愛しのリシュリュー   作:蚕豆かいこ

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La vie est un sommeil,l’amour en est le rêve,et vous aurez vécu,si vous avez aimé.

 戦艦娘の大和が振り袖の晴れ着衣装に身を包み、おなじように和装で着飾った海防艦娘対馬や駆逐艦娘荒潮らを連れて出かけていく。入れ替わりに、空母艦娘加賀と駆逐艦娘山風が、草履の音をさせながら矢を1本ずつ携えて鎮守府に戻ってくる。皆いずれも華やかな殷賑(いんしん)のなかにあった。

 

「日本にもsemaine de la mode à Paris(パリコレクション)があるの?」

 

 あきらかに機能美より造型美を優先した、きらびやかな装いの艦娘たちを指差して、リシュリューがたまたま隣の席にいた水上機母艦娘の日進(にっしん)に尋ねた。

 

「ありゃあ初詣じゃ」鳳翔(ほうしょう)から朱塗りの屠蘇器で注いでもらったお屠蘇を啜りながら日進は答えた。

 

「ハツモーデ?」

「新年に神社行ってな、神さんにお願いごとするんよ。“ことし一年ぶじに過ごせますように”とかの」

「日本人って宗教に無関心だって聞いたけど、ちゃんと神さまがいるのね」

「うちらぁ節操()うもんがないけぇ」日進は苦笑いして語った。「宗教いうんは法律みたいなとこもあるじゃろ? 神さまが見とるけぇ悪いことせんほうがええでぇいうわけじゃ。日本でも“お天道さんが見とる”とか、因果応報云うてな、()ぇことしたんも悪いことしたんも全部自分に()んてくるぞいうて刷り込んだんじゃ。ほじゃけど、自分のやったことと自分の運命にほんまに因果関係がある云うわけじゃなかろ? じゃけぇ、だれぞ一人が悪いことしたら、連帯責任で村のもんみぃんなに(ばち)を与えんなさる、なんか人智超えたもんがおる、云うことにしたんじゃ。そやって相互監視させたんじゃね。じゃけぇ日本人は周りと合わせようとするんじゃ。それを宗教いうんなら宗教じゃろうな」

 

 自身もお屠蘇に口をつけながらリシュリューは興味深く聞き入る。山椒の実や桔梗の根、白朮(びゃくじゅつ)(キク科オケラまたはオオバナオケラの根茎)など複数の生薬からなる屠蘇散(とそさん)を日本酒と本みりんで漬け込んだ清澄な霊薬が五臓六腑にしみわたる。酒よりみりんの割合を多くしているので口当たりもまろやかだ。

 

「ただ、ユダヤ教やらキリスト教やらみたいに一神教じゃあなかったんよ。キリスト教なら異教の神さんは悪魔にするじゃろ」

「中東の神話のBaal(バアル)が、Christianisme(キリスト教)ではBelzébuth(ベルゼブブ)になるとかね」

 

 リシュリューに日進が、杯を静かに呑み干して頷く。

 

 紀元前2000から1000年ごろに古代カナン地方(地中海の東岸。現在のシリアやパレスチナあたり。農耕が中東からはじまったことを踏まえると、まさに同地は文明の中心地といっても過言ではなかった)で広く信仰されていたバアルは、天空の神エルの実子であるとされていた。

 

 エルは神々の父にして天の全権を握る最高神だったが、基本いつも玉座に座って過ごすだけでなにも仕事をしないニートであった。バアルはそんな父の代わりに地上の戦乱と混沌を収め、親の七光りという評判のスタートから実力で最高権力者にまで成り上がり、ときに仲間たちの助けを得ながら、天災を象徴する敵と戦って打ち倒すことで大地に実りの雨と豊穣をもたらす、まさに主人公のような神だったのである。バアルに、「いと気高き神」という意味のバアル・ゼブルという尊称があったことからも、乾燥地帯である中東で干天(かんてん)の慈雨を降らせるこの神がいかに慕われていたかがわかる。

 

 カナン地方のひとつ、ウガリット(紀元前6000年から紀元前1190年まで現在のシリアの地中海沿岸で栄えた都市国家)もバアルを厚く信仰しており、バアルに関する物語を粘土板文書で残している。ウガリット神話である。

 

