栄光の代償・元艦娘たちが語る対深海棲艦戦争(GHK出版新書)   作:蚕豆かいこ

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二   悪夢はふたたび

 待ち合わせていた喫茶店で先に席についていた元長波は、元海風が店に入ってきた瞬間にそれがだれであるかわかって立ち上がりながら手を掲げた。よく一本の長い三つ編みにしていた、海風シリーズ特有の白に近い薄いブルーの髪は、生来の黒に戻ったあとカラーを入れたのだろう、落ち着いたブラウンになっている。しかし穏やかな顔つきと泣きぼくろは変わっていない。

 

 中学校での講演を終えて来店した元海風も、自然に元長波へ視線が吸い寄せられ、それがだれであるかすぐにわかった。ふたりは抱きしめ合い、互いの背を叩き、横たわっていた二十数年の歳月をふたりの体温で融かした。

 

「調子は?」

 

 脳腫瘍のため杖がないと立つこともままならない四十二歳の元長波が訊いた。

 

「最高です」

 

 四十一歳の海風が答える。重度の薬物依存により、四段階の病期のうち三段階目の精神病期まで進行していたため、脳に不可逆的な障害を負い、薬物を絶っているいまでも自律神経症状や意識障害、なにより覚醒剤使用の渇望に悩まされている。

 

 そんな元海風が法務省認定の協力雇用主であることを元長波は知っている。

 

「いまでも他人を救ってるのか。たいしたもんだ」

 

 シートに座り直しながら元長波はいった。元海風が向かいに腰掛けながらかぶりを振る。

 

「救うなんて、そんな大げさなものでは。わたしも彼らに支えられているんです。とにかく、きょう一日、シャブを使わずに生きよう。それを毎朝自分に言い聞かせています。正直いって、これから何十年もシャブなしで生きていくと考えるのはつらいです。だから、きょう一日だけがんばってみよう。それを毎日繰り返しています」

 

 それに元長波は海軍転換艦隊総合施設に入院していたころを思い出す。施設では朝七時と夜七時、半日ごとに点呼があった。もう十二時間だけ、つぎの点呼までがんばってみようとスタッフが繰り返した。退院後も元長波は「きょう一日だけ、生きてみよう。なに? わたしに言ってんのか?」と毎朝、鏡のなかの自分に言い聞かせた。小目標でなければ達成する自信はとてもなかった。

 

 運ばれてきたカフェオレに口をつける元海風は、卓上のガラス製のシュガーポットを極力視界に入れないようにしている。

 

 元長波も同じように砂糖を使わなくてよい飲み物としてクリームソーダを頼んでいる。薬物依存症から立ち直ろうとしている者にとって白い結晶がどれほど目の毒か知っているからだ。そんな元長波に元海風は礼をいう。

 

「わたしにはお砂糖やお塩のように、見てはいけないものがほかにもたくさんあるんです」と元海風。「マリオやカービィ、ピカチュウといった有名なゲームのキャラクター、スーパーマンのSのトレードマーク、レッドブルやアップルやマクドナルド、トヨタなどの日常にありふれたロゴマーク。見た瞬間にわたしは死にかねません。道路標識がいちばんきついですね。見ないわけにはいきませんから」

「麻薬業界は究極の資本主義って聞いたが、聞きしに勝るな」

 

 違法薬物、とりわけMDMAは元海風がいったようなカラフルでポップなデザインの錠剤に成形されていることが多い。いちど薬物をやめても日々の生活で錠剤に用いられていたキャラクターやマークを目にすれば、強烈に結びついたトリップの記憶がよみがえり、再び手を出したくなる設計となっている。

 もう元海風は日常に戻れない。日常にあふれるすべての表象が薬物の味で上書きされている。世界が元海風に薬物を使えと絶えずささやいてくる。

 

 その声から逃れる方法のひとつが、友人とただの会話に興じることだ。

 

「そんな甘いもん飲んじまったら虫歯になるぞ」

 

 と元長波が自分を棚に上げていえば、

 

「艦娘だったころは、虫歯になったらだれかに殴って折ってもらって、修復材で歯を生やせばよかったですからね。それで歯を磨かない子が大勢いて」

 

 と元海風が思い返しながら笑みをこぼす。

 

「それで歯磨きしない習慣が身についたまま退役して、歯がなくなる元艦娘も多いそうですね」

「腰痛と虫歯は艦娘病だからな。おまえは?」

「わたしは総入れ歯です。歯磨きというより覚醒剤の副作用ですけど」

 

 元海風が人工の歯を見せる。

 

 元長波は顎をしゃくる。「シャブには副作用しかない気がするが、なんで歯が?」

 

「唾液が分泌されなくなるんです」

「じゃあ口とかすげえ臭そうだな」

「歩く化学兵器ですよ」

 

 ふたりで飲み物を手に笑う。

 

「あと一か月だなんて信じられないです。ほんとうにお元気そうなのに」

 

 元海風は元長波の病状を前もって聞かされている。

 

「一か月ってのはMST(生存期間中央値)だから、いまこの瞬間にくたばっちゃうかもね」

「まるであのころに戻ったみたいですね」

「むかしのわたしに、おまえは未来であと余命ひと月っていわれて死ぬほどびびってるぞっていったら、腹抱えて笑われるだろうな」

 

 元長波は元海風といちどだけおなじ艦隊に配属されたことがある。本土を空襲した敵大型空母〈シャングリラ〉殲滅を目的としたネビルシュート作戦の一環として、基地航空隊展開の好適地に物資を輸送する任務部隊だった。元長波や元海風ら2水戦は、空母棲姫や空母ヲ級改ほか有力な敵水上艦隊から輸送船団をよく守り、作戦完遂に貢献した。

 

「覚えてるか?」

 

 と元長波がメロンソーダに乗るバニラアイスをスプーンで掬いながらいう。戦時中に間宮で食べたアイスクリームの味にはとても敵わない。

 

「基地航空隊のCAS(近接航空支援)を待ってるあいだ、朝霜が“ところでMS諸島に生息してるアビサルズ(深海棲艦)は何体っていってたっけ?”っていいだしてさ」

 

 当時すでに人工衛星や高高度を飛行する航空機を撃墜する深海棲艦は破壊され、空は取り戻されていた。基地航空隊の目標の捜索やターゲッティングはUAV(無人機)に任せることができた。脳死した艦娘を載せた陸上攻撃機の編隊がMS諸島方面へ向かうのを夜の洋上で仰ぎ見ながら、元長波たちは命令を待った。「ところでMS諸島に生息してるアビサルズは何体っていってたっけ?」。煙草に火をつけながら元朝霜がいった。煙草はウレコット・エッカクスとそれが排出する微小酸素(マイクロオキシジェン)を検知する方法でもあった。長波が答えた。「非武装の補給艦とかも入れたら一二〇〇匹くらいらしいぜ」。そのとき、天の川の淡い帯がながれて海に注いでいる北の水平線がオレンジに染まった。基地航空隊の攻撃だった。すると煙草を咥えたまま海風がいった。「ちょっと減ったわ」。艦隊は爆笑した。

 

「煙草といえば」

 

 元海風が思い出す。

 

「あのとき一緒の艦隊だった玉波(たまなみ)を覚えていますか?」

「もちろんだ。夕雲型ならなおのこと忘れない。年下なのに寡婦みたいな色気があった。あだ名は人妻」

「あの人妻とは2戦教の同期で、ネビルシュート作戦以前にも内地の離島でいっしょに勤務していたことがありました。わすれがたい思い出があります」

 

 給養員も給食業者もいない分遣隊や分屯基地では、食事は艦娘が持ち回りで食当長(しょくとうちょう)(調理係)を担当した。食材は毎月一定の賄い費を艦娘たちから集金して購入する。

 

「ところがあの玉波が食当長だった日、彼女は賄い費をオンラインカジノの負け分に使ってしまった。それで食材が買えない、どうしようかしら、と2戦教の同期のわたしに相談してきました。わたしは面倒だと突っぱねることができませんでした。なぜなら彼女は、前の任地でわたしが先任の、しかも空母艦娘の旦那さんと不倫していたことを知っていたから」

「わお。夜戦はお家芸だな」

「独身だといっていたから寝たのですが、ともあれ玉波には借りがあったので、協力せざるをえませんでした」

 

 しかし当時十四歳だった元海風自身も男娼通いが祟って懐事情が芳しくなかった。くすねていた修復材を横流ししようかと考えたが赴任したばかりで信用できる販路もなく、足がつけば不名誉除隊はまぬかれない。ぼうしん*1から借りればかならず警務隊から何に使ったかを訊かれる金額だった。

 

「野菜は地元の農家のかたから融通してもらうとして、肉はどうしようもありません。八方ふさがりでした。玉波ったら、家畜を殺して肉を奪って、死体の周りにミステリーサークルを描いて宇宙人のしわざに見せかけるしかないって本気でいってました」

 

 夕食の時間が刻一刻と迫ってくる。食事がないとなれば強制的に露見する。玉波とともに悩んだ元海風は「みんなあなたの手料理を楽しみにしているのよ」と漏らした。そのとき、玉波の瞳に「よからぬ光」がよぎったという。「手よ」。玉波はいった。「わたしの腕を切り落として、その肉で料理を出しましょう。修復材で再生すれば人数分の肉は手に入るかも」。切羽詰まっていた。元海風も「そうしましょう」とシンク下の収納から出刃包丁を取り出した。

 

 ふたりしかいない厨房で、元海風が玉波の右手首をまな板に押さえつけた。十代の少女の細い腕。「覚悟はいい? 返事は訊いてない」。元海風が包丁を玉波の肘関節にあてがった。手拭いを噛んだ玉波が頷いた。元海風は包丁を振り上げ、振り下ろした。肘の内側に刃が半ばまで食い込んだ。轡を噛む玉波の喉で悲鳴が炸裂し、涙と脂汗が流れたが、苦悶の表情にすら色香があった。

 

 元海風は峰に手を当てて全体重を乗せた。腕橈関節と腕尺関節は砕けるようにして断ち切られた。あらかじめ上腕をきつく縛っていたため出血は最小限ですんだ。切断した腕を持ち上げようとすると、下側の皮膚がちゃんと切れていなかった。元海風はまな板ごと切るくらいのつもりで包丁を何度も前後させた。

