栄光の代償・元艦娘たちが語る対深海棲艦戦争(GHK出版新書)   作:蚕豆かいこ

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四   テセウスの船

「釣りに行かないか」

 元長波が拝み終えるのを見はからって、元朝霜が提案した。元朝霜はいまにいたるまで腕カバーを外していない。

「いいね」

 元長波は快諾する。腕カバーのことには触れない。

 漬け物の瓶が並べられている物置には、釣竿が二本立てかけられている。どちらもリールに糸が巻かれ、ガイドから竿先まで通されている。うち一本を元長波に渡す。「きょうは日射しがやばいぞ」元朝霜が真新しい麦わら帽子を押しつける。自身も被る。

 元長波は笑う。「用意がいいな」

 

 行きしなの民宿で臭いの強いジャミ(アミエビを用いた撒き餌の一種)を購入し、かつて崎山次郎右衛門が整備したという、海へと通じる下り坂を下る。元朝霜が思い出し笑いをこぼす。

「ブルネイで、ショッピングモールから買い物カート、かっぱらってきてさ、乗る奴と押す奴のふたり一組になって、下り坂で競争したことあったろ、この坂をみるといつもそれを思い出す」

「たいてい、みんなつんのめって顔から落ちてたな。でもさ、わたしが乗って、おまえが押し役だったときな、背後から叫び声がしたから、振り向いてみたら」元長波は親指で元朝霜を指差した。「おまえがつまづいて、すっころんでてさ、しかも勢いあまって土下座みたいなポーズになっててな、爆笑してたらわたしも人んちの板塀に突っ込んだ。洗濯物干してたおばさんがめちゃくちゃびっくりしてたわ。いきなり買い物カートに乗った子供が塀突き破って乱入してきたら、そりゃあな」

 笑いながら、海に突き出た波止に折り畳み椅子を据える。同好の釣り人も散見された。手術用のゴム手袋をはめ、錘も兼ねるジャミカゴにジャミを詰め、胴付き(ハリスを幹として数本の針が枝のように伸びている仕掛け)をサルカンで手際よく道糸に結ぶ。元長波も元朝霜も釣り道具の扱いは慣れている。軍を去って二十二年経っていても。元長波の場合は意識的に海から離れていても。

 竿をしならせ、波を飽かず寄越してくる海へ仕掛けを投げ込む。竿を何度かあおっては沈め、先端のジャミカゴから餌を撒かせる。撒き餌の煙幕に胴突きの針がかくれるように仕向ける。ウキが波に揺られるのを折り畳み椅子に深く腰かけて眺める。そうしながら、艦娘だったころはよく釣りをしたと元長波は思い返している。護衛艦での航海中は釣りがむしろ奨励されていた。海と向き合うことで、天候が変化する兆し、潮流や風向を体で覚えることができるからだった。元長波は小笠原近辺で大振りのシロダイを釣ったことがあった。その日一日は英雄だった。

「ここいらはコバッちいのばかりだが、アマゾンじゃピライーバ釣りやったことあったよな」

 おなじく椅子に座って竿を上下させていた元朝霜がいま思いだしたようにいった。懐かしい名前だった。ピライーバはアマゾンの巨大なナマズだが、繁殖期に悠久の大河を何百キロと遡上する力を秘めているだけあり、型のいいものを釣り上げるのはカジキマグロなどと同等以上に至難とされている。

「スケールが違うもんな」

 元長波はビー玉ほどのウキを指さして、

「ウキにポリタンクを使ってた。糸もロープだった。餌だって、人間さまの晩飯にじゅうぶん使えるピラニアとかトゥクナレ(ピーコックバス。孔雀のような目玉模様を尾柄にもつ。大きいもので六十センチ。ゲームフィッシングの相手としても人気)を採るとこからだったもんな。指くらいある太い針に餌の魚を生きたまま背掛けにして、アラグアイア河の上をスケートしながら、はえ縄を仕掛けたっけ」

 ピライーバがかかると、ポリタンクのウキでさえ沈んだ。巨大ナマズは幅一キロもあるアラグアイア河を右に左に逃げた。彼女らと現地の艦娘たちが一致協力して格闘すること四十分。上がった二メートルの白銀に輝く巨体は流線型で、背鰭も三角形だから、ナマズというよりサメに近かった。食べるぶんの一頭だけ残してあとは市場へ並べた。飛ぶように売れた。夕方になると遠くに雷鳴がとどろき、紫の空にときどき閃電が走って、雄大なるアラグアイアを讃えるかのように美しく演出し、元長波の目の前には長さ三十センチ、厚さ五センチのピライーバの極上ステーキが湯気を上げていた。四十二年生きてきて、あのときのピライーバを超える味のステーキにはついぞ出会えなかった。

