愛しのリシュリュー   作:蚕豆かいこ

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La mémoire est aussi menteuse que l'imagination.(記憶は空想とおなじくらい嘘つき)

 いつも弄ばれている感が強い提督はリシュリューに奇襲を決意した。給湯室でふたりきりになった好機を逃さず、彼女を壁際に追いつめる。迫られたリシュリューの極上の陶器のようなほほが淡く色づく。においたつ色香に息を呑みながらも提督は余裕をよそおう。

 

「リシュリュー……いい?」

 

 提督を見上げていたリシュリューが、黄金の長いまつ毛を伏せて、その身を委ねた。提督が内心で勝利の快哉を叫びながら顔を近づける。

 

 そのときである。

 

「提督ー? どちらに行かれたのでしょう、アイオワとガングートがTu-160はB-1Bのパクリか否かで揉めているので仲裁をお願いしたいのですが……」

 

 部屋の外でコマンダン・テストの声がした。毒気を抜かれてしまった提督は、ばつのわるそうな笑みで体を引き剥がし、踵を返して出入り口に向かおうとした。

 

 背後から手首をつかまれた。

 

 振り返ると同時にリシュリューに引っ張られ、流れるように位置を入れ替えられる。逆に提督が壁に追い込まれるかたちとなる。

 

 そのまま有無を言わさずリシュリューが提督の唇を奪った。みずみずしい弾力。さらに熱を帯びたやわらかい肉が侵入し、提督の口内を味わいつくすかのように蹂躙する。ついばむ音が室内に反響する。甘いにおいに頭がくらくらする。リシュリューの唾液は甘い。かと思えば、リシュリューが水音を立てて提督の口からつばきを根こそぎに吸う。わざとその雪色の喉を鳴らして飲み下す。舌にリシュリューの舌が触れるたび、麻痺したように腰から力が抜けそうになる。

 

 ようやく解放された提督は水底から浮かび上がったように酸素をむさぼった。捕食者の表情で眺めていたリシュリューが婀娜(あだ)っぽく微笑み、それから片目をつむってみせる。

 

「まだまだね、Mon amiral.」

 

 優雅な立ち居振る舞いを崩すことなく室を辞去する彼女の背を見送りながら、提督は再戦を胸に誓うのだった。

 

  ◇

 

「すこし息抜きするか」

 

 提督にリシュリューが応じて伸びをした。人間の集中力が持続するのはおおよそ2時間少々が限界といわれている。多くの映画の上映時間が2時間前後なのはそのためだ。提督は限りない書類仕事にひと区切り入れるべく腱鞘炎予備軍の手からペンを置いた。未決の書類がまだ山脈をなしている。ノートパソコンの液晶画面をにらんでいたためか眼球の内部に(おり)が沈殿していて、提督は目頭を二、三度揉んだ。

 

「お疲れみたいね」

 

 提督の執務机の左にテーブルを寄せて本国あての文書を作成していたリシュリューが、光の加減によりパウダーブルーにきらめく瞳で流し目をよこした。提督は椅子に身を沈めたまま体を伸ばして生返事した。

 

「疲れが飛んでいくおまじない、してあげましょうか」

 

 これにも生返事をしたにすぎなかったが、リシュリューは席を立ち、提督の背後に回った。

 

 肩もみでもしてくれるのかと思っていると、戦艦娘の手袋に包まれた指が、提督の(おとがい)をなぞり、くい、と上げさせる。

 

 頭がのけぞるかたちとなった提督の視界は上下逆さまとなったリシュリューの花顔(かがん)で占められていた。彫りの深さもあって、陰影が芳容(ほうよう)に誘い込むような妖艶さを加えている。

 

 なにかと思う間もなく、唇が重ねられる。リシュリューの舌が提督の口唇を舐める。ついばむように吸い、ぬめりを帯びて踊る肉は提督の歯列をねっとりとこじ開ける。

 

 抵抗する意思を溶かされた提督が迎え入れ、舌を触れさせようとしたとき、脊髄から腰に甘い電流が走った。

 

