栄光の代償・元艦娘たちが語る対深海棲艦戦争(GHK出版新書)   作:蚕豆かいこ

28 / 28
二十八 栄光の代償

 精査加療のため緊急入院したあくる朝、ベッドの上で窓外の景色をぼんやりと眺めている元長波に来客があった。

「よう、気分は? 冥土の土産にあたいの顔がみられて最高だろ?」

 元朝霜だった。魂の抜けたようだった元長波の顔に生気が戻る。

「さっきまで最高だったけど、おまえの顔をみたせいで大暴落したよ」

 いわれた元朝霜は安心したように笑って、両手に提げていた、大きく膨れたふたつのバッグを床に置く。「で、人生の卒業式はいつなんだよ」

「もう発作の薬も効かないくらい進行してるんだってさ。膠芽腫(こうがしゅ)ってやつで」元長波は医師から宣告された病状をかいつまんで教えた。自分のこめかみを指で弾く。「つぎに発作が起きたときが、わたしの命日らしい」

 元朝霜も言葉少なに「そうか」と相づちを入れるにとどめた。

 元長波にはそれよりも気になることがある。

「おまえ、仕事は?」

 千葉に勤めているはずの元朝霜はわざとらしくため息をつく。「有休ってのは、消化するためにあるんだよ」

「おまえも旅がしたくなったのか?」

「ばかいえ。身寄りのない寂しいおまえが入院したら、おまえの身の周りの世話してくれるやつなんかいないだろ」

 バッグのファスナーを開け、羽織るものや箱ティッシュ、ウェットティッシュ、新品の下着、耳栓、歯ブラシや歯磨き粉、落としても割れない強化プラスチックのコップ、ほかにも日用品の山脈を築いていく。

「鉢植えの胡蝶蘭(こちょうらん)も買おうかと思ったんだけどさ、急ぎで運び込まれたって聞いたから、ろくなもんねえだろうって思って、とりあえず思いつくもんだけ持ってきた。おまえんちにある着替えとか、ほかに要るもんとかあったらいってくれ」

 元朝霜は、呆気にとられている元長波に笑ってみせる。

「おまえが三途の川に進水するのが先か、あたいの有休が切れるのが先か、競争だな」

 

  ◇

 

 元長波にはふたつの選択肢がある。治療を拒むか、わずかな望みに賭けるか。

 もう四十二年も生きた。「戦後の二十二年はボーナストラックのようなものさ」と元長波はいう。なくてもアルバムは完成する。終戦までの二十年、より正確には、戦争中の八年間こそが人生のハイライトだった。生涯の素晴らしい瞬間をすべて戦時中に前借りした。「いまは捨て曲ばかりを凝集した人生だ。生き恥をさらしてきた二十二年だった」

 だが、今回の旅で再会した仲間たちの二十二年は、どうだろう。だれもが、苦悩をかかえ、思い通りにいかない現実に、それでも真正面から向き合って、元艦娘というだけではない、何者かになろうと努力していた。彼女たちはややもすると、死と隣り合わせだったがために生命力を燃焼させなければならなかった戦時中より、むしろ現在のほうが輝いていなかったか。それは、生きようとする姿こそが生命の天分であり、きょう死んでも悔いのないよう、いまの一瞬に全精力を傾注しているからこその美しさだった。彼女たちの戦後の人生に捨て曲はなかった。一日たりとも。

 元長波は、少しでも彼女たちに近づきたい、と思った。ならば選ぶ道はどちらか、考えるまでもないことだった。微小でも可能性があるうちから死を受け入れてはいけない気がした。生きようとあがくことでしか、彼女たちの隣に立つ資格は得られないのだ。

 元長波は医師に呼ばれて治療法の説明を受けた。腫瘍は四方八方に浸食するように根を伸ばしている。発生場所もわるく、腫瘍というよりは染みのように脳神経を浸潤しているから外科手術は不可能である。化学療法と放射線治療を併用して根気よく潰していくしかない。不幸中の幸いというべきか、腫瘍によって血液脳関門の機能が弱体化していて、抗がん剤が脳へ届きやすくなっているから、化学療法が有効だと考えられる。一方で、化学療法および放射線治療には副作用がつきものである。むろん、どのような副作用が出現するか、すでにわかりきっているから、適切な支持療法(副作用への対症療法)を実施する体制は整えてあるが、過酷な闘病生活を強いられることには違いない。 そうして医療と患者の双方が最善をつくしても二年生存率は三割を切る。たとえ根治したようにみえても、治療の影響が晩期合併症を招く危険性があるだけでなく、腫瘍そのものの再増大の可能性もつねにつきまとう。セカンドオピニオンも視野に入れて熟慮を重ね、納得のいく選択をしてもらいたい。――そんな医師の話だった。

