「アイリス!」
アテナ様と一緒に、神殿の外に向かって投げ出された。
少し遅れて、イオニス様と教皇様が転げ出てくる。
いったい何を!
立ち上がりかけた目の前で。
神殿が。
朧のように。
消えていく。
そして。
黒いもや。
足元の黒い染み。
「いかん、それに触れるな!」
教皇様の叫びに、伸ばしかけていた手を引っ込めた。
でも。
黒いもやが。
足元の黒い染みが。
じわじわと、広がっていく。
一歩。
また一歩。
退く。
退いていく。
教皇様も、イオニス様も。
ぎゅうっと、アテナ様にしがみつかれて、少し冷静さを取り戻した。
慌てて、距離を取る。
わからない。
でも、これは触れてはいけないもの。
それが、わかる。
「……アル」
触れてはいけないものの中に。
今はない、神殿の中に。
それでも、退いていくしかない。
気が付けば、教皇の間へと。
「教皇様!」
クラウスが、ニルスが。
駆け込んできた。
「一体何が……なんだ?」
「触れるでない!」
ああ、そうだ。
アルとの会話に集中して、ほかの黄金聖闘士に情報を送るのを忘れていた。
そういえば、ミケーネは……?
ぞくりと、寒さを感じた。
冷気。
寒気。
いや、違う。
暖かみを失ったことによる、錯覚。
聖域に満たされていた、アテナの気配とでもいうものを失った。
聖域が、聖域ではなくなった。
何とも言えない喪失感に、胸を締め付けられる。
アテナは、ここにいる。
ここにいるのに。
一体何が……聖域に起こったの?
「む、う……」
「教皇、ここは……」
見れば、イオニス様が、拳を構えていた。
「待て、イオニス」
「教皇の言うこともわかります。危険なことも」
笑った……?
「しかし、触れてみなければ……対策もとれません。私が試してみます。離れていてください」
小宇宙の高まりとともに、白い輝きを放つイオニス様の拳が、黒いもやに向かってうちこまれた。
広がり続けていたもやが、微かに後退したように見えた。
効果は……ある?
「イオニス!」
教皇様の声に振り向いた。
イオニス様が倒れている。
一体何が起こったの?
その、倒れたイオニス様の身体から、黄金聖衣が……離れた。
戸惑い、気づく。
嘘。
これって……。
イオニス様の、小宇宙が……感じられない。
教皇様が抱き起こしたイオニス様の顔は……老人のそれ。
ぶるりと、身体が震えた。
この黒いもや。
黒い染み。
触れただけで、命を……。
「……退きましょう」
しゃがれた、老人の声。
それが、イオニス様の声であることに気づくまで少し時間がかかった。
そして、それに気づいたことが、何よりも私を怯えさせた。
死んだわけではなかった。
なのに、小宇宙を感じない。
この、黒い何かは……小宇宙を、殺す?
教皇様が。
クラウスが。
ニルスが。
老いたイオニス様を見て、じわじわと広がる黒いもやに目を向けた。
みんなも気づいたのだろう。
だからといって、新たに試す気にはなれない。
イオニス様の姿を見るだけで、心が折れた。
ダメだ。
これは、ダメだ……。
「ここを、離れる……アイリスはアテナを。クラウスはイオニスを……頼むぞ」
教皇様の声を助けに、私たちは動き出した。
私はアテナを。
クラウスがイオニス様を抱えて。
走り出す。
いえ。
逃げ出した。
アル。
アル。
あの時、私を……。
あれがなければ。
……え?