 元長波は元朝霜からビールの缶を受け取る。ジャミカゴの着底を維持しながらふたりは保冷剤で冷えたビールを喉に流し込む。元朝霜は缶ビールのなくなったクーラーボックスに海水を汲んで冷やす。

 やがてふたり同時に糸を巻き上げた。空になっているジャミカゴに撒き餌をふたたび詰めこんで糸を垂らす。ただ待っているだけでは魚は寄ってこないことを経験で知っている。

「夜釣りに出かけたこともあった。エイがかかって往生した」

 元長波に元朝霜が同意した。アマゾンでは川にエイがいた。黒地に白の水玉模様がクリスマスみたいにちりばめられたポルカドット・スティングレイ、照明弾のようなオレンジの斑点がきれいなモトロ、直径二メートルを超えるアハイア・グランディ……。どのエイも尾に毒棘があった。現地の艦娘たちは蛇蠍のように嫌っていて、釣れしだい撲ちまくって殺していた。アマゾン河ではほかにもフグやアジも釣れた。

「不思議だ」元長波はぽつりとこぼす。「アマゾンを思い起こすときには、魚のことばっかりで、深海棲艦と戦った印象がえらく薄い」

「ああ、たしかにそうだ」

 元朝霜が笑いをもらしたとき、その竿先が小刻みに震えた。海面に引っ張られる。竿を瞬発的に上へ引いてアワセる。

「強いけど軽いな。ギソかな」

 感触を確かめながら元朝霜がリールを巻いた。かかっていたのは二十センチのベラだった。元朝霜の郷里ではギソと呼ばれていた。ぬめる魚体は太陽の反射で青にも緑にも輝いた。「なんかヌメヌメするーってか」生まれてはじめて魚を釣った、ある鈴谷の狼狽をまねながら、元朝霜は手早く針を外してクーラーボックスに放り込んだ。氷水のように冷えた海水に落ちたとたんに魚が動かなくなる。またジャミを充填して竿を振る。

「先を越されたな」

 と、元長波の竿先が固まった。持ち上げると竿が大きくしなる。だが引きはない。元長波は作り笑いを貼りつけて、元朝霜と顔を見合わせる。

「地球を釣っちまった」

 ふたりは爆笑する。元長波は竿を思いきり上へ引く。ハリスが切れてふっと軽くなる。巻き上げて胴付きとジャミカゴをつけ直す。

 

「川内のこと、覚えてるか」

 ビールを飲みながら竿先を見つめていると、不意に元朝霜がいう。「あの川内な」骨肉腫を患った美しい川内のことだと思い当たる。

「いまでもあの川内の旦那は、ほかの女を貰わずに、ひとりで暮らしてるらしいぜ」

 意外なことを聞かされて、元長波はいぶかしむ。あれからもう二十年余りだというのに。だがすぐに理解する。前へ進めていないのは、わたしもおなじじゃないか。だが前へ進むとはどういうことなのだ? 彼の場合は過去を忘れてつぎの女を探すことなのか? わたしの場合は、目の前で死んでいった戦友たちのことを忘れて幸せをつかむことなのか? わたしは忘れたくない、と元長波は思う。きっと彼も同じはずだ。忘れたくないのだ。それでどれだけ苦しむことになっても。忘れることが前へ進む条件なら、前へ進んだら忘れたことになってしまうのではないか。足を踏み出せないうちに時間ばかりが荏苒(じんぜん)と過ぎていく。気がつけば、もう二十年以上も経っている。

「元は他人なんだから、いいところでふんぎりをつけりゃいいのにな」

 元長波は心にもないことを口にした。それができりゃ苦労はしない。元長波がいちばんよく知っている。

「そりゃ女の考え方さ」と元朝霜。「女より男のほうが、よほど純情なんだよ」

 じゃあわたしも純情なのか? 元長波は、違う、と心のなかで首を横に振る。彼は川内との約束を守り続けているのだ。わたしは、ただ弱いだけだ。元長波は自分を責め続けている。

 ビールの空き缶を灰皿にしながらたばこを吸った元朝霜が、

「霞のことは聞いてるか。おまえと顔見知りの霞かどうかは知らないけど」

 と訊ねた。

「一般参賀でやらかした、あの霞か?」

 元長波に元朝霜が、そうだ、とたばこの灰を缶の飲み口に落とした。

 十九年前、元霞だった女が、その年の天皇誕生日の一般参賀で、天皇がお言葉を述べられた直後に突如、群衆のなかからこう叫んだ。「陛下、どうかジャム島に行幸を。かの地で散華した、九万五〇〇〇名余の艦娘と将兵の魂を、どうかお慰めくださいませ。あの子たちはみんな、あなたのために死にました!」。その元霞はすぐさま取り押さえられ、連行された。その後どうなったか元長波は知らない。

