栄光の代償・元艦娘たちが語る対深海棲艦戦争(GHK出版新書)   作:蚕豆かいこ

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七   海底への挑戦

 ラムネを空にした元伊168は、飲んだ水分量を腕時計型のウェアラブルコンピュータに入力する。専用のアプリケーションが一日に摂取できる水分の量を管理してくれる。鉄剤やカルシトリオール(活性型ビタミンD3製剤)、リン吸着薬を水で服用してから、「いけない、このぶんも摂取量に入れとかなきゃ」と笑って、また液晶をタップする元伊168に、元長波はいたたまれない顔になる。

「すまないな、無理いって押しかけて」

「いいのよ。わたしだって会いたかったんだもん。透析だって毎日じゃないんだから」

 元伊168は目尻に下降する穏やかなしわを刻む。

 

 潜水艦娘の最大の敵は、深海棲艦の潜水艦でもなければ、対潜兵装を充実させた有力なハンターキラーでもない。水圧である。

 たとえば、コメに五〇〇〇気圧の圧力をかけると、デンプンが変性し、常温でも炊き上がった状態になってしまう。マリアナ海溝の底が深度一万メートル余で、約一〇〇〇気圧なので、実際の任務ではそこまでの圧力にさらされることはないが、強大な水圧は、生物の肉体を分子レベルで変質させてしまうほどのすさまじい脅威となる。肺呼吸の動物ならまず肺が潰される。そのため生身の人間なら水深一〇〇メートル前後で呼吸障害により死に至る。

 クジラも、深度一〇〇メートル以深では肺が握りこぶしよりも小さく圧縮されてしまうので、深海へ潜水している間は肺呼吸ができない。クジラの血液や筋肉にはミオグロビンが大量に含まれている。ミオグロビンはヘモグロビン同様に酸素と結合するヘム基を含むタンパク質である。一方で、ヘモグロビンよりもさらに酸素分圧が低い環境でないと酸素を切り離さない性質をもつ。クジラは肺のかわりに、筋肉と血液中のミオグロビンに酸素を貯蔵しておくことで、一時間もの潜水を可能にしている。深海へ潜っているときのクジラは酸素要求量の五十パーセントを筋肉から、残りの五十パーセントを血液から得ている。また、酸素が不足すると、脳などの重要な器官に優先的に血液を供給し、潜水や浮上にあまり関係のない部位への血流を絞るといった芸当もできる。

 

 これを参考にした肉体の改造が潜水艦娘には施される。深度五十メートル以浅では艤装内のタンクから供給される圧縮空気で肺呼吸を行い、作戦前に元の血液と全交換された合成血液のミオグロビンへ酸素を貯蔵させておき、大深度では血中と筋肉中の酸素を使う。また作戦行動中は使用しない消化器系への血流を最小限に抑え、そのぶんの血液を脳や心臓に回すことで効率的な機能の維持、促進を図る。

 

 圧縮空気とミオグロビンの併用によって、潜水艦娘は実用最大深度五〇〇メートルへのダイブを数十時間連続でおこなうという、ある一面においてはクジラを超える潜航能力を手に入れた。しかし弊害もあった。

 深海への潜水には腎臓の処理能力を超える大量のミオグロビンが必要になる。ミオグロビンが腎臓の尿細管に慢性的な損傷を与えつづけることにより腎機能が廃絶し、腎不全や尿毒症を発症することが少なくなかったのである。

「おしっこがでなくなったりしたら、もうアウト。わたしのは泥水みたいな色になってた。血尿で、しかも血のヘモグロビンが壊れてたのよ。いまはもう無尿になってる」

 現在、元伊168の腎臓は健康な人間の七パーセント程度しか機能していない。現役時代なら高速修復材による再生医療が無償で受けられた。しかし軍を退いて民間人になったいま、艦娘としての特権は享受できない。終戦から三年後、市民団体による艦娘や元艦娘の制度上の優遇措置の削減を訴える運動が全国規模に拡大し、当時の政府は「平和の配当」の一環としてこれを法案化、艦娘になれば受けられると入隊時に謳っていた数々の保障を段階的に廃止、あるいは減額していった。元艦娘が高速修復材を用いた治療を望むなら、一般人とおなじ医療費を支払わねばならなくなった。自由診療だから全額自己負担になる。

 

「腕一本生やすだけで家が建つからな。いま思えば贅沢な兵隊だったよなあ、わたしたち」

「文字通り湯水のように使ってたものね」

 元長波と元伊168はけらけらと笑った。

 大規模な作戦となると、ドックに入る時間も惜しんで、母艦に帰るやいなやバケツに汲んでおいた高速修復材の原液を頭からかける荒業も横行した。艦娘たちの間で修復材がバケツと通称されるゆえんだ。