アルは。
アルには……小宇宙がなくて。
足を止めた。
希望。
いえ、祈りにも似た願い。
生きている。
生きていて。
でも、と思う。
邪魔な虫を追い払うように、私を押しのけたあの存在。
そう、たぶん、押しのけただけ。
小宇宙を感じない。
それでいながら、底知れない力を持つ。
アルの、あの時の言葉を思い出した。
『俺が、全身に冷や汗をかくような気配が、突然、現れた。なんの前触れもなく、突然だ』
アルは言っていた。
小宇宙を感じないせいか、私たち黄金聖闘士に何も感じない、と。
そのアルが……そこまで言う存在。
小宇宙の有無だけの、話であってほしい……けど。
わからない。
わからないことが怖い。
……私は強欲だ。
アルの無事を祈りながら。
アルが、あの存在を倒すことを願っている。
生きて、戻ってきて欲しいと思っている……。
気が付けば、アテナに見つめられていた。
ああ、そうね。
今は自分に出来ることを。
私は、アテナを抱えて再び走り出した。
……何してんの、ミケーネ。
もしかすると、虫を見るような視線になっていたかもしれない。
ボロボロに破壊された、金牛宮。
それだけを見るなら、この場で激しい戦闘が行われたと思っただろう。
まあ、わかってるのよ。
アルが、ここを駆け抜けた際に、ちょっとばかりやりすぎたっていうのは。
でもそれは、アテナを守るための、一瞬を争う状況だったから。
誰にも文句は言わせない。
クラウスも、ニルスも……文句は言わせない。
でもね。
「ねえ、ミケーネ……」
自分でもびっくりするほど、優しい声が出た。
「なぜ、アルの後を追いかけもせずに、後片付けしてるの?」
「あ、アイリス様、落ち着いてください……その、何かあったんですね?」
……人のことは言えないけど。
誰も、連絡を交わさなかったのね。
「そ、そもそも……あのアルさんが行ったあと、私に何ができるって言うんですか?」
正論だ。
だからこそ、私の傷をえぐってくれた。
口を閉じなさい。
そして、飛びなさい。
ミケーネの身体をニルスに抱えさせ、私たちはまた走り出した。
私たちの間に、会話はない。
みんな、不安なのだろう。
あの、教皇様?
クラウスも、ニルスも。
なぜ、私から目をそらすの?
そういえば、アテナも……あのとき、アルが私に任せようとしたら、いやいやって感じに首を振って。
まあ、あの時は問答無用でアナザーディメンションぶちかましちゃったけど……あれは攻撃したわけじゃなくて、守るためだったのに。
アテナとして目覚めてない子供だから、怖がられちゃったのかしら?
白羊宮を抜けた。
聖域を出た。
多くの人を伴って、聖域から出てしまった。
アテナ神殿へと続く12宮を守る黄金聖闘士の私が、聖域から……逃げ出した。
アテナを、抱きしめる。
ただ、アテナを抱きしめた。
私は、私は……何のために、黄金聖闘士になった?
自分の想いが、心をえぐっていく。
そうね、あとで、ミケーネには謝らないと。
あれは、八つ当たりだったわ。
「……っ!!」
悲鳴。
嘆き。
聖域の方を指さす人。
私は、肩ごしに振り返った。
あぁ。
私たちは、アテナを守る兵士。
教皇の間で、それを肌で感じていた。
今それを。
この目で、確認させられた。
残酷に、無慈悲に。
目に見える形で。
私たちは。
聖域を失ったのだ……。
聖域だった場所。
広がり続ける、黒い何か。
その上空の闇を見ていると、穢されたという言葉がしっくりくる。
心の拠り所を、大事な場所を、踏みにじられ、荒らされる。
おそらくは、それよりもおぞましい何か。
言葉にならない不快感。
「……嘘だろ、おい……」
何かしら異変を感じたのか。
駆けてきた青銅聖闘士の1人が……目の前の光景に、膝をついた。
そして、白銀聖闘士が、うなだれる。
聖闘士として、自分の存在意義を問われる光景だもの……無理もない。
身体ではなく、心に攻撃を受けている。
受け続けている。
みんなが、下を向いていく。
「うろたえるな、小僧ども!」
その、ハリのある叱責に、反射的に背筋が伸びた。
誰?
