栄光の代償・元艦娘たちが語る対深海棲艦戦争(GHK出版新書)   作:蚕豆かいこ

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三   熱い氷

 初冬の澄んだ日光のもと、ネオンを消した昼の歓楽街は化粧を落とした女のように物憂い顔を見せている。街には取引先の店が閉まっている日中に合い鍵で納品する業者の姿しかない。その一隅(いちぐう)に元海風が元長波を案内する。五階建ての自社ビル。元海風の経営する管理会社だ。元長波がオフィスに通される。社員たちが自分の仕事にかかっている。指が短いものもいる。元海風と同様に薬物中毒者も多い。

 

 元海風が社内にいた十四、五名ほどの社員らに元長波を紹介する。元長波は「十代のうちに煙草吸ってたって人?」と挙手しながらいたずらっぽい笑みを投げかける。ほとんどの社員が照れ笑いしながら手を挙げる。

 

 そのひとりに水を向ける。「何歳から?」

 訊かれた男性社員が答える。ろくでなしだ。「六歳です」

「負けた」元長波が額を手で押さえて天井を仰ぐ。「マウントとろうと思ってたのに。ちなみにわたしは十三歳から」

 大仰な嘆きに、社員たちは笑う。元長波にすぐに親しみを覚える。

 

 オフィスを見渡せる自分の椅子に座った元海風がろくでなしに声をかける。「きょう来る大学生の子らね、将来サツカン(警察官)になりたいんですって」

 

 ろくでなしは複雑な表情を見せる。

 

「やっぱり微妙?」

「微妙っていうか、僕はいいんですけど、向こうがどう思うかですよね」

 

 ろくでなしが刑務所内のテレビで見たように、元海風の会社はいくつかのメディア取材を受けている。過日の報道を見た県外の大学の法学部矯正社会学教授から打診があった。「活動を知って非常に感銘を受けた。社会復帰支援は、特定の団体等に任せきりにしておけばいいものではない。社会全体ひとりひとりが、元犯罪者の社会へ戻ろうとする努力と意志を受け入れることが肝要である。それを身をもって学習するため、フィールドリサーチの一環として、ぜひ学生たちを御社に体験入社させてほしい」。元海風は快諾した。学生たちはきょうの昼前にくる。

 

 ろくでなしも、前科前歴はおろか補導の経験すらない清廉潔白な大学生たちのOJT(実務を通して行う職業教育)は未経験だ。元海風はそんな彼に大学生数人の班をひとつ任せることにしていた。

 

「なんでわざわざ前科者を雇おうと?」

 

 社員らが仕事に戻るのを見計らって元長波が訊くと、狭い事務所で元海風は丸椅子を勧めながら「現在の刑法では再犯を防げないからです」と答える。

 

「不景気もあってか、再犯率は年々上昇しています。昨年は五十.一%で過去最高に」

「へえ。2水戦なら百%に近かったけどな」

 

 刑法犯の検挙数そのものは減少の一途をたどり、戦後最少を更新しつづけている。犯罪者のリピーター化をどう防ぐかが新たな課題だ。

 

「仕事を通して他人と関係をむすび、自分は社会の一員なんだと実感する。それがない人間は、みじめな生活のなかで社会への憎悪を泥のように溜めていく」と元海風。「そういう人にとって、自分以外の他人はすべて同一の存在です。そしてつねに他責的です。みじめな境遇はすべて社会のせい。無関係な赤の他人、それこそ、その日はじめて会った人であっても、にっくき社会を構成する一員なのだから、その人を傷つけることは社会への正当な復讐だと考えるようになるんですね。他人や社会は自分を守ってくれなかったのに、なぜ自分が守ってやらなければならないのか。論理としては破綻しています。しかし一人の殻に閉じこもっていると、指摘してくれる人もいないから、自分が狂っていることに気づけず、殻のなかで自らの怨嗟の声が反響し増幅しつづけて、自分自身に煽られ、ある日突然爆発するんです」

「江戸の敵を長崎でとはいうが、本人にとっては筋が通っている?」

 

 元長波に元海風が頷く。

 

「ですから、再犯を防ぐためにも、仕事という受け皿、社会との結びつきは、絶対に必要なんです。仕事で感謝され、お礼をいわれる環境が」

 

 元海風は時間を確認する。出かける。元長波も同行する。

 市内の公民館。その一室に、長机を並べて参加者たちが談笑しながら元海風を待っている。

 

 元海風は会社経営のかたわら、薬物更生支援団体の代表も務めている。きょうは月に一回の総会の日だった。前回の総会から一か月、薬物を使用しなかったことを全員で報告しあい、互いにたたえ合う。構造は海軍転換艦隊総合施設のPTSD治療プログラムに似ている。

 

「どうですか、一か月、クスリをやらなかった気分は?」

 

 元海風の問いに、だれもが複雑な笑みを見せる。「正直しんどかったです」ひとりの言葉に場が笑いに包まれる。

 

「わたしもじつは、しんどかったです」と元海風。「クスリをしないっていう意志に、脳のCPUの大部分が使われちゃって、そのせいで目の前のやらなきゃいけないことに取り組めなかったり。ほんと、しんどかった」

 

 元海風が語りかける。参加者たちは聞き入る。信頼関係がある。

 

「いまのわたしは、一か月しんどい思いをした過去のわたしの成果だけをいいとこどりしています。なぜなら、しんどかったって、過去形で語っているでしょう? きょう一日耐えれば、あしたのわたしは、きのうのわたしが耐えた成果だけがもらえる。しんどさを過去の自分に押し付けてるわけです。過去の自分なんて、もうこの世のどこにもいないんだから、なんの罪悪感もありません。むしろ、がんばってくれてありがとうっていいたくなる。でしょう? あした、いいとこどりができるように、あしたの自分に感謝されるように、きょうをがんばってみよう。その思いで毎日戦っています」

 

 元長波は、自分以外の2水戦はそうしてセルフコントロールしてヘル・ウイークを耐えたのか、と初めて理解する。

 

 ひとりの参加者がいう。「シャブはやめていますが、抗不安薬を処方してもらっています。飲むと不安がきれいさっぱりなくなって、晴れやかな気持ちになれます。でも、その代わり、ぼくの精神や自我、魂は、薬という化学物質に簡単に左右されるマテリアルの産物にすぎないというむなしさが、ぼくの心を支配するようになりました。そのむなしささえ、抗不安薬が効いているあいだは気にならないのです。効果が切れると、ぼくの心は薬で組み替えられる程度のもので、しょせんは単なる現象なんだ、自分を特定する絶対不変の“個”なんてないんだ、なら自分とはなにかと、思い悩むようになります。だから効果が続くようにずっと抗不安薬を飲んでいます。この場合、薬を飲まない、自然な状態が本当の僕なのか、それとも抗不安薬を服用するという外的要因によって苦悩から解放されている状態が本当のぼくなのか、前者ならぼくは自己の尊厳を保つために、苦しみを甘受してでも薬を飲まずにいるべきなのか、ずっと葛藤が続いています。本当の自分とはなんなんでしょうか」

 

 それに元海風はゆったりとした口調で答える。

 

「本当の自分なんてものはね、ありません。だって、紀元前から数多の哲学者が、人生のすべてを捧げてその命題に取り組んで、なお答えが出ていないんです。なのに、どうしてわたしたちごときがその真理に到達できるでしょう? むしろ不遜とさえいえますね」

 

 元海風がいったん区切る。

 

「それでもあえていうなら、水を思い浮かべてください。水の化学式はH₂Oですよね。H₂Oの本当の姿とは、なんでしょうか。固体の氷なのか、液体の水なのか、気体の蒸気なのか。どれもH₂Oであることには変わりありませんね。それと同じです」

 