 それによるとバアルにはアナトという妹がいた。アナトはウガリット神話において、ほかの女神の美しさを描写するさいに「アナトのように美しい」と比喩に用いられているので、見目麗しい絶世の美少女とイメージされていたものと思われる。アナトは実兄のバアルに狂おしいほどの慕情を寄せていた。よって処女である。バアルに仇なす敵との戦いにおいては兄以上の勇猛さと凶暴性をふるってことごとく勝利をおさめている。ところがあるときバアルは死神モトに殺されてしまう。豊穣を意味するバアルは、干魃と凶作を神格化したモトには絶対に勝てないのだ。

 

 兄を亡きものにされたアナトの悲しみは深く、怒りはそれ以上にすさまじかった。アナトはモトを一撃で斬殺しただけではあきたらず、死体を焼いて臼でひいて灰にしたうえで地にばらまき、畜生の餌にすることで復讐を果たす。「干魃と凶作」であるモトが死ぬということは、作物の育たない季節が終わるということなので、豊穣神のバアルはふたたびよみがえる。こうしてカナン人は季節の移り変わりを「神々の戦い」と見なし、恵雨が降ると「女神アナトがモトを倒してバアルを復活させてくださった」と天に感謝を捧げていたのである。

 

 女神アナトを簡潔に表すと、「妹属性の美少女で、お兄ちゃんが大好きで、最強の戦闘力を持っていて、お兄ちゃんのためにどんな敵でもやっつけちゃうヤンデレ気味の処女」ということになる。民衆が好むキャラクター像は3000年以上前からさほど変わっていないのかもしれない。

 

 さて、そんなバアルとアナトを信仰していたウガリットは、紀元前1200年ごろに地中海の西からやってきた侵略者〈海の民〉の一集団であるペリシテ人に滅ぼされる。地中海東岸に移住したペリシテ人はそこを「ペリシテ人の土地」という意味のパレスチナと名付けた。

 

 しかし信仰というものはその土地の気候風土を土台にして生まれるものである。米作ゆえ日照時間が重要な日本では太陽を最高神としたが、沙漠の国々では太陽はむしろ忌むべきもので、雨や月こそが敬うべき神だった。イスラム圏の国旗に月が取り入れられていることが多いのはこのためである。

 

 降水の少ない中東ではありがたい存在である雨の神バアルも、入植者であるペリシテ人によって引き続き豊穣神として信仰された。バアルをバアル・ゼブルと讃えていたのもペリシテ人である。

 

 さて、ときをおなじくしてヘブライ人がヨルダン川東岸の山岳地帯を越えて、カナン地方に進出してきた。ヘブライ人はユダヤ教徒にあらずんば人間にあらずという排他的な一神教集団である。生活様式も、ヘブライ人が乳幼児の死亡率が極めて高いために人口が増えにくい半遊牧民であるのに対し、ペリシテ人は大所帯を養える農耕社会という違いがあった。

 

 ヘブライ人は、自分たちとは社会構造のまったく異なるペリシテ人が目障りでしかたがなかったらしく、経典である旧約聖書の列王記、民数記、士師記、ホセア書などで、バアル信仰を偏執的なまでに攻撃している。

 

「聖典いうてもじゃな、神さんが天国からファクスで送ってきたわけじゃないけぇ」

 

 日進の言葉にリシュリューがまばたきをする。

 

「まさか、日本ではいまだにfaxを使ってるの?」

「なん()よん。まだまだ現役よ」日進は脱線した話を戻す。「聖典は神じゃのうて人間さまが書いたもんじゃろ。聖書もコーランも仏典も、()うたら神さん仏さんを材にとって人間が好き勝手に書いた同人誌なんよね。人気の出んかったやつは淘汰されるけぇ、出来のええやつだけが残ったんじゃろうけど」

 

 そうしてユダヤ教クラスタに支持されて人気の出た、創世記やヨブ記といった“出来のいい同人誌”は、傑作選集として一冊の本にまとめられることになった。こうして編纂された“合同誌”が、旧約聖書である。

 

「で、ヘブライ人は聖典云う名の同人誌でバアルをバッシングしまくったんじゃ」

 

 おせち料理に箸を伸ばして日進が続けて、

 

「列王記の、Hébreux(ヘブライ)の預言者Élie(エリヤ)と王妃Jézabel(イザベル)との対決ね」

 

 リシュリューが先取りした。

 

 イザベルはヘブライ王妃だが、ヘブライ人ではない。バアルを信仰するカナンの王族の出自である。

 

