栄光の代償・元艦娘たちが語る対深海棲艦戦争(GHK出版新書)   作:蚕豆かいこ

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六   消された時間

 人生は進んでいく。伊号第168潜水艦、シリアルナンバー640-010731だった彼女は、いまダイビングのインストラクターとして生計を立てている。戦争から帰ってきたとき、復員船を迎えたのは、少なくともそこにいた九十九パーセントの人々からすれば、感動的といってさしつかえない光景だった。愛する妻か、母か、娘か、姉か、妹か、姪か、孫娘の帰りを待ちわびた人たちで港は溢れていた。小中学校時代の同級生たちが掲げる歓迎のプラカード、横断幕、日の丸の小旗。凱旋だった。解体され、寄生生物のいないただの人間へと戻った元艦娘たちは、隊列を組んで船から降りて整列した。秩序。短い訓示ののち厳かに解散が告げられると、たちまち人と人とが入り乱れ、歓声と抱擁で埋めつくされた。迎えられた女たちは、ずっと待っていてくれた夫か、婚約者か、父親か、母親か、きょうだいか、息子か、娘を力一杯抱きしめた。無数のただいま。無数のおかえり。

 帰国途中の船内では最後の帰還前講座があった。軍隊や戦場から家庭に戻るには、軍に入隊するときとおなじくらいの心構えが必要だったからだ。講師を務めた重巡衣笠(きぬがさ)は帰国を心待ちにしている参加者たちに身振り手振りをまじえて講釈した。

「だれが迎えに来てくれる? もちろん愛するダーリンよね。子供もいる? 素敵! じゃあ、先に抱きしめるのは? もちろんご主人からよ。男は嫉妬深くてプライドが高いから、あなたに逢いたくてたまらなかったわと明確にアピールしてあげるの。子供にキスをするのはそのあと。ああ、花束を忘れないでね。帰港の直前になったら、ヘリで運ばれてくるから」

 既婚者をはじめ、抱きしめる相手が複数いる帰還者たちは何度もうなずき、ある者はメモをとりながら聴いた。

「家を守ってくれていたご主人への最初の言葉は? “ハゲた?”なんて禁句よ」

 参加者たちはどっと沸いた。笑う一方で、重要なことだと頭に刻んだ。

「旦那さんはあなたたちがいない生活に慣れてしまってる。居場所がないと感じるかもしれない。けれど大丈夫、そんなことない。旦那さんの外見が変わってしまっていても、口に出しちゃいけない。ショックを受けた顔を見せないためにも、とりあえず思いきり抱きしめる。そのあいだに心の整理をつけるのよ」

 戦場から帰ってきた女たちは、港でその講義内容を忠実に実践していた。抱擁、抱擁、抱擁。落ち着いたところで、周りにみせつけるようにキスをした。みていた人たちはにやにやする。みんなこのあと家でなにが行われるか知っている。スイートハートのもとへ無事帰還できた安堵。欲望。最高の戦利品。元伊168は、そうした華々しい喧騒から隔絶された、一パーセントの人間だった。

 

 元伊168の父親は、彼女が幼いころに妻と大喧嘩した夜、不倫相手のもとへ行って、それきり帰ってこなかった。いまどこにいるのか、生きているのかもわからない。父に関する記憶はほとんどなかった。母を殴った瞬間が今も写真のように脳裏にこびりついているだけだ。

 かつて駆逐艦夕雲だった母は、夫のつくった借金を返しながら女手ひとつで子供ふたりを育てた。母は子供たちに自らが艦娘だったことは教えなかった。娘はただ純粋な義務感から、母と弟を助けるために小学校卒業を待って、艦娘に志願した。母はそこではじめて自らの来歴を明かした。「後から思えば」と元伊168は振り返る。「むかしから、母は海のものをいっさい口にしなかった」

 養殖されたものであっても魚介はなかなか手に入らないから、かえって敬遠しているのだと思っていた。「あんなものは食べないほうがいいわ」。母はいった。「どうして? おいしそうだよ」。幼い娘に母は口をつぐみ、悲しい顔をした。答えはなかった。

 艦娘となって戦場に出るようになってから母が魚を疎んでいた理由がわかった。作戦のあとの、血と重油が波紋のように広がる海には、艦娘、深海棲艦問わず、数え切れない死体が重なるように浮かんだ。それに海鳥が群がった。おびただしい魚も。

 戦前に流行った都市伝説に、こんなものがあった。東南アジアで大きな津波があった。大勢の人間が海に呑まれた。翌年、その付近でエビが異常な豊漁をみた。世界中にチェーン展開するあるファストフード店では、何年かぶりにエビを使ったサンドが再販された……。

「それでもわたしはいままでどおりお魚を食べた。母とわたしにどこで違いが生まれたかはわからない」

 彼女が伊168として南太平洋の底で任務に就いているとき、日本では急激に痩せた母がスキルス胃がんと診断されていた。艦娘時代に南方へ派遣されたおりに飲んだ水から感染したピロリ菌が遠因だった。規定により、偵察任務中の潜水艦隊は完全に独立していて連絡のとれない状態にあった。そうでなくとも、艦娘として従軍経験のある母は、娘の任務への影響を憂慮して、病状を報せることを頑なに拒んだ。潜水艦隊が基地に帰還するのは三ヶ月後だった。母の余命も三ヶ月だった。沈没艦をだしながら生きて基地へ戻った彼女を待っていたのは、母の訃報だった。弟は姉の無事を祈願するため鹿島神宮へ参拝している最中に空襲に遭って帰らぬ人となった。戦中戦後の混乱で親類縁者とは音信不通となっていた。だから港で彼女を迎える者はいなかった。感動の再会が無数に繰り広げられるそばを元伊168は無言で通りすぎた。抱きしめる相手がいなかった。花束を贈る相手がいなかった。

