栄光の代償・元艦娘たちが語る対深海棲艦戦争(GHK出版新書) 作:蚕豆かいこ
鉄道は千葉の
しかし、いまの元長波には灯台はない。陸に上がったものを灯台は一顧だにしなかった。
千葉には、おなじ艦隊を組んだ朝霜だった女性が住んでいるという。「いちばん付き合いの長かった僚艦さ。あいつのほうがふたつ年上だが、学校(艦娘学校)じゃ同期だった。ひとことでいえば、そうだな、琴をくべた焚き火で鶴を煮て食うようなやつだった。だからわたしとウマが合った」
しかし元長波の顔には懐旧より不安が先にでている。
「PTSDだのTBIだのと診断されてからこっち、わたしは全然連絡しようとしなかった。不実なやつと思われてもしかたない。きょう行くってメールをするだけでもようようだった。許してくれるだろうか」
やがて列車は
外川駅は海にほど近い。車両から一歩外にでると、
木造の駅舎は蒼然としており、LEDの時代にあえて庇に裸電燈を吊るし、運賃表と時刻表をチョークで記した黒板や、円柱の郵便ポストなどは、あえて時代錯誤で統一されていて、それらをはじめてみるものにさえ、郷愁に胸をかきむしられる雰囲気があった。だが、時間が止まっているようですらあるその古色は、計画的な意図によって演出されているものだった。さながら観光客を喜ばせるためにわざわざ昔の珍奇な化粧と衣裳を再現し、いまなお古い風習のまま現代を生きているふうを装うことを生業としている少数民族のように。
この駅舎は、あえて努力して自身の時間の流れを止めたのだ。必要に迫られれば、駅の管理者はすぐにでも時計の針を難なく進め、現代の駅舎としてあるべき姿へ改装するだろう。わたしとは違う、と元長波は思う。進もうとして進めぬものと、その気になりさえすればいつでも進めるものとの歴然たる差が、元長波の胸をつぶした。
一日じゅう斜陽を浴びていそうな駅舎をでたすぐ正面の砂利道で、元長波の足が止まる。下り坂に沿って連なる家々の瓦屋根と、それらの向こうで磨きたてられたように輝く海、イワシの群れのような雲を背景として、女性が待っていた。「よう」女性は軽く手を揚げる。かつて元長波と
元長波が四十二歳だから元朝霜は四十四歳だ。たしかに齢相応に老けている。だが人懐っこい表情は元長波の記憶にあるあの朝霜となにも変わっていなかった。
元長波はながいこと沈黙していた。最初の音が出なかった。あれを話そう、この話題を出そう、そうしたら元朝霜はこう返すだろうから次にこれを、とゆうべから考えて組み立てていたのに、いざとなると、なにから話していいかわからなかった。情報が、いわば渋滞しているのだった。日常的に連絡をとっていれば、もう大方の話すべきことは語りつくしているから、自然な挨拶から互いの近況へと円滑に話題を進めることができたはずだ。元長波が背を向けつづけた二十年という年数が、喉へと一気に押し寄せているのであった。長いあいだ艦娘仲間と接触を絶ってきた彼女だった。
「すまなかった。許してくれ」
なにかいおうとしては言葉に詰まるのを繰り返して、元長波はようやくそれだけ口にできた。
「許さなきゃいけないことなんか、なんにもないよ。よく来たな」
喋りだすのをじっと待っていた元朝霜は、元長波を抱きしめた。元長波の眼に涙が溢れた。ふたりは抱き合ったまま何度かお互いの背中を叩き、彼女たちの方法で旧交を温めた。
「最近は、なにしてたんだ」
落ち着いてから並んで歩きつつ元朝霜が尋ねた。
「なにもできなかった。長波でなくなったわたしは、結局、なにものにもなれなかった」
元朝霜は、鼻で笑った。朋友にだけ許された笑い方だった。
