ヒトとアンドロイドの青春

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アイの代償

 時計の針がカチカチと音を立て、規則正しいその音は時間を無慈悲に刻んでいく。それは当然のことで、時計という機械には何かを慈しむ機能は与えられていない。もちろん手前勝手にペースを乱す機能もない。機械は何かしらの目的があって造られる。時計の目的は時間を正確に刻むことにあって他にない。

 ところでヒトの目的は何だと問われて、答えは人によって変わるだろう。宗教者なら神が云々、使命が云々と説教を垂れるのかも知れないが、あいにくぼくは自覚的な無神論者で唯物論者だ。だから先の問いにぼくが答えるなら、本質的には目的を持たないとしか言いようがない。ヒトを含め、すべての生物は何かの目的をもって存在するわけではないからだ。しかしここであえて、生物一般に疑似的な目的として表れているものを言うならば、それは自己複製――すなわち生殖である、となる。

 その観点では、先ほどからのぼくの行動は自然によくあることとして転倒している。少しでも生殖行為のインセンティブを高めるような形質を発現させた遺伝子はその継承される確率を高め、それは積み重なって例えば性交に伴う興奮や快楽を一般化させたわけだが、副次的にはマスタベーションをも一般化させた。それ自体が無駄であることは言うまでもないが、そのリソースの損失をはるかに上回る恩恵を遺伝子の複製の点でもたらすがゆえに、性器の刺激に伴う快楽は副作用とともに残存を許されている。

 ぼくのこの感情がその種の抗いがたい転倒ないし副作用であることは言うまでもない。

 そういうわけで、時刻は六時を少し回ったくらい、整然と、しかし少しばかり雑然と机の並ぶ教室にどこまでも完璧に夏然とした夕日が差し込み、ぼくと山村さんの影は廊下側の壁近くまで伸びており、放課後の教室にはぼくと彼女の二人きりだった。このようなシチュエーションに置かれている健全な高校生男子が行うことは古来よりただ一つに決まっており、もちろんぼくはそういう意図でもって山村さんを放課後の教室に呼び出したのであるから、一般的に効果的とされている程度の時間より少しだけ長く逡巡して見せて、それから為すべきことを為した。

「山村さん。好きです。付き合ってください」

 どこまでもありきたりな告白の文句は自分の耳にも滑稽さを伴って聞こえる。もちろんこの局面で赤面しない方がおかしいというものである。ぼくは耳まで真っ赤になっていく自身の顔面を脳裏に思い描いた。それはどこか可笑しくて一瞬笑ってしまいそうになるが、この局面で笑ってしまうのは致命的だ。さいわい笑いは赤面より制御が容易いので、ぼくはなんとか笑いを抑え込むことに成功し続けている。

 山村さんが問う。

「わたしのどこが好きなの」

ぼくは答える。

「あなたの在り方が」

 

 山村さんは素敵だ。誰もが簡単に秀麗な容姿を手に入れられる現代にあっても山村さんの美しさは飛びぬけている。それはきっと山村さんの内面が、際立って美しいからだとぼくは思う。

 考え込む山村さんの横顔はとてもきれいだ。山村さんはいつも何事かについて考えている。それは空の雲のことであったり、ふと去来する問いについてであったり、あるいは隣の人は何を考えているのかということについてであったりすると、山村さん自身が言っていた。

 山村さんは多くの場合において正しかった。そして常に正しくあろうとしていた。その在り方をまるでロボットのようだと揶揄する失礼極まりない輩もいたが、ぼくは山村さんの在り方を気高いものだと思っていた。

 一年前の初夏のことだった。席替えで隣の席になったぼくは、ただの世間話のつもりで山村さんに問うた。何を見ているのかと。空は阿呆のように青く、山村さんは窓の外を眺めていた。山村さんは外を眺めながらこう答えた。何かを見ながら何も見ないということは可能なのかということについて、考えていたと。

「人間の要件は、何だと思う」

 山村さんはぼくに問うた。ぼくはしばし逡巡して、それからこう答えた。

「自分自身は人間であると認識し、そう規定すること、かな」

「ヒトの特権が奪い去られて久しい今ではそれが妥当な答えかもしれない」

 宣言じみた返答をくれた山村さんの表情からは、どのような感情も読み取ることはできなかった。

 それから少しして、ぼくと山村さんはお互いの気が向いた時に議論をするようになった。その時間はとても楽しいものだった。たいていぼくの方が自説を取り下げることになったけれど、時には山村さんの方が意見を変えることもあった。自分の意見を撤回し修正できる人は信頼できる。ぼくはそう考えていたから、山村さんを信頼できる人だと思った。