 敵であるはずの彼女をヘブライ王アハブが(きさき)としたのは、融和政策の一環だったのだろう。しかし、イザベルはヘブライ人には異教であるバアル信仰を宮廷に堂々もちこみ、ユダヤ教徒たちにも崇拝を強要した。列王記ではイザベルは「欲しいものを他人が持っていれば奸計を弄し亡き者にしてでも奪い取る」という稀代の悪女として描かれている。

 

 だがイザベルは、のちにヘブライ王となるエヒウの起こしたクーデターで権力を失い、廷臣(ていしん)らによって宮殿の窓から投げ落とされた。血が壁に跳ね返り、そばにいた馬にも飛び散った。驚いた馬が虫の息のイザベルの頭を踏みつけた。さらには彼女の死体は犬にむさぼり食われた。これらの壮絶な最期は、預言者エリヤが予告していたとおりだった。

 

「悪趣味な殺しかたじゃろ? 列王記じゃあ、イザベルはバアルそのものと見てええ。それをエリヤやエヒウといったヘブライ人が成敗する云うんはじゃな、“自分を投影させた主人公が、作者の嫌いな人物やキャラクターを作者の代わりにボコボコに痛めつける”云うタイプの同人誌と、やりよることはおんなじなんよ。そういうのを秋雲(あきぐも)はアンチ・ヘイト云うんじゃて云うとったけどな。ほんな感じで、ヘブライ人は“われの神よりわしらの神のほうが強いんやでー”とばかりに、ペリシテ人の信仰しとったバアルやほかの土着の神を、ボコボコにする同人誌を書きまくっての、嫌がらせしたんじゃ。それが旧約聖書の大筋じゃの」

 

 ペリシテ人にはバアルを讃える儀式として家畜の生け贄を捧げる習慣があった。生け贄には蠅がたかる。このことから、尊称であるバアル・ゼブルを、発音のよく似たバアル・ゼブブともじって揶揄した。バアル・ゼブブとは「蠅の王」という意味である。

 

「名前で大喜利してバカにする云うんは、古今東西で変わらんのじゃねぇ」

 

 日進が呵々と大笑してからおせちを味わう。

 

 そもそもヘブライ人がユダヤ教を興したのにも理由がある。ヘブライ人はもともとカナンに住んでいたが飢饉により放浪のすえエジプトに移住した。だがエジプトでヘブライ人が増えすぎたため、エジプト王が脅威に感じ、奴隷として酷使するようになった。

 

 ヘブライ人指導者モーセに解放されたヘブライ人たちは、シナイ半島経由で40年かけてさまよいつつもカナンに戻る。このときにカナンに定住していたペリシテ人と衝突したのである。

 

 やがてカナンを征したヘブライ人は、悲願だったイスラエル王国を建国する。

 

 しかし内乱から王国は南北に分裂。

 

 北はアッシリアに滅ぼされた。

 

 南はエジプトに破れ、エジプトの支配下に入った。ところがそのエジプトが新バビロニアに敗北したことから、南も宗主国と同様の運命をたどる。南のヘブライ人は新バビロニアの虜囚となった。バビロン捕囚である。

 

 さらに新バビロニアはペルシアとの戦いで滅亡した。ペルシア王に解放されたヘブライ人は、バビロンからカナンへ帰還し自治国を復興する。だがその国はローマ帝国の属国でしかなかった。

 

 このように放浪と迫害を2000年近くも強いられ、国すらも持てなかったヘブライ人の救いは、「いつか神さまが降臨して、自分たちをいじめた連中をこてんぱんに罰してくださる」というメシア論だった。ヘブライ人にとって神とは2000年も艱難辛苦(かんなんしんく)に耐えてきた自分たちだけを救うものと信じられてきた。何百世代も自分たちを迫害してきた諸方の民族が信じる神が、もし本当の神だったりしたら、あまりに報われない。神と認めるわけにはいかない。だから異教の神と異教徒をはげしく憎悪したのである。

 

 そんなヘブライ人のなかで、まったく空気を読まないものがひとりいた。ユダヤ教には異教徒の血に触れてはならないという戒律がある。だからユダヤ教徒は異教徒が道端でけがをして助けを求めていても無視して通りすぎる。だがその男は異教徒だろうがかまわず手当てをしてやった。しかめ面をする同胞たちに男は言った。「困っている者を助けるのに理由が必要だろうか」

 

 その男は、名をナザレのイエスと言った。のちのイエス・キリストその人である。

 

