栄光の代償・元艦娘たちが語る対深海棲艦戦争(GHK出版新書) 作:蚕豆かいこ
艦娘は少年兵であり国際法違反であるという国連の総会決議(ワシントン・ロンドン宣言。ワ・ロ宣言)に唯々諾々したがっていた当時の与党が、方針を大転換し、艦娘の大増産に踏み切ってからの日本は、しばらくのあいだ、圧倒的に強かった。連日の勝報に国民は手の舞い足の踏むところを知らず狂喜し、軍が英雄視され、志願者がさらに増える好循環がつづいた。一時期のないない尽くしだった“セルフ・ネイヴァル・ホリデイ”で、深海棲艦からの被害に苦しむ国民と、国連決議の遵守を金科玉条に艦娘の新造をみとめない政府との間で板挟みになり、にっちもさっちもいかない辛酸を舐めさせられたことを考えれば、海軍にとってはうれしい悲鳴だったにちがいない。
余剰戦力のはけ口を外に求め、また深海棲艦には艦娘でしか対抗できないことを逆手にとり、最大の艦娘保有国であるアメリカが自国領のみならず、NATO加盟国の防衛義務履行(NATO加盟国は、締約国が武力攻撃を受けたとき、集団的自衛権を行使しなければならない。アメリカ国民からすれば自国の艦娘戦力に他のNATO加盟国がただ乗りしているという不公平感が生まれても無理はない)で大西洋への注力を余儀なくされ、負担の増大から消極的孤立主義が世論の主潮となりはじめていた隙をねらい、技術や予算の面から自前で艦娘を調達できない南方の中小国に日本が深海棲艦からの安全保障を売り込んだのは、自然のなりゆきといえる。
事実、軍官民一体となった日本海軍の海外展開は順調に進んだ。トラック州を皮切りに、リンガやタウイタウイ、ブルネイなどに次々と泊地を設け、東南アジアを二年たらずで「城下町にしてしまった」(『現代の大東亜共栄圏・その栄光と衰退』より)。計画ではマーシャル諸島やキリバスへの泊地設定も検討されていたほどで、実際前者には進駐しており、日本の戦線拡大は、まさに破竹の勢いというべき快進撃をみせた。
しかし、それは
また艦娘がつかう装備は慢性的な石油不足に端を発する物価上昇に加え、個人で使用できるよう最新の技術が投入されたことから調達価格が高騰した。駆逐艦用の十二・七センチ砲弾なら一発あたり四十五万円、戦艦の四十一センチ用弾薬だと四〇〇万円(『我が国の防衛と予算・概算要求の概要』より)となっている。なお、比較対象として、90式戦車のJM33砲弾の単価が九十五万円、空軍のAAM-5(04式空対空誘導弾)が五二〇〇万円である。
戦車砲弾も戦闘機のミサイルも、高度な火器管制によりほぼ必中を期しているが、艦娘の射撃はデジタル化されたフリートロニクス(艦娘用艦隊支援電子工学。艦娘の艤装に搭載する電子機器のこと。
端的にいえば、人材面でも経済面でも、同期間の損耗が生産を上回っている以上、遠からずじり貧となることは自明で、長期戦は不可能という結論が避けられないのである。まして、作戦線を延ばせば、それだけ本国と現地を結ぶ船腹の数も、一回の往復にかかる日数と重油消費量もうなぎ登りになる。短期間ならなんとか無理をして押し通せる。しかし、「陸上短距離のランナーが百メートルを十秒で走れるからといって、フルマラソン四十二・一九五キロを一時間あまりで走破できるワケがない」(『現代の大東亜共栄圏・その栄光と衰退』より)のである。
にもかかわらず、海軍の上級組織である防衛省内局は、艦娘無制限時代突入の二年目の艦娘領収数をもとに算盤を弾き、さらに政府はそれを鵜呑みにして戦域拡大の青写真を描いたため、数年目にして、早くも兵站が追いつかなくなった。元長波が現役時代に初めてブルネイへ配属されたおり、サイズの合致する制服がなかったなどというのも、本土の官僚たちによる兵站の見積もりの甘さが招いた一例といえよう。