 

「けれど問題が生じました」

 

 元海風が元長波にいう。

 

「問題しかないだろ」

「鍛えてるといっても、しょせんはティーンエイジャーの女の子の腕です。大した目方にはなりません。修復材で再生できるとはいえ、へそくりの修復材の量を、つぎの賄い費の集金日までの食事回数で割ると、彼女の腕では艦娘たちの底なしの胃袋を満たすには足りないことがわかりました」

「片手落ちじゃねえか」

「そこで、彼女の足を切断することにしました。腕に比べれば太ももはたっぷりと肉がついていますから」

 

 さすがに太ももは一刀両断とはいきそうになかったので、まず大腿部の外周をキッチンナイフでぐるりと軽く切った。そこから私物の剣鉈で筋肉と腱をぶつ切りにした。そうしてのこぎりの目が肉を食わないようにしてから骨をごりごりと引いた。切断しては再生させるのを繰り返した。

 

 通常、喪失した血液までは修復材の造血作用では補完できない。そのため大量出血をともなう損壊では修復材の使用に加えて輸血も必要となる。しかしそのときは修復してから即切断しているため出血を最小限に抑えることができたので、輸血用血液バッグや輸血ルートを盗んで講習も受けていない輸血を行なう愚を犯さずにすんだ。せいぜい玉波が血圧低下や頻脈や顔面蒼白を起こすだけだった。

 

 玉波の遺伝子を設計図に修復材の多能性幹細胞で生成された、何本もの太ももが、枝肉のようにキッチンカウンターに並んだ。夕食の肉は確保できた。魚醤と黒蜜に漬けて手っ取り早く柔らかくしたあと骨から外した。

 

 献立は何の肉かわかりづらくなるハンバーグに決めた。フードプロセッサーだけでは間に合わないので一部は玉波が包丁で叩いて挽き肉にした。時間がきた。玉波のもも肉ハンバーグ定食。

 

 元海風も玉波も時間に追われるあまり味見をしていなかった。味や匂いが変だと騒がれないだろうか。動悸を抑えかねた。艦隊が食卓についた。

 

 世界中の子供がそうであるように、食べざかりの艦娘たちは付け合わせの野菜には目もくれず真っ先に湯気の立つハンバーグに箸を入れた。口に入れた瞬間、彼女たちの顔が輝いた。ハンバーグはかつてない好評を得て、食当長の玉波には惜しみない賞賛が送られた。元海風は息を止めながらあまり噛まずに呑み込んだ。いっぽう玉波はいつもの寡婦のような笑みで、自分自身のひき肉をなんのためらいもなく食べ進めていた。

 

 すると先任の駆逐艦山風(やまかぜ)が、ハンバーグのかけらを箸で翳していった。「人間みたいに脂肪が黄色いんだね。なんのお肉?」。元海風は呼吸がとまった。急いでいたためかなり粗びきにしていたのが裏目に出た。

 

 だが玉波はいささかも動ずることなかった。「ここの家畜はこの時期、飼料にトウモロコシを多く給餌されるので、そのカロテノイドで脂肪が黄色くなるそうです」。玉波は主演女優賞の栄冠に輝いた。幸いにも畜産が身近でない山風はむしろ感心して、溶けかかった黄色い脂肪が覗くハンバーグを口に放り込んだ。山風の妹だという重巡古鷹(ふるたか)と戦艦大和(やまと)もにこにこして姉に倣った。

 

 それからひと月のあいだ元海風は玉波の脚を切断するのが日課となった。ハンバーグにするときは念のため挽き目を細かくした。

 

 そんな玉波とともに元海風が〈ネビルシュート作戦〉後に第3遠征総軍第38軍独立混成第34海上旅団司令部付チーム8に編入されて臨んだ任務が、〈トーチ作戦〉だった。

 

 深海棲艦の手に落ちた西ヨーロッパを解放し、欧州全域を人類の手に取り戻す橋頭堡とすることで希望の(トーチ)をともす〈トーチ作戦〉。その総仕上げとして、前年の欧州遠征作戦で打倒された欧州水姫に代わって大西洋一帯を支配下に置く戦艦未完棲姫*2率いる深海カサブランカ要塞在泊艦隊壊滅に、第3遠征総軍は38軍を当てた。

 

 2水戦有資格者からさらに選抜されて編成されたチーム8の任務は、深海棲艦によって要塞都市に改造されたカサブランカに空挺降下しての破壊工作だった。

 目標は、本隊による戦艦未完棲姫覆滅および北アフリカ解放の障害となる飛行場姫や港湾夏姫Ⅱ、砲台小鬼、および船渠棲姫*3

 これらをすべて破壊したのち、独立混成第34海上旅団の本隊(定員六〇〇〇名。そのうち艦娘は約八五〇名)が、特定有害指定生物対策特殊航空集団第3航空群所属の基地航空隊と協同で洋上の敵を殲滅し、主目標である戦艦未完棲姫を完全破壊、カサブランカに上陸して2水戦と合流し同地を解放する手はずとなっていた。

 

 38軍隷下には独混34海旅のほかに四個の海上師団もあるが、第2海上師団は日本からの途上でインド洋の対潜哨戒、第21海上師団はアラビア海制圧でそれぞれ消耗しており、第37海上師団は紅海からスエズ運河を抜けてアレクサンドリアに拠点を構築、固守。第55海上師団はそこから地中海を越えてスペイン南部に飛行場開設の必要資材を輸送し、基地を防衛する任務に割り当てられていて、カサブランカ上陸作戦に直接参加は望めなかった。とはいえ、事前の情報では独混34海旅一個のみで作戦目標は遂行可能と38軍首脳部は情報部より教示を得ていた。

 

「出撃の前日、スペインの基地で出た夕食がハンバーグでした。鶏肉でしたが、ちゃんとしたハンバーグ。旗艦の最上(もがみ)さんがちょうどその日がお誕生日だったので、わたしたちも久しぶりに人間らしい食事にありつけました。けれどわたしも玉波も思い出し笑いをこらえながら食べました。ほかのみんなが訝しんでいたのがよけいにおかしくて」

 

 そのとき同席していた2水戦のひとり、白露型駆逐艦村雨(むらさめ)が左右で色違いの目を輝かせて「なになに? もしかしてこのハンバーグ、人肉だったりするんですか?」と冗談めかしていってきたので、こんどこそ元海風と玉波はのけ反って爆笑した。

 

 その村雨は、降下直前、暗室のセーフライトのような赤い照明に満たされた空軍の輸送機のカーゴルームで「身支度」に余念がなかった。四点式シートベルトで荷物のように座席に固定されたまま、あとでヘルメットと酸素マスクで頭部をすっかり覆ってしまうというのに、亜麻色の長い髪を注意深く二つくくりにし、鳶色(とびいろ)の左目と緋色の右目のまつ毛をビューラーでカールさせ、糊のきいた制服をととのえ、地上の自動車からもぎ取ってきたらしいサイドミラーを手鏡代わりにして、いつまでも自身のディテールにこだわっていた。時間が許せば一週間でもそうしていただろう。

 

 これから街へ買い物にでも出るかのような僚艦に、初春型駆逐艦有明(ありあけ)が、すり切れた新約聖書を音読している夕雲型駆逐艦の高波(たかなみ)越しにため息まじりにいった。「男に会いに行くんじゃあるまいし」。村雨は前髪の毛先にまで気を配りながら「似たようなものよ」と答えた。「戦場で女を張らずにどこで張るの」。ウインクする村雨ばかりが特異なのではなかった。少なくない艦娘が戦地であっても――あるいは戦地だからこそ――女の子であることを忘れまいと、軍規に抵触しない範囲内で可能なかぎり身なりを飾ろうとした。野暮ったい恰好で死にたくなかった。元海風も長く伸ばした青銀の髪を一本の三つ編みにして洋上で靡かせるのが好きだった。

 

 有明はなおもちょっかいをかけた。「じゃあその錨はなんに使うんだよ」。死傷率が他部隊に比し突出している2水戦は個人装備に高い自由度が認められていた。主砲や魚雷発射管など制式採用されたもの以外のアクセサリーには各艦娘の哲学が如実に現れた。ボディアーマーのプレート、チェストリグ、ナイフ、コンパス、腕時計、スカーフなどに、艦娘たちは自分がこれと決めた最高の製品やハンドメイドを充てた。

 

 その村雨は私費で調達した長い錨鎖を背嚢に取り付けていた。先端には大振りのアンカーもあった。「無用の長物もいいとこだろ」という有明に、村雨は鎖をチャリチャリと持ち上げて僚艦に笑いかけた。「あら、意外と使えるのよ」「何に?」「あなたを黙らせるため」。有明は機体が乱気流(タービュランス)に揺れるなか、わざと白目をむいて肩をすくめた。

 

 第3航空集団の前線基地としてスペイン南部のペドロ・バリエンテに突貫で整備された飛行場を発った輸送機二機は高度一万二〇〇〇メートルまで昇り、三〇〇キロ離れたカサブランカ上空に迫った。元海風は煙草を一本、となりの席の玉波に渡した。玉波はベストにしまいこんだ。「それは?」。向かいの有明に訊かれた。「幸運の煙草。ふたりで最初に出撃したとき、もし助からない傷を負ったらこれでも吸って死のうって、たまたま残ってた二本の煙草をわけあったの」。玉波が後を継いだ。「それで生きて帰れたから、幸運の煙草。帰ってから吸うとおいしいのよ、こんなまずい安煙草でも」

 

「“またすべての人が酒かっ食らって喫煙し、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である”ってか」。有明が芝居がかって語り口でいうと、クリスチャンの高波が聖書から顔を上げた。「まさか、わたしの思い違いかもですが、コヘレトの言葉第三章十三節のつもりですか? “またすべての人が飲み食いし”です」。それに有明はけらけら笑った。この初春型はわざと聖書の文句を間違えて高波をからかうのが数ある趣味のひとつだった。元海風も共通の趣味を持っていたので「こんど深海棲艦にとどめを刺すときには、エゼキエル書第二十五章十七節を読み上げましょうか」と便乗した。有明も「めっちゃ尾ひれつけたやつな」と白い歯をみせた。高波はかわいらしい顔をむくれさせるばかりだった。