 上下逆に顔を合わせている状態だと、正対しているときよりも舌がよく絡みつく。人間は、皮膚の2ヶ所に刺激を与えたとき、背中では5センチの間隔が開いていなければ1ヶ所のときと区別がつかない。鋭敏とされる指先でも2ミリの間隔を要する。人体で最も触感が敏感な部位は舌で、わずか1ミリの間隔でも判別できる。

 

 鋭敏な器官のほとんど全体が触れ合うのだから、快感の波もまた、怒濤のように押し寄せて当然だった。双者はより広い面積の摩擦を望んで、ときに螺旋に結びついた。混ざりあった唾液が泡立つのがわかった。さらに、リシュリューは、提督の歯茎や、歯の裏までも舐め回した。同時に提督の腕に手を這わせ、てのひらへ到達させると、指を絡めて握った。

 

 肉体的な快楽はいうまでもないが、淫靡な水音に、ときおり吐息に混じるリシュリューの悩ましげな声や、彼女が求めに応じてくれているという充足感が、幸福に輪をかける。

 

 貪欲な交歓は、ふたりのあいだに流れる不思議な霊感により終わりを告げられるまで続き、名残惜しそうにつなぎ止める糸がひかれ、もう一度リシュリューが唇を押しつけるように吸って、離れた。

 

「元気になった?」

 

 後ろから被さるリシュリューの端麗な横顔が、提督の右肩に乗った。絹のようなほほが押しつけられる。白皙(はくせき)の美形に泣きぼくろと艶ぼくろがアクセントとなっている。

 

 提督はなんとかうなずいたが、戦艦娘の視線が下りる。

 

「どこを元気にしてるのよ」

 

 責めるようでもあり、目論見が当たって楽しげでもある響きだった。

 

「しかたがないだろう、雨が降れば濡れるのとおなじだよ。ほっとけば治まるから……」

 

 リシュリューはまだ指を絡めたままの提督の手を握っている。ふふ、と耳元でささやく。離した手を伸ばし、指で確認する。

 

「硬い」

「ほ、ほら、きみもわたしも仕事が山積みだ。休憩は終わり」

「あら、ほったらかしなんて、この子が可哀想」

 

 形をなぞると、提督は小さく呻いた。リシュリューが舌なめずりをする。

 

「生理現象だけ、解決してあげる」

 

 リシュリューが提督の座る回転椅子を回し、自分のほうへ向けさせ、ひざまずく。提督は電気椅子に拘束された罪人のように動けない。

 

「前、初月にバレたじゃないか、まただれか来たら……」

「あなたが早く出せばいいだけの話でしょ」

 

 そんな無茶な、と抗議するひまもなく、リシュリューが右手の手袋を外す。現れる彫刻のような指。そんななにげない仕草にさえ欲情してしまう自分に、提督は罪悪感を覚える。しかし、リシュリューは、それを受け入れると目で語って微笑する。安らぎに胸が満たされる。そのせいでファスナーを下ろされるときに拒絶ができなかった。下着から取り出され、スローモーションのように頭をもたげる。

 

「危なくなったら言って」

 

 ためらいなく顔をうずめる。肌より高い体温にじかに包み込まれ、提督は思わず腰がひけたが、座っている以上、逃げ場はない。リシュリューの後頭部に両手を添える。

 

 彼女を汚すことに、提督はいまだにかすかな引け目を感じずにはいられない。いつかリシュリューは言った。あなたが汚すんじゃないの。わたしがあなたを汚すのよ。それを額面どおりに受けとるほど、提督は子供ではない。怯えて足を踏み出せない男に、許可をあたえるという体裁で、関係を進める決心をつけさせたのだ。あなたは悪くない、そう許しを得なければ欲望を開陳することもできない自分のために。

 

 リシュリューがときおり上目遣いで視線を送ってくる。自分は彼女の恋人を名乗るに値する存在だろうか。その疑念が頭によぎるたび、どうやってかリシュリューは察知し、きょうのように誘惑するのだ――あなたを愛している、その証をみせてあげる、だから心配しないで、と。

 

 両脚を広げて腰かける提督は膝を軋ませた。絞り出すような呻きとともに上体が前へ傾斜していく。

 

