O.W.L試験が終わり、試験から解放された生徒達の喜びの声を聞いても私の気持ちが晴れることはなく、胸に穴が空いたような空虚感だけが残ったままだった。
あの後すぐにセブルスはグリフィンドールの寮の前で徹夜する勢いで彼女に謝りに行ったらしいが帰って来た様子から見る限りでは上手くいかなかったらしい。
あの出来事から普通だったはずの光景はもうとっくの昔のように感じるほどぱったりと見ることもなくなった。セブルスとエバンズが2人で楽しそうに話しながら廊下を歩く姿も、喧嘩をするセブルスとポッター達を止めに入るエバンズの姿も、まるで初めからそんな光景なんてなかったかのように、空気に溶けてしまったみたいだ。気づかないほど少しずつそれぞれの歯車がずれていっているような気がして、私は必死にそれらから目を逸らした。
もう2人で歩いている姿は見ずに済んだんだからと、いくら言い訳をしてもそれでも私はある光景を目にする度に胸が締め付けられるように苦しくなり、せめていられているような気がしていた。
セブルスは友達と話すエバンズとすれ違う度に足を止めて、楽しそうに話す彼女を目で追っている。少なくとも私が見た限りでは毎回必ず振り返っている。その度に私の胸はぎゅっと締め付けられて、彼女の後ろ姿を見えなくなるまで見つめ続けるセブルスを見ると、息ができなくなるほど苦しくなる。
悲しそうに、
辛そうに、
後悔しているように、
…愛しそうに見つめるセブルスの瞳も表情も何もかもを見ると、嫉妬していた時よりも悔しくなる。
…………振り返ってくれないと分かっているのに…セブルスはまだ……エバンズを想っていることに嫌というほど実感させられるから…
私には決して向けてくれない瞳で彼女を見る彼の姿を見るたびに胸が苦しくなり、想いが溢れ出てくる。
…あの時、せめてセブルスがエバンズのことを想い続けられるように、私はこの気持ちは絶対に彼に伝えないことを決めた。それなのに、行き場のなくなったこの感情は溢れて溜まっていくばかりで消えてくれないのだ。
私は時計の秒針が動く度にセブルスに恋をして、愛しく想う感情が深くなっているような、もう抜けられないほど依存してしまっているような気がしてならない。初めはとても綺麗なもののはずだったのに、今になってはこんなにも汚く、醜いものになってしまったように感じて怖かった。それでも微かに感じるあの温もりに一度触れたら忘れられないほど、幸せになる。
だから求めてしまう。
どうしても捨てられなくて、忘れたくないもの。
……どんなに届かないと分かっていても、それでも求めるぐらいは許してほしい…
エバンズとの仲が悪くなってしまうともう歯止めが効かなくなったように、セブルスは闇の魔術に没頭していっていた。…きっと彼は死喰い人になっても彼女が振り向いてくれないことなんて知らないし、今後も気づくことはないのだろう。それなのに、セブルスは、彼女がもう一度自分に振り向いてくれるのを信じて間違った方向へと進んでいた。私がどう声をかけてもきっと聞いてくれない。それなら、少しでも近い場所で彼を守り続けることしかできない。
日が沈みかけて、オレンジ色の光が差し込んでいる廊下をひとりで歩く。友達と話しながら歩く生徒達とすれ違う時に無意識のうちに少し体を小さくしていた。
あんなに賑やかだったのに、私が進んでいる方にはどうやらあまり生徒がいないらしく、気づくと廊下を歩いているのは私1人だけだった。確かに滅多に通らない所で、普段から人気のない所だったから、行き交う生徒が少ないというのは何となく納得できるが歩いているのが自分だけとなると少し不気味に感じる。
自分の足音だけが響く廊下をぐるりと見回した時、小さな声が聞こえてきた。後ろを振り向くが当然誰もおらず、それでも確かに小さく何かを言っている声が今この時も聞こえている。聞き取れないほど小さな声だが、私はその声のする方に向かった。小さなその声はあまりに悲しそうで、辛そうなものだったからほっとくことなんてできなかった。
廊下の突き当たりを右に曲がった時、人影が目に入り私はとっさに身を隠す。
