愛しのリシュリュー   作:蚕豆かいこ

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L'amour n'est pas aveugle. Mais malheureusement, Les choses stupides sont souvent.

「あなたがここまでわからず屋だったとは想像もしてなかったわ!」

「そっちこそ! きみがこれほど聞き分けのない女性だとは思わなかった!」

 

 四隣(しりん)寂寞(せきばく)を破るその怒声は、リシュリューと提督のものに相違なかった。

 執務室へ書類一切を届けに来ていましもノックしようとしていた秘書艦初月は、射すくめられたように手をぎくりと硬直させた。扉の向こうに耳を澄ませてみる。

 

「だいたいあなたはRichelieuの話をこれっぽっちも聞いてくれない! あなたの部屋ね、艦のオモチャどうにかしなさいって去年から言ってるのに、いつになったら片付けるの。Richelieu以外の艦を飾るなんて!」

「きみこそ、クロゼットに服が入りきらなくて、クリーニング屋に預けっぱなしだそうじゃないか。クリーニング屋はきみのワードローブじゃないぞ」

「預けておきたくて預けてるんじゃないわ、着たいときに手元にない不便があなたにわかるの!」

「ならわたしもどこかに貸倉庫でも借りて、そこへ模型を預けようか」

「そんなことするくらいなら要らないものから処分すればいいでしょ!」

「その言葉をそっくり返すよ!」

 

 初月がわざとドアを派手に開けて室に入っても、なお気づかないまま、日仏の男女は互いに指を突きつけて怒鳴りあうばかりである。

 

「下関戦争の続きでもやってるのか? そうでないなら、きょうの開戦理由は?」

 

 呆れた初月は応接用のソファで我関せずとワインを楽しんでいるコマンダン・テストに小声で質した。

 

「知らないほうがいいです。知っているだけでも知性への冒涜で罪になりますよ。ですが、わたくしは親切ですので、遺憾ながらハツヅキの共犯者になってさしあげます」

「主犯と共犯が違ってないか?」

「提督がRichelieuに、“きょうもきれいだ。愛している”といつものようにおっしゃったのです」

「あいつにしては殊勝な心がけだ。で?」

「Richelieuが、“Richelieuも愛してるわ”と返しました」

「火災報知器を切っておくべきだな。熱すぎて誤作動を起こすかもしれない」

「それに提督が“いいや、わたしのほうが愛している”と反論いたしました」

「反論しなきゃいけないことか?」

「するとRichelieuが、“なにを言ってるの。Richelieuのほうがもっと愛してるわ”と応じました」

「リシュリューの声真似がうまいな」

「提督がさらに“わたしの愛はそれよりも大きい”と声を荒げはじめると、Richelieuさんが……」

「“わたしのほうがもっと好きよ!”とエスカレートしていって、ああなった?」

「ああなった。そのとおりです」

 

 初月が予想してみせると水上機母艦娘は大きく頷いた。

 初月は心底見下げ果てたという顔をして、ソファに腰かけたまま上体だけよじって、提督とリシュリューへ馬鹿馬鹿しそうな視線を投げかけた。

 

「Amiralがそんなだから、Richelieuがいちいち小言を言わないといけなくなるんでしょ」

「こっちの台詞だ。買うときに収納する場所のことを考えたりしないのか?」

「服っていうのは、着るために買うの。着てないときのことを心配して買わないなんて本末転倒よ!」

「本末転倒が泣いているぞ!」

 

 初月は「泣いているのは納税者だぞ」とため息をついて、

 

「喧嘩のあとは格別だというが」

「喧嘩がおふたりの前戯になっていると?」

「きょうは金曜だしな」

 

 コマンダン・テストも得心した。

 直後、初月の跳ねているその頭髪が自身の動きに連動して小さく上下に揺れた。初月と付き合いの長いものが見れば、それは彼女がなにかを――多くの場合はろくでもないことを――思いついたとき、無意識に表出させるしぐさであることがわかっただろう。

 果たして初月は、耳打ちするようにして、

 

「提督がリシュリューの部屋に泊まるか、リシュリューが提督の部屋に行くか、賭けてみないか。負けたら間宮(まみや)奢りで」

 

 と持ちかけた。コマンダン・テストも顔を輝かせて乗った。

 