当の元長波は、こう語る。
「逆に、政府が権益拡大のために先行して青写真を描いて、それを実現させられる数字を算出するよう防衛省にプレッシャーをかけたって話もあるけどね。背広組だって人間だからさ、上役の顔色を伺いながら仕事するのは責められない。上司の喜ぶ顔がみたいがために数字をいじるってことはあるだろうね。ま、お国の考えることはわたしみたいな一知半解の徒にはわからないよ」
天王山ともいうべきMI作戦が転機となった。日本はアリューシャン方面へ陽動部隊を向かわせ、同時にミッドウェー島を奇襲し制圧、勝利を納めることができた。
だが敵のねらいは日本本土にあった。わざと遠隔地であるミッドウェー島をとらせ、隠密裡に本隊を本土へ強襲させていたのだ。日本が敵の真意にようやく気づいたのは戦艦棲姫二隻を中核とした深海棲艦侵攻部隊が硫黄島付近を北上しているときだった。
軍は震撼した。急激な戦域の拡大で、艦娘の配置状況はいわば日本を中心としたドーナツ状を呈していた。南方の島々を防波堤とするのであれば、いっそ、内地の防備を預かる艦娘部隊を動員してでも外地の戦力充実をはかるべきだという、外高内低の作戦思想のためである。泊地を防波堤というのならば、矢面にたつ外地に戦力を注ぎこまないことには、言葉だけで中身のともなっていない自家撞着になる、うまく機能すれば本土に敵はこない。こないのならば、敵のいない本土で艦隊を遊ばせておくことは合理的でない、という首脳部の考えであった。ただの建前であることをいつしか忘却してどこまでも机上の空論をふくらませる官僚組織の
手薄ながら、第140海上師団と第234海上師団は多大な犠牲を払って敢闘した。敵を撤退させることには成功したものの、危うく本土への侵攻を許すところであった一事は重く受け止められ、軍は防衛思想の見直しを迫られることとなった。
重ねて年明けにはトラック泊地が猛烈な空襲を受けた。因縁ぶかきアイアンボトムサウンドを一点突破しフィジー・サモア方面に遊弋する敵を叩く作戦中に、西方から腹背を衝かれる失態を演じたかと思えば、北海道北東沖でイタリア海軍の艦娘を招いた観艦式のさなか、幌筵泊地に深海棲艦の襲来を受ける醜態を晒したりした。北洋ではアリューシャン列島の戦況悪化のため、キス島から撤退せざるをえなくなった。
こう不祥事がつづくと、無理して背伸びをするより、もっと足元を固めるべきではないかという意見が国内のそこここから噴出するのは当然だった。そして、日本民族は、いまもむかしも、思想の振れ幅が極端にすぎるきらいがあって、外へ出るとなると太平洋全域を支配下に置こうと兵站の限界を超えて遥かキリバスのごとき遠方へまで手をのばすが、いったん内向きに指向すると、今度は偏執的なほどの引きこもりになった。厳密にいえば、新造した艦娘のほとんどすべてを本土防衛に回し、いくら外地の戦力が損耗しようが、なかなか補充を送らなくなってしまったのである。
一度はわが方が掌中におさめながらも、やはり補給の問題と本土重視の政策転換から手を引いたアンズ環礁(モルディブ最南端の環礁)とリランカ島をふたたび失陥し、敵が拠点に仕立て直してカレー洋を掌握、さらに東進して虎視眈々と東南アジアをねらいはじめたのは、そんなときであった。
防衛省は、西方からの敵に対してインドネシアとマレーシアのちょうど盾になるかたちでスマトラ島沖に浮かんでいるジャム島に白羽の矢をたてた。もしジャム島を奪われ、飛行場姫を置かれでもしたら、敵陸上機が空爆ののち帰着できる距離内にある東南アジア全域、とりわけ本土防衛最大の支城であるフィリピンまでが、喉元に匕首を突きつけられることになる。ジャムからなら、リンガだろうがブルネイだろうがタウイタウイだろうが、フィリピンの首都マニラだろうが、空爆するのは垣根越しに隣家の柿へ手をのばすよりたやすい。また南方の資源地帯と航路はいっさいの戦略物資を産しない日本の生命線でもある。フィリピンを失えば日本の運命も旦夕に迫ることになる。
