愛しのリシュリュー   作:蚕豆かいこ

9 / 12
Seul l'amour qui a pris fin vous fera grandir.(終わった恋だけが、あなたを成長させる)

「いいことを教えてやろう」

 

 証憑(しょうひょう)書類や会計監査報告書、くさぐさの物品や工事について相見積もり(あいみつ)をとった各業者からの見積書とそれらの比較表、産業廃棄物の収集運搬ならびに処理の委託契約書などなど、どうしてこうも増やすことができるのか不思議でならないほど大量の書類を提督が捌いているとき、いちどに7枚しか穴を開けられない年季の入ったパンチに体重をかけながら初月が傲岸に言い放った。

 おそらくは多忙からくるストレスの捌け口を提督への嫌がらせに見いだしたらしいこの防空駆逐艦娘がいうには、1998年のフランスで、バイアグラで男性機能をみごと復活させた夫に2ヶ月間、連日連夜セックスの相手をさせられた36歳の細君が身を投げた。遺書には「もうこれ以上、わたしの体はあなたの求めに耐えられません」と悲痛な訴えがしたためられていたという。

「リシュリューは嫌なときは嫌とはっきり断るタイプだろうが、くれぐれも調子に乗って自分の都合だけで抱こうとしないことだ。嫌われたくないならな」

 もっともなことと提督は肝に銘じた。美人は3日で飽きるという言葉はリシュリュー相手には当てはまらない。なぜならリシュリューは、日一日とさらに美しく魅力的になっていくので、毎日新鮮な心持ちで愛することができるからだ。しかもたいてい彼女に誘われるかたちで開戦するので、ついつい甘えてしまっていた点は否めない。いちど、頻度について話し合っておいたほうがいいかもしれない、と心に決めた。

 その機会はすぐに訪れた。自身が旗艦をつとめる艦隊の装備や物資の使用申請書やら報告書やらを届けに、リシュリューが執務室の扉を叩いた。けさ目にしたばかりのはずなのに、その白皙(はくせき)長身は提督の記憶にある麗姿よりもさらに輝きを増していて、白い(はだえ)のすぐ下に流れる性霊閑似鶴(せいれいかんにつるににたり)ながらも熱情を秘めた血潮と、彼女自身によって砥礪(しれい)された生き方とで、日常のとるに足らない些末な挙措さえひとつの美へと昇華しているのだった。初月は所用で席を外していたのでふたりきりになった。

「仕事とはまったく関係ない話をしていいかな」

 提督にリシュリューが長いまつ毛と垂れた目尻とに微笑を漂わせた。

「珍しいわね。なに?」

「夜のことだが」

 腕を組むリシュリューの冷ややかなパウダーブルーの目のなかで、瞳孔がすうっと収縮した。そこに映る提督は失敗を悟った顔をしていた。

「夜がなに? Richelieuは日本語の回りくどい言い回しがわからないの。はっきりと言って」

 弱腰をたしなめられた提督は、芝居がかった咳払いをして、喉の奥に逃げ込もうとしている台詞を引きずり出した。

「セックスのことだが」

 よろしい、とばかりに、ようやく問題の解けた出来の悪い生徒を見る教師のようにリシュリューが軽くうなずいて見せる。

「セックスの回数について、なにか不満とかあるかな。無理に付き合わせてたらいけないから」

 提督にリシュリューは(おとがい)に指を当てて、視線を外して考えていたが、

「不満は、あるわ」

 と断言した。

 提督は直剣で胸を刺されたようだった。やはり彼女の気持ちを無視して肉欲に溺れてしまっていたのだ。提督は恥辱と申し訳なさで小さくなるばかりだった。

「では……週に何回がいいとか、1回につきどれくらいの時間するのがいいとか、きみの要望は?」

 あまりしたくない、と言われたらそれは彼女の意向として素直に受け入れねばならない。相手に付き合うだけのセックスほどむなしいものもあるまい。リシュリューという女性にそれを強要することは、提督のレンズ豆みたいに小さな自尊心が許さなかったのである。

 覚悟を決める提督をよそに、リシュリューは左目のそばと下唇のほくろに、どこか酷薄な冷笑をにじませた。そして言った。

「毎日、どちらかがくたばるまでしたいわ」

 聞きたいことはそれだけかどうか確認すると、リシュリューは光の当たった部分が虹色に輝く金の髪をなびかせて颯爽と執務室を辞していった。仕事を再開したあともなお、すぐそばにリシュリューの妖艶な笑みがあるような気がして、初月に手が遅いと何度か尻を蹴られることとなった。

 

  ◇

 

