栄光の代償・元艦娘たちが語る対深海棲艦戦争(GHK出版新書)   作:蚕豆かいこ

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八   あなたはだぁれ

 ビジネスホテルに宿泊した元長波は、夜明け前に悲鳴をあげて部屋のなかを逃げ回った。ジャム島の夢をみたからだ。元長波はうめき声と死臭に満ちた壕の暗闇にいる。飢えた野分が舞風の死体に湧いた蛆虫を淡々とつまんで食べている。自分は息をしなくなった深雪からナイフで肉をこそぎとり、土に埋めて臭みを抜いてから食べている。歩けない長波が「なあ、おまえもおなじ長波だろ、一緒に連れていってくれよぉ」と懇願している。それらすべてが同時に再生される。彼女にはどうしようもない。叫んで許しを乞う以外には。駆けつけた従業員に、元長波はうそをつく。「なんでもない」

 部屋全体を見渡せて死角のない隅で膝を抱えてまんじりともできず朝を迎える。薬を飲む。元長波は着替える。体の線を拾わない、ゆったりとしたワンピースに、ダウンを羽織る。未明の騒ぎがなんでもなかったかのように取り繕う。

「ぴったりの服ってのが、いまだにしっくりこない」しっくりこないことだらけじゃないか、と元長波は自分を軽蔑している。「わたしが最初にブルネイに赴任したころは、輸送船の喪失がまだかなりあってね、おかげで被服の備蓄が足りないなんてこともままあった。艦型の制服があればめっけもん、サイズにまでわがままいうのは罰当たりって状態だった。昔からいうだろ、“軍隊の服には二種類しかない。大きすぎるか、小さすぎるか”。わたしに支給された一種軍装はちょいと大きかった。袖に手が隠れそうになってたな。きみたちは育ち盛りだから大きいくらいでちょうどいいんだって、需品科の海曹が笑ってた。わたしはまだマシだった。先任の巻雲なんか、袖の丈が腕の倍くらいあるブラウス着せられててね。深雪がよく袖を結んで遊んでたよ」

 軍では非番でも外出時は制服の着用が義務づけられた。逆にいえば、制服さえ着ていればそれでよかった。彼女たちは着るものを選ぶ機会のないまま子供時代を過ごすこととなった。戦争が終わったら、通りいっぺんの制服なんか脱ぎ捨てて、きれいな、あるいは可愛い服が着たい、と夢想した。現実にそのときがきた。故郷に戻った元長波は街へ服を買いに繰り出した。店に入って、立ちつくした。選べなかった。店員が寄ってきた。

「どのようなものをお探しですか?」

「それが、わからないんだ」

「ご自分がどんな服を着たいか、わからないんですか?」

 店員は冗談のつもりだっただろうが、実際のところ、さっぱりだった。どんなシチュエーションを想定してどんな服を着ればいいのか、そもそも自分が穿くべきスカートのサイズが何号なのかさえ知らなかった。

 なにも買わないまま自分自身に落胆して家路についた。家のまえで、見知らぬ通行人が「艦娘だ」と、まるでサファリで野生動物でもみつけたかのようにめずらしがり、携帯電話で元長波の写真を撮ろうとした。元長波は面識がなかったが、その通行人は彼女のことを知っていたらしかった。フラッシュが焚かれた。元長波は絶叫して頭を低くしながら自宅にとびこんだ。リビングで母が驚いていた。元長波自身も、驚いていた。自分のしたことが信じられなかった。「いったい、わたしはどうしちまったっていうんだ?」と。

 

  ◇

 

 きょうはシリアルナンバー806-011216だった元朝潮と会う約束をしている。その二期下の朝潮だった女性とは、互いの所属部隊が第32軍に併呑されて、ともにジャム島の守備隊になったおり、戦闘が激化したある晩に灰で髪を洗っているのを横目でみかけた程度で、以来連絡をとっていなかった。旅にでるまえに元朝霜に伝手を頼ってもらって消息を知った。解体されたいまは故郷の岩手に戻り、社会福祉士として介護老人保健施設に勤めているという。会いたいと申し出ると、元朝潮は涙声で拒んだ。