視線を巡らす。
あれは、アルの師匠のテリオスさん。
先の聖戦を生き延びた……数年前に聖闘士を引退したはず、だけど。
「……って、教皇様。こういうのは、教皇様がびしっとやらなきゃいかんことでしょう」
「テリオス……お前は、なぜここに」
「聖闘士は引退しましたがね……」
ちらりと、私のそばのアテナを見て、続けた。
「アテナの兵士であることを引退した覚えはありません」
教皇様は、しばしテリオスさんを見つめ、足元に視線を落とし……顔を上げた。
敢然と。
威厳をたたえ、指示を飛ばし始める。
広がり続けている黒いモノに触れてはいけないことの徹底。
そして、聖域周辺からの退避。
私も、それを補佐する。
動け。
動き続けるの。
今は、それでいい。
やれることを。
やれるだけ。
そしてもし……余力があったなら。
私は、聖域だった場所に視線を向けた。
広がり続ける黒い世界。
その速度は、蟻を思わせる。
しかし、その歩みは止まらない。
警戒はしていたが、中から何が出てくるというわけでもない。
というか、黒いもやの中は見えない。
1日、また1日と。
心が削られていくような毎日が続いた。
そして、1週間。
不意に、アテナの様子が変わった。
私を見る目に、はっと気づく。
アテナの化身としての目覚め。
一気に気配が大人びて、感じる小宇宙も跳ね上がった。
そのアテナが、私の腕を掴んだ。
そして、聖域だった場所を指さす。
「向かいますか?」
「ええ、お願い」
聖域を超えて広がり続けていた黒い世界。
その歩みが、止まった……?
何が。
人が、集まってくる。
何かが。
人が指さす。
わけもなく。
私の目から、涙がこぼれた。
そして、黒い世界の中から。
光が溢れた。
目を開けていられない。
でも。
あの人だ。
祈るような願いだと自覚しつつ。
私は、涙を流し続けていた。
光の奔流の後に、聖域を感じた。
喪失感を、埋めるモノ。
あの黒い世界が幻だったかのように、聖域が、そこに姿を現していた。
「アイリス」
アテナが、アテナとして私に命じる。
アテナの兵士である、黄金聖闘士の私に。
「神殿に向かうのです、私を連れて」
教皇様への報告も忘れて、私は駆け出していた。
12宮を駆け上がる。
黒い世界に飲み込まれる前の、12宮を。
いえ、何かが足りない。
でも、ここは聖域だ。
聖域が戻ってきた。
だったら、あの人もきっと。
帰ってくる。
そのはずだ。
駆け上がっていく。
上り階段を、下り階段のように駆け上がっていく。
教皇の間。
その奥。
アテナ神殿。
あの時のままの。
アテナが、神殿に立った。
満たされる。
聖域が、アテナの暖かく優しい気配に満たされる。
本当に。
聖域が戻ってきた。
じゃあ、アルは?
神殿に、視線を巡らせる。
小宇宙を持たないアルの気配を感じることはできないから、目で確かめるしかない。
アルを探す。
アルを。
アル。
ああ、そうだ。
アテナは。
アテナはあの人の気配を近くに感じると泣き叫んでいた。
私が探すより、聞いたほうが早い。
ちょっと不敬かもしれないけど。
許されるはず。
今日は。
今は。
祝うべき瞬間だもの。
……。
……。
何も言わず、小宇宙を燃やす。
「アナザーディメンション!!」
開く。
「アナザーディメンション!!」
開き続ける。
「アナザーディメンション!!」
ドアを。
「アナザーディメンション!!」
あの人のいる場所へ。
「アナザーディメンション!!」
届け。
「アナザーディメンション!!」
つながれ。
「アナザーディメンション!!」
あの人の場所に。
「アナザーディメンション!!」
開く。
「アナザーディメンション!!」
開き続けていく。
「アナザーディメンション!!」
小宇宙の限り。
「アナザーディメンション!!」
「アナザーディメンション!!」
「アナザーディメンション!!」
「アナザーディメンション!!」
ああ、でも。
「アナザーディメンション!!」
届いたとしても。
「アナザーディメンション!!」
私は、あの人の気配を。
「アナザーディメンション!!」
感じない。
「アナザーディメンション!!」
あれ?
「アナザーディメンション!!」
これって?
「アナザーディメンション!!」
意味のない、こと?
「アナザーディメンション!!」
「アナザーディメンション!!」
「アナザーディメンション!!」
ねえ。
「アナザーディメンション!!」
もしかすると、閉じた場所にいたんじゃないの?