「死んだよ。自殺だってさ」

 元朝霜に元長波は二の句が継げない。「なんでだ」絞りだした声は掠れている。

「詳しいことはわかんねえけど」元朝霜は竿と海を見つめながら元長波に教えた。警察に拘引された元霞は事情聴取を受けたが、心神喪失と判断され、また艦娘時代の功績と貢献を鑑みて、不起訴処分となった。そのかわり、その元霞はハイリスク認定となり、埼玉の海軍転換艦隊総合施設でPTSDプログラムを受けるよう命じられた。ハイリスクとは、自殺の可能性が非常に高いという意味だ。PTSDの影響で自殺するかもしれないから保護するという名目で、世間から隔離したのだ、精神病院に措置入院させるようなものだと、元朝霜はわがことのように憤った。元朝霜はその霞とは会ったこともないはずなのに。ともかく軍や警察は一件落着と安心した。ハイリスク登録を解除しなければ死ぬまで施設で管理できる。しかしそれは失敗だった。ハイリスクの認定を与えたことで、逆に彼らは元霞に無言で打開策を教えることになってしまった。自殺という手があった! 翌月のある晴れた早朝、その元霞は、施設の自室で手首を噛みきり、壁一面に血書嘆願を遺して冷たく横たわっていた。元霞はべつの元艦娘と同室になるよう割りあてられていたが、相手の女もハイリスクとして登録されていた。その元艦娘は元霞の遺体と血の遺書になんの関心も払っていなかった。この一件で、ハイリスク同士は一室にしてはいけないと、プログラムは改められた。

「おなじ戦隊じゃなかったが、そいつもわたしも、第32軍としてジャム島に配属されてた」

 元長波もその霞と面識はない。ジャム島で霞という駆逐艦娘を何度か見たような気はするが、それらの霞のひとりがくだんの霞であったかはわからない。しかし、元艦娘が一般参賀で騒ぎを起こしたとニュースで知って、しかもその元霞がジャム島防衛のために新設された32軍に所属していたと、かいつまんで紹介されて、急速に親近感を覚えた。そうか、おまえもあの島にいたのか。そして、生き残っちまったんだな。戦争が終わって、もはや戦後でなくなって、人々の記憶が風化していくことに耐えきれず、おまえは行動をおこしたってわけだ。元長波は強い羨望を感じた。天皇に直訴だって? よくもまあ大それたことをしたもんだ! 元長波にはそんな考え自体がなかった。その元霞はきっと、同胞の死が価値あるものだと証明せねばならなかったのだ。まぎれもない正義感だった。それもとびっきりの。だから行動に移さずにはいられなかった。なにもしてこなかったわたしとは大違いだ。すごいよ、おまえは。

「ジャムで、いったいなにがあったんだ。テレビや本で、守備隊の壊滅とか、集団自決とか、そういうマクロな話は見聞きしたが、いまでもよくわからない。いや、フラッシュバックが起きるならいいんだ」

 元朝霜に尋ねられると、渇いた口のなかに深雪の味が広がった。深雪の血を吸って膨れたヒルの石油臭い味。返事をしなくなってからかじった、深雪の肉の味。

「ときどき、いまでもわたしはあの島にいるんじゃないかと思うんだ」

 元長波は数日に一度はジャム島の夢をみる。抗悪夢剤のおかげでその程度に抑えられている。

「島じゅうに網の目のように張り巡らされた自然洞窟に籠って持久戦に持ち込むってなって……真っ暗な洞窟で寝るんだ。地熱でクソみたいに蒸し暑くて、みんな汗と煤と血とノミとシラミだらけ、一日中、昼も夜も敵の砲爆撃で地響きがして、補給も途絶えて修復材もないから、野戦病院の洞窟には腕やら足やらなくした艦娘がごろごろ転がって呻いてる、そういうところだった」

 島南部の地名からとってルバエハ野戦病院と銘打たれた洞窟内の、材木で組まれた三段ベッドの上で、彼女とおなじく長波を拝命した艦娘が「耳に蛆が入った、だれか取ってくれぇ!」と、肘から先がない両腕をばたつかせ、血の滲んだ包帯の巻かれた丸っこい断面で必死に耳を掻きだそうとしていた。「蛆が潜り込んで肉を噛む音が聞こえるんだ。痛い! 痛い!」。ある磯波は、右足の太ももを敵巡洋艦に撃ち抜かれて、肉が弾け、白い骨までみえているありさまで、切断することになった。「応急処置ですよね? 切っても、修復材でまた治りますよね? きっと補給は来ますよね?」。磯波の問いには答えず、軍医は弓鋸で切り落とした。麻酔もなかった。修復材も。最後まで。

