愛しのリシュリュー   作:蚕豆かいこ

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Tu est jalouse?(あなたはやきもちを焼いてくれますか)

 食堂にて、おひとりさまで食事をとっている提督に、空席をさがしていた長波が相席を頼んで、

「聞いたぞー提督。リシュリューのやつ、フランスに帰るんだって?」

 と片八重歯をこぼした。

「あした出発」

「また喧嘩でもしたのか? はやいとこ謝っといたほうがいいぞ」

「ああ、いや、そうではなくて」提督は笑って長波の勘違いを訂正させる。「対深海棲艦の戦術とか、艦娘の運用法とか、わが国での任務を通して得られたノウハウを持ち帰るためだよ。もともと彼女はそのために日本にきたんだから」

「それって8月じゃなかったか?」

 長波が背にする壁には艦娘が傘を差すポスターが貼られている。毎年梅雨どきになると広報が配布するものだ。海上を20ノット超で航行する艦娘にとって傘は意味がない。また、勤務時間中の降雨は傘ではなく雨合羽で対応しなくてはならない。

 よって、傘を差す制服姿の艦娘とは、広報の宣伝作品という箱庭にしか存在しないクリシェであり、しばしば現場の艦娘たちから「あのポスターみたく傘を差して水上スキーをするにはどうすればいいか考えようぜ」「最初の1秒で深海鶴棲姫の頭になるよな」「ドラッグシュートみたいに適度に穴あけるっきゃねえな」「おまえ傘の存在意義わかってるか?」などと放埒(ほうらつ)な批判の的にされるのであった。

 

 要するにいまはまだ梅雨の時期である。提督は苦笑いする。

「ほら、6月といえば、ソルドの時期だろう?」

 え、と長波の箸が一瞬とまる。「ソルドって、バーゲンの?」

 バーゲンセールの祭典といえばイタリアのサルディが有名だが、フランスにも似たような風習がある。フランスでは「無秩序な安売りは過当競争を招き、国内経済の発展に寄与しない」という理由から、商品の割引が法的に制限されており、それは年に数回だけ規制緩和される。

 1月と6月の年2回開かれるsoldes(ソルド)はそのバーゲンのうち最大規模のもので、衣類も靴も雑貨も、家具も食器も電気製品も、とにかくありとあらゆるものが値下げを許され、半額とか70%引きとかのお値打ち価格で買うことができるという、一種のお祭りである。有名ブランドのブティックも例外ではない。地元フランス人のみならず世界中から買い物客がソルドの時期をねらって殺到する。ただしルイ・ヴィトンだけはソルドには参加しないようだ。

「どのみち近いうちに一時帰国することにはなっていたから、ソルドと重なるように彼女が本国と調整したんだとか」

「どっちがついでだよ」

「終わったらまたこちらへ戻るそうだ」

「でも帰るまでけっこうかかるだろ?」

「1ヶ月。もしかしたらそれ以上かもしれない」

 以前なら日仏間は飛行機で半日の旅だったが、深海棲艦の跳梁跋扈する現状では大陸横断の旅程の少なくない部分を鉄道に頼るほかない。

「さびしいだろ?」

 長波が混ぜっかえす。

 提督は茶を飲んで、

「男のわたしには、里帰りとはいえ、地球を半周してまでバーゲンに行く気が知れない」

「それ、本人には言うなよ。それこそ喧嘩になるからな」

 長波も熱い茶をすすった。

 

  ◇

 

「言っておくけど、今回は仕事の都合で、仕方なく、やむを得ず、選択の余地なく、否応なく、しょうがなく帰国するのよ。けっしてsoldesのためだけじゃないんだから」

 ベッドの上で、ヅィメリーのレースキャミソール1枚だけのリシュリューが、提督と向かい合って腰をおろす。伸ばされたリシュリューの象牙のような腕が、提督の首にゆるく絡まる。

