リシュリューを初めて目にしたときのことである。こんな美しい女性がこの世にいるのかと提督はわが目を疑った。まるで彼女がいる場所のみが舞台照明で照らしだされているかのようだった。淡く輝く黄金の巻き髪がかもしだす熟れた情趣、優美な線で描かれた輪郭に、秀でた眉と氷河の瞳、冴え冴えと通った鼻梁、光を宿すほど艶やかな唇が、完璧な配置で収まり、それら生まれもった光り輝く美貌そのものが、贅のかぎりを尽くした豪華絢爛な装いのようでさえあった。加えて、左の目尻と口許に天の配剤のごとく置かれたほくろが、なんともいえず蠱惑的である。フランス海軍の軍服に押し込められた、伸びやかで豊満な肢体は、彼女の端正な顔立ちを一層引き立てて、その整った
「お逢いできて嬉しいです、amiral. 戦艦Richelieu, まいります」
もとより飛び抜けて優れた容姿であるうえに、優雅な笑みを浮かべると、もはや輝くように美しい。提督の顔をみつめるそのセレストブルーの瞳は、冬の晴れた静寂な空のように澄みきっていて、気高さと、おなじくらい高い知性からくる深みがある。彼女の周りに満開の花をつけた
美しさも過ぎると威圧感となる。提督はすっかり恐縮してしまい、海外特別派遣任務で祖国フランスからはるばる日本に赴任したリシュリューの挨拶に、いわば日本の
提督の心落ち着かない日々がはじまった。あるとき、執務机を挟み、リシュリューにサーモン海域について海図をつかって説明していて、うまく聞き取れなかった彼女が「わからない。敵輸送船団がよく使用する航路はどのあたりですって?」と、回り込んで提督のそばに寄った。提督の左肩にリシュリューの右肩が触れた。海図に視線をそそいだままのリシュリューはみじんも気にせず集中している。その横顔など、彫りの深いくっきりとした目鼻立ちをしていて、長いまつ毛が揃って上へ反っている円弧までよく認められ、煌めきのなかに叙情的な趣もあり、したたるように美しい。
提督は右に体をずらして距離を空けながら、なに食わぬ顔で説明を再開した。
視界の端でリシュリューがこちらを睨んだのがわかった。リシュリューがまた自らを寄せてきた。
提督は過去の統計から導き出された敵輸送本隊の予想航路を巧みに解説しつつ、また右へずれた。リシュリューが詰めた。そのやりとりがしばらく続いた。
「ちょっと! どうして逃げるのよ」
執務机を半周したあたりで、リシュリューが声を荒げた。
「いや……」
提督の目は泳いだ。提督からすれば、リシュリューはさながら後光が射しているようで、影を踏むのもためらう存在に思えた。生きる世界が違うという畏敬のような念が禁じ得ず、近寄りがたいものがあったのである。
理解できないのはリシュリューのほうである。理由なく避けられて喜ぶ女はいない。リシュリューは、もしかして自分の体臭がきつかったりするのだろうかと本気で頭を悩ませた。後日、思いきってコマンダン・テストにこっそり質した。
「ねえ、Commandant teste, Richelieuって、臭う?」
「え? Richelieuってワキガでしたっけ?」
「違うわよ!」
「知ってます。いつもとてもいい匂いがしますよ。気にしないで」
しかし、おなじフランス同士では参考にならないかもしれない。当時すでに親交を結んでいた長波にも確認した。
「ねえナガナミ。耳を貸してくれない?」
「ちゃんと返せよ」
「日本の艦娘のあなたからみて、Richelieuって、臭う?」
「え? リシュリューってワキガだったっけ?」
「違うわよ!」
「知ってる。臭えって思ったことはないよ。いつも小洒落た香水のいい匂いがしててさ、こないだ暁がどこのブランド使ってんのかめっちゃ気にしてたぜ。訊かれたら教えてやってくれ。うそだと思うならハグしてやるよ、ほら、来な」
「Amiralに避けられてるような気がするのよ。嫌われるようなこと、してしまったのかしら」
「そりゃただ単に照れてんだよ」
「テレテン……? どういう意味?」
まだ日本語に熟達しているというほどでもない当時のリシュリューにはいまひとつ伝わらなかった。小首を傾げて、はらりと流れた前髪が高い鼻にひっかかる。
「ああ、ええと、ようするにだな」腕を組んで言い回しを考えていた長波が、異邦人にも明快に理解できる答えをみつけて、とびきりの笑顔を閃かせる。「おまえにホレちまったんだろ」
リシュリューはまばたきした。
「それなら
「そこがヘタレのヘタレたる所以なんだよ」
◇
たまの休日には近傍の美術館めぐりを欠かさない提督が、最近は仕事以外では外出もせずに
「なにを観ても気が晴れないんだ。集中できないというか。じっと立ってみつめていると立ちくらみしそうになる」
昼食どきに尋ねてみると、オフィス用のミニキッチンで鍋を火にかけながら提督はため息混じりに答えた。
初月は顔をのぞきこんだ。
「なんだか痩せたような気もするな」
「仕事はできているからその点は問題ないが、それでもう気力の限界だ。好きだったアートもいまはまったく心に響かない。今度ミュシャ展があるのにそれも楽しめなかったらと思うと、恐怖ですらある」