 イエスの影響力は絶大で、ついにはユダヤ教から新たに分派するにまで至った。キリスト教の成立である。だがイエスの死後、その神格化が際限なく進められ、信者が増大して組織として急成長するにつれて、しだいに権力拡大のためだけにキリスト教を利用する魍魎(もうりょう)跋扈(ばっこ)しはじめる。信者が増えれば上納金も稼げる。どんどんキリスト教を布教して営業成績を上げなければならない。

 

 新興宗教にすぎなかった時代のキリスト教が勢力を拡大するにあたって最大の障害だったものは、親玉のユダヤ教にとってもそうであったように、各地で信仰されていた土着の神々である。キリスト以外の神を崇められていてはキリストを布教できない。信者が増やせない。

 

「そこでキリスト教はぁの、それら土着の神を、“あんたらが信仰してる神な、それ悪魔やで”とか、“悪魔崇めるとか情報弱者か。神はキリストだけじゃから”、云うて、煽りまくって貶めた。反感()うてもええけぇとにかく過激な煽り文句で注目を集めようとしたんじゃ」

「いまでいう炎上商法ね」

「悪名は無名に勝る云うことじゃね」日進は(かずのこ)をほおばる。「動画サイトであるやん、くそ邪魔な広告。あれな、“この広告の商品だけは絶対買わん”て言いよるやつ多いけどな、そやって名前知ってもろうて、覚えてもろとる時点で、広告出しとる企業の術中にハマッとんよな。名前すら知られとらんいうんがいちばんまずいけぇ。広告ではがえぇな(ムカつくなと)思た悪感情は、わりと時間が経ったら忘れるもんなんじゃ。ほじゃけど名前は覚えたまんま。ほんでから店先でその商品を見たら、名前知っとるけぇ手ぇが出やすなるんよな」

 

 同様に、神を悪魔と貶めるという禁忌は強い反発を呼んだが、宣伝効果もばつぐんで、キリスト教の名は急速に広まった。

 

 バアルも悪魔に堕とされた神の一柱だった。新約聖書には、悪霊に憑依された人を奇跡の力で祓ってみせたイエスに、律法者(もちろんユダヤ教徒)がこう難癖をつけているシーンがある。「これはまったく悪魔のかしらベルゼブブの力を借りているのだ」(=“悪魔と手を組んでマッチポンプやってるんだろう?”)

 

 ユダヤ教では「蠅の王」と蔑称をつけられながらも、あくまで異教の神であったのが、キリスト教では、バアル・ゼブブがベルゼブブに訛化するとともに完全に悪魔という設定になっていた。当然のことながらベルゼブブは蠅の姿で描かれる。輝かしい活躍で民を守ってきたバアルが蠅の悪魔に貶められたのである。

 

「そがして一神教はほかの神さんを排斥するわけじゃけど、日本はよその神さんも神さんとして、のべつまくなしに受け入れてしもうてね。おまけに土着の神とごちゃ混ぜにして新しい神にする。カレーはうまい、豚カツもうまい、ほんじゃその二つ合わせりゃもっとうまい()うてカツカレーにするみたいなもんじゃ」

 

 他教の神を折衷して合体させるせいで、もともとその神に付与されていた教訓が変質したり忘れ去られてしまうこともある。サンタクロースはその一例だ。発祥地のフィンランドではサンタクロースは煙突から家に入ってくるとされている。フィンランドの長く厳しい冬をしのぐためには暖炉が不可欠である。そこで冬がくる前に子供に暖炉の煙突の掃除を手伝わせる方便として、「煙突をきれいにしておかないとサンタクロースがプレゼントを持って入ってくることができない」と教えた。子供は家の仕事を手伝う報酬としてプレゼントを獲得できたのである。煙突から入ってくるサンタクロースとは、暖炉の使い方を子々孫々に伝えていくための工夫だった。それが暖炉も煙突もない日本では無条件でプレゼントをもらえる行事となった。

 

「日本じゃあ、自然にはもうありとあらゆる種類の神さんが住んどって、うちら人間は後からきて間借りさせてもろとるだけ()う多神教じゃけぇ、よその神さんも神さんとして吸収する下地があったんよ。ただし自分らの手に負えん存在をなんでもかんでも神って呼ぶけぇ、一神教の神さんと違って、必ずしも感謝したり拝んだりするともかぎらん。疫病神みたいに厄介なやつもおるし、いつもは()ぇ神さんもなんかのきっかけで機嫌損ねて天変地異起こしたりしなさるんじゃ。日本の神さんはgodじゃのうてdeityて訳すべきじゃの」