 現地の女生徒らが志願して看護婦の役を買って出てくれたが、手も食糧も足りなかった。いまでもジャム島の洞窟からは炭化した艦娘だけでなく学徒看護婦の骨も多くみつかる。上陸した深海棲艦に火炎放射で焼かれた遺体だ。

 自分たちの壕もいつ攻めこまれるか。恐怖にさいなまれながら艤装を抱いて寝た。しばしば夢をみた。朝起きて、両親やきょうだいとともに朝食をとり、“やばい、もうこんな時間”なんていいながら学校へ行って、級友らと授業を受け、帰ってまた家族と食卓を囲む。入浴して、ふかふかのベッドで面白い漫画を読んで、寝る。起きると、石灰質の岩肌がむきだしの暗い天井がのしかかるように視界を覆っている。汗でべたべたの髪。歯磨きできないのでねばつく口内。何日も風呂に入れていないせいですえた臭いのする垢まみれの制服に体。まわりには似た風体の、痩せ衰えた艦娘たち。夢だったのか? このくそったれで陰気な穴蔵のほうが現実だってのか? いやだ、こんな現実はいやだ。夢から醒めようと堅いごつごつした壁をかきむしった。洞窟がいまも崩落していなければ、そして気温三十八度、湿度九十パーセントの暗黒世界で這いずり回って探す辛抱強さがあれば、どこかで元長波の爪を発見することができるだろう。

「どっちが現実で、どっちが夢なんだ?」元長波には区別がつきにくくなっている。「いまこうして内地で安穏としてるのが、じつは夢なんじゃないか。寝て起きたら、あの島の壕で眼を醒ますんじゃないか。そう思うと眠るのが怖いんだよ」

 沈黙が通りすぎる。消波ブロックを噛む波の音だけが響く。潮騒だけは戦時中もいまも変わらない。

 

 元長波の竿が強く押さえつけられるように下がった。我に返った元長波は、本能的にアワセてリールを巻く。重い。円盤のような魚影が海面に透けた。一瞬、アマゾンの淡水エイかと錯覚した。食いついていたのはカレイだった。四十センチはある。

「やるじゃんか!」

 元朝霜が感嘆の声を上げながら玉網で掬い上げ、素早くナイフをエラに刺し込んで延髄を断ち切る。血がコンクリートの波止に滲む。

 いまは楽しむべきだ。元長波はまた仕掛けを海へと投げた。釣りに骨の髄まで親しんだふたりは順調に釣果を重ねた。ほかの釣り人たちが一尾上げるあいだに三尾釣った。クーラーボックスはたちまちいっぱいになった。

「調子に乗りすぎたな」とても食べきれない数の魚に元長波は苦笑いした。

「いいんだよ、捌いてご近所にお裾分けだ。ちょうど晩飯なんにするか悩んでる頃合いだろ」

 ふたりは釣具を片付けた。かろうじて蓋を閉めることができた、魚で溢れかえらんばかりのクーラーボックスのストラップを持った元長波の手首を、元朝霜が握った。

「なあ、やっぱり、うちに泊まってってくれよ。まだ話したいことがいっぱいあるんだ」

 訪ねたいと連絡して、どこに滞在するんだと元朝霜に訊かれた元長波は、近くのビジネスホテルにでもと返事をしていた。「どこかの宿とかとってるのか?」「いいや」二、三目星をつけるに留めていた。緻密に計画を組むと、小さなずれひとつで全体が破綻することを、軍隊にいた元長波は知っていた。

「そんなら、いいだろ?」

 魅力的な提案だった。まだ話したりなかった。

「ホテル代が浮くな」

 元長波がいうと元朝霜はにかりと笑った。

「寝てるときに叫ぶかもしれないぞ」

 実際の元長波の気がかりはそれだった。自分の悲鳴で起きたこともあった。

「丑三つ時に便所行かせろって怒鳴られるよかマシさ」

 元朝霜は構うことなく先を歩いた。

 

 近隣の家々に釣果をわけて回ったのち、彼女たちは元朝霜の家へ戻った。「シャワー浴びたきゃどうぞ」元朝霜に従い、竿を塩抜きするため二本とも浴槽に入れて水を張る。ついでにシャワーで汗を流す。化粧が落ちてすっぴんになる。だが元朝霜になら恥ずかしくはない。

 浴室から濡れ縁のある廊下を渡っているとき、庭の池に眼をやった元長波は、わだかまる夕闇のなかでも目だつ、白いウーパールーパーの一匹に違和感を覚えて、立ち止まる。水面を透かしているために正体をつかむまで何秒かかかった。輪郭が崩れていた。右の前足と後ろ足がなくなっていて、やはり右脇腹に明瞭な爪痕が刻まれ、尾も半ばちぎれかかっていた。