「どうしていまさら? ジャムの話なんてだれも望んでいないわ。わたしたちは勝った。それだけでいいじゃないですか」

 元長波は心中を痛察しながらも元朝潮に訴えた。話しておきたいんだ。わたしたちがあの島で戦ったことを、その証を確かめたいんだ。事情を交えた辛抱強い説得に、元朝潮は折れた。元朝潮はひとつだけ条件をつけた。

「名前は出さないでくださいね。わたしのことは、ただ、元朝潮とだけ……たくさんいた、駆逐艦朝潮のひとりということだけにして……」

 元朝潮は、ジャム島から帰ったのち、通常の任務についていたが、以前の自分とはまるで変わってしまったことが受け入れられなかった。基地での昼食で茶碗に盛られた白飯に元朝潮は狂乱し、みなの面前にもかかわらず嘔吐してしまったという。

 食糧の欠乏したジャム島では、蛆が湧いた仲間の腐乱死体をいくつもみた。飢えに抗えず蛆虫を食べたこともあった。そのせいかもしれない、と彼女はいう。

「白ご飯が、蛆虫にみえたんです。ひと粒ひと粒が蠢いているようでした。いまでも白いご飯が食べられません」

 

 列車を乗り継いでたどりついた駅から彼女の家に向かう寂しい道中で、元長波は「海なんかきらいだ」とカラースプレーで落書きされたブロック塀の前を通り過ぎる。割れた道路から伸びる雑草。崩れかけて取り壊しもされないまま放置され、八重葎(やえむぐら)に埋もれつつあるあばら家。色あせたポスター。缶ジュースのサンプルが倒れている自動販売機。人間の背丈よりも高い草に埋め尽くされている耕作放棄地。商店街は軒並みシャッターが下ろされ、錆びついたアーケードには「お買い物は、こっちゃこ商店街へ!」の文字が空しく踊っている。かつては豊富な水揚げに支えられて栄えていた街。曾遊(そうゆう)の地ではないにもかかわらず、元長波の耳には、楓葉荻花秋瑟瑟(ふうようてっかあきしつしつ)とした風景から、在りし日の活気と喧騒がきこえるような気がしている。

 しかしいまは、「こっちへおいで」という意味の商店街に跫音(きょうおん)が響くことはない。店舗のシャッターもあがらない。戦時中に奥羽地方の太平洋側沿岸部は特別避難指定区域に指定された。岩手県陸前高田市の住民も疎開の対象になった。町の住人たちは、比較的安全な内陸部や、職を求めて都会へと移り住んだ。合言葉があった。「戦争が終わったら、またこのふるさとに戻ろう!」。しかし終戦を迎えて、海から艦載機や砲弾が飛んでこなくなっても、ほとんどの住人は帰ってこなかった。三十七年という長い戦争の間に亡くなった者も多く、健在であったとしても、疎開先ですでに生活基盤を築いた人々にとって、それをまた捨ててまで地元に戻る意義は、とっくに失われていた。疎開に補助金はでても帰還は補償の対象外だった。“もはや戦後ではない”という世の中になっても、東北にはいまだ復興と再生の手は及んでいない。

「いつだって、中央から遠いところは後回しにされるんだ」と話す元長波が、雑草の茂るU字溝のそばでカタツムリの殻に頭を突っ込んでいるマイマイカブリをみつける。マイマイカブリは胃酸をカタツムリの殻に流し込んで肉を溶かしてから食べる。カタツムリは自分を守ってくれるはずの殻をマイマイカブリの胃袋がわりにされている。元長波はしばらく眺めてから、また歩きはじめる。

 

 元朝潮は、復興財源の目途がたたず半ばゴーストタウンとなった故郷に戻ってきた、数少ないひとりだ。

「小さい頃から、きのうはどこそこのお母さんが志願しに行った、きょうはあの家のお姉さんが志願しに行ったという話題が大人たちのあいだでもちきりでした。あの年はとくにひどかった。広田湾にもあの赤い海水の一部が流れ込んできたんです。深海棲艦が撒き散らした赤潮状のバクテリア、ウレコット・エッカクスは、沖合いで操業していた人たちの命を奪っただけでなく、海を酸性に大きく傾けて、陸前高田市の漁業の大半を占めていた養殖業を一夜にして壊滅させました。ノリ、ワカメ、昆布、カキ……すべて斃死しました。残ったのは鼻が曲がるほどの腐敗臭だけ。多くの家が若い女性を手放して軍へ送らざるをえませんでした。母はしばしばわたしを抱きしめて泣きました。“女の子なんかに産んで、ごめんね”。母が泣くところなんてみたくありませんでした。口減らしのために娘を手放したのではなく、本人が志願したのなら少しでも彼女を悲しませないですむと考えて、わたしは自ら海軍へ……」

