっとも幸せなんかじゃなかったぞ。

「結局、家っていうのは、家族がいるところであって、家そのものはどうでもいいんだってことがわかった。戸建てだろうが賃貸だろうが……逆にいえば、あたしが嫌いな一戸建てでも、楽しい思い出をみんなでつくっていけば、幸せになれる」

 元嵐は、女というゴーストから逃れようとして、しかし和解を果たし、いまは妻、母のゴーストを望んで受け入れている。かならずしもホーミングゴーストから逃げつづける必要はないのかもしれない。克服しようとがんばってきたが、克服する必要すらないのかもしれない。元長波は思った。わたしたちは、ゴーストから逃げたっていいし、ゴーストとともに生きていくことだってできるのかもしれない。

 

  ◇

 

 翌日、元長波は宮崎空港から羽田行きの飛行機に乗った。大気の清浄な日で、左側の機窓からは、九州の東崖と、四国の西崖に挟まれた、豊後水道のきらめきを望むことができた。

 四国の南に、四足獣の肢のように太平洋へ突きだした足摺岬と室戸岬のつま先を通過して、旅客機はまっすぐに羽田へ向かう。

 羽田空港へ降りて、バスを乗り継ぐ。宮崎から羽田へ飛ぶのとおなじ時間をかけて羽田から自宅のマンションへたどり着く。

「やっぱり、わが家がいちばん。賃貸だけどね」

 旅の荷物を開いて、洗濯物を洗濯機に放り込んでいるとき、元長波は、突如、鑿と金づちで頭蓋を砕かれているような激痛に立っていられなくなり、床にのたうち、もがき苦しむ。いままでの発作で最も痛みが大きい。自分の意思とは関係なく暴れる手足が部屋の荷物をはじき飛ばす。涙とよだれと鼻水を垂れ流しながら、ペンダントのピルケースから発作を抑える薬を残量すべて掌中に移して、鉄のように硬直した腕の筋肉をむりやり動かして、口へ投げ込む。

 薬が舌で溶けても神経の爆発が止まらない。元長波は痛覚の狂嵐のなかで混乱する。脳を真っ二つに引き裂かれるようだ。悲鳴すら上がらない。

 元長波はその日、都内の病院へ救急搬送された。


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