 

「水の上を歩けたら神の子だってんなら、あたしらは揃いも揃って神の隠し子かよ」。笑う有明に高波がますます頬を膨らませた。「湖面を歩いたというくだりは、それ自体は重要ではないんです。水面を歩くという奇跡を起こしてもおかしくないほど素晴らしい人だったという意味で……」。そこで旗艦最上のよく通る声にさえぎられた。「楽しいおしゃべりは終わりだよ。仕事の時間だ。みんな、仲睦まじいお尻と座席の離婚届を出して。さあ二本足の出番だ。給料ぶんは働いてもらうよ」。シートベルトを外した最上が手を叩きながら促した。元海風はいたわることを知らない座席に清々しく別れを切り出した。

 

 主傘を背負い、体の前には艤装や弾薬など装備品を収納した背嚢を提げ、歩くのもひと苦労なチーム8がロードマスターの指示で整列した。レッドライト。機体の左右にある空挺扉がひらいた。光害がないために無数の星が所狭しと輝く夜空と、闇に沈む北アフリカの大地との狭間がかすかに円みを帯びていた。グリーンライト。分乗していたチーム8がパスファインダー部隊の誘導もなく次々に闇へと飛び出した。そのなかには、工作艦明石(あかし)の姿もあった。

 

 本来、明石シリーズは干渉波出力が著しく低い代わりに、艦娘用武器装備の改修や複数の艤装の艤付長(ぎつきちょう)として整備および修理を担当する。弱いとはいえ干渉波を使えるので艦娘の装備品を自らテストできる点は大きい。よってもっぱら後方支援担当だった。それが敵地に突撃するために極めて高い2水戦の損耗率を軽減させる弥縫策として、このとき試験的に空挺部隊に編入されていた。

 

「わたしもみなさんとご一緒できてうれしいです。ずっと後方に閉じこもってばかりで歯がゆかった。さすがに砲撃戦や魚雷戦はできませんが、きっとみなさんのお役に立ってみせます!」。作戦前日、初の実戦参加で意気込む明石を元海風たち2水戦三十六人は戦友として迎えた。つまり、尻が腫れるまで元海風や玉波や村雨その他が代わるがわる平手で叩き、有明にいたっては、明石の行灯袴(あんどんばかま)ふうスカートのポケットや、下着のなかや、襟首へ、ありったけのゼリービーンズを流し込んだのである。それは彼女たちが新入りの2水戦隊員に対しておこなう洗礼とまったくおなじものだった。

 

 その場で最も階級と年齢が高かった明石は「ギャー」と悲鳴こそあげたが、肩章にものをいわせるでもなく、七〇〇ミリのモンキーレンチ片手に悪がきどもの尻を笑いながら追いかけることで2水戦の文化にすばやい順応をみせた。そうして元海風らはダブルヘッズのないその明石を仲間と認めたのだった。

 

 闇に満ちた空で、互いを見失わないよう足首に装着した発炎筒の火を頼りに元海風ら三十七人は複数の班にわかれて円陣を組み、一万メートルの大気を貫いた。大西洋の渚に面したハッサン二世モスクに寄り添う、高さ二〇〇メートル余の尖塔(ミナレット)が目印だった。真っ暗な地上にいくつものストロボがまたたいた。敵の対空砲が唸りをきかせて元海風の身体をかすめていった。手を伸ばせば地面に触れられそうな低高度に達したところで開傘し、艤装の入った背嚢を空中で切り離して投下してからDZ(デーゼー)(Drop Zone。降着地点)のモスク*4広場に降り立ち、モロッコ最大級ともいわれる礼拝堂へ集結した。一名が対空砲の破片をうけ、四名が着地の衝撃で骨折や内臓破裂など重傷を負い、また艤装も大きく破損していた。だがそこには明石がいた。

 

 明石はいわば艦隊に帯同する自走式ドックといえた。軍医でもあるこの工作艦は輸血、血中ナノマシンの充填など修復材だけでは補えない生体部分の修復はもとより、こと艤装の修理においては、本隊から離れた遊撃を主任務とするために応急修理を学んでいる2水戦でさえ足元にも及ばない手腕を発揮した。なにしろ彼女は明石なのだ。

 元海風たちは拠点として設定したハッサン二世モスクの礼拝堂へ集結した。重傷者らを明石が艤装の冷蔵庫で保存しておいた修復材で治療しているあいだに、必要なら彼女らへ輸血をほどこし、艤装を手品のような手さばきで修理して、艦隊の損失をゼロに抑えた。

 

 予定通り拠点に設定したハッサン二世モスクの礼拝堂は広大だった。天井まで六十メートルあり、サッカーコート二面ぶんもの巨大な空間を内包しているが、いまやひとりの教徒もない。そこには荒廃だけがあった。白骨化した大樹のような巨柱のあいだに、二階建ての家一軒ほどもあるヴェネツィアングラスのシャンデリアが落ちて無残に破片を散乱させたまま放置されているありさまだった。礼拝堂に人間が足音を響かせたのはおそらく数年ぶりと思われた。

 

 信仰する者もいない伽藍で、元海風らは背嚢から取り出した艤装を互いに装着させ合った。腰に人工肛門(ストーマ)のように設置された給油口へ艤装側から注油ホースを接続して寄生体に重油を供給し、COMTACのヘッドセットをかぶって指でスナップし、ボディアーマーの上に着た弾帯に予備弾倉と爆雷を収納し、圧縮包帯や止血帯を詰め込んだIFAK(個人用応急処置キット)のポーチをベルトに取り付け、体の各所に這わせたチューブに冷水を通して放熱性を高める冷却システムをオンにして、水分補給のためのハイドレーションキャリアを右太ももにマジックテープで貼り付け、主砲に弾倉を装填してチャージングハンドルを引いた。

 

 すでに敵は異常を察知していた。飛行場では敵機の第一陣がタキシングに入り、沿岸砲台のレーダーが侵入者を探した。そうでなくとも深海棲艦には赤外線視力がある。広場に残った足跡の体温も遠からず見つかるだろう。

 

 深海棲艦の要塞都市と化したカサブランカで、2水戦は夜陰に乗じて迅速かつ極めて精確な作戦行動を展開した。

 飛行場姫Ⅸや港湾夏姫Ⅱから飛び立った小型の深海棲艦*5による都市区画ごと蹂躙するような空爆で、艦娘たちの手足が飛んだ。海軍ならマークスマンになれる腕前の砲台小鬼の砲撃で防弾衣をぶちのめされて内臓が破裂した。船渠棲姫や戦艦未完棲姫も動けぬ身ながら背水の陣で応戦した。

 

 艦娘たちは負傷するたび明石のいるモスクで治療を受け、失った手足さえも再生させて再出撃した。敵からすれば元海風らは不死者の軍団にみえただろう。

 

 その明石のもとに有明が僚艦の手で担ぎ込まれた。クラスⅣのプレートがずたずただった。破れた腹から傷だらけの大腸が生きているようにはみ出てきて、さらに腸管の破孔は内容物を漏洩させていた。

 

 直後に村雨が搬送されてきた。右腕と両足を失い、止血処置こそ施されているものの失血で顔色が白蠟より白くなっていた。

 

 どちらも一刻を争う状態で、艤装にも損傷があった。有明が「あたしは後だ。村雨を頼む」と明石の腕を血まみれの手で握った。ゆうべ明石のスカートへゼリービーンズを流し込んだ手だった。有明は改二ではなかった。村雨は改二だった。有明なりに優先順位を考えた結論だった。

 

 すると明石は、ものわかりの悪い後輩が何度もおなじことを訊いてきたときのような顔でいった。「わたしをだれだと思ってるんですか?」

 

 艤装の冷蔵庫から、作戦前の交差試験で適合を確認してある赤血球製剤の血液バッグを取り出し、手早く輸血の態勢を整えた。クレーン様の艤装にバッグをそれぞれ吊り下げて有明と村雨に輸血し、ナノマシン入りの生理食塩水を混注し、修復材で治療し、経過観察しながら武器を素早く直した。明石の護衛のため礼拝堂の門で警戒していた元海風は、作業に没頭する彼女の腕がまるで四本あるように見えたことを覚えている。そうして有明と村雨はたちまち同時に元通りの姿に戻り、口々に明石に駆逐艦娘らしい礼を述べながら敵のもとへ復帰していった。入れ替わりにまた負傷者が運ばれてきた。

 

 空が白むころには2水戦はひとりも欠けることなく目標を完遂し、地上の脅威は排除された。あとは沿岸に停泊している戦艦未完棲姫を本隊が艦隊決戦で撃沈するだけだ。元海風たちはハッサン二世モスク内の礼拝堂内で待機した。

 

 作戦司令部を兼ねる母艦からの入電を通信士の高波が旗艦の最上へ伝えた。カサブランカ郊外で警戒していた駆逐ナ級や軽巡ト級などからなる数百隻規模の大艦隊が、ハッサン二世モスクに向け、時速七キロほどで接近しているとのことだった。とても対抗できる戦力差ではなかった。それでも元海風らは楽観していた。イスラーム建築特有の壁や扉を埋め尽くすモザイク画のアラベスク模様とともに礼拝堂で待っていれば、敵がこのモスクにたどり着くまえに上陸部隊が制海権を確保し、合流して内陸へと押し返せるはずだった。

 

 しかし、その本隊は思わぬ蹉跌(さてつ)に陥っていた。試作空母姫、高速軽空母水鬼、複数の空母棲姫改や空母ヲ級改Mk.2といった敵洋上航空戦力の前には、赤城と加賀、蒼龍、飛龍、イントレピッド、サラトガ、ホーネット、ヴィクトリアスなど空母艦娘と、大和、伊勢、日向ら航空戦艦娘らをもってしても、航空優勢獲得はいかんともしがたいものがあった。

 

 というのは、事前の情報と敵の航空戦力にいちじるしい食い違いが見られたからだった。これについては深海棲艦は人類の偵察衛星の軌道計算に一部成功していたとの仮説が提唱されている。

 