「飢えや、寒さや、水や、惨めな思いや、仲間を失う辛さや、自分もそうなる恐怖に耐えて、結局、母親も弟も守れなかった。年金も、一生働かないで暮らせるってほどじゃない。生活の足しにしかならない程度。なんのために戦ったんだか、哲学者みたいに考えてたわ」元伊168はいう。

 

 病院の用事をすませてから、人もまばらな磯原駅のホームで待っていた元伊168は、列車から元長波が降りたときから、二十七年ぶりだというのに一目で彼女だとわかった。元長波もすぐ元伊168に気づいて笑顔をみせる。

「久しぶり。あなたはちっとも変わってない」元伊168は声をはずませる。

「おまえは美人になったな。逢えてよかった」

「やだ、こうみえてバツが一個ついたのよ……」

「結婚なんかするからだよ。結婚しなけりゃ離婚することもない。わたしをみろよ」

 と、他愛ないやりとりで久闊を叙した。潜水艦娘はその運用の特殊性から水上艦と組むことはほとんどない。彼女たちが顔を合わせるのは、艦娘学校をでてから三年後に呉で再会して以来だ。

 元伊168は、北茨城市の郊外にある小さなアパートに住んでいる。ダイバーとして、まだ海に関わっている。

「元潜水艦娘がダイビングだって? ぴったりすぎて逆に違和感があるな。坊主の葬式を寺でやるみたいな」

「最初からダイバーしてたわけじゃないよ。海はさんざん潜ったから、違うことがしたくて」

 駅前に駐車してあったSUVの運転席に乗り込みながら元伊168は答える。元長波を助手席に乗せ、日本中のどこにでもありそうな地方都市の寂しい県道を走る。

 戦争が終わると、艦娘になる道を選ばなかった女たちはどこに隠していたものか、長年の抑圧から解放された喜びを表現するように派手に着飾って、目的もなく街へ繰り出した。晴れ着族という言葉も生まれた。着るもの以上の意味を服に見いだすことが許されるようになって、華美を追求するファッションが流行した。晴れ着族でなくとも、お洒落を楽しみたい女性は、戦前とおなじく数兆円規模の巨大市場を築いている。

「きれいな服に携わる仕事をしてみようと思ったの。とにかく軍からも海からも距離を置きたかった。女の子らしい、華やかな仕事がしたかった」

 元伊168はアパレル関係に就職した。当時二十三歳だった。

 女性ばかりの職場という点は、艦娘だったころと同じだ。だがまるで違うようにみえた。おなじ女性であるはずなのに、新しい職場の同僚たちは艦娘とはまるで別の生き物のように感じられた。

「刑務所から出所した人間は半年は使い物にならないっていうけど、軍隊もおなじなのかも。シャバとは流れている時間が違うのよ。女としてのわたしの時間は、小学校を卒業して艦娘学校に入った十二歳のままで止まってた。まるで遠い宇宙に行って帰ってきたみたいに」

 駐車場に車を入れ、元伊168は小さな住まいへ案内した。冷やしておいたラムネを振舞う。「なつかしいな」元長波は礼を述べてから栓を開けた。びんのなかの圧力が解放されて、溶けていた炭酸ガスが微細な気泡になる。

「よかったら聞かせてくれないか、艦娘じゃなくなったおまえの話を」土産の菓子を差し出す元長波に、元伊168は「つまらないと思うよ」と前置きした。包みを開き、菓子を切り分け、ついで台所で夕食の支度をしながら、退役してからの身上を語りはじめた。

 

 アパレルにはショップの店員とか、デザイナーとか、マーチャンダイザーとか、いろいろあるんだけど、わたしは語学力を買われてバイヤーに配属された。潜水艦娘は海外にでずっぱりで、英語はもちろん、フランス語やイタリア語も必須科目だったから……軍隊にいた経験が少しでも活かせるって、胸が高鳴ってた。

 配属初日のことよ……直属の上司になるチーフのところへ挨拶に行ったの。きらびやかな人だったわ、女を磨いてますっていう感じの……。自己紹介のあと、彼女が「あなたの年齢、当ててみせましょうか? わたし結構自信あるのよ」って、ものすごい笑顔でいってきた。

「二十一歳でしょ!」

 わたしは二十三歳だった。それをいったら、チーフはわざとらしく口を覆って、目を剥いて驚いた、「やだ、本当? 若ーい! ピチピチ!」

 そこまではよかったのよ。彼女はこんなことを訊いてきた。

「じゃあじゃあ、わたし、何歳にみえる?」

 わたしは正確に言い当てようとした。

「三十五歳でしょうか」

 そうしたら、「はぁっ?」って、さっきまでの弾けんばかりのスマイルはどこへやら、深海棲艦をみるような顔された。彼女はまくしたてたわ。

「三十五歳! そうよ、わたしはたしかに三十五よ。でもねでもね、女にとって、年齢どおりにみえるってことは、年齢どおりに年とってるおばさんにみえるってことなのよ!」

 わたしはようやく自分がミスを犯したことに気づいて、何度も謝ったんだけど、取り合ってもらえない。周りに聞こえるような声で、「わたしは気を遣って若いめにいってあげたのに、うわー空気読めないの来たわーマジないわー」とか、「こういうときはマイナス二歳くらいにいうものよ、常識じゃない! 軍隊にいた子はこれだから使えないわー」とか、もう針のむしろだったわ。

