栄光の代償・元艦娘たちが語る対深海棲艦戦争(GHK出版新書)   作:蚕豆かいこ

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五   艦娘牧場

 夜半まで飲んだあと、元長波は適切に水分を摂り、眠剤と抗悪夢剤と鎮痛剤を服用して、元朝霜と布団を並べ、お互いの肩と腰に湿布を貼ってから床に就いた。

(シップ)が湿布の世話になるなんてな」

 元長波に元朝霜は失笑する。「とっとと減らず口と一緒に目を閉じなよ」

 いわれたとおりにした。よく眠れた。叫ぶこともなかった。熟睡しているあいだに元朝霜がトイレへ手首を切りに行ったことにも気づかない。

 翌早朝、元長波は元朝霜の家を発った。

「みんなによろしくな」

 古風を装った外川駅の待合室で元朝霜が沈黙ののちにいった。元長波は、幽明境を異にした仲間たちの顔と艦名を思い浮かべながら「わかった」と応じた。列車がホームに入る。元長波は、話し忘れたことはないか、もっと伝えるべきことはなかったか、急いで頭のなかを探したが、どれひとつとして明確な言葉の像を結ばなかった。

「なにかあったら連絡しろ」

 元朝霜もまた、なおも名残惜しそうに気遣った。

「ああ」

「なにもなくても連絡しろ」

「なんだそりゃ」

 笑う元長波に元朝霜は腕を差し出した。元長波は固く握り返した。

「じゃあな」

 元長波は二日前に白髪染めしたばかりの黒々とした髪を翻して海老茶のキャリーバッグを引きずった。ふたりは車窓を挟んでしばらく見つめあった。ときおり、ふたりとも車掌のいるほうを確認している。ホイッスルが吹かれるのに備えて身構えている。やがて車掌のホイッスルが鋭く吹かれる。心の準備はできている。大丈夫。列車がゆっくりと動きはじめる。元朝霜は手を振る。元長波も振り返す。列車が加速する。元朝霜は車輛がみえなくなるまで手を振りつづける。みえなくなったあとも、列車が消えた方角を見据えながら、ずっとたちつくす。

 

  ◇

 

 鉄道はゆりかごのように揺れながら北を目指した。

 茨城の鹿嶋市には、常陸国一之宮(ひたちのくにいちのみや)であり鹿島神社の総本社として知られる鹿島神宮がある。鹿島神宮はまた、下総国一之宮(しもうさのくにいちのみや)の香取神宮と一対で古来朝廷から厚く崇拝され、両宮とも境内に要石(かなめいし)をもつなど、さながら姉妹のように深い関係にある。

「艦娘学校でわたしたちのクラスの主任教艦だったのは雷巡の大井(おおい)で、もちろん最初の大井じゃないけど、わりと初期のロットらしかった。助教はその手足みたいなもんだ。助教のなかでもわたしたちは香取(かとり)鹿島(かしま)を赤鬼、青鬼って恐れてたよ」

 主任教艦より助教たちのほうが訓練生に接する時間は長い。おなじ助教でも、怒鳴り役の摩耶(まや)加古(かこ)より、理詰めで退路を淡々と絶ってくる香取型の二隻をこそ新入生は恐怖した。どれほどの存在であったのか、それを如実に表す挿話を元長波は思い出している。

「同期のなかにも要領のいいのがいて、どこからか菓子を調達して、消灯時間後に同室とひそひそ話をしながらつまむのを常習にしてたやつがいたのよ。その習慣がすっかり根付いたある夜、甲板(日直のようなもの)だった調達役があまりに疲れてたらしくて、早々に寝入ってしまった。それを知らない同室の子が待ちかねてささやいたんだ。“ねえ、お菓子まだ?”。その途端、隣の大部屋から同期たちが飛び起きて廊下に整列をはじめた。お菓子まだ、の“かしま”に反応したってわけ」

 

 艦娘を育てる艦娘学校でのとりとめのない記憶が、元長波の意思とは関係なく想起される。

 

 地方協力本部の広報官の引率で、十二歳以上十六歳未満の同年代の志願者たちとともにバスへ詰め込まれて、横須賀の艦娘学校へ向かうまでは、遠足気分だった。車内ではしゃいだ。なにしろ半数以上は一週間前に小学校を卒業したばかりだった。とくに気が合った子がいた。