 深海棲艦はそれまでの膨大な戦闘で戦域に戦力を集結させる時間を意図的にずらしており、そのつど実際に人類側が投入してきた対抗戦力の規模を確かめていた。そうして「答え合わせ」をし、偵察衛星が当該空域の低軌道へ下りてくる周期を推測。それをもとに〈トーチ作戦〉最終段階開始直前、偵察衛星の最後の偵察結果が出てから次に衛星が上空に現れるまでの間隙をつく形で、地中海に潜伏させていた大規模空母機動部隊をUAVにも見つからないよう隠匿しつつ神速でカサブランカ沖に移動させ、海軍の作戦計画を大きく狂わせたのだった。

 まだ常時監視体制が整うほど偵察衛星が打ち上げられていなかった時期であったとはいえ、深海棲艦が情報戦で人類を出し抜いた特筆すべき事例とされている。

 

 なんにせよ空に不安があるなかでは、大和や武蔵、アイオワ、ワシントン、サウスダコタ、リシュリューにウォースパイトといった味方戦艦の援護射撃と、防空巡洋艦アトランタ、駆逐艦フレッチャーおよび秋月、照月、初月の「傘」とさえ形容された強力な対空射撃があるとはいえ、敵艦隊の熾烈な反撃をかいくぐっての上陸作戦は困難を極めた。空爆だけでなく、カサブランカ沖を埋め尽くす戦艦水鬼や戦艦仏棲姫、重巡ネ級改Mk.2、戦艦レ級、大型駆逐艦ナ級の群れとも干戈を交えねばならない。

 

 後年の証言によると、上陸作戦時にカサブランカ沖の海面は白く煮えたぎっていたという。弾着の水飛沫ではなかった。空中で炸裂した敵味方の対空砲弾の破片が沛然(はいぜん)たる豪雨となって海を叩いていた。無数の鋭利な破片が天空からふりそそいで、海上師団の艦娘たちを海ごと()ち、ときに体や頭や艤装に食い込んだ。

 第3航空群の近接航空支援はなかった。作戦開始直後に陸攻の航路設定ミスが判明し、配置転換に時間をとられていた。

 

 予期せぬ猛烈な迎撃に呻吟し、あてにしていた支援も得られないため、上陸してチーム8と接続するはずだった本隊は大損害をこうむって撤退を余儀なくされた。

 

「つまり、戦術目標は達成できたけれど、敵旗艦を撃滅する戦略目標は未遂に終わったということです。完全破壊した飛行場姫や砲台小鬼も、こちらが再出撃するまでのあいだに敵は問題なく再整備できるでしょう。よくある話ですが、わたしたちは無駄な戦いをしていたのです。おまけに敵地に置き去りでした」と元海風。

 

 無線機の向こうも混乱しており、当時の元海風らに全貌を知る術はなかった。わかっていたのは、沖合にいた敵大規模前衛艦隊と艦載機群が反転して、カサブランカ市を目指しはじめたことだった。

 

 孤立したチーム8は挟撃という最悪の事態に追い詰められた。陸海空から包囲されつつあるモスクは容赦ない砲爆撃でいまにも崩壊の危機が迫っている。もし礼拝堂へ侵入されれば袋のねずみだった。迷っているひまはなかった。

 

 最上が決断を下した。背後の海はすでにダースどころかグロス単位の敵駆逐級で覆われている。むしろ敵の進撃速度が極端に低下する陸路のほうが逃げ切れる可能性は高い。しかも深海棲艦は水源のない陸上での無補給連続行動時間が二十四時間前後だから、内陸へ向けて丸一日撤退できれば成算はある。

 

「逃げるなら前だ。敵陣を中央突破する。衝突上等! 複縦陣。針路を1-5-0にとって最大戦速で戦域を離脱。アトラス山脈めざして突っ走る!」。母艦と協議した旗艦の最上が、このうえなく単純な命令を飛ばしてから不敵に笑って全員を見渡した。「お嬢さんたち、ケツまくって逃げるのは得意だろ?」。これに駆逐艦娘らが雄叫びで応えた。

 

 先陣を切る元海風と玉波が礼拝堂の門から外へ発煙弾を投げた。

 広場に濃い煙が拡散した頃合いを見計らい、艦娘三十七名がモスクから早朝の広場へ飛び出した。煙の壁に沿って走った。

 

 頭上を敵弾が不気味な唸りを残してかすめた。かと思えば走っているすぐ横に砲弾が落ちて破片(シュラプネル)に殴られた。機銃の火線が元海風と玉波のあいだを縫った。元海風らも移動しながら応射した。

 

 轟音が響いて、元海風は主砲を手に走りながら振り返った。

 二〇〇メートルもの高さで天に挑むようにそびえ立っていた尖塔(ミナレット)に、戦艦クラスの砲弾が命中。半ばから折れるように倒壊するところだった。白を基調とした巨塔が青空を背景に元海風たちへ恐ろしく緩慢に倒れこんでくる。ゼリージュ技法で施された塔の精緻極まる透かし彫りのようなターコイズグリーンの細部が次第に明瞭になる。地響き。風圧。

 

 間一髪のところで下敷きにならずにすんだ。だが礼拝堂のすべての出入口が大量の瓦礫に塞がれた。最上の判断があと数秒遅ければ、元海風らは永遠にモスクで祈りを捧げることになっていた。

 

 粉塵を味方にした艦隊はムレ・ユッスフ通り沿いに南下した。かつては港湾都市として栄えた商業ハブであるカサブランカでもさらに指折りのショッピング街として名を馳せた方格(ほうかく)設計の旧市街(メディナ)は、いまや多くの建造物が瓦礫の山に変えられ、深海棲艦の排泄したアスファルトで醜く埋まり、人の姿も絶えて久しい異界の街となっていた。

 

 RWR*6で示される光点が一気に増えた。敵がレーダーで捜索しはじめた。砂塵も煙幕もレーダーには効果がうすい。

 艦娘用RWRの丸い画面は二重の円で構成される。中心が自身を意味し、画面の上方向が十二時方向となる。受信したレーダー波の発信源は光点で表され、方位は特定できるが、中心から光点の位置は彼我の距離を意味しない。外側の円にいる光点は受信が断続的なので危険度が低いことを示す。

 レーダー波を連続的に照射してきている光点は内側に表示される。それはつまり敵に発見され、射撃管制レーダーにロックオンされたことを意味した。だがおびただしい光点はいずれも外側にあった。まだ望みはあった。

 

 とはいえ敵レーダーの探知から少しでも逃れなければならなかった。このまま南進したさきにある、砂糖菓子の宮殿のようなアールデコの聖心大聖堂があるアラブ・リーグ・パークは、ひらけた広大な市立公園なので遮るものが少ない。チーム8は公園の直前でムレ・ユッスフ通りを右に折れ、白い家(カサブランカ)の名のとおり真っ白な外壁の政府機関や商業ビルの残骸が並ぶムサ・ベンヌ・ヌッセール通り沿いに南西へひた走った。直線の細い街路は左右に逃げ場がないため敵爆撃機からすれば好餌にしかならない。それよりも敵レーダーからの遮蔽を優先した。

 

 村雨が敵機にアプローチさせないため、艦隊後上方の空へ間断なく主砲で制圧射撃した。コンタクトレンズの拡張現実で僚艦の背中にその艦娘の残弾数が表示される形で視覚化されている有明が、頃合いをみて村雨の肩を後ろから二回叩いた。村雨が弾倉の交換に入った。そのあいだ有明が空へ弾をばらまいた。リロードの終わって槓桿(こうかん)を引いた村雨が、有明の背後から肩に手を乗せて引っ張るようにして艦隊の進行方向へ後退した。有明が弾倉を撃ち尽くすタイミングで村雨が肩を叩いた。三十六人が一連の動きを繰り返して明石を守りながら戦略的撤退をつづけた。最上は三式弾で効果的に敵機のIP(爆撃発起点)進入を阻止した。

 

 そうしてルー・タハ・ハセイン通りを横切りつつ直進をつづけ、片側四車線ある幹線道路のモアメ・アークトゥニ通りに出る交差点に差しかかったときだった。

 

 発煙弾を投げてビルの峡谷から飛び出て、このモロッコ独立運動の指導者にちなんで名づけられた大通りを横切り、真正面にある傾いた高層アパートと無残に崩落している商業施設に挟まれたアジズ・ベラル通りに先頭の元海風と玉波が突入した。

 

 続いてその後ろを走っていた村雨が、砂塵の充満した交差点北側、つまり艦隊の三時方向から突如姿を現した軽巡ト級と、至近距離で出くわした。いくつもの頭部を持つ小型バスほどの大きさの深海軽巡が反応するより、村雨の発砲のほうが一瞬早かった。遅れて有明と元海風、玉波たちも撃った。ト級はすべての口から銀色に濁った血を吐きながら地響きをともなって倒れた。

 

「やられたわ」。村雨がつぶやいた。砂煙が風で晴れた。元海風にもはっきり見えた。ト級の死体と村雨の腹は一本の黒い管で繋がれていた。ト級がとっさに尾の先端にある悪名高き産卵管を打ち込んでいたのだった。

 

 村雨の腹の内側でなにかが激しく暴れた。数秒で臨月よりも膨れた自身の腹をこの気鋭の改二艦娘は躊躇なく主砲で撃った。胎内に植え付けられて急成長した、人間の女児に昆虫のような頭部を組み合わせたようなおぞましい姿の深海棲艦が三艇、それぞれ村雨の子宮や大腸や肝臓を口に咥えて、腹部から飛び出した。うち子宮を噛んでいた一艇は、即断即決の砲撃で左側頭が砕けて死んでいた。

 

 村雨から生まれたのはシュネルボート小鬼だった。シュネルボート小鬼はPT小鬼の地域変異と考えられている。PT小鬼の外骨格が黒色を呈するのに対し、こちらは灰褐色で体格もやや大型であることで見分けられる。

 

 腹ががらんどうになった改二駆逐艦は、内臓ごと腹筋を失ったために膝から崩れながら、残る二艇のうち片方の首根っこを右手で摑んだ。母体の血をまとった小鬼が掌中でじたばたともがいたが、村雨が死力を振り絞ってその首をへし折った。

 

 三艇めは早くも生成した生体魚雷二本を脇にかかえ、廃墟の市街地を右に左に逃げながら投擲の機会を窺った。深海棲艦は海洋生物や人間の死体を原料として火薬を合成することが知られている。炭素基動物の血中や肝臓から得たβ-グルコース分子をグリコシド結合により重合化したセルロースにニトロ基をつければ、トリニトロセルロース爆薬を合成できる。