リシュリューを前にしたときだけ、提督がC-3POのでき損ないのようにぎくしゃくすることを知らない初月ではない。
「そんなに気になるならいま付き合ってる男がいるかどうか、訊いてみればいいじゃないか。大人だろ?」
提督は鍋で煮た即席ラーメンをすすって、思わず苦笑いする。
「どう考えてもセクハラだぞ、それは。女性にいちばん嫌われる質問では?」
「フリーかどうかわからないんじゃどうしようもないだろう。あれも大人なんだからその程度は水に流してくれるさ」
「
「轟沈してこい」
そういうわけで、ある夜、bar早霜でリシュリューがひとりグラスを傾けているという偵察結果を初月の情報網が捕捉、この付き合いの長い秘書艦にけしかけられた提督は、なけなしの勇気を奮って乗り込んだのである。
「隣、いいかな」
「どうぞ」
リシュリューが夜の港を望むカウンターで泡立つミモザを味わう、その姿だけでも、どこか浮世離れしていて、銀幕のひとこまを鑑賞しているような錯覚がし、そこへ自分が踏み込んで神聖な光景を破壊してしまうのがいかにも不粋に思え、いささかのためらいを覚えずにはいられない。
バーテンダーの早霜にカミカゼを頼み、酒の力を借りて、
「日本にはもう慣れた?」
「暑くてたまらないわ」
「やっぱりフランスより暑い?」
「
「ことしは猛暑だからね。しかし、エジプトか! 世界中を回ってるんだね」
そんなふうに二言、三言交わした。どうやらリシュリューはいま話しかけられること自体には拒絶をしていないようだと了解してから、いよいよ、
「そんなに転任ばかりだと、フランスに置いてきたボーイフレンドとかは寂しがるのでは?」
と提督は切り出した。
もっとほかにましな訊きかたがないものか、提督はわれながらおのれの経験不足を後悔した。しかしリシュリューは別段気にしたふうもなく、艶やかな所作で頬杖をついて、涼やかな笑みを漂わせた。
「いま付き合ってる人がいるか探りを入れるってことは、ようするにRichelieuを口説くつもりなのよね?」
「え、まあ、はい、身も蓋もなく言えば、そうなるんですかね」
「仮にRichelieuに交際している相手がいたとしたら、amiralはRichelieuのことをあきらめられるの? 奪ってまで欲しいほどではないということ? amiralにとって、Richelieuの魅力はその程度のものなの?」
提督はたじたじである。
「きみは自信家なんだな」
「だって、Richelieuは自分が美人だって知ってるもの。100のものを80とか120とは言わないわ。Richelieuはただ100を100と言ってるだけ。自分を不細工だなんてわざわざ卑下する女っていうのは、十中八九、そんなことないよと慰めてもらいたいだけなのよ。そんな女、うっとうしいでしょう?」
「うーん……うーん……」
「古今東西、恋は争うものと相場が決まっているわ。Franceのとある地方では、男女が結婚するにあたって、掲示板にその旨を通告して1週間、異議申し立てがなければ、はじめてふたりは結ばれるという風習があるの。逆に言えば、恋敵による不服を受け付けて、それに勝利しなければ婚姻できないのよ。あなたが本当にRichelieuに恋をしたというのなら、どのくらい本気なのか、略奪するくらいRichelieuが欲しいのかどうか、答えて」
「わたしは
リシュリューは意外にも心の底から楽しそうに笑った。そういう笑みを浮かべるとき、臈たけた美女のリシュシューが無垢な少女のようになることを、提督はこのときはじめて発見した。
「言うじゃない。しつこい人はキライだけど、あんまりあっさり
退路を絶たれたことに提督はようやく気づいた。あえて選択肢を与えることで誘導する。その術中に提督はまんまと
リシュリューは真珠色の歯を覗かせた楽しげな笑顔で、じっと待ち続けている。
しかし、真正面から女を口説いたことのない提督からすれば、いまの状況は戦艦に竹槍で立ち向かうような絶望的な戦いにほかならなかった。勝てるか? できない相談だ。だが乾坤一擲、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある。
「ジュ、ジュテ~ム?」
一部始終をみていた早霜によれば、そのときの提督の惨敗っぷりは、先の大戦時の大本営さえ黙って首を横に振るレベルであったという。
◇
……
仕事は仕事である。業務に集中することは、恋愛という戦場においてあえなく
ときにはうわさを聞きつけた長波あたりが、提督をみかけるや、バレエのプリマのようにつま先立ちで回転しながら接近し、眼前でひざまずいて、
「ジュテ~ム?」
とからかった。それもまた、茶化すことで提督の傷心を癒す目的であった。提督もわかっていたので「勘弁してくれ」と、かたちだけうんざりしてみせては、一緒になって爆笑した。
そんなある日、超人的に勤勉な作戦課のあげてきた何十という草案から決裁すべき作戦を選ぶ作業の合間、一息いれながら、
「で、つぎはいつ仕掛けるんだ?」
茶をすすった初月が藪から棒に口を出した。