 噛んで含ませるようにゆっくり語りかける。

 

「薬を飲んで不安から解放されているあなたも、薬が切れて不安にさいなまれているあなたも、どちらもあなたです。水蒸気が雨になって降り注いで、川から海へ流れ、あるいは極寒の地で氷になって、溶けて海へ流れ、また蒸発して雲になる。すべて水です。沸騰させれば水蒸気になるし、冷えれば水や氷になる。あなたも薬のあるなしで状態が変化するだけで、あなたであることには違いありません。そして、あなたは自分には不変の“個”がないとおっしゃいましたが、薬を飲んでいるときと、飲んでいないとき、どちらにも共通する“個”があなたにあることを、わたしは知っています。あなたも知っています。わかりますか?」

 

 問いかけに、質問者はわからないという意味の笑みを見せる。

 

「それは、シャブをやめようとしていることです」と元海風はいう。「薬が効いているあいだも、薬が切れているときも、あなたはシャブに手は出すまいと戦っています。とても素晴らしいことです。シャブの誘惑を断ち切りつづけているあなたは、本当のあなたではないのでしょうか? みなさんはどう思いますか? シャブと戦っている彼は本当の彼ではないと?」

 

 参加者らに問うと、何人かが口々に「いいえ」と返事をする。「勇気をもって、もっと大きな声でいってあげてください」元海風に、質問者以外の全員が「いいえ」と声をあげる。

 

「もう二度とシャブは使わないという誓いを守り続けている彼は、本当の彼ではないと思いますか? そこに抗不安薬の有無は関係ありますか?」

 

 それに参加者らはさらに確信をともなった大きな声で「いいえ!」と答える。

 

 元海風は質問者にほほえむ。「これが答えです。たしかに人間の自我や感情は科学的には神経の発火にすぎないのかもしれません。でもあなたはシャブを使わないという意志を貫きつづけている。もうすでにあなたは絶対不変の“個”を手に入れていたのです。その意志を持ち続けているかぎり、あなたは本当のあなたでいられます。いっておきますが、これは呪いです。シャブの魔力に負けたとき、こんどこそあなたは自己を定義するために依って立つものを失ってしまうでしょう。それがわたしたちの戦いです。一生終わらない。一生続く。だから一生あきらめない。ここにいるみんながそうです。だから、みんなで戦いましょう。ひとりで戦うのではなく、人を頼りましょう。きょう一日をしのぎましょう。本当の自分を失くさないために」

 

 質問者はなんども頷く。

 

 元長波は、元海風の圧倒的なパワーに気圧されつつ感心している。むかしから元海風はその細い体からは想像もできない胆力の持ち主だった。違法賭博の借金がかさんだ後輩のために架空の領収書をいくつも経理に出し、露見しそうになるや基地をあずかる提督と面と向かって「この件が明るみに出て提督の経歴に傷をつけてしまわないためにも、どうかお力添えを」と、まるで他人事のような口ぶりで揉み消しを要求する艦娘だった。

 

 その元海風が参加者らにいう。「毎回いっていますが、もしどうしてもクスリを入れたいって思ったら、どうせやるのなら、わたしの目の前でやってください。最後までわたしが見ていてあげます」

 

 そう締めたのち、参加者らの近況報告やとりとめのない話が交わされる。総会が終わる。また一か月後に会おうと全員が全員と握手する。塾生はいずれも総会を楽しみにしている。

 

「すごいな。教祖さまじゃん」

 

 会社への帰り道、元長波に元海風が吹き出す。

 

「人間は多かれ少なかれ、なにかに依存していないと生きていけない生き物なのかもしれません。仕事だったり、趣味だったり、話の通じる人間関係だったり、パートナーだったり。むかしは依存先を伝統宗教が提供なり仲介なりしていたんじゃないでしょうか。薬物に溺れる人って、依存先に飢えている場合が多いんです」

「含蓄があるな」

「あの塾生たちもそうです。悩みを相談する相手もおらず、依存先を求めて、手当たり次第に探していたら、クスリと出会ってしまった。だから薬物中毒から抜け出すなら、クスリよりも価値があると思える新たな依存先を与える必要があります。依存という椅子になにかを座らせてあげないといけない。わたしの塾の人間関係が、その空位を埋められればいいのですが」

 

 いっぽうで塾は諸刃の剣だ、と信号待ちをしながら元海風は元長波にいう。「だって、カスタマーが一か所に集うんですから。売人からすれば狩り場ですよね」

 

 任せていた塾長が参加者らに違法薬物を売っていたこともある。薬物は遠ざけようとしても向こうからすり寄ってくる。同一罪名での再犯者率第二位は窃盗で、二十%強。しかし一位の覚醒剤取締法は七十%と突出している。薬物の底なし沼から抜け出すことがいかにむずかしいかがこの数字に表れている。

 

「わたしはあそこでよくシャブを引いていました*1

 

 歩きながら、元海風は金沢堀川新町高架下を指さして元長波に教える。かつて夕方になるとそこにおでんの屋台がきた。とても食べられたものではないまずいおでん。具を特定の順番で注文するのが覚醒剤を注文する暗号だった。ごくまれになにも知らない酔ったサラリーマンが偶然その暗号の頼み方をしてしまって、覚醒剤の入ったパケを渡され、一気に酔いが醒めてそそくさと逃げる一幕も見られた。一斉摘発前は金沢市内でドラッグの売買が横行していた。昼間の交番のすぐ横でも堂々と売人が客と待ち合わせをした。

 

「もうその屋台はありません。プッシャーを市内で見ることもありません。手入れは大きなハンマーとなってこの界隈の薬物犯罪を粉々に打ち砕きました。でも撲滅できたわけではありません。砕かれた薬物犯罪は、細かい無数の破片となってあちこちに飛び散り、見えないところでいまも生き延びています」と元海風。

 

 刑法犯の検挙数が減少傾向にあるなか、薬物事犯の検挙人数は毎年一万人あまりで横ばいが続いている。そのうち六割強が覚醒剤事犯だ。石川県も例外ではない。まずいおでん屋が使えなくなってもネットで注文できる。社会が便利になれば犯罪も巧妙化する。そして、えてして犯罪は真っ当な社会よりも優しい顔をしている。

 

 元海風は会社にとんぼ帰りする。大学生たちが元海風の会社に訪問する時間が迫っている。学生らが来社した。元海風は応接室に通させる。主立った社員らとともに対面する。この日訪れた学生はいずれも三年次で二十数人。みな若さにあふれた顔をしている。戦争を知らない顔。男女の比率はほぼ半々だ。女性が艦娘になる選択肢など想像もせずに高等教育を受けられる時代なのだと、元長波は感慨を覚える。

 

「受刑者のうち、二十五%ほどは行く当てがないまま出所の日を迎えます」

 

 あいさつののち元海風が学生たちを見渡していう。

 

「四人にひとりが、どこでどうすればいいのかわからない状態で刑務所から出て、住むところも、身元引受人もない。住所がなければ定職にも就けませんよね。服役中の刑務作業による報奨金、お給料のようなものを出所時にもらえるのですが、だいたい一年の服役で二万円あるかないかにしかなりません。下手をすれば、それが全財産です。その軍資金が尽きるまえに住むところを探し、就職先を探し、新しい生活をスタートさせなければなりません。無理ですよね。でもスマホで闇バイトを探せば、一回の強盗で日当何万円かもらえる。その日一日のことだけを考えるなら、真面目に生きるより犯罪のほうがコストパフォーマンスが高いんです。捕まればそれはそれで寝食はなんとかなります。だから、受刑者が出所したら次の日からでも働ける場所を作って、もう二度と塀の向こうに戻したくない、そういう思いで協力雇用主をやっています」

 