「言い出しっぺだが僕からでいいか? 僕は、“提督がリシュリューの部屋に”に賭ける」

「わたくしも、“提督がRichelieuのお部屋に”だと思います」

 

 ベットしてから両者は頭を抱えた。ふたりともが一方に賭けてしまっては賭けが成立しない。

 そこへ、英空母艦娘のアークロイヤルが形ばかり扉打して「Admiral, 最近特別なズイウンが市場を賑わせているようだが、出来のいいSwordfishの模型があるならぜひお教えを」と入って来るなり、耳も貸さずいまだ終息の気配を見せない金切り声の泥仕合に、

 

「なんだ、下関戦争の続きでもしているのか?」

 

 と、初月とコマンダン・テストに犬の喧嘩を見るような目を向けた。

 ここで初月の元より鋭い目に怜悧(れいり)な光が閃き、コマンダン・テストはそれに気づかぬふりをするため、ワイングラスをわざと高々とあおった。

 

「アークロイヤル、ひとつ僕らと賭けをしないか」

「わたしを世界に冠たる大英帝国の艦娘と知っての誘いか。いいだろう」

 

 初月に英空母艦娘は不敵な笑みを浮かべて応じた。賭けの内容だけを聞かされて、経緯を知らないアークロイヤルは「わかりきったことだろう?」と、むきだしの感情をぶつけ合う提督、リシュリューの両人へ顎をしゃくる。

 

「あんな状態で、きょう一暴れしようかなどとなるわけがない。わたしは“どちらの部屋にも行かない”に賭ける」

 

 初月とコマンダン・テストは勝利を確信しながらも、歓喜が表情に出ないよう、これまでで最大となる自制心を総動員し、かえって無表情になりすぎて、なにか裏があるのではと怪しまれそうになった。

 この秋月型にせよ、仏水上機母艦娘にせよ、すでに約束されたも同然の甘味に思いを馳せてにやつきそうになるのをこらえるのに必死で、平静をよそおう余力がなかったのである。

 さあ、なにを注文してやろう。普段は懐事情ゆえ頼めないあれやこれを心置きなく味わう夢想に今から酔いしれる。なんといっても、他人におごってもらったスイーツは2割増しで美味いのだ。

 

  ◇

 

「み、水……」

 

 仰臥(ぎょうが)したまま提督は首をめぐらせ、枕元にある水差しに手を伸ばそうとした。

 

 その手首を上から掴まれ布団に押しつけられる。顔を正面に戻す。しどけなく浴衣を引っ掛けて、またがるようにして提督と繋がっているリシュリューの嗜虐的な笑みが待っていた。えてして女の裸身は闇夜でもほんのりと燐光を発しているかのように輝いて見える。彼女の彫りの深い顔に浮かんでは流れる汗の珠、艶めいた唇を舌なめずりする所作、人間が生まれて最初に口をつけるカップに透ける静脈まで、提督にはありありと見えていた。

 

「水が飲みたいの……?」

 

 自由を奪われ身動きのとれない提督へ残酷に微笑みかける。汗だくの提督は五体が渇ききっていまや絞られたぞうきんそのものだった。

 閉めきった畳敷きの和室の空気には、ふたりの(はだえ)から放散された熱気が闇と一緒に充満していて、吸うたびに提督の肉はゆるみ、筋は溶け、それでいて腹の下から底知れぬ血が駘蕩として湧いた。

 リシュリューが腕を伸ばす。腋の下から生ぬるい、濃くも郁々(いくいく)たる薫香(くんこう)が天下ってきて、提督の脳髄を甘く痺れさせる。

 戻った手は水差しを持っていた。提督に艶かしい視線をもういちどくれてから、リシュリューは注ぎ口からじかにあおる。零れる水が白い喉を淫らに濡らす。

 戸惑っていると、リシュリューが覆い被さってくる。重ねられた唇から滑り込んできた舌が合図する。降伏勧告だ。開城するように受け入れた瞬間、生温かい水が流し込まれる。

 思わぬ水攻めに提督は溺れまいと必死にむさぼったが、リシュリューの体温が宿った水はまた、天上の甘露のようでもあった。飲み込むたびに臓腑から彼女に染められていく気がした。指先に至るまでがリシュリューで満たされていった。

 すべて吐き出し終えた彼女が唇を離す。名残を惜しむように唾液の糸が引かれる。わずかに気管に入ってむせる提督を見下ろして目を細める。

 

