栄光の代償・元艦娘たちが語る対深海棲艦戦争(GHK出版新書) 作:蚕豆かいこ
本プロットは4話構成です。
一 地獄からの誘い
「みなさんに質問したいことがあります。このなかで、スマートフォンを持ってるよっていう人は、手を挙げてください」
温和ながら活力に満ちあふれた女性が、体育館のステージ上から問いかける。集められた生徒たちのほとんどが、膝をかかえたまま、互いに顔を見合わせながら挙手する。
「じゃあ、もうひとつ質問です。ひまさえあればスマホをいじってるって人。なにか見たいものがあるわけじゃなくて、ただ眺めていたいから無限に眺めてるっていう人」
多くの手が挙がったまま下ろされない。
「正直でよろしい。手を下ろしていいですよ。たぶんね、今はほとんどの人がそうだと思います。子供だけじゃなくて大人もね。すぐスマホに手が伸びちゃうんですよね――じゃあ、最後の質問です。スマホを取り上げられたら死ぬっていう人」
これにスマホを持っている生徒の全員が賛意を示す。教諭らは渋い顔をしている。
「そうですよね、わたしもすぐ手元に置いてないと安心して眠れません。わかります」
手を下ろさせた女性が、泣きぼくろとともに柔らかい笑顔を見せる。すでに生徒らは、自分たちに共感してくれる四十一歳の彼女に、友人のような親しみやすさを覚えている。
「――わたしの場合は、それが薬物だったんです」
女性……かつてシリアルナンバー405-070331の白露型駆逐艦「
「薬物中毒者がニュースに出るたび、どうしてそんなものに手を出すのか、不思議に思ったことはありませんか? わざわざお金を出して、身も心もぼろぼろにするお薬なんか使って、なにが楽しいのか。なぜやめられないのか。みなさんにとってのスマホを違法薬物に置き換えたのが、ちょうどわたしでした。クスリを取り上げられたら死ぬ。そう思っていました。わたしたち中毒者がクスリをやめるのは、みなさんでいえばスマホを捨てて一生使わずに生きるようなものです。スマホを触らない生活を想像してみてください。薬物をやめるのがどれだけ難しいか、ちょっとわかってくれたんじゃないでしょうか」
体育館は水を打ったような静けさに満たされ、そこに元海風の言葉の残響だけがこだました。
「ひとつ、訂正があります。みなさんにとってのスマホがわたしにとっては違法ドラッグだった、と過去形でいいましたが、わたしはいまでも中毒者です。もう九年使っていませんが、いまこの瞬間も、わたしはクスリを使いたくてたまりません。毎日です。使いたいって毎日思います。そして毎日耐えています。それを三千日続けてきただけです。これは一生続きます。わたしはこのさき一生、ドラッグを使いたい欲求と戦い続けなければなりません。薬物中毒者には、治る、完治するということがありません。一定の期間がまんし続けたら、ある日もう使いたいと思わなくなる、なんてことはないんですね。死ぬまで治りません。それが依存症のやっかいなところなんです」
市内の中学校で薬物乱用防止教育の一環として招かれた講師の元海風の話を、生徒たちは食い入るように聴いた。
「わたしがおもに使っていたクスリは覚醒剤でした。覚醒剤をシャブっていいますけど、これは人間を骨までしゃぶりつくすことからそういわれているんだそうです。わたしもぜんぶ奪われました。わたし、じつは歯がないんです」
おもむろに元海風が口に親指を突っ込む。下顎と上顎から総義歯を取り外す。暗い空洞のような口腔。左右の人差し指で口の端をひろげ、まだ四十代なのに一本の歯もない歯茎をさらす。ふっくらとしていた頬もこけて、魅力的な女性だった元海風が、一瞬で醜い老婆のように変容する。生徒らの間から息を呑む音が漏れる。
「わたしはまだましなほうです」
入れ歯を口に戻した元海風がいう。
「シャブを乱用して亡くなった友人がいて、身寄りもないからわたしたちが簡単ですけどお葬式をあげました。火葬して、お骨を箸でとりあげるとき、砂みたいにぼろぼろ崩れて、お骨上げができませんでした。彼女は骨までしゃぶられたんです」