サーモンからブーゲンビル、マキン、タラワ、ニューギニアを蛙飛びしてくる敵任務部隊の攻勢に気をとられて、四苦八苦しながらこの方面の防備強化に努めていた統合幕僚本部も、それまで放置していたカレー洋の戦備に大わらわで狂奔した。
長波だった彼女が深雪たちとともにフィリピン海を七日も漂流して、海水を飲んだ巻雲が海底に消えたのを目の当たりにし、命からがらルソン島に漂着、帰還したのは、ちょうどそんな火事場のまっただなかであった。
“ジャム島を死守すべし”。軍は息巻いたが、政府の方針はあくまで本土防衛の優先だった。すったもんだのすえ、ジャム島に軍を新設し、配属部隊は本国から新たに派遣するのではなく、近傍の泊地から一、二個兵団ずつ抽出して編制するという泥縄式で決着がついた。
第32軍新設の基本構想は、航空基地を確保し、洋上に敵を迎え撃とうというもので、九州四国を合わせたほどの面積を有するジャム島を、いわば巨大な不沈空母に仕立てようというものであった。対深海棲艦の切り札と期待され、実用化が進められていた基地航空隊を主力とする予定だったのである。敵はジャム島の西側から攻めてくると予想されるため飛行場は東海岸に設定することが理想であったが、地形の問題から、西海岸の北部、山間の中部、南部の三ヶ所が妥当との結論がだされた。
しかし、基地航空隊は弓であり、いったん敵に懐へ接近を許すと抵抗は望めず、せっかくつくった飛行場を逆に利用されてしまう懸念があった。弓だけでなく刀もいる。
その刀として、パラオ泊地から第9海上師団が派遣された。翌月にはおなじくパラオから第24海上師団が到着。かくして、元長波が所属していたブルネイの独立混成第60海上旅団および独立混成第45海上旅団を最終便として、タウイタウイの第62海上師団、独立混成第59海上旅団、リンガ泊地の第28海上師団と独立混成第44海上旅団、トラックからの独立混成第64海上旅団、これにもともと先行していた陸軍の飛行場設営隊をあわせて、十万の兵卒が陣を整えた。人口百万のジャム島は、一夜にして一大泊地なみの艦娘基地となったのである。
ジャムで敵を食い止める。軍は豪語し、ジャム島民はみんな興奮して信じた。ジャム開闢以来みたこともない圧倒的規模の軍隊がいかにも頼もしく、街で艦娘や兵士をみかけるたび、幼い子供までが、覚えたての「バンザイ」をした。
「そういう事情で拙速に軍が置かれたものですから、まだわたしたち艦娘用の慰安所がありませんでした。過酷な訓練で生理が止まっているのをいいことに、避妊しないで行きずりの男性と寝る僚艦がいました。その駆逐艦の子は脳に梅毒が回ったせいで、あらぬことを口走っていきなり全裸になったかと思ったら、窓から放尿したり、そのあたりで大便をしては、それを“ようかん、ようかん”と美味しそうに食べたり。そのうち寝たきりになって、痛い、痛いと笑いながら死にました。脳と心臓に修復材は効きませんから……」
元朝潮は悼むように語った。彼女はジャム増強の第二陣、第24海上師団海上歩兵第22連艦隊第2大艦隊(大艦隊は大隊に相当)の一員だった。同連隊は32軍でもとくに敢闘したと伝えられる屈指の精鋭部隊である。戦後、ジャム島民が疎開先から帰還すると、第22連艦隊第1大艦隊の守備していた山で、艦娘たちが主砲を手にしたまま白骨化しており、思わず