 間を置く。女子大学生のひとりが小さく手を挙げる。元海風は促す。

 

「報奨金は平均で月四千円と聞いたのですが。一年で五万円ほどになるはずですが」

「たしかにそういう統計はあります。平均はとても稼いでいる一部の人が数字を引き上げてしまうので、みんながみんな月にそれくらい稼ぐわけでもないんですね」

 

 元海風は軍よりも長くいた刑務所の刑務作業について説明する。

 

「まず、作業熟練度によって受刑者は1等工から10等工までランク分けされています。数字が小さいほど作業単価も高くなります。入ったときはみんな10等工です。問題を起こさず作業成績がよければ上がっていきます。そもそも刑期が短ければランクがじゅうぶん上がる前に出所になります。作業にも分類があります。わかりやすくいうと、エリートのA作業、物品を製作するB作業、工場には出ずに自分の房で行なう内職のような最底辺のC作業」

 

 これらのランクと作業分類によって報奨金が変わってくる。元海風が刑務所にいた時代は入ったばかりの受刑者は10等工でC作業に従事することが多かったが、これだと報奨金は月七百円ほど、時給換算で四円となる。

 

「稼いだ報奨金も、日用品や、手紙を書くための筆記用具や切手、あと下着なんかを買うのに使うこともありますから、あまり残らないんですね。これで外に出されても社会復帰はむずかしいです。ただでさえ社会と適合しなくて犯罪に走ったわけですから。ある意味で、犯罪者は障害者なんです。障害者っていうのは、本人に障害があるという意味ではなく、生きていくうえで社会に障害が多い人という意味ですからね。ふつうの人ならいろんなお仕事が選べる。でも犯罪者という障害者は選択肢が少ない。その選択肢をひとつでも増やそうとしているのが、この会社です」

 

 こんどは男子大学生が手を挙げる。胡乱な目をしている。

 

「出所しても帰る家がないとか、仕事がないとか、それは自業自得というか、好きで犯罪をしたのがそもそもいけないんじゃないでしょうか。犯罪をしていたときはいい思いをしていたのですから、その後の人生で人並み以上の苦労をして、ようやく帳尻が合うとぼくは思います。出所者を雇用した協力雇用主には、法務省と厚労省の連携により、ひとりあたり年間七十万円もの助成金が支給されています。社会がまず救済すべきは被害者であって、加害者をあまりに甘やかしすぎではないでしょうか。犯罪者はもっと罪と向き合って、仕事がないのは自分のせいだと反省しなくてはいけないのではないですか」

 

 元犯罪者の社員たちと元長波は、笑いながら「おお」と口を揃え、大学生の勇気を賞賛する。

 

「それは非常に率直で、正直な気持ちだと思います」

 

 元海風も微笑みながら答える。

 

「犯罪なんかせずにまじめに生きている人がいちばんえらいんです。なにかやむにやまれぬ事情があって罪を犯した人もいますが、ただ遊ぶ金ほしさに人を傷つけたという犯罪者もたくさんいます」

 

 再犯を防ぐだけならじつは簡単だと元海風は語る。

 

「犯罪者を片っ端から死刑にするか、終身刑にすればいいんです」

 

 しかし現実はそうはいかない、と元海風が付け加える。厳罰化はある程度の犯罪抑止力を強化するが、一定以上のラインを超えるとむしろ逆効果になってしまうかもしれない。飲酒運転の量刑を死刑と定めれば、飲酒運転で人身事故を起こした運転手は、どうせ捕まれば死刑なのだからと逃走するようになるかもしれない。その運転手は、飲酒運転が死刑でさえなければ救護義務を果たしていたかもしれない。被害者も一命をとりとめたかもしれない。この場合、厳罰化が運転手にひき逃げを促し、事故をひき逃げ事件へと凶悪化させたといえる。そう元海風はいう。

 

「また、刑務所の収容能力や人手や予算にも限界があります。ですから犯罪者は基本的に、更生して社会に帰って働き、納税者になってもらわなければなりません」

 

 そこで元海風はいったん言葉を切る。質問した大学生の顔を覗きこむ。

 

「おじいさんとか、おばあさんとかいますか?」

 

 大学生は、県内の叔父宅で祖母が暮らしていると戸惑いながら答える。

 

「刑務所に再犯を防止する機能がさほど期待できないことは、元受刑者の再犯率が五十.一%、つまり犯罪者のうちふたりにひとりが再犯者という数字を見ればわかってもらえるかと思います。また、再入率*2でいえば、有職者に比べ、無職者は四倍近く多いんですね」

 

 犯罪者も死刑や獄中死でなければいつか必ず出てくる。社会に戻ってくる。三食面倒を見てくれた刑務所と違い、自分で生活費を稼がなければならない。そのとき、住むところも仕事もなかったら? その日食べるものもなく、面接もつぎつぎ落とされて、どうしようもなくなったとき、SNSで高収入を謳う闇バイトの求人を見かけたら? 応募してしまうかもしれない。

 

「そうして強盗の実行犯をやらされて、あなたの叔父さんの家に押し入って、ひとりで留守番していたおばあさんに危害を加えるかもしれません」

 

 元海風の語り口には、実際にそういった事例を見てきた者に特有の波形がある。男子学生もわずかに目が動揺する。

 

「悪いのは犯罪者本人です。けれども、定職に就いていれば防げたであろう犯罪ですよね。ですから元犯罪者に仕事と居場所を与えて、人並みの生活をさせること、これが再犯を未然に防ぐ、おそらく最も現実的で、期待値の高い方法なんです。加害者を甘やかしているように見えているかもしれませんが、それはじつは新たな被害者を出さないために必要なことなんです。あなたのおばあさんのような、何の罪もない弱者を犯罪から守るために」

 

 噛んで含ませるようにいう。「それに」と元海風はつづける。

 

「被害者の救済と、加害者の支援は、けっしてゼロサムの関係ではありません。それらはまったく別個の問題だからです。大昔の海軍と陸軍みたいに予算を奪い合う関係ではありませんから。わたしはわたしにできることとして、協力雇用主として、元受刑者の社会復帰支援をさせていただいています」

 

 男子学生は、理性では理解できるが感情面で納得できないという顔だった。それが人間として正しい反応だと元長波は知っている。大半の人間はふだん論理的に思考していない。だから純粋に合理的な思考から導き出された結論はしばしば非常識なものとなる。

 

 たとえばシャングリラ事件に端を発する〈ネビルシュート作戦〉は、報復の面がいささか否定できない拙速で非合理的で非生産的な作戦だった。だが断行された。主権者たる国民の報復感情と政府への不信を政権は無視するわけにはいかなかった。ゆえに理のために報復合戦という情緒的な作戦がとられた。

 

 情緒は合理的ではないが、情緒をないがしろにするのも合理的ではない。それは司法もおなじかもしれない、と元長波は思う。

 

「社長の会社をぼくらもテレビで見たんですけど、せっかく社長に雇ってもらったのになんども裏切るどうしようもない人がいたじゃないですか。助けてほしいなら、ちゃんとせいいっぱい手を伸ばすべきなのに、受け身に徹するどころか助けてもらう自覚もない。そんな更生する気がない人まで面倒を見る義務が、果たして社会にあるんでしょうか?」

 

 男子学生が言い募る。

 

 そのとき放送された特集では、元海風が金沢刑務所に迎えに行き、再雇用するも窃盗を繰り返して同居人の銀行口座から三十万円を詐取したあげく行方をくらませた男性の話題も出ていた。放送後にテレビ局の公式アカウントが動画サイトに投稿した同番組のコメント欄には、その男性に対する罵倒が並んだ。甘ったれたくず。社会のゴミ。やたら自分の不幸を呪っているが、おなじ境遇でもまじめに働いている人もいる。性別や家庭環境や不運や社会制度や政治のせいではなく、ただ単にこいつ個人が無能で怠惰で邪悪で向上心がないくそ野郎なだけ。救う価値はない。