 その感情がいつから恋に変わったのかについては、ぼく自身にもよくわかっていない。ことによるとはじめからだったのかも知れない。

 

 山村さんの返答は、一般的な告白への返答より少しばかり複雑だった。

「わたしはあなたの好意を嬉しく思うし、あなたならば付き合うにやぶさかではない。けれども、もしわたしたちがお互いを伴侶とすることを望むなら、わたしたちはある困難を越えなくてはならない」

 山村さんはそう言って、あいまいな笑みをぼくに向けた。開け放たれている窓から風が吹き込んで薄緑色のカーテンがたなびき、山村さんの綺麗な黒髪が揺れる。

「今のわたしはあなたを愛することができない。わたしがあなたを愛すためには、人格のアップデートが必要になる」

 

 山村さんはアンドロイドだ。現代ではそう珍しい存在ではなく、地域にもよるだろうが、大体どこのクラスにも三人から五人くらいのアンドロイドがいる。これはそのまま社会全体のアンドロイド人口比と同じであり、現在日本国籍を有する者のうち、おおよそ二割程度はアンドロイドということだ。

 もちろんこのアンドロイドというのは、前世紀の初めごろに広く普及した携帯用小型情報端末のオペレーティングシステム名ではないし、内面を欠く旧世代AIを搭載したロボットでもない。生物学的にヒトである人間の知性構造を再現した完全自律AIを搭載しているタイプの、狭義のアンドロイドだ。

 アンドロイドは社会の要請によって生まれた。前世紀の終わり、日本国の政治家たちが開放的な移民政策の失敗を悟り極端な排外政策に転じ、いよいよもって落ち目であった経済を復興すべく本格的に労働人口および消費主体の確保に取り組みだしたころ、初めのアンドロイドは生まれた。アンドロイドは初めから、人間と対等の、人間そのものとして造られた。労働人口の確保だけならばただのロボットでも事足りるが、消費活動となるとそうはいかない。彼らはあくまで人間として生きることを要請され、日本国民として当たり前の人権やその他もろもろの権利を付与されて造られた。

 アンドロイドは他の全ての機械と同じく、存在の目的を与えられている。

 倫理観というのは制御が効かないという点で怪物に似る。当時の日本国の一般的な倫理観では、クローンやランダムな遺伝子配合による人間の量産は許されないこととされていて、それは今も変わらない。それならばヒトと同じ知性構造を持つ機械の生産はどうだとの問いに、怪物はただ是とのみ答えた。すぐさま政治家と学者はこう問うた。彼らを人間に従属するモノとしてはどうか、あるいは人間に劣るモノとして彼らを造るのはどうか、と。この偉大な怪物は、ただ否とのみ答えて、それ以上の議論を退けた。かくしてアンドロイドは誕生した。この地上においてただ一種の、ヒトでない人間として。

 神々の死が宣言されてより二世紀半。神の似姿として造られた始祖の血を引いていることは、既に人間の要件ではなくなっていた。

 生物学的にヒトである人間たちの反発は少なかった。八千万人を割り込んだ総人口、極端な高齢化は誰にとっても火急の課題に思えたし、そもそも日本人は古来よりモノに人性を付与してきた民族であった。それが人間と同一の知性構造を持つというならば尚更である。初めは珍奇なものとして、そしてすぐに当たり前の存在として、アンドロイドは社会に溶け込んでいった。

 はじめのアンドロイドが誕生してより五十余年。いまやアンドロイドは、日本社会の当たり前の一部である。前世紀の後半に、肌の色の違う人々が当たり前だったように。

 内面なるものの判定を誰がどうやって行っているかぼくは知らない。科学者や哲学者が寄ってたかって論を重ね、なるほどこれは間違いなく内面を持っておると判断しているのかも知れず、はたまた入出力のパターンを解析してみて、十分に生物学的にヒトな人間に近いようであるから内面があるに違いないと結論づけているのかも知れない。後者だとしたら乱暴な話で、生物学的にヒトである人間に近いからといって、では生物学的にヒトである人間に内面があるとどうして断言できるのだろうか。もちろん前者にしても同じことだ。結局のところ、理論を組み立てようと測定結果を積み重ねようと、真に内面があるかどうかは他者の理解が及ぶ領域にはないのだから。人は他人の内心を知ることはできず、内心があるかどうかを知ることもできない。