「いまじゃ考えられないな、いくら戦争中とはいえ。薪の代わりにダイヤモンドを暖炉に放り込むようなもんだ」

 そうね、と元伊168は相づちをうつ。脳と心臓以外の臓器はいくらでも替えがきくものだと思っていた。元伊168は生涯、この死にかけの腎臓と付き合っていかなければならない。水にさらした野菜、きめ細かな水分量の管理、一日おきの人工透析。水中生活と縁を切った動物である人間が海にもぐる代償の大きさを、元長波は同期の肩にみている。

「わたしは海の上を走ってただけで、海中のことはソナーの撮像だけでしか知らない。海中、それも深海ともなると、地上や水上の常識は通用しないんだな」

「別世界よ。しかも、世界の海は繋がってるなんていうけど、均質じゃないの。場所によって性質がちがう。ある深度を境にがらっと変わったりする」

「どういうことだ?」

「浅い海は、地球の自転と風で水が動くでしょ。たとえば、黒潮は世界最速の海流だけど、あれを生んでいるのも地球の自転と風なの……黒潮っていっても駆逐艦のほうじゃなくてね(元長波は亡友の駆逐艦黒潮と親潮の大漁祈願の踊りが記憶に蘇って吹き出した)。黒潮は厚みが五〇〇メーターくらいあって、その下には冷たい親潮由来の層が広がってる」

 北から流れてくる親潮は、アムール川などの大陸河川が流れ込んだオホーツクの海水と混じっているから冷たく、塩分が薄い。南からくる黒潮は反対に温かく、水分が蒸発させられているので塩分濃度が高い。両者が出会うと、冷たい親潮は温かい黒潮の下にもぐりこみ、混じり合うことなく別の方向に流れていく。

 

「密度の違いが深海の水の原動力になってるってわけ。重い水が軽い水と出くわしたらその下に沈みこもうとする。黒潮は深度ゼロから五〇〇メートル、水温は最上部で二十六度、いちばん下が十度。深度五〇〇メートルからは親潮が連れてきた冷たい水になる。最上部で十度、深く潜るにつれて水温も下がって、深度一〇〇〇メートルで五度くらい」元伊168は澱みなく解説する。「わたしたちはここまでしか潜れないけど、もっと潜水すると、南極から流れてきた水塊がある。水深三〇〇〇メートルくらいまで広がってて、水温は上層で五度、最下層で一・五度。水深三〇〇〇から下はまたちがう水塊になってる。一万一〇〇〇までがこの水塊で、どの深さでも水温は一・五度で安定してるっていわれてる。酸素もほとんどない。こんなふうに、深海は水温、塩分濃度、酸素濃度が異なるいくつもの水塊が複雑に折り重なってるから、やっかいなの。みえない壁があるようなものだから。音波は異なる温度とか塩分濃度の境目にぶつかると、屈折したり反射したりするから、距離そのものは遠くなくても相手が別の水塊にいたら、探知できないことがあるのよね」

 

 ある科学者は、こんな言葉を残している。「たとえ人類が宇宙へ進出して、どんなに未知の星で未知の物質を発見しようと、水より不可解な化合物と出会うことはないだろう」。

 水は青以外の可視光線を非常によく吸収する。だから二〇〇メートルも潜ると光の量は海面の一パーセント程度しかなく、わずかに届いた光も青だけになる。魚のタイは桜色をしている。タイが生息している水深二〇〇メートルでは赤い光がまったく届かないので、その体は闇にまぎれることになる。一見すると鮮やかで派手なタイも自らの赤い体を照らす波長の光がない深海ではまったく目立たない。そのため、髪が赤い伊168シリーズと、ピンク色の髪をしている伊58シリーズは、とくに深度二〇〇メートルより深い深海での作戦行動に適しており、青い髪の伊19シリーズと黄色い髪の伊8シリーズは比較的明るい浅海の任務に投入されることが多い。光量が豊富な珊瑚礁に乱舞する熱帯魚に青や黄色のものがよくみられるのとおなじ理屈だ。

 深度五〇〇メートルまで潜水すると、ほとんど光のない暗黒になる。照明を点ければたちまち敵にみつかってしまうので、潜水艦娘は視力に頼らず、音を利用する。ソナーにはハイドロフォン(水中マイク)で耳を澄まして相手の発する音を拾うパッシブ・ソナーと、自ら探信音を発して音波が反射してきた時間から目標との距離を測定するアクティブ・ソナーがある。実際にはアクティブ・ソナーは演習以外ではほとんど使わないという。

「昼間でも真っ暗ななかで、じっと敵の気配を探るの。自分の心臓の音さえうるさくなってくるわ。ダルマザメに肉を食いちぎられても、耐えるしかない」

 深海魚であるダルマザメは、特殊な構造の顎と牙で、獲物の肉をまるでスプーンですくいとるようにかじりとっていくという、ユニークな狩りをする。クッキーの型抜きのように肉をくりぬいていくのでクッキーカッターシャークとも呼ばれるこのサメは、獲物を殺さずとも肉をえぐって持ち去っていけるので、相手の大きさに関わらず狩りができる。クジラやイルカ、マグロに円形の傷痕があれば、それはダルマザメのしわざとみてまちがいない。