 大人たちは海を苦海(くがい)と呼んでいた、と元朝潮は自分の首の後ろを触りながらいった。

「艦娘学校へ行くバスが来る駅へ、母とふたりで歩いて行きました。ほかにもそんな母娘づれがたくさん……どのお母さんも泣いていました。わたしの母も。その道すがら、歩道の端にひとりの年配の女性が立っていました。彼女はなにか一心に祈っていました。わたしがその前を通り過ぎるとき、彼女は手をすり合わせながら、いったんです。“神さま、どうかこの子が家族のもとへ帰れますように……”。彼女はそうして、いまから戦争へ行こうとしている志願者たちひとりひとりの無事を実の母親のように祈っていました。自分の子でもない女の子のために! あれが母親というものなのでしょう。だから、わたしにはお母さんがふたりいるんです」

 その女性とは、それきり顔を合わせていない。消息を知らない。顔も、名前も。

 だが、元朝潮は帰ってきた。「帰ってきてしまった」のかもしれないと元朝潮はいう。

「十二で軍に志願して、それからはずっと戦争、戦争、戦争でした。終戦はわたしが十八歳のとき。帰ってきて、ほかにいったいどこへ行く場所があったでしょう、この町以外に? 外地へは何ヵ国も出征しましたが、日本で知っている土地は、訓練を受けた横須賀と、生まれ育ったここくらいしかないんです」

 両親は群馬に疎開していた。退役した元朝潮も最初は両親とともに群馬で暮らした。両親は歓迎した。「よく帰ってきたね」。だが元朝潮にはその実感が得られなかった。故郷とは土地のことなのか、家族がいるところのことなのか。

 判然としないまでも元朝潮は父母との同居をはじめた。軍隊ではないひとりの人間としての生活のはじまりでもあった。予習はできていたはずだった。解体と帰国が決まった艦娘には新たな任務が与えられた。日本を模した町で日常生活を営む訓練だった。ブルネイやパラオやタウイタウイといった泊地の一角に、平均的な日本の市街地が再現され、解体予定の艦娘は一定の期間そこで暮らすよう命じられた。彼女たちの任務はひとつ――市民生活を思い出すこと。

 艦娘たちにはセブンイレブンでハーゲンダッツのアイスクリームを買う訓練が必要だった。ほとんどの艦娘が商品を手に取ってそのまま帰った。レジで支払いをしてから店をでるようになるまで一ヶ月かかった艦娘もいた。ときとしてやはり解体を控えた艦娘が店員として採用されることもあった。解体が決まってイミテーションの町並みに異動させられた元朝潮は、復員間近の瑞鳳や加賀がレジに立っているコンビニエンス・ストアでこまごまとしたものを買ったことがある。お互い努力しながら店員と客を演じた。学芸会のように。ひどくこっけいだ、と思った。

 

 たとえば元長波なら、そういう街で住民に扮した職員と近所付き合いを練習した。「あら、おでかけ?」。なんて答える? 

「おまえの旦那と燃え上がりに行くんだ」。NG。

「おまえんとこの孫のベビーシッターだよ。孫なんていない? 可愛いのがいるじゃないか。おまえの息子の股ぐらに」。NG。

「おまえのそのレ級よりも虫酸の走るツラをみなくてすむならどこへだって行くさ」。NG。

「ええ、買い物に」。OK。合格の判がもらえる。ついでに「急に冷え込むようになりましたからお気をつけくださいね」とでもつけ加えればパーフェクトだ。

 

 公共料金をどこでどうやって払うか知らない艦娘も多かった。普通預金と当座預金の違いも知らなかった。人生設計を建てさせるカリキュラムでは、保険ひとつとっても、約款を理解できず、おなじ特約を複数組んでしまうケースが多々みられた。まして、そのときの金利から見積もって、定期預金に入れっぱなしにしておくよりも保険料を先払いしたほうが得になることもあるというような資産運用の応用にまで頭が回る艦娘は、ほぼ皆無だった。

