愛しのリシュリュー   作:蚕豆かいこ

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Il n’est si méchant pot qui ne trouve son couvercle.(どんな鍋であろうと、ふたはきっと見つかる)

 非番が重なったので、リシュリューはおなじ戦艦娘の陸奥と女だけの買い物とランチを楽しんだ。その帰るさ、陸奥が、

 

「ことしの夏はペールトーンとニュートラルカラーらしいわ」

「へえ、Ivoire(アイボリー)blouse peplum(ペプラムブラウス)なら、持ってたかも」

 

 ということで、リシュリューは部屋のワードローブをひとり漁った。すると、

 

「こんなétole(ストール)あったのね、これに合う服は……あら」

 

 やさしいイエローのタイトスカートが目に入る。ペールカラーなのでこれも今夏に投入したい。足元はどうしようか。探していたら、買ってからまだ履いたことのない蛇柄のサンダルが出てきた。一見すると自己主張が激しそうだが、ベースがグレーで意外にもさまざまなアイテムと相性がよいので、奇貨居くべしの精神で買っておいたのだった。イエローのスカートとも合うだろうかと実際に着用して姿見で確認などしてみる。悪くはない。ではトップスはどうしよう、いっそシンプルな黒いノースリーブを合わせて、大きめのバングルをアクセントにするのもいいかもしれない。たしかウッド素材のがあったはず、おや、この円いかごバッグも個性的だ、これにアクセントを任せるのもいいかもしれない……。

 だいぶ部屋を散らかしたあたりで、リシュリューはふとわれに返った。

 

「しまった。Blouse(ブラウス)探してるんだったわ」

 

 なお、それとおなじころ、提督は自室の掃除をしていたが、主人公が1話でいきなり自動車に轢かれて死んで幽霊になって、生き返るために閻魔大王の小倅(こせがれ)の使い走りをさせられるバトル漫画の単行本を見つけてしまい、夢中になって読みふけっているうち部屋が暗くなっていることに気づいて、電灯をつけようとしたところで、

 

「しまった。掃除してるんだった」

 

 とわれに返っていた。

 

  ◇

 

「リシュリューと提督ってさあ、なんで付き合ってんだろうな。ああも趣味が違うのに」

 

 と長波は、ちまたで流行しているというタピオカミルクティーを太いストローで吸った。タピオカパールが気管に飛び込んだ。「んぐぉ、ぼっ、ぶへぁあ!」鼻と口からミルクティーごと吐いて5分くらいむせた。

 初月が長波の背をなでながら言った。「タピるどころかタヒってるぞ」

 咳き込んだり、左の鼻の穴を塞いで「ふんっ!」と、もう片方の鼻孔からタピオカを射出させたりし、鼻水とよだれをぬぐってから、長波は思い出したように初月に言った。

 

「いや、こないだ、リシュリューが愚痴ってきてさ……」

 

 長波はこの場にいない二人を爼上(そじょう)に載せて語って聞かせた。長波が言うには、過日、リシュリューは提督とふたりでとくに目的もなくそぞろ歩きして、道すがら鎮守府御用達の百貨店へ寄った。そこのモードファッション専門フロアを横切っていたとき、いたく気に入った服があった。リシュリューいわく「服のほうからこちらの目に飛び込んできた」らしい。彼女としては、今よりさらにきれいな装いをして提督に喜んでほしかったのと、提督と一緒に買った服という思い出がほしかったのだという。「これ、買おうかしら」売り場が渦潮であるがごとく吸い寄せられていくリシュリューに、提督がかけた言葉は、こうだった。

 

「うわ、高っ。そんなのいらないと思うけど」

 

 初月は、絶対温度でいえば0ケルビン、つまりそれ以下はないという無表情でタピオカドリンクを飲み続けた。あのバカ。「今のままでもじゅうぶんきれいだよ」という意味だったのだろうが、言葉が足りなさすぎる。

 

 いっぽうで、初月には類似した記憶が呼び起こされる。

 

「たぶんそれとおなじ日のことだと思うが、提督が僕に愚痴ってきて……」

 

 その百貨店では、ちょうど『画家の最後と最期』と銘打った企画展が催されていた。画家の一生をしめくくる絶筆、もしくは画家でなく絵のモデルとなった人物が最期を迎えた作品ばかりをあつめた展示会である。自身やモデルに迫りくる死期をさとりながらも絵筆をとりつづけた作品には、画家の死生感と執念、死と隣り合わせだった運命が言い知れぬ熱量となって、見るものに絵の題材のみならず、描かれた背景にまで想いを巡らせる一種独特のしずかな迫力がある。展示会はその週までだった。