「中性浮力(浮力と重力を釣り合わせて、水中の一点で定位すること)で海中に留まってるときならともかく、海底だと、血の匂いにつられてヌタウナギまで寄ってくるの。傷口に顔を突っ込んで、ざらざらした舌で肉を削り取ってく。痛いし気持ち悪い。一匹のダルマザメにやられたら、あっという間にその部分が何十匹っていうヌタウナギにびっしり覆われて、骨まで舐められちゃう。それでも、動かない」

 腕を振っただけでも数キロ先の敵潜水艦に気づかれる。敵にアクティブ・ソナーのピンを打たれたとき、それは潜水艦娘にとって弔鐘となる。位置はもちろん存在そのものが勘づかれてはならないのだ。だから入念に走査して敵のいないことがわかってから前へ進む。

 ときにはクジラの骨に身を隠すこともあったという。

「クジラの骨?」

「海底に沈んだ死体よ。たまにあるの。わたしもみつけたのは五、六回だけ。面白いよ、白骨化した脊椎がサイコロみたいなブロックになって、それが等間隔にまっすぐ並んでる。大きなものなら寝そべればなんとか隠れられる」

 深海底に文字どおり骨を埋めることになったクジラのなきがらには、かならず無数の生き物が蝟集していた。

「沈んだクジラの骨は、死後百年経ってもまだ油が抜けきらないっていうわ。油分が腐るときに硫化水素がでるから、それを目当てに真っ白なエビや貝の仲間なんかの、いわゆる化学合成生物群集がコロニーをつくる。化学合成生物群集は本来は熱水噴出孔にしか棲めないけど、硫化水素とか、そのほかの養分に富むクジラの骨は、つぎの熱水噴出孔にたどり着くまでの貴重なオアシスなの。動体が多いうえに隠れる場所までくれるから、わたしたちにとってもオアシスだった。クジラに感謝」

 と元伊168はラムネびんのビー玉を鳴らした。

 

 海底には、地殻変動で生じた裂け目に海水が浸入し、地下のマグマだまりで熱せられて温泉のように噴き出している熱水鉱床がときおり存在する。マグマ由来の硫化水素や重金属の硫化物が絶え間なく撒き散らされる、地獄のような環境である。硫化水素は人間だけでなくほとんどの動物にとって猛毒だが、深海には逆にそれでエネルギーを生産している生物がいる。

 チューブワームとも呼ばれるハオリムシは、海底熱水鉱床では必ずみられる、ゴカイに近い動物で、体内に硫化水素と酸素をエネルギー源にする硫黄酸化細菌をぎっしりと共生させており、その重量は全体の九十パーセントにもおよぶ。ハオリムシ自身はひたすら熱水の硫化水素を取り込んで硫黄酸化細菌に供給する。体内のバクテリアがエネルギーや栄養をつくりだしてくれるため、口も肛門も消化器官もない。

 ゴエモンコシオリエビは、毛ガニのような毛むくじゃらの甲殻類で、体毛に硫化水素をエネルギー源とするバクテリアを住まわせている。牧場のようにバクテリアを増やしてはそれを食べるのである。

 熱水噴出孔が吐き出す重金属を利用し、自らを装甲する巻き貝もいる。スケーリーフットは一見ただの小さな貝だが、鉄と硫黄の化合物である黄鉄鉱のウロコで、足の裏を鎧のように覆っている。鉄の防具をまとう動物は人間のほかにはスケーリーフットと深海棲艦しかいない。

 このほかにも熱水噴出孔付近には硫化水素に依存した生物たちによる生態系が構築されている。

 

 これら熱水噴出孔をよりどころとする生物を化学合成生物群集と総称する。浅海や地上の植物にとって太陽が無限のエネルギー源であるように、熱水噴出孔は、硫化水素と金属イオンの充満する灼熱地獄でありながら、光のない深海に化学反応のエネルギーを供給する楽園なのだ。

「地球で生命が誕生してしばらくは、硫黄酸化細菌みたいに硫化水素をエネルギー源にする生き物がむしろ主流だったそうよ」

 元伊168が悠久の歴史に思いを馳せる。

「そもそも地球が火の玉だったころは、酸素なんかなくって、海も空も硫化水素と二酸化炭素で溢れてたわけだしね。酸素を利用する生き物が現れたのはずっと後。むしろ酸素は、黎明期の生物からすれば、触れただけで死ぬほどの猛毒だった、ちょうどわたしたちにとっての硫化水素みたいに。だって、酸素があるから酸化するし、活性酸素って奴で体が老化するわけでしょ。やがてラン藻なんかが二酸化炭素を光合成で消費しているうち、地球が酸素っていうゴミで溢れるようになって、逃げ場がなくなって、ようやくその猛毒と向き合わざるをえなくなって、わたしたちの祖先に繋がった。化学合成生物群集は、初期の生命のライフスタイルのまま、現代まで生き延びた、歴史の生き証人なのかもしれない」