 それまで生活は朝から翌朝まで軍が面倒をみてくれた。官給品だけで暮らしていけた。官舎なら家賃の支払いも軍が給与から天引きしていたから艦娘たちはなにもしなくてよかった。使う機会があるかどうかは別として、手取りはほぼ全額が貯金に回せた。

 だが退役後はただ生活しているだけでも請求書の束が毎月積み重なる。そんな当たり前のことがわからなかった。あるいは忘れ去っていた。個人が生活費を払うことのない軍という世界に完全な適応を果たしてしまっていた。クジラは陸上から海へと戻るのに一〇〇〇万年かかったが、軍隊に適応した人間が善良な市民に戻るにはどれくらいの時間がかかるのだろう。一発数百万円の砲弾を補給艦が空になるまで撃ち、世界中の重傷者がひとしずくだけでもと渇望してやまない高速修復材をシャワーのように浴びることが許されていた、歩兵としては最高級のコストがかけられていた女の子が、光熱費や通信費を気にかけられるようになるまでの時間は?

 興味深い統計が得られた。小学校を卒業してすぐ艦娘学校に入校した駆逐艦娘にくらべ、社会人から軍に入隊した戦艦娘や空母艦娘のほうが「ふつうの暮らし」への順応に、より多くの時間を要した。成人をとうに過ぎた艦娘たちが教室に集められて授業を受けた。水の上は歩けません。軍にいた頃とおなじ量の食事は避けてください。家庭に戻ったら、上官や先任のような口調で家族に命令しないでください。指導内容は多岐にわたった。

 

 元朝潮もまたじゅうぶんに一般市民としてのふるまいを心得て、合格の判をコレクションしてから帰郷した。きょうの命を祈らなくてもすむ生活。望んだはずの生活。「戦争が終わったら」と朋輩たちと飽かず語り合っていた夢の生活。それを手に入れたはずだった。

 艦娘にならなかった友人との約束でも、仕事上のアポイントメントでも、一ヶ月先、三ヶ月先、半年先の日取りをなんのためらいもなく予定に入れてくることに、とまどいを覚えた。艦娘、とりわけ駆逐艦娘は、これが最後の出撃になったというものが毎日のようにでた。元朝潮も駆逐艦娘がえてしてそうであるように出撃のたびに遺書を書いた。「希望者はヒトヨンマルマルまでに遺書を直属旗艦に提出すること。直属旗艦はヒトゴーマルマルまでに海歩22連艦第2大艦旗艦のところへ持ってきてください」と通達されると、みんなわいわいお喋りして窓口に遺書セットを受け取りに行き、「陸に置いてきた彼氏あて?」「やだよ、あいつ別の女孕ませてやがったんだ」などと世間話に花を咲かせながらペンを走らせた。

 遺書には複数の見本もあった。母親あて用、父親あて用、きょうだいあて用、友人あて用。なかなか文学的な言い回しが流麗に並んでおり、名前のところだけ空欄になっているので、そこを贈りたい相手で埋めれば、気の利いた遺書が一枚できあがるのだった。母親あて用の定型文をもとに書かれた遺書を受け取った母親は、「あんなに出来の悪かったうちの娘が、死を前に臨んで、こんなに立派で美しい文章を書けるようになっていたなんて」と感激する。だが、遺族会で遺書を見せあった遺族が、内容が一言一句に至るまで一致していることに気づいた。軍は批判され、見本は廃止された。元長波はいう。「よけいなことしてくれたもんだよ。わざわざ自分で書かなくちゃいけなくなった」

 形式化こそしていたが、遺書が持つ意味までも形骸化していたわけではなかった。艦娘たちのしたためる遺書は写経にも似ていた。書かれてあることの意味はどうでもよかった。その本質は、この世を去るための準備が完了したことを自らが客観的に再確認する作業であり、心の整理をつけたことへの決裁だった。

「この一ソーティこそ今生のなごり。駆逐艦娘にはいくらでも代わりがいるから、余力を残さず死力を尽くそう。いつもその心構えで海に在りました。あしたがあるなんてだれにも断言できません。さっきまで話していた僚艦が無意味な肉の破片になるのが日常でした」元朝潮は話す。