「つぎ?」
「リシュリューだ」
「ええ? もう駄目だろう」
「おまえの口説きかたが悪かったからだろ? なら、そこを改善すれば今度はうまくいく理屈だ」
「そういうものか?」
「おまえ自身が嫌われているんじゃなければまだ芽はある」
提督は腕を組んでうなった。実際、リシュリューは提督の下手くそなアプローチに雪色の喉をのけぞらせて笑いながら「不合格」と両腕を交差させてバツ印をつくったにすぎなかった。「出直してきなさい」とも。
初月はため息をついた。
「おまえはどうしたいんだ。状況終了、用具収めか?」
「本音を言えば未練たらたらだ」
「認めることができただけでも一歩前進だな。おめでとう。僕は優しいから教えてやるが今のは嫌味だ。とにかく方針は決まった。あとは戦術を詰めるだけだ」
「しかし……うまくいくかどうか」
「迷っているうちにほかの男に取られても知らないぞ」
「向こうがこちらをどう思っているかわからないから、いまひとつ自信が持てないんだ。いっそリシュリューのほうからアプローチしてくれるという都合のいい展開はないものか……」
提督は捨て鉢に嘆いた。
「振り向いてほしいくせに、自分に勇気がないからって相手から声をかけてもらうのをただ待つのか? それは草食系とかじゃなくて、ただのヘタレだぞ」
初月の声には弾劾の響きがあった。
「リシュリューがおまえに好意をいだいてないなら、好意を育ててやればいい。おまえが欲しいものは、セブンイレブンやアマゾンで買えるものじゃないんだ。世界中さがしてもどこにもない。だからおまえがつくるしかない。いいか、知らないかもしれないがリシュリューは超能力者じゃあないんだ。なにも言わずに気持ちが伝わると思ってたら大間違いだぞ。こちらに興味をもってない相手に、能動的に自分がどんな人間か知ってもらって、時間をかけて信頼を勝ちとり、そばにいたいと許可を得る、その過程にこそ、価値があるとは思わないか?」
「いかにも」提督は思い直した。「いかにもそのとおりだ。わたしが悪かった。いまのは忘れてくれ」
とはいえ、気の利いた口説き文句などそうそう思いつくものではない。
「そんな魔法の言葉があれば人類から悩みごとがひとつ消える。どう口説かれたいか、女性として率直な意見を聞かせてくれないか」
「僕なら“こんどふたりで映画でもどう?”でじゅうぶんだけど」
「パンチが足りないな」
「砲撃を食らいたいのか?」
と初月は微苦笑をみせたのち、咳払いした。
「とはいっても、リシュリューはおそらく、完成された男しか認めないってわけじゃない。未熟でも向上心さえあれば尻を叩きながら成長させてくれるタイプとみた。おまえにチャンスがないわけじゃない」
「援護射撃を背中に食らった気分だが、ありがとう」
かんじんの愛の言葉は、日本語がよいかフランス語がよいか、提督と初月は忌憚のない意見を交わした。初月はフランス語がよいと勧めた。
「残念ながらわたしはフランス語はさっぱりでね……」
「第2外国語はなにを?」
「ドイツ語だ」
「理由を訊いても?」
「その当時ドイツ人になってたんだよ。数を数えるときは意味もなくアイン、ツヴァイ、ドライといってた。男にはそういう時期があるんだ」
初月にはさっぱりである。
「付け焼き刃のふざけた発音でいくと、バカにしてると思われるかもしれない。やはり自分の母国語のほうが反感は少ないと思うが」
ジュテ~ムで失敗した苦い記憶から日本語を推す提督に、初月はなにかを思いついたように人差し指を立てて、
「仮に、仮にだが、あくまで仮定の話だが、おまえを好きだという外国人の女の子がいたとしよう」
「そんな反吐が出そうみたいな顔で言わなくても」
「そういう女の子がだな、おまえに愛を伝えるためにいっしょうけんめい日本語を勉強して、たどたどしい言葉遣いで“好きです、付き合ってください”って言ってきたら、どう思う?」
「よし、フランス語にしよう」
しかし提督も初月もフランス語に明るくないので、特別顧問を招聘することにした。フランスの水上機母艦娘コマンダン・テストである。
「私用で呼び出して申し訳ない。単刀直入に言うがリシュリューを口説きたい。だがわたしはフランスの習慣や文化に疎い。有識者として知恵を授けてはいただけまいか」
提督はコマンダン・テストに相談をもちかける対価として間宮でお茶を奢った。
金色のやわらかい髪にトリコロールのメッシュを入れているこの水上機母艦娘は、チーズパイに舌鼓を打って、フォークを置き、南仏を燦々と照らす健やかな太陽のような笑顔を浮かべ、言った。
「
提督は先行きに一抹の不安をいだかずにはいられなかった。
「国が違っても、基本は変わらないと思います。むずかしいことではありません。相手のどこが好きになったのか素直に伝えれば、それでいいと思います」
コマンダン・テストは片言ながらも答えた。
「言い方しだいでは見てくれで惚れたと思われかねない。注意しなければ」
じつのところはそのとおりである提督は恥じる思いで自戒した。