「深海棲艦もか?」

 元長波に、

「もしそうなら、わたしたちの大先輩なのかもね」

 海底世界に身を置いていた元潜水艦娘は笑ってみせた。硫化水素。艦娘にとっては馴染み深い物質だ。深海棲艦の吐息は硫化水素だった。腐卵臭の軍勢。人間にとって嗅覚に関する記憶は極めて感情的で、かつ正確だ。元長波も、排水口のトラップが働かないなどの理由で下水から硫化水素をふくんだ臭いが逆流してきたとき、一瞬にして戦時中に時間が戻り、戦場にいたときの感情――恐怖、怒り、悲しみ、それらに加え、何ヶ月も組んできた僚艦が轟沈するさまを目撃したときに生じた、まだ名前をつけられていない感情――が蘇ることがある。

 

 深海棲艦は世界中の深海に拠点を有していた。強大な水圧に阻まれた深海はまさに難攻不落の要塞だった。その偵察は潜水艦娘にしかできない。元伊168がシリアルナンバー640-010731として重ねた軍歴でいちばんの大仕事は、人類初となるトンガ海溝の偵察任務だった。

「知ってる。〈緯度0大作戦〉だろ」

「やめてよ、恥ずかしい」

 茶化された元伊168は赤くした頬を押さえて、照れ笑いしながら、反対の手をひらひらさせた。

 その当時はトンガ海溝に深海棲艦が潜んでいるかどうか摑めていなかった。潜水母艦娘大鯨にひきいられ、元伊168を含む潜水艦隊が偵察に向かった。一日やそこらですむ通常の斥候とはちがう。ひろびろとした海原にもぐり、幅六十キロ、長さ一二〇〇キロ、深さに至っては一万メートルを超える、斗折蛇行(とせつだこう)の海底の断崖を偵察することは容易ではなかった。海溝に侵入することは潜航深度の面からも不可能なので、露見しないよう付近で隠密に監視し、敵のあるなし、あるならその規模を見きわめてこなければならないのである。ひと月かかるかふた月かかるか見当もつかない。というより九割がた生還の見込めない任務だった。

「深海棲艦が高牙大纛(こうがだいとう)(本陣にたてる旗、指揮官の所在を示すしるしのこと)を飾ってくれてるわけないから、長い海溝のどこにいるのか、目印もないしね。底に潜ることができればいいんだけど。海面から海溝の底まで、距離にしてたったの十キロ。だけど、この十キロは、月までの三十八万キロより遠い」

「たしかにな。月に行った人間はいても、一万メートル級の海溝の底に降り立ったやつは、まだいない」

 

 元長波はあらためて潜水艦娘が海の底で陰ながら身を粉にしてきた偵察の困難を思い知った。潜水艦娘の持ち帰る情報がなければ作戦の立てようがない。もし帰還しなかったとしても、それはそれで相応の敵がいるという情報が手に入ることになる。潜水艦娘は駆逐艦娘以上に使い捨ての感が強かった。

 苦心惨憺の末、元伊168たちはトンガ海溝直上の海面で自沈した多数の輸送ワ級が海溝へ沈んでいくところを確認した。輸送ワ級は物資の輸送に特化した深海棲艦だ。オーストラリアの砂漠の地下に生息するミツツボアリのように、体内に物資を大量に貯蔵することができる。元伊168らは知らなかったが、その輸送ワ級は各地の戦場で戦死した艦娘や深海棲艦の残骸を回収し、トンガ海溝へ運んでいたことがのちの各部署との突き合わせにより判明した。深海棲艦がトンガ海溝の底でなにかを目論んでいることはまちがいなかった。数ヵ月後にサーモン海域北方ではじめて確認されたキメラのような新型深海棲艦、戦艦レ級はトンガ海溝で生まれたと考えられている。

 生存の限界ぎりぎりの大深度で命を削る決死の偵察任務から戻ってきた伊168は、生還するとは思っていなかった将校らの驚きの顔と、母の訃報に接したのである。

 伊168たちのもたらした情報を分析した結果、「ただならぬ暴君(タイラント)が現出する」(『サーモン海に墓標なし――私記サーモン海戦・防衛省海軍報道部』より)と予想した海軍は、ラバウルから急遽、一個海上師団をブイン泊地に引き抜き、サーモン方面へ送った。この即断即決が偉功を奏し、戦艦レ級をふくむ敵機動部隊を掃滅、サーモン諸島の制空・制海権を守ることができた。

 幕僚たちは一致して、元伊168らの勇気、貢献、功績を賞賛した。ある全国紙が「敵任務部隊せん滅」とカット見出しを組み、「海軍サーモン海で快勝」の主見出しとともに、「鍵は潜水艦娘たちの緯度0大作戦」と調子のよい袖見出しを添え、大きな反響があったことから、海軍も後付けで緯度0大作戦と命名するに至った。元伊168は軍に在籍中、「ああ、緯度0大作戦のイムヤ?」といわれることがはなはだしかったという。

 