「やばいっ……」

 

 先端が右手で緩く包まれる。脈動。手首にゆるく伝いだす。

 

「ティッシュ、ティッシュ……」

「ほら、どこも汚さず完璧にできたでしょ。手を洗ってくるわ」

 

 笑い、じゃれあいながら後始末をし、すべて終わったところで、ドアがノックされる。今度はうまくいったと胸を張って迎える。

 

 開けられた扉の隙間から、初月が道徳の教科書に載っているような無表情の顔を出す。

 

「終わったか? 僕もひまじゃないんだ。難しいことを言うかもしれないが、非番中にやってくれ」

 

 提督とリシュリューは、ふたり揃ってずっこけた。

 

  ◇

 

 夏の洋上および沿岸は万華鏡のように天候が変わる。風の強い日には、じっと仰ぎ見ていると足が浮かんでしまいそうな青空が広がっていても、陽に輝く雨に降りこめられてしまうことがある。日本ではそのような天気雨(てんきあめ)を狐の嫁入りと呼び習わした。また、近年では驟雨(しゅうう)にゲリラ豪雨という俗称が定着しつつある。

 日本語の習得に日々余念がない仏戦艦リシュリューは、どうやらそれらふたつを混同してしまっていたらしい、ずぶ濡れになって帰還するや、提督にこう愚痴を漏らしたのである。

 

「鎮守府までもう少しのところで、ゲリラの嫁に遭ったわ」

「そんなのコロンビアでもなかなか会わないだろう」

 

 日本語はむずかしい。「生」だけでも、(なま)菓子、(せい)物、()蕎麦、(しょう)得、誕(じょう)()き物、()まれる、()い立ち、()える、芝()(あい)憎、壬()(なり)業など、50近い読み方がある。

 

 機械翻訳も英語、フランス語、ロシア語あたりは精度が高いが、日本語がからむととたんに意味不明な誤訳を連発するのも、膠着語のなかでも難解をもって鳴る日本語の宿命といえる。

 

 で、雨にまつわる言葉について訂正させると、リシュリューは予期せぬ雨のいたずらにしてやられたことよりも、日本語の複雑さのほうに不満を――どういうわけか――提督にぶつけはじめたのである。のみならず、いったんシャワーを浴びて、ふわふわモコモコしたガーリーなルームウェアに着替えたあとも、わざわざ執務室を訪れてまで、いかに日本語が意思伝達に不適当な言語であるかについて懸河の弁を振るった。その話術たるや、傾聴しているうち、提督もだんだんと一理あるなどと思いはじめるほどの職人芸に達していて、なかなかどうして不思議な感覚であった。欧米で教育されるディベートは、自分に非があってもいかにして相手に譲歩させるか、要求を呑ませるかという外交術の習得が主眼におかれている。会話とは利益を引き出すための道具であるとする契約社会の論理と、知性の弱肉強食ゆえだろう、と提督は実にいいかげんな推論を脳内で組み立てながら、表面上はあくまでもリシュリューの力説に熱心に耳を傾けているという演技(ふり)をし続けた。

 

「どうして日本語はこうも母音が多いのよ」

 

 リシュリューの矛先は日本語の構造そのものにまで向けられた。執務室には提督とリシュリューのふたりだけ。当然ながら提督が彼女の文句のすべてを引き受けることになる。

 

「母音が多いうえに連続するのが気に入らないわ。どうにかしてよ」

 

 力説するリシュリューの透き通るような金の髪は獅子のたてがみのようにはためき、長い手足の身振りは、音声さえシャットダウンすれば、まるで身を焦がす情熱的な愛を主題とした歌劇の一節をみているようで、提督はむしろ感心した。

 

 フランス人の「母音の連続」に対する悪感情はもはや憎悪といってよい。フランス語の「私」にあたるjeには、jeとj’という2種類の表記がある。通常はjeの方を使うが、jeの次に母音、もしくは無音のhで始まる単語がくる場合には、j'と省略する。この省略をエリジョンという。例文としてはこうである……

 

“Je t'aime(きみを愛している).”