「わたしもなにがなんだかわからないうちにジャムへ転属させられたよ。艤装は温度湿度を管理できる専用コンテナに個別パッキングされて輸送艦、わたしらは別便の徴用船にすし詰め。ただでさえ天井が低いのに幾重にもベッドを重ねてるもんだから、半身を起こすこともできないくらい窮屈だった。寝転がって落ちないとベッドから降りられもしない。通路にも階段にもだれかが立ったり座ったりしてる。用を足しに行くのも、人をかきわけ荷物をおしのけ、たどり着いたら長蛇の列。南方だけにクソ暑いってのに、灯火管制で窓を閉め切ってるから、空気は澱んで、船内はどこ行っても脂ぎった熱気でムンムン、座れば
と元長波は苦笑いする。当時は敵潜の猛威により日本が船腹不足に悩まされていたころである。人間の輸送には容積三総トンあたりひとりの割合で船腹を充当すべきところ、ひとり乗せるのに一総トンがやっとという状況だった。一総トンは二・八三立方メートルだから、ひとり当たりおおむね、高さ一・四メートル×幅一・四メートル×奥行一・四メートルの空間しか割り当てられないということである。
32軍司令部は飛行場よりもまず陣地の構築に傾注した。無防備なところへ飛行場だけあってもしかたがない。島を守る態勢を整えることが先決で、航空基地の整備はその次でよい。そう考えたのだった。
敵のほうから攻めてきてくれるのである。よって、下手に海へ打って出る戦法はとらず、艦娘たちはむしろ島で待ち伏せし、上陸してきた敵を砲兵よろしく水際で叩く。深海棲艦もさすがに断崖絶壁からは上陸しない。
また、敵主力の駆逐艦クラスは水陸両用だが、水上では最大三十ノット強を発揮できる反面、稚拙な後肢または前肢のどちらかしかもたないために、陸上では時速五キロという牛歩に落ちこむ。よって、わが方は敵主力が上陸しているあいだは射撃地点を隠匿するためあえて攻撃を実施しない。鈍足な敵が大挙して折り重なりながら不慣れな陸の上を動きはじめ、じゅうぶんに射程に入ってから一気に集中砲火をあびせるのが上策だ。敵は上陸に先んじて念入りな空襲と艦砲射撃をくわえてくるだろうから、砲兵と化している艦娘らを温存しておける要塞が必須である。鍵は洞窟だった。
ジャム島の、とくに南半部には、隆起珊瑚礁による自然洞窟が網の目のように張り巡らされている。それを利用して地下要塞にしようというのだった。珊瑚礁は石灰質で、鉄筋コンクリートとおなじ強度をもち、しかもその地層が十から二十メートルもあって、掘開こそ難事だが、その下は比較的柔らかい地質になっているから、いちど掘り抜いてしまえば、地下陣地を敵の砲爆撃から守ってくれる堅牢無比な掩蓋となってくれる。
人手が必要だった。陸軍施設部隊が築城の指揮をとり、建機による絶島大改造がはじまったが、短期にすぎる完成予定に間に合わせるため、単純作業には工兵だけでなく、艦娘や、志願を募って臨時雇用された島民も総動員された。
「やっとこさ島に着いたと思ったら、来る日も来る日も野戦服で穴掘りばっかり。第一次大戦の歩兵の仕事は、戦闘二割、塹壕掘り八割だったらしいけど、まさか艦娘になってまで
「子供も女の人も、一心不乱で手伝ってくれましたね。熱心にツルハシを振るっていた、ある男の人は、靴がすり減って穴が開いていたから、それを教えてあげたの。そうしたらその人、照れくさそうに笑って、靴を脱いで、そのまま、作業をつづけたんです」
元長波に、元朝潮も懐かしんだ。重機をみるのもはじめてという純朴な島民たちだった。
艦娘には艤装を背負うための強化外骨格が装備されていたため、大の男より力仕事に向いた。「おかげでしんどい仕事ばっかり回されたな」元長波は腰をこぶしで叩いた。いまでもイブプロフェンが手放せない。元朝潮も鎮痛剤を常備している。
「でも、人間というのは不思議ですね、あんなきつい仕事を連日させられても、どこかにやりがいや、楽しみを見出そうとする。わたしの隊はだれかがいつもかわるがわるおしゃべりをしていました。たとえばこんな――“駆逐艦娘の