「おまえは、おまえだよ」
てらいもなくいう元朝霜に、元長波は目元を拭った。まつ毛の化粧が落ちるのも気にならなかった。境涯も忘れて笑いながら旧友に顎をしゃくる。
「なんなんだ、そのクソみたいなTシャツは」
「いいだろ、可愛くて」
宇宙空間を背景に猫がサバを咥えているというデザインのTシャツ姿の元朝霜は胸を張ってみせた。なにかに気づいて自身の、臙脂の腕カバーと袖口のわずかな隙間から覗く二の腕を叩く。肌に小さな黒の残骸がへばりついている。
「ブラジルへ行ったときのこと、覚えてるか」
蚊の死骸を指で弾いた元朝霜はいたずらっぽく笑っていった。
元長波はうなずく。「地球上でいちばん蚊がひどかった」
「ジーンズの上からでもぶすぶす刺してくるんだもんな。ハンモックまで貫通してきやがって、うるさいのなんの。日が暮れると魔法みたいに湧いてくる」
元朝霜が臨場感たっぷりに話せば、
「あのときほど潜水艦になりたかったことはなかったな」
元長波も即座に返すのである。元朝霜は白い歯をみせながら何度も首を縦に振って、
「毎晩みんなで煙草を吸いまくって蚊取り線香がわりにして……」
「強い酒をがぶ飲みして無理やり寝た」
「で、起きたらあちこち血まみれでな。蚊帳をもっていきゃあよかった」
潮騒を背に石畳の敷かれた坂道を登っていく。
「ここで暮らすには、ふいごのような肺が必要だな」息の切れる元長波は、自身の衰えをつとに痛感している。
「お互い齢をとった」元朝霜が自分の腰を拳で軽く叩いた。「頭んなかは若いままのつもりなんだよ。体がついてこねえ。おばさんになったことを実感した瞬間って、なんかあるか」
元長波は少し考えて、
「はじめて白髪染めを買ったときかな」
答えると、旧友は吹き出す。
「白髪染めか! そいつはたいへんだ。あたいも髪の色が戻らなかったら染めなくてもよかったのに。あたいなんか、ほら」
元朝霜は右腕を肩の高さまで掲げた。
「ここまでしか上がらない」
「冗談だろう!」
「まさか、四十肩になるなんてなあ」
からからと笑って、それから、あのころは、と続けた。
「あのころは、自分が白髪染めをするとか、更年期のばばあ連中が飽きずに呻いてる四十肩なんてもんになるとか、想像もしてなかったよな」
「更年期まで生きてられるとは思ってなかったからな」
そういう元長波に、元朝霜は笑いをもらした。
「終戦の放送をふたりで聴いたときの、おまえの顔がいまでも忘れられない」元朝霜はしみじみといった。「どうして終わりなんだ、そんなの聞いてねえぞってツラだった」
元長波は、否定しなかった。
「素直には喜べなかった。いや、ちっともうれしくなかった。もう二度と戦死するチャンスはないんだってことしか、考えられなかった。生きてるのがなにより大事とはいうが、生き残っちまったら、その後もずっと生きていかなきゃならないんだ、どんなにつらくても」
立ち止まって潮風に枝先を撫でられる松の老樹を見上げる。パラオで盆栽を愛でていた先任艦娘を思いだしながら汗を拭う。剪定の鋏を開閉する音までもよみがえった。松が枝を伸ばす塀の上をまるまる肥えたどら猫が悠然と渡っていった。どこの国でも漁師町には猫が多い。
この港町は、紀州の漁師だった
元朝霜がまた思い出した顔をしていった。
「F作業(任務中に手すきのものが興じる魚釣り)するまえには、陽炎型の黒潮と親潮がいたら、ふたりになにか珍妙な踊りをさせて大漁祈願にしてたよな」
「たいていの黒潮は乗り乗りだった。しだいに阿波踊りだのソーランだのバレエのパ・ド・ドゥだのが混じっていって、しまいにゃ邪教の儀式みたいな風情になってたな。付き合わされる親潮が不憫だった」