 秋は、来年度に防衛大学卒業見込みの艦娘部隊指揮官志望者、つまり提督の卵が研修のため、鎮守府に派遣されてくる時期である。

「研修があるとは、軍も親切になった。わたしのときは拙速で開設したばかりの前線基地にいきなり飛ばされて、段ボール箱しかない部屋で寝泊まりしたものだ。ほかの基地の提督たちと情報を共有してああでもないこうでもないといいながら手探りで戦ったっけ。戦艦に46㎝三連装砲を載せられるだけ載せていたこともあった」

「あまり思い出したくないから黙って仕事をしろ」

 ヘタレ提督は秘書艦の初月とともに受け入れ準備に忙殺され、リシュリューとの時間がとれない日がつづいた。リシュリューはわざと意地悪く訊いてみた。

「ねえ、仕事とRichelieuと、どっちがだいじ?」

「じゃあわたしは、きみのストールと靴を人質にとって、どちらが大事かを選ばせる」

 合格である。

 しかし物足りないことは事実なので、夜にこっそり合鍵で提督の部屋を訪ねた。提督は不在だった。仕事熱心なことである。リシュリューは胸いっぱいに部屋の空気を吸い込んでみた。ところが期待に反してなにも手応えがなかった。さすがにベッドのシーツは匂うだろう。丹念に確かめながら寝台の上を這う。隅々まで這う。リシュリューは舌打ちした。これは未使用のシーツだ。どれだけ嗅ぎとっても彼女の嗅覚細胞が手持ちぶさたのあまり気まずそうにしている。

 彼女は追いつめられていた。まるでフランス革命の最終盤となるテルミドールのクーデターで、ジャコバン派独裁勢力に対するプロスクリプティオが決議され、法の外に置かれて四面楚歌になったロベスピエールたちのような焦燥感がつのる。どこかに残り香だけでもないか……金の長い髪を振り乱していたリシュリューが固まった。目に止まったのは枕だった。いくらなんでも枕になら匂い分子の1個や1000個はあるだろう。男は自分の匂いのするものに安心する習性から枕カバーをなかなか洗わないという。果たしてリシュリューは枕を自身の顔に押しつけて深呼吸した。鼻腔から脳へ爽やかな薫風が駆け抜けていく。ああ、なんていい匂い。清潔で透明感のある自然な石鹸の香り。

 リシュリューは真顔で枕をベッドにたたきつけた。どこの世界に枕カバーをこまめに替える男がいるのか。男たるもの皮脂で黄ばんだ枕を愛用するべきだ。提督は恥を知らねばならない。リシュリューの脳裡には提督の勝ち誇った笑みがよぎる。脳内で断頭台に送っても、その顔は地面を転がりながらなお笑っていた。

 しかし枕にすら体臭をまったく残さないとは不自然だ、という疑問が浮上する。ここにある枕はダミーなのか? だとするならば本物の枕がこの部屋のどこかにあるはずだ。それはとても魅力的な仮説だったので、リシュリューは一縷の望みをかけて室内を徹底的に捜索することにした。

 クロゼットに頭をつっこみ、タンスを1段ずつ慎重に探ったが、枕の影もかたちもない。残るは棚だ。文房具など細々したものがしまわれているに過ぎないが、ひとつだけ、ダイヤル式の鍵がかけられている棚があった。よもや枕を隠すのにわざわざ施錠までするとは考えにくいが、いささか興味はある。ダイヤルは4桁。組み合わせは1万通りだ。いまは1105に揃えてある。まずはそのままシャックル(南京錠のUの字の部分)を引き上げてみる。開かない。さすがに施錠のあとにちゃんとダイヤルをずらしたようだ。しかし、なかにはダイヤル式南京錠をかけるとき、ダイヤルをまとめて回す人間もいる。だから1105の並びを維持したまま、ダイヤルを4つ同時に回しながら抜いてみる。1周したが忠義に堅い鍵はシャックルを手放さなかった。

 ここからがスタートラインだ。暗証番号4桁の組み合わせでもっとも人気の高い1111、1234、ほかゾロ目、連番を試す。開かない。提督の誕生日。開かない。ないとは思うが戦艦〈リシュリュー〉の起工日、進水日、就役日。開かない。だめもとでリシュリュー枢機卿の生没日。開かない。

 リシュリューは大きく息を吐いて気合いを入れ直した。最後の手段だ。まず0000に合わせる。シャックルを引っ張りながら、下一桁をゆっくり回す。0001、0002、0003……。0008のとき、それまで変化のなかったシャックルが、抜けはしないまでも、ほんのわずかに緩んだ気がした。つまり下一桁は8だ。