「最後に、なにか質問しておきたいことがありましたら」

 元長波は、ではひとつだけ、と人差し指を立てて、

「あなたのお母さんが、わたしとおなじ病気になったとして、あなたはこの治療法を勧めますか」

 と訊ねた。長波より年若い医師は、寸秒だけはっとしたが、「ええ」としっかり頷いた。

「そうですか。なら、お願いいたします」

 元長波は深く頭を下げる。

 診察室から帰る途中、元長波はひと組の親子とすれ違った。母に手を引かれている幼い男の子は、元長波に無邪気な問いを投げる。

「艦娘さんなの?」

 そうだと答えたら、つぎにどんな質問を浴びせられるか、元長波は知っている。どこに行ったの。深海棲艦を何匹殺したの。そのときどんな気持ちだった。全人類から投げかけられた気さえするほどに訊かれて、答えてきた、お定まりの質問。いつしか「ちがうよ」と答えるのがくせになっていた。

「そうだよ。長波だったんだ。駆逐艦娘の」

 元長波は、もう自分を偽るのをやめた。わたしは元長波だ。隠すことはない。それで面倒な質問攻めに巻き込まれても、別にいいじゃないか。きょうが人生最後の日ならどうするか。この先もおなじ質問に繰り返し回答しなければならないと考えるからうんざりするのだ。だから最後だと思えばいい。その日その日を最後だと思って生きる。きょうがその第一歩だ。

 元長波は身構える。続くはずの決まりきった質問に備えて。

 子供は、両手を膝で揃えて、深々と腰を折った。

「ごくろうさまでした」

 それだけいうと、ふたたび母親の手をとって通路の角を折れて去っていった。姿がみえなくなったあとも、元長波は、しばらく親子が消えた通路をみつめた。

「簡単なことだったんだな」元長波は笑いながらも小さくしゃくりあげる。「こんな簡単なことに気づくのに、ずいぶん遠回りをしちまった」

 

  ◇

 

 入院生活は一日がながい。元長波はベッドで雑誌を読んで時間を潰した。元朝霜が毎日のように見舞いにきては、洗濯物を回収して、清潔な衣料と、化粧水をはじめとした消耗品を補充し、本やタブレット端末や携帯ラジオなど暇潰しできるものを置いていく。いま読んでいるのも元朝霜の見舞品だ。

 その元朝霜が、紙袋を手にきょうも元長波の個室を訪ねる。やけににやにやしている。

「なんだよ、そのドリンクバーでコーラと別の飲みもんを混ぜてきたような面は」

 元長波が雑誌を閉じながらいうと、元朝霜は訊き返す。「おまえ、またハゲるんだよな?」

「わたしの頭を水晶玉に見立てて占い師ごっこができるくらいにはな」

「そんなおまえにお土産だ」

 元朝霜が紙袋から繊維のかたまりを「じゃじゃーん」と取り出す。元長波の呼吸が、刹那のあいだ途絶する。

「山風だったやつ、いたろ。おまえが入院して、治療を受けるって連絡したらさ、あいつがつくって、長波に渡してくれって、送ってきたんだ」

 元朝霜が披露したのはウィッグだった。ながく美しい黒髪は豊かに波打ち、それだけならただのウィッグでしかないが、濡れ羽色のあいだから見え隠れするピンクのインナーカラーが、一風変わったアクセントになっている。長波シリーズ特有の髪を模したウィッグだった。

 差し出された元長波は、まだ信じられず、おそるおそる、恭しく両手で捧げ持つように受け取った。カラーリングは長波だった彼女からみても完璧で、質感も地毛そのものだ。

「でもこれ、高いだろ」

 なにかいわなければ、という焦りから、元長波の口はそんなことを紡いだ。

「みんなからのプレゼントだってさ」

「みんな?」

「イムヤとか、神威の会社の元艦娘とか、磯風とか、陽炎とか嵐とか、おまえの知り合いの朝潮とか。おまえが現役んときに助けたっていう国後だったやつが、ほうぼうにかけあったらしいぜ」