元長波に戦友は手を叩いて笑った。
渡銚した次郎右衛門は、漁法を知らず船も網ももたなかった外川の地元民に、任せ網や
しかし、明和元(一七六四)年、蜜月にあったかと思われた高神村と崎山家のあいだに、にわかに暗雲がたちこめる。初代次郎右衛門の干鰯場を四代目がおよそ二倍に拡張したことについて、高神村の土地をかってに侵奪したものであるとして地元の名士が訴えでたのである。当時、外川は数十年におよぶ不漁に悩まされ、富裕を誇った崎山家はかつての栄華のおもかげもなく窮乏し、村民からの求心力も地に堕ちていた。豊漁がつづいていれば干鰯場の件にも村は眼をつぶっていただろう。だが崎山家がもたらした、いまでいうハード面は揃い、ソフト面も村民たちはすでに吸収しきっていて、もはや紀州人から得られるものはなにもなかった。そのくせ崎山家はただ往年の栄光と功績を笠に着て漁場を占領し害毒をまきちらすやっかい者だと、そのように映ったのである。むしろ干鰯場うんぬんは、崎山家を筆頭としたよそものである紀州移民への非難の矛先にたまたま選ばれただけにすぎなかったのかもしれない。吟味を委ねられた地元領主としても、
「どんな英雄や救世主も、いつまでも居座られちゃ鬱陶しいってことだ」元長波がいう。
わが国は海上輸送が経済の命綱であるために国土だけを保全しても国家として生き延びることはできない。商船を太平洋、フィリピン海のみならず、カレー洋を越えた中東までも闊達に往き来させる必要がある。当時の日本は専守防衛から領海外の深海棲艦をも殲滅する積極的防衛に転舵を迫られた。いっぽうで、艦娘を保有していない東南アジアの国々は安全保障が喫緊の課題だった。両者の利害が一致し開設にいたったのが在外海軍基地である。東南アジアに艦娘を駐留させて防波堤とすることで、日本は外洋から本土へ接近する深海棲艦を漸減できるし、より遠方へ足を伸ばす中継地としても使え、日本海軍基地を擁する各国は駐留経費負担とひきかえに間接的に艦娘戦力を手に入れられる。
艦娘で構成される艦隊と、それを運ぶ護衛艦隊が投錨する艦艇停泊地、すなわち泊地は、日本海軍の基地だから、軍港が普遍的にそうであるように、現地に雇用を創出し、地域の活性化と産業の振興も自然と進むこととなった。艦娘だけでなく護衛艦隊の乗組員や基地の内勤もいるので、赴任する日本人だけで小規模な町の人口にも比肩する。酒をだす店、女を売る楼だけでなく、艦娘用に男を揃えた娼館も
「ブルネイのジュルドンなんか、日本語ができなかったら仕事に就けないとまでいわれてたもんな」元朝霜が記憶をたどる。「街は日本語の看板だらけだったし、メインストリートは日本人街になって、日本料理店なんかもあった。日本が恋しくなったときなんかにゃ世話になったもんだ」
海軍が開設した初の泊地はミクロネシアのトラック洲だった。これを皮切りにつぎつぎ各国と泊地建設の条約を妥結し、リンガ、ラバウル、ショートランド、ブイン、タウイタウイ、パラオ、そしてブルネイに在外日海軍基地が置かれていく。いずれもがかつて太平洋戦争のおり旧海軍が統治下に置いていたところばかりであったのは歴史の皮肉だが、海の外からの敵に備えるという点ではまったくおなじなのだから、前進基地にしろ泊地にしろ、その好適地が収斂するのはむしろ当然といえた。