「あっちのほうが年長だったけど、えらく仲良しになった。そいつは朝霜になった」

 艦娘学校がみえてくると、さすがにみな緊張した。

「はじめての軍事施設だし、親元を離れたことをあらためて実感して、みんな借りてきた猫になってたよ。どんなおっかないところなんだろうって、こわごわバスを降りたらさ、“ようこそ! よく来ましたね。疲れたでしょう”。迎えた下士官や、教育隊の助教艦娘たちはみんな優しくて、それこそ上げ膳据え膳で接してくれた。ほっとした。あこがれつづけた艦娘に歓迎されているって感じて、それがなによりうれしかった。軍隊って怖いところだと思ってたけど、なんだ、案外余裕かもしれないな。わたしたちは消灯時間前に口々にそう言い合った」

 二週間後の入隊式に向けて、制服にネームタグを縫い付けたり、敬礼や行進といった基本的な動作を手取り足取り教えられた。父兄も出席しての入校式で海軍少将から訓辞を受け、正式に日本国海上自衛軍人となった。式ののち、はにかみながら保護者と歓談した。親に甘えるところを同期生に見られたくない子供と、そうとわかっていて大げさに抱きしめたりする親たちの、微笑ましい光景があちこちでみられた。

「同期になるやつのひとりにちょっかい出しに行ったら、母親が元艦娘だって聞かされた。そいつもいまはじめて知ったって驚いてた。そのときは、なんであのかあちゃんは娘にいままで教えなかったのかわからなかった。ああ、いまならわかる。艦娘だったってことは、自慢できることばかりじゃないんだ、あの時代でも」

 その同期の母親は現役時代、駆逐艦夕雲(ゆうぐも)だった。

「その母親が、“みんな優しい?”って訊いてきてね、わたしたちが、うんって答えたら、“そーう”って、なんか意味深に笑うんだ。“まあ、とりあえず一ヶ月頑張ってみなさい”。楽勝だよって答えた。なんせ予知能力なんてなかったから」

 入校式が終わり、宣誓書(「私は、我が国の平和と独立を守る自衛軍の使命を自覚し……」)にサインをして、陽が傾いたころ、一〇〇〇人前後の新入生はいくつかの隊に分けられてそれぞれ講堂に集められた。指導艦が来るまで談笑して過ごした。艦娘になるという共通の目的があるだけにすっかり打ち解けていた。「きっと外にまで笑い声が響いていたと思う」と、元長波は時間だからという理由で尿意もないのに行ったトイレから帰ってきて苦笑する。

「主任指導教艦の重雷装巡洋艦大井が入ってきた。現役で、それもみずからの人生を軍に捧げたことを示す改二だ。その威厳と風格たるや、そこにいるだけでわたしたちの背筋を伸ばす力があった。“艦娘になる覚悟はいい”。これにわたしたちは気合入れて返答する、そしたら“これより第六十五期候補生の教育課程を開始します、あらためて入隊おめでとう。あなたたちの成長に期待します。以上”。それだけいうと、大井教艦は足早に教壇から下りて講堂を出てった。そのときだよ、“おまえら、上官が退場されるのになんで敬礼しねえんだ!”。怒声が響き渡った。摩耶助教だった。ほかの助教も、そりゃあ怒鳴る怒鳴る。“座りっぱなしで何様のつもり?”とか、“だんまりか。黙ってればすむとでも思ってんのかクソガキ”とか。空気がもう、びりびり震えるほどの怒鳴り声よ。机もおもいっきり蹴っ飛ばすしさ。わたしたちはなにが起こったのか呑み込めない。さっきまであんなに優しかった教艦が突然豹変したもんだから、泣き出す子もけっこういたよ」

 元長波は目尻に薄笑いを漂わせた。

「あなたたちのなかに、服務の宣誓を全文暗唱できる者は?」。代わりに登壇した香取助教が全体をねめまわす。凍りつく新入生にも何人かは手を挙げる強者がいる。「言ってみて。言えるんでしょ」。鹿島が促す。「早く言え!」。摩耶助教が一喝する。勇気ある新入生が歯をがちがち鳴らしながら起立する。元夕雲を母に持っている子だ。「私は、我が国の平和を守る自衛軍の……」「声が小さい。しかも間違ってる」「はい。私は、我が国の……」。膝が生まれたての小鹿のようになっていたが、だれも笑う余裕はなかった。