 それがきっかけで目をつけられちゃったみたいでね、次の日、同僚の子とたまたま一緒にチーフへ仕事の件で判断を仰ぎにいったら、チーフが同僚だけに挨拶を返すの。で、同僚の子に、「ねえ、わたし何歳にみえる?」って訊いた……その子は「えーと、二十六歳!」って答えたわ。チーフはもう大喜びで「ウッソー、二十六? わたしそんなに若い? わたし本当はね、本当はね、三十五なのー」秘密を打ち明けるみたいに話すのよ、同僚の子もびっくりした顔で「ほんとですか? えー、みえなーい、お肌すごくきれいですし、目もすっごいきらきらしてますしー」……寸劇でもみせられてるのかと思ったけど、たぶん、あれが普通の女性たちの会話なんでしょうね。わたしは完全に異物だった。

 で、そこでチーフがはじめてわたしをみてね、

「ま、この子にはわたしは年相応の三十五にみえたみたいだけど!」

 いたたまれなくなって、わたしは謝るべきだと思った。

「チーフ、きのうは本当に申し訳ありませんでした」

 チーフはぶりっこしはじめたわ。「違うの違うの。謝らなきゃいけないのは、年相応のおばさんにみえたわたしのほう。ほんと、ごめんなさいね。それはともかくね、わたし、これからあなたがお客さまに粗相をしないかどうかが心配なの。軍隊にはお客さまなんかいなかったからCSの教育を受けられなかったんでしょう? でもだーめーよーこれからはそんなのじゃ。あなたは艦娘だったかもしれないけど、いまは違うのよ。ここでは社会のルールに則って働いてもらいますからね!」

 睨み付けながら席へ戻っていった……。

 同僚の子が耳打ちしてきたの、「年齢ピッタリ当てちゃったの?」

 わたしが「うん」っていったら、その子、憐れむような眼になったわ。

「終わったわ……。前ね、年齢当てクイズで三十七歳って答えた子がいたんだけど、すんごいイビられて、二週間で他部署に異動願だしたらしいよ」

 わたしもいじめを覚悟しなければならなかった。ある日、会議の準備をしていたら、左足がなにかに骨ごと噛まれてるみたいに痛んで……減圧症の後遺症よ。まさかいまさらくるとは思わなかったわ。そこへチーフがきてね、いつものように嫌味をいいながら……でもわたしもそれどころじゃなくて、事情を説明して、席を外すから会議の準備をお願いできないでしょうかって頼んだの。そういうことならしょうがないわねって、意外とあっさり引き受けてくれた。薬を飲んで、二十分くらいかしら、だいぶ楽になったから戻ったの……そうしたら、課長がわたしをみるなり、「遅刻するならするで連絡くらい入れなさい!」って。

「本来あなたがやるべき会議準備をチーフが全部やってくれたのよ」

 わたしはびっくりして、「遅刻なんてしてません、艦娘だったときの後遺症で体調が思わしくなかったから薬を飲みに行って、そのあいだチーフにお願いしていたのですが」そう弁明したんだけど、チーフは知らん顔よ。わたしそんなの聞いてないわよって。忘れちゃったんですかって訊いたら、「わたしがおばさんだから物忘れが激しいとでもいいたいの! 自分のミスを他人になすりつけといて、その態度はなんなの! これだから親方日の丸の軍隊あがりは……」

 みんながわたしを責める目をしていたわ。わたしは無力だった……生身の人間じゃ絶対に潜れない深度六〇〇メートルの海底下で敵潜水艦に無誘導の魚雷を直撃させたり、防潜毛をかいくぐって戦艦や空母を葬ってきたわたしが、そこではお局さまに逆らうただの愚かな新入社員だった。結局、そのプロジェクトからは外されたわ。おまけに、チーフがそのときのことを噂に流したみたいでね、社内ではわたしは遅刻したうえにチーフに責任転嫁しようとしたことになってた。そして、それは事実として定着しはじめていた……なにせ、相手は勤続十数年で、こっちはまだ二、三ヶ月だもの、みんながどちらの味方をするかくらいはわたしにもわかった。わたしは辛抱強く息を潜めるしかなかった。潜水艦娘だったときみたいにね……

 