「ああ、出かけてるあいだに、猫かなにかにやられたんだろ」

 入れ代わりに風呂場へ向かう元朝霜に教えると、飼い主はこともなげにそういった。

「あいつらはけっこうしぶといからな、大丈夫だよ。手も足もそのうち生えてくる」元朝霜は思いついたような顔をした。「まるでバケツをぶっかけられたあたいたちみたいにな」

 元長波の最初の出撃では、TacMet(可搬式気象観測システム)を洋上展開して別艦隊の空母のために天候を観測しただけだったので、なにもなかった。二度目の出撃で、咄嗟遭遇戦になった。だれも傷つかなかった。三度目の出撃で、元長波の右腕に敵駆逐艦の砲弾が直撃した。肘のあたりから腕が皮一枚でぶらさがっていた。訓練どおりすぐさま腕をちぎり捨てて止血した。不思議と痛みはなかった。帰投後にはじめての入渠が待っていた。薄めた高速修復材で満たされた湯槽のようなカプセルに全身漬かった。腕の断面から泡立つように無数の腫瘍が生まれ、骨や肉や神経や皮膚に変容し、みるみる腕が生えていった。座学では聞いていたし、映像でも見せられていたが、自分の身に起きているとなると、やはり異様の一語につき、眼が離せなかった。十分かそこらで右腕は元通りになった。元長波は何度も五指を閉じたり開いたりして、感触を確かめた。「すげえな」。それが率直な感想だった。生きてさえいれば、負傷しても不具にならずにすむ。

 四肢が欠損したり、内臓が腹部から漏れたりしても、生還した艦娘たちがそうであるように、元長波はそのたびに入渠で修復させられた。現代科学に感謝した。何度も続いた。不安にさいなまれるようになった。家族へ宛てるつもりで書き損じた、本当は三回目になるはずだった手紙には、こう書いていた。

「腕や脚に継ぎ目がないか、気になってしょうがないんだ。この手紙を書いてるこの手はほんとにわたしの手なのか? まるでロボットを操作してるみたいだ。ちっとも自分の手だと思えない。だって、わたしの腕は吹っ飛んだはずなんだ。足だって。もし、もし仮に、わたしのくそいまいましい頭が吹っ飛んで、バケツをぶっかけて、新しい頭が生えてきたら、それはわたしなのか?」

 死体に修復材をかけてもどうにもならねえだろ。長波だった彼女は手紙をくしゃくしゃに握りつぶしてハエが渦を巻くゴミ箱に投げ込んだ。

 

 元朝霜も、部位欠損と修復を何度も繰り返しているうちに、自分の体が自分のものでないような感覚に悩まされるようになった。生きているということの意味さえ、わからなくなった。

「なにをもってあたいはあたいと定義すればいいのか。切った髪は、ただのケラチンであって、あたいじゃない。ちぎれた腕は、ただの肉であって、あたいじゃない。じゃあ、あたいはどこにいるんだ?」

 元朝霜の答えはまだでていない。元朝霜は手首を何度も切っている。しかしそれは自殺を目的としたものではない。

「ときどき、自分にちゃんと赤い血が流れてるかどうか、無性に確かめたくなるんだ。死体は出血しないだろ。傷をつけて血がでるんなら生きてる。その実感っていうのか、証拠がほしいんだわ。“なぜ心に疑いをもつのか。わたしの手や足を見なさい、まさにわたしなのだ。触れてみなさい、肉も骨もある”……」

「ルカによる福音書第二十四章か」

「ああ。でもさ」元朝霜は肩をすくめてみせる。「現代の技術なら肉も骨もいくらでも複製できる。物質的なもの以上の確信がほしいんだ。で、お手軽に傷がつけられて、血のでるとこが見やすい場所ってのが、たまたま手首だったってだけだよ」

 彼女は元朝霜が隠してきた腕をみせてもらった。惨状だった。腕というよりラテン音楽のパーカッションに使うギロのようだった。元朝霜は照れた。「あそこを見られるより恥ずかしいな」治癒して盛り上がった線になったものもあれば、ごく最近切ったらしい、まだ赤みのある筋もあり、手首の下から肘の手前にかけて、じつに何十条という傷がびっしりと刻まれていた。手を切って死ぬには切断するか手首の動脈を切るか、それとも腕の裏を縦に深く切るかしなければならない。腕の静脈は縦に走っているからだ。だから元朝霜は横に何度も切っている。