どうやら、声の正体はこの先にいた人のものらしい。
私は恐る恐る壁から顔を少し出して様子を窺ってみると、ものすごく綺麗なものを見たような気がしてゆっくりに感じた。
………あぁ…綺麗だ…
涙で濡れた頰がオレンジ色の光に照らされて暖かい黄色に色を変える。
吹き込んできた風で、顔に被さっていた髪が紐解くようにゆっくりと靡くと、私の心臓の動きは早くなった。
……どうして、今まで気づかなかったんだろう
スリザリン色のローブの裾が大きく波打つように靡くのを見て、私は名前を言ってしまいそうになり咄嗟に口を押さえた。
………セブルス
彼は誰一人として通らない廊下でひとり立ち尽くしながら、静かに泣いていた。右手で必死に拭いながら、声を押し殺すように泣いているセブルスの姿を見た瞬間私はまた壁の影に隠れる。
……最低だ…
……気づかなかったとはいえ、彼が泣いているところを綺麗だなんて思ってしまうなんて…
私は自分が思ってしまったことを思い返すと、手が震えた。
「……ぁ…ごっ…ごめん…」
壁越しに聞こえるセブルスの嗚咽音の中に謝罪の言葉が混じっているのに気がつくと、私の心臓は大きく飛び跳ねる。
「…ごめん………ごめんッ……」
何度も何度も繰り返し言うセブルスの声を聞くたびに私の胸も苦しくなるばかりで、鼓動の速度も増していく。
「ごめん……っ……ごめんなさい……リリー」
彼女の名前が聞こえた瞬間に、私の頭はまるで鈍器で叩かれたように痛みだした。
…………ほら、今目の前にいるセブルスは自分が言ってしまったことを深く後悔している。
……ひとりで泣くほど苦しんでいる。
こうなると分かっていたのに……
あの時、止めなかったらどうなるか分かっていたのに…
セブルスが苦しむと分かっていたのに……
………私は結局何もしなかった。
私の視界もだんだんとぼやけだして、鼻がツーンと痛くなると耐えきれなくなった涙が頬を流れた。
ここで飛び出して貴方を抱きしめる勇気があったのなら、何か変わるのかな……
…あの時…私が……止めていたら……
セブルスはこんなに苦しまずに済んだのかな……
私に勇気があれば…
私が貴方ほど優しくて強い人間だったら…
思えば思うほど、その分追いかけるように流れる涙はもう止まることなんてなかった。
「………………………ごめんなさい…セブルス」
泣きながらエバンズに謝り続けるセブルスの声を聞きながら、私は小さく呟く。
彼に届ける気などない私の謝罪の言葉は勿論届くこともなく、オレンジ色の光に溶けるように消えていった。
ひとりで泣くセブルスの姿を見てしまったら、もう普段過ごしている彼なんて直視することはできなくなり、セブルスと関わることもなくなってしまった。
彼を見てみると胸は苦しくなり涙が出てしまいそうになる。
…全部私のせいでこうなったのだから尚更だ。
セブルスが苦しんで辛い思いをしているのを見ているのは、本当に悲しくて私まで苦しくなる。
彼の方が辛い思いをしていることは知っている。痛いほど実感もしているが、私は結局自分のことしか考えられなかった。
ベッドに潜り込み、瞼を下ろしてみるが眠れなくてルームメイトの寝息が聞きながらゆっくりと目を開けた。
姿勢を変えるために横を向くと、ベッドの横にある小さな棚が目に入る。1番上の引き出しには、もう最近開いてさえもいない本がしまってある。
………最近は使う気になれず、一切触っていない。
私はゆっくりと、体を起き上がらせて引き出しをひいて本を中から取り出した。真っ黒い表紙は相変わらず何も変わっておらず、不気味な雰囲気を放っている。
私はパラパラとページをめくって、何も書いていないページを開いた。どんなに文字に触れてみても何も反応はなく、勿論文字が浮き出てくるわけでもなかった。
………なんか…本にまで……見捨てられた気分だ…
思ったことを消し去るように私は、ページを進めると、何故か何も変哲のないページが気になって手が止まった。
文章が書かれていない端の空白の部分に、うっすらと文字が書かれていることに気がついた。
『どうして彼ばかりに執着するんですか?』