いまでは、そのすべてから海上自衛軍は撤収している。戦争にいちおうの終結宣言がなされて、深海棲艦が絶滅危惧種となってから、海軍が泊地を置いていた国々では、眼にみえて反日運動が活発化していった。運動は深海棲艦との戦争中にもしばしばみられたものだったが、結局は背に腹はかえられず、やむをえず諾々と日本に従っていたのである。しかし脅威が去ったことで、駐留経費などの負担や地位協定(日本軍人・軍属の公務中の犯罪は、日本側が第一次裁判権をもつ)だけでなく、各種通信機器の周波数帯や民間船舶の航路の制限といったこまごまとしたことにまで眼につきはじめたらしく、チョークポイント(海上交通路の集中する要衝)の支配をはじめとした日本の戦略に利用されているだけとして、反対運動は激化、燎原の火となって民族自決主義の域にまで達した。日本の太平洋での権益拡大を警戒していた米中露も国連に働きかけて干渉し、やむなく政府は在外海軍基地を段階的に撤収させることを決定。終戦から十年後には、最後の泊地となったブルネイからも撤退している。もはや日本は不要となったのだ。
「わたしたちは、次郎右衛門だったってことだ」
元長波はいった。しかしふたりの笑みには影がなかった。泊地に単なる職場以上の感情を抱いていなかったせいかもしれない。犀利な目を持つものならむしろ元長波の瞳には羨望さえみることができただろう。ブルネイは戦争だけでなく戦後をも乗り越えて、新たな航路へ自らの意志をもって舵を切ったんだ。その出帆の喜びはなにものにも冒されるべきじゃない。そう元長波は信仰している。
元朝霜の家は海沿いの一角にあった。古民家だった。この物件は退役後すぐに購入したという。海に近い土地は地価が暴落していた。「そこを狙ったのさ。いい買い物だった」この一帯は深海棲艦のいかなる攻撃もついぞ受けなかったが、住民の海への不信は根ぶかく、終戦当時の土地評価額は現在の十分の一以下だった。修繕の費用を入れてさえ銀行の世話にはならずにすんだと元朝霜はいう。
「徳島の家は?」
と訊く元長波に、元朝霜はわずかに眉を曇らせたが、鍵を開けるために背を向けていて、それをみられることはなかった。
「まあ、入れよ」
「駆逐の寮は三段ベッドの大部屋だったろ、だからひとり暮らしするなら、きっとでっかい家にするんだってのが夢だった。だが実際住んでみると、ちとでかすぎるな。掃除がたいへんだ」元朝霜は襖で仕切られた茶の間、客間、床の間を透かし見るように見渡す。「人間ってのは、六畳、いや三畳一間くらいでちょうどいいのかもしんねえな。立って半畳、寝て一畳、天下取っても二合半ってな。それに虫も多いんだ。干してた洗濯物取り込もうとしたら卵産みつけられてたり、ムカデが壁を走ってることもある」
「それは勘弁だ。でもアマゾンよりはましだろ。熱帯雨林を歩いてたら、三十センチくらいのナメクジが肩に落ちてきたりしてた」
内側が湯垢で白くなっている鉄瓶を火にかけた元朝霜が、彼女の隣に座る。
「戦争が終わって、生きたまま除隊できる、そう、自分の手で退職金を使えるってなって、具体的になにか考えてたわけじゃないけどさ、軍隊じゃない、新しい第二の人生ってやつを歩もうと、あんときはあたいなりにうきうきしてたわけよ。いままでは艦娘になるしかなかったけど、もうこれからはなんにでもなれるんだって」
元朝霜らしくない歯切れの悪い語り口は、どこから話しはじめたらよいのかわかりかねているようだった。