 

 きのうとおなじように、きょうが来て、あしたもやってくる。だからきょうのうちに仕事が片付かなければ、あしたに回せばよい。社会では一般普遍的なその考え方に、元朝潮は激しい拒絶反応を示した。

「“これからは、あらゆる演奏会、あらゆるレコード録音、あらゆるテレビ出演において、この演奏がこの世で最後の演奏になるかもしれない、という気持ちでつとめよう。フルートを演奏するときはいつでも、能うかぎり神の意志に近いような、限りなく完璧に近い、かつ真の音楽性に満ち溢れた演奏をしなければならない”。フルート奏者で指揮者のジェームズ・ゴールウェイが自伝の『わがフルート人生』のなかで語った一節です。命の駆け引きをしているわけではない演奏家でさえ、きょう、この演奏が今生のなごりのつもりで全力を絞っている。だからこそ一回の演奏ごとに研鑽されるんです。いま自分が発揮できる最高のパフォーマンスを妥協で出し惜しみする人たちが、退役してまもない当時のわたしには歯がゆくてなりませんでした」

 あしたがくると(ごう)も疑わず仕事を途中で切り上げるプロジェクトチームに耐えかねて苦言を呈した。父に紹介されて就職した民間企業の職場で、彼女が煙たがられるようになるまで、時間はかからなかった。「艦娘あがり」と陰口を叩かれた。あるとき、いまにして思えばくだらないことで派遣社員に注意すると、彼は「失礼いたしましたあ、艦娘どの」とふざけた挙手の敬礼をした。元朝潮は視界がゆがむほどの赫怒(かくど)に駆られた。敬礼への侮辱は許せない。だが周囲は大爆笑の渦に包まれた。そのとき、元朝潮は自分の居場所はここではないとようやく悟った。

 

 転職した先でも似たようなことが起きた。職を転々とした。家族もまた元朝潮を疎んじはじめていた。家庭に馴染めないことがあっても、最初は彼女が生きて還ってきたよろこびで打ち消されていた。しかし元朝潮はいつまで経っても艦娘のままだった。毎日のように家中を掃除した。キッチンにも風呂場にも水滴ひとつ残さなかった。蛍光灯の上の埃さえ拭き取った。それを家族にも要求した。

「なぜそこまでしないといけないの、と母にうんざりした顔でいわれました。わたしは、なぜこれくらいのことができないのか、逆に疑問でした。清潔にすることが悪いことなのって母に訊き返したら、途方に暮れた顔をしていました。そしていわれました。“あなたはだれなの? わたしの優しい娘は、どこに行ってしまったの?”」

 家族が不意に鍋を落としたりすると悲鳴をあげた。夜寝ているときにいきなり叫んで飛び起きることもあった。元朝潮はいつまでも朝潮のままだったし、壊れたままだった。

「わたしが朝潮として軍隊に適応しきっていたのとおなじように、家族もまた、わたしのいない生活に適応しきっていたのです。わたしはあの家では異物でしかありませんでした。しかも自分からは馴染もうとしない。このまま家にいてもだれも幸せにならない、そう思って、生まれ故郷の岩手に」

 戦後復興から取り残された地方での暮らしもけっして楽ではなかった。短期のうちに転職を繰り返した、戦争以外になんの技能も資格もない二十過ぎの女が就ける仕事といえば、だれでもできる単純労働だけだった。艦娘だったという経歴はなんの役にも立たなかった。

「朝から夜遅くまでひたすらおなじ作業を続け、お夕飯は帰り道で買ったコンビニの食事をひとりで……。そんな生活が二十三まで続きました」

 

 駆逐艦朝潮だった彼女はいま、古い公営住宅でひっそりと暮らしている。

 元長波が元朝潮の家を訪ねる。元朝潮は重い腰をあげる。玄関を挟んでふたりが対峙する。

 二歳下のはずの元朝潮は、ぱさぱさの髪に白いものが混じっているせいか、むしろ元長波より老けてみえる。ふたりの挨拶はぎこちない。はじめましてなのか、久しぶりといえばいいのかさえわからない。