彼……誰のことだろうか。白紙のページではないスペースに文字が浮き上がったことなんてなかったし、どこか…この文章は今までの雰囲気とまるで違う。
文字を触ってみたりしたが、消えることもなく反応してくれない。私は何を思ったのか羽根ペンを握ってその文章の下に書き込んだ。
『貴方が言っている彼が誰のことかは知らないけれど、私が知っている彼は貴方が思っている以上に素敵な人よ。誰よりも優しくて、強くて、勇気のある人。私はそんな彼を愛してる。誰よりも。』
自分がどうしてセブルスのことを書いたかは分からなかったが、途端に恥ずかしくなった私は『愛してる。誰よりも。』という部分を塗りつぶした。すると、私が書いた文章もその上に書かれていた文章も溶けるように消えていく。
文字に書いただけでも少しだけでも、セブルスを想う感情が楽になり、胸がすっと軽くなったような気がした。
文章が消えたことを不思議に思いながらもとりあえず羽根ペンを置いて、本を閉じる。
そろそろ意地でも寝ないと明日がもたない。
そう思って本を引き出しに戻そうとすると手から滑り落ちて、大きな音がたててしまった。何人かのルームメイトが少しうるさそうに寝返りをうっただけで済み、ほっとしながら開いている本を拾うためにベッドから抜け出した。
開いていたページは特に何も変わりのない歴史の文章が印刷されているページで、特に何も考えずに文章にひとと通り目を通しながら手に取りベッドに腰掛ける。
……ん?…何だろう…
本を閉じようとしたがふと裏表紙の中に何か彫られているのに気がついた。何が書かれてあるんだろうと不思議に思った私は裏表紙を開いてじっくりと見る。するとそこには書かれてあった人物の名前が目に飛び込んできた。
あまりに衝撃的で、見てはいけないものを見てしまったかのように心臓も、体も緊張すると、戸惑いの言葉が溢れた口から出た私の声は震えていた。
「…………どういうこと……」
【著者 レイラ・ヘルキャット】
ただ自分の名前が彫られてあるだけだというのに、とても恐ろしく感じた。
……自分の名前がこの本に書かれてある、というかここに著者とまで書かれてある。
勿論私はこんな本書いた覚えなんてない。同じ名前の人が書いたというもの信じがたい。
もう既に私の頭はパンク状態で、何が何だか分からなくなる。
私は混乱しながら、彫られてある自分の名前をなぞった。
…一体どういうこと……この本は私が作ったの?…えっ?でも見覚えなんてない。
混乱しだした頭はもう限界で、とりあえず本を閉じて引き出しの奥にしまいこみ、ベッドに潜り込んだ。
眠れるはずもなかったが、あれ以上本を見ていたらおかしくなりそうだ。
…最初の頃書き込んでもその文字が消えるなんてことはなかった本がいきなり私が書き込んだ文章を消し、まるで私が悩むことを知っていたかのように忠告してきた本を作ったのは私とまで書いてあるのだ。
…………確かに私は未来を知ってる。だけどこんなの作った覚えなんてない。
意味がわからなくなった私は、もう考えることをやめることにした。
………もう本を開くのはやめよう…
これ以上ないほどの不安が襲いかかってきてあの本にはもう触らないことを心に誓い、大人しく瞼を下ろした。
セブルスと話す勇気など湧くわけがなく、私はただ彼を目で追いかけることしかしなかった。本のことを考えながら、過ごしているとあっという間に時間というものはすぎるもので、気づけば1年も終わりを迎えた。
もう動きだしているホグワーツ特急の激しい振動を全身で感じながら、目を閉じる。
すると、当然のようにセブルスが1人泣いている光景が浮かんできて私は耐えきれなくなり目を開けた。
………結果的にはこれで良かったのかな…
帰りのコンパートメントの中で私は、雨が降り続いている空を見ながらひとりで考え込む。
……もう成り行きでセブルスと関わることもなくなったし、
…これで物語は何も支障なく順調に進むだろうし…
言い訳の言葉を並べながら、私は窓に打ち付けてくる雨の音を聞き流す。
………これでいいんだ……これで彼を確実に救い出すことへの一歩になったんだから…