「赤い血が流れるのを見るとほっとすんだ。あたいは生きてる。めでたいことじゃないか」

 屈託なく笑って元朝霜は廊下の角を曲がった。

 旧友の消えた濡れ縁で、元長波は傷ついてなおのほほんとした両生類を見つめている。人工多能性幹細胞、いわゆるiPS細胞の研究から偶然生まれた高速修復材は戦前から再生医療の希望の星として期待されていた。戦争がはじまり、艦娘が戦線に投入されると、臨床試験を兼ねて彼女たちの治療に用いられるようになった。「実験台だ。でも、そのおかげで片輪(かたわ)にならずにすんだ」それ以前の戦争、多くの傷痍軍人を生んだ時代の戦争に従軍した兵士たちより、自分ははるかに恵まれている。なのに前へ進めないでいる。元長波は自分を責め続けている。

 汗と塩を落とした元朝霜が、台所に立って魚を捌きにかかる。

「ギソは一夜干しがいちばん美味いんだけど、あしたには発つんだよな?」

 元朝霜に元長波は「朝のうちには」と答えた。

「新鮮なギソと、一晩寝かせたギソを食べ比べるのも乙だぞ」

 髪をざっくばらんに結った元朝霜は思わせぶりに元長波の顔を覗き込んだ。

「悪いな」

 元長波は苦笑いする。「いや、いいんだ」と元朝霜も白い歯をみせて引き下がる。

「なら、刺身と煮付け、塩焼きにしよう。手を貸してもらえるか?」

「もちろんだ」元長波は快く応じた。「なにを手伝えばいい?」

 熱帯魚のように華美なベラをまず塩で揉むように洗い、ぬめりを落とす。それを元朝霜が鱗を引いて、内臓を取り除き、皮に切り目を入れてザルに並べ、熱湯をかける。すぐに氷水を張ったボウルで身を締めて、水気をしっかり取ってから、そぎ切りにする。

 煮付けと塩焼きにするベラも、元長波が塩で洗った。三十分もしないうちにベラづくしの嘉肴が茶の間のローテーブルを埋めつくした。この日いちばんの収穫のカレイは、塩とレモン、酒をかけてなじませた香味焼きで供されることになった。

 ふたりは改めて乾杯することにした。「なにに乾杯する?」元長波が訊くと、元朝霜はすこし考えて、

「おまえが会いにきてくれたことにしとくか」

 手にしていた日本酒のコップを突きだした。元長波も酒杯を軽く当てる。一口呷る。不思議と甘く染み渡るような酒だった。もっと早くに会いにくるべきだったと元長波は考えている。

 ベラの白い刺身は、ほのかに桜色に染まっていて、眼でも味わい深く、口に入れてみると、こりこりとして、弾力と身の甘みはフグにも匹敵する。煮付けもまた、ぼってりとした肉厚の白身に、しょうゆとみりん、酒の煮汁がよく染みて、噛むほどに味がでる。雪が融けるように白身がとろけていく。

「いい身案配だな。ギソもこうして食うと美味いだろ?」元朝霜が刺身を平らげながらいう。

「うまい。たまんないな」煮付けにまなじりを下げた元長波は次に塩焼きを箸でむしった。白い身が湯気を立てる。元長波が刺身をできるだけ避け、煮付けと塩焼きに夢中になっているということに、元朝霜は気がついていない。味の薄いものを食べると、深雪の肉の味がする。噛んでいるものが肉であるときは特に。

 心づくしの食卓を見渡す。

「ベラの料理だらけ。これがほんとのベララベラ海鮮だな」

 酒の回った元長波がいうと、元朝霜はしばらくむせ返った。

「おまえは昔から、そういう、くだらねえことばっかいってたよな」

 目尻に涙を滲ませた元朝霜が、思い出をたどる。

「なんだっけ、飛龍としおいがどうのって……」

「ああ」

 元長波も記憶を探り起こす。真面目くさった顔でいう。

「“飛龍改二と伊401は、後方の事務方に就きたがる傾向にある”」

「“その心は?”」

 元朝霜が促すと、元長波は絶妙な間で決める。「“ホワイトカラーに憧れる”……」

 ふたりは、ジョークそのものよりも、むしろそんなもので笑っていたかつての自分たちの幼さとくだらなさのために腹を抱えた。

「2戦教でもその調子だったからな。いや、大したもんだよ」

 元朝霜が笑っていった。2水戦に入隊するための過酷な訓練が繰り返されていたある日、点呼中に課程主任の木曾が気まぐれに訊いてきた。「2水戦の2はなんの2だ?」。長波はこう答えた。「二度とごめんの二であります」。改二だった木曾は隻眼を細めて微笑した。課程主任はその権限の範囲内におけるしかるべき裁定を下した。「両手を着いて腕立ての姿勢をとれ」。