 

 また脂肪をグリセリンと脂肪酸に加水分解し、グリセリンを硝酸エステル化するとニトログリセリンになる。

 

 むろん真核生物である深海棲艦は窒素固定作用をもたないため、ニトロ基が三つある物質を作り出せない。しかし体内で共生関係にある原核生物や古細菌の一部は窒素固定を可能とする。深海棲艦はそれらを利用して脂肪を加水分解したエネルギーを使って窒素固定を行い、セルロースとグリセリンをエステル化させ爆薬を生産している。輸送ワ級が運んでいる物資の七割は火薬の原料となる人間や動物の死体だといわれている。

 

 シュネルボート小鬼はト級から受け継いだ共生微生物に、村雨の肝臓から奪い取ったグルコースからトリニトロセルロースを、おなじく村雨の脂肪からニトログリセリンをそれぞれ合成させて、魚雷の弾頭に詰め込んで艦娘たちに熨斗(のし)をつけて返そうとしていたのだった。

 

 その小鬼は多分に漏れず投影面積が小さいうえに動きが素早いので、元海風たちが一斉射撃を行なってもまったく命中弾を得られなかった。小鬼は交差点の北側にあるかつて金融コンサルタント会社だったらしい近代的なデザインのビルの陰に身を隠した。その付近へ元海風と玉波と、クリスチャンの高波が絶え間なく射撃を加えて顔を出せないようにした。ほかの艦娘は対空射撃を担当した。

 

 援護を受けながら村雨のもとへ駆けつけた有明が、白露型の襟首を摑んで明石の待機するムサ・ベンヌ・ヌッセール通りへ引きずって戻った。小鬼がわずかに顔を覗かせては隠れた。

 

 埒が明かないので、瀕死の村雨をいったん街角の建物の陰に安置した有明が、ヘッドセットの無線で最上に声をかけて振り向かせた。にぎった爆雷を示した。建物にへばりつくようにして弾倉を交換した最上が頷いた。小鬼の位置を固定するために最上は制圧射撃の維持を部下たちに指示した。有明は安全ピンを抜いた。三秒数えた。後ろへ大きくのけ反るほど左腕を振り上げた。つまり(・・・)爆雷を握り締めた左手が(・・・・・・・・・・・)陰から(・・・)通りにさらけ出されていた(・・・・・・・・・・・・)。「フラグ・アウト!」。有明のコールが終わらないうちに、元海風たちのヘッドセットはけたたましいRWR警報をかき鳴らした。見ればRWR画面の内側、二時方向に光点がひとつあった。

 

 有明の左腕が爆雷を握ったまま宙を舞った。凄まじい砲声があとから追いかけてきた。腕は足下に落ちた。当然、腹を食い破られて失血死寸前の村雨もそのすぐそばに倒れていた。

 

 分離した掌中で爆雷はなおも点火へのカウントダウンを刻んでいた。有明はすかさず村雨のむなぐらを隻腕でつかんで大通りへと放り投げた。それから爆雷を握る自分の腕に飛びかかって覆い被さった。直後、十五歳の有明の華奢な体が、轟音とともに四方八方へ飛び散った。有明は防弾衣に守られた胴体と艤装だけになった。

 

 元海風は小鬼への牽制射撃にかかりきりだったので見ていないが、いままで元海風がひた走ってきた街路の二百メートル後方、ルー・タハ・ハセイン通りとの交差点北側のショッピングモールの角から、頭に三連装砲を載せた目のない大蛇が覗いていた。

 

 それは重巡ネ級改Mk.2の尾だった。ネ級はいわゆるヒト型深海棲艦に分類される一種で、身体の基本的レイアウトは人間に近い。しかし腰から生えた、それぞれ三連装砲を備えた二本の尾と、二階に頭部がとどく三メートル超の身長が異形を象っている。

 

「ネ改2だって聞こえたとき、冗談でしょって思いました。市街戦では遠慮したい相手です。陸地での機動力は非ヒューマノイドタイプに比べて圧倒的に優れていて、しかも干渉結界は異常なまでに強力でしょう。おまけにレーダーで全周を常時警戒していて、自動的に結界を展開できるから不意打ちの狙撃も完璧に防げる。とどめに主砲の威力はちょっとした戦艦クラス。その三連装砲がしっぽの先端にあるから、隠れながら有明ちゃんの腕を撃ったようなコーナーショットもできる。そのネ級はきっと生きているかぎりわたしたちの撤退を見逃してくれないし、かといって時間がかかればほかの敵、たとえば地を埋め尽くすナ級の群れに追いつかれます」

 

 消耗も重なり、空爆と間接射撃の戦艦砲がふりそそぐなかでは、三十人あまりの2水戦ですらシュネルボート小鬼とネ級はたやすい敵ではなかった。小鬼に隙を与えれば修復材での治療も叶わない威力の魚雷が飛んでくる。元海風らは小鬼を釘付けにするために、かえって釘付けになっていた。

 

 だが、末期の力を振り絞った村雨が、私物の錨鎖をカウボーイの投げ縄のように頭上で振り回して投げた。鎖は芸術的にカーブし、隠れている小鬼の横っ面に先端の錨を食い込ませた。小さな悪鬼の細い腕から魚雷がこぼれ落ちた。爆発が小鬼と隠れていた金融コンサルタント会社の一階部分を吹き飛ばした。

 

 最上が村雨を民家の陰に待機していた明石のもとへ運んだ。そばでネ級との戦いが繰り広げられているなか治療が始まった。明石に腹腔へ流し込まれた修復材が、村雨の体組織をリプログラミングして人工多能性幹細胞に変えた。無限に増殖する自己複製能と、生物のあらゆる部位の成熟細胞に成長できる多分化能をあわせもつその細胞は、同じく修復材に含まれている有機物と無機物を材料に、欠損した臓器を高速で再生させた。

 

 失血も深刻だったので、明石は作戦前の交差試験で適合を確認してある赤血球製剤の血液バッグを冷蔵庫から取り出した。意識レベル確認も兼ねて口頭で本人確認と血液型を照合しながらバッグを振って混和した。輸血ルートの針からプロテクターを外し、自らの艤装をテーブル代わりに水平に置いた血液バッグの輸血口に差し込んだ。そのバッグをクレーン(よう)艤装のフックに吊り下げた。クレンメを緩めてチューブと針の先端にまで血液を導いて、ふたたびクレンメを閉めた。16Gの太い針で村雨の腕の静脈に穿刺したのち、クレンメを開放して輸血を始めた。流れるような手さばきだった。半死半生の村雨の頬に血色が戻っていった。通りからは依然として砲声の応酬が続いていた。

 

 進化を重ねたネ級の干渉結界は、駆逐艦娘どころか、国産重巡としては最強に近い最上の干渉波を付与した徹甲弾ですら運動エネルギーの大部分を奪ってしまい、本体にはかすり傷しか与えられなかった。かまわず最上が引き金を引いた。かちん。徹甲弾の弾倉が尽きた。残るは貫通力のない三式弾が込められた弾倉だけだった。

 

 ネ級はフォトン・リアクティブ・シールドの強度にものをいわせて歩を進めた。特徴的な隻眼が元海風たちを睥睨した。2水戦の必死の攻撃をものともせず、わずかでも隙ができると二本の尾を掲げ、六つの砲口を閃めかせた。そのたびに精鋭の艦娘たちは手足をなくした十代の重傷者に変えられた。

 

 つぶさに観察すれば、そのネ級は異様な風体をしていた。通常、ネ級は脚を甲殻類のような重装甲で覆っている。しかしこのとき元海風らを追ってきたネ級は、病的に白い素足をさらけ出し、かかとの高いサンダルのようなものを履いていた。さらには右手にはひびわれたフロートグラスがあった。下半身に巻かれた黒い布はパレオのようにみえた。

 身にまとったアイテムだけなら、さながらビーチの海水浴客のようだった。元海風はそのさまをみて「吐き気をもよおした」という。

 

 空母棲姫や戦艦棲姫、重巡棲姫など、一部のヒト型深海棲艦は高い学習能力から人間の行動様式を部分的に模倣する習性がみられる。それらの深海棲艦は夏季になると装甲の一部を外し、あるいは傘のようなものを差し、あるいは帽子のようなものをかぶった。夏に肌の露出が多い装いをしてパラソルや帽子を携えて海辺にくる人間をみて学習したものと考えられている。対深海棲艦戦争中も海水浴は世界共通の娯楽でありつづけていた。ときに安全が確保されておらず立ち入り禁止区域に指定されている海岸でも人々は水遊びに興じた。

 

 そのネ級もまた、水着のような恰好をし、どこかの廃墟から手に入れたのであろうグラスまで「装備」して、海にバカンスに訪れた人間の真似事をしていたのだった。

 

 元海風は当時を思い返す。「まるでAIロボットが性行為のまねをしているのを見るような、いちじるしい生理的嫌悪感を覚えました」

 

 水着姿を模するために装甲を外しているとはいえ、やはり結界が強力にすぎて駆逐艦娘や巡洋艦娘の砲撃では歯が立たなかった。

 

「それも当然です。たしかネ改2は、戦艦でさえ、長距離の支援砲撃で轟沈できた例はなかったはずだからです。その強固な結界を突破するには、基地航空隊が肉薄するか、改二艦がそれこそ特攻でもして熱々のお届け物をするかしなくてはいけない。まあ、三連装砲の載ったしっぽ二本の砲撃をかいくぐることができればのお話ですけれど」

 

 そのためネ級改Mk.2は姫級と同様に、体温を隠蔽したうえで夜闇にまぎれて近接し、付与した干渉波が可能なかぎり最大値に近い状態で砲弾と魚雷をたたきこんでようやく有効打を与えられるかどうかという難敵だった。

 

 治療を受けていた村雨が意識を取り戻した。起き上がるなり、凄まじい形相で「殺してやる」といった。

 村雨が重傷者たちと入れ違いに対ネ級の戦列に加わった。稼働可能な改二艦は村雨と最上だけだった。「村雨、やれるか?」。陰から撃つ最上が上を指さしながらいった。村雨は自身の魚雷発射管をたしかめて、返した。「やるなっていわれても」