いくら都合のいい言葉を自分に言い聞かせても私の気持ちは軽くなるばかりか重たくなっていく。エバンズの隣ではあんなに笑っていたセブルスは、彼女が隣にいないだけでもう純粋に笑うこともなくなった。
………こうなるのなら……私が我慢すれば良かったんだ…
私が側にいても、セブルスは笑ってくれない。
……彼には、エバンズしかいない。
………セブルスは彼女しか見ていない。
窓の外の雨のように私の瞳からも大量の涙が流れだした。私は隠すように手で両目を覆って瞼を閉じる。そんな私を心配したように鳴くアテール鳴き声が聞こえてきて、私は目を開けて檻の中で大人しくしているアテールを優しく撫でてやる。
「……あんたに心配される日がくるなんてね」
真っ直ぐ見つめてくるアテールから視線を逸らして頰に流れた涙を拭って窓の外を眺めた。
ただ今は、綺麗事を並べるよりも何も考えずに涙を流す方が楽になれる気がした。
夏休みを迎え、帰宅した私はいつもと違う家の雰囲気に違和感を覚えた。いつものようにアウラが上着を預かってくれて埃ひとつないピカピカに磨かれた玄関も、ぱっと見何も変化はないはずなのになぜか安心できない。
「どうしたの?早く上がりなさい」
母が立ち止まっている私に優しく声をかけてくれるが、私は何も返事せずに立ち尽くす。
「…どうしたんだい?レイラ」
父は少し微笑みながら、私に優しく問いかけてきた。父の顔をじっと見つめ息を吸い込むと、階段から兄が降りてくるのが見えた。
「レイラ、お帰り。学校は楽しかった?」
笑顔で言う兄の歩き方は平然を装っているがどこか不自然で、左腕をできるだけ動かさないように気をつけている様子だった。
「……また、怪我をしたの?…」
私は、ただいまも言わずに少し兄を睨みつけながら問いかけてみる。兄は歩くのをやめて私を見つめてきた。
「……おかしいじゃない。毎年ノアは研究で夏休みには帰ってこれないはずでしょ」
「少し、休息をもらったんだよ。」
「…その怪我はなんなの」
「……少しドジしちゃってね」
笑いながら言う兄は少し困ったように眉を下げる。嘘をつくといつもこの癖がでる。
「…レイラ、疲れたでしょ。今日はゆっくり休みなさい」
母が背中を優しく押してくる。今の私には3人が明らかに自分に何かを隠しているように思えてならなかったが、私は素直に自分の部屋に戻り、兄の怪我のことを考えながら夕食までの時間を過ごした。
久々に家族揃っての夕食だというのに楽しくなくて、あんなに美味しいはずのご飯を全く喉に通らなかった。
いつも通り、楽しそうに話す兄を見ると確実に何かを隠している気がして胸らへんが霧かかったようにもやもやする。
私がフォークとナイフを置くと、心配したような兄の声が聞こえてきた。
「…体調悪いのか?」
私は今胸がもやもやとしているこの変な気持ちになった原因の核心を迫るためにゆっくり口を開いて、自然と出てくる言葉に身を任せた。
「…私に……何か隠してない…?」
私の言葉を聞いた瞬間に兄は少し眉間にしわを寄せ、母は瞳孔が少し開いた。2人とも分かりやすく反応したが、ただひとり父だけは無反応だった。
「…レイラ。どうしたの?隠すことなんて何もないじゃない」
いつも通り母が微笑みながら返してくるが、今回は引き下がることはできない。
「…前まで仕事で怪我なんてしなかったノアが最近になってよく怪我をしてるし、それが、死喰い人が活発に行動し出してきた全く同じ頃…」
「考えすぎだよ。レイラ」
笑いながら言う兄は、やっぱり少し眉が下がっていた。
「私の考えすぎだったらそれで別にいい。
……だけど、明らかに何かを隠してるじゃない。」
静まり返った部屋に今まで喋らなかった父が静かに口を開き、少し溜息混じりの声が聞こえてくる。
「……ここまでかな…」
「あなた!!!この子にはまだ」
何か言おうする父に向かって、声を張り上げ母は必死に何かを守っている様子に見えた。
「……まぁまぁアメリア、そんなに大声を出さなくても。…もうそろそろいいじゃないか?この子も知っとくべきだ。」
母は溜息をつき、父をひと睨みすると私を少し見つめて静かに話し出した。