 切った野菜をボウルの水にさらした元伊168は、テーブルに着くと、悔しさを飲み干すようにラムネをぐいとラッパ飲みした。

「何歳にみえるとか、そんなん訊いてどうすんだろな」

 黙って聴いていた元長波は苦笑いしながらそういった。

「当ててはいけないなんて、わたしには無理。深度やトリムを計器もみずに正確に言い当てる訓練を重ねたんだもの。数字を外すなんて考えられない」

「当ててやろうか。そのチーフ、自分の誕生日は部下におもいっきり祝ってもらわないと気がすまないタイプだろ」

 元長波に元伊168は笑いながら、

「しかも自分からは、きょうが誕生日だとはいわなかったわ。部下から、きょうお誕生日ですよね、おめでとうございますって花束だかプレゼントだかもらって、わざとらしくびっくりした顔して、“そうだった、きょうわたしの誕生日だったわ、仕事に追われて忘れちゃってた~わたしのうっかりさん”とかなんとかいって、自分で自分に軽くゲンコツみたいなのしてた。それで、要領のいい子は、ところでチーフ何歳になられたんですかって訊くの、もちろんチーフは、何歳にみえるってものすごい笑顔で訊き返す。それで二十七歳とかいうのね。“やだーわたしそんなに若くみえるぅー?”。ここまでがお決まりだったわ。郷に入ればっていうけど、わたしには合わなかったし、合わせたくもなかった。わたしがあとほんのちょっと賢ければ、腹芸で顔を覚えてもらう世界にも適応できたかもしれないし、するべきだったかもしれない。でも、あのチーフの誕生日で同僚たちがそうしていたみたいに、お局を一生懸命おだててお追従笑いで媚びを売ってるところを、もし艦娘時代の仲間にみられたらって思うと、やっぱりできなかった。だって、わたし、イムヤだったんだもの」

 

 郵便が届く。立とうとした元伊168が顔をしかめて左の膝を押さえる。

「痛むのか?」

「人工関節にしたとこがね」

 玄関から戻った元伊168は鎮痛剤を飲んだ。

 潜水には減圧症の危険性がつねにつきまとう。

 浅海を潜水航行しているときの潜水艦娘は水深に応じた圧力の空気を呼吸している。呼吸用の空気は酸素二割、窒素八割の圧縮混合気体を用いる。このため潜水中の高圧下では血液や組織に窒素が過飽和状態になるまで溶け込む。時間をかけずに浮上してしまうと、栓を開けたラムネのように、体内の窒素ガスが微細な気泡、マイクロバブルになる。多量のマイクロバブルは運動機能や脊髄、ときには脳にまで悪影響を与える。減圧症はおおむね深度三十メートル以上の潜水と急浮上を何度も繰り返すと陥りやすい。より深く、より回数を重ねるほど発症の危険は高くなる。

 元伊168は、現役時代には一回の通常潜航で、深度五〇〇メートルへの潜水を十数時間つづけた。最長で六十時間二十八分連続で潜ったこともある。これほど過酷なダイブ環境では毎回慎重に浮上しても後遺症は避けられない。戦時中の潜水艦娘は(特に戦争中期までは)みなそうだったが、元伊168の後遺症はなかでも最悪だった。

「あるときから左の足が痛くて痛くてしかたがなくなった。鎮痛剤でも治まらないくらい。思えばあの会議準備で痛んだときから兆候はあったのよ。どうにもたまらなくなって病院で診てもらったら、減圧性骨壊死だったわ。もう膝の関節が腐りかけてた」

 マイクロバブルが左足の骨を栄養する血管を塞いだことが原因だった。やむなく手術で人工関節にした。しかし遺残疼痛(術後三ヶ月を過ぎても消えない痛み)にいまも苦しみつづけている。何度治療しても痛みは消えなかった。

「まるで体が、艦娘だったころを忘れるなって、わたしにいってるみたい。これもホーミングゴーストなのかな」

 減圧症のリスクを軽減するナイトロックス(通常の空気より窒素に対する酸素の比率を高くしたガス)が海軍で実用化されたのは、終戦のわずか二年前だった。そのころにはすでに彼女の肉体は数々の任務をこなした代償として減圧症に蝕まれていた。ナイトロックスには酸素中毒のおそれがあるのであまり深く潜れない欠点もあった。

「手術とリハビリで長期療養ってことになって、ちょうどいいからさっさと退職したわ。いまはもう、その会社もないみたい。リハビリしながら、わたしにできることはなんだろうって考えてたら、やっぱり海しかなかった。復興も一段落して、レジャーを楽しむ余裕をもつ人も増えた。せっかく軍に潜水を叩き込まれたんだから、ダイビングのイントラ(インストラクター)にでもなろうかなって考えたの。退役した潜水艦娘がダイバーだなんて、自分でも安直だって思ったけれど、海は恐いばかりじゃないってことをできるだけ多くの人に知ってもらいたかった。ついでにそれでご飯が食べられたら、最高でしょ?」

「食えなきゃやってけないもんな」

「でも、甘かった。イントラの資格をとって、ダイビングショップに雇ってもらわなきゃいけないんだけど、とにかく人手が足りないから、常勤になりたいならダイビングを教えるだけじゃなくて、接客とか電話応対ももちろんしなきゃいけないし、事務仕事だってある。それは前の職場でもやってたからべつによかったんだけど、生徒やお客さんの送迎もひとりでやらなきゃだから、たいていのショップでは普通免許がいるのよ」

 元伊168は語を継いだ。

「まずトレーニング開発コースを修了させて、それからイントラ試験の学科と実技を勉強しながら、教習所にも通って。失業保険が切れてからはパートにもでたわ。ダイビングの機材も自前だから、もうとにかくお金がかかるかかる。まだあのころは恩給年金が減らされる前だったからなんとかなったけど」

 

 トレーニング開発コースに参加するためには、プロダイバーの初歩ともいわれるダイブマスターの資格を取得していなければならない。そのダイブマスターの受講には、前条件としてアドバンスド・オープン・ウォーター・ダイバーと、エマージェンシー・ファースト・レスポンス(EFR)の資格が要求される。

 