 

「萬鉄五郎の『T子像』や古茂田守介の『芦ノ湖』もあるんだって。おお、木下晋(きのしたすすむ)の『流浪Ⅱ』も。木下晋は鉛筆だけで、おもに老人やハンセン病患者を描きつづけた人でね。しわの1本、白髪の1本に至るまで詳細に描写する鉛筆画家の最高峰なんだ。『流浪Ⅱ』は木下の実のお母さんがモデルだ。彼女はこの絵の完成後に亡くなった。彼と母親はひとかたならぬ確執があってね。お母さんにモデルとなってもらい、絵を描く作業を通じて和解したともいわれている。観ていこうか」

「こないだ雑誌で見てたじゃない。それにお金だすなら服を買う足しにしなさいよ」

 

 そういうわけで二人は互いに、どうしてそんな興ざめするようなことばかり言うのだ、一緒に楽しみたいだけなのに、と喧嘩になってしまったのだという。

 

「あいつら、ああも価値観食い違っててしんどくないのかね」

 

 長波が大げさに呆れてみせた。

 

 初月は頬杖をついて、タピオカドリンクのカップをいじりながら「でも、まあ」と返した。

 

「それだけ話が合わないのに、ふたりとも自分なりに相手を楽しませようとしてるってことは、たぶん特別なことなんだろ」

 

 長波は、そういう考え方もあるのかと腑に落ちた顔をした。初月はさらに鼻で笑って、

 

「それに、案外そっくりだろう?」

「なにがだよ」

「愚痴に見せかけて、喧嘩したってのはフリだけで、結局はのろけ話になってるってところだ」

 

 初月に長波が閉口する。

 

「あたし、愚痴じゃなくてのろけ聞かされてたのか……」

「リシュリューではむずかしいだろうが、提督相手なら時間外手当てを請求しておけ。僕はそうしてる。おかげで姉さんたちとうまい飯が食える。気をつけろ。やつらはおなじ話を何度でもするからな」

「じつは」長波は小声で明かした。「リシュリューからその話、10回は聞かされてんだ」

 

 そのころ……。

 

 酒保では補えないこまごまとしたものを購うためひとりで街に出ていたリシュリューは、通りがかったブティックのディスプレイで、とてもアーティスティックなストールと出会った。マゼンタを基調とした、よく目立つ色使いと柄模様だった。まるでイスファハンの絨毯みたいだ。民族調でインパクトが強いのでへたをするとくどい印象になるが、へたをしなければよいのだ。金の髪にも映えるだろう。

 しかし、とリシュリューは思いとどまった。これを買わなかったらamiralと旅行できるかしら。

 

 提督もまた、風呂あがりの余暇にスマートフォンで美術館の展示スケジュールを確かめていて、おそらく閲覧履歴をはじめとしたウェブ行動データから有効であるとAIに判断され表示された、大手通信販売サイトの広告に、出品者の思惑どおり目を奪われた。とある夭逝の画家の作品を、完成作はもちろん素描や習作にいたるまで収録した、鈍器になりそうな大型本、全編カラーの画集である。すでに絶版していて再版の見込みもない。提督が何年もほうぼうの古書店を当たったりして探していたものだ。この機をのがせばもう一生、手に入らない公算が高い。

 本能のまま購入のボタンを押そうとしたところで、提督の手が止まった。画集は喉から手が出るほどほしい。

 しかし、これを買わなかったら、リシュリューと旅行ができるだろう。

 提督は未練を断ち切るように断腸の思いでブラウザごと閉じた。電話番号を呼び出す。そのときまるで狙いすましたように着信があった。リシュリューからだった。

 

「ねえ、つぎの週末のことなんだけど」

「ああ、わたしもそれを聞きたかったところなんだ」

 

 そして、二人は同時に言うのだ。

 

「予定は空いてる?」

 

  ◇

 

「愛している」「きょうもきれいだよ」くらいなら、ヘタレと誉れ高い提督も恥ずかしがらずに毎日リシュリューに言えるようになった。しかしまだ伊達男にはなりきれない。リシュリューはそのような女性ではないとわかっていても、背伸びしてきざな台詞を舌に乗せて、もし「なにそれ。似合わないわ」と笑われたら、と思うと、なかなか1歩を踏み出しがたいものがある。