「…レイラ、貴女に言わなかったのはレイラには普通に何事もなく学校生活を送って欲しかったからなの。
…だからどうかノアを責めないであげて」
兄に視線を移すと、少し俯きながら私の様子を伺っていた。
「……死喰い人がこれまでも何人もの魔法使いを殺しているってことは知っているでしょう?」
黙って頷く私を確認して母はまた話を続ける。
「………その死喰い人が……
……私達を皆殺しにしようと動きだしたのよ…」
「………………………なっ…なんで…」
震えている自分の声を聞いて情けないと思いながら、話を続ける母を見つめた。
「……理由は彼らにしか分からない。…ノアが襲われて、助かったのも奇跡なのよ。運が良かったことに相手の人数も少なくてね。だから怪我程度で済んだの。」
……あまりに思ってもいなかった言葉に体が固まって何も考えられなくなる。
「……えっ?ノアが襲われた?」
戸惑いが隠せずに、私は兄を見る。
「……その怪我は…」
「大丈夫、大した怪我じゃないよ」
私が左腕を見たのが分かったように、机の上に乗っけていた左腕を自然に下ろす。
………違う…おかしい…これじゃあ…辻褄が合わなくなる。
私は兄がドラゴンの鉤爪に引っ掻かれて怪我をし、両親が会いに行った時のことを思い出した。
……あの時の怪我の原因がドラゴンのことじゃないことは確かだ。
確かに…あの時も微かに眉が下がっていた。
ここで追求してもきっとまた嘘をつかれるだけだと思い、私は母に話を振る。
「……他の人は、…大丈夫なの?」
今目の前にいる家族は生きていると見ただけで分かるが、…叔父や…叔母の顔が浮かぶと聞かずにはいられなかった。
「…連絡を取れないからなんとも言えないけど、それぞれ隠れてるとは聞いているから大丈夫よ。」
私が母の言葉を聞いて黙り込む姿を見た父が静かに話しだす声が聞こえてきた。
「……心配することはないよ。私がちゃんと魔法をかけといたから、そう簡単に見つかることはないだろう。
………でも、時が来たらここを離れないといけないかもしれない……それだけは覚悟しといた方がいい」
……家を離れる?……生まれ育ったこの家を?
急に不安が押し寄せてきて、自分でも真っ青になったのが分かった。
今まで死喰い人なんて記憶の中でしか見たことがなかったから実感が湧かなかった。でも実際命を狙われているとなると、何処からともなく現れそうで一気に恐怖心が襲いかかってくる。
現に…兄が襲われたのだから。
「…学校…来年はホグワーツに行けないの?」
私は急にそんなことが心配になって父に問いかけてみる。
「…安心しなさい。勿論ホグワーツに行っていい……ここよりもホグワーツの方が安全だからね。……何だったら、家族全員で住み込みたいぐらいだ」
こんな時なのに父は冗談を言って笑いだし、母は呆れたような表情をすると優しく私に話しかけてくる。
「…レイラ疲れたでしょ?お風呂に入ってゆっくりしなさい」
私が大人しく3人におやすみなさいと告げると、それぞれ口々に返してくれる声を聞きながら部屋を後にした。
………話を聞いても、私は兄のことで気持ちの悪い感触が残ったままだった。
確かに死喰い人に命を狙われることになるとは思ってもいなかったが、何か引っかかる。
……あの左腕の怪我が死喰い人に襲われて負った怪我だと考えてみても、いくら兄が上手く逃げれたとしても軽すぎる。
…なんだったら……あのドラゴンで怪我をしたと言っていた方が酷かった。
……あの時の怪我が、死喰い人に襲われたものの怪我だと考えれば両親がわざわざ兄に会いに行ったことも、兄が私に嘘をついたことも辻褄が合う。
それにそう考えると去年の夏休みに盗み聞きをしてしまった会話で分かった、父と母、兄そして叔母と叔父が私に隠していたことも大体は想像がついて、納得できる。
みんな…ノアが死喰い人に襲われたということを私に隠していたとして…
でもそうなると、今兄が怪我をしているのは何が原因なのだろうか…
去年の夏休みの時、やっぱり兄はドラゴンの研究に行っていた?いや、普通命を狙われて行くだろうか。
『あの子自身が…望んだことだ……それを出来るだけ…後押し…する』