 アドバンスド・オープン・ウォーター・ダイバーは、水中でコンパスを用いて目的地へ向かうコンパス・ナビゲーションや、海底の地形を目印に泳ぐナチュラル・ナビゲーションを修得する水中ナビゲーションのほか、水深十八メートル以深におけるより高度なダイビング計画を策定するディープ・ダイブ、デジタルカメラによる水中撮影の技術を獲得するデジタル水中写真ダイブなど、二十の科目から五種類を選んで受講する。

 

 EFRでは、日常生活で起こりうる緊急事態を想定し、心肺蘇生や応急手当の基礎知識を学ぶ。

 

 いずれの学習内容も潜水艦娘にとっては艦娘学校と潜水教育隊でほとんど修得していて、「いまさら!」と思うものばかりだが、資格として取得するにはあらためて費用を払い、教材を買って受講し、協会から証書が発行されなければならない。

「あと、最低四十本のダイブ経験も条件に入ってた。軍で艦娘として潜ったのは艤装の性能頼みだからノーカウント。それで仕事と勉強の合間を縫ってダイブもしてた。もちろん、そのお金も自腹。ダイブマスターになって、やっとトレーニング開発コースに行けるの。イントラの玄関よ」

 聞いていた元長波が息を吐いた。

「気の遠くなる話だ。ダイバーってのは資格まみれなんだな」

「艦娘みたいでしょ?」

 

 艦娘は資格で武装しているといわれるほど多種多様な資格を必要とした。前線において自分でメンテナンスやある程度の修理をするための艦娘用艤装の準整備士資格。燃料を扱うための危険物乙種四類と、油濁防止管理者、有害液体汚染防止管理者資格。遠洋にでるので海技士(航海)の資格。無線交信をおこなうための一級海技士(通信)に無線従事者資格、船舶局無線従事者証明。艦娘が着装状態で洋上にあるときは法的に船舶扱いとなるから小型船舶操縦士免許。艦隊を引率する旗艦はもっと資格が多くなる。

 これらに加え、深海棲艦と戦うための兵装を使うにも資格がついてまわる。駆逐艦娘なら主砲として搭載されるものには、十二センチ単装砲、十二・七センチ連装砲、そのB型改二、十センチ連装高角砲、十二・七センチ単装高角砲、十二・七センチ連装高角砲などがあるが、これらを扱うにはそれぞれ別個に資格が必要になる。たとえば十二・七センチ連装砲の資格しかない艦娘が十センチ連装高角砲を搭載、発砲することは違法となる。いずれの武器も構造が複雑で、すべておなじようには操作できないからだ。魚雷発射管や各種の対空機銃にいたるまで、兵装の使用には個別の資格を取得していなければならなかった。

 船乗りとしての各種資格があるのだから、退役後も民間で登用が望めるかというと、そうはならなかった。たとえば一級海技士(航海)の資格は、二級海技士(航海)の資格を有したうえで、航海士の役職なら四年、一等航海士か船長なら二年以上の乗船履歴がなければ受験できない。油濁防止管理者資格を受けるには、タンカーで油脂の取り扱い作業に一年以上従事しておかなくてはならない。しかし艦娘を戦力化するにあたってそういった実務経験を積ませている時間的余裕はなかった。そこで政府は艦娘にかぎって受験資格から乗務経験を免除して試験を受けさせることにした。いわば戦時の艦娘特権であったので、本来は必要な実務経験なしで取得した資格は、退役すれば自動的に失効することになっていたのである。

 

「世の中、うまくいかないもんだよな。あんなに勉強したのに」元長波はおおげさにうんざりして不満を漏らした。その様子に元伊168が微笑んだ。

「艦名を返上して、作戦じゃなく、ただの娯楽のために潜るとね、あのころには見えなかったものが見えるようになった。そういう意味では驚きと発見の連続だったから、資格の勉強も新鮮なことばかりだったし、本数稼ぎのダイブも苦にはならなかったわ。わたしはそれなりに星(撃沈数)を稼いだ潜水艦娘で、海にも慣れ親しんでいたつもりだったけれど、海の中のこと、なにもわかってなかったんだって思い知らされた」

「どう違うんだ?」

「生身だから、イムヤだったときより、あまり深くは潜れない。泳ぐ速さも段違いに遅い。明るい海中をのんびり行ったり来たりするだけ。武器も持ってないし。それが嫌でダイバーにならない元潜水艦娘も少なくないらしいよ。深く、鋭く、自由自在に泳ぎ回っていた輝かしい思い出を汚したくないって。わからなくもないわ。潜水艦娘として戦うためにわたしたちは戦闘機動を体に叩き込んだ。魚雷を命中させるには敵潜の六時方向に占位しなければならないし、相手からの雷撃も避けなきゃいけないから。その場の最適解では二手先、三手先で詰む。おまけに、一対一ならともかく、複数と複数だから、マニューバをいくつも組み合わせて三次元空間内を敵味方が複雑に切り裂くの。自分の尻尾を追う馬鹿な犬みたいに相手のお尻を追いかけるだけじゃなくて、E-M理論(より大きな戦闘機動エネルギーをもつほうが有利な攻撃位置をとりやすいとする理論)をつねに念頭に置いてね」

 元伊168は両腕を右へ左へ交錯させながら説明した。

「急浮上はできないし、加速度と旋回半径も上限があるから、おのずと機動はかぎられる。だから海中をすべて使えるわけじゃない。あのころは海が狭かった。みえない天井があるようなものだから。レジャーのダイブだってタンクの行動半径より遠くは行けないけど、でも、ときどき、寂しくなるの。広すぎて」