「おいしかった?」

 

 訊ねたあと、内側からくすぐられる感覚にリシュリューが、あは、と笑う。

 

「また大きくなった。いままででいちばん大きいかも」

 

 そのあとは、言葉も不要だった。ふたりは言語よりも原始的で、よほど直截的な交歓に、混じりあった汗と体液が敷布団にしみわたるまでふけった。リシュリューがどうしてほしいのか提督には手に取るようにわかった。リシュリューもまた、提督の触ってほしいと願うところを口にせずとも的確にもてあそんだ。提督の意識は五彩の雲を踏んで、はるか浄土の空まで踊躍(ゆやく)した。

 ひととおり終わったあと、すっかり夜も更けていたことと、それまで休むことなく抱擁していたことにはじめて思いが至った。

 

「お風呂はどうする。リシュリュー、先に入りたいならどうぞ」

「一緒に入りましょうよ。コンヨクっていうんでしょ」

「個室の風呂で混浴とは言わないが」

 

 鎮守府から日帰りしようと思えばできる距離にあるこの温泉宿のぬるい鉱泉でじゃれあいながら汗を流したあと、また女がしなだれかかって求めてきて、ふたりはいつの間にか夢うつつのなかに迷いこみ、窓からの澄明(ちょうめい)な朝陽でようよう現世(うつしよ)へ引き戻された。

 

「もう1泊する?」

 

 着替えて部屋を出る準備をしていると、まだ乱れた浴衣姿のままのリシュリューがささやくようにいった。その誘惑が(しとね)のなかだったなら危うく応じていたかもしれなかった。だがさすがにきょうまでは空けられない。

 

「冗談よ」

 

 提督が答える前に、リシュリューは身支度をはじめた。

 

  ◇

 

 鎮守府へ戻ったのが昼過ぎで、中途半端な時刻だったので、甘いものでもと、提督は久しぶりにひとりで間宮へ寄った。

 ほら、胃袋が意地でも空きスペースをつくるであろう芳香がただよってくる。

 店内では先客のアークロイヤルが上機嫌に大粒のイチゴを口に運んでいるところだった。

 彼女のテーブルには、蒸し焼きにしたふわふわのパンケーキを中心に、薔薇の花のカットを施したいくつものイチゴが花畑のように盛りつけられ、新雪色の練乳と生クリーム、深紅のイチゴソースの組み合わせが目にも鮮やかな皿。

 もう一枚の皿には、軽く揚げて粉砂糖をふりかけたバンズのあいだにアイスクリームとイチゴを挟んで、ブルーベリーやラズベリーがちりばめられ、おまけにチョコレートソースが格子状にかけられてある。

 間宮でもイチゴのシーズンにしか食べられない限定品の二品が、自分を味わえと(けん)を競っていた。

 

「こちらHQ。ランゲルハンス島守備隊、応答せよ。状況を報せ」

 

 手で口を覆った状態で威厳ある声をよそおうと、アークロイヤルが、ボブカットにしてあるストロベリーブロンドをなびかせて振り返る。提督だと知ると生クリームがそばについた口の端をわずかに吊り上げる。

 

「おかえりなさいAdmiral. あなたも一口どう? Admiralのおかげみたいなものだから」

 

 提督にはなんのことかさっぱりである。

 

「ありがとう。だけど」自分の口角を指差してさりげなくクリームのことを教えながら、「女性と甘いものをシェアしたと知れるとリシュリューに怒られる」

「具体的には?」

「良くて鉄拳。歯を食いしばれと言っといて腹をやってくるタイプの」

「悪いと?」

「アッパーで空中に打ち上げられたのち、そのまま着地も許されず拳の連打を食らいつづける」

 

 アークロイヤルが苦笑する。「あなたも冗談が上手くなった」しかし提督は沈痛な面持ちで、ここではないどこかを見つめていた。顔色も悪い。アークロイヤルの匙が止まる。

 

「まさか、本当なのか……?」

 

 沈黙のまま緊張が極限まで高まる。

 ふいに、提督が表情筋を弛緩させた。

 

「冗談だ」

 

 アークロイヤルもわがことのように胸を撫で下ろす。

 

「……何日か徹底的に無視されるうえ、ベッドの上でのわたしの醜態を鎮守府中に言いふらされるくらいなものだよ」

「Oh……」

 

 提督の注文を間宮みずからが運んでくる。「ありがとう」

 