 思えば相手がだれであってもその場にふさわしい言葉を出せない人生だった。ふいに知人と再会したときなどのように予期しない会話だととくに顕著だった。必死に言葉をさがしても、どの引き出しにも答えはしまわれていなかった。時間がない。時間がない。開け放たれた引き出しの中身は要らないものばかり。なにか言わなくては。とっさに手に取った言葉が、満点の解答をもらえるものではなかったということは、相手の表情や返答の声音で、なんとはなしにわかった。言葉をうまく使えないくせに、相手の感情の機微だけは敏感に理解できてしまうのがよけいに歯がゆかった。いっそなにに対しても共感できないほど鈍感だったほうが幸せだった。しかも、会話が終わったあとになってから、落ち着いて引き出しを整理していたら、正解の言葉があっさり見つかってしまうのである。これをさっき言っていれば。そうしてひとり、脳内で先刻の会話を再現して、もしも自分が、いまやっと発見した正解の言葉をあのとき口にできていたら、と夢想する。再現された相手は記憶のなかよりも良好な反応を示した。心地よさにその場面を何度も何度も反芻する。そうしているうち、自分はあのとき正解の言葉をちゃんと言えたのだ、と思い込む。そうして精神を保つ。

 こういう生き方をしている人間は会話の語彙が貧困になる。どうせ会話の最中には正解の言葉が見つからないのだからと探すのを最初からあきらめる。そして決まった引き出しによく使う言葉を準備しておく。だから、あいさつや当たり障りのない社交辞令ははきはきとした口調ですらすら出てくるのに、アドリブが要求されるととたんにしどろもどろになるのだ。

 

 そんなある日、せっかくだからと提督はひさしぶりに艦娘たちとともに食堂で昼食をとった。となりの席には当然のようにリシュリューが腰を下ろした。

 

「Admiral, あとでいいんだけど、美術館の割引券まだあったらくれない?」

 

 食事しながら米戦艦娘コロラドが声をかけた。「ああ、バレル・コレクションの?」「ええ」(つて)でいくらか譲り受けたのが余っている。興味があるならと艦娘たちに伝えておいたのだ。すでに何隻か鑑賞した。人間は美術品を創造して愛でることができるのだということを伝えたかったからだ。提督は快諾した。

 

「Admiralはもう観たの?」

「まだ。でもこの機会をのがしたら英国に行かないと観られないからね、なんとかして行くつもり」

 

 自分の選んだ言葉に減点対象はないはずだ。提督は期待感に輝くコロラドの顔から答え合わせをして安堵する。英国でしか観られなくなる、という応答はじつに当たり障りのない事実を述べただけのものであるから、難なく引き出しから取り出すことができた。

 

 産業革命期に、海運王として巨万の富を築いたスコットランド出身の実業家ウィリアム・バレルは、生涯をかけて蒐集した膨大な数の美術品のうち、9000点以上を郷里グラスゴー市に寄贈した。バレルの死後、グラスゴー市は遺言にしたがってコレクションを一般公開する美術館『バレル・コレクション』を開館する。

 先年、同館は施設の老朽化のため数年がかりの大規模な改装工事に迫られた。閉館しているあいだ、これまで門外不出だったコレクションの海外展覧を特例として解禁し、バレル・コレクションの国際的な知名度向上をはかる運びとなった。その一環として、バレルの審美眼をもって集められた名作の数々が海を越えて来日。作品数は印象派を中心とした80点あまりだが、そのほぼ全数が日本初上陸ということで話題を呼び、各都市で展覧会が巡業され、美術ファンの目を楽しませていた。深海棲艦との戦争が本格化して七つの海と空の安全が保証されなくなったのはそのさなかである。どのようにしてコレクションを本国へ里帰りさせるかが問題となった。

 日本への輸送は空路だったが、いまとなってはむやみに航空機を使うのはリスクが高い。とはいえ、むかしむかしドイツの客船が日本に寄港しているときに戦争になって帰れなくなったので空母に改造して日本海軍に編入したというようなまねはまずい。戦争がいつ終わるともしれなかった。意地でも本国へ返還するべく、日英の美術関係者たちが結託して、両政府をまきこんで、陸路でユーラシア大陸内陸部を横断し、フランスからドーバー海峡をわたって英国に安着させるという、気合いと根性の一大事業が計画された。この年に日本が敢行する予定の欧州遠征作戦には、ドーバー海峡の対潜掃討任務もふくまれている。これに便乗して海峡の脅威度が低下したところでバレル・コレクションを英国まで輸送する手はずだ。ふだんドーバー海峡は悪名高い潜水新棲姫に封鎖されている。そこを突破するのである。英国海軍の全面的な支援があるとはいえ、輸送船の乗組員はさだめし心穏やかではないだろう。