生徒らは身じろぎすらせず元海風の話に聞き入った。
「骨までしゃぶる、これは文字通りの意味だけではありません。人生もしゃぶりつくされます。さっきいった、クスリへの欲求とずっと戦わないといけないというのもそうですし、わたしなんか夫には離婚されて、子供の親権も当然取れませんでした。最初、わたしは腕に注射していましたけど、注射痕が目立つでしょう、だからつぎは足、太ももとか足の指のあいだとかに刺していました。するとどこも血管が潰れて、拾えなくなりました。それで、まだ小さい子供に血管を探させてたんです。どこに刺さるかって。まだ小学校に上がる前でしたね。子供にはわたしがいけないことをしているなんてわかりませんから、素直に血管探してくれるんです。ママ、ここ刺さるよって。自分がシャブを打つ血管を子供に探させる、それがどんなにおぞましい光景か、当時のわたしにはわかりませんでした。どうやってクスリを体に入れるかって、それだけで頭がいっぱいだったんです。わたしはシャブが効いているあいだはとても気分がいいんですが、切れると動けないか、子供に当たり散らす、そんな二重人格みたいな母親でした。シャブを打ってると機嫌がいい、打ってないと機嫌が悪い。そういう親のもとで育った子供はどうなるか、わかりますか」
尋ねられても、だれもなにも答えられない。三角座りのまま凍り付いている。
「子供がね、ママ、シャブを打ってよ、血管探してあげるから、っていうようになるんです。シャブを打って元気になって、と。そうしたらにこにこした優しいママが戻ってくるから。シャブ食ってるあいだは怒鳴られたり殴られたりしないから。それに子供って、なにか親の役に立ちたいっていう気持ちがあるんですよね。血管を探せたら、わたしに、ありがとう、えらいね、って褒められる。あの子は叩かれたくないという以上に、褒めてほしくて、シャブを入れるお手伝いをしたがるようになっていました。わたしは最低の母親です」
元海風は断言した。
「それでも、もうどこにも針が入らない。いまでも後悔していますが、もうどこにも血管ないよっていう子供を、わたしは怒鳴りつけたんです。役立たずって。血管が拾えないなら打てません。じゃあどうするかっていうと、ウォーリーっていう仕事をやっている人を呼ぶんです。シャブを打つのを助けてくれる人です。ウォーリーをさがせ、みたいに上手に血管を探してくれるんです。そんな人たちでも見つけられなくなりました。そこでわたしは、クスリを溶かした水溶液を肛門とか、性器、赤ちゃんが生まれてくるところですね、そこに注ぎ込んでました。子供が見ていようとお構いなしに」
想像もしたことのない家庭環境に嗚咽を漏らす女子生徒もいる。となりの女子が抱きしめながら自身も目を真っ赤にしている。
「わたしは六回逮捕されています。いずれも違法薬物がらみです。女性受刑者には薬物関係の事由が多かったですね。ほとんどの受刑者に反省の色はありません。たまたま運が悪かったから捕まっただけだとしか考えていないツネポン――ポン中でもさらに筋金入りの常用者のことです――そんな人ばかり。出所したあかつきにはお祝いにシャブを打とう、その日がくるのを心の支えにして刑務所暮らしを耐えよう。そうして虫をわかせている人ばかりでした。虫をわかせるっていうのはまたシャブを使いたいという欲求をつのらせるっていう意味です。もちろんわたしもそのひとりでした」
元海風がドラッグに手を出したのは退役から二年後のことだった。戦争が終わり、艦娘でなくなった。だが戦時中に轟沈した2水戦の仲間や、後輩の
赤ん坊のおむつを交換するときに、うんちが手に付着した。「あンたがいれば、こンなひでえことにはならなかっただろうな」。スロップシンクで手を洗っていると涼風が沈んだ日に別の艦娘にいわれた言葉が脳内で何度も繰り返し再生された。わが子の泣き声で我に返った。元海風は二時間も手を洗っていた。手の皮がふやけて一部はずるりと剥けていた。