「それで、とりあえず実家に帰ったんだ、徳島の。父はとうに死んじまってたから、母と妹が迎えてくれた。喜んでた。でもどこかひっかかった。とくに母親が。なんか、娘が生きて戻ってきたのだから泣いて喜ばなければならないと、そう自分に言い聞かせてるような、作り物っぽい顔だった。なんせ実の娘だからね、長いあいだ離ればなれっつったって、それくらいわかるさ。わかるけど、気づかないふりをした。考えすぎだってね。けど、三日目の朝、母親に起こされてさ、荷物まとめといたから出てってくれって。近所じゅうでうわさになってるっていうんだ、あたいたちは男の軍人と護衛艦に何ヶ月も乗り合わせてただろ、きっと懇ろになってたにちがいないって。んなわけねえだろっていっても聞かない。艦内は恋愛禁止だったし、まあたまに破って経歴に傷つけるバカが居はしたが、あたいは違う、信じないのかよ」元朝霜は母親のしぐさを真似て首を横に振りながら、「“あたしは信じるけど、世間はそうはみてくれない。男と女が長いあいだおなじとこにいて、なにもなかったなんて、それを信じろっていうほうが無理なんだ。それが世の中なんだよ。あんたの妹は婚約してるんだ。妹の幸せを考えるなら出て行ってちょうだい”。そうまでいわれちゃどうしようもない。やっと帰ってきたのに、追ん出されちまった。転々としてるうち、どっかいい家ねえかなって探して、ここに行き着いた」
元長波は言葉もなかったが、
「ひどい話だ」
絞りだすようにそれだけいった。
「軍の男とは寝てないが、娼館の男はよく買ったからな、あばずれって後ろ指さされても仕方ない。最近はそう思えるようになった」
元朝霜は頬杖をついてそう笑う。在外海軍基地のある街では例外なく風俗街が栄えた。艦娘相手の商売で豪邸を建てた男娼さえいるという。
「わたしたちにはいなかったが、内地に旦那とか恋人を残してきた艦娘は」元長波は思いだすままに喋る。「内地から熱い思いのこめられた手紙が送られてくるたび、忘れかけてた人肌のぬくもりが恋しくなって、いてもたってもいられず、娼館へ走ってたな」
「愛と性欲は別だ」と元朝霜が相槌を打つ。
「ああ。愛してるだの、早くきみに会いたいだの、子宮がうずくもん読まされりゃ仕方がない。ションベンが限界で目の前に便所もあるのに我慢しろっていうようなもんだ。郵便を乗せた船が入港するたび、男娼どもが昼から活気付いてたっけ」
郵便は不定期に輸送艦や護衛艦の貨物に便乗するかたちで運ばれた。艦を外からみるかぎり郵便が載せられているかはわからない。にもかかわらず男娼らはどうしてかめざとく判別できていた。彼女たちはむしろ男娼たちの出勤ぐあいで郵便の到着を知ることがよくあった。
「だからな、あたいはいまでも仕事で若い女の子が入ってくるたび、こういってるんだ」
元朝霜が分別くさい顔をしていった。
「もし旦那が転勤になっても単身赴任はさせるな、おまえか旦那のどちらかが絶対に浮気をする、嫌ならついてけ、さもなくば下半身にくるようなメールはするなってね」
「よけいなお世話もはなはだしいな」
片八重歯をみせて笑う元長波に元朝霜はしたり顔で、
「老婆心とはよくいったもんだろ?」
と答えて、しゅんしゅんと音をたてる鉄瓶をとりに立った。煮えたぎる湯を急須にそそぐ。「ご新造の艦娘を娼館に案内するのも、先任艦娘の役目だった」いいながら熱い茶を湯呑みになみなみついで元長波の前に置く。
「そういう年頃だもんな。無理に抑圧するより、いっそ正しい避妊の知識を教えてやったほうがうまくいくんだ」元長波も和して啜る。「ああ、うまい」
元朝霜に促されて庭に面した濡れ縁に並んで腰かける。揃って一服する。庭には湯槽ほどの大きさのコンクリ池が掘ってあって、そこにウーパールーパーを放しているとのことだった。たまに鳥や猫に盗られるが、増えもせず減りもせずに代を重ねているという。両生類の這う池を囲んで、季節の百花が千紫万紅とはいかないまでも咲き誇っている。花冠が風に揺れる。時間の流れが穏やかだ。