 

 それらのコメントのなかには元海風をなじる言葉も混じっていた。犯罪者とかいう精神の奇形児を更生できるなどと本気で信じている、頭のおめでたい艦娘あがり。

 

「努力して立ち直って真人間になる、という構図はとても美しいものです。だれだって、支援するならひたむきに努力する人間に手を差し伸べたいと思います」

 

 と述懐する元海風が、忸怩たる思いを込めているように元長波には思える。

 

「けれど、本当に支援を必要としているのは、努力できない人間、あなたのいう更生する気のない人間なんです」

 

 五年再入率を出所事由別で見ると、仮釈放だったものは三十%、満期出所者は四十八%となっている。仮釈放が叶う者より、満期でないと出られない者のほうが出所後に再犯しやすいということを意味する。

 

「模範囚にもなれないような人を面倒見切れないから好きにしろと放っておいても、なんのプラスにもなりません。本人にとっても、社会にとっても。支援したくならないような人こそ、真に社会が支援しなければならないのです。助けてほしいと手を伸ばしてくる人しか救わないのでは本当の解決にはなりません。受け身に徹していたり、こちらの手を払いのけようとするなら、襟首を掴んででも、無理やり正しい道に引きずり出す、それくらいの傲慢さも必要だと思っています」

 

 それから元海風は訊ねる。「刑務所や少年院に見学に行ったことがある人、いらっしゃいますか?」

 

 手を挙げるものはいない。彼らのゼミでは刑事施設への見学は四年次となっている。

 

「荒くれものが幅を利かせる無法地帯を想像しているかもしれませんが、実際には少し違います。受刑者には、境界知能とよばれる人たちが多くいます」

 

 厚労省が定める知的障害の三要件は、

 

 一、知能検査によって確かめられる知的機能の欠陥

 二、適応機能の明らかな欠陥

 三、これらふたつが発達期(おおむね十八歳まで)に生じること

 

 とされている。このうち知能検査ではIQ70以下が知的機能の欠陥にあてはまる。

 境界知能とは、知的機能がIQ70から84に該当し、知的障害というほど知的欠陥があるわけではないが平均を大きく下回る、知的障害者と健常者のあいだにいる存在となる。

 

 本当の知的障害者ならある意味で周囲の理解も得られ、公的支援も受けられる。しかし境界知能はグレーゾ―ンに属していて法的に知的障害とは診断されない。そのため教育や福祉の支援に繋がらず、社会的孤立・経済困窮に陥るケースが多く認められる。

 

「みなさんのクラスメイトにもいませんでしたか? 知的障害とまではいかないけれど成績が低く、スポーツも苦手で、手先も不器用で、自分の話ばかりして、しかも面白くなく、理解力がないのにそれを相手の説明の仕方が悪いと責任転嫁し、プライドだけは高くて、頑固で怒りっぽく、乱暴で、なにかにつけ周りを不愉快にさせ、気が利かず、自分からは仲間に入りたいとはいわずに誘われるのをただ待つだけで、幼稚で、仕草が不自然で、清潔感がなく、顔つきもどこか変で、いじめられていても同情する気が起きない、生理的に受けつけられない、気持ち悪い子」

 

 大学生らは顔を見合わせる。即座に否定はしない。それが答えだ。

 

「誤解のないようにいっておきますが、境界知能だからといって必ずしも犯罪者になるわけではありません。彼らの大半はまじめに生活している善良な一般市民です。これからお話しするのはあくまで傾向の話です」

 

 元海風は前置きしたうえで、

 

「境界知能の人は、日本では全人口の十四%いるといわれています。七人に一人ですね。だからみなさんも今まで何人かは出会っているはずです。ところが昨年度の新受刑者に占める境界知能の人の割合は三十六%にも上ります*3。つまり刑務所には人口比の二.六倍もの境界知能がいることになります。一例を挙げます」

 

 ひとりひとりの目を見ながら語る。

 

「その男性受刑者は殺人と死体損壊遺棄などの罪で服役していました。八歳の女の子を誘拐し殺害したのち、バラバラにしてごみ袋に詰め、可燃ごみの日に出しました。そのごみ袋は彼が普段から生活ごみを捨てるのに使っていました。自分宛ての郵便物まで入っていました。年金事務所や市役所からの催告書とかも。だから死体を遺棄したのがだれかすぐにわかって逮捕されました」

 

 大学生たちは信じられない顔をしている。

 邪魔にならないように部屋の隅で聞いていた元長波もおなじ顔になる。そいつはばかなのか?

 

「彼がそんなすぐばれるような真似をした理由は簡単です」と元海風。「死体と同じごみ袋に自分の名前が入った郵便物が入っていたら捜査の手が及ぶ、それが想像できなかったからです」

 

 その犯人は精神鑑定の過程でIQが境界知能の範囲内にあると診断された。境界知能の人間は、死体と一緒に自分の生活ごみを詰めたら犯人だとばれてしまうという簡単な未来予測、因果の予想、論理の組み立てさえもがむずかしい。よって後先を考えることができない。

 

 犯人の男が取り調べや裁判で語ったところによれば、車を運転していたら、たまたま被害者の女の子を見かけ、好きになったので車に乗せようとした。抵抗されたので首を絞めて気絶させ、自宅で性行為に及ぼうとした。すると目が覚めた被害者に騒がれて、静かにさせるために殺してしまった。とりあえず当初の目的を果たすため遺体を犯したあと、運びやすいようパーツごとに分解して、ごみと一緒に捨てた。なかったことにしたかった。

 

「最初から最後まで、衝動的で場当たり的な行動に終始しています。これが五十歳近い成人のしたことです。そんな人がまともに就職などできるはずがありません。境界知能は、日常生活も犯罪も満足に遂行できない人たちなのです」と元海風はいう。

 

 その幼女殺人犯の裁判では、裁判長に「自首しようとは思わなかったか」と質問された男はにやにやと笑いながら「自首ってなんですか」と訊き返し、説明されると「そんな制度があったなんて知りませんでした」と答えた。一般常識を知らない四十九歳。それが境界知能の人間を端的に表していた。男が終始にやついているのでいら立った裁判長が注意する一幕もあった。

 

 最終的に男は責任能力ありと判断され、無期懲役に服している。無期懲役の仮釈放審理は刑執行後三十年が過ぎた受刑者しか対象とされない。男もおそらく残りの人生のほとんどを塀の内側で過ごすことになるだろう。

 

「受刑者にはそんなふうに知能に問題がある人がたくさんいます」元海風の声が響く。「いわゆるヤンキーとよばれる人たちにも境界知能のケースが多く見受けられます。境界知能は目先のことしか認識できないといいました。だからヤンキーとか暴走族とかは、法律は守らないのに仲間との友情を大切にし、地元の先輩のいうことは守る。彼らの知能では、目の前に実際に存在するミクロで単純で具体的な関係しか認識できません。社会という、もっとマクロで、複雑で、抽象的な概念は理解できないんです。見えている世界がひどく狭いから、先輩やその地域を取り仕切っている反社にいわれたらそれが正しいことだと思い込む。法律などという形のないものが、目の前にいる怖い先輩より強いとは、どうしても思えない。ある日、その先輩に命令されたとおり万引きをする。盗んできましたというと、よくやった、これでおまえも男だ、と褒められる。うれしい。そうしていわれるまま犯罪を繰り返し、気づけばそのさらにバックにいる暴力団や半グレの使い走りとなって、受け子や強盗の実行犯になり、人生を搾取されてしまう」

 

 学生たちは聞き入っている。元海風は彼らに訴えかける。

 