戦争体験を起因としてアルコール依存症に陥る元艦娘は多い。だが元海風は酒が飲めなかった。体質もあるが母親がアルコール中毒だった。元海風は父親の顔を知らない。小学生のころは放課後になっても閉門の時刻になるまで校庭で独りで遊んだ。家を少しでも遠ざけたかった。暮れなずむ黄昏と一番星にあざ笑われながら帰ると、むせ返るような酒の臭い、それとは異なる生臭さ、そして母と見知らぬ男のいびきが元海風を迎えた。
それでアルコールに頼らずに酔って逃避できるものとして、大麻を吸った。
「友だちに勧められたんです。わたしも軍にいたころは煙草を吸っていましたから抵抗はありませんでした。気持ちよかったです。未成年のうちに喫煙するとろくな大人にならないということです」
大麻をゲートウェイドラッグ(違法薬物の入り口)として元海風は覚醒剤と出会った。
「運命だと思いました。それくらい気持ちよかった。みなさん、SNSでバズったことってあります? いいねが何万もついたり、トレンドに乗って、いろんな人にこの人面白いとか、最高とか、ネット上で褒められたり。その気持ちよさを一としたら、シャブは百ですね。それくらい気持ちいいです。しかもなんの工夫もいりません。ただ打つだけ。お手軽にとても気持ちよくなれる。悩みごとなんて吹き飛んじゃう」
元海風は右腕に注射を打つジェスチャーをしながらいった。
「わたしの場合、もともと戦争の後遺症で、沈んだ艦娘たちが戦後になっても目の前に現れたり、その人たちにまつわる思い出が勝手に脳内で再生されて、そのあいだは何もできずただぼーっとするしかなかったんですが、シャブを打ったら、それがきれいになくなりました。代わりに、自分でも忘れていた、仲間たちと一緒に遊んだり、いたずらしたり、協力して厳しい訓練をやり遂げたり、そんな楽しい思い出に置き換わりました。人生でいちばん充実していた時期に戻れたんですね」
元海風の笑顔が、わずかに曇る。
「でも、クスリが切れたら終わりです。また仲間が死ぬ瞬間ばかりが頭のなかを駆け巡ります。家のふすまとかクローゼットから、沈んだ艦娘が出てきて、どうしておまえだけ生き残ったんだって責めてくる。クスリを打ったら消えてくれる。だから、ひっきりなしに打たなきゃいけなくなるんです」
四度の逮捕で離婚。さらには子供への接近禁止命令が出された。五度目の逮捕で発起し、出所後に治療プログラムに参加した。のち、また覚醒剤所持と使用で逮捕された。
「クスリをやめたいって思っていたのは本当です。でも、意志を作っているのは脳ですよね。その脳がクスリを強烈に欲しがるから精神論ではどうにもなりません。みなさん、本当はいまもSNSで自分の投稿に新しい“いいね”や返信がつけられていないか、気になって仕方ないんじゃないですか? なにか投稿したあと、通知が来るまでじっと画面とにらめっこしたことは? それと同じで、仕事とかに集中しようとしても脳みそが“クスリ! クスリ!”って叫ぶから集中できないんですね。ここから立ち直るのは本当にむずかしいです。しかも立ち直ってようやくマイナスからゼロに戻れる、それだけのことです。無駄な努力をさせられるのが違法薬物です。わたしの会社にもそういう人がたくさんいます。クスリになんか手を出していなければもっと上にいけて、いまごろは結婚して子供もいただろうなって、本人たちもいってます」
ビル管理会社を経営する元海風はいま法務省認定の協力雇用主として、刑務所から出所した元犯罪者を雇用し、その社会復帰を支援している。だが犯罪加害者が立ち直るのはむずかしい。元海風も何度も裏切られている。「もう絶対にクスリには手を出しません」と誓った覚醒剤常習者の夫婦が、元海風に雇用されて一か月後、無断欠勤を続けた。
