Fate/Genuine Objects   作:N-Kelly

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除幕『9月某日、八坂市にて』

 

 

 

「こーらっ!起きなさい慧!おばさんがいないからっていつまでも寝てていいってわけじゃないのよ!」

 

 すでに強引にカーテンを開け放たれた窓から差し込む朝日が、重たい瞼の上から俺の瞳に突き刺さる。

 その太陽光線が健全なバイオリズムを生み出すのだろうが、できれば今の俺はそれを拒否したいと考えている。

 俺の意思を示すかのように枕元の目覚まし時計はとっくに沈黙しているし、体を包んでいる布団を俺の手は決して放すまいとがっちり握りこんでいた。

 

「……生憎だが、ここは俺のユートピアだ。何人たりとも、たとえ真琴であろうと邪魔立てはさせない……。

 お天道様がもう少し登ったら起きるから、ここは俺に任せて先に行け……」

 

「そんな茶番はいらんわー!!」

 

 無慈悲な来襲者は俺の防護壁たる掛け布団を容赦なく剥ぎ取っていく。

 その瞬間窓から差し込む太陽光線は俺の全身に突き刺さり、俺は吸血鬼さながらにもだえ苦しんだ。

 

「グワーッ!!」

 

「そんな事もういいから、さっさと起きて。

 朝ごはんの支度は出来てるから、着替えて冷めないうちに食べてよ」

 

「……なんだ、もう少し付き合ってくれてもいいだろ」

 

 俺は茶番をやめてゆっくりと体を起こす。

 確かにもう少し惰眠を貪りたい気持ちはあったのだが、こう急かされてはしょうがない。

 諦めて俺は、勝手に俺の部屋に侵入してきた不届き者へと視線を向けた。

 

「おはよう。真琴」

 

「おはよう!慧」

 

 毎朝とまではいかないが、何度も繰り返した有間慧(アリマケイ)の日課。

 俺の幼馴染である滝沢真琴(タキザワマコト)とのよくある光景だった。

 

「なぁ真琴。醤油取ってくれ」

 

「自分で手が届くでしょ。……はいこれ」

 

「サンキュ」

 

 リビングに場所を移し、俺と真琴は向かい合って、彼女が作った朝食を食べている。

 品物は目玉焼きにご飯に味噌汁と、和も洋もへったくれもないものだ朝食というジャンルではありふれているものなので気にはならない。

 真琴はなんだかんだで手先が器用だからか料理もおいしく、毎回品を変えてくるので飽きもほとんどない。

 

「今日の体育何限だっけ?」

 

「2限目だよ。体操服忘れないようにね」

 

「わかってるよ。まだ暑さも残るってのに外で体育ってのは少し憂鬱だけどな」

 

「またそんなこと言って……別に運動嫌いでも苦手で思ないんだからいいじゃない。私なんて体力ないからずっと日陰で休んでいたいくらいだよ」

 

「ははっ、確かに真琴はすぐへばるからな。何だったら体力づくり手伝ってやろうか?」

 

「それもありだけど、そうなったら家事する余裕がなくなるかもしれないから、明日から家事も手伝ってくれる?」

 

「……冗談はよしてくれ。俺の料理スキルの無さは真琴も知ってるだろう?」

 

「まぁ家庭科の授業で炭を作ったのを見ればそれも頷けるけどね……。それも、いつか克服しなきゃだね。お互い苦手克服を目指して頑張ろう?」

 

「まぁ……また今度にしてください」

 

 言い出しっぺは俺なのだが、真琴の提案は謹んで辞退させてもらおう。

 真琴に甘えてきたツケを清算するのはもう少し先でいいだろうと思いながら俺は味噌汁をすすり、喉を落ちていく豆腐と共に嚥下する。

 

「それよりも、今日の数学の課題真琴はちゃんと終わらせてるのか?」

 

「う゛っ……。解いた内容を気にしないなら、ちゃんとやってあるよ……」

 

「解答欄埋めただけはやった内に入らねーよ。学校行ったら教えてやるさ」

 