 元朝霜に、釣った者の権利だと促され、カレイの香味焼きに最初に箸をつける。ぱりぱりの皮ごと身を噛む。魚の旨みと塩味、レモン汁の酸味が抜群に合う。酒が進む。焼く前に微細を極めるウロコをペットボトルのキャップでこそぎとってあるから皮に臭みがない。

「内地で勤務してたころ」元朝霜もカレイの味を自画自賛しながら酔眼を元長波にやった。「金がねえなあって小遣い稼ぎしてたろ、ふたりで」

「舞鶴だったかな。PXでオクラと納豆、ストッキングを買ってきてな」元長波の脳裏に往時のできごとが甦る。

 オクラを輪切りにし、納豆は水で溶いておく。適当に伸ばしたストッキングの股間にオクラの粘りを、足裏部分に納豆汁を塗って、乾燥させる。これを“使用済み”として売るわけである。

「新入りの艦娘を捕まえてね……なにせこっちは何年も前線で戦った現役の艦娘だから、上級軍人を前にしたみたいにがちがちに緊張して、写真を撮らせてほしいんだけどと頼めば、そりゃ一も二もなく引き受けるさ。でもやっぱり表情がぎこちないんだよな、指名手配犯みたいになっちまう。だからまず、わたしが肩を組んで、朝霜にツーショットを撮らせたりして、緊張をほぐしてやる。で、打ち解けたとこで、いいねー、可愛いねー、出身はどこなの、あぁそこ知ってる、お、その顔最高だねー、とかなんとか褒めちぎりながら、何枚も撮る。やっぱり、女なんだよな。撮られてるうちにその気になって、ほんとのモデルみたいにいい表情をくれるようになる。そうやって二十枚も三十枚も撮ってれば一枚はベストショットが生まれる。それを添えて、インターネットオークションに出してた」

 元長波が語る。

「だって、わたしたち、そのときはもう、おばさんだったんだ」

「ああ。おまえが十八だったから、あたいがハタチだったかな」

 元朝霜が勘定し、彼女とともに吹き出す。十七、八を過ぎた駆逐艦は年寄り同然だというのが当時の彼女たちの共通認識だった。駆逐艦は死ぬのも商売のうちだった。歴戦の艦娘とかいうのは男には関係ない。若くて初々しい子のほうが買い手がつくに決まっている。そういうことなら、だれに教えられずともわかっていた。

「いい小遣い稼ぎにはなったな」

 いいながら元朝霜はベラの刺身をしょうゆに漬した。大きなカレイも骨だけになっていた。こんなこともあった。あるとき、前の月に艦娘学校を出たばかりの荒潮に写真を撮らせてもらった。

「それがまた、とんでもない逸材だった。花のつぼみが開いたような笑みのなかにも、小ぬか雨みたいに憂いを帯びた流し目が、女から見ても艶かしい子でねえ、とても十三歳とは思えなかった」

 元長波が元朝霜のコップに酒をついでいうと、旧友も、

「これは売れる! と確信したよな」

 彼女のコップに酒を足した。

 しかし、予想に反して、まったく買い手がつかなかった。こんなにきれいな娘なのに。ふたりで頭を抱えて考えあぐねた結果、パラオの翔鶴に相談してみようということになった。手紙や電報ではなく電子メールを送った。もうそのころには衛星回線が戦前同様に復旧していた。

 さて翔鶴に見せて事情を説明したら、「流し目なのがいけない、正面からのアングルになおせばいいわ」とすぐさま答えがきた。「どんなに美人であっても、自分を見てくれない女に男は興味を持たないものよ」。というわけで、またくだんの荒潮に頼んで、もう一度撮影させてもらった。

「ちゃんとカメラ目線で。こう、ちょっとだけ首をかしげて、口許に微笑みを浮かべた、いいのが撮れた。そしたら(元長波は手をパシンと叩いて)史上最高値で売れた」

 そのときの儲けはすべて、翔鶴への礼として菓子の詰め合わせと酒につぎ込んだ。航空便で送った。

「なにしろ、これからいくらでも稼ぐための秘訣を教えてもらったんだからな、安いもんさ、と、そんときは考えてた」

 元朝霜は水のように酒を飲んでいった。

 ところが直後、ふたりの副業が警務隊に露見し、二度と“商売”はできなくなった。

「まあ猥褻物を売ったわけじゃなし、この程度で謹慎させるほど戦力に余裕があるわけでもないから、せいぜい口頭での厳重注意で終わるだろう、厳重注意なら三年も経てば履歴から消えるから昇進にも響かないって読んでたんだ。読みは当たった。“悪事は知性のたまものなり”、けだし至言だね、ま、若気の至りだよ」