「保証人になってあげたアパートに行ったら、鍵がかかってる。でも出ない。郵便受けも内側からガムテープかなにかで目張りされて中が見えないようになってる。居留守です。彼らなりに罪悪感があってわたしに合わす顔がないんですね。なぜかというと、またクスリをやってしまったから。仕事でなにかつらいことがあったのか、売人が接触してきて、これが最後だからと使用したのか。そういうケースはめずらしくありません。というか、ふつうです。わたしだって、自分から治療したいっていっておきながらまたシャブで逮捕されましたからね。心の底からやめたいって思っていても、やめられない。そうして人を裏切ってしまい、みんな離れていって、つらい、寂しい。そういうみじめな気持ちから逃げるためにまたクスリに頼る。だから見捨ててはいけないんです」
最後に元海風は最も伝えたいメッセージでしめくくる。
「違法薬物に手を出せば気持ちよくなるのはたしかです。でも、わたしみたいに歯も人生も失うこともたしかです。いちどでも使えばもとのまともな人間に戻ることはできません。もし薬物が目の前に来たら、わたしの不細工な顔を思い出してください。友だちに誘われたら、縁を切ってください。日本の人口は一億人もいます。何年か前に一億を超えたはずです。そのうちのたったひとりに嫌われたからって死ぬわけじゃありませんからね。地元が世界のすべてと思わないでください」
講演ののち、元海風は舞台袖で教頭から苦言を呈された。「薬物が気持ちいいとかいわないでください。万一、生徒が興味を持って手を出したらどうするんですか」
元海風は薬物中毒から立ち直った経験者として全国から講演に招かれている。この種の苦情は慣れたものだ。返答も決まっている。
「そうですね。申し訳ありませんでした」
弁明はしない。頭を下げ、関係者に然るべきあいさつをすませ、学校をあとにする。
「わたしがメッセージを伝えたかったのは子供たちです。あの子たちはわたしの話を自分のことのように感じて涙を流してくれました。クスリの恐ろしさと、ジャンキーのみじめさを知ってもらえた。それだけでじゅうぶんです」
元海風は至境に達した者のように晴れやかにいう。
◇
元海風は戦争が終わる直前に解体された。元海風が「壊れて」いたからだ。
それまでは元海風は勇敢で、自らも十代半ばの子供にすぎないのに、さらに年下の部下たちの姉代わりをよく務める模範的な艦娘だった。しかしそうでありつづけることはなかった。目の前で旗艦の
五度目の派兵ではトラック泊地に到着してすぐに気分が悪くなった。決定的だったのは、元海風が参加するはずの哨戒任務に代わりに出た
その日をさかいに新しく生まれた細胞は、罪悪感でつくられた。すぐに元海風の体は罪悪感で置き換えられた。目がちかちかし、ふいに動悸が激しくなり、手から汗が噴き出て、唐突に涙があふれ、死にたいのではなく死ぬためにどうするかしか考えられなくなった。だがだれもそのことに気づかなかった。だれもが元海風を信頼すべき立派な艦娘だと思っていた。
思い返せば、四度目の帰還のときには元海風はすでに壊れていたのかもしれない。義務を果たした艦娘の帰りを祝うため、親戚やその幼い子供たちが実家のベランダに並んでいた。「おかえり!」と手を振っていた。元海風は彼らに向けて、帰り道のコンビニで買っておいた打ち上げ花火を打ち込んだ。爆笑を期待した。しかし親類や通報で駆けつけた警察や消防にむしろ怒鳴られ、責められた。ちゃんちゃらおかしかった。それ以上に、最高のジョークを用意してあげたのにふいにされて、元海風はむかっ腹が立った。「花火くらいでおおげさな。こっちは毎日のように空爆や砲撃を受けてきたんですよ。消防車なんか来てくれやしなかったわ」。元海風は笑いとばした。母親はひたすら周囲に頭を下げた。「こんな子じゃないんです。どうしてこんなことを」
安穏とした内地の暮らししか知らない甘ったれた親族や近隣住民が、疎ましく、不愉快だった。温室育ちのお坊ちゃんが悪童に「ばか」と罵られたくらいでこの世の終わりのようにショックを受けて泣いているのを見る、そんな気分だった。荒療治で鍛え直してやりたいと思った。「あなたたちは過保護にされすぎているのよ」。元海風は海の常識を家に持ち込もうとした。それで何度も衝突した。