「しかし、そんな女とよく付き合っていられるものだな」

 

 提督が食べているとアークロイヤルが不思議だという顔で漏らした。

 

「惚れた弱味だろうね」

「外交的敗北か」

「目の前の小さな勝利にこだわることなく、中長期的な観点で可能なかぎり最大限の利益をつかみとるための戦略的判断と言ってほしい」

「それ、うまくいった試しが歴史上ひとつでもあるの?」

「ないならわたしが最初のひとりになる」

「なれるとでも?」

「わたしを信じろ。この目を見ろ」

「あさっての方向を向かれては見えない。実はあなたよりRichelieuのほうが我慢強いのでは?」

 

 そうかもしれなかった。よく考えなくともリシュリューと自分は釣り合っているとは言いがたい。リシュリューが自分と過ごすために時間を費やすことは世界にとっての損失のような気さえ提督にはしてきた。

 

「で、ご機嫌とりに1泊2日の温泉か。喧嘩したその日によく行けるな」

 

 アークロイヤルが理解できない顔をしてイチゴ尽くしの甘味を平らげる。

 

「わたしは交際経験がリシュリューを含めて二人しかいないし、前に付き合ってた女性とは一度も喧嘩をしたことがなくてね」

「初月、いや初耳だ」

「だからリシュリューと何度か喧嘩して、ようやくわかってきたんだが、どうやら喧嘩してる最中というのは、双方ともに理性が働いていないみたいでね」

「まるで普段は理性が働いているとでも言いたげね」

「喧嘩している状況とは、言い換えれば、その状況が喧嘩を生み出している、と考えることもできる。この状況というのはいくつかの要素に分解できて、そのうちのひとつでも変えればクールダウンのきっかけになる。怒っているときの脳は一種のパニック状態になっているから論理的に物事を考えられない。クールダウンして怒りを解除すれば、自分たちがいかに馬鹿馬鹿しいことで言い争っていたかが客観視できる」

「時間を置くとか?」

「そう。時間が経てば自然と怒りは解除される。しかしこれはリシュリューに限っては有効ではない」

「どうして?」

「頭を冷やして自分がいかにどうでもいいことで怒っていたかがわかっても、謝れば“自分はどうでもいいことで怒ってました”と認めることになるからだ」

「たしかに、そんなRichelieuは想像がつかない」

 

 言ってアークロイヤルが納得して何度も首を縦に振った。

 

「ちなみにわたしのほうから謝ると、“謝ればすむと思ってるんでしょ! そんな安売りの謝罪で……”と、さらに怒りを買うことになる。というか、なった」

「Admiralも、意外と苦労しているんだな……」

「だから、ほかの要素を変える。つながりとか」

「つながり?」

「属性と言ったらほうがいいのかな。

 たとえば、わたしときみは、男と女だ。これが性別のつながり。

 日本と英国。これが出身のつながり。

 提督と艦娘。これが立場のつながり。

 わたしは事務方で、きみは現場。これが仕事のつながり」

「I see. 夫婦なら、夫が洗濯、奥方が料理と、家事を分担していれば、これは役割のつながりになるわけか」

「そのとおり。で、喧嘩になった属性のつながりをまず考える。今回の喧嘩は、どちらも引かないというわたしとリシュリューの、性格のつながりだった。だからまずは相手の性格のことは忘れて、べつの属性に目を向ける。顔が好きだ、匂いが好きだ、料理を作ってくれるのが好きだ、髪が好きだ、などなど。そうしていくと、好きなところ多いなと気づき、自分の怒りが解除される」

「その方法論だとRichelieuが苦労しそうだが」

 

 否定できないのがつらい。

 

「怒りが解除できると、喧嘩の原因となった属性、この場合は性格だな、引かないからこそ彼女は魅力的なんじゃないかと前向きに解釈できるようになる」

「なあAdmiral, わたしはいったい何を聞かされているんだろう?」

「この方法の欠点は、相手もおなじことをしてくれる、と期待するしかないということだ。きみがさっき言ったように、リシュリューのほうはやろうにもやれない可能性もある」

「そこまで自虐的にならなくても」

「というわけで、ふたりともが強制的に要素を変える方法が、場所を変えるということだ」

「喧嘩した場所が鎮守府だから、べつの場所に移るということ?」

 