 

「いわば新人歓迎会みたいなもんだよ。恒例行事。毎年やってるんだ」元長波は話す。「理不尽っちゃ理不尽だ。入ったばかりで軍隊の決まりごとなんて教えられてないんだから、最初から完璧にできるわけがない。軍や戦場はそういう理不尽ばかりのところだということを学ぶ。ここはシャバとは違うんだと、まずはそれを身をもって思い知る」

 いまとなっては笑い話だと元長波は微笑む。

 

 喝を入れられたその日から一年間、新入生は艦娘になるために必要な精神力を鍛えるため、厳しい訓練を受けることになる。

「朝は五時起き。あの起床ラッパはもう二度と聞きたくないな、まるで黙示録だ。五分以内に布団を畳んで身支度を整えて舎前まで走って、点呼ができる状態にする。初日は大半の部屋が間に合わなかった。わたしたちの部屋は十三秒遅れたから腕立て十三回。で、助教はやり直しを命じた。ベッドで起きるとこからやり直しだ。今度こそと、起きて全力疾走で整列するんだけど、今度はわたしやその他が慌てすぎててね、制服の着用に不備があって、またやり直し。三、四度目で合格だったかな。それでようやく、起きることが許されるわけ」

 それから朝日を浴びて軍歌を歌いながら一・八五二キロを走った。ようやく朝食にありついた。食事の時間はわずか五分。ゆっくり味わうひまもなく、みんなかきこむようにして食べた。

 洗面のあとは隊舎の清掃が待っていた。助教の厳しいチェックが入った。

「鹿島助教が“これはなに”って、わざわざ脚立に上ってまで蛍光灯の上をなぞった指をわたしらに見せた。わたしは“埃が残っています!”。したら、鹿島さんが“見えないところだからサボる、それでいいの”。そんなんいわれたら“よくありません!”っていうしかないわな。もう立ってられないくらいおっかなかったよ。寿命いくらか縮んでいいから十分かそこら時間巻き戻したかったね。で、鹿島さんはいった。“細かいところまで気を配って。部屋の掃除もできないのに武器の点検や清掃ができるはずがない。不備一。腕立て十回”」

 午前八時には国旗掲揚。君が代とともに日の丸が昇りきるまで敬礼し続けた。

「整列して課業行進。そこからようやく授業がはじまる。最初のころは、そのときにはもうへとへとだった。時間が経つのが遅いのに、日が経つのは早かった」

 艦娘学校の訓練といえば持続走を元長波は連想する。気合いを込めるためクラスのひとりが順にかけ声を発して全員が復唱する。最初のかけ声は実にまともだった。「元気だしてファイト!」「元気だしてファイト!」。しかし、後のほうになるとネタ切れしてしまう。「おっぱい!」「おっぱい!」「乳首!」「乳首!」「すれて!」「すれて!」「痛い!」「痛い!」。

 リズムに乗れさえすれば、どんなに下品なかけ声であっても一緒に並走している教艦たちは叱らなかった。「もちろん、笑うのはご法度」そういう元長波は笑いをこらえきれないでいる。

 持続走のように、訓練の初期段階は陸の上での課業ばかりだった。艦娘といえば、洋上を悠揚迫らず、ときに縦横無尽に疾駆するものと信じ込んでいた新入生には意外だった。というのも、ほんの十二歳やそこらの子供を艦娘にする前に、まずは軍隊の最小単位である兵士にしなければならないからだった。体力も筋力もなかった。常識も。ある授業ではテントを設営した。テントのそばにはかならず雨を排水するための溝を掘らねばならないことを教えられ、作業に従事しながら、なぜ艦娘になろうという者が野営をしなければならないのかなどと不満を同級生とこぼした。しかし教艦らには新入生の心中などお見通しだった。元長波が回想する。

