愛しのリシュリュー   作:蚕豆かいこ

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愛しのリシュリュー

 まず前提として、仏戦艦娘リシュリューは美しい。

 

 瞳は雨上がりにひろがる北欧の空色。白皙(はくせき)の美貌は神がかりの彫刻師が全能を傾注した至宝のごとき天与の輝き。黄金の柳髪(りゅうはつ)はひるがえるたびに甘い芳香を脂粉(しふん)のように放つ。左目の涙の通り道と、桃色の下唇そばにひとつずつ置かれたほくろの、えもいわれぬ悩ましさ。長身に見合う長い手足が織り成す坐作進退(ざさしんたい)のひとつひとつに、なにか美しい歌でもみているかのような、みるものを陶然とさせる婀娜(あだ)っぽさがある。

 

 なにより、容姿が並外れて優れていることをリシュリュー本人が自覚していた。だがそれは、自身を卑下しないが実際以上に過信することもまたけっしてないという意味だった。自分はこれだけ美しいという現実を極めて正確に直視していただけである。

 そして、女の美しさは、重力のように、つねに堕落を画策しているということも、リシュリューは知っていた。

 美しさは自分で飼い慣らすものだ。それがリシュリューの哲学だった。

 だから彼女はつねに自己を磨きつづけているし、身の丈に合わない不相応な振る舞いもまた厳格に戒めた。

 彼女のまばゆいばかりの美麗さは、そうした不断の努力により錬成され、維持されているのだった。

 リシュリューとはそういう女性である。

 

 

 ここは日本のとある鎮守府。駆逐艦娘初月は執務室に提督を訪ねた。

 

「提督、やはり戦闘詳報も設計図とおなじで、コピーではなく原本でなくば駄目らしい。妖精たちがブチ切れて――」

 と、三回ノックして返事も聞かないままドアを開け放ちながら報告した。

 

 提督とリシュリューが、なにやら慌てた様子で着衣を整えている最中だった。

 

「そ、そうか、やはりだめだったか。横着はするものではないな。なに、いますぐ追加で必要というわけでもない。またつぎの機会でいいだろう」

 

 威厳を鎧のようにまとおうとして、焦っているため手から次々落としてしまっているような提督は、あえてかたわらのリシュリューからも、出入口の初月からも視線を逸らしている。

 

 提督とは逆の方向へ蒼空色の目を向けているリシュリューも、一見すると平静だが、アラバスターのようなほほが内側からほのかな桜色に染まっているのを、はるか天空の敵機さえ動向を掌握する防空駆逐艦娘が見逃すはずもなかった。

 

 初月は大仏のような半眼になって、訊いた。

 

「リシュリュー、口の端っこから垂れてる白いのはなんだ」

C'est pas vrai(うそでしょ)! まだ出してなかったはず……」

「冗談だ」

 

 口を拭おうとしていたリシュリューは落雷を受けたように目を見開いて、つぎに目尻に透明なしずくをたたえ、ぷっくりとした唇を噛んで、自身の衣装の前を握りしめ、初月をにらみつけた。

 

 初月はどこ吹く風で、手にしていたファイルを提督に気安く掲げて示す。

 

「また後で来てやってもいいけど」

「すまんが、そういう気遣いがいちばんつらいんだ」

 

 提督が白旗を揚げると、初月はにやりとしながら「ごゆっくり」とドアの向こうへ消えた。

 

 静謐が戻る。提督とリシュリューがため息をつく。リシュリューの敵意に満ちた目が、椅子に座ったままの提督へ指向する。

 

「だからRichelieu(リシュリュー)は、ちゃんと公私の区別はつけないとっていったでしょ」

「え、しかし、そもそもはきみがなんかわざと屈んで胸元みせつけたり、意味もなくわたしの顔を覗きこんできたりしてきたから、てっきりそういうメッセージかなにかかと……」

「ふ・ざ・け・な・い・で。いつからそんな自信家になったのかしら。こんな陽が高いうちから!」

「こないだ、まさにいまと場所も時間帯もまったくおなじシチュエーションで、そんな素振りをあえて無視してたら、“このリシュリューのことがほしくないの?”って半ギレに……」