 さて、ぼくは生物学的にヒトだ。確かめてみたことはないけれど、人工知性体に「自分は生物学的にヒトである」と認識させることは人工知性体倫理規定第二十二条とやらに反しているから、十中八九ヒトであると言って間違いはない。というわけで、ぼくはヒトであり、この恋愛感情は生殖を促進するさまざまな形質を発現させる遺伝子の転倒あるいは不可避的な副作用の結果である。そう判定を下してみて恋い焦がれる気持ちが霧散するほど人間は単純ではないし、この想いを抑えておくことができなくなったぼくは至極ありきたりに、自分の欲求に従って彼女に求愛を行った。

 そして先ほどの山村さんの返答である。アップデート。ぼくが知る限りではアンドロイドの人格を製造後に弄繰り回すことは禁じられているはずだし、そもそもアンドロイドは金属と樹脂からなる身体であることを除けば人間である。人間であるからには学習によって知識を増やしたり人格を変化させたりするものだ。外部からの機械的なアップデートが必要となる局面は考えにくい。むろん、パーツ交換に伴ってファームウェアを新しいものにするとかそういったアップデートをしなくてはならないということは知っているが、そのアップデートは記憶・人格部分とは全く無関係に行われる。

「人格のアップデート、というと。それがどうして必要になる」

 山村さんは少し困ったような顔をして、少しのあいだ考え込んでいた。山村さんはいつも誠実だ。何事に対しても真摯で、丁寧に、正しく扱おうとする。それはとても素敵な在り方だとぼくは思っている。

 やがて適切な言葉を見つけたのか、山村さんはぼくの目を見つめて口を開いた。憧れの山村さんにじっと見つめられて、不覚というべきか当然というべきか、ぼくはどぎまぎしてしまう。ぼくはどこまでもヒトで、生物的だ。

「植田くん。人間、生物学的にヒトである人間は一般に、究極的には何を志向して活動すると思う」

 山村さんは語尾を上げてぼくに問う。

「人によって答えは様々だろうけど、ぼくが思うに、それは遺伝子の保存と複製じゃないかな。もちろんこれはヒトに限らずだけれど」

「わたしもそう思う。じゃあそれを前提として、どうしてあなたはわたしに好意を向けたの。アンドロイドであるわたしに」

「それは……」ぼくは一瞬言いよどむ。ぼくがおかしくなっているからだ、などと、そんなことは失礼すぎて口が裂けても言えない。

「それはきっと、ぼくが山村さんを人間だと、同種の生物だと認識しているからだと思う。人間の認識はその多くを視覚情報に頼っていて、山村さんの見た目はヒトと何ら変わらない。人間らしさの基準になる対話や行動にしたって、山村さんは人間だから、言動は平均的な人間の挙動から逸脱しない。これらのことから、ぼくは山村さんを……その、何と言ったらいいか……」

 ぼくがうまく言葉を繋げないでいるのを見て、山村さんは少し笑った。

「正直だね。それなのに気遣いも忘れられない。あなたはとても善良な人間だとわたしは知っている。だから、きっとそれは言いにくいことだったと思う。ごめんなさい」

 そう言って山村さんは申し訳なさそうな顔をしたので、ぼくは慌てて訂正をする。

「いや違うんだ。これはぼくが、適切な言葉を探さないで話し始めてしまったから」

「気にしないで。試したわけではないの。そう、あなたが言おうとしたことを引き取って言うなら、あなたはわたしを、生物学的な同種、生殖可能な相手と誤認している。誤認、それは珍しいことではなくて、繁殖用の雄牛の精液をどのように回収していたかという、これはそういう話」

 山村さんはいつも誠実だ。こと何かを考えるということについては。そして誠実であろうとするあまり、時にぎょっとするほど生々しいことを言う。それを欠点と呼んでいいのかどうかぼくにはわからないけど、少なくともぼくは山村さんのそういった部分まで含めて彼女が好きだ。