「まだ艦娘の運用方法が手探りだった時代、ある駆逐隊が遭難して、無人島に漂着したとかいうことがあったらしいんだ。救援部隊が発見したのは三ヶ月後。彼女たちはどうなっていたか。六隻中、三隻だけ生きていた。ビタミンC不足からくる壊血症と、サワガニのアメーバ赤痢、それに熱帯性マラリアにやられてね。海の上を滑って砲や魚雷さえ撃てればいいっていう教育方針で育った彼女たちは、ナイフの一本も携行してなくて、食べていいもの、食べなくてはいけないもの、食べてはいけないものの区別さえつかなかった。生き残った三隻も、骨と皮だけになって、着るものもなくほとんど全裸、歯茎からよだれみたいに出血してて、下痢便垂れ流し、おまけにいびつな禿げ方をしてた。あんまり飢えて、口が寂しいから、自分の髪をむしって噛んでたんだ。そういう“戦訓”を教えてくれた。みんな打って変わって真剣にテントを張ったもんさ」

 疑問に思わせたところで訓練の意義を示す。その手腕はさすがに洗練されていた。

 座学の内容は軍事そのものより普通教科が多かった。たとえば砲術は純然たる物理学と数学の世界だから、まず下地となる中等教育以上の学力が必須となる。官僚組織であるために日々大量の書類を捌くには一般教養程度の読解力と文章力がいる。訓練生は入隊した翌年の三月に修業式を迎える。つまり訓練生たちは、肉体を鍛錬しつつ、本来は中学校で三年かけて学ぶ義務教育の内容と、艦娘としての専門教育と技能、そのすべてを一年で身につけなければならない。

「一年の猶予がもらえるだけでも、じつはかなり改善がなされてた。わたしたちは恵まれた世代だったんだよ」元長波はいう。

 艦娘運用の黎明期には、最低限の訓練だけを施して戦線に送ることが常態化していた。訓練期間はわずか三ヶ月で、年四回、艦娘を生産していたが、それでも消耗速度に追いつかなかった。なぜなら、南方の要衝サーモン諸島ガダルカナル島を占拠した深海棲艦は大量の航空機を陸上に配備できる新種を君臨させていた。飛行場姫である。陸上を拠点にする深海棲艦に対する有効打を軍はなかなか発見できなかった。深海棲艦の生態や対策といった情報は各国間で共有がなされていないどころか、外交上の取引材料としていたので、どの国もおのおの独力で検証しなければならなかったのだ。日本も例外ではない。突破口がひらけるまでいくらかでも阻止攻撃を仕掛けるため海軍は短期速成の駆逐艦娘に魚雷や爆弾を抱かせて突撃させた。この特攻はいまでも賛否がわかれている。

「現役時代、わたしがアイアンボトムサウンドの特攻で沈んでいった艦娘たちをどう思っていたか。最高にかっこいいって思ってたよ。理解できないだろうけどね。朝霜のやつは、その作戦考えたバカはケツにバイブでも突っ込んでとち狂ってたとしか思えねえって憤ってた。いまは、かっこいいとは思わない。うらやましいって思う」

 元長波は努めて感情を抑えている。特攻は志願制がとられた。「望」と「否」の二文字が印字された紙が配られ、どちらかを丸で囲んで提出する。ほとんどの艦娘が「望」に丸をつけた。なかには「望」の上に「熱」とわざわざ書き加える者さえいた。「生まれる時期がちょっとちがえば、わたしもおなじことをしてたかもしれない。なぜだと思う? 志願しないほうがかえって百倍の勇気を要求されるからだよ」