 

 要は節操がないのだ、と最初に示した結論を日進はふたたび持ち出した。

 

「じゃけぇクリスマス祝った一週間後に初詣で神道の神さんを拝みに行ったりするんじゃ。むしろ宗教が生活に密着しすぎとって、宗教じゃ云うて認識しにくんかもしれんね。自分の着とる服が自分では視界に入らんみたぁに。お屠蘇もおせちも、“いただきます”も宗教じゃ。けど宗教じゃて意識することはほとんどないね。初詣に行っとる連中の大半も、信仰心とかじゃのうて、おめかしして出かけるんが好きなだけじゃろ。うちら艦娘は半分命乞いみたいなとこあるけんど」

 

 冗談めかす日進にリシュリューは笑みをもらしてから、

 

「じゃあ、amiralもハツモーデには行けるのね?」

 

 と確認した。信仰上の理由でという意味かと日進が訊くとリシュリューは顎を引いた。日進は「もちろん」と返した。「日本じゃあ、新年の初でぇとに初詣するもんもおるな。二人(ふたぁり)で行ってきんさい」とも付け加えた。

 

 リシュリューは氷肌玉骨(ひょうきぎょっこつ)の美貌に悔しさをにじませた。

 

「Amiralとつながったまま年を越したけれど、日本の新年にはまだそんなévénement(イベント)があっただなんて」

「しれっとセクハラ混ぜるんやめぇや」

「さっそくキモノを手配しないと」

 

  ◇

 

 私室でノートPC相手に仕事をしていた提督をおとなう者があった。迎えた提督は、御来迎(ごらいごう)を目の当たりにしたのかと思った。早春に燃える日の出のような明るい茜の花が繚乱と咲き誇る、上等な振り袖姿のリシュリューがそこにいたからである。単なる和装のお仕着せではなく、着物とおなじ柄の水兵帽を被り、黒革の手袋、足元はピンヒールのブーツを合わせている。ブラックミンクのストールが華やかさをプラスしながらも、全体の印象を引き締める効果を発揮していた。

 

 着物という和のファッションにリシュリュー独自のアレンジが加えられ、それでいて奇抜すぎることもないのは、彼女の天成の佳容と、引き算を絶妙にわきまえる傑出したセンスのたまものであろう。

 

「きみの和服姿が見られて、わたしの両の目がよろこんでいるのがわかる。きょうは鎮守府でパリコレでもやるのか?」

 

 リシュリューは憤然と、黒手袋に包まれた両手を腰に当てた。

 

「ハツモーデよ。Richelieuをescorte(エスコート)しなさい」

「わたしは構わないが、きみは宗教的に大丈夫?」

「神は寛大よ。あなたとのrendez-vous(デート)なら許してくださるわ」

 

 リシュリューは微笑みながら肩をすくめてみせた。

 

「素晴らしい神さまだ。日本には女性に嫉妬する神さまが多いのだが」

「神が多いっていうのは、Richelieuには違和感があるけど新鮮ね」

「まあ、日本の神さまは、godというより……」

「Deity?」

「そういうこと」

 

 提督は手早く外出の用意をした。とはいえ外出時も私服ではなく制服の着用が義務付けられているので大した手間はない。せいぜい上着をまとって制帽をかぶるくらいだ。

 

「自分を表現できなくて嫌じゃない? 制服しか認められないなんて」

「これさえ着ておけばいいっていうのは、わたしみたいなセンスない人間にはありがたい。あと軍服はかっこいい」

「Richelieuがあなたに合う服を見繕ってあげましょうか」

「わたしの?」

「男も女も基本は変わらないわ」

 

 任せて、とリシュリューは器用に片目を(つむ)ってみせた。提督は苦笑して右腕を差し出した。リシュリューが腕を絡ませる。

 

 肩を寄せ合いながら歩いて鎮守府の門を出たあたりで、提督が気付く。

 

「わたしをダシにしてショッピングを楽しみたいだけでは……」

 

 リシュリューは音速で顔を逸らした。

 

 