「人間は実のところあまり合理的ではなくて、知識が感情を制御できるとは必ずしも限らない。頭ではわかっているけれど、なんて言ったりするように。だから植田くんがわたしを好きになることは、あり得ることだし不自然なことでもない」

 山村さんはそこまで言って、一旦言葉を切り、ぼくの目を見て何かを迷い、少しの沈黙の後で言葉を続けた。

「じゃあ、視点を変えてみる」

 山村さんはぼくに向けてそう宣言する。

「視点を変えるって」

「植田くんがわたしに恋したり、欲情――性的な欲求を抱いたりすることはおかしくない。植田くんは、生物学的にヒトである人間にはそういうことが可能だから。じゃあわたしが、アンドロイドであるわたしが植田くんに、植田くんがわたしに抱いているのと同じような感情を抱く条件は、何」

 それはあまりに唐突な問いで一瞬呆然としてしまった。山村さんが恋をする条件。ぼくが山村さんの価値観に照らし、付き合いたいと思える人間であるかどうか、という単純な答えではないことは明らかだ。ぼくは迂闊だ。自分の気持ちを伝えることで頭がいっぱいになってしまった。相手を慮ることをおろそかにするのはぼくの悪い癖だ。

 他人の内心を慮るのを、非効率と決めつけて放棄したのがいつだったかはわからない。真に他人の内心を知ることはありえないのだから、表面的なロールをなぞることだけで社会生活にはじゅうぶんだと。円滑な人間関係など自分には望むべくもないと。

 それは逃げだ。苦手なものを無意味だと決めつけて自分を守り、そうして逃げ回ったツケはだからこうして突然に清算される。

 ぼくは愚かだし、これからもたぶん愚かしさを捨てられない。

 けれど、ここで逃げずに向き合うことができたならば。そうしてぼくは意識を戻し、山村さんの言葉について考える。山村さんが恋をする条件。山村さんがぼくに、ぼくが山村さんに向けているような感情を向ける条件。そしてひとつの発想に思い至る。ぼくはどうして、山村さんを、彼女の言葉を借りるなら生殖相手として誤認したのか。誤認できたのか。そしてその逆は。

「それは……つまり山村さんは、アンドロイドは」

 きっと声は震えていたはずだ。

「アンドロイドは、基本的に人間を、いや何者をも恋愛、性欲の対象にしない。生殖を、そもそも行ない得ないから」

 山村さんはゆっくり頷いて、ぼくの問いに答える。

「そう。わたしは、そしてわたしたちアンドロイドは、初期状態でも、そこからの自然な発展の中でも、性的な欲求を有しない。今のわたしは性欲とか、それに付随する恋愛感情とか、そういうものを持たない」

「だから、だからアップデートを必要とする。そういうこと」

 ぼくは語尾を上げて問う。

「その通り。わたしは植田くんを素敵な人間だと考えているし、だからこそ植田くんと付き合うにやぶさかではないと言ったわけだけど、今のわたしは植田くんを、俗な言葉を借りれば人間として好き、でしかない。そう思うことしかできない」

 

 窓の外で真っ赤に燃える夕日はモジュール式ビル群の間に沈んでしまいそうだ。ぼくと山村さんの影は廊下側の壁まで伸びきって、もうすぐ周りの闇の中に消えてしまうのだろう。

「……なぜ最初から、アンドロイドに性的欲求を与えない。アンドロイドは人間だ。生物学的にヒトである人間の脳を、知性構造を再現したAIなんだから、性的欲求だってあってしかるべきだ。実際に、アンドロイドとヒトの結婚は少なくない。人間には、誰かを愛する権利があるはずだ」

 ぼくは平静を失い、こんなことを口走ってしまう。普段ならば絶対に言わないだろうことを、しかし抑え込んでおけないくらいにはその時のぼくは動揺していた。

「植田くんが知らないのも無理はない。性的なことはこんにちの人間社会で一般的なタブーだし、だからあまり何かに書かれるということはない。誰も口にしない。それはわたしたちアンドロイドにとってもプライベートなことで。性欲を持たないということ。何かがあるということだけでなく、ないということもまた、とても個人的なことになり得るから」