築城に山の開墾。およそ艦娘ときいて浮かぶイメージとは程遠い泥濘にまみれる作業に彼女らが明け暮れているころ、軍司令部に統合幕僚本部から、飛行場の一刻もはやい完成をもとめる催促が飛んできた。
32軍は、司令官も幕僚たちも、基地航空隊というものにさほど期待をかけていなかった。敵に占領されたらという懸念もあるが、なんといっても飛行機がなければ、いくら飛行場を整備しても意味がないからだった。
基地航空隊の陸上攻撃機は、戦傷で植物状態または脳死状態となった艦娘を、入隊時の同意に則って干渉波発生装置として搭乗させるもので、いわば空飛ぶ艦娘であった。兵装の干渉波浸食強度が極めて高いという利点をもつ反面、無線操縦であるから空母艦娘の艦載機よりも単純な指令しか実行できず、三回出撃できたものはないといわれるほど未帰還率が高い欠点があった。
親族からすれば、脳死・植物状態とはいえ体だけはせっかく戻ってきてくれたのに、陸上機に接続されて戦地に飛ばされたら、空の棺桶を焼かなければならなかった。反撥が大きく、軍としても無碍にすれば国民感情を逆撫でするおそれがあるから強行もできず、機数がなかなか揃わなかったのである。艦娘学校に送りだすときは今生の別れと覚悟しているし、轟沈したと戦死公報が届いたらあきらめもつくが、いちど手元に返されて、あらためて失うとなるとやはり惜しくなる。当然の人情であった。
「艦娘になる
ある元
陸攻が用意されるかどうか、疑念はぬぐえなかったが、命令は命令である。32軍はやむなく陣地構築を一時放棄して飛行場づくりに全能を傾けると布告した。
陸軍の工兵を筆頭に、各部隊の兵、艦娘だけでなく、徴用された島民の諸部隊も一丸となって、三地域に航空基地を神速整備するべく、手に手に工具を握って、不眠不休の努力を注いだ。空母艦娘の艦載機なら模型大しかないが、艦娘を搭載する陸上攻撃機は軽飛行機ほどの寸法があるため、滑走路も四〇〇〇メートル級のものが必要だった。
「わたしたちが配属された飛行場地域は、内陸だったので、住民にとってはお塩が貴重品でした。ある日のご飯どき、配給されたお塩があまったものですから、地方人のみなさんにおすそ分けしたんです。とても感謝されて、次の日には、お礼だといって、山のように
元朝潮がいえば、
「地方人のじいさんが、頭痛がする、痛み止めをくれってんで、たまたま薬をなにももってなかったから、苦しまぎれに歯磨き粉を“日本製の鎮痛剤だ”ってひとつまみ、くれてやったんだ。そしたら翌日、“さすが日本の薬だ。もうすっかりよくなった”。わたしらの小隊みんな、自家製のサテ(焼き鳥)をご馳走になったよ」と、元長波も記憶を探し当てた。
いっぽう、管理科壕のつくる正規の食事、とくに芋粥には、かならず虫が混入していて、閉口したという。
「ゴキブリとかコオロギとかナナフシとかムカデとか。別に嫌がらせってわけじゃない。壕内のでかい釜で炊いているときに天井から落ちてきていっしょに煮込まれちまうんだ。つくるほうも食べるほうもいちいち気にしてられなかった。配給された一膳に一匹は虫がいたね。むしろなにも混じってないやつは“裏切りもの~”って茶化されてた。それが最後任だったりしたらたいへんよ」
元朝潮も、
「わたしはキリギリスが混じってたときがありました。茹でられて、逃げようとしたんでしょうね、お腹からハリガネムシが飛び出してて、そのまま湯だっていました。捨てたらみんなにからかわれますから、麺類だと思ってすすりました。ちょっと苦かったですね」
兵士、艦娘、老若男女の民間人が心をあわせて夜に日を継いでの突貫作業にはげんでいるころ、元長波の同期の伊168をふくむ独立潜水艦隊がトンガ海溝の偵察から生還した。もたらされた情報から、統合幕僚本部は深海棲艦が恐るべき物量と兵力を用意しつつあると予測。ラバウルの一個海上師団をブイン基地へ増加して迎え撃った。第二次サーモン海戦である。