「いいのではないですか? 出会ったばかりでは内面まではわからないでしょう。外見やしぐさできみに興味をもった、もっときみのことが知りたい。お付き合いはそうしてはじまるものでしょう」
リシュリューのどこを褒めるか、それは当然のことながら提督に一任することとして、フランスではどの程度まで歯の浮くような台詞が許されるのか、コマンダン・テストが例文を出した。
「“きみと出会ってから毎日が花で彩られているように楽しいんだ”、これでどうでしょう?」
「さすがは自由と平等と博愛、そして愛を語る言語だ。それのフランス語をお教え願いたい」
「
「外交でもそうだが、相手の母語で意思を伝えることは誠意の表明として効果的だ」
「
わかりました、とフランス語訳を口にしようとしたところで、コマンダン・テストにある計略が浮かんだ。この陽だまりのような水上機母艦娘が紡いだ言葉は、こうだった。
「“La lune est belle, n'est-ce pas?”」
提督はまったく疑わずに発音を見よう見まねで繰り返した。フランス語とドイツ語はともに印欧語族ではあるものの、たとえばフランス語は母音の連続を避けるためのリエゾンという偏執的な仕組みがあるがドイツ語にはなく、フランス語特有のあえぎ声のような鼻母音がドイツ語にはあるはずもなく、ドイツ語の名詞の格は4格に対しフランス語のそれは格変化なし、というふうに、両者は似ているようでまったく異なる体系の言語であり、あまり流用がきかず、習得はほとんどゼロからのスタートを強いられたので、たった1文を覚えるだけでもそれなりの根気を必要とした。
コマンダン・テストも提督のみっともない発音に嫌な顔ひとつせず、イントネーションに至るまで的確に修正させた。その努力が実を結び、及第点が得られる程度には、違和感のない発音ができるようになった。
その調子で1日練習すれば大丈夫だろうとコマンダン・テストにおだてられた提督は、礼を述べて伝票を手に席を立った。
「で、ほんとはどういう意味なんだ」
残った初月はチーズパイをほおばるコマンダン・テストに訊ねた。
「なにがですか?」
「提督に教えたフランス語だ。フランス映画で覚えた程度の僕のちっぽけな知識を参照すると、la luneは月を指すはずなんだが」
世界最古のSF映画といわれるフランスの『月世界旅行』の原題は“Le Voyage dans la Lune”である。
コマンダン・テストは、揃えた指先で口許を隠して上品に笑った。
「日本語には、とても素敵な口説き文句があると聞きました」
初月は嫌な予感がした。月。まさか。
「月がきれいですね、を直訳するとこうなります」
コマンダン・テストはいけしゃあしゃあと告げた。初月から力が一気に抜ける。
「おまえを悪く言うつもりはないが、正直、かなり手垢のついたフレーズだ。使われすぎてもはや思考停止の定型句と化した感さえある」
「古いから価値がないとはかぎりません。中途半端ならただの中古ですが、古さも度を越せば
「月がきれいなことがか?」
「この言葉には、一緒に月を見ようよ、という誘いが隠されています」コマンダン・テストはそこで紅茶を飲んだ。カップを受け皿に置く。「愛しあうとは、お互いを見つめあうことではありません。ふたりでおなじ方向を向くことです。自分がきれいだと思うものを一緒に見てくれないか。これを愛の言葉と言わずして、なんと言うのでしょう」
チーズパイを完食したコマンダン・テストは両の肘をテーブルに立て、冴えた顎を両掌に乗せた。
「ずいぶん楽しそうだ」
初月が呆れると、
「楽しいです。とても
「
自身もコーヒーを飲み干しながら水上機母艦娘を眺めていて、初月は重大な懸念が存在することに気づく。
「フランスの男は世界でもっともでかいと聞く。提督はリシュリューを満足させられるだろうか?」
「
舟とは女性器の隠喩である。舟を上から見たかたちが似ていることに由来する。
「初月こそ、ずいぶん提督の世話を焼きますね」
「男ってのは、となりを一緒に歩いてくれる女がいないと成長しないんだよ。これであいつも、仕事ができるだけのただのヘタレから、少しはまともな男になるだろう」
初月はコーヒーカップを手にしたまま愚痴をこぼした。
「まるで保護者ですね。ああ、そういうところで初月とRichelieuは似ているのかも知れませんね」
「僕と?」
「日本語でいうなら、そうですね……」
コマンダン・テストが眉間に可愛らしいしわを刻んで悩み、ついに適切な言葉を発見して顔を輝かせる。
「オカンです、オカン!」
おっとりとした金髪碧眼の美人には似合わない意外な単語に、初月はおかしさのあまり反論する気も失せて、ただ口許を皮肉げに綻ばせるだけだった。
「でもまあ、たしかに、臍から下の付き合いは僕たちが手助けすることではないな、それは、オカンの役割じゃない」
初月にコマンダン・テストはめずらしく声をあげて笑った。
◇
翌日の昼、コマンダン・テストはリシュリューをランチに誘った。自分のほうが早く日本に着任したので地理案内もかねて、と申し出ると、リシュリューは快諾した。祖国の言葉だけで話せることも手伝ったのかもしれない。連れられた店はフレンチで、雰囲気もよく、接客も行き届き、味も申し分なかった。雑然とした日本の街並みにも、探せば優良なレストランがいくらでもあるのだとコマンダン・テストは語った。