「……っ!!」
小宇宙が……。
「アナザーディメンション!!」
心が……。
「アナザーディメンション!!」
「アナザー……」
私は、膝をついていた。
あの人がそこにいて。
私がつなげる。
それを、あの人が支えて。
好きな時に、話しかけられた。
私は、なんで……。
もっと。
技を追求しなかったの?
あの人がそばにいなくても。
つなげられる。
そこに至っていれば……。
『鍛錬は続けろよ。平和が崩れるのは一瞬だ』
ええ、そうね。
一瞬だった。
一瞬で……失われるものだった。
聖域がそうだったように。
聖域は戻ってきたけど……。
あなたは、いない。
アテナが。
教皇様が。
ミケーネたちが。
私を、見ていた。
あぁ。
今の私は。
そんな目で見られるような、状態なんだ……。
膝をついた状態から、腰が落ちる。
「ああぁ……」
私の、声。
悲鳴にも似た。
泣き声。
「あああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
私は……泣いた。
失った。
奪われた。
自分の中の。
心の、柔らかい部分。
それを、ごっそりと削り取られた。
泣いて。
泣いて。
泣く。
喪失感を、涙で埋め尽くすように。
そうしないと、耐えられない。
深い深い湖に、涙を注ぎ込む。
それも、終わりが来る。
そして、それを待っていたかのように、肩に、暖かい手が乗せられた。
アテナの手。
私の心を癒すはずのその暖かさが、すこし疎ましい。
ああ、でも。
立たなければ。
私は、アテナを守る黄金聖闘士だもの。
そう思って、力を入れた瞬間。
「えっ?」
アテナの声。
それがあんまり場違いというか、変だったから、私は自然に顔を上げていた。
アテナが、どこか戸惑ったように、その視線を宙に彷徨わせている。
アテナの表情が引き締まり、私を見た。
ある方向を指さす。
この技、方角は関係ないです……という言葉を飲み込み、立ち上がっていた。
言葉など、説明などなくとも。
燃えた。
燃やすまでもなく、小宇宙が燃えていた。
とどけ。
つながれ。
あの人の場所に。
「アナザーディメンション!!」
その瞬間。
金色が、走った。
開かれた次元に向かって飛び込んでいく。
今のは……。
「……シュルツの小宇宙、か?」
教皇様の言葉を聞いて思い当たった。
そうだ、いまのは、獅子座の黄金聖衣。
シュルツ様と言えば、アルとは親しい間柄と聞いたことがある。
その、シュルツ様の小宇宙をまとった聖衣が……目指したもの。
胸が、高鳴る。
それに遅れて。
微かな小宇宙を感じた。
金の獅子がまとった小宇宙が向かう先。
戸惑う。
だって、アルは。
あの人には、小宇宙を感じないから。
別の誰か?
今にも消えそうな小宇宙。
「閉じてはいけません」
アテナの声。
私は、開いた扉を維持する。
維持し続ける。
小宇宙が重なる。
動き出す。
近づいてくる。
戻ってくる。
ああ。
帰ってくる。
あの人の気配はわからないけれど。
それがわかる。
金の獅子が。
あの人を乗せて。
帰って……きたっ!!
あの人は。
帰ってきた。
帰ってきてくれた。
ありがとう。
本当にありがとう。
生きて帰ってきてくれて、ありがとう。
左手の肘から先を失った、あの人の身体を。
私は泣きながら抱きしめた。
微かでも。
今にも消えそうでも。
そこに小宇宙を感じ取れるなら。
そこは、私の、私たちの領分。
あなたは絶対に、死なない。
死んだりなんか、しない。
絶対に、死なせはしない。
まあ、ご都合主義ってやつでね。(震え声)
この話、2話分の予定だったんですが、冗漫になったんで1話でまとめました。
幕間入れようかと思いましたが、そのままの流れで次が最終話です。
そして、悪魔の囁き。
悪 魔:「最後に、主人公が身体だけ帰ってくるって、格好良くない?」
私 :「……いい」
悪 魔:「消えそうな小宇宙が、途中でふっと」
私 :「あ、あああ」
悪 魔:「アイリスが、それを抱きしめて号泣よ。ヒロイン力、爆上がりやでぇ」
私 :「あっあっあっ(ビクンビクン)」
この物語、わりと土壇場でやばかったことが結構あります。(震え声)