その晩は月の顔も半面となった弦月であった。
半身の欠いた月の光は弱々しく、人々の足元には闇がしがみ付いていたが、その晩は身分も性別も問わず、レムリア共和国の誰もが表へと出て、空を見上げながら祈りを捧げていた。
人々が祈る相手は半身の月ではない。この晩は、それよりも輝く空へと浮かんでいた。
光の尾を曳きながら、輝くものは悠然と夜空を駆けていく。
今日こそは神去る日。長きにわたりレムリアを庇護していた守護神が冥府へと旅立つ日である。
インファント島の聖域では、二人の巫女が篝火を前にして高らかに神送りの歌を歌いあげていた。
「
「
「そは隠れたると
「時果つる永劫の後に、死をも飛び越え
「別れはしばしの事とはいえ」
「我らが悲しむのを許し給え」
「
「
その歌に込められた祈りは確かに
それでも
虎は死して皮を留める。
そして、これこそ
ただ伝説のみを残して、
月をも超えて行くと言う者も、太陽の重力さえ届かない向こうへ行くという者もいた。
しかし、どこまで行くかは伝説には語られていないし、レムリアの高度な科学力でも捉えきることはできなかった。
ただ遠くへ、ひたすら遠い空の彼方へ
バラとレラが別れの歌を歌い終えた時、既に
月をも翳らす輝きが闇の彼方に消えると、実に寂しい夜だけが残った。
巫女のような感応力がなくても、共和国中の島々で民衆が嘆き悲しむすすり泣きが聞こえてくるかのようだった。
さらに悲しんでいたのは人間だけではない。
バラとレラの背後では、卵から孵った二柱の
彼ら
歌い終えた二人の巫女はしばし空を見上げていた。
「逝ったか」
「そうですわね」
レラはそっと流れる涙を拭いた。
「……」
その時、バラの内心にふとある疑問が浮かんだ。
目を閉じると、自分の心にある疑問を妹にぶつけるべきかと逡巡する。
その疑問は全くこの場に相応しくなかったし、巫女が口に出すべきことでもなかった。
だが結局バラは口を開いた。掟だのなんだのに縛られて自分の口をつぐむことは、バラには耐えがたい行為であった。ましてや空気を読むなど彼女の気質から最も遠い行いである。
「……レラ、お前は今歌ったように、
「可能性という意味でならゼロではないでしょうね。ですが、易々と帰還するとは言えません。今まで一柱とて帰ってきた
「ただ?」
「……これがただ死に往く旅であるというのは悲しすぎます。
レラの言葉にバラは満足げに頷いた。
「お前はいつも私の聞きたい答えを返してくれる」
「私、何か言いましたか?」
「希望だよ。どうも近頃の私は悲観主義に囚われがちでな。時々何もかもが無意味に感じてしまうのだ。お前はそのままでいてくれよ、私のようになるな」
「ふひっ」
まだうっすらと涙を浮かべたまま、レラの顔はほころんだ。
「私は姉さんのようにはなれませんし、別になりたいとも思っていませんよ!」
「なんだとキサマ! どういう意味だ!」
「そういう風にすぐカリカリするようにはなりたくないって意味です! さあ、風も冷たくなってきたので戻りましょうか!」
いうだけ言うと、レラはトトトと小走りで走り去っていった。
バラは妹の後ろ姿を見つめながら、誰にも聞こえないよう小さな声で呟いた。
「レラ、私のようになるなよ……」
バラは右腕をピンと伸ばすと、真っすぐ東の方角……海岸、あるいはそのさらに向こう側を指差した。
バラは精神を集中させると、思念波を使い、短いメッセージを
『行け』
レムリア共和国は
二柱の
「俄かには信じ難い。それは確かなのか」
評議会議長であるチャンドラ老が怪訝な目で二人の巫女を見つめた。
「……残念ながら、私たちにはあの子の気配が感じられません」
笑顔を絶やさないレラもこの時ばかりは俯きがちに答えた。隣ではバラも無言で頷く。
「長きに渡りレムリアを守護していた
チャンドラ議長がそういうと、評議員たちも頷いた。但しこの場にいる評議員は全体のごく一部である。
この会合自体正式なものでなく、議長であるチャンドラと評議員の中でも特に有力な五、六人の代表、巫女の二人、そして軍からはヴァスキ将軍だけが参加した、密室での秘密会合であった。
それで、とチャンドラ議長が口を開いた。
「単刀直入に尋ねるが、消えたとは死んだということか? 正直に申せ。対応を間違えるとレムリアそのものが瓦解する案件だ」
「では正直に答えよう。それは分からない」
バラの言葉に場の空気がざわざわと震えた。
「曖昧な答えなのは分かっているが、我々としてもそうとしか言えないのだ、議長。少なくともインファント島にはいない。但し亡骸も見つかっていない」
「ヴァスキ将軍とも話し合いましたが、インファント島周辺で
「そうなのか、将軍?」
レラの言葉を受けて議長の目はヴァスキ将軍に向けられた。
「はい。
チャンドラ議長は苦々しげに唸った。
「では本当に消えた、か。まるで死出の旅に出たかのような……。しかし生存の可能性が一片でもあるうちは諦めてはならん。巫女よ、軍と協力し周辺の海域・島々を捜索するのだ」
「元よりそのつもりだ、議長。私はしばらくインファント島を離れ、捜索に協力する」
「……お前だけか? その方ら巫女は二人で一つ。それでよいのか、バラよ」
「問題ない。島に残った方の子はレラと結びつきが強い。ただでさえ双子の兄弟が消えたのだ、レラまで島から出てしまえば、
バラが自信たっぷりにそう宣言すると、チャンドラ議長は皺だらけの手をバラの肩において言った。
「では、頼んだぞバラよ。そなたの肩にレムリアの運命がかかっている。
「委細承知している。吉報を待っていろ」
バラは一礼すると、慇懃さを保ったまま部屋を後にした。
「姉さん!」
バラが扉に手を掛けたところでレラが叫ぶ。
「どうした?」
「お気をつけて!」
「うむ。お前もな」
バラの態度には不安さなど微塵もない。
普通であればその様子に違和感を覚える者もいるだろうが、そもそもバラは万事この調子である。
今更その態度に不信感を抱くものは誰一人とていなかった。
約四時間のフライトを終えて、バラとヴァスキ将軍を乗せた飛翔艦が停泊したのは島全体を軍が所有する島であった。
タラップを降りながらヴァスキ将軍は皮肉っぽく言った。
「それにしてもお前は演技派だな。よくもまぁ顔色一つ変えずにペラペラと嘘が出てくるものだ」
「嘘だと?」
バラはムッとして眉をひそめた。
「嘘など言っていない。ただ真実を言っていないだけだ。
「それに?」
「私は自分こそレムリアの運命を担う者だと本気で思っているとも」
そう語るバラの瞳は、あの夜見たよりもさらに深みを増しているように思われ、将軍はぞっとした。
時々、バラは人でないように見える……。
「おお、待たせたみたいだな。奴め、私を見て早く来いと急かしておるわ」
かつかつとタラップを降りていくバラの視線の先では、消えたはずの