「鎮守府の近くにもこんないいお店があるなんてね」
「近くでお魚が揚がるからでしょう。鎮守府近辺はかえって安全ですし」
「Richelieuに気があるとか言ってきた割には、amiralったらこういうお店とかに全然誘ってくれないんだもの、わけわかんないわ」
それにコマンダン・テストは微笑した。
「最近のRichelieuは提督のことばかりですね」
「ええ、おもしろいもの。最近はなにを食べても、なにを飲んでも、amiralと一緒だったらもっとおいしかったりするのかしら、と考えてしまうわ」
「あら、いまもですか?」
「悪く思わないでね」
澄まし顔でメインの白身魚のポワレを口に運ぶリシュリューに、コマンダン・テストはおどけた表情をしてみせた。
「ではRichelieuのほうからデートにでも誘ってみては?」
「それもいいんだけど、amiralがなにか企んでいそうなの。顔を潰さないためにもこちらからは誘わないわ」
めんどくさいふたりだな、とコマンダン・テストは内心で思った。ただしそれは、手のかかることが一目でわかるパズルを前にしたときのような、好意的な面倒臭さだった。
「Japonの言葉は愛情表現にいささか乏しいのですが、とても含蓄に富んだ伝統的な言い回しがあることをご存じですか?」
食後のコーヒーが運ばれてきたあたりで、コマンダン・テストが思い出したように口にした。
「興味深いわ」
「それはですね……」
コマンダン・テストはたたずまい直して披露する。「“La lune est belle, n'est-ce pas?”」
「“月がきれいですね”。詩的な表現だけど、どういう意味かしら」
「ありていに言えば、愛している、ということになるんですけれど」
コマンダン・テストは人目をはばかるように身を乗り出して、
「Japonの男性は、この言葉を生涯にひとりの女性にしか使ってはいけないのだそうです」
ないしょ話をするようにささやいた。
「一生にひとりだけ」
脚を組んでコマンダン・テストのほうへ上体をかたむけるリシュリューも、声をひそめた。
「ええ。もしその誓いを破ってしまった場合」ふたたび席に腰をおろしたコマンダン・テストが、口角を吊り上げる。「男性はセップクをするそうです」
「セップクを!」愕然としたリシュリューの桃色のくちびるが震える。
「それくらい、この言葉は重いものなんだそうです」
「ちょっと待って、
「もちろんです。Japonaisはみんな例外なくサムラーイです」
自らを落ち着かせるために紅茶を含んだリシュリューは、コマンダン・テストから視線を外したまま、人差し指を立てた。
「Amiralも、そうなのかしら」
それにコマンダン・テストは胸を張った。
「提督も男です。愛する女性は彼女だけ、という相手にのみ、この言葉を贈るでしょうし、約束をたがえばきっとその場でセップクするでしょう」
「その場で!」
「その場で」
「すごいわね、Japonって」
完全に信じ込んでいるリシュリューは、思いつめたような愁いにその美貌を染めた。
「ちなみに、“月がきれいですね”は暗号のようなもので、女性が応じる場合には、これまた伝統に則った返答があります」
「合言葉ね」
「そうです。女性が愛を受け入れるときの言葉は、こうです……“
リシュリューはたじろいだ。
「セップクといい、応答の言葉といい、Japonって恋愛には淡白なのかと思ってたけど、意外に命がけなのね……」
リシュリューはもう一度、コマンダン・テストに“月がきれいですね”に対応する返答を確認して、ナプキンを置いた。コマンダン・テストはしてやったりとにこにこ顔である。
なお、それまでフランス語だった美女ふたりの会話に、突如としてセップクという物騒な単語が頻出したことで、ほかの客らは彼女たちのあいだでいったいなにごとが話されているのか、その好奇心と戦うのに必死で、ランチを楽しむどころではなかったという。
◇
アール・ヌーヴォーは「新しい芸術」の名のとおり、機械による量産が容易な直線的、画一的な様式から脱却して、自然こそ見本にすべき最高のデザイナーと讃歌し、曲線を意識的に取り入れて、かつ、作品には芸術家自身の個性と感受性もおしみなく投入しようとする機運である。
たとえば印象派と写実派はほぼ絵画の世界にのみ存在するのに対し、アール・ヌーヴォーは「窮屈な殻を脱いで、新しいものをつくろう!」という概念であるため、ありとあらゆる芸術に適用でき、建築、宝飾、家具や食器のデザインにまで波及した。アール・ヌーヴォーを代表する芸術家としては、フランスのガラス工芸家にして家具作家エミール・ガレ、サグラダ・ファミリアを設計したスペインの建築家アントニ・ガウディ、また、ティファニー創業者の息子であり、絵画、ステンドグラス、ランプ、ジュエリーなど多岐にわたって非凡なデザインの才能を発揮したアメリカの芸術家ルイス・カムフォート・ティファニーが挙げられよう。