「境界知能の受刑者に共通しているのは、一見すると礼儀正しく、おとなしいということです。殺人や強盗、強姦といった凶悪犯罪の犯人ですら、面会に行ってみると、好青年そのものという印象を持つ場合が多いです」

 

 女児を殺してばらばらにした男も、元海風の面会時には礼儀正しかった。というより「礼儀正しすぎた」。笑顔が仮面のようだった。詳しく話していくと違和感が次々に表出した。まず語彙が極端に貧困だった。また、あいさつの声は大きくはきはきとしているが、世間話のように高度で複雑な会話となると発語が不明瞭になった。元海風は訊いてみた。「自分をどんな人間だと思いますか」。男は自信満々に答えた。「優しい人間だと思います」。元海風は「でも、あなたは幼い女の子を殺した罪でここにいるわけですよね。それは優しい人間のすることでしょうか」と重ねた。男はにやにやしながら戸惑った。それからしばらく悩んで「うーん、違うんですかね」といった。

 

 おそらく男は周囲の人間の行動を表面的にコピーして過ごしてきたのだと思われた。礼儀正しく振る舞っていると褒められるからそうする。あいさつは毎日使うし、だれに対しても同じ定型文でよいのでいつも弾倉に装填できている。だが相手の機微を読み、時と場合により使い分ける必要のある世間話となると、ストックがないため空撃ちになる。自分を優しい人間だといったのも、おそらく子供のころに親にいわれた言葉をそのまま持ち出してきただけで、本当に自分を客観的に見つめて下した評価ではない。にやにやしていたのは、だれかと会話しているときには人は笑っているものだと学習し、まねをしているだけで、悪意があるわけではない。

 

 すべて他人の言葉と行動を咀嚼もせずに模倣しているだけで「礼儀正しく振る舞うのはなぜか」「人はなぜ笑うのか」「いまは笑うべきか」という、健常者なら息をするようにできる掘り下げと判断をしたことがない。それを可能とするだけの知能がその男には欠けていた。男なりに「ふつうの人間」になろうとして必死にまねをしてきたのだろう。しかし結局は表層をなぞるだけで本質を理解していないため、独力では善悪すら判断できず、結果的に子供を殺めるという罪まで犯すこととなった。

 

 元海風はその男と会話していて、カサブランカで遭遇したネ級を思い出していた。水着とサンダルとフロートグラスで人間のまねをしていた深海棲艦。グラスにはなんの飲み物も入っていなかった。「なにをする道具か」も考えず、ただ擬態をしていただけ。男もまた人に擬態した何か別の生物に思えた。

 

 それは自分もおなじだと元海風は思った。ふつうの人は、親類縁者が並んで「おかえり」と帰還を喜んでくれているベランダに花火など打ち込まない。元海風もまた戦争で「人の姿をした何か」になってしまった。そこから元の人間に戻るには、人間のふりをしなければならなかった。どんなときにどんなふるまいをすればいいのか、パターンを覚えて再現する必要があった。ときとして自分があの水着姿のおぞましいネ級とおなじに感じられた。

 

 だから元海風は境界知能の犯罪者も決して生きる価値がないとは思わないようにしている。たとえ、元海風に「被害者の女の子はあなたのことをどう思っていたと思いますか?」と訊かれた男がにやにやしながら「喜んでいたと思います」と答えようとも。

 

 境界知能だけでなく、人によってはさらにADHD(注意欠陥多動性障害)やASD(自閉症スペクトラム障害)などの発達障害、パーソナリティ障害の併発も絡んでくる。ひとくくりにはできない。個人個人を正確に診断し、適切な支援プログラムを組まなくてならない。しかしある程度の共通点は見られる。

 

「彼らは謝罪を“ストレスになる話題を終わらせるための言葉”と認識している場合が多く見受けられます。自分の非を認めるのではなく、謝ったからもういいだろう、という意味ですね」

 

 ゆえに、こんな会話が交わされることになる――「どうしてこんなことをしたのですか」「すみません」「すみませんではなく、理由を訊いています」「いや、だからすみませんっていってるじゃないですか。謝ってるのになんでおなじことを何度も訊いてくるんですか。もういいじゃないですか、謝ったんだから」。過失のストレスと向き合い、正直に非を認め、再発防止策を提示し、場合によっては損害を補償することで誠意を見せるには、忍耐が必要になる。忍耐には知能が要求される。彼らにはそれがむずかしいため、ストレスからの逃避行動として「すぐに謝ってその場を乗り切ろう」とする。謝ることの本質を理解していないし、できない。

 

 ほかには、と元海風がいう。

 

「それまで接してきた人が、みんな自分を攻撃してくるか気持ち悪がるかばかりだったため、彼らは他人を信用することを知りません。支援の手を差し伸べると、彼らは拒みます。“いままでだれかに相談して解決したためしがない。だからもういい”と」

 

 わたしもだ、と元長波は思う。退役後、戦争体験に起因するPTSD(心的外傷後ストレス障害)やTBI(外傷性脳損傷)の苦しみを、元長波の家族はだれも理解できなかった。元長波には、理解されてたまるか、という気持ちもあった。戦争に行ったこともないやつになにがわかる、と手を払いのけた。だから元朝霜に連れられた復員艦娘病院で、「きちがい病院」への入院を勧められても、最初は断った。元長波が戦後になって学んだ数少ないことのひとつが、他人や社会に期待するだけ無駄だということだった。結局無駄だった。元通りには戻らなかった。もういいや。なにもかも。二十年前、支援プログラムを卒業した日、元長波はそうして他人との繋がりを絶った。

 

 元海風の話は続いている。

 

「総じて自分自身の人生をあきらめているから、立ち直ろうとする気持ちもありません。むしろ進んで自分を壊したがっていることさえあります。本人としてはセルフネグレクトでぼろぼろになることで、おまえたちが構ってくれなかったから自分はこんなふうになってしまったんだぞと、社会に見せつけて、罪悪感を味わわせてやりたい、ざまあみろといいたい。すねている、といってもいいかもしれません」

 

 元海風は学生たちに理解する時間を与える。それからふたたび口を開く。

 

「みなさん、いままで学校で出会った境界知能と思われる同級生を思い出してください。気持ち悪い子や、粗暴な不良少年たち。その人たちが、罪を犯し、反省の色も見せず、出所後にその人の知能に見合った職業を斡旋してあげても、そんなきつい仕事できないとわがままをいう、あるいはもっと楽に稼げる仕事を探してこい、役立たず、とののしる。国から協力雇用主の奨励金をもっといっぱいもらっているだろう、全部よこせと怒鳴る。他人をどこまで信用していいかわからないから、支援者にあれもこれもと要求し、とことんまで甘える試し行動に出る。がまんの限界に達した支援者に諫められると、じゃあもう働いてやらないと不機嫌でこちらをコントロールしようとする。自分には才能があるはずだからと勉強も努力もしない。それでいて性欲は旺盛で、おまけに認知の歪みもあり、異性は自分に言い寄られたらみんな喜ぶものと思っている。断られると、裏切られたと勝手に勘違いして怒り狂う。あまつさえ、また衝動的に事件を起こす。そして謝罪しない。でも、見放すわけにはいかない。彼らをこそ支援しなければならない。――これが、加害者支援のひとつの実態です」

 

 学生たちは言葉もない。

 

「深海棲艦のほうが楽ですよ。殺せばいいだけですから。何度裏切られても、唾を吐かれても、信じなければいけないっていうのは、深海竹棲姫よりも強敵です」

 

 元海風は自身が参加した作戦で最も難攻不落を誇った敵の名をあげた。深海棲艦と比べられた社員らも苦笑をもらす。

 