元海風は危機感を持ってほしかった。母親は元海風に優しく思いやりのある穏やかな娘に戻ってほしかった。両者の希望が叶えられないまま、元海風に五度目の派兵のときがきた。
ある日、元海風はトラック泊地の応急救護所にある「戦闘ストレス」のプレートがかかったドアをあけて助けを求めた。精神科医はいった。「きょう、きみがここに来てくれたおかげで、何人もの人間が助かったかもしれない」。そうして元海風は再起不能のスタンプを捺された。十九歳だった。
あれから二十二年。
元海風が経営しているビル管理会社は、北陸一の歓楽街ともいわれる石川県金沢市
従業員のひとりが、受け持ちのビルの清掃から会社に帰ってくる。いまどきの髪型をした体格のいい若い男。暴力団から半グレへ移り、詐欺や恐喝の罪で服役した、本人いわく「ろくでなし」。刑務所内のテレビ放送を見て元海風の会社を知り「まともになりたい」と自ら手紙を出した。その手紙にはこう綴った。「でもその方法がわからない。出所の日にきっと悪い仲間が迎えにくる。断る勇気がない」。数年前の出所日に元海風が迎えに来てそのまま入社した。業務の合間を縫って高卒認定試験に挑み、四年かけて合格した。
更衣室で地味な作業服を脱ぐ。朝六時から業務をはじめ、受け持ちのビルすべての清掃を終えるころには夕方にさしかかっていた。首から下を覆いつくす和彫り調の刺青がろくでなしの半生を物語る。
「きついですよ」ろくでなしは苦笑いする。「詐欺なら一回の案件で二〇〇(万円)とか稼げたんで、よけいに」
しかしろくでなしにとって再犯は「したくない」という。
「高校中退してすぐに暴力団に入って、すぐ辞めて、仕事を探そうとしました。でも、元ヤクザだとか、刺青がとかで、働く場所がない。お金がないってなると、犯罪以外に思いつきませんでした」
手を染めたのが特殊詐欺だった。自分とおなじように暴力団が肌に合わなかったという元暴力団員が中核メンバーの半グレ集団に入り、犯罪で稼いだ。
「いわゆる美人局ですね。女の子を何人か集めて、売春させて、あとから性的合意がなかったって、示談に。だいたい二、三〇〇万くらいで。それくらいなら一括で払えないこともない。不同意性交罪で起訴されたら初犯でも実刑食らいますし、不起訴になっても社会的ダメージは大きいからまず百パーセント応じる。税金もかからないんで足もつきにくい。恐喝ですけど、それを相手が告訴するとなれば、自爆覚悟。そんな勇気がある人はいません」
一か月で数千万円を荒稼ぎしたこともあった。夜ごと豪遊した。味のわからない高い酒を飲んで朝まで遊んで、何者でもない自分を大きく見せようとした。
「まじめに働くのは、正直いうと大変です。ああ見えて社長は厳しいし怖いですから。でも初めてお給料をもらったとき、僕、ばかみたいに号泣したんです。社長から手渡しで給料袋をもらったんですけど、十八万七〇〇〇円とかだったかな。そのとき僕三十歳で、人生で生まれて初めての、まともな給料だった。そうして一生懸命働いてやっと稼いだお金を、ぼくらは人から簡単に横取りしていたんです」
ろくでなしは真新しい預金通帳を出す。「先月、やっと手にできました」元暴力団員で詐欺の前科もあるろくでなしは脱退後五年を過ぎても通帳を作れなかった。元海風が奔走し、たった一行の地銀が熱意に押されて口座の開設に応じた。ろくでなしはいう。「ここまでしてくれる人、いままでいなかった」
以前、ろくでなしは元海風に「社長は艦娘だったんですよね」と訊ねたことがあった。
「ええ。はるか石器時代の話ですけどね」
「ぼくのお母さんも艦娘だったんです。変な宗教にはまって、深海棲艦は神さまの使いだから、沈めた数だけお金を寄付して罪を償わなきゃいけないとか。それでいつもお金がなくて、夜ご飯なんか菓子パンを水道水で流し込むだけで。だからぼく、艦娘って、えーと」
「クズばかりだと思ってた? 残念ながら否定はできないですね」