機先を制する決め手となった偵察任務は〈緯度0大作戦〉と名づけられ、待望久しい朗報で国民に胸を張ることができた海軍は潜水艦隊に論功行賞を与えた。
だが、敵は複数の艦種の性能をもちあわせた新型深海棲艦、戦艦レ級の量産体制をすでに整えていた。ひきつづきサーモン海の補強が必要とされ、ブインに引き抜いたラバウルの師団は当面のあいだ戻すことができなくなった。手薄になったラバウルの穴を埋めるために今度はどこから引き抜くか。
32軍の主力を投入した航空基地設営整備作業が実を結び、ジャムでは着工からわずか十日で西海岸北部、島中部、南部に目的の飛行場が開設をみた。
落成式が順繰りに行われ、艦娘にも島民にも酒が振る舞われた。お互いにねぎらい、祝いながら、大地を延々貫通する滑走路と、機体や諸施設をかくす掩体壕をみな感慨深く眺めた。自分たちの汗が染み込んだ飛行場をすぐにでも陸上機の勇姿が埋めつくし、いざ敵の来攻あらばその
しかし、陸上攻撃機はいっこうにジャムの空に姿を現さなかった。司令部が予想していたとおり、倫理上の問題が足かせとなって、機体の生産が遅々として進まなかったのである。
とはいえ、32軍で幕僚長を務めていた女性中将(当時)は、自身もふくめ、司令部に悲観した感は薄かったと自著で述べている。中央の基地航空優先思想にさほどの信をおいていなかったということもあるし、まだ深海棲艦のジャム来襲には猶予があるから、やっと本願の地上陣地造成にとりかかることができる、注文の飛行場はつくってやったのだからもう本土も文句はつけてくるまいと考えたのである。
現場で働く艦娘たちはといえば、不満たらたらだった。
「穴堀り休んで地ならしさせられたかと思えば、今度はまた穴堀りにもどれ、だかんな。やってらんねえよって、艦隊のみんなでブーブーいってたっけ」
元長波は朝令暮改にふりまわされた嘆きを思い出して薄く笑ったが、元朝潮は、真面目な顔に、わずかな
「当時のわたしは、命令は絶対だと思っていましたから、司令官にはなにか考えがあるはずだと信じて疑いませんでした。軍の意向を批判するなんて、とても……。わたしたちのはたらきが日本の未来を決めるのだと、使命感に燃えていました。正しいから正しいと信じろという、トートロジーだったのかもしれません」
前職が艦娘学校校長という来歴の軍司令官は、春風駘蕩、作戦立案その他をすべて部下に任せて責任だけを負う篤実な老将だった。元長波も元朝潮も、築城の作業中、視察にきた司令官を二度、三度みかけただけで個人的な面識はないが、部下にも島民にも気さくに声をかけ、寸暇をみつけては壕掘りをともに手伝うことさえあった。面上に微笑が絶えたことはなく、堂々たる体躯に似つかわしい悠然とした立ち居振る舞いと風格は、ともすれば深海棲艦の風評に浮き足立ってしまいがちな島民を安堵させ、32軍に対する信頼を増大させたという。
懸案だった築城も、飛行場設営と同等の尽力により、各地の洞窟は一大地下要塞へと変貌を遂げ、戦略持久を呼号するにふさわしいものとなった。作業を経て兵も艦娘たちも地勢に精通する副次的効果もあった。
内部は、たとえば南部イヌバム岳付近の洞窟は一個海上師団をゆうに収容しうる長大さを誇り、さながら地下街といってもよいにぎわいをみせた。一個海上師団といえば定員一万五〇〇〇名の大所帯である。同規模の洞窟がジャムにはいくらもあった。
元長波の独立海上歩兵第399大艦隊を含む独立混成第60海上旅団も当然ながら割り当ての洞窟に入った。彼女は照明の裸電球がいくつもぶらさげられているさまをみて、「内地の祭りにでる夜店みたいだ」と洩らした。敷波は呆れ、深雪は大笑いした。