 おなじ要領で下二桁に挑戦する。0018、0028、0038……。1周して0のときにかすかな手応えがあった。下二桁は0でよかったようだ。

 そうして番号を合わせていって、ついに南京錠が白旗をあげた。番号は1108だった。提督はダイヤル式南京錠の下一桁を少しずらすだけというタイプの人間らしい。

 満を持して棚の引き戸を開ける。なかでリシュリューを待っていたのは、予想に反して、なんだか円筒形の餅のような、見慣れない物体だった。片手で握るのにちょうどいい大きさだ。ぷるんぷるんしていて、なにやらかわいい。持ち上げてみると、外見のイメージどおり軟体動物のようにやわらかく、肌色に近い彩色とシリコンのすべすべした手触りもあって、なんともいえぬ愛嬌がある。ほほずりしてみると、ひんやりとした触感が気持ちいい。さらに仔細に観察してみると、物体の一方の先端には穴があった。口のようにも見える。ナマコのフィギュアだろうか。たしかに提督は変わった生物が好きそうではある。口に指を突っ込んでカクレウオの気分が味わえるおもちゃなのかもしれない。人差し指で試してみたが、内壁の(ひだ)やざらつきが感じ取れたくらいで、とくにこれといった発見はなかった。枕でないことはわかる。リシュリューは正体を探るため、物体をさまざまな角度から観察することにした。

 提督が帰ってきたのはまさにそのときである。

「あ、電気がついてる。リシュリューきてたのかい? あしたからも忙しくなりそうだから、きみにはしばらく迷惑をかけるが……」

 物体を捧げ持つようにしているリシュリューと目が合って、提督が息を呑んだ。

 ぶきみな沈黙が流れた。提督とリシュリューは互いに見つめあっていたが、あきらかに提督には動揺があった。

 やがて提督はようやく意味のある言葉を発した。命乞いにもひとしいそれは、こんな言葉であった。

「違うんだ!」

「浮気現場を押さえられた女の言い訳みたいね」

「とにかく、それをもとあった場所に戻してくれ、いや、そこらへんに置いてくれたんでいい、もうどこでもいいから、とにかく放して」

「そんなに大事なものなの?」

「わけありでソースは出せないが、それ以上さわるのをやめたほうが……」

 リシュリューにはちんぷんかんぷんである。ひとまず物体を棚へ戻す。それから彼女は話題を変えた。

「ところでAmiral, きょう泊まっていってもいい?」

 このとき提督は、上ずったすっとんきょうな声をあげた。

「どうしたの」

「あ、そうだ! あしたインターンがくるから、よもや朝、きみがわたしの部屋から出るところなんて見られでもしたらめんどうなことになるから、きょうは……」

「艦娘と人間は愛しあえるってことを教えてあげたらいいじゃないの」

「すまない、とにかくだめだ」

 めずらしく本気で拒まれ、リシュリューはやむをえず戦略的撤退した。

 

 戦艦寮の自室から初月に電話をかけてみる。

「鍵つきの棚に、ナマコのおもちゃみたいなものがあって、Richelieuがそれを触っちゃったのが気に入らなかったらしいの。あれってそんなだいじなものなの?」

「ナマコ」初月が歯を吸う音がした。「シリコンの筒みたいなやつで、盲管の穴がある?」

「そう、それ」

 初月は率直に物体の正体を教えた。「それはな……」

 聞かされたリシュリューは、鼻で笑った。

「そんなものを使うくらいならRichelieuを呼べばよかったのに。こっちだって待ってたんだから」

「鍵の棚に入ってたやつだろう? だいぶ前からある」

「Richelieuが来るよりも?」

「あいつが提督になったときのものらしい」

「へえ。Amiralも、なんだかんだ男なのね。それで寂しさをまぎらわすなんて」

「まあ、あれが自分で買ったわけじゃないからな」

 意外な言葉にリシュリューは興味がわいた。

「だれかが贈ったの?」

「だれって……なんだ、あいつ、まだおまえに言ってなかったのか。なら直接訊け。僕からは言いにくい」

「……………………女?」

「あっ、いや、ちょっと待てリシュリュー、落ち着け……」

 初月が必死にとりつくろおうとした。「とにかく、あいつとじかに話してくれ」

 

 明くる朝、インターンが来訪する直前、リシュリューは執務室の戸を叩いた。危険を察知した初月がさりげなく辞去した。提督とリシュリューの1対1となった。

「あれは、だれから貰ったの?」

 あらましを知っていると悟ったらしい提督は、昨夜の取り乱した言動を詫びてから話しはじめた。

「大学時代に付き合っていた女性がいた。はじめての彼女だった。3つ年下でね。自慢ではないが向こうから告白してきた」

 リシュリューも真剣に静聴した。

「はじめて尽くしだったから、どうすればいいかわからなかった。おなじ年頃の男女がどんなふうに遊んでいるか想像もできなかった。だいいち彼女がわたしのどこを好きになったのかがわからない。嫌われないようにするのが精いっぱいだった。いつも彼女の顔色を窺っていた。それがいけなかったのかもしれない」