「いえ、でも、社長はすごいと思ってて。ぼくなんて、自分のことだけで精いっぱいどころか、それすらちゃんとできてないのに、ぼくらみたいなのに仕事くれたりして、住むところも用意してくれて、めっちゃ面倒見てもらってるんで、すごいです」
「それもね、わたし自身が人生をやり直すため。何年も腐ってたから、あのころのわたしに戻りたくなくて、いま一生懸命やってるっていう部分が結構あります。だからね、じつはわたしは、あなたに救われているの。あなたが更生できて、真っ当な人生を歩めるようになったら、わたしのやってることは間違いじゃなかったってわかるから。わたしもいま、やり直している真っ最中。一緒にがんばらせてください」。そのとき、ろくでなしは敬意を払うに値する人間に初めて会ったと思った。
去年結婚したろくでなしは一児の父でもある。妻とともに会社へ連れてきた赤子を真っ先に元海風に抱いてもらった。赤ん坊を抱っこする元海風からいわれた言葉をろくでなしははっきり覚えている。
「ありがとうって泣きながらいわれたんですよ。まともになってくれてありがとうって。こっちがお礼いわなきゃいけないのに」
守るべき家族ができたろくでなしは夫と父親の責任を果たすため、現場の仕事をこなしながら資格取得の勉強にも励んでいる。人生をやり直している。
一方、やり直せない元受刑者もいる。
その日、元海風は昼食もそこそこにSUVに乗り込んだ。新車で買ったが四年で走行距離は十八万キロを超えた。向かうのは、兼六園から五キロのところにある金沢刑務所。そこである受刑者の出所が予定されている。その男性受刑者は強盗や薬物売買で服役後、元海風が従業員として採用した。働きぶりは真面目だった。元海風でさえ更生したと信じていた。
「ある日、警察から電話が来ました」元海風が苦い記憶をたどる。「おたくのだれだれさん、そこの従業員ですかって。“逮捕しましたんで”」
男は元海風の会社で働くかたわら自動車窃盗を繰り返していた。懲役二年の実刑判決を受け、刑務所に逆戻りした。
「お酒とパチンコにのめりこんでたそうです」とハンドルを切りながら元海風はいった。「借金がふくらんで、恥ずかしさからわたしにも相談できず、金策に困って、むかしの伝手を頼って闇バイトに」
違法薬物なら月に数百万円を稼げる。その成功体験で脳の報酬系が破壊されてしまった人間にとって、地道な努力で月の手取り二十万円しか給与されない「ふつう」の仕事を続けるのは極めてむずかしい。現役時代は一本一億八〇〇〇万円の携行型誘導魚雷や、腕一本を再生させるのにちょっとした豪邸が建つといわれる修復材の使用権限を任され、高い死亡率から将来設計を考えずに給与を分不相応な
元海風は何度も面会に刑務所を訪れている。「忘れてないよということを伝えたいからですね。彼がいま刑務所にいるのは、彼の再犯を防げなかったわたしの責任でもあるからです」
市街地から顔を隠すように、裏日本の陰気な山の裾野にすがりつく金沢刑務所。その駐車場に車を停めて待つ。「出てきました」車にもたれかかっていた元海風が動く。格子状の引戸門扉の向こう、二階建ての庁舎から、刑務官に案内されてひとりの男がダッフルバッグ片手に出てくる。まだ若い。門扉がスライドする。男は一瞬、青空を仰ぎ見た。服役中も運動の時間などで空は見える。だが刑務所の囚人として見る空と、出所してから仰ぐ空の色は違う。
元海風の姿を認めた男が申し訳ない顔をする。元海風はただ抱き寄せる。男は泣く。「すいませんでした」
元海風は刑務官に深く頭を下げる。それから男の荷物を持つ。運転席に乗り込む。男は後部座席に乗る。車が動く。
「なに食べたい?」
訊かれる男はばつの悪い笑みを浮かべる。
「甘いものですかね」
「塩味のものばっかりだもんね。お寿司なんかは?」
「ああ、食べたいですね」
「お寿司と甘いもの。決まり。寮の部屋はそのままにしてあるから」
「一年半ですからね」
「まずは掃除しないとね」
車内に笑いが戻る。