日を置かず猛演習がはじめられた。敵の上陸予想地点を中心に区分けして、各師団に迎撃の担任が割り振られ、慣れぬ地上での兵力機動、急速な陣地転換、水雷戦隊による夜襲、付与された状況に応じて他の敵橋頭堡撃滅を援護するための機動、動揺のない陸上ならではの射撃などなど、訓練すべきことは山積みだった。ジャムには砲声や艦載機の爆音が昼夜を問わず殷々と轟いた。担当区域をまたいだ複数の師団の有機的運用がジャム島戦略持久の肝とされた。
「わたしとおなじ艦隊の
司令部がもっとも期待をかけた、大火力の戦艦娘戦隊による実弾射撃訓練が島西海岸アネダクの海岸でおこなわれた。大気を割る轟然たる響き、いっせいにたちのぼる無数の水柱と土煙に海岸線が覆われるさまは圧巻というほかなく、司令部にも、当の艦娘たちにも自信をもたせた。招待されていたジャムの知事以下、官民もさかんに歓声をあげた。露店までだしている調子のよいものもあった。
いまだに味方の陸上機はこないが、訓練を重ねるうちに、地上戦力だけでも敵に多大な出血を強要できる、上陸をもくろむ深海棲艦を海へ叩き落とせると、決勝の信念が全軍に根付いていった。
もとは泥縄式でかき集められた32軍が、まるで最初からいまの顔ぶれで編制されて何年も死線をともにしてきたように結束が固まってきていた、晴れた日のことだった。例年よりもジャムは雨季が遅れていた。「いい訓練日和だ」「雨だったらなんていってたのさ」「“いい訓練日和だ”」。深雪と敷波がそんな冗談を壕で交わしていたのを元長波は覚えている。
内地の統合幕僚本部から、ジャムの第9海上師団か第24海上師団のいずれかをラバウルに転用するとの通告があった。ラバウルからブインに艦隊を抜いた穴埋めが必要だった。あまりに唐突だったので32軍にとってはまさに晴天の霹靂だった。これからという矢先だった司令部の張り切った気持ちは、穴をあけた風船のように一気に萎んでいってしまった。
軍司令部が進めていた配備計画は、現状の兵団で実現しうる兵力、火力、稼働率が前提であった。互いに戦力と物資を自由自在に融通しあい、一ヶ所に集中して上陸されてもすべての兵団が直接あるいは間接的に防衛にあたることで、担当の師団を上回る敵とも対等以上に戦える。個別に立ち向かって勝てる相手ではないのだ。もしジャムから一個でも師団を引き抜かれたら、張り巡らせた網に穴が開くどころか、全体の防衛計画にも支障がでる。
32軍の幕僚長だった女性中将は著書『激動の戦争史 ジャム島決戦』にこう記している。
(前略)私たち幕僚は異常な衝撃に打ちのめされた。私は居ても立ってもいられず本土へ直談判した。
「千丈の
統幕本部からの返答は、こうだった。
「32軍への穴埋めはまだ決まっていません。これは可能なかぎり善処します。とにかく今は、一刻も早いラバウルへの増援が必要なんです」
「増援が必要なのはこちらも同じです。敵は海を挟んだリランカを占領したのよ。次は必ずこの島に来る。その物量は我の五倍に匹敵するとの由。ジャムがラバウルの代わりに落ちてもいいと言うの? そんなにラバウルが大事なら、一個といわず、32軍全部持っていけばどう? わが軍は真に重要とされる戦場でこそ存分に働いてご覧にいれるわ。ジャムはそうではないということなのね」
(『激動の戦争史 ジャム島決戦』より)
任期満了で戦艦陸奥から解体されたのち、改めて入校した防衛大学校を優秀な成績で
海上師団は、駆逐艦娘、巡洋艦娘、戦艦娘を装備する水上打撃部隊で、第9海上師団はポートワイン破壊作戦や第十一号作戦の蛮勇で知られた精鋭である。決め手となる戦艦は三十五・六センチ砲の金剛型戦艦だった。対する第24海上師団は比較的新設の若い師団で、実績や練度で9海上師団に見劣りする。しかし戦艦は強力な四十一センチ砲を使う長門型がふくまれていた。水雷戦隊の戦闘力に大差がないとすれば、24海上師団のほうが総合的な戦力としては強い。