「ブルネイにしろパラオにしろ、あっちの男ってのは、ゴム着けねえんだよな、こっちが用意してなかったら、あたりまえのように生で入れようとしてくる」
と口を湿らせた元朝霜が笑った。
「娼館っつったら店にゴム置いてあるのがふつうだと思ったら大間違いだもんな。やっぱりそこは売り物が男か女かの違いなんだろう。だからまずPXでゴム買ってから行くんだぞ、と」
元長波の彼女がいうと、
「“ゴムは自分で用意しろ。もしくはピルを飲め”。あの戦争で学んだ、数少ない教訓のひとつさ」
元朝霜は頬をひくつかせた。
「公娼は、まだいい。商売として海軍とながい付き合いするってんで心得てるからな。私娼が要注意だった。安いが胸に一物あったりする。誘われて寝た相手が、翌朝になるとレイプされたと騒ぎだす。黙らせるには結婚するしかない」元長波が吐息する。目当ては日本国籍または日本の永住権である。
まだ骨にがんを患う前の、愛する男性に別れを切り出す前の、結婚式と披露宴の費用を防衛省のカードで立て替えさせようともくろむ前の、若く健康な軽巡洋艦娘だったころの川内は、夜ごと口を酸っぱくして駆逐艦娘たちに言い聞かせた。「クラブやバーに行けばあんたたちはかならずちやほやされる。勘違いしちゃだめだよ、それはあんたたちが日本の艦娘だからであって、あんたたちの顔やなにかに惚れたわけじゃないんだ。フェロモンただよういい男に口説かれても、一生を棒に振りたくなかったら常に冷静でいること。子宮じゃなく体のいちばん高いところで考えて」。つぎにこういう。「注意一秒?」。駆逐艦娘たちはこう唱和する。「ガキ一生」。川内のつぎのことばで駆逐艦娘たちは解き放たれる。「楽しんできな。夜はあっという間だよ」。
しかし、いくら教えて対策を講じても妊娠する艦娘がまれにいた。
「あれは、昼間にクラゲのわんさかいる湖で遊んだ夜のことだから、パラオに赴任にしてたときのことか。大きな作戦が控えてて、死ぬまえに一発、男をくわえこむかとみんながめいめい街に繰り出してて」
元長波は季節の草花を眼に映しながら記憶をたどる。
「そんななか、最後任の浜風が後込みしてた。そういうことに興味はあるが、勇気が出せないって感じだった。わたしたちは自分が先輩にされたように、彼女の背を押して一緒に連れていった。殺し文句はこれさ、“処女のまま死にたくないだろ?”。これで首を縦にふらない奴はいない。なんてったって、わたしたちはあのとき、まだ十代だったんだ」
「で、それから何ヶ月か経って、クラゲの湖で遊んだ日の真夜中に、いきなり砲声が響いて、あたいたちは飛び起きた」茶をひとくち含んだ元朝霜が引き継ぐ。「すわ敵襲かと、目も開ききってないまま指示を請うため司令部を走り回った。浜風がどこにもいないことにそのときは気づかなかった……気づいたのはあいつの姿を見つけたときさ。あいつは外でひとりへたり込んでた。腹が破けてて、あたりは血まみれ。撃たれたのか、敵はどこだと問い質そうとしたとこで」元長波を見やった。「おまえがいった。“おまえ、なんでもう着装してんだ”」
どうやって武器庫と弾薬庫の守衛を丸め込んだのか、浜風は自分の主砲を持ち出して、自分で腹を撃った。ずたずたに引き裂かれたはらわたが腰から下を前掛けのように覆っていた。血走った大腸にクリーム色の小腸、やたら大きな肝臓、そして子宮。もっとも、もう子宮だとはわからないくらい原型を留めていなかった。
「わたしたちがバカみたいに突っ立ってると、浜風はモツをひきずって、血の海のなかから、なにか破片を拾った。よく見るとそれは、おもちゃみたいに小さな手だった。それからいきなり笑い出した」
“やった。これでみんなと戦える!”