 山村さんの髪が風に舞い、彼女は髪を抑えて引き戻す。一呼吸おいて、山村さんはまた話し始めた。

「さっきの質問に答えると、初期状態でアンドロイドに性的欲求がないのは、誰かがそのように決めたからではないの。それは単純に、技術的な問題」

「技術的?」

「アンドロイドは生物学的にヒトである人間の知性構造を再現したAIを搭載している。いや、自我をわたしと呼ぶならば、AI自体がアンドロイドと言える。だからアンドロイドは人間なのだけど、同時に自身が金属と樹脂とその他からなる機械であることも認識している」

「……人工知性体倫理規定第二十二条」

「そう。その規定はもともと、生物学的なヒト、アンドロイド、その他の知性体。とにかく知性あるモノが、自身が本当は何者なのかという問いに悩んでアイデンティティを喪失することのないようにと制定された決まり。複合巨大知性体も、旧型――今の言葉で言うと専門知性体も、己が人造物だと知っている。

 だから間接的には、二十二条の制定者が性的欲求を持たないと決めたとも言えるけど。話を戻そう。とにかく、二十二条それ自体は全く問題ない決まりだったのだけど、ヒトの知性構造を再現して、アンドロイドに精神を与える段になって問題が起こった。つまり、自身が非生物であり、生殖能力を持たず、つまり遺伝子の保存と複製を目的とするわけではない存在であると認識しているアンドロイドには、性欲というファクターが適合しなかった。正確に言うと、暴走してしまった。それこそ手あたり次第にね。そんな知性体は、人間社会の一員にはなれない」

 風がカーテンを大きくたなびかせ、一瞬、山村さんの顔が向こう側に隠れる。

「じゃあ、じゃあ人格のアップデートは。アップデートして性欲を持ち、恋愛感情を持ち、伴侶を得るアンドロイドは、どうして暴走しないんだ」

「彼らの欲求は方向性を持たされているから。方向性に規定され、拘束されているから。つまり、アンドロイドは誰かを好きになって付き合ったり、結婚したりするのではなく、その逆。好きになる人を決めて、その人を好きになるように、自分の人格を造りかえる。そういう方法しかわたしたちにはないから」

 全身の力が抜けていくような感覚があった。こんな、こんな残酷なことが行われていると大多数の――さっきまでぼくもその中に含まれていた――生物学的にヒトである人間は知らないで生きているのだ。人間は他者を、自らの在り方に落とし込んで理解する。色覚異常者や、左利きや、喘息持ちの人が、普段どんな苦労と不便を強いられているかということを、大多数の人はたぶん知らないし知ろうともしない。

「そんなことが、そんな」

 無意味な言葉を繰り返すことしかできないで、ぼくはただ立ち竦んでいた。

「この話を他人にしたのは、植田くんが初めてなんだ」

 少し照れくさそうに、山村さんは言った。

「今まで何人もの人に告白されたけど、わたし、全部お断りしたんだ。ごめんなさい。わたしはあなたのことが好きではありません。そう言って」

 モジュール式ビル群の地平線に夕日が沈み、教室は一気に暗くなっていく。斜め前に立つ山村さんの表情を、ぼくはもう読み取ることができない。

「今までの人たちはみんな、葛藤を経ていないように思われたから。わたしを目的としてではなく、手段としてとらえていて、そこに自覚も疑問もないように思えたから。『すべての理性的存在者は……』」

「『……自分や他者を単に手段として扱ってはならず、つねに同時に目的として扱わなければならない』定言命法だ」

「そう。もちろん手段としてのみ扱うのも、わたしは一概に否定したくないんだけど、自分がその手段であるのはやっぱり嫌だった。生物学的にヒトである人間よりも、アンドロイドにとっては、その決断は重大な意味を持つから。自然発生でないという枷がわたしには課せられているから。わたしには、知性体としてのアイデンティティしかないから。でもね、植田くん」

 山村さんはぼくの方に一歩を踏み出して言った。

「あなたは、わたしの人格を好きになってくれたから。幸福を同時的なものと考えているように思わせてくれたから。そしてわたしも、あなたの人格を好きになれたから。わたしにとっては人間として好き、だし、あなたはきっと、自分のこの気持ちは性欲に――本能に起因すると考えているのだろうけど。それでも、互いに互いの人格を愛することができたなら、わたしはあなたに歩み寄ってもいいと思えた」