 

「そうまでして大事にしなければいけないものか? 美術品なんて生きていくには不要だろうに、英国人はなぜそんなものにわざわざ命を懸けるんだ」

 

 同席していた初月が難色を示した。提督はこれに答えて、

 

「たしかに不要だ。だが、必要なものしか持たないのでは昆虫とおなじだ。よけいなものに人生を懸けてこその人間なんだ」

 

 それに初月は、理解はできないでもないが共感はできないというように肩をすくめるばかりであった。よし、自分の返答は及第点ではあったようだと、提督は胸を撫でおろす。コロラドが礼を行って辞去した。

 

「Amiral. わたし、美術館誘ってもらってない」

 

 執務室に帰ったとたん、ずっと無言だったリシュリューが両手に腰をあてて、提督と正対した。なにを間違えたのかと提督は頭を回転させる。以前に百貨店で企画されていた展覧会に彼女を誘ったときは断られた。だから誘わないほうがいいと学習したのだ。

 

 提督は慎重に言葉を選んだ。「リシュリューはこういうの興味ないかと思ってたんだけど」そうだ、たしかバレル・コレクションは、バレルの祖国イギリスのアートのみならず、写実の鬼ギュスターヴ・クールベ、そのクールベとともに写実主義運動に尽力し日常の風景を緻密に描いたフランソワ・ボンヴァン、踊り子画家エドガー・ドガ、静物と肖像の巨匠アンリ・ファンタン=ラトゥール、そしてモネの師としても知られるウジェーヌ・ブーダンなど、フランス画家の作品も数多い。だからリシュリューも興味をもったのかもしれない。「割引券ならまだあるよ」

「ひとりで行ったってしょうがないでしょ。もういいわ。どうせRichelieuがいたら自由に観られないから邪魔だっていうんでしょ」

 

 リシュリューがそっぽを向いた。提督は矢継ぎ早に放たれた砲弾の対処に四苦八苦していた。どう答えたら正解になるのか。

 

「ああ、いや、その」

 

 その場しのぎの意味をなさない文字列は、およそリシュリューの心証を悪化させる以外の効果はないだろうということは、提督自身にもわかった。早く探せ。どこだ。どの引き出しに答えがある? だめ元で開け放った引き出しに、きらりと光るものがあった。それは宝石を嵌めた指輪のように転がっていた。美しい光だった。それだけに、自分に似合うかどうか自信がなかった。提督はその引き出しを押し込んだ。もしこんな宝石の言葉を贈ろうとして、笑われて拒まれたら、きっと立ち直れない。

 書類を整理する初月は我関せずである。

 狼狽する提督を、リシュリューは一瞥し、これ見よがしにため息をついた。提督は、もうだめだと思った。なぜ自分は他人を喜ばせる気の利いた言葉が出せないのか。

 つぎのリシュリューの行動は、提督の予想を超えていた。彼女はまず、

 

「Amiral, あなた、ときどき言葉をよそおってる気がする。いえ、逆ね。本心からの言葉をもらったことのほうが少ないかも。それは喧嘩をしたとき。ふだんはまるで、Richelieuに嫌われたくなくてうわべだけ取り繕ってるみたい。訊くけど、そんな言葉をあなたからかけられて、このRichelieuが嬉しいと思う?」

 

 執務机の上にむっちり肉づきのよい尻を乗せ、上体だけをひねって、提督へ身を乗り出した。互いの鼻先が触れあいそうだった。リシュリューの美貌が提督の視界を占領する。紺碧の真摯な光がこもった瞳は、視線を逸らすことを許さない。

 

「ねえ、Richelieuってそんなに信用できない? わたしは本当のあなたが知りたいの。たぶんあなたはそれを恐れてる。だからあなたに勇気をあげる。Amiralの本当の言葉をちょうだい。あなた自身の言葉は、どこにあるの? Richelieuがお願いしたら見せてくれる?」

 

 リシュリューはある意味で土足で提督のなかに踏み込んできていた。引き出しを庇おうとする提督に詰め寄る。そうして提督が指輪を差し出すきっかけを与えようとしている。提督が隠れたがる薄暗い部屋から、自分のいる明るい世界へ引きずり出そうとしている。そちらのほうが楽しいに決まっているとリシュリューは信じて疑っていないようだった。その傲慢さが提督には心地よかった。だから決心を定めなければならなかった。