 提督の顔に後悔の念と、それを掘り起こす苦しみが滲んだ。

「ある日、わたしに提督の適性があることがわかった。それで軍に引き抜かれた。発つ前日、彼女がいった。“あなたがわたしと一緒にいて楽しいのかどうかわからない”。恥ずかしい話だが、そのときですら、わたしはその言葉に対する最適解を探していたんだ。自分の本心を正直に伝えるんじゃなく、どう答えれば正解なのかとね。いま思えば、あのときの彼女の表情は、わたしへの憐れみだったんだな」

 リシュリューは黙って続きを待った。

「それで別れぎわ、彼女がプレゼントをくれた。たしかこういっていた……」

 “いろいろ指で試してみたけど、これがいちばんわたしのに近いと思うの”

「帰って開けてみたら、あれが入っていた、というわけだ。5年前のことだ」

 提督が長い息を吐いた。

「まあ、おまえにはこれでじゅうぶんだっていう皮肉だろうね。たしかにわたしにはお似合いだったかもしれない」

「具合はどうだったの? 本当に似てた?」

「使ったことがないからわからない」

「捨てればよかったのに」

「踏ん切りがつかなかった。きょうまでずるずると」

「その女性とは、それからは?」

「なんの連絡もとっていない。本当だ」

「それはいいけど」リシュリューには違和感があった。「電話も、SNSも、手紙も、なにもないの?」

「誓って」

 リシュリューは提督が勘違いをしている可能性に気づいた。

「それ、相手はまだ別れたとは認識してないかも」

 提督は何度かまばたきをした。

「おもちゃを貰ったとき、自分たちはこれっきりだってはっきりと言った?」

「いいや」

「どちらとも?」

「ああ」

「相手からしたら、遠距離恋愛になるからこれを自分だと思って持っていってっていうつもりだったんじゃない?」

「だが、楽しいかどうかわからないと恨み言を……」

「自分を責める言葉だったのかも。あなたではなく」

「どうかな……先方からいっさい連絡もないが……」

「あなたの仕事の邪魔をしたくないから、自分からは連絡しないと決めているとか?」

 提督はにわかに狼狽しはじめた。もしリシュリューのいうとおりだとすれば、5年ものあいだほったらかして待たせているばかりか、べつの女性と付き合っていることになる。

「きょうにでも電話してみるよ」と提督はいった。「もし向こうも別れたつもりだったんなら、わたしが恥をかくだけですむからね……」

 そのとき、ノックの音が響いた。初月が顔を覗かせる。「来たぞ。応接室に待たせてある」

 提督はあらためて自分の服装を確認したが、リシュリューにも点検された。初月を加えた3人で応接室に回る。

「話はついたか?」

 先行して歩きながら初月が両者に尋ねた。提督が苦笑いする。「なんとか」

「ハツヅキはその女性を知ってるの?」

「話だけは。こいつがここに来る前のことだからな」

 リシュリューに答えた初月が応接室の扉を開ける。

 なかでソファに掛けていたインターンが立ち上がった。

 提督はよそゆきの笑顔と声に切り替えた。「お待たせしました。わたしが」インターンの顔を認めた瞬間、提督の言葉が消えた。

 インターンは、純白の制服を着込んだ、ひっつめ髪の、まだ少女かと疑うほど若い可憐な女性だった。折り目正しく頭を下げる敬礼をした彼女は、

「このたび、海上歩兵部隊指揮官訓練の一環として、提督の補佐を任じられました。みじかいあいだですが、よろしくお願いいたします」

 はきはき名乗って、提督を真正面から見据えた。提督がゼロ除算をさせられた計算機みたいに固まっていた。補佐は、朝露に濡れた彼岸花のように表情をほころばせてみせた。

「お久しぶりです。本当に提督になられたんですね」

 親しみを込めた補佐の言葉に、リシュリューは右目の下をひくつかせ、初月は頭を抱えた。

 

  ◇

 

「ではまず、鎮守府のなかを案内してくださいますか?」

 なぜか補佐が主導権をにぎり、提督が否も応もなく付き合わされた。立ち去りぎわ、補佐がリシュリューを一瞥し、愛想笑いとは異なるような、妖しい薄笑いを残していった。

 勤務時間中、補佐はまるで提督との記憶を失ったかのように私事を差し挟まなかった。それが提督にはかえって不気味に思えた。しかし実務能力はすこぶる優秀だった。また艦娘たちともすぐに打ち解けた。同性である以上にひとえに彼女の人柄のなせるわざといえた。とくに駆逐艦娘らと談話しているさまは、生徒と教育実習生のように平和な光景であった。「遠征で被弾することがあるんですか?」補佐が驚いたような顔をすると、「あるある。死にゃしないけど」長波が旧友のように話した。表情が豊かな補佐との会話をだれもが楽しんだ。