なかでも、アール・ヌーヴォーが宣伝用ポスターや看板、挿絵といった商業イラストレーションに与えた影響を語るうえで、アルフォンス・ミュシャの名を避けて通ることはできない。ミュシャの代表作に、20点の大作からなる『スラヴ叙事詩』を掲げてよもや異論が挟まれることはないだろうが、提督はむしろ、彼の手がけたポスターや挿絵にこそ惹かれた。それらはクライアントから依頼された商品や芝居の広告であり、純然たる芸術ではなく、次から次へと消費されることが前提の商業イラストではあるが、ミュシャのポスターや装飾パネルや挿絵は――アール・ヌーヴォーがえてしてそうであるように――女性像が主役を務めていることが多く、植物や花で彩られ、ジャポニズムの影響を受けた世代であるためか浮世絵にも通じる太い輪郭線と微妙な色調、それでいて緻密な細部の表現、さらには象牙色に煙がかったような官能美が、画家の独創的な観点と洗練された表現方法により天衣無縫に統合されて、1枚の絵としての美術的価値を高める創造的な試みに成功している。
そこに描かれる女性は、往々にして奔放な、自立心に溢れた婦女で、豊かに流れる髪は写実からは距離をおいてデフォルメされており、衣裳とともにデザインの一部として装飾の役目を果たしているという共通点がある。いずれにも通底する独特な雰囲気は、制作を重ねるうえで自然に醸成された作風というよりも、画家が意識して確立させた様式とみるべきかもしれない。
カウチに腰かける提督の前では、その様式で構成された画面で、アラベスクのように垂れ下がる金色の髪をした、上半身裸の肉感的な女性がほほえんでいる。ミュシャが美術を寓意的に表現したとされる『サロン・デ・サン第20回展のポスター』である。彼女は頬杖をつき、恍惚とした笑みを浮かべ、その左手は絵筆と羽根ペンをにぎっている。髪を飾る白いヴェールは左の乳房のところまで垂れ下がり、その周りには星がちりばめられている。歯を濡らす唾液さえ感じられるような生々しさや、成熟した肉づきは、どことなくリシュリューを思わせる
「やっぱりamiralだわ。偶然ね」
だから、リシュリューが目の前に現れ、顔を覗きこんできたときは、ポスターの女性がそのまま飛び出してきたのかと驚いた。言葉が泡のように喉から昇ってきては弾けて消えた。
「まさかamiral, このRichelieuの顔を忘れたんじゃないでしょうね」不機嫌そうに麗々しい眉が吊り上げられる。
「まさか。びっくりしただけだよ。きみもミュシャ展を?」
「はい。MuchaはFranceで売れっ子だったから」まだほんの少し日本語がこなれていないリシュリューはすぐに笑みに戻した。ミュシャは現在のチェコで生を
「Franceとゆかりのある芸術家の絵が見られるから、気晴らしにと思って、来てみたの」
隣、いいかしら。提督はあわてて席を詰めた。リシュリューが礼を述べながら腰を沈めた。
「Amiralはこの絵が好きなの?」
「まあね」
「裸だから?」
提督は吹き出した。冗談とわかっている。
「ギュスターヴ・クールベの『世界の起源』をはじめてみたとき、わたしはまだ子供だったんだが、むしろ恐怖さえおぼえた」迷いながら提督は話した。だれかに聞かせるのははじめてだ。「Vラインのエチケットができてなかったからじゃない。あのとき感じた恐怖こそヴァギナ・デンタタというのかもしれないし、つねに生は死と表裏一体だから、生まれてくる場所である陰裂から覗く肉の赤さに、わたしが無意識のうちに死をも透視したからかもしれない」
提督は『サロン・デ・サン第20回展のポスター』を見据えた。
「やはり子供のころ、画集でこの絵をみたときは、単純に美しさとデザインの妙に心を奪われると同時に、わたしのなかで、彼女と、『世界の起源』の下半身とが、なぜだかごく自然に結合した。なにせ子供だから整合性なんて考えない。彼女こそが、『世界の起源』の画家の前で、白い布をかぶり、腰から下をさらけだした女性なのではないか……そう思えてならなかった。それ以来、『世界の起源』に恐怖を感じなくなった。わたしなりに作品の価値と正面から向き合うことができるようになった。だから、大げさにいえば、彼女は恩人のようなものなんだ。もっと言えば、『世界の起源』やこのポスターで、子供がドキドキしていられる、そんな呑気な時代をつくる一助になりたくて軍に入ったようなものだから、わたしにとっての戒めでもあるのかも」
めずらしく能弁に話してから、提督は、自分がとんでもなく恥ずかしい告白をしている気がして、激しい後悔にはらわたを引きちぎられそうになった。よりにもよってリシュリューに! かなり無理があるがすこし飲んで酔っていたことにしようか。そう負け犬思考に陥っていると、
「あなた、やっぱり面白い人ね」
リシュリューは真剣な顔で提督を見つめ、笑いもせずに、またその清澄な青い瞳は、提督の与太話をあまさず聞き取って吸収していたことを、ありありと物語っていた。
「仕事の虫かと思ってた」
「この職を志すきっかけではあるから、まったく関係ないわけでもないよ」