 

「いけ!」。村雨は解き放たれた猟犬だった。大通りの交差点にある傾いた高層アパートのエントランスへ飛び込んだ。最上は元海風や玉波ら八名にネ級への射撃を命じ、それ以外の艦娘に対空射撃の継続を下令した。

 

 深海棲艦は鉄壁の結界を展開しているあいだは自身も攻撃ができない。それを利用して間断なく射撃を加えながら元海風らは後退をつづけた。

 碁盤の目状の区画を回り込んでネ級の背後をとった別の艦娘たちの射撃も、自動的に結界で防がれた。むしろネ級は自分がシールドを張ったことで後ろの敵に気づいた。

 

 ネ級の二本の尾が前後それぞれに指向した。戦艦砲に準ずる威力の発砲だった。ビルの白い壁や塀を薄紙のように貫通した砲弾は艦娘たちを吹き飛ばした。

 

 そのうち一発が、元海風の前方の建物の物陰から射撃していた高波の腹に直撃した。十四歳の小さな体が後ろへ吹き飛んだ。しかも通りのど真ん中に倒れた。ネ級が狙いをさだめた。

 

「援護を!」。元海風が飛び出した。玉波を筆頭に仲間の艦娘がネ級を弾幕で牽制した。結界を張っているかぎりネ級自身も結界に阻まれて砲撃できない。元海風は通りを駆け抜け、仰向けになって動かない高波のもとへ駆けつけた。襟首を掴んだ。ひきずりながら容体を確認した。防弾プレートはネ級の徹甲弾の前には温められたバター同然だった。明石のもとまで装備込みで総重量三〇〇キロ近い高波を牽引しなければならない。高波は指一本動かなかった。

 

 砲声の入り乱れるなか、元海風は高波を引っ張りながら語りかけた。「ねえほら、重いんだから起きてよ、そうだ、あなたの愛読書にわたしの好きな一節があるの――“されば心正しき者の行く道は、心悪しき者の利己と暴虐によって行く手を阻まれるものなり。愛と善意の名によりて、暗黒の谷より弱き者を導きたる、かの者に神の祝福あれ。なぜなら彼は兄弟を守る者、迷い子たちを救う者なり。主なる神はこういわれる、わが兄弟を滅ぼそうとする悪しき者たちに、わたしは怒りに満ちた懲罰をもって大いなる復讐を彼らになす。わたしが彼らにあだを返すそのとき、彼らはわたしが主であることを知るだろう”……」。途中で高波が血の混じった咳をした。「長すぎかも、です」。そのとき、三発の砲弾が元海風と高波を襲った。

 

 制圧射撃は続けられていた。それでもネ級が結界の向こうから攻撃してきた。ネ級は艦娘たちの砲撃に対し、シールドを正確に「点」で展開することで、射撃を防ぎながら反撃を可能とした。それでも深海重巡の命中精度に多少なりとも影響を与えることはできた。

 

 しかし不運は幸運より出しゃばりだった。たまたま一発が元海風の胸に直撃した。胸郭が粉々に砕けたうえに一瞬とはいえ心停止した。後ろへ倒れてヘルメットに防護された後頭部を路面に激しく打ちつけた。数秒で意識を取り戻したが、プライマリの主砲が手から離れていた。敵味方の砲弾が飛び交うなか、元海風は起き抜けのようにふらつきながら姿勢を低くして高波の無事を確かめようとした。高波が見当たらなかった。高波の体も艤装も目の前にあるのに、それが愛すべき敬虔なクリスチャンの夕雲型だとすぐに気づけなかったのは、高波の顔が下顎しか残っていなかったからだ。

 

 救出を断念した元海風は仰向けのまま後ろへ這いつつセカンダリの機銃をネ級へ撃った。反撃の徹甲弾ですぐそばの路面が爆ぜた。元海風は砂が目に入りながらも引き金をひいた。とっくに弾切れになっているのに引き金をひきつづけ、空撃ちのむなしい音を響かせた。一方でネ級の砲弾が元海風の右脚を膝から切断した。運よくバイタルパートを外れただけだ。次こそは急所に当たる。そう思えば、無意味とわかっていても、頭を庇って赤子のように丸くなるしかなかった。

 

 つぎの瞬間、元海風は襟首を掴まれ明石のいる陰へ引きずられた。玉波だった。全損した胸郭と破断した脚を修復材で治療されながら、元海風は機銃に新しい弾倉を込めようとした。しかしアドレナリンの反動で手が震えてなかなか弾倉挿入口に装填できなかった。

 

 ネ級へ射撃できる艦娘が一時的に最上だけとなった。いかに体内の寄生体が極限まで増殖した改二の重巡といえど、ひとりでネ級の侵攻を押しとどめることは不可能だった。かといって対空射撃組から人員を割けば敵の空爆を許してしまう。何発かネ級に射撃したあと最上はきびすを返した。主砲をハイレディにして脱兎のごとく駆けだした。

 

 大通りを渡り切ったあたりで砲声が弾けた。三発が最上の背中の艤装を粉砕して防弾プレートに音を上げさせた。最上は何度も路上を回転して倒れた。からくも立ち上がって走り出したが、傾いた高層アパートの前でふたたび倒れた。

 

 最上が振り返るのと、ネ級の足が降り注ぐのは同時だった。鉄のサンダルが体重を乗せて最上の腹に食い込んだ。内臓が次々と潰れ、肋骨と骨盤が軋んで砕けた。

 

 ネ級は、この唯一自分の結界に対抗できそうな重巡艦娘を標本の昆虫のように地面へ固定し、最優先で排除しようとしていた。最上の顔面に左手で指をつきつけた。二本の尾が足元の艦娘へ向けられた。三連装砲二基が最上の顔に狙いをつけた。

 

 身動きできない最上は内臓出血を吐きながらネ級を見上げた。そのさらに後方、青空を遮る倒れかけたアパートを仰ぎながら、笑った。「これが立体攻撃さ、三隈」

 

 斜塔と化した高層アパートの四階から、村雨が身を投げた。白露型三番艦は魚雷を手に、直下のネ級めがけ、念入りに手入れした亜麻色の髪を翼のようになびかせて降り注いだ。

 

 空中で魚雷を振り下ろした。だがネ級の後頭部に弾頭が触れる直前で結界が展開された。レーダーと連動している自動防御システムだった。ネ級はそこでようやく空から思わぬ伏兵が降ってきたことに気づいた。振り仰ぎ、村雨を脅威と認識して結界を一極集中させた。

 

 互いの干渉波が食い合った。村雨とネ級のあいだで七色の火花が水しぶきのように散った。依然としてネ級が優勢だった。深海重巡の左目、わずか数センチメートル手前で魚雷は五彩の防壁に阻まれて、それ以上進めなかった。ネ級改Mk.2の結界を総動員されては干渉強度が理論値の状態の村雨改二ですら相殺には至らない。

 

 ネ級に踏まれたままの最上が発砲した。回復した元海風や玉波もネ級へ集中砲火を浴びせた。むろん結界が自動ですべて防いだ。それこそが元海風たちのねらいだった。ネ級の結界出力が分散した。村雨に対する結界がそのぶん弱体化した。自動でシールドを展開する鉄壁があだになった。

 

 薄くなった結界を村雨の干渉波がついに突破した。魚雷がネ級の隻眼に突き刺さった。悶える三メートルの巨人の首にとりついた村雨は、こぶしで魚雷の尾部を叩いて半ばまでおしこんだ。よろめいてアパートにぶつかったネ級が、尾を自分の頭ごと村雨にたたきつけた。敢闘した白露型は二階ほどの高さから地面に倒れて転がった。

 

 ネ級は視界を失ったがレーダーがあった。電磁波で仇敵を捜したヒト型重巡が尾の主砲を脊椎損傷で立てない村雨に向けた。白露型が突き刺した魚雷は着発ではなく時限信管だった。起爆するころには村雨もこの世にはいない。

 

 しかし圧搾の拘束から解かれた最上が、踏み潰されて薄くプレスされた腹から黒い血をこぼしながら村雨をかばうようにして間に入った。

 深海棲艦といえども攻撃する瞬間、自身の射線には結界を展開しない。最上は盲目のネ級が撃つより早く、ネ級の眼窩から触角のように生えている魚雷へ向けて三式弾を撃った。瞬発信管でばらまかれた焼夷弾子は海水浴客に擬態した敵重巡の顔をこっぴどく焼いた。さらには魚雷の炸薬を叩き起こす特大の目覚ましとなった。

 

 ネ級の頭部が一瞬、大きく膨れたかと思うと、内側から爆発四散した。頸動脈から噴きあがった石油臭い雨が降った。手にしていたグラスが落ちた。首のなくなった深海重巡がゆっくりと倒れた。

 

 だれも勝利の声はあげなかった。ナ級の咆哮が砂煙の向こうから轟いた。各員が明石から分配された修復材を使って失った手足を再生させ、必要なら輸血を受けた。まだ快癒しないうちから最上がてきぱきと指示した。元海風たちは残弾が心もとないことを確認した。出発。「置いていけ!」。有明の胴体と高波を連れて行こうとした明石に最上が怒鳴った。明石はふたりをその場に置き、敬礼した。

 

「それだけの苦労をしたのだから、きっとこの三十五人は助かる、そうでなければおかしいと思っていました。みんなそうだったと思います」と元海風が回想する。「撤退を再開して、南に進むにつれて、間接射撃や空爆でひとりまたひとりとやられていきました。あんなにかっこよかった村雨ちゃんも、撤退に成功するか、そうでなければ劇的な死を迎えてしかるべきだったのに、たまたま頭上に砲弾が落ちてきたから死んだなんて、あまりにもかわいそうで……まだ十六歳だったのに。ネ級のときのように敵が目の前にいるなら打開策はあります。でも、見えないところから砲弾を落とされたのではどうしようもありません。カサブランカ市外に出るころには、艦隊はわたしと玉波、最上さん、明石さんしか残っていませんでした」

 