「わかってるよ」

「海の季節までには帰ってくるから。水着選びに付き合ってね」

「きみたちは海が職場だろう。プライベートで仕事を連想させるものをみたらうんざりしないか? 理系は試験管やフラスコやリービッヒ冷却器が不意に目に入ると、動悸がはげしくなり、意味もなく涙があふれ、喉の奥から熱いものがこみあげ、なにものかに許しを請いはじめるというが」

「あなたと行く海は、違うのよ」

 くちびるが触れあう距離でささやきあう。削いだように高いリシュリューの鼻が触れて、くすぐったい。上へ反った金のまつげが雪白のほほに影を落としている。水気を湛えて輝く瞳は、アトランティスの沈んだ海中から見上げる空の色だった。

 艶やかな髪の香気。それにくわえて、薄衣を内側から押し上げる双房のぴったり閉じた狭間や、毛穴すらみえない腋からたちのぼる、濃厚なミルクバターのような体臭が、提督を心地よい酩酊にさそう。

「浮気しちゃだめよ」

「しないよ。でも、そうだな」提督は何気なく口にした。「今度、現代美術館で川端康成と東山魁夷のコレクション展があったっけ、きみがいないなら、それはそれで美術館めぐりに集中できるかも」

「それは絶対だめ」

 なんで、と言おうとした提督の口内に、リシュリューの甘い味がひろがる。ゼリーのような弾力の口唇が、癒合をせがむかのように吸い付く。入ってきた熱い軟体は、提督の舌に、執拗に抱擁と摩擦を繰り返す。

 リシュリューの美貌には、普段にない懇願と、かすかな怯えの色。

「お願い、amiral(提督)も舌を出して。Richelieu(リシュリュー)だけがしたいのかって、不安になっちゃう」

 桜の花びらのような爪が乗った指先が、提督の下唇に触れる。抗うこともできず、提督はリシュリューの指を迎え入れる。熱。舌を撫でられる感触に鳥肌が立つ。自然と舌が前へ出る。

 美姫(びき)のようだったリシュリューの顔が、初恋の叶った少女になったかと思うと、彼女は外気に晒される舌にむしゃぶりつく。出されたままの舌を吸いながら、頭を前後させる。漏れる吐息。つぎに顔の角度をかたむけ、より深く結合させて、提督の舌を上下のくちびるで挟んで固定し、そのままやわらかい体温のなかで舐めまわす。

 容易に消せない火を灯された提督は、観念して、しだいにリシュリューに後ろへ倒される。おおいかぶさるリシュリューから、それ自体が発光しているかのような金髪が長く垂れる。口元のほくろが妖しい笑みをかたどる。

 リシュリューは、本当は浮気だけですむならかまわないと思っていた。いっときの遊びだけで、本気にさえならなければ、かまわない。

 提督が自分以外のなにかに夢中になって、それで満足してしまうかもしれない、それがリシュリューには怖かった。提督にしなだれかかる。

「でも、あした早いんじゃ……」

「これからひと月も無補給なんだもの。あなたでいっぱいに満たして、空っぽにならないように」

「それ、着たままするのか?」

 無抵抗な態勢のまま提督が尋ねた。黒いキャミソールは、眩しいほどのリシュリューの肌をさらに引き立てる。

「これ? 高かったのよ」

「ならなおさら」

「だからね」リシュリューは提督に乗ったまま裾をめくる。視線を釘付けにする重力場のような、魅惑の三角形。「汚さないように、ちゃんと出してね」

 

  ◇

 