翌日。さっそく男を清掃の職場に復帰させる。片町にある自社ビルで空き物件となっている高級ソープランド。ワンフロアテナントの広い店内は日本人が想像するヨーロッパの王宮のような豪奢な内装で彩られている。天蓋付きの巨大なベッドに、とろみのある分厚いカーテン。大理石の床。アールヌーヴォーのランプ。『ヴィーナスの誕生』をモチーフにした貝殻の浴槽。ストーン風の女神像。レリーフ。油彩画。グランドピアノまである。昼の時間帯にくると統一感がなく悪趣味にしか映らないが、夜の営業時間になれば客に現実を忘れさせる極彩色の異空間を演出する。広いうえに調度品も多いので掃除には手間がかかる。元海風は男の几帳面さを知っている。この物件が適任だと判断した。
男は前にも増して勤勉に働いた。
一か月後、会社の電話が鳴った。馴染みの刑事からだった。既視感があった。一週間前に男が神社で賽銭泥棒をし、防犯カメラにその犯行の映像が残っていたため逮捕状が発布されたという。
元海風は応接室に男性を呼んだ。ふたりきりになって問い質した。男性に留置所行きの荷物をまとめるよういいつけた元海風は部屋から出てきて苦笑いする。
「やったのかやってないのかって訊いたら、“やりました”。いくら盗んだのかっていうと、三千円かそこら。窃盗は十年以下の懲役です。十年ここでまじめに働いていれば三千万円は稼げます。あなたは三千円のために三千万円を捨てたのよっていいました」
男性は、いわれて初めて驚いた顔をしていたという。そこまでいわれなければわからない。犯罪者にはこの男性のように中長期的な損得勘定ができないものが少なくない。
「まるで若いころのわたしを見ているようです」と元海風は話す。「あした沈むかもしれないのだから、今を楽しもう、たとえ法を犯したとしても。そういう環境で人格の柔らかい十代を過ごしたことで、数年先、数十年先のことを考える力が育たないまま大人になってしまいました。言い訳かもしれません。おなじ環境で子供時代を過ごして、退役したあとも罪を犯さずりっぱな社会人になっている元艦娘もいますから。ともあれ、浅はかで近視眼的という点では、虞犯少年や犯罪者とわたしは似ているんです」
男性は翌日に元海風に付き添われて出頭することになった。男性は泣いて元海風に何度も詫びた。「裏切ってすみません。ほんとうに申し訳ないです。どうしてこんなことしちゃったのか」
警察から電話のあった翌朝、元海風の運転する車に同乗して男性は警察署に出向いた。留置に備えて荷物を詰め込んだボストンバッグを抱えて後部座席に沈む。
「あなたが実刑を受けたとしても、わたしは出てくるのをずっと待っています。あなたが更生して、ふつうに仕事をして、ふつうの人生を送れるようになって、幸せになるまで、わたしはあなたを絶対に逃がしません。いい?」
ハンドルを切る元海風の言葉に、男性はひたすら嗚咽を漏らす。やがて警察署が見えてくる。
「これで逮捕三回めなんです」と男性。「もうどうしようもない」
「たった三回でしょう。わたしなんて六回よ。五回目で“ああ、これはだめだな”って気づいたくせに、またパクられたの。ばかでしょう? 大丈夫。まだやり直せる。だいじなのは、自分をあきらめないこと」
近くのコインパーキングに車を停める。元海風は男性を車から降ろし、ともに警察署の自動ドアをくぐる。
「残念ですけど、犯罪者っていうのは、ふつうに生きてたら犯罪者になったっていう人たちなんです」
と、警察署から駐車場の車へひとり戻った元海風はいう。
「窃盗犯の再犯率は二十%で、これは薬物犯罪の次に高いんです。くせになってるんですよね。ばれたらまた刑務所に逆戻りだとわかっていてもうっかり盗んでしまう。彼、ずっと泣いていたでしょう。あれだけ泣いて後悔するなら窃盗なんてばかなことしなきゃいいのにと、だれもが思います。本人も思っています。でも、再犯してしまう。なぜなら、反省することと、再犯しないことは、まったくべつの問題だからです。犯罪は一種の病気です。反省で治る病気なんてないんです」
更生の道は遠い。あるいは死ぬまで更生しつづけなければならないのかもしれない。死の床についたとき、ずっと再犯してこなかったと振り返ってはじめて更生したといえるのかもしれない。