「リシュリューさん、ですよね。フランスからいらっしゃった」

 艦娘たちのあいだから補佐がたまたま通りかかったリシュリューに声をかけた。

「なにか用」

 とげとげしい物言いにも補佐はまったく意に介さなかった。

「あなたともお話がしたいのですが」

「Richelieuは話すことなんてなにもないわ」

 足早に立ち去ろうとした。

「提督のこと、いろいろ教えてあげようと思ったのに」

 リシュリューは一瞬たちどまったが、自制心により振り返ることなくその場を立ち去った。

「提督とは以前から?」

 コマンダン・テストが興味津々に訊いた。

「ええ、大学の先輩なの」

 補佐はどうとでもとれるような答え方をした。

 

 昼食の時間も補佐は提督のそばから離れなかった。華奢ながらその小糠雨(こぬかあめ)のような風情が、どことなく提督の隣に似合っているように見えて、リシュリューはその思いを必死に振り払った。リシュリューは自分の二の腕をつまんでみた。

「ねえ、Amiralは、細い女のほうが好き?」

 ふたりになれる隙を見つけて提督に質した。

「なぜ?」

「Richelieuって、太ってるかしら。もっと痩せたほうがいい?」

「そんなことないよ。謝肉祭だよ」

 提督はむしろ困惑していた。

「リシュリューらしくもない。自分の審美眼を信じるのがきみだろう?」

「そうだけど……もういいわ」

 置いていかれた提督は口をぽかんとあけるばかりであった。

 

 女はうわさを宝石よりも好む。艦娘たちのあいだではすでに補佐と提督が交際していたことが知れ渡っていた。

「日本には、“焼けボックイには火がつきやすい”というコトワザがありマス」

 コマンダン・テストがリシュリューを焚きつけた。

「マツボックリ……?」

「焼けボックイ、デス。つまり、別れた男女が時間を置いて再会すると、また火がつく、という意味デス」

 だが、この仏水上機母艦娘の意に反して、リシュリューは口から魂が出そうなため息をした。

「やっぱり……」

「え?」

「やっぱりAmiralは、人間の女とのほうが幸せになれるのかしら……」

 予想外の反応にコマンダン・テストはたじろいだ。

「本当に愛しているなら、より幸せになれる選択をさせてあげるべきよね……」

 コマンダン・テストは、ここで退いてはならない、と自らを奮い立たせた。

「それでも欧州最強の戦艦Richelieuデスか!」

 トリコロールのメッシュを入れた金髪を逆立てた。

「自分が愛しているから手に入れる。そのまっすぐなところに、提督も惹かれたのではないデスか!」

 コマンダン・テストはリシュリューの胸倉をつかんだ。

「おふたりが、どれほどイチャイチャしてワタクシたちに見せつけてきたか、知ってマスか。そのさまにワタクシたちだって、辟易しながらも、励まされたりもしたのデス。人間と艦娘、日本とフランス、生まれも育ちも違う、考え方だってまるっきり違う、なにかあると喧嘩ばかり、はたから見ると全然似合ってないデコボコカップル。なのに、おふたりがお互いをとても愛しあっているのが手に取るようにわかるからこそ、ワタクシたちもだれかを愛せるんだって、証明してくれたのデス」

 胸倉をつかむ手に力をこめる。

「このままサヨナラなんて、絶対に許しませんよ。せめて、はっきりとご自分の気持ちを伝えて、シロクロつけてきてくだサイ。提督だってRichelieuに当たって砕けるつもりで告白したんデス。“本当に愛しているなら、より幸せになれる選択をさせてあげるべき”? ハッ。そんなの、傷つくのが怖いから逃げてるのを言いつくろってるだけでしょう。本当に愛しているのなら、それこそ提督とおなじ勇気をだしてくだサイ。あなたが欲しいからそばにいろって」

 リシュリューの瞳に光が戻りはじめる。コマンダン・テストが手を放す。

「行ってくる」

 リシュリューはただひとこと、そう告げて後にした。

 

 酒の力を借りるため、リシュリューはBar早霜に寄った。提督が下手くそな口説き方をしてきたのが、遠い昔のようにも、きのうのことのようにも思える。頼んだカクテルはブラッディ・マリー。そのカクテル言葉は「断固として勝つ」。

 そのとき、店のドアが開いた。早霜の顔がわずかにひきつったようにも見えた。

 リシュリューが顔だけ振り向かせる。そこにはいまいちばん会いたくなかった相手がいた。

「隣、いいですか」

 答えを聞くまでもなく、補佐はリシュリューの隣に腰を据えた。

 