 煤と砂埃と血とオイル、それに服の色が変わるほどの汗で汚れに汚れた四人は、やはり廃墟となっているアンテルナショナル・ド・カサブランカ大学のキャンパスで砲身や弾倉の交換がてら小休止をとった。日陰となる三階建て学生寮の外壁に並んでもたれかかって黙々と作業に没頭した。右から元海風、最上、明石、玉波。順番に意味はない。元海風はなにも考えず右端に腰を下ろした。細胞レベルで染み付いた歩兵の心得として、一網打尽にされないよう間隔だけは大きくとった。

 

 学生寮の建物が揺れた。腐卵臭が降りてきた。残弾数を確かめていた元海風は振り仰いだ。屋上からナ級の一隻が艦隊を見下ろしていた。

 

「ぽんっ」。それはナ級が背中の発射管から生体魚雷を射出する音だった。

 真下へ放り出された魚雷は三階ぶんの鉛直距離を穿って、最上と明石のあいだに落ちた。秒速八〇〇〇メートルの爆風がふたりの身体を叩きのめした。

 

 炎が最上を焼き、破片が太ももをざっくりと切り裂いた。衝撃波がその脳をぐらぐらと揺らした。高過剰圧で肺胞が破裂し、呼吸音が隙間風の音になった。

 

 明石は全身を骨折し、手足があらぬ方向に曲がり、体のあちこちから骨が飛び出していた。膝窩動脈がねじ切れたらしく、千切れかけた右ひざから音を立てて血が砂地へこぼれた。ショック症状を起こしかねない失血量だった。また爆発の衝撃波で飛び出した右目が、視神経の尾を曳いて地面に転がった。眼球は砂まみれになった。

 

 奇襲から立ち直れずにいるところへ、屋上からナ級の巨体が落ちるように降りてきた。それから動けない明石を「見た」。全長七メートルの深海魚に一本角のような砲身を生やしたような外観のそのナ級は、瀕死で動けない明石ににじり寄り、その何重にも歯が生えそろった巨大な顎に捉えた。

 

「ヘッドセットは、不意の爆発音や大きな音はカットして、人の声はよく聞こえるようにできているでしょう。だからナ級に生きたまま食べられる明石さんの悲鳴が、とてもクリアに聞こえました。まるで耳元で叫んでいるみたいに」

 

 ナ級の口腔内で明石の背負った艤装が歪み、骨が砕け、湿った肉が凄まじい力で噛み潰され、筋繊維が引きちぎられる音。そのあいだからナ級に懇願する二十二歳の明石の叫び声が、ヘッドセットで明瞭に補正されて響いた。「ごめんなさい!」「痛い痛い痛い!」「お願いだからやめて!」「許してください!」。何度か咀嚼されると意味のある言葉は紡がれなくなり、ナ級が噛むたびにうめき声が漏れるのみとなった。やがてそれも聞こえなくなった。

 

 ナ級が食後の爪楊枝のようになにかを吐き出した。砂色の広場に転がったのは、明石の艤装に備え付けられていた、血まみれの無残に変形したクレーンだった。

 

 それを元海風は遠目に見ていた。三人は明石が捕食されている隙に退却していた。頭部からの出血を何度も拭い、咳き込みながら繰り返し鮮血を吐く最上は、大火傷を負った左半身から絶えず黄色い体液を滲ませた。脳震盪でまともに立てる状態ではなかった。それでも指揮を継続した。

 

 カサブランカ市外に出ると、まるで線でも引かれているかのようにとたんに建物がなくなり、平坦な草原が続く。艦隊はボウスクーラの森に入ることにした。三〇〇〇エーカーもの広大な国有林で、ユーカリの木が鬱蒼と密生しているためレーダーのノイズに紛れ込める。その森から出て一キロ東にはメディウナの旧市街がある。敵航空機も元海風らを見失ったのか、もしくは早朝からの戦役で燃料切れになったか、視界に入る機体はまばらになった。いきおい弾着観測も不完全で、元海風たちが森を駆けるあいだも敵戦艦群がめくらめっぽうに撃つ砲弾がまるで見当違いな場所を耕していた。よほど運が悪くなければ直撃は受けないだろうと思われた。

 

「森が終わるよ。ここからメディウナまではなにもない。括約筋を引き締めていけ!」。爆傷肺の最上が先頭を走って元海風と玉波を強力に牽引した。そのとき、極微の偶然をくぐりぬけた大型砲弾が隕石のように空から落ちてきて、最上の足元で爆発した。

 

 玉波が土を吐きながら周囲を警戒し、元海風が吹っ飛んだ最上へ駆け寄った。

 

 十数時間前に十七歳になったばかりの艦隊旗艦は、右膝から下が消失し、右わき腹を大きく食いちぎられていた。腰椎と脊椎が露出しており、ほとんど体が上下に離れかけていた。腹腔の大きな創部から毒々しい色合いの臓器が溢れた。心拍に合わせて血潮が体のあちこちから何本もの放物線を描いた。息はまだあった。しかし元海風が抱き起して呼びかけても、その目はすでに現実を映していなかった。最上は不規則で浅い呼吸のなか、「家に帰りたいよう。お母さんのごはんが食べたいよう」と、うつろな目から涙を流しながら細い声で訴えた。弱い吐息を最後に呼吸が止まり、目をひらいたまま全身から力が抜けていった。

 

「残ったのは改二でもないわたしと玉波だけ。地図は頭に叩き込んでいたので、エレメント*7のリーダーとして、玉波といっしょに、廃墟の街を上手く活用して敵の目を逃れながら、カサブランカの南に霞む遥かなアトラス山脈の方角に向かって、とにかく走りました。強化外骨格があるとはいえ、二六〇キロの艤装を背負って、口のなかがサハラみたいにからからになりながら。だから、長波さんに教えてもらった、あの愉快なかけ声を思い出して、それを叫びながら走ったんです――ほら、“乳首! 擦れて! 痛い!”っていう――玉波も唱和してくれて。敵は海のある北のほか、東、西からわたしたちを包囲しようとしていました。戦車みたいに砂煙をもうもうと巻き上げるからすぐにわかります。南だ。とにかく南に逃げるんだ、最上さんが命令したように。無我夢中でした。目指すべき目標があればどんなに疲弊していても体は動きます」

 

 幸運なことに、聞き慣れた双発機のエンジン音が降り注いできた。

 

「わがほうの陸上攻撃機部隊です。一式陸攻や銀河が、巻き上がる粉塵の上へつぎつぎ爆弾を落としていくのが見えました。あのときほど基地航空隊が頼もしく思えたことはありません。わたしたち上陸部隊の撤退を援護するために、司令部が虎の子の飛行機を出してくれた。その事実は、追っ手を片付けてくれる以上に、わたしたちの五体を賦活させ、鼓舞する力がありました。かつて戦艦娘の陸奥だったという統合幕僚副長が、統幕長経由で第3航空群航空司令に強力に働きかけ、空から支援してくださったのだそうです」

 

 航空優勢も約束され、UAVが上空から元海風と玉波を見守った。

 

「正直にいいます、そのときのわたしは、大勢の仲間を失ったことよりも、自分と玉波がこの死地から生きて脱出できることの喜びのほうがまさっていました。わたしも玉波もほとんど競争するようにして南進を続けました。いまでは艤装なしでももうあんなに走れないでしょうね。ほとんど砂で覆い隠されてる国道九号を南下して、メディウナという街に入りました。低い建物ばかりの住宅街でした。きっと安心しきっていたのでしょう。気が緩んだ。国道沿いにさらに走ろうとして、わたしはいやしくもリーダーとしてあやまちを犯してしまいました」

 

 元海風が声を詰まらせる。太陽が雲に隠れ、喫茶店の窓外がにわかに暗くなる。記憶の墓土を掘り起こす元海風が、そこで眠っていたむくろの変わり果てた姿に怯えたように、座ったまま小さく身じろぎする。

 

「まさか、深海忌雷が、あのいまいましい忌雷が、陸上で、(たこ)のように周囲の風景に擬態して待ち伏せしていたなんて、想像もしていませんでした」

 

 ある白い二階建ての崩れかけた建物の前を通り過ぎようとした。そこの瓦礫に擬態して休眠状態にあった深海忌雷は神速で玉波の足に触手を絡みつかせ、彼女が倒れるよりも早く起爆した。

 炸薬量にすれば手榴弾ほどだった。玉波の足だったものが隣の元海風にへばりついた。あたりは土煙でなにも見えなかった。元海風は砂塵が目に入るのもかまわず地べたを這いずり回って手探りで僚艦を捜した。「玉波! 玉波!」。やっと見つけた玉波は、両足が極端に短くなっていた。

 

「止血しましたが、玉波の顔がどんどん青白くなって、呼吸も乱れるばかり。修復材もない。内臓破裂の疑いが強く、場合によっては開腹手術が必要になる。そう直感したわたしは母艦の軍医に繋ぐよう司令部に要請しました」

 

 上空の無人航空機が黒煙を避けながら高度三万フィートから撮影したフルハイビジョン映像を、六〇〇キロ離れた大西洋上の輸送艦に中継する。それを見ながら艦の軍医が無線で元海風に指示をだすかたちで手術がはじまった。母艦座乗の艦隊司令と艦長はこんなやりとりを交わしたという。「海風と玉波はなにをしてる?」「手術してます」「戦場のど真ん中でか!」

 

 元海風は追想しながら苦悩を滲ませる。「2水戦の教育課程で応急処置は習っていましたが、オペなんてとても。しくじれば玉波は死にます」

 

「手術に必要なものは持ってるか?」。無線機から男性軍医の声が届いた。「IFAKとナイフ、それに洗濯ばさみだけです」「最高だ」「外傷は両足の破断。こちらはターニケットで処置ずみ。しかし腹部に複数の創あり。顔にチアノーゼ。意識レベルはGSCでE3V5M4の12。血中ナノマシン保有数十八.二二パーセント。大破と認定」「確認した。内臓損傷の可能性がある。管腔系または実質系もしくはその両方に破片様の異物の創があると判断する。一刻も早く設備の整った病院への搬送と、腕のいい医師が必要だ」「了解。どちらも品切れです」「そこときみがそうなるしかないな」

 

 その裏では艦隊司令が第三部長作戦運用担当に命令を飛ばしていた。「CASの第二波攻撃を繰り上げ要請。海風に敵を近づけるな」

 