 座学と訓練で頭も体も酷使され、ミスに対する容赦のない罵声と難詰が飛び交う毎日。里心がつくのも無理はなかった。

「隊舎の屋上には、羅針盤がでかでかと描かれていてね、東西南北がわかるようになってた。空いた時間なんかにそれで郷里のあるほうを向いて、両親とか友人とかに思いを馳せる。みんな泣いてたよ。わたしもね……。泣くだけならまだしも、なんせガキだろ、脱柵(脱走)も多いのよ。点呼でいないことがわかったらみんなで探した。そいつと同室のやつは連帯責任でいろいろやらされた。腕立てとか、屈み跳躍とか。ただでさえ訓練でボロボロだってのにさ。当然同期からいじめられる原因にもなる。いじめのないコミュニティなんかありゃしないよ。とくに軍隊は水槽みたいに逃げ場がないからね」元長波はいう。「軍隊ってのは、いじめられる奴のほうが悪いって考え方なんだ。どういうわけか、いじめられる奴は、どこ行ってもおなじ目に遭う。仲間の迷惑も顧みずに脱柵するようなバカを焙り出すのも訓練の目的のひとつってわけだ。たかが訓練や体罰から逃げるような奴をどうやって実戦で信用できると思う? だからみんなでクラスから押し出すんだ、膿みたいに。教艦たちもそれを黙認してた。ひとりを排除して全体が円滑に機能するんであれば軍隊は迷わずそうするんだ。おなじことをシャバの学校でやったら大問題だろうね。戦場では仲間の命、ひいては任務の成否に関わるから、きれいごとは言ってられない。でもシャバでは、きれいごとを挟む余地がある。そしてその余地があるなら、きれいごとはむしろ、最大限尊重するべきなんだ。個人を育てるのが目的なんだからな。軍隊式の教育で子供や新入社員の根性を鍛えさせろとか能書き垂れてる連中には、そこがわかってない」

 戦うだけが軍の仕事ではなかった。むしろ日常生活こそが訓練場といってよかった。ベッドメイキング、掃除、靴磨き。ベッドのシーツに一本でもしわがあれば教艦らに部屋をめちゃくちゃにされた。布団と毛布の畳み方から、ロッカーにハンガーでかける被服の向きと順番まで、ありとあらゆるものが規則で決められていた。

「はじめはうんざりだった。“そこまで指図されなきゃいけないもんか?”って。でもいまになると、そうやって一から十まで全部規定されてたほうがむしろ楽だって思う。そのとおりにしてりゃいいんだから」

 時間に追われる毎日だった。やるべきことはいくらもあった。そのすべてに完璧を求められた。元長波はたまたまロッカーの鍵をかけ忘れたまま課業へ向かってしまった。帰ってくると、ロッカーの扉も中身もすべて持ち去られていた。見回りにきていた助教のしわざだった。胃を絞られる思いで教艦室へ行った。

「学校の職員室とは大違いよ。鬼が島というか伏魔殿というか。入るにも作法がある。“入ります”の声が小さいと摩耶助教とかに怒られて追い出される、声を振り絞って入って用件をいおうとすると、今度は加古助教に“一歩前へ出てから申告しろ馬鹿野郎!”、また最初からやり直しよ」ロッカーの扉を立てかけた壁を背負って涼しい顔で事務作業をしている鹿島にようやく用向きをいえた。試練はつづく。

「“鍵かけてなかったわよね? ということはロッカーに入ってるものを盗られても困らないってことよね。なのに持って行ったらいけないの?”。もうなにもいえない。固まっちまう。“艦娘はどうやって海の上に立ってると思う?”。わたしは燃料って答える。“あなたはその燃料タンクのドアを開けたまま出撃するの?”。どんな細かいことも、結局は任務の遂行にかかわってくるんだ」

 大浴場の掃除はクラス総出で行われた。摩耶助教の命令は簡単だった。「水滴ひと粒残すな」。二ヶ月も経てばみな潔癖症になっていた。これは集団生活を基本とする軍隊では重要な意味を持つ。細かな不注意が積み重なっての事故、不衛生から食中毒でも起きれば、戦争どころではない。

「基礎訓練でわたしたちは、安全ってのは通常の状態ではなくて、不断の努力があってはじめて実現できる異常な状態であることを学んだ。病気とおなじだ。病気を異常だと思うやつは多い。むしろ健康でいるのが異常なんだ。健康を支える要素のいずれかを失うとあっという間に体調を崩す。手を離せばリンゴは落ちる。なにもしなくてもリンゴが浮いててくれるなんてことはない。リンゴを落とさないようにするには持ちつづけなければならない。だからわたしたちは、必死で無事故を維持した」

 事故もなく無事に戦線までたどり着いて、ようやく戦闘に参加できる。作戦遂行にあたって安全はイロハのイだ。それを訓練生に叩き込むのが教育隊の主要な任務のひとつだった。