「た、頼んますお師匠……」

 

 そんな会話をしながら一足先に朝食を食べ終えた俺は、空いた皿を重ねながら傍らに置いてあったテレビのリモコンを操作する。

 いつものようにチャンネルが地方局に合っていたテレビから流れる音を耳に入れながら俺は重ねた食器を流しへと持っていく。

 

『八坂市八阪町の山中で起きた鳥獣被害を受けて町は山中への立ち入りを自制するように呼び掛けているようですが、今回の動物に人が襲われるというような事件を聞いて、琴吹さんはどう思われますか?』

 

『やはり野山の管理の杜撰さが問題ではないかと考えられますねぇ。なんでも被害をもたらした動物の特定がまだできていないとのことですけど、結局のところ山に何が住み着いているのかさえ把握できていない事態こそが問題があると思いますね』

 

『確かにこの事件を受けて野放しにされた私有地の管理をもう少し明確にすべきだとは私も思いますね。それだけでなく最近八阪町自体も暴行事件や通り魔なんかで夜の治安とかがあまりよくないみたいですから、警察を始めとした地方の行政組織が一体となってこれらの問題に取り組んでいくべきだと思いますよ』

 

「鳥獣被害、ねー」

 

「なんか思うところでもあるのか?真琴」

 

 テレビで流れるローカルニュースを横目に見ている真琴はさほど興味もないような口ぶりだが事件について反復している。

 俺の記憶の中では特に真琴に動物関連のエピソードなんてなかったと思いながら、一応話題の一つとして聞き返してみた。

 

「動物も不明って、この辺の山ってそもそもどんな動物が住んでるのかなーって思っただけよ。

 猪とかイタチとかはもしかしたらいるかもしれないけど、熊はさすがに出ないと思うし、じゃあなんだろうってね」

 

「確かに猪なんかはたまに出るって話も聞くし、実際に猪は遭遇しうる動物で随一に危険だろうな。

 かと言ってもしかしたら犯人はそんな大げさな動物じゃないかもしれない。野犬とか、もしかしたら猫だって可能性もある。

 本気になれば愛玩動物でさえも人間に大けがを負わせることができるらしいから、案外犯人は野生動物ではなく人に訓練された動物なんて落ちもあるかも」

 

「やめてよ慧。そんなこと言われると今度から道に歩いてる猫に気軽に近づけなくなっちゃうじゃない」

 

「猫は常に主人の命を狙ってるなんて話もあるからな。真琴は実際弱そうだからいいカモだろ」

 

「むぅ。流石に猫にまで舐められちゃいないとおもうけどさ。というか今私は慧に舐められてるのか。

 ……今に見てろよ有間慧。その命を私がもらい受けてやるからな。シャー!」

 

「はいはいどうどう。どっちかというとお前は猫というよりも犬っぽい気がするけど。

 というかそろそろ出発しないと学校遅れそうだぞ」

 

「え?犬っぽいってどういう……こ、と……」

 

 そういって俺は未だ食卓から座ったままの真琴を尻目に自室へと学校の準備に戻る。

 緩慢に動き出す俺の背中と壁にかかった時計を真琴は交互に視線を移ろわせながら器用に顔を青ざめさせた。

 

「やばいやばいやばい!急ぐよ慧!のんびりするなダッシュで準備してー!」

 

 俺は慌てふためく真琴の声を背に受けながらゆっくりと制服に袖を通していた。

 

 

 ***

 

 

「あっぶ、ねー。ぎりぎり、間に合ったぁ……。ていうか遅れそうなら早く行ってよ慧ー」

 

「今日の体育のためのウォーミングアップだと思えばなんとなく得した気分になるだろ。

 学校も間に合って体育でも体が温まってる。一石二鳥だ」

 

「なるほど確かに、ってなるかバカー!」

 

 何とか授業が始まる前に教室に滑り込んだ俺たちは隣同士の席に座る。

 真琴は朝から全力疾走したせいかその白い皮膚からは汗がにじみ出していた。

 