 元長波には言葉もなかった。鴻毛(こうもう)のように軽いウィッグが急に重くなったようだった。

「副葬品になるかもしれないぞ」引きつった笑みで元朝霜を見上げる。

「もうおまえのもんなんだから、好きにしろよ」

 ちょっと被ってみろと元朝霜に促され、元長波はウィッグを装着した。

 渡された手鏡で確認しながら手ぐしを通す。

 そこには長波がいた。しばらくみつめて、我に返った元長波は照れる。「こんなばばあな長波がいるかよ」しかし、熱心に鏡を覗きながら毛先をいじる元長波は童心に返っているようにみえる。

「お礼いっとかないとな」元長波は携帯電話を使用してもよいエリアへ行くために杖を引き寄せる。

 乳がんを患ったさいにも利用した高額療養費制度と限度額適用認定証――除隊時の講習で教わった公的制度だ――の申請をすませ、六週間の集中治療にのぞむ。二グレイの放射線治療を三十日間。内服と点滴の二種類の抗がん剤。

 治療をはじめて三日め、予想していたとおり嘔吐の副作用がでた。元朝霜がすかさず差し出したバケツへ吐く。舌と歯がざらざらする。吐瀉物の跳ね返りを浴びても元朝霜は気にしない。

 吐き気止めが処方されたが、五日めには食事をしてすぐに吐き戻した。何度も何度も。胃の内容物がなくなったあとも、褐色の胃液まで。

 一週間をすぎるころ、朝に起きると枕が抜け毛だらけになっていた。

「いいか、これが」見舞いにきた元朝霜に、元長波は真面目くさった顔をして、自分の右側頭の髪を引っ張ってみせた。髪はなんの抵抗もなくするすると抜けた。親友に示す。「はかなげだ」

「ほう」

「そしてこれが」今度は左の頭から髪の毛を抜く。「かなしげだ」

 声を殺して笑いあう元長波と元朝霜を、看護師たちがけげんな目でみやる。

 全頭脱毛になるまで日数はかからなかった。いびつに脱毛しているよりかえってせいせいする、と元長波はいう。元山風謹製のウィッグをありがたく被る。

「抗がん剤のハゲってのは、全身の毛が抜けんのか? 頭だけ?」

「全身だよ」眉もなくなっている元長波がウィッグの髪型を整えながら気軽に答える。

「じゃあ、シモの毛も?」

「シモの毛も。いまのわたしは剃り跡のない完全なるパイパンだからな」

「じゃあいまは、月面もかくやというほどのツルツルか」

 元朝霜は笑いながら、窓越しの青空に薄くスライスした玉ねぎを貼りつけたみたいに浮かぶ半月を指さした。

「でもな、あの月もようやく思春期になって、色気づいたらしくてね」髪だけ長波に戻った元長波が指を二本立てる。「マン毛が二本だけ、生えてきたらしい」

「その心は?」

「マン毛が二本で、マンゲツー……」

 ふたりは爆笑してしまいたいのをこらえて、体をくの字に折って震えた。落ち着きを取り戻した元朝霜が、息も絶え絶えに、

「オイゲンに、オショーガツーだのカドマツーだの、変な日本語を吹き込んだのはおまえか!」

 元長波はそっぽを向いた。それがまたおかしくて元朝霜はまた笑い、元長波もつられた。

「あたいも朝霜のウィッグつくってもらおうかな」話しながら元朝霜は、元長波が入院時よりあきらかにやつれてきていることが気にかかっている。脳腫瘍のせいか、治療の副作用なのかは、元朝霜にはわからない。経口で食べられないというわけではなく、抗がん剤で胃腸の消化吸収能力が低下しているため胃瘻(いろう)は意味がない。牛乳で溶く粉末タイプのシェイクでなんとかカロリーを摂取できている状態だ。嘔吐だけでなく下痢も日に四、五回つづいている。「きのうより痩せてんのがみてわかるわ」