 デミタスカップでコーヒーを飲みながらかすかに笑うアークロイヤルに、提督が同意する。

 

「まあ、最初はダメ元だったんだ。宿の客室番号と列車の切符を同封してリシュリューの部屋にこっそり届けて、わたしは先に宿に行って待ってた。来なかったら来なかったで、わたしだけでも場所を変えれば冷静になれるからとね」

「……それで本当にRichelieuが来たと」

「正直いって信じられなかった。もう少しで“正気か!”って言いそうになった」

 

 そのときは、温泉宿なのにチェックアウト間際になってようやく大慌てで湯を浴びた。

 

「それ以来、喧嘩したときは、おなじように番号のメモと切符だけの封書を届けている。あの宿には世話になりっぱなしだ」

「そろそろ湯(あた)りするのではないか?」

 

 実に有意義な間食を終えて、店を出たのち、最近は薄れていた懸念が提督のなかでにわかに頭をもたげていた。自分はリシュリューにふさわしい男なのか? そうでないにもかかわらず彼女から愛してもらえることを当然だと驕っていたのではないか? だから少なくない頻度で喧嘩をするのでは?

 提督は急に不安になって、何度もため息をつきながら帰った。

 

  ◇

 

 2月13日である。

 

 戦艦娘の寮で甘い匂いがするので、リシュリューが辿ってみると、出所は厨房だった。「姉さまに、去年をさらに上回るスペシャルなチョコを」と、戦艦山城が鬼気迫る凄絶な笑みで板チョコを湯煎している。

 

「お菓子作り? めずらしいわね」

 

 リシュリューは気さくに声をかけた。

 

「そりゃせっかくのバレンタインだもの……総力戦で臨まなきゃ……改二になってようやく伊勢と日向に勝ったと思ったら、烈風が積めるってなによ……。しかもマージンがもう一枠あるってなによ……大和型ならわかるわよ……どうしてよりにもよって伊勢型……? 結局わたしたち姉妹は、平時も大規模作戦時も、鎮守府でお留守番するしかないんだわ……札すらつかずにイベントが終わるのよ……」

 

 笑いながら泣き言を並べる山城の背に、リシュリューはどんな反応を示せばよいのかわかりかねた。

 唐突に山城が首だけ振り向かせて、

 

「あんたは提督に作らないの」

 

 と、深淵のような瞳でリシュリューを射抜いた。

 

「なにを?」

「チョコよ」

「どうして?」

「どうしてって」

 

 山城は1+1がわからない出来の悪い生徒でも見る教師のような顔になった。

 

「バレンタインは、女性が意中の相手へチョコを贈るもんでしょ」

「女が? は? 女が、男に?」

 

 リシュリューは晴天の霹靂という表情になった。

 

「意味がわからないわ」

「フランスにはバレンタインがないの?」

「あるけど」

「チョコを贈ったりはしないの?」

「ないわ。そもそも、la Saint-Valentin(バレンタインデー)は、男が女に贈り物をする日でしょ」

 

 当然だという態度のリシュリューに山城は目が点になった。溶かしたチョコを攪拌する手も止まろうというものである。

 

「フランスは、男が女にチョコを贈るの?」

「贈り物がchocolat(チョコレート)というのは聞いたことないけど、いずれにしても、どうして女のほうがあげなきゃいけないのよ」

 

 山城は、フランス女性の血に脈々と流れる「男になにかしてもらって当然」「女が主役なんだから」という行動規範を知らない。ついでにいうと、恋人がいないフランス人男性にバレンタインデーについて訊ねると「あんなの商業主義に踊らされてるだけさ」と強がるくせに、恋人ができたとたん「なんたってきょうはバレンタインデーだからね!」とお高いレストランを予約したりするという、かの国の変わり身の早さも、知らない。

 

「フランスじゃどうか知らないけど、日本はバレンタインには女が男にチョコをあげるのよ」

 

 わたしは姉さまにだけど、と山城は猫なで声で付け足した。

 

「なんで女が男に贈るのよ」

 

 フランス艦のリシュリューには甚だ理解不能である。カワセミのオスが魚をメスにプレゼントして求愛するように、もともと自然界の動物でも、オスがメスに婚姻贈呈することはあっても、その逆はない。有性生殖である以上、選択権は常にメスのほうにあるからだ。ちなみに、キリギリスのオスは精液でつくったゼラチン状の栄養豊富な精包(せいほう)をメスにプレゼントする。メスはこれを食べて滋養をつけ、同時に生殖器へ塗りつけて受精させる。