 

「笑わない?」

「それは保証できないわ」

 

 息のかかる距離のままリシュリューは微笑みながら即答した。とことん自分を偽ることのない女性だった。かえって気が楽になった。提督は一度閉めた引き出しを開けた。指輪をつまみ、そのきらめきを確かめてから、リシュリューに贈る。

 

「すぐ隣にわたしのためだけに微笑んでくれるきみがいると、どんな名画が飾られていても、きみばかりを見てしまうからだよ」

 

 リシュリューの瞳孔がひらく。一拍おいて、蕾がほぐれるように吹き出す。甘酸っぱい香り。

 

「なに、それ」

 

 白い歯を見せていた女は、ひとしきりそうしていたが、やがて真剣な顔に戻した。真正面から提督の目を覗きこむ。そして、はっきりと告げた。

 

「すごくうれしい」

 

 リシュリューは提督の言葉の指輪を受け入れた。提督は一気に全身から力がぬけて、ただ苦笑いするしかなかった。

 

「やめてくれよ、心臓に悪い」

「あなたが本音を言わないからよ。このさいRichelieuに言いたいことがあるならそうしたら?」

「怒らない?」

「それはあなた次第」

「まず、たびたび机に座るのをやめてほしい」

「ほかには?」

「人前だろうがところ構わずキスをしてくるのはかんべんしてほしい」

「いやなの? Richelieuはいつでもあなたの口づけがほしい」

「きみがキスする顔をわたし以外に見られたくないんだ」

「そういうことなら考えてあげるわ。ね、こんど一緒にLa Collection Burrell(バレル・コレクション)を観に行きましょうよ。あなたの解説を聞きながら鑑賞したいわ」

「では今週末にでも」

 

 そんなふたりをしり目に、初月は能面みたいな顔のまま携帯電話で電話をかけた。

 

「瑞鶴か? 僕だ。近接航空支援を大至急要請する。目標は執務室。なんでもいいからとにかく爆弾を落とせ」

 

  ◇

 

 約束どおりふたりで美術館に行った帰り、唐突に天気がぐずつき、沛然(はいぜん)とした雨に降り込められた。

 

「夕立だな」

「あら、どこ?」

「ああ、いや、駆逐艦じゃない。こういう雨のことさ。しかし、まいった」

 

 提督の官舎よりリシュリューの部屋のある寮のほうが近かったので、ふたりは驟雨の下を走った。そのあいだ提督は、美術館で購入していた目録を気休めにでもなればとリシュリューの頭上に翳していたが、さほど努力は報われなかった。しかし黄金色の髪もおしゃれな服もびしょ濡れになっている彼女は、むしろ心底楽しそうに笑っていた。

 やはり、女心はわからない。

 

「Amiralも、雨宿りしていきなさいよ。風邪をひくわ」

 

 送ってから帰ろうとすると、なかば強引に引きずりこまれた。導くリシュリューの髪や高い鼻や秀でた顎から滴り落ちる水滴の一粒一粒が、七色に輝く真珠のようだった。彼女は床が濡れるのも構わず部屋のなかへ進んだ。その自由闊達、奔放なふるまいが、提督にはとてもまぶしく思えた。

 

「洗濯機貸してくれないか? いまから回せば、あしたの朝にはなんとかなるだろうし」提督は遠慮しいしい部屋に上がりながら言った。

「そのあいだは素っ裸?」

「目に毒かな」

 

 リシュリューはためらいなく服を脱ぎながら「いいえ、見慣れてるもの」と笑って、

 

「この部屋に何着かあなたの服を置いておけばいいんじゃない? どうせここに泊まることもあるんだし」

 

 と提案してきた。提督には逡巡があった。女性の部屋に自分の服や下着を置くのはいささか踏ん切りを要する。

 

「そうだわ。Richelieuがamiralの部屋に泊まるときのために、Richelieuも服を置かせてもらえる? これでおあいこってことでいいでしょ?」

 

 提督はリシュリューの力強い曳航のような人となりにまたも救われる思いだった。リシュリューはいつも関係を前へ進めるための言い訳を用意してくれる。だがいつまでも彼女の優しさに甘えていてはいけないだろう。自分から前進しなければならない。いつから? いまからだ。

 

「冷えるとまずいから、一緒にシャワーを浴びさせてもらっても?」

 