「深海棲艦ってのは、最初は全部潜水艦なんだろ?」

 元長波が訊く。

「まあ、そりゃあ、深海に住んでるから」

 元伊168が答える。

 深海棲艦の幼生は硫酸イオンを呼吸に使う原始的な深海生物で、成長とともに変態をとげ、駆逐イ級や空母ヲ級などに分化する。いちど水上艦型に変態すると水中生活は不可能になる。

「オタマジャクシがカエルになるとエラ呼吸できなくなるのとおなじかもね。生き物の成長の過程は進化の再現だから。人間も、胎内では最初、魚類に似た姿をしているそうよ。目は顔の横につくられて、顎や口蓋はエラに類似していて、つぎに両生類みたいな姿を経て、水かきのある指ができて、尾びれが尻尾になる。やがて水かきや尻尾がなくなって、眼球が顔の正面に回って、終盤になってやっと霊長類の特徴を帯びはじめる。原始魚類からホモ・サピエンス・サピエンスの誕生まで五億年を要したといわれているわ。胎児は母胎のなかで五億年の進化を経験しているのね」

 深海棲艦の幼生が水中生活型のまま長じたものが、潜水カ級をはじめとする深海棲潜水艦だから、深海棲艦はその生態の初期ですべて潜水艦という元長波の認識も、まちがっているわけではない。

「進化は、退化と同義だと思う。人間は進化に進化を重ねたことでエラを失い、べた足になったせいで走る速度は遅くなったし、体毛を捨てたから衣服がないと寒さに耐えられなくなった。深海棲艦は戦艦や空母といった強力な形態へ変態できるけど、もう自分たちが生まれた深海の底へ帰ることはできない。肺呼吸に移行してるから。故郷に還るのは沈むときだけ……」

 元伊168は恬淡と述べた。

 

 わたしも艦娘になる過程でいろいろ失った。元長波はぼんやりと考えている。自分で展望を拓く能力はまっさきに訓練で奪われてしまった……もしわたしにそんなものがあったとしたならと彼女は注釈をつけるが……艦娘のなかでも最下級の働きアリである駆逐艦娘にもとめられるのは、なによりも愚直さだった。駆逐艦娘は与えられた命令をいかに完遂するかに脳漿を絞ればよいのであって、命令の意義を疑ったり、無統制や越軌のもとになる柔軟な発想力は僭越として矯められなければならなかった。なら、わたしがこんなひどいありさまになっちまったのも、艦娘に進化するための代償だったのか? だとしたらもう戻れない。オタマジャクシからカエルへの変態が不可逆であり、イ級に変態した深海棲艦が元の深海生物に遡行することがないようにである。

 元伊168は、まさにクジラなのかもしれない、と元長波は感じている。艦娘に進化した元伊168は、それとおなじくらいの試練を越えて、普通の人間へと戻ったのだ。そして普通の人間でいつづけるために不断の努力をしている。だからこそ元長波は、元伊168に憧憬の念を新たにする。それはちょうど、人間がクジラに寄せる情動に似ているかもしれない。

 

  ◇

 

「映画、みたわ。映画館には行かなかったけど」

 元伊168が切り出した。映画とは、七年前、ジャム島防衛戦を題材にとって終戦十五周年記念として製作された『ジャム島 非遇の作戦』のことだ。封切りは終戦記念日の八月十五日だった。ジャム島で力戦むなしく追いつめられていく第32軍の苦悩と敗北を克明に描いたその作品は、それまで深海棲艦との戦争を扱った映画といえば海軍と艦娘の雄姿、勝利を全面に押し出すものと相場が決まっていたなかにあって、ひときわ異彩を放つこととなった。良くも悪くも。

 艦娘映画では定番の華々しい海戦シーンはなく、本土に見捨てられたジャム島の艦娘たちがただ敵の艦砲と空襲に晒されて逃げまどい、壕の泥にまみれ、負傷と飢えと渇きに苦しむ場面が続くうえに、映画のなかでは日本は深海棲艦に明確な勝利を掴むことなく幕が下りる。ようやく戦備の整った本土からの救援によって、主人公の艦娘が島をあとにするところでエンドマークとなるからだ。艦娘のみならず名もなき現地の軍属や一般人の死、とくに軍の命令による非戦闘員の集団自決など、酸鼻きわまる描写もさることながら、戦勝国としての輝かしい日本が描かれていないとして各方面からバッシングされ、興業収入は伸び悩み、月刊キネマでは二十三位、映画公論では二十二位にとどまった。退役艦娘会が上映中止の抗議文を配給会社に送ったことも話題になった。

「あなたはみたの」

「みたさ」

 元長波も映画館へ足を運んではいない。艦娘になる前はときおり父に連れられて観に行く映画が楽しみだった。しかし戦争から帰ってきた彼女には大きな音は凶器になっていた。自宅のマンションでうつらうつらしていたある昼下がり、つけたままのテレビから流れた、甲子園の試合開始を告げるサイレンで、元長波は叫びながら飛び起きて、ありもしない艤装や救急医療キットを大慌てで探し、もうどこにもない防空壕へ避難しようとした。夏の夜空を彩る花火大会にも行けない。爆音で自分がなにをしでかすかわからないからだ。