「長年逢いたかった恋人のようなものね。そういうことなら、Richelieuがいては邪魔かしら」
腰を浮かしかけたリシュリューに、提督は慌てた。
「そんなことはない。ご自由に。ただ、わたしはたぶんこの絵から離れないと思うが」
「そう。なら好きにさせてもらうわ」
リシュリューはふたたび座り直し、その動作に連動した黄金の髪がふわりと上下に揺れたせいか、甘やかな芳香が、みえない妖精のように提督の鼻腔をくすぐった。
それからふたりは、おもに目の前の、ポスターの範疇を超越した芸術品について、ほかの観覧者のさまたげにならないよう小声で言葉を交わした。「あの右の乳房、一見するとシンプルな輪郭だが、重力を感じるすばらしい形状に描いていると思う。そして、あの二の腕のやわらかそうなこと……」「でもちょっと太ってない?」「わたしはこのくらいが理想だなあ、実に健康的、官能的じゃないか」「じゃあ
「昼はもうすませた?」
ひとしきり話したあと、提督が『第20回展のポスター』を見ながら、自らを鼓舞して訊いた。昼過ぎだった。
「いいえ、まだ」リシュリューも正面の絵を見たまま答えた。
「この美術館のレストランは、前に何度か利用したけど、お勧めでね」提督は早口にならないように、噛まないように、せいぜい気をつけた。「よければ、食事でもどうかな」
「喜んで」
返答は提督が驚くほど円滑にもたらされた。提督はごく自然に立ち上がり、これもまたごく自然に、リシュリューに手を差しのべた。戦艦娘も笑顔でその手をとった。
美術館らしくレストランの店内も席にいながらにしてアートが楽しめる工夫が凝らされている。一時でも戦争を忘れるにはちょうどよい。食事を楽しみながらふたりのとりとめもない会話は弾んだ。「もし、なにかの間違いで大金持ちになったら、『20回展のポスター』を手もとに置いておきたい」おおむね提督が話すのをリシュリューがうなずきと相づちで受け止めるのであったが、彼女は決して退屈しているとはみえず、美しい面上にはいつわりのない信頼があった。それがうれしくて提督は、つい、ひとりよがりに話しすぎてしまったので、それを恥じ、
「きみは、もしなんでもひとつ買えるとしたら、世界一のドレスとかかな」
と水を向けてみた。丸テーブルを挟むリシュリューはグラスのワインに口をつけてから、肩をそびやかしてみせた。
「そういうものは、見せる相手がいてはじめて価値が生まれるのよ」
「深いな」
「もしひとつだけRichelieuの自由になるなら、そうね」金のまつ毛に彩られた、前人未到の楽園の海のように青い双眸には、提督が映っていた。「amiralをそばに置いておくかも」
「わたしを?」
不整脈ものである。
「そう。さっきみたいな面白い話をしてくれたり、Richelieuの服を品評したりするの。他人の時間はいちばん高い買い物だから」
「それは無駄な買い物だと思うよ」
「どうして?」
「わたしなんかでいいなら、ただでもきみのそばに居るからだよ」
この美しい女は、意表をつかれたように口を開けていたが、やがて喉を鳴らし、必死に笑いを噛み殺した。
「やっぱり、面白いわ。あなた」
提督は照れ隠しに水を飲んだ。悲しいかな、昼から飲酒はできない。
「きみも話しててけっこう面白いよ」
「そう?」
「じつを言うと、きれいなだけだと思ってた」
「あなたは正直ね」
「“きれい”のところは否定しないんだな」
「当然じゃない」
食事が終わって、リシュリューが手洗いに立った。初月や長波といるときとおなじ感覚で「大きいほう?」と声をかけてしまいそうになるのを、提督はかろうじてこらえた。化粧を直すのだろう。女性は大変だなと思いながら提督はふたりぶんの会計をすませた。
戻ってきたリシュリューは、自分の支払いもすんでいることを知って、大そう驚いていた。
「いやあ、提督ともあろうものが外国からきた艦娘とごはんを食べてワリカンなんかしたって伝わったら、日本の評判にかかわるから」
提督がいうと、リシュリューの美貌がわずかに翳った。
「あら。Amiralとして、なのね」
「え?」
「いえ、ありがとう」彼女はすぐさま繚乱に咲き誇る艶笑に戻して、心からなるごちそうさまを言った。
「また逢えるかしら」
美術館のエントランスを出る直前にかけられた問いに、提督は首をひねった。
「鎮守府で毎日会ってるだろう?」
「そうじゃないわ。ふたりでってこと」
提督は歩きながら日付を考えた。ガラスの自動ドアが開く。空調効率と外からの強風を防ぐための風除室へ足を踏み入れる。
「あと1回ミュシャ展に来られるから、二番煎じみたいで申し訳ないが、今度はふたりで回ってみるっていうのは、どうだろう」
リシュリューが提督の前へ踊り出て、『20回展のポスター』のように白く美しい歯
「きっとよ」
風除室と外をつなぐ自動ドアが左右へ
最も気温の高い時間帯だった。館内は絵を保護する目的で冷蔵庫のように冷やされている。冷房に慣れた体に重く湿った熱風が抱擁を浴びせた。