 

 ここではjeとなっているが、

 

“J’étais tout séduit à l'instant même où nos regards se sont croisés(きみと目があった瞬間に恋に落ちてしまった).”

 

 これは次にくるétaisの頭が母音であるためにJ’とエリジョンされている、というわけである。

 

 で、リシュリューが長々と日本語について責め立て、やや落ち着いたところで、

 

「そういうわりには、きみはずいぶん日本語が流暢だな」

 

 と提督は口を挟んだ。

 

「当然よ」

 

 リシュリューは顔を提督から逸らした。完璧な造形美の容貌が憂いに湿り、陶器のようなほほがほのかに色づく。

 

「……だって、あなたともっとお話がしたいもの」

 

 提督はこのとき、無条件降伏を決意したという。

 

  ◇

 

 レクリエーションルームにて再生していた映画『バンビ』のお母さんが猟師に殺されてしまうシーンで駆逐艦巻雲(まきぐも)が号泣しているのを、駆逐艦深雪(みゆき)が「いつまでびーびー泣いてんだ」とリモコンで巻き戻して「ほら、生き返った!」などと慰めにもならない慰めで紛らわせているそばで、初月がタブレットを操作し、長波(ながなみ)が脇から覗きこむ。初月がスワイプしているのは艦娘たちがこの鎮守府に着任したときの記念写真だった。楚々とした佇まいの翔鶴(しょうかく)と弾けんばかりの笑顔でピースサインをしている瑞鶴(ずいかく)の画像もあれば、伊168と鈴谷(すずや)大和(やまと)のスリーショットもある。

 

「初月がここに来たのは礼号作戦のときだったっけ」

「ああ。沖波やザラとおなじ時期だな。長波がここに来たときは、いろいろと鎮守府がすさまじかったらしいな」

「当時は右も左もわかんなかったけど、なんかすげえ潜水艦と重巡と戦艦がいてさ、ビーム射ってたんだぜビーム。あとすんげえ賑やかな連中だった。また会いたいもんだな」

 

 そこへリシュリューが通りがかった。

 

「あら、ここへ着任した順番の名簿? 写真付きなのね」

「ときどき眺めるんだ。このときはこんなことがあったなとか、いろいろ思い出に浸れる」

 

 初月がタブレットを示した。各地で撮影した写真もある。被写体の艦娘を写真ごとにタグづけしてあるので、たとえばリシュリューでタグ検索すれば、彼女が写っている画像を列挙させることもできる。

 

「このManteau de printemps(スプリングコート)はサセボに行ったときね。ちょうどオハナミの季節だったわ。これは去年の秋の連休ね、このcache-col(スカーフ)はお気に入りだったんだけれど、amiralったら全然見てくれないのよ、頭きちゃう。この水色のla jupe évasée(フレアスカート)の写真を撮った夜は縁日(エンナイチ)とかいうお祭りだったから、ユカタを仕立ててみたの、でもamiralのお部屋に迎えに行ったら雨が降ってきて、雨宿りしようかってなって、結局そのまま。着てる時間より着付けしてる時間のほうが長かったわ。まったく」

「それはおまえも悪いんじゃないかっていうか、おまえ、服と日付を紐付けしてるのか?」初月が呆れる。

「たしかに、マジで服がダブってる写真が1枚もないよな」長波も信じられない顔で液晶の写真をスワイプしていく。

「本当に着道楽だな。おなじフランスのコマンダン・テストは常識的な範囲なのに」

「道楽じゃないし、それにRichelieuはRichelieuだもの、おなじ国の出だからってCommandant testeは関係ないわ」

 

 初月にリシュリューは即答した。

 

「おまえは素材(もと)がいいんだから、着飾らなくたってじゅうぶん以上に映えるだろう」

 

 リシュリューは乳白色のほほに手をあてて、やや考えてから、

 

「Amiralは、Richelieuのどこを好きになってくれたんだと思う?」

「いまはそんな話をしてないぞ」

「答えただけよ」

 

 おなじ女にもかかわらず初月にはちんぷんかんぷんである。

 

 長波も、

 

