愛しのリシュリュー   作:蚕豆かいこ

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J'aimerais avoir un ange.(わたしに天使がいてくれたなら)

 年度末進行のあまりの忙しさに提督とリシュリューは軽く発狂し、土曜の朝っぱらから鎮守府近くの草地にて二人でミッドサマーごっこに耽った。花の冠をかぶって倒れるまで踊っては、顔を突き合わせて意味もなく叫び合ったり、笑い合ったり、泣き合ったりを繰り返した。日が暮れるころには、全身に詰めこまれていた泥濘がすっかり吐き出されて、代わりに爽快感が風のように体を吹き渡っていた。おそらく古の祖先たちも終わりなき重労働から解放される非日常を欲したがために「祭り」を発明したのに違いない。正気にもどった二人は真顔でそう結論をだして、その夜はリシュリューの私室に泊まった。

 

 互いの匂いが混じる寝台で、一糸まとわぬ提督とリシュリューはいつもとりとめのない会話を交わす。「ところで」とか「そういえば」から始まる、たわいもない会話。ベッドのなかの男女にありがちな、生産性のない受け答え。余韻に浸りながらその日あったことを語り合い、聞きあう、紅茶の最後の一滴のようなひととき。

 

 スマートフォンではなくお互いの瞳だけをじっとみつめて、その奥にある宇宙を覗く夜語りの時間に、提督は体がほぐれていくような安らぎをおぼえる。リシュリューの、黄金のまつ毛で縁取られた双眸は、健やかな日の光の下だと澄み切った蒼穹の色をしているが、いまのようなベッドサイドランプだけの薄闇では、日没直後のほんのわずかな隙に世界が青く染まる魔法の時間帯に似た落ち着いた色合いとなる。その瑞々しい瞳の向こうにあるやわらかな光こそ、愛や信頼というのだと、提督に教えたのはリシュリューだ。リシュリューいわく「Richelieuだけを見てくれるamiralにも、おなじ光があるからよ」だそうである。

 

 目にどんな色が浮かんでいるか、自分ではわからないのではないか、きみはわたしの目に宿っているという光を、どうして自分の目にある輝きとおなじものだと言い切れるのかと、提督が愚かにもばか正直に尋ねると、リシュリューはさもおかしそうに笑ったものだ。「Amiralがわたしの目をきれいって思うのと同じよ。そうでしょう?」

 

 これが、リシュリューという女性だった。

 

「ところで」きょう見聞きしたことをとりとめもなく語って聞かせていたリシュリューが、指をからめるようにつないだ提督の手を握りながらいった。「こんど、イタリアたちがオハナミをするっていってたわ」

 

 まだ汗はひいていなかった。滲む汗が、リシュリューの冴えた全身を薄い膜のように覆い、しどけない髪までも湿らせていた。熱と、女のにおいとが寝台に籠っていた。彼女のすべてが愛おしい、と思えた。

 

「へえ?」

「みんなでお料理とお酒を持ち寄るんですって。桜を見ながら。お祭り騒ぎをしたい口実がほしいだけでしょうけど」

「まあ日本人のお花見もだいたいそんなものだよ、なんだかんだ理由つけて、酒が飲みたいだけなんだ」

「ねえ、Mon amiral.(わたしの提督)」リシュリューは提督をしばしば単なるamiralではなくMon amiralと呼ぶ。今のように寝室で二人きりだと、その傾向は顕著になる。「オハナミ、いかないの」

 

 春爛漫である。鎮守府近くの河川敷ではことしも変わらず桜が美しく咲き誇っていると提督も耳にしていた。八重桜なので見応えがあると評判である。

 

「わたしは行かないかな」

「どうして? 日本人は桜が好きなんでしょう?」

「フランス人がみんなエッフェル塔を好きだとは限らないだろう。桜を見ても心躍らない日本人もいる」

「たとえば、あなた?」

「桜よりきみを見ているほうがいい」

 

 提督としては気を利かせたつもりである。桜の鑑賞が性に合わないのも事実であった。

 

 あくる日、休憩室で、

 

「なんでだよ、二人でいってきたらいいじゃんか。キレーだぞー、見頃で」

 

 リシュリューと花見にいったかどうか訊いて、その予定はないと提督が缶コーヒーを放り投げつつ答えると、片手で受け取った長波は老婆心全開で、たいそう不服そうな顔をした。

 

「桜が嫌いなんだ」

 