 

「日本じゃ、女が男に、ってことになってるのよ。バレンタインにかこつけて告白するとか」

「好きなら好きと正々堂々言えばいいじゃないの」

「そんなの知らないわよ、面と向かって言うのが恥ずかしいとかそんなんでしょ」

「人を好きになることは恥ずべきことなんかじゃないわ。恥ずかしいと思うことこそ、恥ずかしいんじゃない」

「あんたたちと違って、奥ゆかしさが日本の美徳なの」山城が口を尖らせる。「この国じゃ、人間の女の子たちはバレンタインデーには好きな男の子の下駄箱やなにかにチョコを入れて、告白の代わりにするのよ」

 

 リシュリューの氷点下の美貌が青ざめる。

 

「口にするものを、下駄箱に……?」

「あ、いや、まあ、机のなかとかでもいいらしいけど」

「女が食べ物を使って愛を告げるあたりは、なんだか英国野郎(ライミー)に似てるわね……」

 

 16世紀のイギリスには、貴族女性が皮をむいたリンゴを腋の下にはさんでワキガの臭いをたっぷり染み込ませ、それを意中の男性へ贈ってI love youとするラブアップルなる習慣があった。

 

「いくらなんでも倒錯しすぎでしょイギリス……」

 

 山城がまるで生まれてはじめて酸っぱいものを食べさせられた赤子のような顔になる。そのころ作戦海域でウォースパイトとアークロイヤルが揃ってくしゃみしていたことなど知る由もない。

 

「まあ、あんたからチョコもらったりなんかしたら、あの提督のことだからアホみたいに舞い上がるでしょ」

 

 山城は余った業務用チョコレートの袋をつまんでよこした。受け取ったリシュリューはなおも困惑を隠せなかった。

 

「Chocolatなんかで、そんなに喜ぶものかしら……」

 

  ◇

 

 翌日の朝。

 

 リシュリューは丁寧にラッピングした手作りのチョコレートを渡そうと、執務室の前まで来て、立ち止まった。手を伸ばそうとして、ためらっている自分に驚く。なぜだ。チョコを渡すだけではないか。小娘でもあるまいし、たかがそんなことでなぜ緊張しなければならないのだ。リシュリューは深呼吸してからノックした。

 

「おや、リシュリュー、ちょうどよかった」

 

 返事はドアの向こうからではなく、左からだった。

 廊下を歩いてくる提督はなぜか右手を後ろに回している。

 気に留める余裕はいまのリシュリューにはなかった。気を取り直す。跳ねる心臓を落ち着かせる。

 

「Mon Amiral, これを受け取りなさい。いいから!」

「ハッピーバレンタイン、リシュリュー。気に入ってくれるといいが」

 

 リシュリューがチョコレートを突き出すのと同時に、提督も大きな花束も差し出した。スタンダードの真っ赤な薔薇101本が情熱的に燃え上がり、隙間を埋める白く小さなカスミソウと、葉の鮮やかな緑が、みごとに引き立てている。

 リシュリューも、提督も、目を丸くしていた。

 

「日本では、Saint-Valentin(バレンタインデー)に女がchocolat(チョコレート)を贈るって……」

「フランスでは、男が女性に花を贈ると……」

 

 またも同時に言って、しばらくしてから、ふたりは吹き出した。

 

「せっかくだから、もらうわ。Merci chéri(ありがとう).」

「もしかして手作りかい? ありがとう」

 

 花束とチョコを交換してから、提督は、

 

「実は、フランスのバレンタインについてはコマちゃんに訊いたんだ」

 

 と歯切れも悪く続けた。

 

「フランスでは、花束と一緒に下着を贈ると言われたんだが……」

 

 なお、そのときコマンダン・テストは「小窓つきのエグいやつなんていかがでしょう」と勧めてきたのだった。

 

「する人はするわね」

「それはさすがにむずかしくて……」

「どこが?」

「男が女性用の下着売り場で物色なんかしてたら通報されるだろう?」

「そう? Richelieuの国では、男が彼女に穿かせたい下着を吟味してるなんて、めずらしくもないけど」

「わたしのセンスで選んだものが喜んでもらえるとも思えないし……」

「逆に訊くけど、女が着けたくないような下着を、お店がわざわざ置いておくと思う?」

 