「あのころ毎日しんどいと思ってた。世界で自分たちがいちばん割を食ってるみたいな顔してた。でもわたしらよりも教艦たちのほうが大変だったと思うよ。海のものとも山のものともしれない甘ったれたガキンチョ集めて、その全員を限られた期間で配属先の足引っ張らないどころか貢献できるレベルにまで育てあげなきゃいけないんだから」

 欠かせない訓練のひとつが水泳だ。燃料切れになって浮力を喪失した場合は自力で泳いで逃げなければならない。しかし訓練生のうち毎年平均して半数は泳げないという。

「わたしもカナヅチだった」元長波が頬をかきながら明かした。「いままで山と畑に囲まれて、海なんてみたこともない奴が艦娘になろうってんだから、こっちも教えるほうもひと苦労だよ。地本(地方協力本部)の募集係に志願したとき、断られるの覚悟で“泳げないんですけど”って白状したら、“大丈夫、海軍に入ればだれでも泳げるようになる”っていわれたんで、なにか秘訣みたいなの教えてくれるのかなとか考えてた。実際、秋ごろまでには一キロを泳げるようになってた。それまで水を何リットル飲んだことやら」

 同期で最も水泳が苦手だったのは、元夕雲の娘だった。

「そいつったら、鹿島助教に浮き輪に乗せられてさ。さらし者。でも、それが功奏して、クラスで最も長く潜水できるようになった」

 元長波が笑う。

 深海棲艦から得られた寄生生物との適合手術を受けて、彼女は長波になり、友人は朝霜になり、元夕雲を母にもつ同期生は伊168になり、艦娘としての本格的な訓練に明け暮れた。やがて、体内に定着した寄生体が増殖をはじめ、戦闘任務に従事しうる強度の干渉波を出力するにたる数にまで到達すると、深海棲艦と戦う上で最低限の作戦遂行能力を獲得した艦娘たちは、晴れて「改」となり、CR(コンバット・レディネス。戦闘任務に参加する資格)を取得するとともに、艦娘学校の卒業資格が与えられる。

 指導期間最後となる日、酒場の飲んだくれでも口にしないような卑俗なかけ声とともに持続走をしていると、香取助教がクラスを止めた。開けた草地だった。

「“はーいみなさん、なにが見えますか”、鹿島さんが笑顔で訊いた。たぶんあの優しい顔があの人の本来の顔なんだろうな。いっぽうのわたしたちも笑うのを我慢しながら、あるがままを答えた。“肉です”」

 訓練生の門出を祝って用意されたバーベキューが待っていた。教艦たちの私費と知ったのはずっと後のことだった。「みんなたらふく食べた」元長波の口元がほころぶ。艦娘学校を卒業するときには教艦もふくめた全員で記念撮影した。大井教艦から最後の訓示があった。

「最初にここへきたとき、あなたたちはなにひとつできない子供でした。たった一回の腹筋もできないただのやせっぽちでした。私語はするくせに訓練で声がだせない連中でした。あなたたちは変わりました。自分でアイロン掛けができるようになりました」

 みんな爆笑した。

「部隊に行ったら、とにかくがつがつ、攻めの姿勢でいくこと。どうせ新入りのあなたたちに、ミスしたら艦隊が危険に晒されるような重要な役目なんか任されるわけないんだから、失敗を恐れず、正しいと思ったらためらわずに突っ込む。そうすればあなたたちはどんどん強くなっていきます。成長した姿を実戦の海でわたしにみせてください。あなたたちの健闘を祈ります。以上」

 訓練生たちは敬礼した。一年前とおなじ轍は踏まなかった。恩師との別れに涙を流す者も少なくなかった。

 修業式が終われば臨席の両親と語らう間もなくそのまま配属先行きのバスだ。在ブルネイの第7方面軍独立混成第60海上旅団独立海上歩兵第399大艦隊に配属された元長波は横須賀本港へ、朝霜となった友人は大湊警備府へ向かうバスに乗った。伊168は潜水艦娘なので潜水教育部隊に入り直すためそのまま横須賀に留まった。再会を誓い合った。