 わかる気がする、と元長波は思っている。艦娘だったときは自分たちこそ海原の支配者だと驕っていた。海を味方につけている自信があった。いまは海が他人の顔をしている。

「イムヤじゃなくなったわたしは、ダイバーとして新たに生まれ変わらなきゃならなかった。なまじ潜水艦娘のプライドとか知識があるから、まっさらな人より手間取ったかも」

 インストラクターの資格をとり、晴れて常勤として雇用されても、けっして順風満帆ではなかったという。

「下世話な話になるけど、手取りってどんなもんなんだ」

 元潜水艦娘は少し考えて、

「基本給プラス、ダイビングが多い夏の繁忙期手当とか、わたしのいたショップには固定客をつかまえたらそのぶん歩合制でとかあったんだけど、もろもろ合わせてだいたいこんなもの」

 指で数字を示した。おどろくほど少ない額だった。

「そんならセブンイレブンでひと月二十五日バイトしたほうが稼げるな」

「ほんとね。何年も勤めて役職のついたイントラでも、まともな会社の大卒の初任給のほうが高いのよ。そういう仕事なの。しかも冬にダイビングする人なんていないでしょ、そういう時期はもっと低くなるわ。それでもわたしはよかった。子供のころ、海は間違いなくわたしの仕事場だった。そこへまた仕事で戻れる。うれしかった。青一色の世界、ロウニンアジの途方もない群れ、海底をのそのそ歩くテンジクザメ、雲みたいに頭上を悠然と覆っていくジンベエザメ……。それに、海で色とりどりの魚をみたときの、お客さんの反応ときたら! 戦時中に趣味のダイビングなんてなかったから、海で泳ぐ魚やカメをその眼でみるのがはじめてっていう人も多かったのよ。だれもかれもが感動してた。それだけでどんな苦労も吹っ飛んだ。たぶん、あれがやりがいってやつだったんだと思う」

 日常業務に追われ、ナイトダイブの依頼があれば残業もしながら、インストラクターとしてのキャリアアップのため勉強もつづけた。寝る間も惜しんだ。

「だれにも命令されてないのに、自分で目標を設定して仕事なり勉強なりしてるのが、なんだか不思議だった。作戦を作成するのとは違う。大きくいえば自分の生き方を自分で決めるために毎日があるのよ。ああしろ、こうしろって二十四時間決められたとおりにしていたころとは、なにもかも正反対だった。順応するのに苦労したわ」

 

 元長波は神妙に頷いた。自分の生き方を自分で決める。元長波がしようとして、できなかったことだった。退役した元長波は実家でなにをするでもなく無為徒食(むいとしょく)に過ごした。きょうこそはなにかをしよう、再就職のための一歩を踏み出そうと、毎朝自分に誓った。なにもできないまま日が暮れた。それが何年もつづいた。母はよく耐えた。だが当時はそれを(おもんぱか)ることができなかった。気遣いが鬱陶しいとさえ思っていた。自分のことだけで精一杯だった。増えていく薬を酒で飲むこともあった。そういうときは決まって留置場で目を覚ました。警官に見覚えのない人間の写真をみせられ、おまえはこの男を殴ったのだと説明されても、「なんのことかわからないがあんたがそういうんなら残念ながらそうなんだろう」と答えるしかなかった。身元引き受け人はいつも母だった。自分ではなにもいわなかったが、担当の刑事によると、母は先方にひたすら謝って被害届をだすのだけは許してもらったということだった。帰り道、母はただ、「お腹空いたでしょ?」とだけいった。元長波は二度と繰り返すまいと肝に銘じた。何度かつづいた。母はついに、警官が行き交う警察署であたりはばからず、娘に手を張り、声を荒げた。

「戦争がつらかったのはわかるわ。でも、もう何年経ったと思ってるの? いつまでこんな生活をつづけるの? いつまで引きずれば気がすむの?」

 そして母はこうつづけた。

「結局、あなたはどうしたいのよ」

 思わず元長波は訴えた。

「まさにそれを知りたいんだ。わたしはどうしたらいい?」

 答えはみつからなかった。同期の元朝霜も元伊168もみつけていた。同期にできてなぜわたしにはできないのか。自分が弱いからだとしか思えない。いや、それ以上に元伊168が必死で働いたから前へ進めたのだ。

 

「苦労したろ」

「戦争中とおなじくらいね」元伊168は万感の思いがこもった笑みを滲ませた。「コースディレクター(ダイバーのインストラクターとしては最高位の資格)を取って、お金もこつこつ貯めて、青色欠損だの減価償却だの、自営業に必要なことを店長に教えてもらって、自分のショップを開いた。独立よ。仕事はもっと増えた。自分のことだけじゃなくて、経営に、従業員の人生も考えなければならないもの。収入に関係なく銀行にお金も返していかなくちゃいけないし、やっとお金が入ってきたと思ったら決算の時期だったり。最初の三年はずっと赤字」

「三年も?」

「新しくお店を構えたら三年は赤字がつづくのが普通らしいの。銀行もそのつもりで計画を立てるんだって。それ聞いて、すこしは気休めになったわ」

 元長波は興味深く傾聴している。銀行から金を借りて自分の店を開くだって? 一国一城の主じゃないか。大したやつだよ、おまえは。

「自分の給料はゼロにしてでも、従業員のお給料は確保したわ。彼らは仕事をしにきてるんだもの。若い子ほど、好きなことを仕事にしてるんだからお金は二の次とか、ダイビングできるだけで幸せですとかいうんだけれど、従業員がうちの仕事一本で生活していけるようじゃなきゃ経営者失格って信じてた。まあ、あまり昇給まではしてあげられなかったんだけど。もう毎月、返済と経費でいっぱいいっぱい。四年めでやっと黒字にできた」