 提督がめずらしくかたくなに拒絶するので、秘書艦として付き従っていた初月も実験動物の反応を見る研究者のような興味を示した。

 

「どうしてだ? みんなとおいしいものを食べるいい口実になるだろう? なあ長波」

「桜見ながら()る酒は一味違うよな」

「夜桜を堪能しながら露店を食べ歩くのも乙なものだ」

「ポ酒でもモノホンのビールなみに美味くなる。あ、ごめん、ポ酒はやっぱポ酒だわ」

 

 しかし、提督の表情は晴れない。

 

「きみたちは、桜並木が目の前にある家で育った人間の苦労を知らない」

 

 提督が暗い目をする。

 

「桜が咲けば、必ず散る。つまりゴミが積もる。わたしの実家は商店だった。店先だからきれいにしておかなければならない。それなのに、いつまでもいつまでもだらだらと散るから掃除が終わらないんだ。掃いても掃いても翌日にはリセットされる。まるで賽の河原だ。しかも桜が散る時期は、たいてい雨が降る。アスファルトにへばりついた花びらほどタチの悪いものはない。散ったあとは葉桜だ。これも散ればゴミになる。桜を好きな人がいるのは理解できる。だがわたしにとって桜は、仕事を増やすやっかいなオブジェクトでしかない」

 

 あまりに強烈な負の念に、初月も長波もちょっと引いた。

 

「では、花見は?」

 

 初月が訊いた。ゴキブリの脳を局所的に破壊して、どのような行動の変化があるか、つまり破壊箇所がどんな役割を担っていたか実験で確かめて、手探りでゴキブリの脳のマップを作成する昆虫学者と、いまの初月の心境は、おそらく相似であろう。

 

「わたしの家族は花見をついぞしなかった。そもそも野外で食事する趣味が家族のだれにもないようだった。わたしもそうだ。足元は安定しないし、地べたに座って食べると喉の通りが悪いし、いきなり雨になるかもしれないし、虫や花びらが食べ物に入るかもしれない。弁当を用意するくらいなら家で食べるか、どこかお店でちゃんと椅子に座って外食するほうがいいという家だった。というわけで、桜を憎悪することこそあれ、愛でる気にはなれない」

 

「ただの陰キャ一族じゃねえか」

 

 長波に初月も肩をすくめて同意を示した。

 

 そのときである。

 

「そうなの、それじゃあ」

 

 3人は、休憩室に可憐な花びらが光風(ひかりかぜ)に乗って舞い込んでくるのを、たしかに見た。チェリーとフリージアの甘く透明感のある香り立ちが、現実には存在しない花びらの幻覚を見せたのだとわかったとき、出入り口にリシュリューの光輝くような姿があった。

 

 プラチナゴールドに輝く髪を、ていねいに編みこんでサイドアレンジにして左肩へ流し、鎖骨から胸の谷間がわずかに覗く程度に胸元がひらかれた薄い桜色のシルクブラウスと、桃色のアコーディオンプリーツスカートが、生命の芽吹く春の訪れを聖歌のように寿(ことほ)いでいる。足元に合わせたマリンカラーのパンプスが、アクセントとして全体を引き締める。

 

 提督も、初月も長波も、万華鏡を覗いているような圧倒的な絶美に眩しささえ覚え、「ウオッ」と、思わず上体をひねりながら手を翳した。

 

 そんなことにはお構いなく、春の使者と化したリシュリューが提督に高らかと告げる。

 

「このRichelieuといっしょにオハナミにいけるとしたら、桜が好きになるかしら?」

 

 提督は桜が大好きになった。

 

  ◇

 

 さて当日は春霞(はるがすみ)の優しい青空と陽気に恵まれた。鎮守府の面々がめいめい桜を愛でるなか、花見に慣れていない提督はぶっちゃけどう楽しめばいいのかわからず、艦娘たちに酌などして回って、むしろ恐縮されたり呆れられたりした。

 

「提督、そんな気を遣ってくださらなくても」

 

 空きそうになっていた紙コップにワインを注ごうとすると、イタリアが驚いた顔をして言った。提督はボトルを勧めながら、

 

「これを無礼講っていうんだ」

「ブレイコー。聞いたことあります。なんでも、上司が上下関係を気にしなくていいと自分からいっておいて、上司のグラスが空いてるのを放っておくと、あとでねちねち蒸し返されるトラップだとか」

 