「それに、わたしも元とはいえ犯罪者ですからわかるのですが、境界知能も健常者も関係なく、犯罪加害者は基本的に自分を加害者だと思っていません。むしろ被害者だと思っています」

 

 法の学徒たちが意表を衝かれた顔を並べる。

 

「人は自分が加害者という事実に耐えられるよう設計されていません。たとえば殺人の加害者は、相手は殺されても仕方がないくらい非があったのであって、部外者が結果だけ見て勝手なことをいうなと思っています。あおり運転の加害者は、向こうが先に割り込んできたとか、のろのろと遅く走るとかしてこちらを挑発してきたから仕返ししてやっただけだと思っている。いじめの加害者は、いじめを当然の権利だと思っているから、大人しくいじめられない被害者に対し、権利を侵害されたと思っている。自分が困っていたときにはだれも何も助けてくれなかったくせに、自分が法に背いたときに限って警察が飛んできて、したり顔で説教して、法の裁きを受けさせるのはアンフェアだと思っている。犯罪者のメンタルとはそういうものです」

 

 元海風はそう説いて、

 

「ですから反省しようがありません。自分が悪いとはみじんも思ってないんですから。なのに反省させられると、自分だけ理不尽な目に遭ったと思い、さらに被害者意識が強くなります」

 

 想像してみてください、と続ける。

 

「相手のほうからから先に殴ってきて、身を守るために殴り返した、すると喧嘩両成敗で、自分も相手と同じ罰を受けさせられたとしたら? 納得いきませんよね。そうして怒りと憎しみが募り、自分より弱い人間にぶつけて発散することで、自己の尊厳を取り戻そうと考える。反省させるとは、そういう危険な人間を育てることと同義といえます」

 

 しかし警察も裁判も刑務所も、弁護士さえも反省を求める。反省すればその場はしのげる。減刑も期待できる。であれば犯罪者からすれば、裁判官や看守の前では本心を隠して反省しているふりをするのが最適解となる。

 

「なぜその犯罪者が罪を犯したのか、根本的な原因を司法は解決してくれません。その加害者が貧困から犯罪に手を染めたとして、反省させたって、お金の心配はなくなるわけじゃありませんよね。少なくない犯罪者が、裁判や刑務所では反省している様子を見せるのに再犯を繰り返すのは、こんなロジックがあるからです。反省させるのは無駄どころか、有害でさえあります」

 

 元海風に元長波は無言で共感する。ふたりとも現役時代は重営倉の常連だった。反省を営倉から出るためのパフォーマンスとしか捉えていない。

 

「はっきりいいます、うちの会社にはご存じのとおり元受刑者の社員が大勢いますが、反省することをわたしは彼らには期待していません。口ではなんとでもいえるからです。わたしはただ仕事を与え、働きに見合った給料を与え、キャリアを与え、居場所を与え、互いに承認しあう仲間を作ってもらっています。こんどまた犯罪に手を出せば、それらすべてが失われる。まじめに仕事をしていれば稼げていたであろう収入も、服役中は月給数百円になる。その恐怖心を抑止力にするしかない。失うものがある人間は、自分のためにこそ再犯を思いとどまろうとするはずですから」

 

 その言葉に社員らは動じていなかったが、学生らには戸惑いが見られた。悪いこと、まちがったことをしたら反省しなければならないと教え込まれてきた学生たちにとって、反省を必要としない元海風の思想は、奇矯で、また冷徹であるようにも映った。この会社では過去の犯罪の反省などなんの意味もなさない。ただ真っ当な人生を歩みつづけているという結果だけが求められる。それは2水戦教育課程前期で教艦たちに口を酸っぱくしていわれた「やる気があるなら態度で示せ」と同じだと、元長波だけが気づいている。

 

「では、環境が人を犯罪者にするということでしょうか。もともとの根っこから悪い人はいないと?」

 

 別の女子学生が訪ねる。

 

「環境が善良な人を追い込んで犯罪者にしてしまうことは多々あります。一方で、生まれながらに性根の腐っている先天的な社会不適合者もまた存在します」

 

 元海風は答えて、

 

「おなじ家庭で、おなじように愛情を注がれて育って、ほかのきょうだいが真っ当な人生を送っているのに、なぜかひとりだけが刑務所を出たり入ったりしているケースもあります。幼少期からすでに小動物を虐待して楽しむ犯罪者気質の人もごまんといます。たとえば痴漢や盗撮は、孤独な変質者がするものというイメージがあるかもしれませんが、犯人の大半は定職に就いている既婚者男性です。はたから見て充実した人生を送っていても、いびつな欲望を満たしたいがために罪を犯す人はたしかに存在します。先天的な犯罪者予備軍といってもいいでしょう」

 

 けれど、と繋げる。

 

「たとえ生まれつき犯罪者の素質を持っていたとしても、現実に犯行に及ばなければ問題はありませんよね。そういう人たちに、罪になる欲望を抑える意欲と手段を与える、これもまた、わたしのような前科者や、協力雇用主の使命だと思っています」

 

 元海風の信念に圧倒されている大学生たちを、さっそく実務に就かせる。班分け。元暴力団員で半グレだったろくでなしのもとに、犯罪者が社会復帰できなくて苦しむのは自業自得と主張した男子学生を含む数人が配属される。緊張が走る。

 

 元長波は、社長の元海風の知り合いだと学生らに名乗り、同行する許可をとりつけた。「邪魔して悪いね。いないもんだと思ってくれていいから」

 

 ろくでなしが学生たちを引率し、いつも清掃している雑居ビルに向かう。エントランスには実際に勤務しているかはわからない華やかな女性たちのパネルが並び、性を買えと手招きしている。

 

 ろくでなしがマスクとゴム手袋の着用を学生らに促す。バケツ。ぞうきん。モップ。金たわし。酸性洗剤のスプレーボトル。「洗剤が皮膚についたらやばいんで、気をつけてください。あと吸い込むのもよくないです」ろくでなしがしゃがむ。「タイルの隙間の黒ずみとかをやっつけるのがおもな仕事ですね」洗剤をふきかけ、金たわしでひたすらこする。苦労して汚れがとれる。「こんな感じです。ちょっとやってみますか」それに学生たちが応じる。

 

 床磨きの作業をしていると、ひとりの学生が咳き込み始める。自業自得だといっていた男子学生。「大丈夫ですか?」ろくでなしが訊く。学生はマスクの内側で咳をするばかりで答えられない。ほかの学生たちも程度の差はあれ喉がつらい様子を見せる。

 

「洗剤のせいですね。慣れないうちはどうしても咳が出るんです。なんでしたら外の空気吸ってきてもらっても」

「身体に悪いのでは?」咳のあいだから男子学生がいう。

「よくはないでしょうね。でもこの洗剤じゃないと落ちないんで」

「じゃあどうすんですか?」

 ろくでなしは少し悩む。誠実な答えを出す。「慣れるしかないですね」

 

 ろくでなしが学生たちの前で黙々と作業する。床の汚れを落としながら、以前、不注意から洗剤が手に付着した失敗談を話す。「痛かったですね。やけどみたいになりました。水でちょっと洗って、絆創膏貼って仕事して、帰ったら社長が手を見てびっくりして、病院にいかされました。お医者さんからも怒られました。一歩間違えば、見た目が治っても二度とものが握れなくなるところだったって。皮膚についたら最低でも二時間は水で洗い流せっていわれました」

 

 床には吐き捨てられて黒くなったチューインガムもある。ろくでなしが中性の剥離剤を塗り、ぞうきんで拭く。一度では完全に除去できない。何度も繰り返す。何度も何度も。そうしてやっとガムが一個取り除ける。路面に黒い水玉となったガムの残骸はまだいくらもある。手伝う学生たちが早くも腰がつらそうな顔をにじませる。