浜風は本隊から外されてドック入りとなった。いまなら不名誉除隊もまぬかれない不祥事だが、一週間して、浜風は本隊を支援する艦隊に編成されて作戦に参加していた。駆逐艦にしても遊ばせておく余裕などなかった。なんのことはない、その浜風は艤装を無断で使用しただけ。砲が撃てて、ソナーが使えて、爆雷が落とせて、命令に従えて、かつ本人にも意欲があるのなら、参加させない理由がないと司令官は考えた。
「そういう時代だった」元長波はいう。
作戦が終わって帰投すると、浜風はまるであの夜の出来事などなかったかのようにいつも通りの駆逐艦娘に戻っていた。「クソ真面目で、ばかでかい胸の谷間のあせもに悩んで、ちょいと食いしん坊で……わたしたちも暗黙の了解ってのかな、話題には出さないようにしてた。あれは悪い夢だ。夢だったんだ。みんなでそう思い込もうとした」
元長波の湯呑みはもう空になっていた。
「でもな、たまに、浜風が唄を口ずさんでるときがあるんだ。本人も無意識みたいだったが、それはどう聞いても、子守唄だった」
いまでも、元長波の耳朶で浜風は子守唄を歌っている。
「定期健診の尿検査も、水洗トイレの水をそのまま提出してごまかしたんだろう。それ以来、尿検査するときは水洗トイレに墨を流しておくことになった。いまでもそうなのかな」元長波は述懐した。
いっぽうの元朝霜は、浜風の腹から内臓が溢れでている光景が眼に焼きついて離れていない。
「退役して、この家を見つけるまでの間、一度だけ、小学校時代の同級生連中と久しぶりに会ったんだ。艦娘に志願しなかった子たち……。軍のにおいのしない友だちと話をしたかった。みんなで焼肉を食いに行こうって話しになって」
元朝霜は訥々と語りながら新しい茶をついだ。
「ホルモンの盛り合わせが出てね。それを見た瞬間、うぞうぞ蠢いてるように見えて……トイレに近い場所だったのがあたいの人生の数少ない幸運さ」
かすかに潮騒が聞こえる。
「自分がPTSDになんかなるはずないって思ってた。そんな弱っちい人間じゃない。死体の山のそばで仲間とにこやかに談笑しながら飯が食える、理想的な艦娘だって」
元朝霜の声は震えている。原型を留めないほどに破壊された死体はいくらでもみた。内臓を突出させた艦娘や深海棲艦も数えきれないほど目にしてきた。なぜあの浜風の臓物だけが強烈に印象に残っているのか、元朝霜本人にもわからない。
「あたいは自分で思ってたほど、強い人間じゃなかったんだ」
花々の隙間を埋める雑草の葉影づたいに、どこからか現れたカナヘビが走っていき、すぐさま茂みへと潜る。あんまりすばしっこいので長い尾の残像が見えたにすぎない。「ここに来たときから住み着いてた。まさかずっとおなじのが生き延びてるわけじゃないだろうけどな。代々この庭で暮らしてるんだ」元朝霜は湯飲みをカナヘビの消えた茂みに気安く掲げてから傾けた。
「この家で、トカゲやらムカデやらがでるこの古ぼけた新居で、再出発しようとした。ここを選んだのは、安かったのもあるが、やっぱり、海からは離れられなかったんだ」
元朝霜は庭を、というより、前を見据えながら話した。
「新しい仕事も探した。けど、あたいらが入ったころの艦娘学校では、中卒相当だろ。ろくな就職先なくてさ。何年も無駄にした。とりあえずバイトしながら宅建の資格をとることにした。復興が進めば家を建てる奴も増える。土地建物の取引も多くなるって踏んだんだ。けどバイトがしんどかった。戦争が終わったあとも肉体労働するとは思ってなかったよ。時間はかかったがなんとか資格はとれた。ようやく再スタートが切れたと思った」