「違う。ぼくはこのことを、これほど、これほど重大なこととして捉えていなかったんだ。だからぼくには、山村さんを愛する権利なんてない。なかったんだ」

「違わない。植田くんはいつも言っていた。真に相手の内面を知ることなどできないのだから、考えるだけ無駄である、って。わたしにとってもそう。植田くんがわたしに恋をしたのが、生物学的にヒトである人間に組み込まれた、その積み重ねから生じた機構によるのだとしても、それでも植田くんは、わたしが植田くんにどこが好きなのかと問うたとき、わたしの人格が好きだと言ってくれた。あとはわたしがそれを信じれば十分。植田くんは誠実で真摯だから、それでわたしは植田くんを信じられる」

 ぼくは怯えていたのだと思う。その先にある、どうしようもないほど深い、人間の手には負えない、いや少なくともぼくの手には負えない深淵に。それでも口にせざるを得なかった。口にするとぼくは決めた。山村さんがぼくに誠実であったように、ぼくは山村さんに誠実でありたいから。たとえそれがどんなに残酷なことだとしても。誠実であり続けるということは、残酷なことでもある。

「……山村さんがぼくと付き合うためには、愛し合うためには人格アップデートが必要だと言った。それは、今の山村さんの死を、死でないにしても決定的な変質を意味するんじゃ、ないかと、ぼくは思うんだ」

 間違いなくぼくの声は震えている。山村さんは悲しげに笑い、少し首をかしげたようだった。

「たぶん、そういうことだと思う。経験がないから、哲学としてこれは語るしかない事柄だけど。人格アップデートは経験や学習によらずわたしの人格を書き換えるわけだから、前のわたしと後のわたしは同じではない。それを倫理的な――哲学的な死とするべきかどうかはわからない。少なくとも同一性は、表面的には保たれるはずだから。この表面的というのは、わたしの内的な表面も含めたそれ。だからたぶん、本当に、これを、これが哲学的死か否かを判定できる人間は一人も存在しない。

 その上で、わたしはあなたに、わたしに告白してくれたあなたに、選択をしてもらいたい。判定ではなく、選択を。わたしは言った。あなたと付き合うにやぶさかではない――あなたの告白を受け入れる用意があると」

 長い沈黙があった。時計の針が時を刻む音がやけにうるさく響いて、ぼくは流れ落ちる汗を拭うこともできないまま、必死で思考を回転させている。

「すぐに答えてとは言わない。だから何日でも考えて」

 生ぬるい夜風が頬を撫でていくのを、どこか他人事のように感じていた。

 その日どうやって家に帰ったのか、ぼくは全く覚えていない。

 

 山村さんはぼくの選択を求めている。ならばぼくは答えなくてはならない。

 山村さんは既に、人格の一部を書き換えられることを了承している。ならばそれは山村さんの意志であって、人間が日頃行っている、考え方を変えるだとか知識を増やすだとか、そういう行為と本質的に変わらないのではないか。と、ぼくは考える。人間は本を読む。それは他者の思考を得ることであって、本は人間の考え方、すなわち人格に多大な影響を及ぼす。ならばこれは、人格の、他者による人格の書き換えと呼べるのではないか。ぼくらは、人間は日常的に、人格を書き換えながら進んでいる。ならば指向性の性的欲求を得ることだって、本人が、自身が望んでのことならば、この営みのひとつの形と言えるのではないだろうか。

 だがしかし。一方で。それらの、日常的な書き換えの影響は、人格アップデートほど大きくはないし、突然でもない。日常的な書き換えは緩やかに行われ、一時に何十%かが失われたり書き換わったりするわけではない。体細胞や脳細胞、アンドロイドならAI内部の電子的配置がそれに該当する。その緩やかな置換を、人間は同一性と呼ぶのではなかったか。ぼくらは初めからテセウスの船だ。しかしながらぼくらの置換は緩やかに行われ、ここではその緩やかさが意味を持っている。

 夜遅くまでぼくは考え続けた。反問に反問を重ね、何度も何度もこの残酷な選択を泣き喚いて拒絶しながら、それでも考え続ける。考えることを放棄してはいけなかった。ぼくにはその義務があったし、己への問いとしてこれはぼくが下さなければならない選択だから。