 ダイビングをはじめてから出会った男性と結婚したのもその頃だった。公私ともに努力が実を結びはじめていた。「すごいじゃないか」元長波の素直な賞賛に元伊168ははにかむ。

「お店がどうにか軌道に乗ってから何年かして、あるとき引率したダイビングのお客さんのひとりが、こんなことをおっしゃったの。“この魚たちを家で観ることができたら”。それで思い立って、育ってきたスタッフにショップを任せて、南の海の珍しい魚を日本に輸入する仕事を立ち上げたわけ」

「潜水艦娘らしい考え方だ」

「減圧の知識があったから、並のシッパー(現地で魚を捕まえて輸出する業者)では手がだせない深海の魚に目をつけた。わたしたち潜水艦娘にとって、深海魚ってそんなに珍しいものじゃなかったのよ、だから売れるなんて発想がだれにもなかったんだと思う。わたしだって、ダイビングショップをやってなかったら、海の魚を食べるためじゃなくて水槽で眺めるために買う人がいるなんて、信じられなかった。小さな水族館っていえばいいのかしら。戦前はそこそこ多かったらしいけど」

 アクアリウムという趣味は費用が嵩む。その人口は景気の変動に大きく左右される。観賞用の魚を国外から輸入してくるなど戦時中は不可能だった。近年ふたたびアクアリウムは脚光を浴びている。経済的な余裕をアピールするためのステータスとして。

「どんな魚を?」

「いろいろっていってしまえばそれまでだけど、自慢できるのは、ペパーミントエンゼルかな。採集と輸送方法を確立させたの」

 元伊168にとっては、深度百メートル以深の岩礁で漁火(いさりび)のように踊る、鮮やかなオレンジと白の縞模様をまとった、てのひらほどしかないそのマリンエンゼルも、中部太平洋の岩礁地帯を潜航するさいには毎度のようにみかけた、ごくありふれた魚にすぎない。

「そんな魚が、お店に並んだら二〇〇万円とかになるの」

「そりゃすごい」

「それがね、捕まえたり、生かしたまま減圧しながら引き上げたりするのにすっごくコストがかかるから、売れても実はあまり儲けはないのよね。乱獲防止のために年に何頭までって決めてたから、よけいに利益にはならなかったわ。けど、どうせわたしの会社しか捕れやしなかったしね」

 順調にみえた。元伊168自身もようやく新しい人生がはじまったと感じていた。

「好事多魔っていうのかな。ダイビングショップを任せてた経理が、お店のお金を持ち逃げしちゃったの。支払いの現金がない、これには参ったわ。人間でいえば、少しずつの出血ならまあしばらくは持ちこたえられるけど、一度に失血するとショック死してしまう、みたいな。金策で駆けずりまわったけど」元伊168は肩をすくめる。「だめだった。不渡りだしちゃった。法的には二度目まではオーケーなんだけど、一度でもだしたら事実上はもう駄目なのよね。支払いが現金オンリーになっちゃう。それができるんなら最初から銀行なんか頼らないわよね。選択肢はひとつしかなかった。スタッフは、わたしのお店が持ち直すまで無給でもいいから働きたいっていってくれたんだけど、さすがにそれはね……解雇しないと彼らに失業保険が下りないから、せめて会社都合での解雇ってことにさせてもらったわ」

 奔走していた元伊168は、プライベートにも問題が発生していることに気がつかなかった。

「旦那が浮気してたの。わたしが知ったときには相手が妊娠までしてた、わたしたちにすらまだ子供がいないのに。当然、問い詰めるじゃない、“わたしが落ち目だからその女に乗り換えるわけ? わたしのこと、嫌いになったの?”って。そうしたら、浮気はもっと前からだって……ならなおさらどうしてって訊いたらね、“お前はがんばりすぎる。むかしはそれに惹かれたが、そばにいると気が休まらない。お前が仕事をどんどん成功させて輝いていく、そのたびに惨めな思いをさせられていたおれの気持ちがわかるか”。いや、全然意味がわからなかった」

「まったくだ」

「いま考えると、いちばんいいときは年収ではわたしが上だったのよ。それが嫌だったのかもしれない。わたしががんばってれば、夫の自分もがんばりつづけなきゃいけない、みたいなプレッシャーがあったのかも」

 元伊168はため息をつきながらいった。改めて言葉にすることで気持ちを整理しているかのようだった。

「むこうが有責だから慰謝料とろうと思えばとれたんだけど、たとえ収支でプラスになったとしても、もうあんな男とはかかわり合いにはなりたくなかった。さっぱりと別れたわ。どうぞ、その女と仲良くやってくださいって。離婚届はわたしがだしに行った」

「かみさんは自分より格下で自分を立ててくれる女じゃなきゃやだって、そんな男が幸せになんかなれるとは思えないな」

「わたしのみる目がなかったのよ。こんがり日焼けしたいい体に騙された。まあ、いい夢みさせてもらったわ」

 元伊168は自嘲する。

「人生って、潜水艦みたいなものだと思う。べた凪でなんにも問題ないようにみえても、海面下になにが潜んでいるかわからない。それは予想もしない瞬間にいきなり現出して、ドカンと痛い一撃を喰らわせる」