「もっとさあ、ほら、着飾らないありのままのわたしを見て、とかなんねえの?」

 

 と乗っかった。

 

「ありのままのわたしを、だなんて、女がそんな考えじゃだめよ」

 

 リシュリューは大げさに肩をすくめて、巻かれた金髪がなびくほどかぶりを振った。

 

「ありのままっていうのは、お料理でいえば玉ねぎをそのまま出すようなものよ。おいしく食べてほしいなら、土を払って、皮を剥いて、きれいに切って、飴色になるまで炒めるなりなんなりして、そうして手間暇かけないと。女の美しさは努力して磨いてはじめて手に入るものなのよ。そういう努力もしないで、土も皮もついたままで“はい食べて”だなんて、そんなのはただ自分の怠惰を棚に上げて、そのくせ都合のいい結果だけを欲しがっているただの横着にすぎないわ」

 

 初月も長波も気圧された。

 

 しかしその一見もっともらしい強弁は、ただ単に服を買うための口実にすぎないのではないかと初月が気づいたのは、深雪に巻き戻されたせいでまたも森の女王が猟師に殺されることになってしまった『バンビ』が、感動のエンディングを迎えたあとだった。

 

 というわけで別の日、初月はなにげなく提督に、

 

「いまさらだけど、リシュリューのどこが好きになったんだ」

 

 と訊いてみた。しかしてその返答は、

 

「全部」

 

 まったく参考にならないものだった。

 

 リシュリュー本人に携帯電話で伝えると「でしょう? Richelieuが訊いたときもそうだったのよ」そう苦笑された。

 

 初月も電話をかけているのとは反対の肩をすくめた。「まあ、提督はおまえにぞっこん参ってるんだから、気にしなくていいんじゃないか」

 

 その夜、リシュリューはひとり、鏡と向き合った。

 提督が自分のどこを好きになったのかがわからない。

 美人だから? もしそうだとすると、自分より美人な女性が現れたら、提督はそちらを好きになるのではないか? そう思うといいようのない不安が百万の蟻となって足元から這い上がってくる。

 だから、リシュリューは毎日、丁寧に髪を巻き、きれいに着飾ることに余念がない。

 提督が夢中になってくれた自分を維持するために。ほかの女が目に入らないように。

 

  ◇

 

 提督とリシュリューが付き合いはじめて、まだ間もないころ……。

 

 リシュリューが初月と長波に間宮のランチを奢るのと引き換えに相談をもちかけた。趣旨はこれだった。

 

「Amiralは、どうしてRichelieuを泊めてくれないんだと思う?」

 

 水滴を宿した瑞々しい前菜サラダ盛り合わせを平らげていく長波をよそに、初月は、これは面倒な事態に巻き込まれたぞ、とイタリアンに釣られた軽率さを後悔した。

 

「Richelieuのなにが気に入らないのかしら。faire l’amour(セックス)がしたくて口説いてきたと思うんだけど……」

「おまえらってデート何回したの」

 

 長波が遠慮なしに尋ねた。

 

「考えようによっては1回」

「1回! そんならまだだろう」

「どうして?」リシュリューが心の底から理解不能という顔で訊いた。

「どうしてっておまえ、そういうのは何回かデートして、関係を深めてからだろ」

「関係を深めるために、faire l’amour(セックス)するんでしょう?」

「え、ある程度人となりがわかって、信頼できるやつだってわからないと、チンコ挿れたくなくない?」

「挿れて味見をしないと体の相性がわからないし、もし相性が合わなかったらそれまでにかけた時間が無駄になるんだから、まずはfaire l’amour(セックス)でしょう、faire l’amour(セックス)の好みの違いで我慢を強いられる関係なんてどうせ長続きするわけないもの」

「だめだ、意外とこいつ話が通じねえ!」

 

 長波が頭をかかえた。フランス女おそるべしという認識は初月の胸にも刻まれた。

 

 リシュリューは運ばれてきたメインの甘とろ豚のグリルを味わって、持論を展開する。

 

「お話したり、映画をみたり、食事をしたりするだけなら、ただのお友だちと変わりがないわ。l'amour(セックス)する関係かどうかが、友だちと恋人の違いでしょ」

 