「だろ。治療前より五キロ落ちたんだ」

 まだ折り返しの三週間も経っていない。

「がんになれば嫌でも痩せる。これは流行るぞ、がんダイエット。確実に体重が減らせてリバウンドもなし。よけいな寿命も削れて一石二鳥」元長波がむりをしているのが元朝霜にはみてとれる。

「命拾いしたら本でも書け。痩せたいくせにバカみたいに食いまくるやつは、さっさとがんにでもなれってな」

 元長波が、「ならいまからサインの練習でもしておくか」と笑おうとするが、声には疲労の色が濃い。

「ため息のひとつもつきたいが、幸せが逃げるっていうしな」

 元長波が嘆くので、元朝霜は、

「ため息ごときで逃げる幸せなんて、ハナっから大したもんじゃねえんだから、好きなだけつきゃいいんだよ」

 といった。元長波は苦笑いして、「それもそうだな」といってから、盛大にため息をついた。「ああ、なんか楽になった」

「せいぜい養生しろ」

 元長波を寝かせてやった元朝霜は、

「ここの病室は客のもてなしがなってねえぞ。またあしたくるからな。覚えとけ」

 と言い残して、部屋を後にした。元長波にはひとりで休む時間が必要だと考えたからだ。

 

 元長波の容態は日に日に悪化しているようだった。体が鉛のように重いという。とくに食事がつらいようだった。半身を起こすだけでもいまの元長波には重労働である上、食欲はなく、やはり抗がん剤の副作用で口内炎ができていて、食べ物がしみると痛く、なんとか食べても吐いてしまうのではと思うと、どうしても憂鬱にならざるをえない。しかし元長波は点滴を拒否し、自分の口で食べることにあくまでもこだわった。時間をかけながら毎回完食した。「朝潮が介護してたっていう元赤城だって、しんどいのを押して食べてたはずだ」制吐剤を服用して元長波はいう。

 自立歩行訓練も、元長波には欠かせない日課だった。病院に併設されているリハビリテーション施設へは杖をつかいながらも自力で歩く。理学療法士の補助のもと、股関節や膝の曲げ伸ばし、足首の曲げ伸ばしなど、関節の可動域を維持、拡大するストレッチを受ける。これは顔がゆがむほどの痛みをともなう。

 訓練では麻痺している足と杖を同時に前へ出し、つぎに健康な足を出す二動作歩行を繰り返す。

「リハビリっていうのは、反復練習が命なんです」理学療法士が元長波にアドバイスする。「人間の神経はけっこういい加減にできています。たとえ麻痺していても、歩こうという確固たる意志をもって何度も何度も動かしていれば、脳がこういう指令を出したときは足を動かすんだって体が勘違いして、本当に動くようになる。体を騙せたら、こっちの勝ちです」

 元長波はほかにも平行棒を用いて、座位の状態から立位に自分で移行する訓練、そこから歩行をはじめる平行棒内歩行訓練、スクワット、段差を置いて階段昇降の練習を重ねた。

 抗がん剤による倦怠感と手足のしびれもあって苦しいはずの訓練に、元長波は愚痴もこぼさず率先して挑んだ。その前向きな姿勢には大勢の患者をみてきたスタッフたちも目を丸くした。

「2戦教のほうがよほどつらい。なんてったってここにはエアコンがある。艦娘学校の新人教育にも及ばないかもね」

 歯を食いしばる元長波はむしろ楽しんでいるようだった。元長波はけっして音を上げなかった。「つぎは?」それがここでの元長波の口癖になった。リタイアの鐘なんか、絶対に鳴らしてやるもんか。

 血のにじむ努力が実を結んだか、四週めには、杖なしでベッドの周りを一周できるようになった。

「治ったら、なにか仕事をしたいんだ」元長波は元朝霜に語った。「まだ決めてないけどな。もう四十二だけど、まだ四十二ともいえると思うんだ。なにかをはじめるのに遅すぎるってことはないだろ。少なくとも十年後、二十年後よりはいまのほうが年下なんだから」