去年盗み聞きをした父の言葉が蘇ってきて、更に頭を悩ませてくる。
…兄自身が一体何を望んだというのだろう…
いくら考えても答えなんて、出るわけがなく、私はこんがらがった頭を整理するかのように、ゆっくりとお風呂に入ってふかふかのベッドに寝転がる。
この先の不安と、兄のことで眠れないかと思ったが、どうやら疲れには勝てないようですぐに瞼が落ちてきた。
相当疲れていたようで、気づけば時計の針がお昼を指していた。大分遅めの朝食を食べて、ゆっくりと部屋で過ごす。いつもの過ごし方と何も変わりないがひとつだけ違った。今までは、思いもしなかったある不安。
こんなに幸せなのに…
こんな時間ももう過ごせなくなる日が来るのだろうか…
そう思ってしまうと私はまた記憶に頼りだす。……勿論、いくら振り返っても私が知っているのは『ハリーポッター』の物語のみだけだから、何も意味はない。
これからどうするのが正解なのかが分からなくて、私は先が思いやられた。
時々父の姿が見えなくなったが、母と兄がいなくなることはなかった。…何処に行っているのかと父に聞けるわけもないし、仮に聞けたところで曖昧な言葉が返ってくるだけだと分かっていたからもう諦めていた。
夏休みを迎えてもう大分経っているというのに私は兄の怪我のことも聞けずにいたが、もう限界を迎えていた。私は聞く勇気を振り絞って兄の部屋の前で立ち続ける。夕食も食べ終わり、お風呂にも入り終わったのだがどうしても兄の怪我の様子も気になるし、本当のことを聞き出そうとも思い覚悟も決めていた。
それに、だいぶ日にちが経つのに怪我が良くなっているとは思えなく、実際兄は明らかに左腕を庇いながら生活をしていた。そんな兄の姿を見ていたら、心配しないわけがない。
……大丈夫、ノックして、何気なく聞こう。自然に…
…いつも通り…
意を決して扉をノックすると、中から兄の声が聞こえてくる。
「はーい。ちょっと待って」
近づいてくる足音が聞こえたかと思うと扉がゆっくりと開いた。私の顔を見た瞬間に、兄の表情が明るくなる。
「丁度良かった。お茶をしようと今呼びに行こうと思ってたんだ。ほらほら早く中に入って」
にこにこ笑いながら言う兄を見て、私は部屋の中に入った。
ドラゴンのことに関しての本が山積みになっている机の前にあるソファーに腰掛けた。兄は杖を一振りしてその山積みになっていた本を片付けると、私の前にティーカップと焼き菓子を置き、向かい側に座った。
「……もう…夜遅いしこんなの食べたら太っちゃう」
いかにもバターを沢山使ってそうな焼き菓子を見つめながら兄に言うと、何が面白いのか笑いだす。
「…まさか、レイラの口からそんな言葉を聞ける日が来るなんてね。…ちょっと驚いたよ」
「……失礼ね、私だって女の子なんだからこういうことぐらい気にするに決まってるでしょ」
「ごめんごめん。でもいいじゃないか。今日ぐらい」
「……その今日ぐらいが積み重なって気づかないうちに太っていくのよ」
私は話を変えるようにティーカップに口をつけ、一口飲むと私のことはお構いなしに焼き菓子を頬張っている兄に話しかけた。
「………怪我は、大丈夫なの?…」
口に入っている焼き菓子を飲み込み、一口紅茶を飲むと兄は私を安心させるかのように笑いかけてくる。
「大丈夫さ。…少し治りが遅いだけだから何も心配はいらないよ」
「………でも…こんなに治りが遅いなんてやっぱり何かあるんじゃないの?……ほら、私にだってやれることができるかもしれないじゃない…」
私が少し俯きながら話すと、少し笑いながら話す兄の声が聞こえてきた。
「…レイラは優しいな…………だからこそ、言いたくなかったんだよ…」
「…えっ?……何を?」
「…死喰い人のことさ」
怪我のことから話を逸らされたような気がするが、そう言う兄の目は突然真剣になり、体が少し緊張したように固まったのを感じた。
「………レイラは優しすぎるからね…自分ひとりで何もかも抱え込もうとするだろ?……それが、父さんも母さんも心配だったんだ…」
兄の言葉を聞いて、私は持っているティーカップを握りしめた。
………私が優しい人間なわけがない。