「そう、若気の至り」元長波の追想を元朝霜が引き継ぐ。「それに、うそはついてないもんな。ストッキングが使用済みなのは、オクラのネバネバとか納豆汁に浸けたという意味で使用したんだから間違いないし、新入りの顔写真は掲載したけど、この子が穿いたものですとはひとこともいってない」

 いずれにせよパンストで稼ぐのは禁止になった。不満たらたらだった。ふたたびパラオに転属となったとき、久しぶりに会った翔鶴が部屋へ手招きをしてきた。行ってみると、ふたりが贈ったお菓子と酒が手つかずで並べてあった。「いっしょにどう?」。

「おいしかったなあ。みみっちく食ってたら、きっと、あんなにうまくはなかっただろうな」元朝霜は懐かしがるようにいう。

 最高額で買われる決め手となったその荒潮の写真は、遺影となった。遺族は出征に際して遺影用の写真を撮っておかなかった。娘はきっと帰ってくるからそんな写真は撮りたくないと両親は考えていた。荒潮の戦死の報に接した元長波は、事情を聞き、あの荒潮だと知るや葬儀に先んじて駆けつけ、こんなものでよければと、かつて悪銭目的で撮影した写真を渡した。見るなり両親は泣き崩れた。そして信じられないことに、涙に咽びながら感謝された。「娘をこんなにきれいに撮ってくれて、ありがとう!」。彼女には実際に経験があるが、胸を砲で撃たれるような感覚だった。写真をなぜ撮ったのかは黙っておいた。いえなかった。それでいいじゃないかと思う日もある。よくないと思う日もある。いまでもそれが繰り返されている。

 外川は夜になると自動車の行き来も絶えるせいか、灘響(だんきょう)がより近くなる。したたかに酔った彼女たちの話題は猥談にも及んだ。

「清霜がな、だれかが出しっぱなしにしてた、コード付きのバイブを頭の上でくるくる回しててさ、“カ号観測機”とかいって。あいつ、なんに使うもんか知らなかったんだ」

 元朝霜のその話にひとしきり笑って、

「ブルネイだったかパラオだったか、タウイタウイだったか、いやブインだったかな、娼館で男買ったら、わたしのあそこの毛を見て嫌ーな顔しやがってさ。わたしたちは毛が生えてるのが大人の証だと思ってたから、心外だった。どうも日本以外の国では下の毛は剃るのが当たり前らしい」

 元長波も笑い話を舌に乗せた。

「あたいたちより、清霜のほうが先に生えたのがおどろきだった。“負けた!”って」といった元朝霜が遠い眼をした。「翔鶴さんの下の毛は素晴らしかった。こう、紫雲がかかったようにうっすらと煙る感じでね」

「ああ、みんなの憧れの的だった。翔鶴さん自身が背も高いし、手足もすらっとしてたから、余計にきれいに見えたんだ。並んだらわたしの胸くらいに腰がくるんだぜ」

 水平にした手を自身の胸に当てた元長波は、また飲んでから、

「腋も、全身の産毛にいたるまで、いつも完璧に処理していた、まるで毛穴すらないみたいに。それでいて、あそこの毛は婀娜っぽく、そよめくようで、山水画の霧かなにかみたいにうっすらと覆っててね。しかも髪とおなじで銀色だろ。だからよけいに悩ましい風情になるんだ」

「風呂だから濡れそぼって、毛にひっかかった水滴さえ、真珠のように輝いてみえるようになんだよな」元朝霜も、腕を組んで何度も首を縦に振っていった。「最強の空母でありつづけながら、毛の一本にまでこだわっていたってんだから、もう人為の領域じゃない」

「わたしたちとタウイタウイにいた瑞鶴さんはそういうのを気にするたちじゃないから、腋もあそこもスチールウールみたいになってたけど、その放胆さがまたね、魅力になるような人だった」

「う、ふ、ふ」元朝霜はコップを呷りながら怪しい笑みをもらした。

 こうして彼女たちの夜は更けていく。興が乗ってきて、ふたりはかつて翔鶴に教わった義太夫や浄瑠璃をかわるがわる放歌高吟した。この時間が永遠に続けばいいのにと元長波は思っている。

 友人と酒を酌み交わし、思い出話に花を咲かせている元長波は、はた目にはなんの問題も抱えていないようにみえる。気の利いた返しのできる、魅力的な女性。だから巻雲が沈むところを目の当たりにして、ジャム島から生還して、リコリス棲姫を破壊したのちポーラを救出して、ブラジルでの教導任務を終えて、敵空母〈シャングリラ〉追撃のための飛行場適地確保を成功させて、ブルネイで清霜の唯一残った右足首を荼毘に付して、戦争が終わって二年が経つまで、だれも元長波の異変に気づけなかった。元長波自身さえ。

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