 恐ろしい話であった。花見とはそのような心理戦の場であったのかと提督は戦慄した。

 

 と、そのとき、人のかたちをしたアルコールが提督にタコかイカのように絡んできた。

 

「ていとくぅ~、飲んでますか~」

 

 ポーラである。すでに全身がとろけきっている。

 

「こらっ、ポーラ! すみません提督、この子ったらちょっと目を離したら……」

 

 飛んできた姉のザラが引き剝がそうとするが、なかなかどうしてポーラは提督に器用に手足を絡みつかせてくる。服が引っ張られて襟首が絞まる。

 

「うへへへ、ていとくぅ、ポーラはうれしいんですよぉ~?」

「わたしは苦しいよ」

「らってぇ、こういうのあんまりこないじゃないれふかぁ~。ていとくはぁ~、ていとくなんですからぁ~、ちゃんと顔出さないとだ~めで~すよぉ~。うぇっへっへ……」

「くっ、なんて粘り強さ! お酒でリミッターが外れてる! わたしたちじゃ敵わない!」

 

 参戦したイタリアやローマやガリバルディやアブルッツィとともに思いっきり上体を反らせながら妹を引っ張るザラが決断する。「かくなるうえは……ウォースパイトさん!」

 

 呼ばれた英戦艦娘が姿を見せた。

 

「なにか御用?」

「この愚妹に笑いかけてください!」

「手を貸さなくてもいいの?」

「大丈夫です!」

 

 ウォースパイトはいささか困惑しながらも、提督という木に留まるセミと化しているポーラのそばに寄り、腰をかがめて視線を合わせ、サイドの髪を耳の後ろに流してにこりと微笑んでみた。

 

 提督に顔をこすりつけていたポーラが、ふとかたわらのウォースパイトを視界に認める。硬直。弛緩しきっていた酔いどれの笑みが青ざめていき、「あびゃー」と謎の奇声を漏らす。全身の力も緩む。そこを見計らって一気に提督から分離させることに成功した。ザラからイタリア料理を山ほど載せた紙皿をお礼に持たされたウォースパイトは、最後までなにがなんだかわからないという顔だった。

 

 提督もザラに謝罪とともに渡された山盛りボンゴレビアンコの皿を手に、ウォースパイトに苦笑いした。

 

「助かったよ」

「これからAdmiralには、朝昼晩とあの子に抱きつかれてもらおうかしら」

「畑から料理が獲れるならね」

「きっと“食事なんていくらでも出てくるのだ!”って言ってくれるわ」

「なら、きみがボルジアからラ・ヴィラーゴ・ディターリアを救ったのさ。なんせ、ボルジアもチェーザレだから」

 

 ウォースパイトはその横顔に高原の涼風のような笑みをさざめかせた。むかしむかし、イタリアがまだいくつもの都市国家にわかれていたころ、ミラノ公の妾腹の娘として生まれたカテリーナ・スフォルツァはフォルリ領主たる夫を暗殺され、しかも6人の子供たちも人質にとられた。家臣らとともに城塞にたてこもっていたカテリーナに反逆者たちは、降伏しなければおまえの子供らを殺すと脅した。これに対して、カテリーナは城壁にのぼって仁王立ちし、おもむろにスカートをまくりあげ、下着も穿いていない下半身を見せつけて、「それがどうした! 子供など、ここからいくらでも出てくるのだ!」と豪語し、反逆者たちを圧倒したという。この逸話からカテリーナはイタリア第一の女(ラ・ヴィラーゴ・ディターリア)の勇名をヨーロッパ中に轟かせた。

 

 そんなカテリーナも、のちにマキャヴェリの『君主論』のモデルとなる梟雄(きょうゆう)チェーザレ・ボルジアに攻め込まれ、あえなく敗北を喫してしまう。なおイタリアでは単にチェーザレといえばこのボルジアではなく、ジュリオ・チェーザレ、すなわちユリウス・カエサルを指す。第二次世界大戦では、イタリアの戦艦〈ジュリオ・チェーザレ〉は、当時地中海艦隊旗艦だった戦艦〈ウォースパイト〉から21,000メートルの超長距離射撃を食らって後退を余儀なくされている。これは移動目標に対する艦砲射撃ではいまなお最長の命中記録のひとつである。

 

 提督の冗談に気をよくしたのかウォースパイトが、

 

「せっかくですから、Admiral, わたしたちのところにも寄ってくださる?」

 