 きょうが最後ならどうするかと考えつつ、十年後や二十年後のことも考えられるようになった。そこにいっさいの矛盾はない。大きな進歩だと、元朝霜は自主的に歩行の訓練をしている元長波を見守りながら安堵している。元朝霜の胸には希望が芽生えはじめている。ひょっとすると、元長波は本当に回復するのではないか。銚子ではなんらの症状もなかったのに、ひと月足らずで杖が必要になったと聞いたときは進行の早さに驚いたが、いま、元長波はだれの力も借りず、自分の足で立って、ゆっくりではあるが歩くところまで復調している。人間の生きる力に感動するとともに、元長波の生命力に元朝霜は、希望が雨上がりの雲間から射し込む光芒のように、親友を照らしていると感じられた。

 しかし、それはやはり光芒と同様、一時的なものでしかなかった。

 年明け最初の診療は治療六週めの検査にあたった。長かった治療の成果があらわれる。MRI画像をみる医師の表情は、険しい。

「神経繊維に沿って病変が進展しています。つまり、もぐら叩きのように、いまみえている病変に放射線をあててがんを死滅させても、がん細胞が少しでも残っていればまた別のところから顔を出す。まだ成長していない腫瘍は小さすぎてMRIにも写らないことがしばしばあります。写らないと照射のしようがありません。また、抗がん剤に対する感受性の高いがん細胞と、そうでないがん細胞が混在しており、完全な治癒はむずかしいというのが正直なところです」

 脳腫瘍は機械の目をすり抜けながら元長波の脳すべてを食い尽くそうとしていた。根治しなければ峻烈なリハビリテーションの日々はすべて無駄になる。だが元長波には落胆の色はない。「治るまで、どうぞよろしくお願いします」

 一月五日、元長波はとうとう食べたもの、飲んだものをすべて吐くようになった。制吐剤はいま以上には増やせない。点滴で水分と栄養補給をすることになった。

 歩行訓練は続行したが、筋力はみるみる落ちていった。効果がみえない訓練ほどむなしいものはない。それでも元長波はあきらめなかった。戦争が終わったあとも、仲間たちは平和な時代でそれぞれの新たな人生をみつけるために戦った。わたしは逃げてばかりいた。いまこそ戦うときだ。これがわたしの戦いだ。

 

「具合はどんなだ?」

 元朝霜は病室を訪ねるとき必ず開口一番にそれを訊く。

「最高」

 ベッドの元長波は元朝霜の顔をみると安心したように唇をゆるめる。荒れてひびわれた唇を。

「きょうは、おもしろいニュースみつけてきたんだよ」元朝霜は元長波にリップクリームを塗ってやる。

「戦時中に海軍が極秘裏に実用化しようとしていたっていう、艦娘たちの強い部分を組み合わせて建造した究極の艦娘、〈うばふそうがさ改二〉がついに発見されたとか?」

「ちょっと違うな」

 元朝霜はタブレット端末を操作してトピックのひとつを呼び出した。

「おまえ携帯の電源切ってたんだろ。若狭のほうで市民マラソンがあって、おまえが山風の家で会ったっていう長良が参加してたみたいでな」

 画像には、元山風や元国後と一緒に鍋を囲んだ、あの元長良が、元長波の知らない女性ランナーの肩を借り、必死にゴールを目指しているさまがあった。焦点はふたりにあっているが、ぼやけた奥の沿道の見物人たちが、みんな彼女たちへ声援を送っていることは間違いないようだった。

 記事によると、元長良は人生最後というマラソンに挑戦し、三時間を切るであろう好タイムを維持していたが、ゴール手前わずか百メートルの地点で、背中のコンプレッサーで防げないほどの痙攣が足を襲った。自力で立ち上がることもできない。断腸の思いで棄権しようとしたとき、一度は追い抜いていったひとりの女性ランナーが反転し、元長良を抱きかかえ、ゴールまで付き添った。スタッフも改めてゴールテープを張り直して元長良を迎えた。元長良がテープを切ったのち、女性ランナーもその背に続いた。

 その女性ランナーは元長良とはまったく面識のない赤の他人だった。ただ、完走直前でアクシデントから挫折しようとしている、おなじマラソンを走る仲間が放っておけなかったのだという。

「わかるか?」元朝霜は画面をスクロールしてふたたび画像を表示させた。自分の成績など構わず、見ず知らずの元長良に肩を貸すランナー。「あたいたちが守ったのは、こういう世界だ」

