夕方、四時半。
俺は、三日間のほぼ絶食に近い過酷な生活を終え、寺の畳に大の字で伏していた。
ほかの二人も同様に、疲れきった様子で倒れ込んでいる。
ああ、なんか食いてえ。
プリンがいいな。
焼きプリンとか、高級なタマゴを使ったやつとかじゃなくて、市販の安いやつ。
俺の脳は、砂糖を欲しているらしかった。
意識が朦朧としている中、妹にプリンが食べたいと伝えようと、スマートフォンを開く。
と、そこで思い出す。
ここは、圏外であった。
二十分ほど経っただろうか。
身体は疲労によって未だに起き上がれないでいるのだが、胃袋はきちんと作動しているようで、食べない生活に順応するということは無かった。
住職がいうには、少しも食べないと、そんな状態にもなるということだった。
食べない生活に順応されては辛さが無くなってしまい、修行にならない。
そこで少しずつお粥を与え、空腹感を生き返らせていたのだという。
実は今回の寺合宿は一般向けの体験だったのだが、容赦ないな。
遊びでカップルで来た煩悩の塊たちには、丁度いい戒めになるだろう。
俺はリア充にお灸を据える住職に、心の中でグッジョブと作ってみせた。
俺が心の中で立てた親指が見えたのだろうか。
住職が、立ち上がって、こっちに近づいてくる。
すると、縁のない丸眼鏡を拭きながら、住職が言った。
「実は、この体験では、最終日にご飯を食べていくことが出来るんだ」
「「「.........えっ?」」」
「用事があって食べていかない人も多いんだが、過酷な修行のあとだ。評判は良くてな」
住職が、優しそうな柔らかい笑顔を向ける。
修行の時とは大違いである。
俺は、喜びを顕にして立ち上がろうとした足を、引っ込める。
…………そうだ。京香が夕食を作って待ってるって……。
しかし、スマートフォンの電波は繋がっておらず、連絡ができない。
しかし、目の前に食べ物がチラつく。
お腹が、地響きのような音で鳴る。
他のふたりが、狂ったように手を合わせて、アルプスの少女のように喜び、走り回っている……。
よし、決めた。
俺は住職のところに行くと、頭を下げて、言った。
「…………ありがたく、頂戴いたします」
食べ物の誘惑というのは恐ろしく、取り返しのつかないことまで、平気でさせる。
京香がどんな気持ちで待っているかなど、考えないで。
まだ、京香を、ただの妹のままだと認識してしまっている俺がいて。
あんなに楽しみにしていた、彼女との団欒の時間を、俺は無下にしてしまったのだった。
自宅の最寄り駅に到着したのは、その夜、九時半を回った頃だった。
俺はその頃には冷静になり、自分がしてしまったことに、強い後悔と、焦りという感情が心の中で渦巻いている。
俺は、黄泉国の煮炊きした飯を食べてしまった、伊邪那美命のことを、思い出す。
伊邪那美命は、死者の国で出された食事に手をつけてしまったため、生者の国に帰ってくることが、出来なくなってしまった。
自分も、似たようなものである。
食べ物の誘惑に惑わされ、妹の信頼を、きっと失っている。
京香は、俺と別れる決心をするかもしれない。
しかし、それは今となってはもう、仕方の無いことだった。
……俺は、なんてことをしてしまったんだ。
付き合って数日も経っていないのに、彼女を、悲しませてしまった。
彼女を、優先して、やれなかった。
電波を受信できるようになっても、メールで京香に連絡をとることが出来ないのは、どういう訳か。
……京香に審判を下されるのを、恐れて、先延ばしにしているのか。
また俺は、妹のことを、考えられていないのか。
自分のことを優先してしまっているのか。
俺はこれから一生、後悔の念に、駆られるのだろうか。
自宅の、前に着く。
スチール製のドアが、いつもより重く、冷たく感じる。
このドアの向こうに、京香がいる。
願望を言えば、俺のことなんかもう待っていないで、寝ていてほしい。
怒っているのならば、気が済むまで、怒りをぶつけてほしい。
様々思いと共に、ドアを、開ける。
そこには、京香が、座っていた。
これまでに、見たことのない、朽ちたような、乾ききった顔で。
全く手をつけていない、乾ききった食事とともに、座っていた。
京香は、目線をテーブルの下に固定したまま、問う。
「なにが、あったんですか……」
その声は、かすれていて。
若干の震えを帯びているような気がした。
それは、怒りなのか、哀しみなのか。
そのどちらともなのかは、俺にはわからない。
でも、この時の俺には。
ただ、謝るという選択肢しか、自分の中には浮かんでこなかった。
「…………ごめん」
「なにがあったのかと、私は聞いています」
若干、怒気が強めの口調になると、京香は、目線を逸らしたまま立ち上がった。
「……電子レンジで、温めて、適当に食べてください」
京香は、言った。
俺は、頭の中を渦巻き取り囲む、罪悪感とそれに準ずる何かに苛まれ、口を開けないでいた。
京香は、俺を、受け入れてくれた。
しかし、俺は既に食事を腹いっぱい済ませてきている。
俺は、口が裂けてもそんなことは言えなかった。
京香は、自身も一度も手をつけていないであろう食事をあとに、自室へと向かう。
まだ、頭は下方向に、傾いたまま。
「……お兄ちゃんは、私のために、何か犠牲にできますか」
独り言のような小さな声で、呟いた。
俺には、一緒に食べようと、引き止めることができなかった。
食卓に並ぶ、豪勢な料理を前に、俺は膝をつき、項垂れた。
泣きたいのは京香の方だと分かってはいるのに、涙が、一粒、また一粒と零れ落ちる。
泣き声を抑えて、嗚咽する。
京香は、怒らなかった。
しかし、俺は、京香の信頼を。
京香を、裏切ってしまった。
きっと京香はこれから先、俺が裏切ったということを、事あるごとに思い出すのだろう。
あの時、住職の誘いを断わり、まっすぐ帰宅していれば。
あの時、電波が通じた時点で、京香に連絡をしていれば。
……いや、違う。
俺が、しっかりしていれば。
京香とのことを、しっかり考えていれば、こんなことにはならなかったはずだ。
……まだどこかにある、京香を妹として見てしまう部分を、変えなくては。
京香は、俺の…………。
最後に京香が呟いたひとことが、背中に、重くのしかかった。
続く。