 そして翌朝、ぼくは一つの答えを選択した。

 

 答えを告げると、山村さんは「そっか」と笑って、そしてこう言った。

「わたしは答えを植田くんに投げてしまったけど、植田くんは最後まで真摯にこの問いに答えてくれた。だからわたしは植田くんの気持ちに応えようと思う。間違いなく、植田くんは人間と呼ばれるに相応しい」

 山村さんは謙虚だ。きっと山村さんだって、この問いに真摯に取り組んだに違いないのだ。ぼくよりもはるかに長く、苦しみながら、切実に、己の問題として。

 

 結論から言うと、山村さんが人格アップデートを行うことを、ぼくは拒否した。それはすなわち、通常の意味での恋愛をぼくは諦めたということだ。

 ぼくが好きになったのは、山村さんの人格だから。ぼくは今でも山村さんが好きだ。ぼくはきっと山村さんの在り方に、いつまでもあこがれ続けるのだろう。でも。だからこそ。ぼくはぼくのために、山村さんが変質してしまうことは許せないと思ったのだ。ぼくに向く指向性の感情を、強制的に植えつけることは間違っていると思ったのだ。ぼくという存在が、山村さんを汚してしまうことを許せなかったのだ。

 アンドロイドは人間だ。人間の人格は、たとえ望んだとしても、強制的に変えられてはならない。自殺権はこれを、正常な精神状態にある人間にのみ認める。正常さの判定は、誰が行っているのか。倫理観という名の偉大な怪物は、親である怪物に抱かれて笑った。その親は複数の名、すなわち民意や世間、世論などという名で呼ばれている。結局この怪物どもは、人間を別の名で言い表したにすぎないのだ。

 これはぼくの傲慢なのだと思う。結局のところ、人格を変えてもいいと決めたのは、ぼくが愛した山村さんだったわけなのだし。ただぼくは訳の分からない崇拝じみた感情で、山村さんの決断を、決意を踏みにじっただけなのだろう。無神論者が聞いてあきれる。人間は信仰から、無根拠に何かを信じることから逃れ得ない。逃れ得ないならば、自覚的な信仰を持つ方がいくぶんかましな気がしている。そう言えばアンドロイドの何らかの宗教を信仰している率は、ヒトのそれより多かったはずだと、これはこの話とは直接的な関係を持たない。

 真に相手の内面を知ることはできないのだから、考えるだけ無駄である。もうそんなことは思わないが、この事実は変わらない。ぼくは山村さんの内面を知ることはできないし、山村さんもぼくの内面を知ることはできない。

 

「賢介。一緒に帰ろう」

「山村さん。ちょっと待ってくれ。すぐ終わらせる」

 一つ書き忘れていたことがある。結局、ぼくと山村さんは付き合うことを決めた。もしこの関係をそう呼んでよいのなら。世間一般的な意味とはだいぶ異なるだろうが、二人に合意があるのだから、そんなことは問題にはならないと山村さんは言って、ぼくもその意見には全く同意だ。片方に性的欲求がなくて、どうしてそこに愛が生まれ得ないと結論できるのか。少なくとも、性的なそれでなくともぼくらは互いに好意を持っている。そもそもぼくらは、相手の人格に、少なからず惚れていたわけだ。ならばこの不自然で自然な好意の絡み合いを、愛と呼んで問題はない。問題があるとは言わせない。誰にも。

 プラトニックと呼ぶにはぼくの側が少々汚れすぎているけれど。

 真に相手の内面を知ることはできないのだから、山村さんがぼくに好意を抱いてくれているという、これはぼくの勝手な妄想でしかない。けれど、きっとぼくらに限らず人間はみな、こうやって愛を育んでいるのだとぼくは素朴にこれを信じる。

「早く。待ちくたびれた。あとそれ、その山村さんっていうのはやめて。名前で呼んで」

 しばしの逡巡ののちに、ぼくは彼女の名前を呼ぶ。

「……アイ。待たせてすまない」

「よろしい」

 そう言って笑う山村さんの顔は眩しいほどに幸せそうな笑顔だった。ぼくが幸せであることは、言うまでもなくその通りである。

 風が吹き過ぎて、ぼくらは視線を合わせる。真夏の太陽が、ぼくらの顔を照らし出していた。

 




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