 長年の投薬治療とカウンセリングが役に立ったのか、最近になってようやく不意の音にも耐性がつきはじめた。しかしやはり戦争映画は意識して避けていた。彼女には勝利の物語が馴染めなかった。戦争に勝った。勝ったのになぜわたしは結婚もできず、戦争後遺症で家族をめちゃめちゃにし、何種類もの薬がなければ生活もままならないのか? ハンサムな男優の演じる士官かなにかと恋に落ち、ホーミングゴースト現象にもPTSDにも悩まされず、メイクもパーマもばっちり決めて戦場へ赴き、でたらめな無線交話法と武器の操作で戦い、大したけがもせず敵を倒して英雄として讃えられる銀幕の主人公たちが、自分とおなじ艦娘であるとはどうしても思えなかった。あれを艦娘と言い張るのか? あんな艦娘がいたら、鹿島助教に一日じゅう屈み跳躍をやらされるぞ。

 

 はじめてまともに観る気になった戦争映画が『非遇の作戦』だった。ジャム島を舞台にした唯一の映画という点に惹かれた。第三者がジャム島をどう再現するのか気になって、わざわざ動画配信サービスの会員になった。

「観て、どう思った?」

 元伊168は元長波がフラッシュバックを起こさないよう慎重に訊いた。

「9海師(第9海上師団)が引き抜かれたり、84海師派遣が中止されたり、24海師と独混44海旅(どっこんよんじゅうよんかいりょ)(独立混成第44海上旅団)が突撃させられたりとかいう流れは全部ほんとうだ。艦娘だけじゃなくて島の現地民がバッタバッタ死ぬとこを避けなかったのもいい。ただ……」

 元長波は灰皿に煙草を押しつけた。また新しい煙草を箱の尻から取り出して火をつける。

「主人公が飢えに飢えて、ネズミを食うシーン、あっただろ?」

 食糧のつきた壕で、目の前を一匹のネズミが走るのをみつけた主人公は、空腹のあまり目の色を変えて捕まえる。哀れみを誘う声で鳴く掌中のネズミに主人公は我に返って逡巡する。こんなものを口にしたら女として、いや人間として終わりだ。自らの惨めさに涙を流し、しかし飢えには勝てず、ついには意を決して獣のようにむさぼる。

「あのくだりはまちがいだな」

「ネズミなんか食べなかった?」

「いや」元長波は元伊168の勘違いを笑って訂正させた。「あのころわたしたちは、セミとかコオロギとかゴキブリでどうにか飢えを凌いでた。そんなだから、ネズミなんてみつけたらほかの仲間さえ押し退けて飛びついて、そのままむさぼり食ってただろうね。ネズミってけっこう美味いんだ。ほんとに飢えた人間には見境がない。木の根っこまでわれさきに食ってた。ましてネズミごときでためらうわけがない」

 なにしろ、事切れたあとだとはいえ、可愛がってくれた先任艦娘さえ食っちまったんだからな。元長波はその言葉を呑み込んだ。

「わたしたちがトンガ海溝の偵察を成功させなかったら、ジャムから9海師が引き抜きされることもなかったのかな」

 元伊168が忸怩(じくじ)たる思いを打ち明けると、

「いや、それはちがう」

 元長波は即座に退けた。

「おまえはおまえの仕事を完璧に果たしただけだ。非難されるいわれはないよ。極言すりゃ、おまえの偵察がなかったら、まだ戦争は終わってないかもしれないんだ。誇りこそすれ、悔やむもんじゃない」

 元伊168は救われたような顔となる。

「集団自決の真偽については、どうなの」

 元伊168は迷ったあげく、意を決して訊ねた。

 ジャム島防衛戦では当時の現地住民の三分の一にあたる三十万二〇〇〇人が死んだ。そのうち一パーセント強となる四〇〇〇人は、日本海軍の命令で自決を強要されたという主張が戦後から現在にいたるまで盛んに叫ばれている。『非遇の作戦』作中には、敵の猛攻に進退窮まった疎開途中の老幼婦女子が、肉親同士で互いに棍棒で頭蓋を打ち据えたり、剃刀や鎌で頸部を切ったり、親が子を抱いて崖から飛び降りたりするシーンがある。

「わたしも現実に自分の眼でみたわけじゃないけど」元長波は前置きしてから、「集団自決そのものは、実際にあったことだよ」

 元伊168は信じられないという顔になった。地方人(現地の民間人)は戦闘の役に立たないばかりか、守らなければならないぶん、むしろ軍の足を引っ張る。そのため作戦の都合で強制的に自決させられたのだと、日本海軍および日本に対する責任追及の機運がジャムを中心に高まっている。防衛省は終戦から五年後に遺族への補償をはじめた。三年前には政府が集団自決の強制性を改めて正式に認めて謝罪し、遺族への追加の賠償として基金を設立した。これらをもって国際社会は、日本が自ら罪を認めたと判断した。集団自決の強要はあったのだと。