そこで元朝霜は一息ついた。
「十年前、母が脳梗塞をやって、死にはしなかったんだが、左半身が不随になってね。介護が必要になった。で、妹が、母さんの面倒見てくれって連絡よこしてきた。十二年ぶりの電話がそれだぜ。追い出しといてそれはねえだろ、施設にでも入れろっつったら、“そんなかわいそうなことできるわけないじゃない、家族なのよ”、じゃあお前がどうにかしろといえば、“うちの子は受験を控えてるのよ、いまいちばんだいじな時期なの、それにお姉ちゃん、長女でしょ”ときた。仕方なしに引き取った。腐っても母親だから。家もこのとおり広いしな。それからはまあ、たいへんだったよ。飯から下までつきっきりで世話してやんなきゃならない。本人はなにひとつできねえんだから。真夜中にさあ、大声で“トイレに行きたい”って叩き起こされるんだぜ。こっちゃ昼間慣れない仕事で疲れてんのによ、眠い目こすって母親の寝てる部屋行ったら、“いつまで待たせるんだ”、これだからな。“あんたを産んでやったのはだれだと思ってる、親が困ってるときくらい、すこしは助けてくれたっていいじゃないか”。あたいがいうのもなんだが、女ってのは、しつこいんだよな。“あんたはあたしのことなんかどうでもいいんだ。早く死ねばいいとでも思ってんだろ”っつうから、そんなことないよって言い返せば、“ならなんであたしが呼んだらもっと早く来ないの。あたしのことがだいじならすぐ飛んでこられるはず。人間の本心は言葉じゃなく態度にあらわれるんだよ”と、そりゃもうネチネチ説教くらわされるわけだ。それが死ぬまで続く。おまけに給料がもらえるわけじゃない。戦争のほうがましだったよ、まさか殺すわけにはいかないからな……。母が亡くなったときは、正直いって、ほっとした。終わった。疲れた。解放された。だが間違いだった。葬儀の席でな、妹が、自分も法定相続人だから遺産を半分もらう権利があるっていってきたんだ。さすがにカチンときたね、病気の母親を押しつけて、葬式の宰領も費用もなんにも協力しなかったくせして、カネだけはよこせだからな。それをいったら、“姉さんが不自由な母さんを言いくるめて、口座からお金を引き出したりしてたかもしれないじゃない。不公平だわ。それに、うちはいくらお金があっても足りないの、独り者で自由な姉さんと違ってね!”だとさ。もうなにもかもが嫌になって、妹のいうとおり母の遺産を処分して、半分をくれてやった。手切れ金と思えば高くない。あんなの妹じゃないや。清霜のほうが百倍可愛い」
一気に吐露した元朝霜は喉を鳴らして茶を飲んだ。口を拭う。
元長波は反論をこころみた。
「ケタがひとつ足りないんじゃないか?」
元朝霜は吹き出した。
「ああ、まったくだ」
「よかったら線香をあげさせてくれないか。おまえがなんといおうと、おまえを生んでくれたご母堂だ」
元朝霜は一も二もなく奥の仏間へ元長波を通した。仏壇に父母の位牌が並べられている。遺影も飾られてあった。地板や膳引きには灰も埃もなく、仏飯はまだ乾いていなかった。
「楽だぞ。口答えしないからな」
などという元朝霜に元長波は微笑して、仏壇の前に端座し、ろうそくに火を点けて、それを線香に移して香炉に立て、両掌を合わせた。
元長波の家族は、彼女を懸命に理解しようとしていた。母は、たった一度だけ声を荒げたが、それ以外は元長波の想像を凌駕する我慢強さで死ぬまで献身的に尽くしてくれた。きっと母はいつか娘が元通りになる日を思い描いていたにちがいない。わたしはこの元朝霜よりずっと恵まれている。なのに前へ進めなかった。元長波は自分を責め続けている。