 元長波は液晶のなかの元長良をじっとみつめた。

「わたしの八年がこれにちょっとでも貢献できたんなら、悪くない気分だ」

 液晶に透明なしずくがひとつふたつ落ちた。

「この長良は、もう走れないんだ」元長波は途切れとぎれにいった。「いまごろはわたしみたいにがんと戦って、リハビリしてるだろう。この美しい世界へいつか還るために」

 治療によって、元長波に発作が起きる可能性は低くなっている。だがゼロではない。そのときがくれば訓練も無意味だ。この六週間、自分なりにがんばった。しかし人生をやり直したいという元長波の意思に反して肉体が枯れてしぼんでいく。表には出してこなかったが、いままで抑え込んできた、徒労ではないかという気持ちが、一気に溢れでてきた。

「わたしは、生きることさえ許されないのか? わたしはもっと生きたいんだ。除隊してから、いや、ジャムから帰ってきて以来、はじめてそう思えるようになった。全力で生きて、それからじゃないと、さきに死んでいった艦娘たちに顔向けできないんだ。わたしはもうなにをしても無駄なのか。ただ衰えて苦しんで死ぬしかないのか。それでみんなは、よくやったって、いってくれるだろうか……」

 肩を震わせて泣く元長波を、元朝霜がそっと抱き寄せた。

「戦争が終わって、散り散りになって、二年めだったかなあ、おまえがいきなり電話よこしたことあったろ」

 “教えてくれ。わたしはどうしちまったんだ”

「怒らないでくれよ、あたいはあんとき、嬉しかったんだ。艦娘学校じゃおまえは裏も表もないやつだった。でも2戦教の試験で会ったときな、変わったなって思った。どこがっていわれると困るんだけど、仮面かぶってるっていうか、本音をとことん隠してる感じがしてさ。戦後に頼ってきたあのとき、あたいは久しぶりにおまえの素顔がみられた気がしたんだ」

 元朝霜は背中をさする。

「もうがんばんなくていいんだ。おまえは二十二年なにもやってこなかったなんていうけどさ、ちゃんと生きてたじゃないか。二十二年もがんばったんだよ。つらかっただろ。“みんなにできて、なんで自分だけ”。その連続だったろ。もうそういうの気にしなくていいんだ。無理しなくていいんだ。だからさ、あたいだけはいってやるよ。おまえはよくやった。いまは、ゆっくり休みな」

 日を追うごとに元長波の四肢は麻痺が進み、車椅子でなければ移動もできなくなった。集中力と記憶力の低下もいちじるしい。なんの抗がん剤を服用したか、ではなく、服用したことそのものを覚えていられない。元朝霜に持ってきてもらったホワイトボードに、抗がん剤の名前を書いておき、服用したら丸をつけるようにした。つけたはずのない丸があって当惑することもあった。脳腫瘍が脳を侵していく。一度破壊された脳細胞は再生しない。高速修復材でさえ不可能だ。細胞分裂しない脳と心臓だけは修復できなかった。まるで、そのふたつは個人を個人たらしめる魂の座であるから、傷もそのまま個体の歴史として留めておかねばならない、とでもいうように。

 日々、できることが減っていく。ただし元長波は悲観することをやめている。脳腫瘍も、弱っていく体も、自分自身であることには変わりない。透析が必要な腎臓と生きていくと決めた元伊168のように、ジャムの記憶をかかえていくと決めた元朝潮のように、周回遅れの悲しみを自己として進んでいくと決めた元磯風のように、各々の事情をいまの人生の糧とすると決めた元神威たちのように、トラウマとともに歩んでいくと決めた元嵐のように、この病身とともに残りわずかな時間を過ごす道もある。

 追いかけてくる亡霊からはだれも逃れられない。だから、元長波は逃げずに、抱きしめてやった。生きることをあきらめたのではない。あるがままを受け入れる。過去も、病気も。元長波は、長波のホーミングゴーストと、はじめて向き合えた気がした。

 

 一月九日。朝に目覚めたときから、元長波には予感があった。いつもどおり見舞いにきた元朝霜が「なにかしてほしいことは?」と問いかける。元長波はベッドのかたわらにある車椅子に目をやる。