「というかあんだけ走ってなんで汗かいていないのよ慧は。私なんて慧についていくのに手いっぱい脚いっぱいだっていうのに」

 

「別に俺だって顔に出てないだけさ。正直暑くてシャツの中気持ち悪い」

 

 今の時期はまだ残暑であり日差しは強い。

 そんな照り返しのアスファルトの中を走れば誰であろうと汗は抑えられないだろう。

 真琴は言わずもがな、俺にしたって見た目は涼しい顔をしているのかもしれないが体の中は熱が籠っている。

 体力的には学校までの距離なんて大したことはないが、単純に運動後のクールダウンは必要だった。

 

「まぁこんなこともあろうかとってな。ほら」

 

 どうせ家を出る前から走ることはわかりきっていたのだ。

 元々体育の授業があることも知っていたのだから、運動後のケアの準備はあらかじめ用意してある。

 

「これって……冷やしタオル?」

 

 俺が手渡した小さな筒から真琴が取り出したのは冷気を帯びた白いタオルだ。

 家を出発する直前に冷凍庫で冷やされたタオルを持ち出しており、断熱性の高い容器によってタオルの温度は保たれていた。

 

「体育後の分も別にあるから遠慮せずに使っとけよ」

 

「さっすが慧!いつもの用意周到さが憎いよこのこの!」

 

「気に入ってくれたのなら、光栄だよ」

 

 早速冷えたタオルで汗を拭きとり、首に巻いて上昇した体温を下げる真琴。

 タオルを昨日のうちに余分に準備をしておいて正解だった。

 

「俺はタオルだけじゃ体中居心地悪いから制汗スプレーを使うんだけどな」

 

「ってかあるならそっちを先にちょうだいよ慧!女子を汗まみれで放置させて自分は悠々と身だしなみを整える男子がどこにいんの!?」

 

「あっこら勝手に取るな!」

 

 真琴は俺の手から素早く制汗スプレーを奪い去って、自身に吹きかけ始める。

 冷やしタオルを恵んでやったにもかかわらず、スプレーまで奪うとは強欲な女め。

 

「相も変わらず朝から夫婦喧嘩かよ有間。つかもうそろそろ先生来るからおとなしくしたほうがいいぞ」

 

「誰が夫婦か鈴藤君!私は慧から正当な権利をもって借り受けてるんだから」

 

「……ああ、確かにそんな時間か」

 

 俺はクラスメイトの発言を聞いて時計に目を合わせればもう朝のホームルーム1分前だ。

 このまま真琴とくだらないやり取りをしている暇はない。

 

「教えてくれてサンキュ鈴藤。ほら真琴も使い終わったらさっさと授業の準備しとけよ」

 

「ん?ああうん、わかった」

 

 先ほどまでの口調は嘘のように素直に俺の言うことを聞いた真琴はタオルで残った汗を拭いていく。

 俺も腕に滲む汗をタオルでふき取って、冷却用の道具をカバンの中にしまい込んだ。

 

 さてそのままホームルームと1限の授業を終えた俺は体操着に着替えて校庭の日陰で体育座りをしている。

 俺もこの残暑の時期に、運動していない時にまで無意味に日向に出る趣味はなく、特にすることもないので日陰で涼んでいるわけだ。

 一方で俺の視線の先では女子たちが順番に短距離走のタイムを測定している姿が見える。

 そしてちょうど真琴の順番であった。

 短距離走は1組5レーンで行われておりタイムは個別に測定されるが、ある意味ではその同時に走る5人の競争となる。

 その走りの結果は真琴は5人の中から5番目という残念なものであり、傍から見ていてもあまりいいタイムではなさそうだ。

 朝にも語っていた通り、真琴はあまり運動が得意ではなくこのような単純な地力の競技しかしない体育の日は退屈そうに見える。

 

「また滝沢見てたのかよ、有間」

 

「ん……ああ、後木か。別にいつも見てるわけじゃねえよ。ただ、真琴はやっぱり運動が下手だなって思ってただけさ」

 