 提督が声をかけると、鏡台の前でピアスを耳から外している下着姿のリシュリューは、鏡のなかで口角を吊り上げた。

 

「そうこなくっちゃ」

 

 しかし、脱衣室で洗濯かごに放り込まれた彼女の服を見て、提督の脳内に恐るべき仮説が急浮上した。

 

「もしかして、どさくさにまぎれて、クロゼットに入りきらない服をわたしの部屋に置こうとしてないか……?」

 

 リシュリューは鼻歌を口ずさみながらも目を合わそうとしなかった。

 

  ◇

 

 ともに朝を迎えた日は、互いに身支度を整えながら、リシュリューがかならず、

 

「いつもの、してちょうだい」

 

 と提督にスカーフを渡す。リシュリューは体ごと左へ向いて、澄ました玲瓏な横顔を見せつける。窓からの透き通った朝陽が彼女の高い鼻梁に引っかかって、雨の上がった雲間から光芒が射すときのような、光の条と陰影を演出している。

 

 左手を腰に当てた、女王様然とした立ち姿は、爛漫と咲きあふれている百花の華麗さのなかにも、いま咲いたばかりの一輪の百合の花のような楚々としたにおいをかすかに見つけることができた。

 

 なんの変哲もないトリコロールのスカーフだが、いざリシュリューの身に着けるとなると、当初のころ提督は、へたな結びかたはできまいぞ、と緊張したものである。海軍なのでロープワークはお手のものだ。しかしおしゃれのためにまとうスカーフとなると話は違う。いかに提督とはいえロープとスカーフの区別はつく。せいぜい彼女が恥をかかないよう見映えに腐心して結び、リシュリューからもこれといって苦言らしいものもなく、毎度のように任されるので、及第点はとれているのだろうと、しだいに提督はあまり深く考えないようになった。

 

 その習慣ももうとっくに両手では数えられないほどとなる。スカーフの衣ずれだけが響く静謐のひとときのなか、提督は、こんなふうにだれかのために新しい習慣ができて、それが生活の一部になるのも悪くない、と考えている。

 

「ひとつ訊いても?」

 

 ちゃんと結び目が左右対称になるよう注意しながら声をかけると、リシュリューが促す。

 

「なんでこんなところにスカーフを着けるんだい? なにか意味が?」

「いやなの?」

「まさか。きみのことが知りたいだけだよ」

 

 実際のところたいして重要な疑問でもなかった。提督としては、単なるファッションだ、という答えが返ってくるだけだろうな、とあたりをつけていた。それはそれで、彼女の服のセンスまたは好みを知ることになる。

 

「決まってるじゃない」当のリシュリューはこともなげに言った。「こんなところ、ひとりじゃ結べないでしょ」

 

 当然だ、二の腕にスカーフを結ぶなんて自分では……そこで提督の手が止まった。

 

「なによ。いまさら恥ずかしがるような歳?」

 

 リシュリューが提督の様子を見てとって、非難めいた声で弾劾した。

 

「そういうわけではないが……わざわざアピールするようなものかな」

 

 リシュリューは、ばかばかしいといわんばかりに鼻を鳴らすのみである。

 提督はなんとか彼女の左腕を飾り終えた。しかし頭に懸念が渦巻く。

 

「みんな気づいてるんだろうか……」

「あなたが鈍すぎるのよ。それにRichelieuは、みんなに自慢するためにこれをしてるんだから」

 

 と、リシュリューはスカーフの端をつまんだ。

 

 いったんスカーフの正体を知り、現状を事実として受け入れると、散らばっていた星々が意味ある星座となって認識されるように、恐ろしい事実が浮かび上がってくる。

 

「ええと、その、これは、いつからだったっけ」

 

 狼狽を必死に隠す提督に、リシュリューは、ようやく桃色の口許をほころばせる。

 

「空が青かった日から、よ」

 

 そうだった。提督は間抜けに口をぽかんと開けるしかなかった。

 

「さ、行くわよ」

 

 颯爽と部屋を後にするリシュリューに提督はなすすべもなく従った。

 

 明石に艤装を預けてあるリシュリューと途中で別れる。

 

 執務室への行きしな、出会う艦娘たちがあいさつしてくる。その屈託のない笑顔や視線、すれちがったあとの連れとの話し声に、きのうまでと違うものがあるように感じてしまうのは、彼女たちにではなく、むしろ自分に要因があるのだ、と提督はおのが愚鈍さを恥じた。


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