そのとき、提督の足元が、時化の船上のように傾いで揺れた。自分が頼りなく積み上げられた積み木でできているかのようだった。膝から崩れていく。薄れる意識の向こうで、リシュリューが提督の名を呼ぶ悲鳴がこだまするのを遠くにきいた。
◇
「集中できないとか、立ちくらみがするとか、疲れるとか」病室で、初月はできの悪い子供をみるような非難を隠そうともしなかった。「ぜんぶ栄養失調の症状じゃないか。バカかおまえは。即身仏にでもなりたかったのか」
ベッドで点滴を受ける提督には返す言葉もない。付き添いのリシュリューも苦笑いしている。穴を掘ってでも入りたい。
「刑務所なみに規則正しい生活を強要される現代の軍隊でむしろどうやったら栄養失調になんかなれるんだ」
「わたしくらいの立場になると、わりと好きなものを好きな時間に食えるんだよ」
「自己管理能力の欠如を露呈してるだけだが、わざとなら尊敬するよ、まぶしすぎて僕には真似できない」
これみよがしに長いため息をついた初月は、應揚に片手をあげて、
「僕は秘書艦の仕事があるから、先に帰る」リシュリューに鳶色の目を動かした。「悪いけど、この中身三才児の点滴が終わるまでみててやってくれないか」
リシュリューが快諾したのが救いだった。
戸が閉まると、外界など存在しないような静寂に包まれる。
「やせ型とは思ってたけれど」
椅子に腰かけたリシュリューが半身を起こしている提督とおなじ目線となる。
「言い訳するようだけど、鎮守府のやることなすことの最終チェックはぜんぶわたしにかかってくるからね、規定で残業が禁じられているから、時間内に片付けるには、どうしても食事を削るほかはなく……いやはや、面目ない」
「訴えたら?」
「残念ながら、われわれ防衛省職員には労働三権が認められてなくてね」
「現代に奴隷がいるなんて。ところで」リシュリューの声音がいくぶん低くなった。「なんであっち向いてるの。後頭部と話してもつまらないわ」
と言われても、いまの提督にとってリシュリューの顔をじかにみるのはたいへんな難題である。
「いきなりぶっ倒れるとか、かっこわるすぎる」
提督は素直な自己嫌悪を口にした。すると女は笑いだした。笑いはだんだん激しくなって、彼女はほとんどむせながら、なおも笑った。さすがの提督も首を回したが、リシュリューは座ったまま、体を折って、まだ笑っている。
やがて笑いから醒め、提督の顔を見つめると、またも発作のように吹き出し、目尻に滲む涙を指で拭った。
「びっくりはしたけれど、かっこわるいだなんて。意外にかわいいところもあるのね」
提督はこれまでかわいいなどと評されたことがなかったので、なんと反応すればよいのか困った。
「ああ、苦しい。あんまり笑いすぎたから、ここが苦しくなったわ」
とリシュリューは胸を押さえた。肩を大胆に露出させるリシュリュー級戦艦娘専用の制服が、胸のところだけ盛り上がり、大げさに動いている。
「ここが、苦しくなった」
リシュリューは重ねた。
「どうすればいい?」
提督ははなはだ戸惑った。
「押さえててもらったら、楽になるかも」
提督の鼓動までが早く打ちはじめた。点滴が挿入されている腕とは反対の手をおずおずと伸ばしてみる。リシュリューは逃れない。もう指先は張り出した胸の先端に触れかかっている。やはりリシュリューはほほえんだまま動かない。手は一双の膨らみの間に沈んだ。体温が手を通して流れ込んでくるようだった。リシュリューが手首をつかんで自らに押しつけたまま身を乗り出した。ふたりの鼻はたいへん近くなった。吐息は熱いままお互いにかかった。唇と唇が触れあった。温もりがあった。その瞬間が過ぎると、提督は自分がとてつもなく大それたことをしたようなうしろめたさから、またあさっての方向を向いた。
「まだ約束は生きてる?」
リシュリューが平静そのものという口調で沈黙を破った。
「約束?」
「ふたりでMuchaをみるっていう約束」
これについて、もちろんだという以外の答えを提督は持ち合わせていない。
「あなたと回れば、もっと楽しめそう」
自分もだ、きみといるととても楽しい、と言おうとして、提督は、コマンダン・テストから教えてもらったあの言葉の出番だと確信した。提督は咳払いをした。なにかあらたまって宣言しようとしているのだと察したリシュリューが耳を傾けた。提督は言った。
「La lune est belle, n'est-ce pas?」
たちまち、リシュリューの冴えたほほには赤味が差し、目はせわしなく泳いだ。あきらかに度を失い、火照った顔を冷まそうと両手でぱたぱたと扇いだ。提督もまた内心で困惑した。ともあれリシュリューは、彼女らしくもなく動揺しつつも、このような返事をひねり出した。
「Richelieuは、栄えある
死ぬ。なんのことだ。
「だから、Richelieuの返事はこうよ……」
リシュリューは喉の調子を整えた。
「
それに続いて、戦艦娘はささやくようにして韻律に乗せた。彼女の祖国の言葉だった。
提督はとんとフランス語を解さない。しかしリシュリューの歌う旋律は知っていた。わたしを月に連れていって。星々のあいだであなたと遊びたい。木星や火星の春がどんなものか、見てみたいの。
それは、つまり。