 俺の隣に座った男もクラスメイトであり、たまに会話を交わす仲だ。

 ただやはり話題のきっかけとして上るのはやはり俺と真琴の関係であり、何度も言われているから俺も辟易してしまっている節はある。

 

「なぁ、ほんとに滝沢と付き合ってないのか?あれだけいつもべったり一緒に居てよ」

 

「別に一緒にいるからって付き合ってるわけじゃない。ただ幼馴染で腐れ縁ってだけだよ」

 

「お前のその言葉を真に受けて滝沢に挑んでいった奴らは尽く全滅してるけどな。滝沢人気あるんだから、あんまり中途半端なことすんなよ。いつか本気のやつにお前刺されかねないぜ」

 

「はぁ?……本気ってなんのことだ?」

 

 真琴と俺は小さいころからの幼馴染だ。

 最初の記憶を辿れば幼稚園の頃からの付き合いでもあり、もはや兄妹に近い関係かもしれない。

 そんなことを言えばどちらが上かということでまた揉めるだろうし、なんだかんだでまんざらでもない顔をされそうなので口には出さないが。

 

「結構滝沢のことを狙ってるやつは多いけど、お前がいるから諦めるやつが殆どだよ。だからこそお前らのそんな不用意な発言が諦めた連中の反感を買うかもしれないってのに……」

 

「勝手に勘違いしたほうが悪いだろがそれ。それこそ俺に言われても困る。

 ただまぁ……真琴が告白を受けてるなんて言うのは初耳だな」

 

 なんだかんだで真琴と話す機会なんて腐るほどあるが、真琴自身が告白されたなんてことを口にしたことは一度としてない。

 別に俺たちは付き合ってはいないし、そういった勘違いをされているのも俺は何となく察していたが、真が告白されていることについては初耳だ。

 

「有間もいろいろ言い訳してるが、やっぱり滝沢のことが気になるのな。

 でも安心しとけ。全部断られたっていう話らしいし、お前の嫁は寝取られてはないよ」

 

「勝手に言ってろ。別に嫁じゃねえし」

 

 俺を見るクラスメイトのにやついた視線をうっとおしく思いながら立ち上がる。

 勝手に勘違いしたところで別に大した問題ではないが、話題のおもちゃにされるのは御免である。

 

「素直じゃないね。せっかくだしもう一個だけお節介かもしれないが、最近の通り魔や暴漢の噂くらいは知ってるだろ。

 どうせ今日も滝沢は練習して遅くなるんだから、終わるまで待って送って行ってやれよ」

 

「お節介どうも。そうかよ、夫婦はとにかく忠告通りSPの真似事くらいならやってやるさ」

 

 俺の目線の先には立ち幅跳びで盛大に砂に尻餅をついている真琴の姿が見える。

 噂好きのクラスメイトのことはさて置き、先ほどの真琴が告白されたことを考える。

 当然断ったということは相応の理由があるだろうが、やはり王道は他に好きな相手がいるだろうかということか?

 

「それじゃ俺がまるで本当に気にしてるみたいじゃないか」

 

 そんなこと考えたことが真琴にばれたら、数か月は弄られかねない。こんな危険な思想は排するに限る。

 結局のところ交際を断る理由としての妥当なラインはやはり「練習が忙しいから」だろう。

 コンクールまで今はあまり期間はないし、他のことに割いている暇なんてない。

 それ以上にほぼ毎日顔を合わせている真琴を様子を見るに結局好きな相手なんていないってことも濃厚だとも考えられる。

 結局のところ行き着くのはそんな普通な帰結であり、特に浮いた話なんて真琴の様子を見るに限って俺は考えられなかった。

 

「6秒21」

 

 走り終わってから言い渡された50メートル走のタイムを聞きながら、俺はそんなところで思考を帰結させる。

 どうせ真琴とはいつも顔を合わせるのだし、真琴が告白されたことを俺が逆に茶化してやればいいのだ。

 そうすれば疑問の答えも得られるし、他愛もない会話の種にもなる。

 

 

 ***

 

 