「ええそうよ。言ったわよ。仕事中でも突如としてあなたのことがほしくなるのよ。いけないの?」

「いや、ありがたいことだが……」

「もっとあなたが早く出してしまえば、こんなバタバタしなくてすんだのよ」

「さすがに始めて30秒少々では……」

「しかも、わたしの胸をみながらしてほしいだなんて。ただのHENTAI(エンタイ)じゃないの。おかげでRichelieuまで服を直さなければならなかったわ」

 

 すまないと言いかけて、提督は思いとどまる。

 

「……ん? ちょっと待ってくれ。自分はこれを舐めるからあなたは胸を触ってって、きみが言ったんじゃなかったか?」

「い、言ってないわ」

「いやあ、たしかに言ったような気が」

「言ってない」

「そりゃたしかにイッてないけれども、わたしは言われたと記憶しているんだが……」

「言ってないわよ!」

 

 と、激論を交わしてふたりは、やがて、自分たちがつまらない意地を張っているだけということに気づき、

 

「すまない、執務中にきみにしてもらえるという非日常感がうれしくて、つい甘えてしまった」

「Richelieuのほうこそ、嘘をついてごめんなさい。おっぱいをいじってほしいって、Richelieuが自分から言ったことだったわ」

 

 ふたりはもじもじした。時計の針の音がやけに大きく感じられた。提督とリシュリューは、意を決して、まったく同時に、互いに言った。

 

「じゃあ、続きを……」

 

 視線と言葉がぶつかりあって、からみあって、ふたりは二の句が継げなくなり、赤くなって顔を背けた。

 

 そのとき、ドアが開いて、隙間から初月が顔を半分だけ覗かせた。

 

「においとか、体液とか、痕跡だけは残さないようにしてくれよ」

 

 返事も聞かないままドアを閉めていった。

 

「やっぱり夜まで我慢しよう。よく考えたら公務員が勤務時間中にしていいことではない」

「しかたないわね」

 

 リシュリューの声音も、すっかり平時のものに切り替わっている。

 

「なら、今夜の11時、あなたの寝室でいいかしら」

「お願いします」

「言っとくけど、お風呂に入っては駄目よ。シャワーは全部終わってから。この前なんて、あなたったらシャワー浴びて準備万端みたいな顔しちゃって、このRichelieuをどれだけがっかりさせたことか」

「不思議なんだが、シャワーを浴びる前の男に抱かれてなにがうれしいんだ」

「あなたに抱かれるんじゃないの。Richelieuが抱くのよ」

「え、まあそれはどちらでもいいんだが」

「よくないわよ」

「あ、はい。で、シャワーを浴びてない男を抱いてなにが……。臭いだけだと思うのだが」

「匂いも味もひっくるめて、あなただからよ。faire l' amour(セックス)で使うのは性器だけじゃないの。五感を完璧に駆使してこそ楽園の扉がひらくのよ。日本人はもっとfaire l' amour(セックス)を楽しむべきよ」

「その割に、きみはシャワーを浴びてから部屋へ来るんだが」

「好きな人にはきれいな体をあげたいもの」

 

 好きな人、という言葉を恥ずかしげもなく発砲してくるのが、リシュリューである。提督はどぎまぎとしたが、ここで退いてはいけないと自らを奮い起たせる。

 

「で、自分はシャワーを浴びて、わたしには風呂に入らさない……?」

 

 リシュリューの美貌が自明の理だという顔になる。横断歩道の信号機が青になったときに「渡っていいのか」と訊かれたらだれでもこんな顔をするだろう。

 

「わかった。こうしよう。わたしがシャワーを浴びないなら、その代わりに、きみもシャワーを浴びない」

 

 リシュリューの麗々しい眉が片方だけぴくりと上がる。

 