 初月がパスタをフォークに巻きつけて息を吐く。「おまえは、することしか頭にないのか」

 

 これにリシュリューは昂然と抗議した。

 

「女がfaire l’amour(セックス)のことばっかり考えていられるのが、真の平和じゃないの!」

 

 初月も長波も腕を組んで「うーん」と唸るばかりである。

 

「つーかさあ、したいんならおまえのほうから言やあいいじゃんか」

 

 長波が魚介を贅沢に使ったペスカトーラ・ビアンカのピッツァをかじって、チーズの糸を伸ばしながら呆れた。

 

Japonais(日本人の男)はあまり積極的な女は嫌うって聞いたわ。だから、はしたない女だって思われちゃいそうで」

 

「安心しろ。僕たちにそんな相談をする時点でじゅうぶんはしたない」

 

 初月が言うと長波も繰り返しうなずいた。

 

「ハツヅキやナガナミにどう思われようといいんだけど、あの人、Richelieuに妙な憧れをもってるみたいで。幻滅されたり、嫌われたりしたくないのよ」

 

 明眸皓歯(めいぼうこうし)のリシュリューが悩みに沈むと、ちょうどジャン=フランソワ・ミレーの絵画『晩鐘』のような薄暮の風情がある。

 

 それをみて初月は皮肉ぬきの優しい笑みを浮かべた。

 

「なに?」

「いや、おなじなんだなと思って」

 

 リシュリューが意味をはかりかねていると、初月は、

 

「日本とフランスということ以上に、人間と艦娘でも、そういうところは普通なんだな」

 

 引き受けることを約束した。

 

 間宮を出て、ひとりになってから、思い出したように呟いた。「結局、あいつらの臍から下の面倒までみてるじゃないか……」

 

  ◇

 

 というわけで、初月は秘書艦業務の合間に、提督とふたりになる機会を見計らって、リシュリューから相談された旨を伝えた。

 

 自らの行いが少なからず想い人を傷つけてしまっていたことに、提督は自責の念に眉を曇らせたが、やがて訥々と語りはじめた。

 

「彼女があまりに美しすぎて、エロいことをするのが申し訳なくなってくる」

「世紀の大発見だ、目を開けて立ったまま寝言をいうやつをはじめて見た」

「それは冗談としても、あまりに美しすぎて、わたしなんかが手を出していいのか、いざとなると不安になるんだ」

 

 提督は半分以上は本気で返した。

 

「彼女は本当にきれいなんだ。外見だけじゃない。素直で、前向きで、努力家だ。どんな画家でも彼女がいかに現世の至宝か表現はできないよ」

 

 提督は途方に暮れた。

 

「彼女を独占していいのか不安になる。彼女にはもっとふさわしい相手がいるんじゃないか。わたしなんかでは許されないんじゃないか、と」

「許されないって、だれにだ」

「それは……」

 

 初月に提督は言葉を詰まらせた。

 

「いるかどうかもわからないものに遠慮して、現実に存在してるあいつの気持ちをないがしろにするのか? そっちのほうがよほど不誠実だとは思わないか?」

 

 初月が肩をつかんだ。

 

「世界中のだれもおまえを責められない。おまえたちふたりだけの問題だからだ。ほかのだれにも文句をつける資格はないんだ」

 

  ◇

 

 私室にリシュリューを招いて、ふたりで夕食をつくり、やはりふたりで洗い物を片付けているとき、提督は初月とのやりとりを話して聞かせた。きみを独占することがうしろめたい。それにリシュリューは快活に笑った。

 

「独占してるなんて、そんなのお互いさまじゃない」

「きみとわたしは等価値ではないよ。きみは特別なんだ」

「Richelieuにとっても、amiralは特別よ」

「そういうまっすぐなところがね」羨望が口をつく。「きみのとなりにいるのがわたしでいいのか、不安になる」

 

 提督が軽く水洗いをした食器を食洗機にセットしていきながら、リシュリューは、

 

「Richelieuはあなたに惹かれる自分に不安なんて感じたことないわ。あなたは素敵な人だもの」

 