 9月の半ばともなれば日の傾く速度も相応に早くなるものである。

 8月の夏真っ盛りの時期ならば図書室の奥まで届いていた夕日の影も今は少し薄いようだ。

 傾いた夕日は朧げにオレンジ色の光を放っており、朝の日差しとは違った紫外線を瞳へと運んでくる。

 俺は差し込む夕日に目を細めながら広げた教科書とノートを閉じて鞄へとしまい込む。

 今日やるべき宿題や復習などは真琴を待っている時間の間で大方片付いた。少し前の時間まで俺と同じように図書室を利用して勉強する者や本を読む者もいたが今は周りを見渡しても俺以外に図書室には誰もいない。とうの昔に下校時刻は過ぎていて、もうしばらく待てば見回りの教員が部屋の鍵を閉めにここにやってくるだろう。

 そうなる前に俺も図書室から退散するために安い丸椅子から立ち上がると、同じ姿勢を続けていたせいか凝り固まった筋肉がほぐされる感覚が身体を走った。

 

 俺は斜陽差し込む廊下の中を一人歩く。今の時期は特に行事もなくこの時間に残っている生徒は部活動に所属している者くらいだ。生憎と俺は所属していないので本来この時間に残っているような人間ではないのだが、偶に別の用があるのでこの時間まで図書室で過ごすことはそう珍しいことではない。

 窓からは校庭で部活動に勤しむ生徒たちが伺える。彼らは校庭を部同士が互いに陣取りのように分割して利用しているのでそれなりに広大なはずの土地は少々狭小に見えてしまう。

 それに対して俺の歩いている校舎の廊下は自分以外に住人はいないために貸し切り状態であり狭い廊下も校庭に比べれば相対的に広々と感じる。

 そんな広大なプライベートエリアを確保しているが故のみみっちい優越感を抱くことを我ながら内心下らないと思いつつも俺は図書室から最短距離である教室を目指していた。

 

 しばらく廊下を歩けば校庭から静かに響く部活動の掛け声に混じって別の音色が鼓膜を揺らす。

 それは普段から耳に届く無秩序な喧噪とは違い、調和のとれた和音はさざ波のようにやさしく耳に届く。

 俺はこの音色を少しでも長く堪能したいと少しだけ歩調が遅くなる。

 目的地であるその教室は廊下の一番奥であり、そこへ一歩進むごとに届く音楽はより明瞭に聞こえてくる。

 平均律クラヴィア曲集からピアニストの旧約聖書、18番目嬰ト短調。

 門外漢である俺にとってその曲に込められた意図はよくわからないが、それでも鍵盤をやさしく叩くことによって弾き出される空気に溶け込んでいくような旋律が俺は好きだった。

 俺はしばらく扉に手を掛けながらも立ち止まり、演奏が終わるまでその場から動かない。

 その教室から流れるかつてバッハが奏でた繊細な音律を静かに鑑賞しながら、閉幕まで直立し続けていた。

 

 そして聞こえた気がした小さく息を吐く音を合図に夕暮れ時の演奏会は終わりを迎える。

 俺はその教室、音楽室の扉をゆっくりと開けてピアノの前に座る少女へと目を向けた。

 

 奇麗に整ったセミロングの栗毛は陽光を反射して輝いている。

 いつもは意志に溢れ活発な瞳はこの瞬間だけはただ真摯に鍵盤へと向けられて、自らが奏でた旋律の余韻を未だ反芻しているのだろう。

 世界からピアノと彼女だけが切り取られたような空間は、普段の彼女が醸し出すものではない一種の神聖さを内包していた。

 

「おつかれ、真琴」

 

 俺はその触れることを躊躇われるような空間にそっと触れるように、鍵盤の前の彼女へと声をかける。

 真琴はゆっくりと俺に向けて、そのピアノしか映ってなかった瞳の中に俺を写す。

 

「ああ、慧かー」

 

 瞳をこちらに向けた時から隔絶されていた彼女の世界が拡張されていき、瞳はいつもの快活な真琴のものに戻る。

 真琴は鍵盤の蓋をゆっくりと下げて、不満げな目をこちらに向けた。

 