「わたしたちの軍が、そんなことをさせたなんて」

 海軍に身を置いていた者として元伊168が悔しさを滲ませた。近年ジャムは教科書にも集団自決について記載するよう日本に要請をだしている。

 

「集団自決はあったとはいったけど、そういう軍命があったとはいってないぞ」

 元長波がいうと元伊168は顔をあげた。

「わたしが知るかぎり、ジャムの地方人は日本人なんかよりよほど日本人らしかった。わたしたち軍にいかに協力するか、いつもそれだけを考えてたよ、老いも若きも、男も女も。自分たちも腹空かせてんのになけなしの芋わけてくれたり、男たちは、築城やら通信やらに使ってください、女の子は女の子で看護婦にしてくださいって司令部に連日殺到したり。先祖から受け継いだ土地を守るなら命を捨ててもいいってね……。彼らは権利より義務を主張するんだ。だから彼らは、むしろわたしたちの足手まといになることを恐れて自発的に殉じたんだと思う。どうせ深海棲艦相手じゃ投降できないからね。奴らにやられるんならいっそ自分の手でっていう部分もあったんじゃないか」

 映画でも、はっきりと軍が自決を命令しているわけではない。海からの苛烈な艦砲射撃を受けるある陣地に地方人の男が「このままでは村民が。わたしたちも壕に入れてください」と懇願しにくる。指揮艦の艦娘がそれをはねつける。彼女はつづける。「非戦闘員は、全員……」、そこで至近弾により言葉が途切れる。次のカットで、仲間たちのもとへ戻った地方人の男と向き合っていた古老が「自決……」と呟き、くだんの自決シーンへと移行する。軍が命令したとも、自発的ともとれるよう構成されている。

「第一、日本海軍にジャム島の住民への命令権なんかない。よその国の国民だし、いくら戦争中ったってそんな権限を勝ち取れるほどわが国は外交がお上手じゃない。それに、考えてもみてほしいんだが」

 元長波は重ねた。

「山野の形改まるとまでいわれるほどの砲爆撃を昼夜分かたず食らい続けて、陣地をでるのも容易じゃないって状況でだな、あちこちの壕に分散してこもってる四〇〇〇もの地方人に自決しろって命令して回る余裕なんか、あると思うか? それほど指揮系統や情報伝達能力が維持できていれば、わたしたちはもっと上手く抗戦なり撤退なりできていたはずだよ」

 ジャム島での戦いの終盤では、司令部の移動に際して、命令の伝達ミスによりとある陣地の艦隊が勝手に撤退し、防衛線に穴を空けるという失態を演じている。情報の錯綜による部隊の機能不全は大小問わず島のあちこちでみられたことだった。

「あの人たちは、自らの命を自らの意思でなげうって、自分たちの先祖が守りつづけてきた墳墓の土地に殉じたんだ。だれかの言いなりになって震えながら死ぬような愚か者じゃない。みんなサムライだった、わたしなんかよりね」

「じゃあ、どうしてそれをいわないの。あの島で戦った艦娘として、あなたには真実を語る義務があるはず」

 元伊168が詰め寄るが、元長波は揺るぎもしない。

「真実ってやつは、腹の足しにはならないんだよ」

 元長波は遠い目になった。

「ジャム島を最前線にするにあたって、あらかじめ女子供を中心に疎開させてたわけだ。栄光丸と備後丸(ともに南海汽船から軍が徴用した貨物船)が敵潜に撃沈されてからは疎開も滞りがちになったけど、ともあれ戦争が終わって帰ってきてみれば、一家の大黒柱が自決して死んでしまっている。現代戦が例外なくそうであるように、深海棲艦との戦争に勝ったっつっても、びた一文儲かりゃしないからな。残ったのは深海棲艦が排泄したアスファルトに埋まった土地、地雷になった不発弾だらけの山河、麻痺した行政、くそみたいな不況、通貨危機。戦後を生きていくには、そりゃあ苦労しただろう」

 元長波は前提を確認した。元伊168はもどかしい表情をしながらも熱心に聴いている。

「そこでだな、わたしの旦那は日本海軍の命令で自決したんです、と申し入れるわけだ。軍からの命令で死んだんなら準軍属ってことになるから、遺族には非課税の弔慰金と遺族年金が支払われる。背に腹は変えられなかっただろうな。生きてくためにはしかたがない。まして小さな子供を抱えてるとかだったら特にね。もし強制性がうそだったと証明されたら困る人が大勢いる。軍が泥を被ることであの島の人たちが助かるなら、それでいいじゃないか、恩返しだとでも思えば」