 

 次に訪れた雑居ビルには、一階から二階につづく階段に大量の吐瀉物が撒き散らされており、大きなゴキブリが触角を蠢かせて何匹もたかっていた。人の接近を感じて散らばっていく。エレベーター内は尿とおぼしき液体で足の踏み場もない。学生たちは顔をしかめる。

 

「このビルはホストクラブが入ってるんで、これくらいはふつうです。お酒飲んだあとのおしっこは時間が経つと特別臭いですからね。でも、きょうはうんちがないだけまだましです」

 

 嘔吐物を介してノロウイルスに感染するおそれもあるため、学生らは一階の階段下で待たせ、ろくでなしがひとりで清掃に取りかかる。ビル一棟をきれいにしても、あすになればまた同じように吐瀉物と尿と糞便で汚される。

 

「みなさんは大学に行かれるくらいですから、たぶん就職するにしても、やりがいがあって、スキルアップとかキャリアアップとかできる仕事じゃないと、むしろ嫌だって思うかもしれないんですけど、ぼくはむしろ、毎日おなじことの繰り返しのほうがいいというか、それ以外無理なんですよね」

 

 バケツにポリ袋を二枚重ねたろくでなしが、ペーパーで階段の吐瀉物を包み込む。バケツのポリ袋へと捨てる。

 

「決まったことしかできないし、口でいわれた指示も覚えていられない。半グレで詐欺やってたころも実行犯しかできなかったですからね。だからぼくは来る日も来る日も、同じ町のビルを同じ手順で掃除するこの仕事が、たぶん天職なんだと思います。毎日おなじことの繰り返しっていうのが」

 

 吐物をすべて拭き取った階段にペーパーを敷き、その上から〇.二%の次亜塩素酸ナトリウム消毒液をふりかける。消毒を待つあいだに壁や手すりも念入りに拭く。一メートルの高さから嘔吐した場合、吐瀉物はその周辺の半径二メートルまで飛び散る。飛沫ひとつ残さない。消毒液を浸したペーパーを壁にはりつける。

 

 仕上げに水拭きし、新しい手袋を着用して、バケツに二枚重ねしているポリ袋の内側の袋の口を締める。手袋を内側と外側の袋のあいだに入れ、袋の口を結ぶ。手馴れている。

 入念に手を洗ってアルコール消毒したのち、エレベーターの尿を清掃する。きらびやかな繁華街を陰で支える清掃業を学生らが目の当たりにしたのはこれが初めてだ。

 

「バイトとかしてるんですか?」

 

 作業するろくでなしが沈黙に耐えられずだれにともなく訊ねる。

 

「アパレルとか、ラーメン屋さんとか、あとカフェとか、家庭教師とか」

 

 女子大生にろくでなしは吹き出す。「そんなに? ぼくより全然きつい。ぼく、接客とかたぶん無理です。すごいなって思います」

 

 ろくでなしが暴力団から半グレに流れたのはここにいる学生らとおなじ年齢のころだった。

 

「朝、決まった時間に起きるのがめちゃくちゃしんどくて。暴力団も思ってたのと全然違ってたんですよ。幹部でも一日三食袋ラーメンとか。稼げないのに少年院より規則がきつい。それで半グレに。楽しかったですね。好きな時間に寝たり起きたりして、友だちと遊んで、好きなもん食って、それが当たり前だったんで。なのでいまの生活は正直、しんどいです。毎日朝六時に起きて、八時に仕事始めてっていう、それがふつうなんでしょうけど、そのふつうの生活が疲れるっていうのはありますね」

「辞めたいって思ったこととかは」とほかの学生。

「あります。半グレのころって、いまの月給が一日で稼げてたんですよ。だから使えるお金の少なさっていうのが苦しいんですよね。また犯罪したほうが楽だろうなって、毎日思ってて。毎日、その葛藤と戦ってます」

 

 ろくでなしは覚醒剤の犯歴もあった。

 

「好きなことして、好きなもん食べて、いつも友だちと一緒にいて、シャブ食って。そのときの思い出が夢に出てくるんですよ。もうひとりの自分がいってくるんです、いまのこの正しい生活しててなんになるんだって。でも、かみさんや子供や社長の顔を見るたび、とにかくきょう一日がんばってみようって言い聞かせてます」

 

 ろくでなしは出所時、実の家族にも身元引受を拒否された。ろくでなし自身も出所の日を「怖かった」という。

 

「出てなにをすればいいんですか、行き場もないのにって、刑務官の人に訊いても、“犯罪でなければなにをしてもいい。自由の身なんだから”っていわれるだけで。いっそずっと入っていたいなって思ってました」

 

 出所後の居場所と、するべきことを教えてくれたのが、元海風だった。

 

「僕がまじめに働けば、前科者でも使い物になるんだってなって、社長みたいに協力雇用主になろうっていう人が増えてくれるかもしれない。それでちょっとは今までやってきたことの帳尻が合うんじゃないかなって。それを心の支えでもあります」

 

 悪臭を放つ尿をペーパーに吸わせるろくでなしの言葉が、ドアをひらきっぱなしのエレベーターに響く。

 

「中学高校のころはいわゆる非行少年だったんですけど、そのたびにお母さんが警察や相手方に土下座して謝るわけです。それが楽しかったんですね。大嫌いだったんで。ぼくより宗教の決まりをだいじにするお母さんに迷惑をかけたくて、非行してたっていう。でも、社長にだけは、ぼくのために謝らせるようなことしてほしくない。それはぼくが耐えられない」

 

 すると、犯罪者を厳しく断罪していた男子学生がいう。「手伝いたいです。なにをすればいいですか」

 

 ろくでなしの指示で、学生たちが大量の尿をペーパーで拭く。狭いので入れ代わり立ち代わりになる。作業そのものはろくでなしがひとりで行なったほうが早い。それでもろくでなしの顔には優しい笑みがある。

 

 その光景をじっと見つめる元長波も痛感している。解体され、退役して、一般社会に溶け込もうとして、ついにできなかった。元長波がふつうの生活になじむには、変わらなければならなかった。しかも、ある日突然に変われて、それ以降はその努力が不要になるわけではない。変わりつづけなければならなかった。毎日決まった時間に起きて、仕事に行き、どんなトラブルがあってもタスクをこなし、命令がなくとも自分の意思で技能を増やし、さらにはプライベートも充実させなければならない。まるで人ならざる怪異が無理して人に化けるように「ふつうの人」のふりを毎日続けなければならない。そのむずかしさは身に沁みている。

 

 昼過ぎになり、昼食のため一行は会社へ戻る。事務所で社員と学生らが弁当を開く。そのなかには元海風の姿もある。

 

「暑くない?」元海風がろくでなしに思わせぶりにいう。「脱いだら?」

 

 意図を察したろくでなしが立ち上がり、学生らに背を向けてから服を脱ぐ。

 

 現れたのは肌をカンヴァスにした極彩色。筋骨隆々とした背中に大正三色の錦鯉が躍動し、瀑布が弾け、肩、腕にいたるまで牡丹が咲き乱れる。まるでそういうシャツを着ているかのような和彫りに覆われた上半身。しかしところどころに彩色がなく線画だけとなっている。複数回にわたる施術を途中でやめたためだ。

 

 それでも生まれてはじめて目にするであろう刺青の迫力に、学生らの箸が止まる。

 

「彼はもう温泉に入れないの。サウナにも行けない。人前で脱いだらこんなふうに変な目で見られる。一生」

 

 元海風の言葉に学生らはなにもいえない。ろくでなしも後悔を滲ませる。「若いころは将来のことなんてなんにも考えてなかったんで。墨入れたら強くなれるって思ってたんですよね。こんなもんをかっこいいと思ってた」それからふざけてボディービルのポーズを真似る。学生らが笑って緊張を解く。