 と、当たり前のように返すのである。

 

「ねえ、なんでもひとつだけ買えるなら、Richelieuがなにが欲しいって言ったか、覚えてる?」

 

 作業を終えたリシュリューが背中から被さるように抱擁し、鼓動が跳ねあがる。“Amiralをそばに置いておきたい。他人の時間はいちばん高い買い物だから”。忘れるはずもなかった。

 

「Richelieuもamiralも、相手を独占する贅沢を互いの時間を対価にして満喫する、それでいいんじゃない?」

 

 提督はまだ逡巡している。

 

「きみが欲しいのは事実だ。でも、きみを汚すのが怖いという自分もいるんだ……」

 

 くすくすという笑いが耳をかすめる。

 

「だいじにしてくれてるのね。それは嬉しいけれど、でもね」

 

 リシュリューが提督を振り返らせ、向き合う。甘い蜜の香りで強烈に誘惑する花の(かんばせ)

 

「あなたがRichelieuを汚すんじゃないの。Richelieuが、あなたを汚すのよ」

 

 踏み切りをつかせるため、言い訳を用意してくれたのだとわかった。提督は悔いた。自分の不甲斐なさを改めて思い知らされた。

 

 だからこそ、心を定めなければならない。

 

「きみがわたしとの時間を後悔しないように、きみといるすべての時間を素敵な思い出にするよ」

 

 リシュリューが本心からの喜びに笑顔となる。宝石をまき散らしたような輝きだった。提督の首に新雪のような腕を絡めるようにして引き寄せ、口づけする。着衣に手をかける。

 

  ◇

 

 何年も前であるにもかかわらず、提督と初めて寝た次の朝、とても天気が良く、まぶしいほどに青い空が広がっていたことを、リシュリューはいまでも覚えている。

 

 朝の澄み切った青のもと、艦娘たちが出勤しているなか、ひとりだけ、まだ夜の残滓(ざんし)をまとっているようなやましさと、「自分は愛する相手とセックスしたのだ」とだれかれ構わず肩を揺すぶって自慢したくなるほどに浮かれる気持ちで、ない交ぜになっていたことを、鮮明に覚えている。

 

「きみと初めて抱き合った日の翌朝は、とてもいい天気だったんだ」

 

 ベッドの上で、リシュリューの膝を枕にしている提督が、ふとそんなことを口にして、この戦艦娘は軽い驚きから反応らしい反応が示せなかった。おなじことを覚えていた?

 

「で、ちょっと気になってね、こないだ、あの朝の気象記録を調べてみたんだ。ネットは便利だね」

 

 提督はリシュリューの内心などつゆ知らず話を続け、おかしそうに笑いをこぼした。

 

「そうしたら、あの日の天気は、雲量6だったんだよ」

 

 リシュリューは目を丸くした。雲量6とは、見上げたときの空の6割が雲で覆われているという意味である。

 

「気象学的にはたしかに晴れではあるんだが、お世辞にもいい天気とはいえない空模様だったんだ」

 

 なら、あの空の青さは?

 

「だからわたしは、そのとき思ったんだ」

 

 閉じていたまぶたを薄くひらいた提督が、寝返りを打ち、リシュリューを見上げる。

 

「きみは、わたしの見る天気すら変える女性だってね」

 

 リシュリューは、整いすぎて冷たささえ感じるその容貌を春の色に染めた。

 

「あなたもずいぶんお上手になったわね」

「きみは、照れるようになった」

 

 提督が手を伸ばす。金に輝く髪の流れをさかのぼり、リシュリューの滑らかなほほに添えられる。

 

「Je t'aime.」提督は言った。

「愛してる」リシュリューも言った。

 

 互いに相手の国の言葉で告げて、リシュリューは提督の肌の温度を感じながら、未来に思いを馳せた。これからも自分たちは、つまらないことで衝突したり、迷ったりしながらも、記憶のなかだけとはいえ空の色さえ変えてしまう相手と、何度も越えていくのだろう。

 

 胸の高鳴る夜を。青く美しい朝を。


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