 と誘った。

 

 ウォースパイトのぶんの皿も引き受けて()いていくと、桜の木の下で、戦艦娘ネルソンや空母艦娘アーク・ロイヤル、軽巡艦娘シェフィールドにパース、駆逐艦ジャーヴィスそしてジェーナスたちが、日本語で歓談しているところだった。素朴な疑問が浮かんだ。

 

「なんで英国出身同士なのに日本語で話してるんだい」

「わたしたちも、日本で再会したおり、最初の集まりで故郷(くに)の言葉で話そうとしたんです。でも……」

 

 ウォースパイトが片頬に手を当てて悩ましそうに曰く……。

 

 慣れ親しんだ母語を全開にしたら、ネルソンは「やはりシェイクスピアの言葉は人類の財産だ」とBBCのキャスターみたいな容認発音。

 アーク・ロイヤルは「()じめて日本語のレクチャーを受けたときは大変(たいふぇん)だった、犬の骨(電話)()とつとるだけでもクリームクラッカー(へとへと)だった」とコックニー訛り。

 シェフィールドは「母語(おご)実家(いっく)のような安心(くん)がある、や()り国語こそふるさと(うるさっ)だな」とヨークシャー訛りで話し、

 ジェーナスは「んちゃ使い慣りたるくとぅばー肩肘張らんなてぃ楽やー」とジョーディー訛りになり、

 パースは「まこちよかけ? 慣れん言葉でんしっただれとったもんでこいでええちょなったらほんのこてあいがてわぁ」とオーストラリア訛りになった。

 

 なおウォースパイトは「おいもいっときぁお国言葉薄めるべど努力したんだども、でもやっぱ受げ継いだ言葉ぁ大事だべな」とブラックカントリー方言だった。

 

「それで、訛りの違いで宗教戦争になりそうだったので、いっそ日本語にしようということに」

「はぁ、いっそ全員外国語のほうが発音の差が気にならないと」

 

 イギリス英語話者の意外な苦労を知った提督であった。なまじ同国だからこそわずかな訛りもかえって気になるのかもしれなかった。

 

 ネルソンたちからは特製ローストビーフをおすそ分けされた。断面が見事なロゼで美しい。

 

「ブリテンにはシェイクスピアより素晴らしいものがある」と提督が礼のあとに続けた。ネルソンが興味を示した。

 

「ほう?」

「この新鮮(fresh)(flesh)さ!」

 

 寒風が吹きすさんだ。花冷えだと思いたかった。

 

「日本人は、ほんとうにLとRの発音の区別がへたくそだな?」

 

 ネルソンが芝居がかった嘲笑をその秀でた鼻にひっかけてみせた。彼女流の助け舟だった。

 

「そりゃそうさ」提督は自信満々に胸を張った。「なんてったってわたしには、舌が1枚しかないんだからな」

 

 それにネルソン含む英国艦娘たちは揃って感心して拍手した。

 

 キリのいいところで提督は元の場所に戻った。初月がリシュリューや長波らと談笑している。

 

「落ち着きのない奴だ。どんと構えていられないのか?」

 

 腰を下ろすと初月がいった。意訳すると「おかえり」である。

 

「おかげでお土産がある。ローストビーフ」

「あら、唯一食べられる英国料理じゃない」

 

 リシュリューがわざと大声を張った。喧騒のなかにあってもネルソンの耳にも届いたようで、

 

「聞こえているぞカエル食い」

「餌でなく食事を出すレストランが英国にあるの?」

「いくらでもあるぞ。ドーバー海峡を越えればな!」

 

 リシュリューはまなじりを下げて笑った。「まったく、ライミーときたら」

 

 ふわりと、花びらに乗って、フローラルブーケのような華やかさのなかに青みのある爽やかな香りが鼻腔を掠める。暖かい日和と、リシュリューの柔らかいブラウスによく調和していた。しかしきょう最初に見たときと香りが違う気がする。

 

「さっきと香水を変えたの?」

 

 提督が訊くとリシュリューはきょとんとした顔で「いいえ?」と答え、それから珊瑚礁の海の瞳に理解の色を浮かべた。

 

「ミドルノートになったからじゃないかしら。さっきのは、トップノート」

「ノート?」

「香水は時間が経つと香りが変わるの。つけたてはトップノート。ちょっと経つとミドルノートになる。だから、香水を買うときは、つけた瞬間のトップの匂いだけじゃなくて、ミドルノートに変化するまで待ってから判断しないと、失敗することがあるのよ」