 

 昼食後、職業体験を再開し、夕方になる。

 会社の前で、元海風が職業体験を終えた学生たちにねぎらいと感謝の言葉をかける。それからいたずらっぽく訊いてみる。

 

「どうでしたか、うちの元犯罪者たちは」

 

 例の男子学生が真っ先に答える。「思ってたよりふつうの人でした」

 

「そうなんです。ふつうの人なんです。逆にいえば、ふつうの人でも、なにかのきっかけで犯罪者になってしまうんです」

 

 元海風に学生たちはいずれも真剣な眼差しをしている。

 

「もし将来、警察官になったら、悲惨な事件ばかりを目にして、犯人が憎いと思ったりするかもしれません。犯罪を繰り返す前科何犯とかいう人をたくさん見て、犯罪者は反省なんかしないクズばかりなんだと思うかもしれません。そのときは、うちの社員と一緒に働いて、一緒にごはんを食べたきょうのことを思い出してください。加害者がふたたび加害者にならないためにはどうすればいいか、それを頭の片隅に置いておいてくれるとうれしいです」

 

 学生たちが社員らと握手を交わす。相手に対する印象が変わったのは学生たちだけではない。ろくでなしを含む社員たちも、警察官を志す清廉な身の上の学生たちをどこか警戒していたが、いまはすっかり境遇の垣根を越えて、友人のように接している。

 

 犯罪認知件数が減少する一方で、再犯率が過去最高を更新しつづけるなか、刑務所のあり方も大きく見直されつつある。

 

 今般、刑罰の懲役刑と禁固刑を廃止して一本化し、拘禁刑が新たに創設されることになった。従来の刑務所は懲罰を主眼に置いていたが、拘禁刑制度のもとでは、受刑者に一律の刑務作業を義務付けるのではなく、再犯防止のセラピーや、個人の特性を生かした効果的な職業訓練などを柔軟に取り入れ、更生に重きを置いている。

 

 元海風たちが学生らを見送るなか、元長波の携帯電話が着信を知らせる。元長波が電話をとる。「よう。……ああ、わかった。悪いね、無理いって……そういってくれると助かるよ。――それは会ってからのお楽しみさ。だろ? ああ、それじゃ」元長波は通話を切る。

 

 応接室の窓からは片町が一望できる。黄昏を浴びて繁華街が寝ぼけまなこをこすっている。まばらに灯りはじめる看板やネオンの明かりは起き抜けのあくびにも見える。空が暗くなるにつれ街が星々から奪った輝きで着飾り、人通りが増え、生々しい活況に満ちる。

 

「わたしたち協力雇用主がいない世の中がいちばんですね」

 

 ふたりだけになった応接室で、元海風はソファに腰掛ける元長波を介助しながら、凪の海にそよぐ風のように笑う。

 

「社会が一丸となって、どんな企業も元犯罪者を普通の人と同じように従業員として受け入れてくれれば、協力雇用主制度なんて不要になりますから」

 

 元海風自身、最初の逮捕では執行猶予がついたが、二回目の逮捕で懲役合算三年半、三回目で懲役二年半、四回目で懲役三年、五回目で懲役三年半。二十代から三十代という人間の人生が決定される最も重要な時期を、薬物と刑務所で無為にした。

 

「最後に出所したとき、三十七歳になっていました。その年齢ではたとえ前科がなくても就職もままなりません」元長波の向かいのソファに座りながら元海風がいう。「そもそも、何億円ぶんもの修復材と武器を頼りに深海棲艦の群れを皆殺しにする以外、これといってスキルもありませんでしたしね。わたしが路頭に迷わずにすんだのは、努力したからとかではなく、単に継父がこの会社を持っていて、縁故入社できたからです。運がよかったんです。なら、その運をわたしと同じ出所者たちのために使うべきだと思い、協力雇用主に」

 

 轟沈しなかった艦娘は社会に戻ってきた。犯罪者も、服役を終えれば社会に戻り、だれかの隣に住む。その点では艦娘と犯罪者のあいだに大した違いはないのかもしれないと元長波は感じている。

 

「やっぱりいまでも疑われる? 近くで薬物がらみの事件があると」と元長波。

 

「ええ、従業員や塾生が問題を起こすと、警察はまずわたしを尿検査しますし、車を運転していて検問を受けたときに、免許証を照会したら、おしっこいいかなって必ずいわれます。前科(マエ)が連合艦隊組んでますからね。あたりまえです。わたしが彼らでもおなじことをします」と元海風。

「いやになったりしない? いい加減うんざりするとか」

「してはいけないんです。それだけのことをしてきたので。むしろ、体にクスリが入っていないことを証明できるんですから、拒む理由がないですね。ですから従業員にも言い聞かせています。あなたたちは前科があるからなにかあるとすぐに警察に疑われるけれど、それを更生を邪魔しにきたとふて腐れてはいけない、自分がまじめに社会生活を送っていて事件とは無関係だというのなら、堂々と応じればいいだけ、なぜなら警察に協力するのもふつうの市民の務めだから、と。出所者の大半は警察を敵だと認識しているので、そういうと驚いた顔をされますけどね」

「わたしはおまえがきれいごとをいってることに驚いてるよ。エイジャックス*4で歯磨きでもしたのか?」

 

 気の知れた駆逐艦娘どうしだけに許された軽口に、元海風は総入れ歯を見せて笑う。その背後で、元海風にしか見えない涼風が無表情のまま、元海風の耳元で延々と呪詛を呟いている。

 

「退役したすぐあとは、あしたが来るのが怖かった」と元海風が窓から夜の街に視線を投げながらいう。「夜になって布団に入るたび、きょうも一日わたし抜きで世間が回った、ああ、きょうもほかの人たちは一日ぶん成長したんだろうな、わたしはなにもしなかったけれど、という思いで胸が沈みました。あしたもきっとそうだろうと」

「わたしもだよ。情けなさに泣きながら寝る毎日だった」

 

 元長波と元海風は共犯者の笑みを浮かべる。

 

「いまのわたしには、やることがあります。だれかの役に立っている。その実感のおかげで薬物に頼らずにすんでいるんです。なにかに夢中になっているあいだはクスリのことを忘れられる。立ち直り支援は、わたしのためでもあるんです」

「わたしらみたいな年寄りには“きょうよう”がだいじだからな。“きょう行くところ”、“用事があること”。きょうよう。おまえはちゃんとそれを自分で作ったんだ。自覚ないかもしれないけど、それはとてもすごいことだよ、ほんとうに」

「ありがとう。でも、作ろうとしていなかったのが、解体直後のわたしだったの。自分で自分を変えようとする面倒くささから逃げていただけ」

「わたしなんて!」元長波は笑う。「変えようとしたのがほんの一か月まえだぜ! それも脳腫瘍にケツ蹴られて、ようようやっと」

 

 それに元海風もころころ笑う。

 

「訊いていいのかわからないから、気に入らなかったら殴ってくれ。どうしてシャブを?」

 

 という元長波に、元海風が自身の内面を見つめる目になる。微笑みを浮かべたままの元海風には、最後の部下のひとりだった涼風(すずかぜ)がすぐ横に立って、いまにも元海風の顔を覗き込もうとしているのが見えている。

 

「そのお話は、わたしが海風だったころから始まります」

 

 元海風にしか見えない涼風にも聞かせるように、彼女は語り始める。

*1
引く=買うこと。違法薬物を売ることを示す「押す」という隠語から。

*2
各年の出所受刑者人員のうち、出所後の犯罪により、受刑のため刑事施設に再入所した者の人員の比率

*3
法務省「新受刑者の罪名別 能力検査値」矯正統計調査。

*4
漂白剤。

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