 最寄りの神社への道中で参詣から戻る艦娘たちに冷やかされたりもしながら、手袋や帽子を外して鳥居の前で一礼してくぐり、手水舎(ちょうずや)でリシュリューに作法を教えながら手と口を清め、おおぜいの参拝客で賑わう参道の端を通って拝殿前の列に加わる。先客らの、硬貨や紙幣を賽銭箱に投げ込んで鈴を鳴らし、手を叩いて拝礼するという一連の所作を、リシュリューが興味津々に観察する。

 

「お金を入れるのは寄付かなにかかしら」

「宗教が集金する理由がたいていそうであるように、あれは神社のためじゃなくて自分のためという建前なんだ」

 

 リシュリューが涼やかな目許とぷっくりした唇に笑みを含ませたまま提督に説明の続きをうながす。

 

「むかしの日本では貝を通貨に使ってた。買う、()る、貸す、賭ける、財産など、お金関係の漢字に貝の字が入っているのはその名残でね」

 

 指で空書しながら解説する。

 

「その貝というのが、その、なんだ、女性のアレに似てたわけだ」

 

 リシュリューがふんふんと頷いてみせる。フランス語でムール貝を意味するmouleは女性器の隠語でもある。

 

「きみを前にして言いにくいことだが、中世以降の神道では女性、とくに月経血をケガレとして嫌っていてね」

「どこの国の宗教でもそんなものよ、気にしないで。経血が汚いことは確かだもの」

「日本では女性の天皇がいらっしゃったり、そもそも最高神が女神だったりするから、むしろ神道は女性を神として敬っていたんだ。お神酒も巫女の口噛み酒だった。相撲の土俵が女人禁制なのは力士が神事に集中するためだった。逆に女相撲なら男子禁制になる。山の女人禁制も、それだけ山が危険な場所だったので、女性を守るために立ち入り禁止にしたという事情がある。なにより人は女性から生まれる。古代日本の宗教観では“この世”と“あの世”のふたつしかなかった。この世で死んだ人間はあの世に逝く。あの世とは神のいる国でもある。そして死後の世界とは、生まれる前の世界とおなじ。すなわち人が生まれてくる女性器は神の国であるあの世とつながっていると尊ばれた」

「あなたが以前言っていたGustave Courbet(ギュスターヴ・クールベ)の『世界の起源』とおなじ考えね」

「そのとおり。そういうわけで古代の神道では経血はケガレどころか神聖なものとされていた。鳥居が赤いのも、生命の源泉たる経血の色である朱を使うことでその霊的な力にあやかり、魔除けや、災厄を防ぐ意味合いが込められていたと考えられる」

 

 リシュリューはうしろを振り返った。言われてみると丹塗(にぬ)りの門は女性器を模しているようにも見える。額束がクリトリスに当たるのだろうか。参道は産道にも通じよう。

 

「6世紀に仏教が公伝して、仏もまたdeity(神さま)の一種として、神道はその世界観ごと吸収した。輸入された当時の仏教はヒンドゥー教を巻き込んだりしてすでに変質していて、女性は生まれながらにして罪深く汚れているものと定義していた。9世紀後半には、家は長男が継いでいくもの、女性は家に嫁いで跡継ぎを産むものとする家父長制を貴族社会が定着させる過程で、女性の社会的地位を低下させるために仏教が利用された。

 同時に人口が増えはじめ、衛生面の悪化から疫病が大きな問題になってくる。清潔にしていないと病気になりやすいということは当時の人々も経験でなんとなく理解していた。薬師如来の功徳が書かれた薬師瑠璃光如来本願功徳経にも“つべこべ言わずに手を洗え”とある。さっき手と口をゆすいだだろう? あれは手洗いとうがいを庶民に習慣づける狙いがあったものと思われる」

 

 列を進みながら語る提督に、リシュリューが手水舎で洗った手を見つめる。

 

「ケガレとは“気枯れ”、つまり憂鬱で落ち込んでいる状態を指すが、時代とともに物理的な汚れとごっちゃにされ、神のいる神社、つまり人混みのできるところからは排除すべきものと考えられるようになった。ここにきて、男性優位社会の確立を画策した権力者による女性へのネガティブキャンペーンと、ケガレを嫌う風潮が絡み合い、経血は汚らわしいものだという考えに発展した、らしい。そういういい加減ないきさつがあるので、日本では初潮をお赤飯でお祝いしておきながら経血はケガレとして神さまが嫌う、というちぐはぐなことになっている。後付け設定の弊害だね」

「複雑な事情があるのね」

「経血がケガレなら、それを出す女性器もまたケガレの源という論理になる。で、お金の貝は女性器に似ている。だからお金にもケガレがついているとされた。それを神社に納めることでケガレを祓うということにしたんだ」