 補佐とリシュリューがBar早霜にいるという情報は瞬時に艦娘たちのあいだに駆け巡った。長波が懸念を示した。

「リシュリューの奴、ついカッとなってぶん殴ったりしないだろうな」

 そうなっては一大事である。折悪しく提督が捕まらない。初月が大急ぎでBar早霜に駆けつけた。すでに店の外まで喚き声がもれている。初月は仲裁に入ろうと勢いよくドアを開けた。

 

「だいたいあの男はヘタレすぎるんですよ! デートひとつとっても、どこに行きたいか訊いたら“きみが行きたいところでいいよ”。こっちはあんたに訊いてんだっつうの! 受け身すぎるわ! 草食系通り越して牧草系ですよ。風にそよがれながら食われるのをただ待ってるだけ」

「わかるわ」

「あいつはですねぇ、自分からはエッチに誘わないことが誠実さだと勘違いしてるんですよ。もっと食いついてこいよって話ですよ。あれはただ単に断られたときに自分が傷つくのがイヤなだけなんですよ。いっつもこっち任せ」

「たしかに、Richelieuから誘うことがほとんどね」

「やっぱり! こんな美人がいながら。なんにも成長してねーなーあの野郎」

 補佐はそこでブランデーサワーをぐいとあおった。ブランデーサワーのカクテル言葉は、「甘美な思い出」だ。

「わたし、憧れのシチュエーションがあったんですよ。彼を起こさないようにベッドを脱け出して、朝ごはんつくってたら、音とか匂いで起きたあの人に、後ろから襲われてそのまま……っていうの。いっぺんもありませんでした。いっぺんもありませんでした! だから思いきって言ったんですよ。襲われたいって」

「なんて答えたか当ててあげましょうか。“火や刃物を扱ってるときに手を出したら危ないじゃないか”」

「そう! そうなんですよ! 真面目か!」

 バーテンダーの早霜にソウルキスをオーダーしてさらに続ける。ドライベルモットとスイートベルモット、デュボネ、オレンジジュースをシェークしたそのカクテル言葉は「どうにでもなれ」である。

「こっちだってスタンバってるんだから大丈夫なんですよ。そこがあいつはわかってない。ときにはむちゃくちゃに求められたいって女心が」

「“そうね、あなたにとってわたしの魅力は理性で抑えられる程度のものなのね”って感じね」

「リシュリューさん、話がわかる。わかりすぎる! そしてそんなやつを矯正できないまま送り出してしまってもうしわけない」

 と、補佐はカウンターに両手をついてみせた。

「Richelieuよりもあなたのほうが苦労したでしょうね」リシュリューは次にジントニックをオーダーした。

「嫌味だな~」補佐が赤ら顔で笑った。ジントニックの隠された意味は「いつも希望を捨てないあなたへ」。リシュリューは「あら、美味しいから頼んだだけよ」と涼しい顔である。

「まあ、でも、ぶっちゃけ、そうかも」

 補佐は競うようにセプテンバーモーンを流し込んで、大きくため息をついた。カクテル言葉は「あなたの心はどこに」。いまの補佐の吐息を浴びただけで下戸なら酩酊するだろう。

「わたしあの人からエッチ誘われたことないんですよ。こっちが先手打ちすぎてるのかと思って、あえて誘わなかったんですよ。何日経ってもだめ! 意地になってずーっとほっといたら、ずーっとそのまま。10日目に我慢ならなくなって問い質したら……」

「“気分じゃないのかと思ってた”?」

 補佐は髪が上下に揺れるほど激しく何度も首肯した。

「何度あの人にレイプされてむりやり中出しされるシチュで自分を慰めたことか」補佐がアメール・ピコン・ハイボールの苦味に顔をゆがめて堪能する。カクテル言葉は「分かり合えたら」だ。

「あいつたぶんレディコミかなんかで、ヒロインに強引にセックスを求める男でも見て、こうはなるまいとか思ったんでしょうね。漫画とかマニュアルとかじゃなくて、わたしを見ろよって話ですよ!」

 レディコミとやらはそんなにエグイ書物なのかとリシュリューはぼんやり思った。

「お掃除フェラだってしたかった! それで復活して、またやってのループで、朝までセックスしたかった! 朝っぱらからまだ歯も磨かずにベロチューされたかった! 優しさなんていらなかった!」

 思いの丈を吐き出し、一気に目の据わった補佐がアプリコットフィズを頼む。カクテル言葉は「振り向いてください」。彼女の肩にほとんど素面と変わらないリシュリューがそっと手を置く。