 言われてみればそのとおりである。

 

「それにね」リシュリューは薔薇の香りを楽しんで、「Richelieuからなにか貰えたとして、あなたは嬉しくないって突き返したりする?」

「まさか。きみから贈られるならわたしは」

 

 そこまで言った提督は、ようやく気づいた。それとおなじだとリシュリューは言いたいのだ。

 

「じゃあ、今度、ふたりで買い物に行きましょう。Richelieuがamiralの私服を選んで、amiralがRichelieuに着けさせたい下着を選ぶの」

 

 薔薇の花束を抱きかかえるリシュリューは、彼女自身が発光しているようだった。花も彼女に渡されて輝きを増している、というより、リシュリューが持ってはじめて本来の美しさを発揮できているといってよかった。あるがままでしかなかった花は、いまやあるべき花へと変貌し、薔薇は同胞たちと同様の無名の植物ではなくなって、薔薇の本質というべきものの詩情の、この上なく簡潔かつ直抒的なあらわれとなっていた。提督は、自分とリシュリューとの間に次元の壁があるように思えてならなかった。

 

「どうしたの?」

 

 執務室の扉を開けて入ろうとしたリシュリューが、その場に立ったままの提督をいぶかしむ。

 

「いや、ごめん。なんでもない」

 

 それにリシュリューの眉間が険しくなる。

 

「すぐに謝ってごまかさないで。隠し事は嫌いよ」

 

 提督は逡巡したが、勇を奮って、重い口を開いた。

 

「きみが、わたしにはとてももったいない女性だという気がしてならないんだ。いつもきれいにしているし、外見だけでなく、内面のアップデートも怠らない。きみはひとりの人間として素晴らしい魂の持ち主だ。こんなわたしにさえ、チャンスをくれる」

 

 提督は恥と知りつつ内心を披瀝していった。

 

「ひきかえ、わたしは“こんな”だ。街できみと歩いていて、なぜあんな美人があんなやつと、という目をひしひしと感じる。実際きみと付き合っていい男じゃないんじゃないかと不安になるんだ。わたしは優柔不断だし、きみほど自分を高められる性分でもないし、顔に自信があるわけでもないし、機転は利かないし、ユーモアも足りてないし、自分でも嫌になるほど器も小さいし、あとは」

 

 まだまだ探し出せそうだったが、リシュリューの人差し指が口にあてがわれて、提督の言葉をさえぎった。

 

 リシュリューを見る。女は寂しそうな笑みをしていた。

 

「ねえ、Amiral. それ以上、Richelieuが好きになった人の悪口は、やめて」

 

 提督は自らのあやまちを思い知らされた。提督が自分を卑下することは、そんな男と付き合っているリシュリューのことをも貶めることになるのだ。改めてリシュリューの正しさを認識した。だれかを愛するためには、まず自分自身を愛さなければならないのだ。

 

「それにね、あなたはRichelieuがお情けであなたと付き合ってるとでも思ってるみたいだけど」

 

 リシュリューが雌豹(めひょう)の足取りで間合いを詰め、有無をいわさず彫像のような顔を近づける。塞がれた唇に、リシュリューの果肉のような口唇が吸い付く。やわらかく、温かく、吐息は甘い。

 

 顔を離したリシュリューが、好戦的な笑みとともに提督に指を突きつける。

 

「あなたはこのRichelieuを、好きでもない男とbaiser(キス)する女にしたいの?」

 

 提督は、苦笑いして降参の意を示した。おそらく自分は、リシュリューに未来永劫、敵わないだろう。

 

「花瓶、なかったかしら」

 

 なにごともなかったかのように執務室へ入っていったリシュリューを追う。彼女に言うべきことを言わなければならない。そうすることでしか、リシュリューの隣に立つ資格を得られない気がした。

 

「きみを愛している」

 

 リシュリューが、背を向けたままくすっと笑った。

 

「Richelieuのほうが愛してるわ」

「いやいや、わたしのほうが……」

「なに言ってるの。Richelieuのほうが……」

 

 この後、ふたりは人生初の湯中りを経験することになる。




L'amour n'est pas aveugle. Mais malheureusement, Les choses stupides sont souvent.
(愛は盲目ではないが、残念ながら馬鹿馬鹿しいことがよくある)
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