幕僚らと悩みに悩んだすえ、元陸奥の幕僚長は断腸の思いで、転用兵団は第9海上師団とするよう司令官に具申した。司令官もすぐさま採用し、統幕本部に決定報告した。
「わたしたちが9海師の転出を知らされたのは、連中が発って何日かしてからだ。おまえは?」
「わたしもです。士気の低下を恐れて、布告しかねていたんでしょうね。女の子はうわさ好きですから、どこからか伝わってはきていましたけれど」
元長波と元朝潮がいうとおり、司令部の暗然とした雰囲気はいつしか全軍に感染した。幕僚長だった元陸奥は著書のなかで、司令官が「この戦いは負けだな」と嘆息し、幕僚たちが、いままで
32軍は第9海上師団の後任部隊の派遣を中央にしつこく申し入れていた。だがなかなか公式の回答は得られなかった。あてにはできない。
かくなるうえは現有の戦力で新配備を考えるしかないとし、三個師団で守っていたところを二個師団でまかなう無理難題をどうにかまとめた。本土の統幕本部は基地航空隊と飛行場に固執している。陸上攻撃機部隊がひとたび飛び立てば幾万の敵を殲滅できると信じているらしい。しかし肝心の機体はジャムに三ヶ所ある航空基地のどれにも降り立っていなかった。飛行機がなくては飛行場もかたなしだ。そんな空き家を守るために命を捨てる気にはなれない。
それでも海上師団が三個あったから、32軍は地上、航空基地の双方を防衛できた。ところが虎の子の第9海上師団を取り上げられてしまったのである。二兎を追えないならどちらかを断念するしかない。いっそ清々しい心境で32軍司令部は防衛体制の再建にとりかかった。大綱としては上陸地点で待ち構えて敵を叩くことに変わりはないが、地上戦力激減にともない、対着防衛戦での撃滅は不可能とみてよいので、軽戦しつつ後退して主防御線にて本格的に籠城、ひたすら持久する。防御線の幅は兵力量に適合し緊縮してあるため砲火力の密度はおおむね維持できる。北部と中部の飛行場は防御線の外に出ているので、まず早期に占領されるだろうが、敵上陸に先んじて跡形もないほどに破壊しておき、上陸後は陣地から戦艦娘の長距離砲で適宜制圧してやれば、使用の妨害は可能である。
積極的に攻勢することはなく、深海棲艦をジャムに拘束し、一日でも長く耐え忍び、どこまでも本土が防備を固める時間を稼ぐことに終始した作戦であった。司令官は計画案に目を通すなり「よくぞここまで」と温顔に微笑を浮かべて決裁した。心底から感銘をうけているようであり、部下将兵の士気低下に配慮しての振る舞いのようでもあった。
司令官は各兵団長を司令部壕に召集し、新作戦計画を与えた。
第24海上師団長から
「“なんて戦略なの。場当たり的でまるで展望がない。中央は、このジャムのことがなにもわかってないんだわ!”……ふだんとても理性的で、声を荒げたことのなかった人ですから、とてもびっくりしました」
配備変更となれば、汗水垂らして建設した陣地を放棄することになる。ここが死に場所と思えばこそ心血をそそいだ陣地をあっさりと捨てさせられて、昼夜兼行で策定した計画も訓練も、すべて水の泡になった。また新しい陣地でもう一度おなじ苦労を重ねるかと思うと気が滅入ってしまうのはしかたがない。
なにより、原因となった第9海上師団の転用が第一線に失望と衝撃を与えたと元長波は語る。
「わたしたちのジャムは、そんなに価値のある戦場ってわけじゃないっていわれた気がしたよ。こっちだって人間だからね、大事な仕事ならやる気にもなるけど、ジャムはラバウルより下だっていわれたようなもんだからな、そりゃため息もでるさ」