 元伊168はなおも反論しようとして、矛を収めた。その戦場に居合わせた人間でなければわからないことがある。

「ほかにも、ある」

 元長波は訥々と語った。

「映画が事実と異なるところは、ネズミを迷いながら食べたことだけじゃない。敵の攻撃が激しくなって、司令部撤退に伴って野戦病院も移動することになったんだが、連れていく患者は歩けるもののみとされた。歩けないものは処置せよとの命令だった。自決用に青酸カリを混ぜたミルクが配られた。わたしもその手伝いをした。ミルクを注ぐための飯盒の蓋やブリキの缶を重傷患者の枕元に置いて回ったよ。器をじっと見つめる奴、自暴自棄になってひっくり返す奴……反応はいろいろだった。で、ある長波にも配った。両足がなく、腕は両方とも肘から先がなかった。らい病患者のように腕も脚も包帯でぐるぐる巻きにされているその長波は、いままでだれの顔にもみたことのない表情でわたしをみた。“日本のためにって煽られて、こんなくそみたいな島で捨て駒にされて、それでも一所懸命に戦ってきたあたしたちに、こんな仕打ちをするのか。なにが日本だ、なにが日本海軍だ”。そして、わたしに、こういった。“なあ、おまえも長波だろ、一緒に連れていってくれよぉ”」

 血と膿でべたついた包帯の巻かれた腕を伸ばされた。瞬間、抱えていた飯盒の蓋を放り出して、その場から逃げ出した。

 

 敵襲を避けるために豪雨の夜間を選んだ撤退の行進は悲惨を極めた。独歩患者にまじって、四肢の揃っていない艦娘までもが泥まみれになりながら這って、必死に隊列に()いてきていた。

 両目を包帯で覆った、右足のない防空駆逐艦涼月が、片足で跳ねるように歩こうとしては、失明しているためにバランスを崩して転ぶ。やがて道を外れ、「ねえ、みんなどこなの」とだれもいないジャングルのほうへ手をさまよわせる。

 ある戦艦比叡は両足がなかった。だから腕を使った。縫合した腹の傷が開いて、ロープのような内臓をひきずりながらも(いざ)っていた。「お願い。わたし、がんばるから、見捨てないで」。ぐにゃぐにゃの大腸までもが泥に染まった。

 切断された片足に自分で添え木をくくりつけてなんとか行進にまぎれている駆逐艦水無月もいた。体重に結び目が耐え切れずにしばしば転倒した。そのたびに結び直した。添え木と擦れる太ももは皮膚が剥がれ、赤い肉があらわとなっていた。

「置いていかないで」「わたしも連れてって。修復材さえくれれば、また戦えるから」「だれか、手を貸してください」。自力で歩くことがままならない重傷艦娘たちは、泥の上を這いずりながら同胞の足にすがって請願した。だれも耳を貸さず足を進めた。みな余裕がなかった。元長波は、足が棒のようになりながら撤退先へ向かう道中、何度も何度も後ろを振り返った。亡者のように随いてくる重傷者のなかに、あの両手両足のない長波が混じっているような気がしてならなかった。

 軍の命令によって自決した重傷艦娘は六〇〇〇人にのぼるともいわれている。そのなかには彼女が置き去りにした長波もいるだろう。立場が反対だったら、あの長波は、わたしをおぶってくれただろうか。

「戦争だもの。しかたがないわ。ほかにどうしようもなかった。あなたは悪くない。もって瞑してくれるはずよ」

 元伊168に元長波は、そうだろうか、と心中で疑問に思っている。あのときどうすればよかったのか、二十数年経っても答えはみつかっていない。探しているあいだにも、人生は進んでいく。

 

  ◇

 

 日が傾く。元伊168は出勤の時刻が迫っている。

「ナイトダイブか。昼にもぐるときとは、やっぱりちがうのか? けっこう怖いと思うけど」

 元長波は荷物をまとめる元伊168となにか言葉を交わしていたくて訊ねる。艦娘学校の訓練でも生徒らを苦しめたのは暗闇が支配する夜の海だった。足元が抜けてしまいそうな恐怖心を克服することは容易ではない。実戦では不意打ちの危険もある。夜間に敵潜から被雷した艦娘のうち、五人に四人は自分を沈めた敵をみていないともいわれている。

「お魚が寝てたりするのよ。岩の陰とかで、繭みたいなベッドをつくって寝ている魚もいるわ。お昼にみられる魚も、夜は色が変わってたりして、まるで別の種類みたいになるの。エビとかカニとか夜行性の生き物もでてくるしね。そんなふうにおなじポイントでもがらっと印象が変わるから、新しい世界に踏み込んだ気になれる。夜光虫のイルミネーションに出くわすこともあるのよ」

 元伊168に艦娘学校時代とおなじ活力がよみがえっているように元長波には感じられる。敵潜がそうであるように、潜水艦娘もまた夜間に大暴れした。夜戦がお家芸の水雷戦隊よりもさらに夜の海を知りつくしている。

「さすがイムヤだ。夜の海はおまえの世界だからな」

「もうイムヤじゃないわ」

 元長波に、元潜水艦娘は苦笑いした。

「わたしにとっては、おまえはいつまでもイムヤだよ」

 元伊168はわずかにはにかむ。

「ありがとう、長波」


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