「それでも、好きなのね? いまでも」

「好きになる人を選べたらなぁ」

 補佐はしばらくタンブラーを弄んでいたが、やがて、

「でも、リシュリューさんにはあいつのほうから告白したんですよね」

「ええ」

「うおお、ストレート。傷つきました」

「傷つけるために言ったもの」

「そっかあ。あのクソヘタレ牧草系が、自分から告白かあ。なんだ。成長してんじゃん」

 カウンターに突っ伏して、左腕を枕がわりにし、右肘を立てた状態で、補佐はしみじみ言った。

「負けたなあ」

 リシュリューは自身のグラスを飲み干した。それから「この人にアメリカーノを、わたしにハイライフを」と早霜に注文した。早霜がたじろいだ。アメリカーノは「届かぬ思い」を、ハイライフは「わたしはあなたにふさわしい」を意味する。ハイライフの「あなた」にリシュリューがだれを代入しているのか、早霜にもわかりきっていた。

 だが、補佐は心底から楽しそうに、

「普通さあ、そこは、わたしにフローズン・マルガリータ(元気を出して)とかさあ」

 と毒づいた。

 リシュリューはメニューを眺めながら「リュヌ・ブルー(できない相談)も頼もうかしら」と受け流した。

 補佐がアメリカーノをおいしそうに味わったあと、

「リシュリューさんは、あいつと喧嘩はしたことあります?」

「痴話喧嘩なら、しょっちゅう」

「そっかあ」

 悲しそうに笑った。

「わたし、あいつと一度も喧嘩したことないんですよね。わたしが押してあいつが引くばっかりだったから。そっかあ。リシュリューさんとは喧嘩するんだあ」

 くつくつと笑って、どこか吹っ切れたように、

「なんか、あいつもリシュリューさんも勘違いしてるみたいだけど、わたしはもうあれとは別れたつもりっすよ」

 と言った。

「だから、わたしのことは気にせずに」

 補佐は、迷いを振り払うように、はっきりとした口調で早霜に頼んだ。

「ギムレットを」

 リシュリューはカクテルを楽しみながら苦笑した。

「うそつき」

 

 帰ってきた初月は、憔悴しきった顔で「とにかく、提督は縛り首になるべきだ」と長波に語った。

 

  ◇

 

 翌日、鎮守府はとくになにごともなくスケジュールを消化した。補佐はあした鎮守府を離れる。

「あのコのことだけど」

 夜の港が窓から見下ろせる執務室でリシュリューがどこかよそよそしく言った。

「そんなに悪い人間じゃなかったわ」

「わたしよりいい提督になるだろうな」

「あなたのことが、本気で好きみたいだった」

 リシュリューは目をそらしたまま続けた。

「1日くらいなら、かまわないわ」

「え?」

「最後の思い出でもつくってきたら?」

 一拍置いて、提督が立ち上がり、リシュリューに直線で詰め寄った。

「それはきみの本心か?」

 リシュリューは目を合わせられなかった。

「Richelieuの気持ちは関係ないでしょ。あなたとあのコの問題なんだから」

「それできみはいいのか?」

「だから、Richelieuは関係ないって……」

「きみの気持ちを聞いているんだ。きみがいながら、ほかの女性を抱く。それでいいのか? きみにとって、わたしはその程度の存在なのか?」

 リシュリューは自分で自分をぎゅっと抱きしめた。

「やっぱり人間のあなたには、人間の女のほうがいいのかなって……」

「それは本心じゃないな。自分が艦娘だろうがなんだろうが、欲しいものはなんとしてでも手に入れるのがリシュリューだ。きみにとってわたしは、そうではないのか?」

 提督の声には真摯な怒りがあった。

「なぜ、彼女ともう二度と連絡もとるなと言わない? わたしは全員を納得させられる答えが出せるほどできた人間じゃない。わたしの腕はきみを抱きしめるためだけにあるからだ。わたしはきみを選ぶために必要ならほかのすべてを捨てる覚悟でいるつもりだ。それで彼女を悲しませたとしてもだ。なのに、きみは違うのか?」

「Richelieuだって!」

「なら言ってくれ。わたしを愛しているのなら、いつものように、きみのわがままな本心をぶつけてくれ。きみがしてほしいことをわたしにぶつけて、わたしもきみにしてほしいことをぶつける。正面から本音をぶつけあって、そうしてはじめて本当の絆が育まれるのではないのか?」