 周囲で爆音と爆煙と爆轟が巻き起こるなか、玉波の野戦手術が始まった。手術台は舗装が剥がれてむき出しになった地面。照明は無影灯ではなく午後二時の北アフリカの太陽。「腹壁切開し、損傷した臓器を目視で確認、縫合で止血する。正中縦切開。炙ったナイフで切開するんだ」。軍医の指示に従った。私物のナイフ。「傷口に手を入れて広げる。手を使って鈍的剥離を」。玉波の華奢な腹を縦に押し広げた。開腹。血の海に沈む多種多様な内臓が元海風を迎えた。

 

「これでどんな大男も受け入れられるわね」。元海風が洗濯ばさみを曲ペアン鉗子代わりにして皮下脂肪部分の止血をしながら声をかけた。意識を失えば玉波はもう二度と目を覚まさない。「あまり面白くありませんね」。無麻酔でしかも血中ナノマシンを出血で大量に失っているため、マスキングのない痛覚が脳髄を直撃してマウスピースを食いちぎらんばかりに噛み締めながら玉波が返した。

 

 どの臓器が損傷しているか、生理食塩水で術野の血を洗い流して確かめた。横行結腸と下行結腸が破れていた。空腸に穴が開いていた。膵臓が破裂していた。左肺が破れて空気が漏れていた。肝臓の右葉が破片に切り裂かれて半ば千切れかけていた。軍医の教えるとおりに縫合した。終わった。だが玉波のバイタルはまだ悪化しつづけた。

 

「脾臓では?」。軍医に元海風は脾臓を摑んだ。ぱんぱんに膨れていた。深海忌雷の破片が食い込んでいるらしかった。摘出しなければならない。「脾臓が破裂しないように。破裂したら六十秒で死ぬ。脾臓には動脈が繋がってる。腹腔動脈から伸びているやつだ」「了解。脾動脈に触れました」。玉波の体内をまさぐっていた元海風が軍医に報告する。「脾臓への血流を止めるんだ」。血管を洗濯ばさみで挟んだ。

「破片をそっと引き出して」。そこで無線が途絶した。司令部に問い詰めた。反応はなかった。無線機のバッテリーが尽きていた。

 

 元海風は緊張と恐怖に震える手で、慎重に玉波の脾臓から破片を抜き出した。黒い鉄片。手の親指ほどもあった。やった、と思った。やり遂げた。味方の援護に守られながらの野戦手術をやり遂げたのだ。

 

 つぎの瞬間、元海風の顔に爆発的な血しぶきが散った。

 掌中の脾臓が破裂していた。元海風の握り拳より大きかった脾臓が、温かい血をだくだくと吐き出して、空気の抜けた風船のようにたちまちしぼんでいった。出血はなおも止まる気配を見せなかった。

 

 脾動脈は挟鉗できているはずだった。動転して脾臓を小さく持ち上げた。裏に赤黒い軟組織がへばりついて、脾臓と腹膜や腸管に癒着しているようだった。そのぶよぶよの塊は、指の腹で軽くふれただけで急速に血を滲ませた。血流が豊富だった。

 

血管新生(けっかんしんせい)です」と元海風は元長波に話した。「玉波は脾臓に腫瘍があったんです。あとでくわしく映像を検証した軍医からお聞きしました。玉波本人も知らなかった。腫瘍は自分で血管をつくって周囲から栄養を引き込もうとすることがあります。わたしは脾動脈の血流だけを止めました。でも脾臓には腫瘍により、裏口から血が流れ込んでいた」

 

 そのことを知る由もない当時の元海風は、玉波の小さな体のどこにこれほどの血が隠されていたのかというほどの大量出血に、ただうろたえるばかりだった。

 

「六十秒でしょう? 煙草を吸わせてください」。元海風とは対照的に、玉波本人は仰臥(ぎょうが)のまま冷静にいった。

 

「ちがう、まだ助かる、まだなにか方法が、ああ神様」。脾臓はなおもおびただしい血を吐き出しつづけた。元海風は血しぶきを浴びながら脾臓を手で圧迫するしかなかった。このときの元海風にとって、玉波に煙草を吸わせることは、すなわち自身の敗北にほかならなかった。直属の部下を助けられなかったと、運命に白旗を上げて投了することだった。認めるわけにはいかなかった。負けを認める駆逐艦娘はいない。ましてそれで仲間が命を失うのなら。元海風は意味のない声を上げながら脾動脈を指でつまんだ。だが両足のない玉波は青黒くなった唇を動かした。「恨んだりしません。だから煙草を」

 

 元海風はわずか迷った。のちの人生でいつまでも悔やむことになる迷い。「わかった」。ようやく決心した元海風は血まみれの手で懐から幸運の煙草を取り出し、玉波に咥えさせた。防水マッチに火をつけた。

 西の海から風が吹いた。火が消えた。

 もう一本のマッチを灯した。火を手で守りながら玉波の口元に近づけた。

 玉波の唇に煙草は挟まっていなかった。顔の横に落ちていた。玉波の開かれた瞳は何も見ていなかった。

 

 マッチの軸が燃え、指を焼いても、元海風は目が半開きのまま動かなくなった玉波をじっと見つめていた。そうしていればいつか玉波が動き出すのではないかと、半ば本気で思った。

 

 爆音が元海風を現実に引き戻した。元海風はナイフで玉波の左前腕を手早く切断した。かつては横領という不祥事を隠すために切り落とした玉波の腕。あのとき腕はただの肉だった。こんどは遺骨を日本に持って帰るために断ち切った。この場合、腕がむしろ玉波の本体といえた。元海風は「玉波」を手に走った。そう思わなければ、玉波を置いて逃げるうしろめたさに足首を摑まれ、敗走する速度がいくらか遅滞しただろう。

 

 元海風は深海棲艦の執拗な追撃の手を逃れ、基地航空隊の戦闘機に護衛された陸軍のティルトローター機に回収された。任務部隊でたったひとりの生存者だった。母艦で軍医から「見落としたわたしの責任だ。それに、最高の医師でも難しい手術だった」と慰められた。

 

「わたしはどこかうぬぼれていました」元海風は元長波に悔いを覗かせた。「素人のくせに、本職の医師と同じように手術して、玉波を鮮やかに救って、ふたりとも生還できると疑っていなかった。でもそんなことなかった。わたしは、特別でもなんでもなかったんです」

 

 元海風は喋りつづけた口を癒やすためにカフェオレを一気に飲む。

 

「せめてあのとき、もっと早く玉波に煙草を吸わせてあげていれば」

 

 僚艦の最期の頼みすら聞き届けてやれなかった自分を、元海風は憎んでいる。いまでも憎んでいる。

 

 艦娘たちは海を見てきた。戦争を見てきた。だが彼女たちは艦隊を構成する一個の部品にすぎなかった。銃のレシーバーやハンマーやボルトが戦争の結末を見ることがないように、艦娘たちも自分の仕事が戦況に与える影響を見ることはなかった。

 

 代わりに見たのは「なあ、おまえも長波だろ。連れて行ってくれよぉ」と涙を流して懇願する、手足のない長波だった。「あたしを食ってくれよ」と虫の息で頼む深雪だった。海水を飲んで歯茎から赤黒い血を流し、幻覚に誘われて落伍する巻雲だった。ピンクの水柱になったポーラだった。足首だけになった清霜だった。

 あるいは深海棲艦の群れに囲まれて「ママ……」と叫ぶ風雲だった。全身が火に包まれる早霜を見た。ハ級に泣きながら食われる親潮を見た。頭部を敵の砲弾に打ち砕かれ、首なしになってもまだ生きているかのように海面でのたうち回って暴れる神風を見た。平均年齢十五.八歳の少女たちを率いていた、先日十七歳になったばかりの頼れる勇ましい艦隊旗艦が、だれの目から見ても助からない傷を負い「家に帰りたいよう。お母さんのごはんが食べたいよう」と泣きながら息を引き取るのを見た。

 

 元長波や元海風は家に帰ってきた。帰ってからも戦争は終わらなかった。勝利し、戦後になっても終わらなかった。終わるはずがない。戦争は終わらないのだ。

 

「いまおまえがしていることを見せてくれないか」

「ええ、ぜひいらしてください」

 

 元海風は杖を突いて立ち上がろうとする元長波に手を貸す。二十年以上も前に沈んだ最後任の涼風(すずかぜ)がすぐそばに立っているのに気づかないふりをしながら。

*1
防衛省職員信用金庫。防衛省職員の組合員が利用できる信用金庫。

*2
〈トーチ作戦〉以前に米国第61、62および69任務部隊ならびに英国・フランス・ドイツ・イタリア海軍を主軸とする多国籍軍による四度の反攻作戦をすべて退け、そのおそるべき性能と、当時まださらなる改装と強化を図っているという偵察結果から、畏敬の念を込めてこのコードネームがつけられた。日本海軍がこの深海棲艦に奇跡的な勝利を収めることができたのは、多国籍軍が度重なる攻勢で敵の兵站ともども少なくない損害を与え、彼女の「完成」を遅らせていた点も大きい。

*3
損傷をドックに似た浅深度の営巣地で修復中の深海棲艦、とりわけ鬼級や姫級に付与されるコードネームで、特定の個体を差す名称ではない。堅牢な掩蔽壕を思わせる巣に守られている場合が多く、撃沈には三式弾や大口径徹甲弾の使用など特殊な対策を要する状態であるために区別された。本作戦で2水戦の迎撃にあたった船渠棲姫は、多国籍軍との戦闘で負傷した姫級の大型駆逐艦(軽巡説あり)が「入渠」していたものと思われる。

*4
イスラームの礼拝堂。

*5
飛行場姫、港湾夏姫はともに、飛翔可能な航空機型や、食料の運搬、滑走路様の営巣地の構築と修復などを担当する繁殖能力のない職蟻のような深海棲艦と、それらを大量に生産する一体の女王により構成される。個体というよりコロニー全体で「飛行場姫」や「港湾夏姫」という深海棲艦を構成している群体といったほうが近い。カサブランカで確認された飛行場姫は通算九体目だったためⅨの、二体目だった港湾夏姫はⅡの呼称番号が付与された。

*6
Radar Warning Receiver. レーダー警戒受信機。

*7
水上班(二隻編成)の通称。

原則として艦娘はこのエレメントを最小単位として運用される。

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