 人生に雷撃を受けても、元伊168はまだあきらめていない。マスター・インストラクターの資格を活かせる仕事をしている。彼女はいまでも海に潜っている。

「海へ入ると、安心するの」

 元伊168はしみじみといった。

 元長波は気になって、

「わたしたち水上艦が潜るときってのは死ぬときなんだが、海の中ってのは、そんなにいいもんなのか」

 尋ねた。

「考えてみれば、不思議よね。人間の体は水中生活には適してない。でも、海のなかからふと海面を見上げたとき、三十八億年まえにこの星の海で生まれた最初の生命も、おなじ光景をみたのかもしれないって、とても感慨深くなる。人間とおなじ哺乳類のクジラなんかは海で生きてるでしょ。クジラの祖先も一度は陸の動物になってたらしいわ。ずっと昔のどこかの渚で、わたしたち哺乳類の祖先の一方はそのまま陸で生きることを選び、一方はなぜだか海へ戻ることを選んだ。海へ帰ったものたちがクジラやイルカになった。せっかく苦労して海から陸へ上がる進化を遂げたのにね」

 

 恐竜が絶滅し、地上が束の間の静寂に包まれたとき、新たな大地の支配者に名乗りを上げたのは、原始哺乳類だった。何億年もかけて陸上生活に適応していた哺乳類にはじゅうぶんにその資格があった。しかし、のちにクジラとなるものたちは再び海を目指した。いまから六〇〇〇万年前のことだった。

 クジラは、現代のラクダや牛と共通の祖先とされるオオカミのような姿の動物が海に入ったものだと考えられている。クジラが元は四足歩行で陸上を歩いていた動物だったことは発生学からも確認できる。スジイルカの胚子には前肢と後肢の基になる突起ができる。その後、発生の段階で、前肢は胸ビレに変わり、後肢は吸収されて、代わりに尾ビレが形成されてくる。

 一九一九年には、バンクーバー諸島沖で、長さ一メートルもの立派な後ろ(あし)の生えたザトウクジラが捕獲されている。祖先の形質を突然変異的に取り戻す、いわゆる先祖がえりの典型例である。

 陸の動物だったクジラが海で暮らすには、はるか昔に原始魚類が両生類に進化して上陸を果たしたときとおなじくらい、肉体の大改造が必要だった。前肢を胸ビレにし、後肢を退化させて尾ビレを手に入れた。呼吸のために鼻孔を頭の上に移動させた。深く潜水するために脳油まで発明した。脳油は、鯨蝋(げいろう)とも呼ばれるワックスで、体温で融け、冷やすと固体になり、海水より比重が大きくなる。マッコウクジラの頭部は全長の四分の一、体重のじつに三分の一を占める。そこに大型のオスなら四トンもの脳油が詰まっている。クジラは潜航したいときには脳油を冷やして固め、頭を(おもり)にして沈む。逆に脳油を溶かして液体にすれば、頭部が海水より軽くなるので、自然に浮上できる。

 ほかにも長時間の潜水に耐えるために筋肉や血液に酸素を貯蔵できるよう工夫した。これは潜水艦娘にも応用されている。

 哺乳類への進化は海から川に入り、陸へ上がることだった。陸から海へ戻ることは進化の流れに逆行しているともいえた。なぜ新たな陸の王者となるべき哺乳類の一部が、自らに試練を課してまで海へと還っていったのか。

 

「彼らはきっと、海が恋しくなったのよ。何億年ものあいだ漂っていたふるさとが。わたしもおなじかもしれない。知ってる? 羊水って、水深二〇〇〇メートルの深海水とほぼおなじ成分なの。そしてこれは、哺乳類の祖先が海から淡水の川へ進出したころの海水の組成に酷似しているらしいわ。そう考えると、わたしが潜りたがるのは、一種の母胎回帰なのかもね。フロイト的にいえばデストルドーってやつ」

 冗談めかして元伊168は述べる。

「減圧症の後遺症も、ダイビングしてるあいだはなぜか気にならなくなった。普通は潜ったら悪化するんだけどね。思えば左膝が壊死したのも、海から離れて会社勤めしてるときだった」

 またいつか店を開くのが当面の目標だと語った。

「お金は盗られたけど、また貯めればいい。潜航したんならきっと浮上もできるから」

 元伊168はいま、別の男性と新たに交際している。

「むこうも奥さんを寝取られちゃったバツイチでね、傷を舐めあうというか、似た者同士だから気を遣わなくていいのよね。再婚するかどうかは、わからないけど」

「たくましいな」

「どうせ人類の半分は男だもの、探せばひとりくらいは波長の合うのがいるよ」

 元伊168は離婚経験のある女にしかできない笑みを浮かべた。艦娘学校で金槌だったために浮き輪に乗せられて晒し者にされていたあの頃とはちがう。艦娘としてだけでなく、ひとりの人間としても素晴らしい女性になった。元長波は眩しいものをみる思いをしている。

 元伊168はいう。

「だって、わたしたち、あの戦争を生き延びたんだよ。死んで英霊になるのが関の山だったあの時代に、いちばんの矢面に立って、生きて終戦を迎えられたんだよ。それに比べれば、どうってことないわ」

 戦争を生き抜いたことを支えにしている元艦娘がいる。一方で、戦争を生き抜いたことを後悔している元艦娘がいる。


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