 リシュリューがしゃくりあげて、目尻を指で拭った。桃色のくちびるが動いた。

「本当は、彼女のところになんて行ってほしくない」

「ああ」

「あなたを死ぬまで独り占めしていたい」

「うん」

「彼女とつくった思い出を、ぜんぶRichelieuで上書きしたい」

「うん……」

「でも、嫉妬深い女だって思われてあなたに嫌われたくない」

「相手に合わせようとするなんてきみには似合わない。わたしは、はっきりと自分を主張するきみに惚れたんだ」

「じゃあ、あのコの連絡先も、ぜんぶ消去してほしい」

「そうこなくては」

「それから」

 リシュリューが透明な涙をほくろへひとすじ流しながら、提督をまっすぐに見て、爽やかな笑みを浮かべた。

「あのおもちゃも、捨ててほしい」

 提督はしっかりと頷いた。

「いますぐ捨てよう」

 提督がリシュリューを力強く抱き寄せた。互いが火のかたまりのように熱かった。

La lune est belle, n'est-ce pas?(月がきれいですね)

 揺るぎのない静かな宣言に、リシュリューは蒼天の瞳いっぱいに提督を受け止めた。それから美貌をくしゃくしゃにしながら提督の背に腕を回した。

Je mourir pour tu.(死んでもいいわ)

 その夜は、やけに提督が優しかった。「乱暴にして」リシュリューは熱い吐息をもらした。「Richelieuを傷つけて」

 

  ◇

 

 翌朝。

 補佐を提督とリシュリューが見送った。

「貴官の栄達と壮健を祈る」

「提督も、お元気で」

 秋風に吹かれる補佐は美しかった。

 提督が門に立つ補佐の名前を呼んだ。

「わたしたちは、もう終わりだ」

 佳麗な補佐は稚気に富んだ笑みを見せた。

「リシュリューさんにも言いましたが、いまさらですよ。わたしはずっと前からそのつもりです」

 すると、リシュリューが提督の腕に、みずからの腕をからませた。これには補佐も苦笑した。

「見せつけますね」

「ちょっとでも望みがあると思われたらいけないから」リシュリューはいけしゃあしゃあと言い放った。「完全にあきらめがつくように、これはRichelieuなりの優しさ」

 提督は立つ瀬がなかった。

「だから、もう終わってるんですってば」

 補佐は清々しく笑って、スイッチを入れたように威儀を正した。

「お世話になりました」それからいくぶんの情をにじませて、「お幸せに」

 颯爽ときびすを返し、ふたりに背を向け、確固たる意志を感じさせる足取りで、前へ、前へと歩いていった。

 その背に、提督は「ありがとう」と言おうとして、すんでのところで呑み込んだ。ありがとう? ありがとうだって? おまえはいまさら善人面をするつもりか。よくもまあそこまで自分に酔えるもんだ! それが脳裏によぎった。

 いい人を演出してはならない。補佐は優しい女性だ。きっと、本心がどうであれ、提督を傷つけないよう、飛びっきりの笑顔で「どういたしまして」と返してくるに決まっている。だから提督が「ありがとう」と彼女に言うのは、この期に及んで「わたしに華を持たせろ」と補佐に強要するようなものだ。

 だから、提督はただ無言で見送った。提督はなにもしてはならなかった。

 

 だいぶ鎮守府から離れたところで、補佐とすれ違った親子連れがあった。男の子は手を繋いでいた母に訊いた。「ねえ、あの女の人、なんで泣いてるの」

 

  ◇

 

 提督とリシュリューは連れ立って執務室へ足を向けた。きょうも仕事が山積みになっている。

「あのコ、きっと泣いてるわよ」

 隣を歩く提督にリシュリューが言った。

「わたしたちのせいでね」

「あら、Richelieuも?」

「共犯みたいなものじゃないか」

 あらためて指摘されたリシュリューがわずかな自己嫌悪を見せた。

「Richelieuって、嫌な女ね」

「じゃあわたしは、嫌な男だ。お似合いだな」

「言うようになったじゃない」

 だれもが人生の主人公だ、と偉人たちは言う。だが、一生懸命に生きていれば、そのつもりがなくとも、だれかの人生にとっての悪役になってしまうのだ。敵がいないのは、本気で生きたことがない証だ。

 だからこそせめて、という思いをこめて提督は言った。

「きみを幸せにしたい」

 リシュリューは彫像のような横顔のまま、

「勘違いしないで。Richelieuが、あなたを幸せにするのよ」

 と応じた。

「いいや、わたしがリシュリューを幸せにしたいんだ」

「されるだけなのは性に合わないの。Richelieuが幸せにしてみせるわ」

「わたしだってもらうだけなのは嫌だ。わたしがきみを幸せにしたいんだ」

「いい度胸ね。できるものならやってごらんなさい」

「いいとも。リシュリューがくれる以上に幸せにしてみせよう」

「Richelieuの愛に勝てるかしら」

「わたしにはリシュリューを幸せにできる自信がある」

「いいえ、きっとそれ以上にRichelieuがあなたを幸せに……」

「いやいや、わたしがそれ以上にリシュリューを幸せに……」


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。