 

 提督とリシュリューの前に並んでいた参拝客が畳んだ千円札を賽銭箱に投げた。

 

 それを見ていたリシュリューが、

 

「オサイセンはいくらが相場なの?」

 

 と訊ねた。提督は論理を整理する。

 

「女性器に似ている貝を貨幣に用いていたから、お金にはケガレがあるとされた。だから逆にいえば女性器に似た貨幣でないとお賽銭の意味がないことになる。貝に代わって金、銀、銅、鉄、真鍮などの金属を統一された規格で鋳造したコインが通貨となってからも、貝こそが貨幣の源流という伝統は守られていてね。江戸幕府が発行した寛永通宝(かんえいつうほう)は丸いコインの中心に穴が開けられていた。この穴は貝の口をモチーフにしていると思われる」

 

「知ってるわ。ゼニガタヘージでしょ」

 

 どこからそんな情報を仕入れたのだろう。微笑ましさがこぼれる。

 

「貝が貨幣のルーツという思想は現代にも引き継がれてる。だから5円玉と50円玉には穴が開いているんだ」

 

 リシュリューがすこし考えて、

 

「じゃあ、紙幣なんかじゃなくて、5円玉か50円玉でいいのね」

「むかしそれをテレビでぶっちゃけた神主さんは、全国の神主さんから総スカン食らったらしいけど、お賽銭の意味を厳密にとらえるなら、そうなるかな」

 

 順番が回ってくる。神前に進んだ提督が「まずわたしがやるから、見ててごらん」と、一礼して賽銭を賽銭箱にそっと入れる。垂れた縄を揺らして鈴を派手に鳴らし、二拝ののち拍手(かしわで)を二回打ち、無言で祈って、また一礼して横に移動する。「どうぞ」

 

 リシュリューは苦笑をにじませた。

 

「けっこうややこしいのね」

「むずかしかったら、お賽銭を入れて鈴を鳴らして、手を叩いてお祈りするだけでもいい。はるばる海の向こうから来たお客さんに拝んでもらえるだけでも神さまは喜ぶ」

 

 リシュリューは提督の言ったとおりにした。金髪碧眼の美女が着物姿で合掌して祈念しているというのも、提督にはなかなか不思議な光景だった。祈っているとき、リシュリューが片目を開けて提督に視線をよこして、

 

「なにを祈ればいいの?」

 

 と訊いてきたので、

 

「なんでも。去年一年間守ってくれたことの感謝とか、ことしもよろしくお願いしますとか」

 

 と答えた。リシュリューはふたたび瞑目して祈った。

 

 顔を上げ、瞳を開け、最後に頭を下げてから、ブーツの足音も高らかに提督のもとへ歩み寄る。

 

「いちおうこれで参拝は終わり」

「まだ手袋をしてはいけないの?」

「境内は神さまの家だから、出るまではね」

 

 じゃあ、とリシュリューが提督の手をつかむ。

 

「あなたの手で温めて」

 

 提督が手を開く。その指に、リシュリューが自身の指を絡ませる。互いの手を握って歩く。

 

「せっかくだから、おみくじ引いていこうか」提督が社務所を示す。「ことし一年の運勢を占うものだが」

「面白そうね」

 

 列に並んでそれぞれおみくじを買う。リシュリューが紙を開封する。

 

 

 凶

 願望・遅くとも叶う

 失物・辛抱強く探せ 遅ければなし

 相場・無理すると損

 造作・必要なところだけを

 待人・来ず

 学問・安心して勉学すべし

 転居・さわがぬ方がよし

 旅行・吉日にすべし 盗難に注意

 恋愛・いい人 しかし優柔不断

 争事・気を長くもて

 

 

 ……などと印刷されている。

 

「当たり障りのないことばかりね」

「占いはバーナム効果でなければならないからね」

「これはどういう意味?」

 

 リシュリューがおみくじを半分に折って上半分を見せる。

 

「凶か。いいじゃないか」

「上のほう?」

「いちばん下」

 

 リシュリューが柳の眉根を寄せる。

 

「どこがいいのよ」

「おみくじの凶はたしかにいちばん下の運勢だが、これからよくなるという意味でもあるんだ。底だからあとは上がるだけってこと」

 

 リシュリューは「ふん」と鼻を鳴らした。

 