 元朝潮はひとまず元長波を部屋にあげてダイニングキッチンに通す。完璧に整頓された部屋。テーブルの上に置かれたものはすべて向きが揃えられている。その几帳面さで彼女本人の心身が悲鳴をあげていることに、元朝潮は気づいていない。

「あなたとは、一度ジャム島で食事をともにしたことが」

 元朝潮は切り出した。元長波には覚えがない。ジャム島の食事といえば戦線崩壊後にジャングルを単身で彷徨しているあいだに食べた昆虫やトカゲ、そして深雪の肉ばかりが想起される。

「上陸した敵に遅滞攻撃をくわえながら計画的後退していた、ある夜に、長波さんたちの小艦(小艦隊。六隻編成。小隊に相当)と合流して、みんなで戦闘糧食Ⅱ型のカレーを食べたことがありました」

 元朝潮はそのときの様子を語って聞かせた。水を注ぐと発熱する簡易ヒーターで温めたレトルトタイプのカレーを喫食している最中、ふと、長波が「ウンコってのはpHが弱酸性なんだ。肌とおなじ。ところが下痢便はアルカリ性になる。だからケツがかぶれるってわけ」などと蘊蓄を披露しはじめた。空腹で食事に夢中だった艦娘たちは聞き流した。その長波はつづけた。「ちなみに、カレーもアルカリ性なんだ」。みんな爆笑しながら長波を口々に責めた。漂っていた悲観的な空気がいくぶん和らいだという。

「わたしは本当にそんなクソッタレなことをいったのか? ほかの長波じゃないか? シリアルナンバーがわかれば一発なんだが」元長波はあいまいな笑みで首をひねった。

 艦娘は同一艦が複数存在するため、艦名だけでは個人を特定できないことがままある。シリーズ内で十把一絡げにされる艦娘に個人識別の証明を与えるものが九桁のシリアルナンバーだった。たとえば夕雲型駆逐艦長波は通算で一二一七隻が配備された。元長波が現役時代に付与されたシリアルナンバー608-040119が、一二一七隻の長波から彼女ひとりを特定する個の証明書となる。最初の6は領収年度の西暦下一桁、つぎの08は夕雲型駆逐艦の登録番号、ハイフンを挟んだ04は四番艦を意味し、0119はそのシリーズとしては一一九番目に領収されたことを表している。だから、608-040119という並びをみれば、彼女は西暦下一桁が六の年に艦娘学校を卒業して艦娘として実戦配備された、一一九人めの長波なのだということがわかる。

「わたしもそんなに多くの長波シリーズに知己があるわけではないのですが、ほかにこんなことをいう長波がいらっしゃいますか?」

「おかしいな」元長波は腕を組んだ。「残念ながら、わたし以外に心当たりがない」

 真面目な顔で混ぜっかえすと、元朝潮ははじめて口元をほころばせた。

 

 元朝潮は奥の和室に通じる襖を引く。元長波は思わず息を呑む。六畳間の和室。壁という壁に大小さまざまな切り抜きが貼られている。ジャム戦を取り上げた新聞、雑誌から切り抜いた記事や写真などが隙間なく埋め尽くしていて、壁の色もわからない。実用一点張りの本棚にはジャム島関連の書籍――回顧録から戦争に関係のないものまで――が網羅されている。ここでも戦争は終わっていない。戦争は続いている。

 1DKの間取りから、元朝潮はスクラップブックのようなコラージュの壁に囲まれたこの和室を寝室にしている。ジャム戦を扱った無数の切り抜きと起居をともにしながら元長波と会うことを最初は拒んだ。矛盾だ。だが、あるいは元朝潮は自分自身以外とジャム戦について語り合うのはこれがはじめてなのかもしれない。

「戦争で人生が変わったという元艦娘はたくさんいます。けれどわたしは、ジャム戦さえなければ、ほかの戦争体験が欠けていなくとも、きっとこんなにはならなかったと思うんです」元朝潮はジャム島に固執する理由をそう話した。「思い出すのは恐い。でも思い出さないのはもっと恐い。そして、もっとも恐ろしいのは、だれにも思い出されなくなることです」

 切り抜きのひとつを指でなでてから、元長波に振り返る。

「では、お話をはじめましょう」


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