「海へ、連れていってくれないか」

 暖房のゆりかごにあった病院内から一歩外に出ると、空気が針となって肌と気道を刺す。いまはこの苦痛すら心地よい。気にかける元朝霜に元長波は本心から返す。「大丈夫だ」僚艦に強がるためでも、カウンセラーをあざむくためでも、強い艦娘を演じるためでもない。「大丈夫だ」

 外出許可は意外にもあっさりとれた。それが意味するところをふたりとも理解している。だが、いわない。

 車椅子が積めるタクシーを拾い、病院の近場で、海がよくみえる場所という条件を満たす、葛西臨海公園へ向かう。海ならどこでもいい。

 元長波の腰かける車椅子を元朝霜が押していく。葉のない灰色の枝振りの並木に挟まれた石畳を下る。水族園も観覧車もいまはふたりの目に入らない。遠くから波濤の声がする。四十三億年ものあいだ、海はずっとおなじ潮音(ちょうおん)を響かせてきた。生命は三十八億年、それを聞いてきた。波の音は変わらない。何億年前でも、ジャムにいた二十八年前でも、戦争の終わったいまでも。

 汐風の広場からなだらかな下り坂をさらに進むと、木々で遮られていた視界が一気に開け、瑠璃色の輝きがいちめんにひろがる。

 (みぎわ)を洗って、白く泡立ってはまたひっぱりこまれる、さざ波の歌。潮の香り。陽光を反射して、まばたきの間だけ宝石が散ったようになる水面(みなも)

 元長波の双眸から、涙が流れる。

「ああ、これだ。これがわたしたちのいた場所。わたしの職場、わたしの墓所だったはずのところ。わたしと仲間たちを引き合わせてくれたところ……」

 元長波は、何度も涙をぬぐいながら、海から目を離さなかった。

「十二歳の身で艦娘になって、二十歳で終戦になるまでの八年間、わたしが一生涯でこれほど一心に、命をかけてなにかに打ち込んだことはなかった。若いエネルギーと情熱のすべてを燃焼させた。笑った。怒った。泣いた。ただがむしゃらに生きた。つらいこともたくさんあった。そっちのほうが多い。もう二度とごめんだけど、いま思えば、全部ひっくるめて、楽しかった。青春ってそんなもんだと思う。そう、海はわたしの青春だった。だれがなんといおうと、海と戦争は、わたしのたった一度の青春だったんだ」

 潮騒が、元長波の叫びを受け止めて吸収していく。

「でも、また子供のころに戻ったとしたら、わたしはやっぱり艦娘に志願するだろうな。わたしにとって長波はなくてはならない存在だ。長波がわたしのすべてってわけじゃない。長波になったこと、海軍で仕事をした日々、そこで出会った人々……すべて含めて、わたしなんだ。ジャムでのことでさえも、わたしの一部なんだ。浜風の子守歌とともに生きることだってできる。手足のないあの長波の懇願が夢に出たっていいじゃないか。深雪の肉の味がしたっていいじゃないか。それらも含めて“わたし”なんだ。やっとわかったんだ。やっと……」

 吐露し終えた元長波は、あとはただ、子供のように泣きつづけた。元朝霜には、子供のまま大人にならざるをえなかった元長波が、あらゆるしがらみから解き放たれ、ひとりの子供に戻ったようにも思えた。

 その夜、食事中の元長波は致命的な発作に襲われ、意識不明に陥った。医師たちの奮闘もむなしく、元長波の目は二度と開くことはなかった。

 翌未明、元長波は息を引き取った。享年四十二歳だった。

「やっと、おまえの戦争が終わったんだな」病室のベッドで眠っているようにしかみえない元長波のほほを、元朝霜は優しく撫でた。「がんばったなあ。大変だったなあ」

 死亡届や火葬場の手配など、やるべきことを引き受けていた元朝霜は部屋を離れ、病院の外で携帯電話の電源を入れた。夜明け前の澄んだ墨色の空に星がまたたいている。不在着信に元朝霜が気づく。

「酒匂さんからだ」

 着信があったのはつい数分前だった。あの常識人が、こんな時間に? かけ直してみる。相手はすぐに出た。

「もしもし……すみません、病院だったんで電源切ってたんです。いえ、いいんです、ずっと起きてましたから……実は……え?……ええ、長波はたったいま、ついさっき、眠ったまま。でもどうして……?」