「いつからいたのよ。音も立てずに入ってこないでっていつも言ってるのに」

 

「別に無音で入ってきてるわけじゃないよ。聞こえなかったてことはよく集中できてる証拠だろうよ」

 

「それはそうなのかもしれないけど、知らずに見られてたってなると少し恥ずかしいよ」

 

「別にずっと見てたわけでもない。いつも通り、終わる時間を見計らってちょうど音楽室まで来ただけだって」

 

 真琴がこうして学校でピアノの練習することは別に珍しいことではなく、練習を終える時間は何度かの経験によってある程度把握してある。

 真琴は気分屋なところもあるのである時には下校時刻限界まで練習をすることや、一方で片手ぐらいの数曲弾いた程度で練習を終えてしまうことがある。昔から何度も真琴の練習を隣で見てきたこともあって、そうした乱数も含めて今では把握できるようになっている。

 

「確かに私が今日はここまでって気分の時に必ず来るからね」

 

「パターンなんて当の昔から把握してるよ。で、コンクールに向けて今日の調子の方はどうだ?」

 

「うん、上々。ていうかどうせもうすぐだからこの時期には完璧に仕上げてなくちゃまずいって」

 

 これも素人視点でしかないが先ほど聴いた感じでは真琴のコンディションは十分であるように感じた。

 長年聴いてきた真琴のピアノの音色の跳ね具合から十分に判断できる。

 

「そうか。……帰りどこかでも寄っていくか?」

 

「今日もお母さんが晩御飯作ってるかいつも通りまっすぐ帰ったほうがいいと思うよ。

 今日も慧は食べてくでしょう?」

 

「ああ、じゃあいつも通り帰るか」

 

「まぁ実はアーネンエルベのパイを食べたい気分だったけど、今日はパスしとく」

 

「晩飯前にそんなもん食ったらさらに二の腕がやばくなりそうだからな」

 

「ぐ……、だからこそ今日は直帰だよ!」

 

 真琴は制服のスカートをはためかせながら椅子から立ち上がる。

 彼女は夕日に目を細めながら、傍らに置いてあった学生鞄を持ち上げた。

 

 音楽室の鍵を返した後二人で廊下を歩いてしばらくした後、昇降口を挟んで反対側から此方に向かって一人の男が歩いてくる。

 この学校という環境において制服や体操服以外の服装をした人間ならばその正体は自然とわかる。

 その教師は、俺たちの後方先にある職員室へ向かっているのだろう。

 

「不二崎先生、さよーなら」

 

 真琴は教師に向かって手を振りながら別れの挨拶を口にする。

 それに倣うように不二崎と呼ばれた教師も小さく手を上げ、こちらに向けて口を開いた。

 

「滝沢さんもさようなら。しかしこんな時間まで残っていることは感心できませんね。

 最近は通り魔の話もありますから、早く帰るようにと指示が出ているはずなんですが」

 

「コンクールも近いので、最終調整の時間が惜しいから音楽室借りてました。

 それに一人で帰るわけじゃないんですから、ちょっとぐらいいいでしょ先生?」

 

 真琴の言い分に、柔和な中年教師は少し困ったような顔をする。

 真琴の活動については校内で知れ渡っており理由は理解できるが、一方で教師としては承諾しかねる部分もあるのだろう。

 

「確かに有馬君もいっしょみたいですけど、平時ならとにかく近頃の物騒さでは日暮れ後の下校は少し不安が残るというものですよ。

 何せ生徒に何かあれば責任を取らされるのは学校なんですから」

 

「自然に保身の話するね先生。

 まぁでも大丈夫だよ先生。慧は空手やってたから痴漢から暴漢までさくっとやっつけてくれるし」

 

「俺を当てにするなよ真琴。空手やってたのは小学生の頃の話だ。

 しかもあの爺さんの空手は実戦じゃ使い物にならないから、俺にできるのは真琴を囮にして逃げることくらいだよ」

 