「退役艦娘とおなじです。自分が社会に溶け込めていたかどうか、今際になってやっとわかるんだと思います」
次の日、元海風のもとに警察署から連絡が入る。男性を釈放するので迎えにきてほしいとのことだった。異例のことだった。元海風も驚く。車で署に急行する。
元海風が警察署に入っていく。手続きに十五分。出てくる元海風のうしろに中身を使わなかったバッグを提げた男性が所在なく従っている。男性が罪を認めており、加えて元海風が身元引受人になっていることから逮捕は見送られた。元海風が刑事らに頭を下げる。隣の男性も頭を下げる。元海風のほうが深く腰を折っていることに気づき、下げなおす。
「出所してから賽銭泥まではどのくらい?」
会社に戻って男性をまた応接室に通した元海風が訊ねる。
「一か月ないくらいです。三週間とか」
「ということは、三週間、窃盗をやめられていたともいえるわけです。じゃあ次は、この三週間の記録をどんどん更新していけばいいんです。最長記録。新記録。きょうからね。一日一日、窃盗も、ほかの犯罪もしない、きれいな日を重ねていく。しんどいと思うけれど、だから仕事をがんばりましょう。目の前の仕事に一生懸命打ち込んで、夢中になっていたら、いつの間にか記録は伸びています」
元海風が雇用主の顔から、母か姉のような顔になり、ソファに座りこんで泣く男性を抱きしめる。
「大丈夫。やり直せるわ。わたしがついてる」
男性は何度も謝りながら部屋を去っていく。
「あの涙は本物です。死ぬほど悔いている。でも、またいずれ
見送った元海風は自分のその予想が当たらないことをだれよりも願っている。だが砲弾や魚雷と違って最悪の予想はつねに命中率が高い。
二週間後、男性とルームシェアしている同居人から元海風に連絡があった。口座の金が不自然に減っている。男性を問い詰めると、たびたび同居人の通帳と印鑑を持ち出し、勝手に預金を引き出していたと白状した。
元海風はアパートの廊下に男性を呼んでふたりで話した。男性はどこかふてくされている。協力雇用主をはじめてから元海風がよく見る表情だ。罪を暴かれる屈辱を何度も味わうと、人間は開き直ることで自尊心を保とうとする。
「いくら盗んだの?」
「盗んだっていうか、借りた」
「そういったの? 借りるって」
「いえ」
「断りもいれずにお金を下ろしたら、それは盗みですよね」
男性は言葉に詰まる。すぐばれる嘘でその場しのぎをしようとする短絡さも犯罪者に共通する特徴だ。
結局、元海風が男性に同居人へ分割で返済すると約束させたため、同居人は被害届を出さないことに決めた。
しかし、男性はいちども返済しないまま無断欠勤を続けた。十日後に行方をくらませた。電話も着信拒否されている。
男性とよく連絡をとっていた友人に話を聞いた元海風は、社長室の椅子に深く腰を沈める。背後の壁には協力雇用主の功績を称える感謝状。
「年上の女性に恋をしたみたいです。向こうが断ってもあきらめきれない。大金を摑んで振り向かせてみせる、クスリでもなんでも売って金をつくる、そのメッセージが彼の最後の足取りでした」
男性は再犯を匂わせている。死んでいなければいずれ逮捕というかたちで見つかるだろう。だが元海風は、男性に復職の意思さえあるなら刑期を終えたあとにまた雇用するという。
「彼のようなケースは珍しくありません。出所者を雇用した全国の会社に対して、全国就労支援事業者機構が実施したアンケート調査によると、出所者の七割近くが一年以内に辞めるか、姿をくらますか、再犯でまた塀の向こうへ行くという結果が出ています。それはわたしの会社でもほぼおなじです。けれど、離職や再犯を裏切りというなら、もとより裏切られるのは覚悟の上です。彼にかぎらず、元犯罪者を信じるというのはそういうことです。裏切られた程度で信じるのをやめてしまったら、それはわたしの負けなんです」
赤の他人を信じるという戦い。元海風は戦後二十二年が経ったいまでも戦っている。