 元酒匂の話を聞いていた元朝霜の瞳孔が開いていき、声を詰まらせる。「そうでしたか……はい……はい……またこちらから……はい……じゃあ、ひとまず失礼します」

 元朝霜が通話を終える。潤んだ目は充血している。

「酒匂だった人からだよ。長波の最初の艦隊で旗艦をしていて、2水戦じゃ、あいつと揃って世話になった……」

 その元酒匂の話は、こんな内容だった。

 

 いまさっき、夢をみたの。長波ちゃんが桜並木に立ってた。桜吹雪がとてもきれいだった。

 花びらが舞うなかを長波ちゃんが歩いてたらね、そのさきにたくさんの人たちがいたのに気づいた。艦娘たちだった。深雪ちゃん、巻雲ちゃん、敷波ちゃん、ポーラさん。川内さん、大井教艦、香取さんと鹿島さん、摩耶さん。プリンツ・オイゲンちゃん、皐月さん、綾波ちゃん、清霜ちゃん、翔鶴さん。

 それに、わたしの知らない荒潮ちゃん、浜風ちゃん、舞風ちゃん、野分ちゃん、瑞鶴さん、長波ちゃんじゃない長波シリーズのふたりに、長波ちゃんと同年代の艦娘たち。

 深雪ちゃんは待ちくたびれたような顔で、敷波ちゃんは肩をすくめて、川内さんはあのまぶしい笑顔で、清霜ちゃんやオイゲンちゃんや瑞鶴さんは思いきり手を振って、翔鶴さんはやわらかいお顔で、教艦たちは優しい表情で。

 みんな笑ってた。声はきこえなかったけど、彼女たちは長波ちゃんを待ってた。

 長波ちゃんも、照れながらそっちに歩いていくの。わざとらしくほっぺなんか掻いたりして。いまにも走り出しそうなんだけど、恥ずかしいのか無理に足を遅くして。

 それがね、不思議なのが、みんなむかしの、現役時代の姿だったの。わたしたちが若かった、子供だったころの。艤装まで背負って。

 長波ちゃんがみんなのところへたどり着いて、深雪ちゃんとハイタッチするところで、目が醒めた。

 なんだか変な予感っていうのかな、長波ちゃん、脳腫瘍があるって聞いてたから、気になって。

 

「そっか」元朝霜はほほえんで、色褪せはじめた夜空に白い息を昇らせた。「みんなに逢えたんだな」

 

  ◇

 

 遺言にしたがって葬儀は開かなかった。その日は友引にあたったので、火葬は翌日に行なわれた。元山風のつくったウィッグをかぶったまま、元長波は、元朝霜立ち会いのもと、荼毘に付された。

「散骨にしてほしいっていわれたんだ」

 パウダー状に粉骨した元長波の遺骨を詰めて小分けにしたパックとともに、元朝霜は葬儀社が手配した船を海へ出してもらった。駆けつけた戦友たちも同船している。なかには終戦以来から顔を合わせていなかった元艦娘もいる。

 元伊168と元神威、元子日が、青く煌めく洋上で花びらをまく。

 可憐に彩られた海面へ、元朝霜と、元酒匂、嗚咽の止まらない元国後、目元を腫らした元朝潮が、白い粉末の遺骨をふりかける。

 元長波が、海へ溶けていく。

「ここは東京湾だけど、海はつながってる。ブルネイも、パラオも、タウイタウイも、ブラジルにも。あたいたちの海だぞ」

 一升瓶を渡された元磯風が、元山風が、元陽炎が、元嵐が、かわるがわる献酒していく。「たっぷり飲め」海面へ清酒をそそぐとき元磯風はいった。

 弔いの鐘が響く。海は、青い。空もまた、青い。

「敬礼!」元酒匂が号令をかける。元朝霜たちは揺れる船上から、まだ花びらがたゆたっている海へ敬礼する。

 輝く水面(みなも)の光に、元朝霜は、姉妹艦でもあった朋友(ほうゆう)の笑顔をみた気がした。

 戦争に人生を捧げ、かけがえのない仲間たちとともに海原を駆けた元長波は、いま、すべての生命力を燃やして自由な灰となり、そして、静かな海へと還っていった。




 長波だった彼女と、艦娘だったすべての女性たちの思い出に捧げる。

 ▲ページの一番上に飛ぶ
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。