 駆逐艦初月が諸用で執務室の提督を訪ねる。

「けっこう延びてるみたいだな。さびしいんじゃないか?」

 用事がすんだあと、防空駆逐艦は長波とおなじことを言った。リシュリューが発って2ヶ月近くになる。

「鉄道がストでたびたび止まるらしくてね。まあしょうがないさ」

「帰ってきたらまた時間とられるだろ、趣味とかはいまのうちにやっておいたほうがいいんじゃないか」

「それはそうなんだが、いざとりかかると、いまごろリシュリューはどうしてるかなとか考えてしまって、なにも手につかなくてね」

 提督は「失礼」と断って、湯を注いでおいたカップ麺の蓋をめくる。「ああ、この安っぽい味がたまらない」

「あいつがいないとおまえはいつもそんなものばかりだな」

 初月が苦言を呈すると、

「リシュリューのいるときが豪華すぎるんだよ。連れてかれる店がうまいところばかりだからつい食べすぎてしまう。どうやってリサーチしてるんだか」

「そのわりには体型はあまり変わってないようだけど」

「ああ、それは」カップ麺を食べ終えた提督はあっけらかんと答える。「激しい運動でカロリーを消費させられるから、収支が釣り合ってるんだよ」

「ノロケも過ぎるとセクハラだな」

 

 そういうわけで、リシュリューが日本に戻れることになったのは8月中旬だった。大陸からは船で日本海を渡る。

「行きとおなじで舞鶴だろう? 迎えに行こうか」

「お願いできるかしら」

「ヒトヒトマルゴー着の便だったな。じゃあその時間に」

「港はだめ」

 電話口で提督は虚をつかれる。いったいなにがだめなのか。まったく見当がつかない。固唾を呑んで受話器に集中する。

「まず美容院に行ってちゃんと髪をきれいにしてからじゃないと会えないから、お昼過ぎくらいにして」

 リシュリューは、あいかわらず、リシュリューであった。

 

 半休をとって舞鶴の市街に足をのばす。待ち合わせ場所に日傘を差したリシュリューが現れると、彼女の周囲だけが華やかに輝く。リシュリューの第一声は――日本人たる提督にはいささか理解に苦しむことに――これだった。

「Richelieuがいないあいだ、やきもち焼いてくれた?」

 開口一番がそれか、と提督は戸惑う。

 フランス語における“Tu est jalouse?”は、直訳すると「あなたはやきもちを焼いてくれますか」だが、その含意は、英語にすれば“Do you love me?”となる。やきもちのない愛などこの世に存在しないというフランスの恋愛観がうかがえる。

「仕事だったんだろう?」

 あえてつれない返事をした。素直に答えるわけにはいかない。

Albert Mehrabian(アルバート・メラビアン)の提唱した、“7%-38%-55% rule”って知ってる?」日傘の影のなかでリシュリューが勝者のように嫣然(えんぜん)としてほほえむのである。「日本語ふうにいうなら、目は口ほどにものを言い、とか、顔に書いてるとかいうのだけれど」

 提督は駅への帰路につく。リシュリューも並ぶ。

「往路もあちこちで足止めされて、franceに着いたころにはsoldesが大方終わってしまってて、ろくなものが買えなかったわ。まったく」

「やはりソルドが目当てだったのでは……」

「違うわよ、なんのためにRichelieuがわざわざ夏にamiralといられるように折衝したか……」

 と、そのとき、リシュリューが双眸をこれでもかと見開き、口を手でおおう。

「忘れてた! 水着の時期に出遅れたわ!」

「あ、うん、いいよ、買いに行こう。約束だからね……」

 提督は青息吐息である。

 

 百貨店の水着売り場でいくつか見繕ったリシュリューが試着室に入る。いまや女性服売り場もすっかり慣れてしまった提督はその前で待つ。批評をせがまれるからだ。このとき、AとBの両方をみせられて「どっちが似合う?」と訊かれて、Aと答えてはいけないことを、提督は経験則から知っている。「じゃあ、BはRichelieuには似合わないってことなのね!」ということになる。逆でもおなじだ。もはや誘導尋問である。

 というかフランス人は誘導尋問が好きなうらみがある。『ダ・ヴィンチ・コード』の原作で、ラングドン教授が深夜のパリで不本意な観光旅行をすることになったさい、ルーヴル美術館の玄関にI・M・ベイが設計したというガラスのピラミッドを示した現地の警察官に「どう思います?」と質問されて、「素敵ですねとお世辞を言えば悪趣味なアメリカ人とバカにしてくるし、下品だと答えればフランスを侮辱したことになる意地悪な問いだ」と考えたりしていたが、これはおおよそフランス人の傾向として間違っていなかった。そのとおりだった。