「女性は大変だな」

「でも変わったのをわかってくれたでしょ。それがうれしいからできるの」

「肝に銘じるよ」

 

 いうと、落ちてくるような桜を背景に、ワインで頬を上気させたリシュリューが目を細めて笑いかけてくる。

 

「でもたしかにいい匂いだなこれ。なに使ってんの?」

 

 長波がくんくんと鼻をひくつかせて興味津々に尋ねた。

 

「もの自体はロクシタンよ」

 

 リシュリューが化粧ポーチからマッチ箱くらいのサイズのケースを取り出した。だがどこにもロクシタンのロゴがない。

 

「こんなんあったっけ?」

「自作の練り香水なの。瓶のままだと邪魔だし液漏れするから」

 

 ケースを開くと、オロナインみたいな白い半練りのクリームが詰められていて、甘い芳香が立ち昇った。

 

「自作ってすげえな」

「簡単よ。薬局で白色ワセリンを買ってきて、こういう手ごろな容器に入れて、香水をワンプッシュして、あとは馴染むまで爪楊枝かなんかで混ぜるだけだから。体温の高い場所に塗るとすっと溶けるわ。耳の裏とかでもいいし」

「へえ~、いいこと聞いた。プシュッてやるより量の調節もしやすそうだしな」

 

 という感じで花見はつつがなく進み、日が沈んできたあたりで提督たちはお開きにした。ほとんどの艦娘たちはそのまま夜桜の監視任務を続行した。提督とリシュリューは二人並んで夜桜を(いと)いながら帰路に就いた。

 

「きょうはどうするの? Richelieuの部屋にくる?」

「うちに来てほしいな。地酒を冷やしてあるんだ」

「いいわね。飲み直しましょう、ふたりで」

 

 提督の部屋に上がるなり、リシュリューはすぐに服を脱いでたちまち下着姿になった。ハンガーに丁寧に服をかける。

 

「高速戦艦ったって気が早すぎる」

「しわになったら困るもの。もしかしたらRichelieuにムラムラっときたamiralに襲われるかもしれないし」

 

 あっけらかんとしたリシュリューに苦笑いしながら、

 

「面白いものをね、見つけたんだ」

 

 未開封の化粧箱から2枚の盃を取り出した。底に枝振りのよい孤木が描かれている。

 

「見ててごらん」

 

 冷やしておいた日本酒を注ぐ。隣で微笑とともに覗き込んでいたリシュリューが、直後、「C’est incroyable (すごいじゃない)!」と驚きのあまり母国語で声を上げた。

 

 冷酒に満たされた瞬間、盃の底の木に、満開の桜が咲き誇ったのだ。鮮やかなる変身だった。寂しげにさえ見えた樹影は、今や、むしろ箱庭のごとく、盃のなかに日本人が桜に寄せる抒情のすべてを体現する、世界でいちばん小さな花見の景勝となっていた。手品か奇跡でも見ているようだった。

 

「冷温に反応して桜が浮き出るんだって。こないだ見つけてね」

「本当にきれいね。オハナミで使えばよかったのに」

 

 提督は自分の盃にも酒を満たして、

 

「この桜を最初に見るのは、きみと二人でって思ったんだ」

 

 リシュリューに軽く掲げ、ぐいと飲み干した。リシュリューも、飴を塗ったような唇に柔らかな笑みを浮かべ、盃を傾けた。

 

 提督は鼻先をくすぐるほのかな香りに気づいた。まるで、夕闇に沈むフランスの畑で妖艶な寡婦が誘惑してくるような、妖しく、それでいて抗いがたい蠱惑的なイメージが脳裏に浮かぶようだった。

 

「なんか……また匂いが変わったような」

「気づいてくれたの? これはね、Richelieuのラストノート」

「きみの?」

「そう。香水のトップとミドルがすっかり飛んで、最後にいちばん揮発しにくい香り成分が残る。この香水ならアンバーとローズウッドね。で、それが本人の汗とか体臭と結びついてできる残り香が、これ」

「きみだけの香りか」

「そう。そして、朝に香水をつけたら、ラストノートに変わるのは夜」

 

 盃をローテーブルに置いたリシュリューが、提督の手と指をからませて、体を密着させる。

 

「だからね」リシュリューが耳元で囁く。「この香りを知っているのは、amiralだけ」

 