 数年前確かに俺は近所の爺さんの道場で空手を習っていたが、爺さんが亡くなってからは型の一つもやっていない。

 そもそも喧嘩に使えるようなことは何一つ教わった記憶はないので、仮に何者かに襲われたとしても反撃する術など俺は持っていなかった。

 

「私囮なの!?守ってよ、か弱い私を!」

 

「か弱いっていうか運動神経へっぽこだけどな。

 生憎自称の通り真琴どころか自分を守る力もないから、万が一ならさっさと逃げな。数秒くらいは時間稼ぎしてやるよ」

 

「相変わらず仲がいいですねお二人は。ですが仮に不審者に襲われた場合は二人で逃げてくださいよ。

 これは教師としての忠告です」

 

「言われなくてもわかってますよ。

 俺は危険なことにはわざわざ首を突っ込まない性分ですから、そんなことになれば逃げの一手だ」

 

「なら、いいんですけどね。

 では二人とも、気を付けて。さようなら」

 

「うん。さよーならせんせー」

 

 小さく手を振って中年教師は俺たちに背を向ける。

 向かう先は当初の目的地である職員室であり、まだ仕事が残っているのだろう。

 俺たちも忠告通り暗くなる前に家路に着くとしよう。

 

 帰り道の途中にあるコンビニの前を歩きながら、沈みゆく太陽と対比するように月が顔を覗かせ始めている。

 九月末の残暑は、日の沈みと共に沈静化していくが、一方で夏の羽虫はまだ健在の様で、コンビニの明かりを誘蛾灯として夕刻にもかかわらず群がり始めていた。

 こんな風に二人で帰るのは割といつものことで、家や学校なら割と取り留めない会話をするのだが、こういう道すがらでは真琴も俺も黙ったまま歩くのが基本になっていた。

 

「あのさ……」

 

 そんな無言の時間も特別苦になるほど付き合いが短いわけじゃないが、普段周りの景色を噛み締めながら歩く真琴が珍しく道中に口を開いたので、俺は少しだけ驚いた。

 

「やっぱりアーネンエルベに行っておくべきだったかな?なんだか無性に甘みが欲しくなって来たんだよね」

 

「……今更かよ。流石に今からは無理だぞ。

 せいぜいこのコンビニに寄るくらいだし、食べるにしても晩飯の後だな」

 

「わかってるよ。だから慧、いくつか選んで買っておいてくれない?」

 

「は?なんで俺が選ぶんだよ。今日は奢ってやらねえぞ」

 

 下校中に珍しく口を開けば出てくるのは甘味の話だ。

 肩透かしもいい所であり、晩飯前にコンビニに寄って来たことが判明した際の真琴の母親の呆れ顔が目に浮かぶ。

 

「ちょっと私、音楽室に楽譜忘れてきちゃって。

 すぐに戻ってとってくるから、その間スイーツ選んで待っててよ」

 

「はぁ?忘れ物だって?

 急に何言ってんだていうか今から取りに戻るのか!?」

 

 確かにこのコンビニから学校まではさほど離れていない。

 ほんの十分程度で戻ってくることのできる距離だろう。

 しかしだからといって俺だけ待っているわけにもいかないし、甘味一つ選ぶために十分もかからない。

 

「まーすぐ戻ってくるからさ。一つクイズを出しましょう!

 私が今食べたいと思っているコンビニスイーツはなんでしょう?制限時間は私が戻ってくるまでってね」

 

「ちょ、こら勝手に……」

 

 真琴は言いたいことだけを言って、駆け足気味に走り出していく。

 戻ってくる頃にはもしかしたら太陽は沈み切ってしまうかもしれない、そんな逢魔が時。

 こんな気まぐれを真琴が言い出すことは確かに珍しいが、これまでにわがままには散々付き合わされてきた。

 だからさほど気にしていない自分と、困惑している自分の半分半分だ。

 

 もはや真琴の脚は止まらないだろう。

 だからこそいつも通り、俺はため息を小さくついて去る真琴の背中に呼びかけるのだ。

 

「さっさと戻って来いよ。お前のお眼鏡にかなう物を選んどくよ」

 