「このRichelieuを脅すの?」

「いや、これはまさに自由と平等を勝ち取るための崇高な戦いというべきではなかろうか?」

「このRichelieuが、あなたのナマの体臭を味わいたいといっているのよ」

「はっきりいわれると、やはり清潔感こそが人としての身だしなみのアルファでオメガだと思い知らされる」

「そして、Richelieuは丹念に清めた体で、あなたの愛を受けとめたいのよ」

「そう、それだよ。わたしもまさにそれなんだよ。わかってくれるだろう?」

「だめよ」

「なぜだ! くそ。日本を国連の安保常任理事国に入れてくれ。わたしに拒否権をくれ!」

 

 結局、リシュリューのフランス料理フルコースによって買収された米戦艦娘アイオワならびに米空母サラトガとイントピレッドが、男湯の前で厳戒態勢を敷いていたため、提督はシャワーを浴びることが許されなかった。

 

「日米同盟も一片の反故にすぎなかったのか」

「Sorry, admiral. トランプ大統領はいまフランスと仲がいいの」

 

 浴場前で仁王立ちしているアイオワが片目をつむった。

 

 寝室で待っていると、「入るわ」とリシュリューが訪れた。しかしバスローブ姿ではない。シースルーのネグリジェである。どことなく、リシュリューの表情も、いつもの余裕ある淑女というより、勇気を振り絞っている少女という風情がある。

 

「あのね、Mon amiral(わが提督).」リシュリューはベッドに腰かけている提督の前に立ち、いいにくそうにしていたが、決心を定めて、「あなたのいうとおりにしてみたの」

 

 どのとおりなのか提督には判断がつきかねた。首を傾げる。

 

「その、Richelieuも、シャワーを浴びずにきてみたんだけど……」

 

 リシュリューは、上目遣いで提督をみつめた。

 

「においが強かったりしたらちゃんと言うのよ、すぐにシャワー浴びてくるから。日本人には、françaises(フランス人)は体臭が強いらしいから……」

 

 果たして、リシュリュー本来の匂いは、むせ返るような濃厚な麝香(じゃこう)の甘さに、ほのかにツンと鼻をつく酸味があって、なんとも悩ましかった。理性のネジがひとつひとつ丁寧に回して外されていく。嗅ぐたびに脳の中心から溶けてしまいそうになった。その匂いに包まれる。つながったまま、彼女の体温が(こも)った腋や、金色(こんじき)の髪が秘宝のごとく隠している耳の後ろに顔をおしつけ、粘度を感じるほど濃い匂いを胸いっぱいに堪能しては、じかに味わった。そのたびにリシュリューが耐えるようなくぐもった嬌声をもらした。汗の滲むうなじ。舌が火傷しそうなほど火照った肌。どちらからともなくふたりの手がつながる。指をからめる。熱い吐息。訪れる思考の真空。痛いほどに互いの手を握る。鋼鉄のようだった五指の緊張が、やがて液体になったかのように弛緩していく。

 

  ◇

 

 朝の一分は昼の一時間より重い。

 

「どうしてあなたはそういつも朝起きるのが遅いのよ」

 

 遅番なので昼からの出勤でいいリシュリューの小言の集中砲火を受けながら身支度をすませていく。しかし慌てているためかあれこれと忘れ物をする。そのたびに呼び止められては、

 

「しっかりしなさいよ」

 

 と、リシュリューに柳眉を逆立てて怒られてしまう。

 

「まったく、あなたはそそっかしいんだから」

 

 反論のしようもないので、急いで靴をはき、廊下へ通じるドアを開けようとしたとき、

 

「ほら、また忘れてるわよ」

 

 背中にリシュリューの声が投げかけられる。はて、さすがにもう仕事に必要なものはすべて持ったはずだが……。

 振り返ると顔に彼女が手を伸ばしてきて、ぐい、と引き寄せる。気がつけば彼女の(かんばせ)が息のかかる距離にあった。唇のぬくもりに気づいたのはそのあとだ。

 

 顔を離したリシュリューは微笑みながら言った。

 

「はい、いってらっしゃい」

 

 執務室へ向かいながら、「もしかして自分は、一生リシュリューには敵わないのではないだろうか」という疑念が胸にきざし、振り払うように提督は必死にかぶりを振った。

 

 しかし、足取りは軽かった。


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