「その機会がない可能性のほうが高いと胸のうちではわかってはいてもね。実際、あの修業式からもっかい会えたやつは、朝霜を入れて、ほんの一握りだった」

 実戦配備されて一年後、修復材で治したばかりの左手を閉じたり開いたりしながら横須賀鎮守府に出頭すると、助教だった摩耶と思いがけぬ再会をした。「立派になったなあ、見違えちまった」。摩耶は教え子に対する最大の賛辞を送った。面映かった。摩耶は、助教だったころストレスからくる逆流性食道炎に悩まされていたという意外な事実を明かした。「こんな小さい、可愛い子供たちを泣くまで怒鳴りつけたり、整頓がなってねえっつって部屋を荒らしたり、そんなことしたくて軍隊に入ったんじゃねえんだ。意味があるとわかってはいても」。摩耶は療養を余儀なくされたと恥を忍んで告白した。復帰して実戦部隊に転属願いを出し、五度目で受理されたとのことだった。

「あたしのこと、恨んでるだろ?」

 と摩耶は訊いた。

 だが、実戦を経験したことで、教艦たちの厳しい指導は、自分たち教え子への無限の愛情があってこそなせる業であることがわかっていた。それに、ジャム島から帰ってきたばかりの長波は、生還も、この再会も、泡のように弾けて消える夢にしか思えなかった。だから恥ずかしげもなく答えることができた。「愛してますよ、摩耶助教」。摩耶は耳まで赤くなった。

 指導しているあいだは胃薬が手放せなかった摩耶も、一緒にバーベキューを頬張った同期たちも、入隊式の日「あなたたちの成長に期待します」といった後わざと早々に講堂を去った大井教艦も、赤鬼の香取も、青鬼の鹿島も、もういない。あの日の卒業写真に収まっていたなかで、いまも鬼籍に入っていないのは、元長波と、元朝霜、元伊168だけだ。

 

 ……太平洋側を沿うように走る路線からは、鹿島神宮を戴く三笠山(みかさやま)を望むことができる。創建が皇紀元年という悠久の歴史にふさわしい、樹齢千年を誇る大樹のひしめく陰森凄幽の神域だったが、戦争がはじまって三十二年めのあの十一月三日、深海棲艦の大空襲により、樹叢の半分近くと、德川二代将軍秀忠(ひでただ)が奉納した社殿ほか一切が焼失してしまった。シャングリラ事件だ。なぜ深海棲艦が同襲撃において東京の十区と皇居に加えて茨城の鹿島神宮を空爆したのかは、いまでも詳細な理由が解明されていない。鹿島立ちという言葉があるとおり、鹿島神宮には旅の道中安全のご利益がある。このことから関東近郊では、女性が艦娘として外地に出征するおりに、家族や本人がその安全を祈願して鹿島神宮へ参詣することがいつからか流行した。艦娘志願者が増えるごとに鹿島神宮もまたにぎわった。大勢の人間が連日出入りしていたことから、深海棲艦に拠点として認識されたという説が有力視されている。

 鹿島神宮の祭神とされる武甕槌大神(たけみかづちおおみかみ)は、旅行安泰や交通安全のほか、軍神、航海神、農漁業や商いの守護神など、非常に多彩な性格を備えていることで知られる。

「何でも屋だ。駆逐艦とおなじだな。あれもこれもと、ひとつの器に全部を求められるんだ」

 味方に戦艦がいない任務はいくらでもあった。味方に空母がいない任務はいくらでもあった。味方に巡洋艦がいない任務はいくらでもあった。それらすべてがいない任務もまたいくらでもあった。では駆逐艦が編成にいない任務は? ひとつもなかった。

 昨年にようやく再建をみたばかりの主要社殿と奥宮を囲む、まだまだ風通しのよい鎮守の森も、焼けて折れた樹木の足下から、ひこばえが伸びはじめているという。木々はまた数百年、あるいは千年かけて森を元に戻そうとしている。わたしも元に戻りたかったと元長波は思っている。でもその元とはどの時点のことをいうのだろうか。清霜の足首を拾う前か、浜風が自分の腹を撃つ前か、深雪の肉を食べる前か、自分とおなじ長波を暗い洞窟に置き去りにする前か、ジャム島防衛におもむく前か、力尽きた巻雲が海に呑まれる前か、それとも艦娘になる前のことなのか。元長波にはわからない。


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