「いま以上に幸せになんてなれるのかしら」

「努力しよう。ちなみに、気に入らないおみくじは、ほら」無数のおみくじを枝に結ばれて、純白の桜が満開に咲いたようになっている木を指さす。「ああしておけば、まあ、なかったことにできるといえば語弊があるが、ネガティブな運勢を持ち帰らずにすむ」

 

 感心したリシュリューの顔が戻ってくる。

 

「あなたのは?」

 

 提督は気安くおみくじを差し出す。リシュリューが確かめるところはひとつである。

 

 

 恋愛・未来に出会いあり

 

 

「結んで」

 

 リシュリューはおみくじをひったくった。その速度はほとんど神速といってよかった。運勢のところしか興味がなくて見ていない提督は困惑するばかりである。

 

「あの、それ大吉……」

「いいから、Richelieuと一緒に結ぶの」

 

 言い出したら聞かない。リシュリューに急かされ、監視されながら、提督は不承不承、人生初の大吉のおみくじを枝にくくりつけた。

 

 鳥居を出て、振り返ってまた頭をさげる。

 

「日本も意外と敬虔なのね」

 

 提督のその姿を見てリシュリューが言った。提督は制帽をかぶる。

 

「宗教に関心があるかないかで言えば、多分、ない。神社での作法も信仰心というより周りの人に礼儀知らずと笑われたくないからやってる部分が大きい。だいいち初詣は明治に入ってから始まった、比較的新しい習慣だしね。現代日本人で宗教といえば壺売りつけるかサリン撒くか自爆テロやるかくらいしかイメージないと思う。宗教を信じている奴はなにするかわからないから危ない、と思っている人がけっこう多いんじゃないかな」

「Richelieuからすれば、無宗教だと倫理がないから、なにするかわからなくて怖いわ」

 

 べつの艦娘たちが初詣に来たらしく、提督やリシュリューにあいさつしていく。彼女たちもたたずまいを直して鳥居に一礼してからくぐる。

 

「だが、きみはキリスト教の国の女性だけど、べつに普通だ」

「Richelieuも、宗教を持たない人は危ないと思ってたけど、あなたは普通よね」

 

 互いに知らないことを、目の前のひとは教えてくれる。

 

「あとは、寄り道せずに帰って、初詣は終わり。ご利益を家まで持って帰らないといけないからね。わたしたちの場合は鎮守府だが」

 

 早口で説明する提督に、手袋をはめようとしていたリシュリューが止まる。

 

「なら、正確には、帰るまでがハツモーデね」

「帰るまでが遠足、帰るまでが作戦だね」

「そういうことなら、鎮守府までは手袋をしてはいけないってことよね、Mon amiral(わたしの提督).」

 

 リシュリューが素手の左手をさまよわせる。提督も素手の右手で受けとる。共有された体温は手袋より暖かい。

 

「Amiralは、なにをお願いしたの」

 

 連れ歩いて帰路に就きながら、自分の手汗でリシュリューの手を汚しやしないかと気が気でなくてなにも話題を振ることができずにいた提督に、彼女のほうから話しかけてきた。

 

「お願い?」

「ほら、オサイセンのあとの」

 

 提督は笑いをこぼす。

 

「わたしは提督だからね。艦娘たち皆の息災だよ」

「あら。Richelieuのこともひとくくりに?」

「お願い事をしすぎると罰があたるかもしれないし」

「妬いちゃうわ」

 

 リシュリューのほうを向くと、澄んだ蒼空の瞳と目が合った。提督はあわてて前へ向き直った。一瞬だけ垣間見たリシュリューの美姫の顔は、見間違いでないなら、わざと怒ってみせているように思われた。

 

「じゃあ、きみはなにをお願いしたんだ」

 

 苦し紛れに水を向けてみると、

 

「Amiralがそうなら、Richelieuは教えてあげない」

 

 提督は白旗をあげるしかなかった。

 

 提督と手を繋いで帰りながら、リシュリューの胸中には、ただひとつの想いが渦を巻いていた。その想念とは、こうであった。

 

 ――艦娘みんなのことを祈っていたなんて言われたら、Richelieuが“ことしもあなたのそばに居たい”ってお願いしていたなんて、恥ずかしくて言えないじゃない。




La vie est un sommeil,l’amour en est le rêve,et vous aurez vécu,si vous avez aimé.
(だれかを愛したとき、あなたは本当に人生を生きたことになる)

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