「………優しいなんて…そんな…お世辞言わないで…」
震えている自分の声を聞いた瞬間に自然とセブルスのことを思い出すと、心臓が誰かに思いっきり握り潰されているかのように苦しくなった。あまりに鮮明にはっきりと映像として駆け巡りだしたものだから、今までのことを吐き出すように口が勝手に動きだす。
「………私は…人の幸せなんて祈ってあげられないし、人のために自分自身を犠牲になんてできない。」
セブルスが体を震わせながら言ってはいけない言葉を声を張り上げて、立ち竦めるエバンズの映像が流れ始めると、私は罪悪感に苛まれる。
「……自分は何もしないくせに、何もしなかったくせに全部人のせいにして綺麗事で並べて、言い訳をし続けて…」
2人が廊下を楽しそうに歩く後ろ姿が頭に浮かんでは、消えて幸せそうなセブルスの顔が浮かぶと、私は自分を否定するように少し声を張り上げた。
「……そんな奴のどこか優しいのよ……
臆病者で、薄情者の方がよっぽどお似合いじゃない」
私が話し終わると、優しく、それでもどこか強く話す兄の声が耳に入ってきた。
「………レイラ……そんなのは誰でも一緒さ。
人の幸せのために自分を平気で犠牲にできる人なんてそういない。」
あまりに優しすぎるその言葉は、逆に私を苦しめる。
「…………いる……すぐ近くにいるの……不器用だけど誰よりも優しくて…強くて、誰よりも勇気のある人…」
私は下を俯いたままギュと瞼を下ろした。セブルスの顔が浮かんできて、泣きそうになるのを必死に抑えながら、唇を噛みしめる。
「…………そうか…レイラはその人のことが…大切なんだね…」
私が何も言わずに、俯いたままでいるとまた兄の声が聞こえてきた。
「レイラ……こっちを見てごらん」
ゆっくりと顔を上げると、相変わらず優しく微笑んでいる兄の顔が視界に入った。
「…………その人の為に色々と考えて、その人にとっての1番の幸せを見つけたんだろ?」
「…………見つけたけど……それは…私が我慢しなくちゃいけなくて…自分を犠牲にするのが嫌だから…」
白状するように口から出る言葉と一緒にセブルスが苦しそうに泣く姿を思い出すと涙も一気に瞳から流れ落ちていく。
「……セブルスの幸せを私が壊したの」
まるで赤ん坊のように泣きながら、私は兄に助けを求めるように声を出した。
「………どうしよう…ねぇ…ノア…私はこれからどうすればいい…」
泣きながら問いかける私の声を聞きながら、兄はゆっくりと私の横に移動して腰掛けた。
「………それは、誰にも分からないよ。………人は誰でもあの時にこうしていればよかったとか後から後悔をして、自分を責めて、涙を流す。……そんなものなんだ。
…この先どうすればいいのかなんて、誰にも分からないんだ。
………レイラ、勘違いをしてはいけないよ。…
…優しさなんて人それぞれで、物の形や色が違うように、同じ優しさなんてものは存在しない。」
兄は私の頬を流れる涙を優しく拭って、頭を撫でてくる。
「……人のことを思いながら涙を流すだけでも、
…それは優しいというんじゃないかな?」
兄の優しい言葉を聞きながら私は、今までのものを吐き出すように泣き続けた。
「…少なくとも…僕はそう思っているよ…
…大丈夫………
自分の優しさを知っている人がいる限り、その人はひとりじゃない。
…何も難しく考えなくていい。自分の守りたいものを、守ればいいんだよ…簡単だろう?」
赤ん坊をあやすように一定のリズムで、私の背中を叩きだした。
「………大丈夫…僕は…何があってもレイラの味方だからね」
兄の左腕を通している服の袖から白い包帯のようなものがちらりと見えたが、兄の子守唄のような声を聞いていると、そんなことどうでもよくなり涙を流し続けた。
兄の腕の中は、暖かく、身を任せられるほど安心できた。いつもはあんなへらへらと笑っているような兄は、こういう時に優しく受け入れてくれるものだから、甘えてしまう。
もしかすると…私の方が兄に依存しているのかもしれないな…
背中をリズムよく叩いてくる兄の手の大きさを感じながら、泣き疲れたこともあり、気づけばゆっくりと瞼を下ろして眠っていた。