 提督は暴れる動悸を抑えて「そりゃ光栄だ」とリシュリューのうなじと黄金の髪に顔をうずめた。リシュリューがくすぐったそうに吐息を漏らした。

 

「きょう、たくさんの女の子とお話ししてたわね」

 

 提督の首に腕を絡ませて、リシュリューがからかう。提督は苦笑する。

 

「それも仕事だからね」

「わ・か・っ・て・る・わ。Richelieu以外の女としゃべるな、なんてばかなことは言いません」

 

 手を引かれてゆっくり立ち上がる。

 

「もしRichelieuが、ほかの男と楽しそうにおしゃべりしてたら?」

「なるほど」

「でしょう。Richelieuの気持ちだって考えて」

 

 まるでキゾンバを踊るようにしっとりと体を揺らすリシュリューは、なかば冗談という調子で毒づいてみせた。提督もリシュリューと額をくっつけて、リズムを合わせて微笑む。

 

「でもいまのわたしなら、妬かずにすむ」

 

 提督にリシュリューが小さく噴き出す。「Richelieuに飽きたの?」

 

「逆だよ」引き締まっていながらも女性の丸みも兼ね備えた腰に手を回す。二人はゆっくりと回転する。「きみに愛されているって自信がある」

 

 ふたりは鼓動を共有するように胸を密着させ、自分たちの緩い痴話喧嘩を音楽がわりにしてダンスする。型もなにもない即興。それだけに、相手の思いと動きを汲み取らなければ、たちまちバランスを崩したり足を踏んでしまう。だがリシュリューと提督は流れるように踊る。

 

「それに」と提督は当たり前のように言った。「わたしの心はリシュリューからの愛でいっぱいだ。ほかの女性が入る余地なんてないよ」

 

 リシュリューは、豊かな乳房が軽く潰れるくらい提督と体を密着させたまま、真珠色の歯を覗かせた。

 

「やっと、ここまで来てくれた」

 

 提督も理解していた。愛に必要なものはなにか。知恵か。駆け引きの巧緻か。ユーモアか。

 きっとそのどれも間違いではないだろう。だがリシュリューとの日々が、いちばん大切なものを教えてくれた。

 

「きみが、その勇気をくれたんだ」

 

 勇気。愛を告げて拒絶されたら、という、まともな感性の持ち主なら持ち合わせていて当たり前の怯懦(きょうだ)を、なお乗り越えて一歩を踏み出す勇気が、提督にはいちばん必要だった。

 

 リシュリューの隣に立つ勇気。それはいかばかりのものか。

 

「そう、勇気ね」リシュリューは楽しそうに提督と踊る。「いい女ほど、ろくでもない男と付き合ってるってことがよくあるけれど?」

 

 わざと話の腰を折ってきた。試されている。

 

「個人的な見解になるが」

「それが聞きたいのよ」

「まともな男は、自分では釣り合わないと思って、最初からあきらめる。身の程知らずというか怖いもの知らずというか、そういう男はかまわずアタックする。結果、いわゆるいい女性っていうのは、言い寄ってくるのが“そういう男”ばかりになる……のではないかな」

「あなたはそうじゃないって言い切れる?」

「リシュリューを信じてるからね。リシュリューは、わたしがわたしを信じていいってことを、辛抱強く教えてくれたんだ」

「そうよ。大変だったんだから」

「痛いほどわかるよ」

 

 ふたりは心底から笑いあった。リズムを刻みながら、互いの鼻梁が触れ合う近さで、互いの吐息を感じながら、幸福を分かち合う。

 

「きちんとお返しをしないとね」

「あら。どんなふうに?」

 

 提督は、間を置いて、

 

「一生かけて、返していきたい」

 

 それにリシュリューが、あは、と少女のように朗らかに笑った。期待以上の答えがきたら、こんなふうに笑う女性だった。

 

「実をいえば、わたしがリシュリューと一緒にいたいだけなんだけどね」

 

 リシュリューは、提督の肩に(おとがい)を乗せた。優しく、力強い抱擁。そのまま溶け合って一体化してしまいたいといわんばかりに、提督をぎゅっと抱きしめ、潤んだ声でささやいた。

 

「知ってるわ」

 

 リシュリューは、いつものように「Mon amiral.(わたしの提督)」と呼ぼうとして、途中であえて言葉を切った。だから彼女の呼びかけはこうなった。

 

「Mon ami.」


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