 生憎俺は甘いものがあまり好きではないのだが、真琴の好みぐらいはある程度分かる。

 こんな造作もない問題は、真琴の今日の気分から推察すれば十分もかからないのだから。

 

「おっけー!じゃあいってきま―――」

 

 

 

 瞬間、視界が揺らぐ。

 俺の見ている景色が振動し、赤橙色の空は色調を反転させた。

 目に映る世界は静止し、伸ばした腕が現実を歪め、螺旋を象る。

 

 ―――それは、認められない。

 

 ―――ミトメラレナイ―――

 

 夢から覚めるような衝撃が頭に走る。

 目の奥はチカチカと痛み、全身、特に腕は鈍く思い筋肉痛めいた痛みを生じている。

 世界は相も変わらず学校帰りのコンビニの前であり、空の模様も赤い逢魔が時の様相だ。

 

「ど、どうしたの?……慧」

 

 だが俺の腕は気が付けば、真琴の手首をがっちりと握っていた。

 走り出して少し離れた場所に居た真琴は俺の正面に居て、まるで時間が巻き戻ったかのようだった。

 

「その……すぐ戻ってくるからさ。

 だから慧は私のお菓子でも選んで待っててほしい……って思ってたんだけど」

 

「ああ……そうだな。お前が食べたいのは『季節の盛り合わせベリータルト』だろう?」

 

「あ……正解。じゃなくてなんでそんなことすぐわかるの!?」

 

「何年お前の幼馴染やってると思ってるんだよ。それぐらいすぐにわかる」

 

 俺は内心平静を装いながら、真琴の出題を先んじて封じ込めた。

 俺自身にだってよくわからない。だけど、喫茶店のパイを食べ損ねたからその系列だろうくらいの推察はしていた。

 俺はコンビニスイーツなんて詳しくないし、商品名なんて一字一句合うように答えることなんてできない。

 だけど口からはすらすらと、自然にその名称が出てきた。

 

 そしてそんな疑問などどうでもいいほどに、今俺の心を占めている考えが一つある。

 

『決して真琴をこのまま一人で学校に戻らせては駄目だ』ということだ。

 

 なぜかは理解できない。思い至った過程はないが、『そんなことはいつものこと』だ。

 これは最善ではない。最悪を回避する手段だ。

 こんなことは今までにもあったし、今までにはなかったのだが。

 だからこそ、俺はこの『直感』を無視はできなかった。

 

「俺も着いていくよ。忘れ物」

 

「え……なんで?私一人でも別に……」

 

「俺も少し忘れ物、っていうか置いてきた本があってな。

 別に置いてきてもいいんだけど、せっかくだから一緒に取りに戻ろうぜ」

 

「うん……わかった。でも、心配しなくても別に一人でも……」

 

「物騒なのわかってんのに、一人にさせれるかよ。

 俺も多少は心配してるが、それ以上におばさんの心配を俺が代弁してるんだよ」

 

「そう、だね。お母さんに心配かけちゃ、だめだよね!

 しょうがない、私が真琴の忘れ物に付き合ってやるとするかー!」

 

「調子乗んなよお前なぁ」

 

 やや腑に落ちない部分もあった真琴だったが、それなりに納得したようで、俺に並んで学校へと引き返す。

 俺は内心安堵しながら、真琴とたわいもない話をしながら学校へと戻っていく。

 いつもなら登下校の間はほとんど言葉を交わさないのにもかかわらず、この時だけは軽快に口が回った。

 

 既にこの時には、俺の頭の中から先ほどの非現実的な時間の薪戻りに関しては過ぎ去っていた。

 この時から歯車がかみ合わなくなっていくような、道筋がそれていくような事は始まっていたのにも関わらず。

『違和感』を内包した世界は、俺と真琴の間だけではなく、この町、この世界正しく歪めていく。

 

 ―――……「さあ、聖杯戦争を始めよう」

 

 極天は堕ちて過ぎ去った。

 埋没した空想は根を張り天へと伸びるその最中、悪性の黒点はたった一人の観測者の下で浸み拡がっていく。

 

 

 

 

 

 

 

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