 だから、買い物で「どっちが似合う?」と訊かれても、命惜しくばどちらも選んではならない。ラングドンが「ミッテラン大統領は大胆な人物でしたね」と、ルーヴルのピラミッド建設に賛成した第21代フランス大統領を引き合いにだしてお茶を濁したように、

「そうだなあ、きみはどっちが好き?」

 と質問で返したり、

「きみが持ってるほかの水着は明るい色が多いから、たまにはそういうアースカラーもいいかもしれないね」

 というふうに、きみのことをちゃんと見ているよアピールで切り抜けねばならない。

 しかし、と待っている提督には苛立ちが募る。ふた月ぶりだというのに、しかもフランスで山ほど服を買ったろうに、帰ってきてまずすることが、水着のショッピングとは! リシュリューはわたしと会えることなど少しも楽しみにしてくれていなかったのかな、リシュリューはいつもこうだ、服のことばかり、なにもちっとも変わっていない……。

「Amiral, ちょっといいかしら」

 そら、おいでなすった。水着姿をみせて、どう、と訊いてくるぞ。

「なんだ……」

 思わずふきげんに振り返った提督の後頭部にリシュリューの手が回される。

 周囲からの視線をさえぎる試着室に首だけ引き寄せられた提督が、その姿勢のまま硬直する。

 売り場の喧騒と音楽は途切れずつづく。

「会いたかったわ、amiral.」

 提督から顔を離したリシュリューが、器用に片目をつぶって、またカーテンの向こうに消える。

 提督は閉じられた試着室の前で、ぬくもりを移されたくちびるに手を当て、悶えたいのをこらえる。

 やはり、リシュリューはちっとも変わっていない。

 いつものように、美しく、そして、たまらなく可愛い。

 

  ◇

 

 碧海を望む白い砂浜で、提督とリシュリューはふたりきりだった。

「帰国を早めたのは、soldesもあったんだけれど、amiralと海に来たかったからなの」

 ラグナムーンの上下で異なるパターンのボーダーバンドゥビキニ姿で、リシュリューが浜辺に踊る。揺れる乳房はそのたびにこぼれそうになり、熟れた腰回りから続く、むっちりとした肉づきの太ももが、真夏の太陽と生の充足を謳歌する。

「わたしと?」

「そう、あなたと」

 振り向いたリシュリューが、また水平線へ向き直る。無辺際の水天。さざ波の鼓動。

「海って広いわよね」

「そりゃ、まあ」

「こんな広いものを守るのって、けっこう大変なのよ」

 長い脚が海へ入る。波がリシュリューの格好良く締まる足首を洗う。

「男は遠くにある大きな目標を叶えたがるけれど、少なくともRichelieuは、せいぜい自分の半径3mètres(メートル)以内しか興味がないの」

 吸い込まれそうな青空に、一片の雲がただよう。それらを背景に佇むリシュリューは一幅の絵画のようだった。

「もちろん祖国のことは愛しているわ。でもね、顔も知らないだれかのために命を捨てられるかどうか、そうなったとき、Richelieuには自信がない」

 リシュリューが海へと足を進める。一歩ごとに深く沈んでいく。

「だから、Richelieuには個人的な理由が必要なのよ。戦うにたる理由が」

 膝の下まで海水に浸かったリシュリューが、ふたたび振り返る。凪のように穏やかな表情だった。絵画などではない、血肉と体温をもつ女だと思い出させる。

「Amiralと思い出をつくれば、きっと、またこうしてふたりで遊ぶために海に来たくなる。そのためになら、Richelieuはなにがあっても戦えると思うの」

「責任重大だ」

「そうよ」リシュリューがしなやかな手をのばしてくる。長い指。「Richelieuのために、思い出をつくって。あなたとまた来たいって強く願えるほどの、素敵な思い出を。Richelieuがまた帰ってこられるように」

 提督も海へ入る。彼女の手を取る。

 この手は、もう放さない。


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