時間軸は魔法少女事変終結後。
拙作『風のフォアシュピール』https://syosetu.org/novel/160207/と続作(未完成未発表)の設定を継いでいます。
(読むにあたっては、「風フォア」の後ライブイベントが終わるまでの間に、翼とマリアの間で友人と言うには近い距離になる出来事があった、とだけ踏まえて頂ければどうにかお読み頂けるかと思います)
(初出:2015/09/19)(他サイトと同時投稿です)
時間軸は魔法少女事変終結後。
拙作『風のフォアシュピール』https://syosetu.org/novel/160207/と続作(未完成未発表)の設定を継いでいます。
(読むにあたっては、「風フォア」の後ライブイベントが終わるまでの間に、翼とマリアの間で友人と言うには近い距離になる出来事があった、とだけ踏まえて頂ければどうにかお読み頂けるかと思います)
(初出:2015/09/19)(他サイトと同時投稿です)
魔法少女事変が終結して数日後。装者をはじめ、事変の関係者たちは徐々に日常を取り戻しつつあった。
翼もその例外ではなく、父・八紘との確執が解けたことで決意を新たに、周囲から助力を得つつ音楽活動の再開に向けて様々に動いていた。
時刻は夜の九時を回った頃、都心のとあるマンション。今日のスケジュールを終えた翼が自宅のドアを開けると。
「翼、捕まえて!」
「え? っと!?」
ドアの隙間から足元をすり抜けてこようとした小さな何かに気付いて、咄嗟に屈んで行く手を阻止した。
細い胴、肩にあたる部分を手ではしっと挟んで捕まえたそれは、柔らかく、手触りの良い短毛に包まれている。
そして、部屋の奥から現れたのは。
「よくやった、翼」
ほっと安堵の表情を浮かべたマリアで。
翼の手に捕まった四足の小さなけものは、白い猫だった。
事変における最終的な戦闘が収束した後、著しく消耗した装者たちは全員、国連関連施設の医療センターに放り込まれた。
早急に必要な傷の手当と休息。その後に身体影響の検査。一眠りして気が休まり、我が身を省みる余裕が生まれてきた頃に、ふと相部屋のマリアがため息をついた。
転属してすぐに部屋を探しておかなかったツケがきた、と零しながらついたそれは、苦笑交じりの軽からぬもので――無理もなかった。
ロンドンでアーティスト活動中にS.O.N.G.への転属を果たして以来、マリアが仮宿にしていた潜水艦の本部は、海中より現れた超弩級サイズのオートスコアラーの手刀攻撃を受けて海の藻屑と消えている。事変が終結してみれば着の身着のままで青空の下に放り出されていた、という笑えない事実を前にすれば、そんなため息が出るのも致し方なかった。
S.O.N.G.の職員に掛け合えばすぐにでも融通のきくホテルかマンションを探しだしてくれるだろう。
そう妥当な助言が頭に浮かぶ。言いかけて、けれども翼は、それを伝えることはせず。
私の部屋に来ないか、と口にしていた。
「この猫か、通信で言っていたのは」
抱き上げた白い猫は、おとなとも子どもとも付かない大きさだった。懐から翼の顔を見上げて悪気なく無邪気ににゃあと鳴く。
「ええ。これでじゃらしてたのだけど、突然ドアの方へ走って行ってしまって……」
マリアが猫にリボン、たぶん包装用のだろうナイロンの赤いそれを垂らし落とすと、猫は活発にじゃれついてそれを抱え込む。
「おそらくドアの向こうに誰かがやってきたのを気配で察したんでしょう。その後ドアが開かれるのを経験で知っていて……きっとそういう要領で逃げ出したのね、この子は」
迷い猫、らしかった。
翼のこの2LDKの部屋を仮宿にして三日目、必要な生活基盤を整えた後、S.O.N.G.に初出勤だった今日。帰宅途中だったマリアはこの猫にマンションの近くで懐かれてしまって、別れるに別れられず、翼に通信を寄越したというのが今から数時間前の出来事だった。
首輪がついていることからどこかの家の飼い猫で、都心では室内飼いが基本だというから、それが外に逃げ出して歩きまわるうちに迷ってしまったのだろう。
見ていて不安になるほど人懐こすぎる。脱走癖があるのかもしれない。手がかりになりそうな首輪には何も書かれておらず、仕方なく家主の翼に通信で相談の上、こうして部屋に連れ込んでいるというわけだった。
「マリアさん、頼まれていたものを買っておきました」
上がった翼に続いて、後ろの緒川も玄関に入った。
マリアに促されて、緒川は両手に抱えていた荷物を上がりに置く。
「ご足労すまないわね」
「これくらいお安い御用です。マリアさんのお陰で僕も安心して仕事に励めますから」
「限られた期間だけど、やれる指導はやっておくわ」
「緒川さん、マリアまで……うぅ」
立つ瀬がない心地になって肩が落ちる思いがした。二人の間でどんな密約が交わされているかはなんとなく推して知れている。
部屋に招いたことで、片付けられない悪癖が幼少期だけでなく現役であることを響に続いてマリアにも知られてしまうことになったが、その懸念が立つより早くマリアに仮宿の提供を申し出ていたのだから、後の祭りだった。
初めてこの部屋を訪れた時、マリアは一瞬固まったものの驚きを口にせずてきぱきと片付けを始めた。その控えめな反応は生家の子供時分の部屋を一度見ているせいか思ったが、おそらく緒川から事前にある程度聞き及んでいたのだろう。そして両者間の密約もきっとそのときに。
使い終わったら元の場所に戻す、ものの置き場所を決めるなど、アドバイス的なものを都度マリアから受けるようになり、脱いだ服を自発的に洗濯かごに入れられるようになったくらいの進歩ではまだまだ至らないということを翼は知った。
「それでは僕はこれで失礼します、おやすみなさい」
一礼して、緒川が玄関を去る。扉が閉じられるまでを見送ったあと、マリアがこちらに向き直った。
「帰ったばかりですまないのだけど、この子を見ててもらえないかしら」
「ああ、かまわないが」
「先にこれらの設置を済ませるわ。領収書は後で受け取るから」
猫の頭をひと撫でしてから、マリアは緒川が置いた荷物を持ってリビングへと向かう。
緒川が運んできたホームセンターのラベルが付いたそれの中身は、数日分の餌と、餌トレーだった。他にもキャリー、トイレ、猫砂、ペット用シートなどの猫用のペット用品と聞いている。マリアからの連絡を受けた後、翼から話を聞いた緒川が手配して買い揃えておいたものらしい。
マリアに続いてリビングに入り、猫を抱いたまま翼はソファに腰を降ろした。
「領収書は一応受け取ってはいるが、私は手当の使い道がバイクくらいしかないから、これくらい構わないのだがな」
翼がリボンの端をつまんで動かしてやると、猫はソファの上で目を爛々と輝かせてそれにじゃれつく。その無邪気な様子には思わず顔が緩んでしまう。
マリアはソファから見える壁の近くで、膝立ちで屈んで用品の包装を剥いている。翼は猫を遊ばせながらマリアのその後ろ姿に、かねてよりの疑問を訊いてみることにした。
「それよりマリア。マリアは猫を飼ったことはあるのか?」
「ペットを飼ったことは一度もないわ。こちらが飼われていたようなものだからね」
「それ、は……」
声音は、本当に何気なく。その言葉は世間話でもするかのような調子で零されたが、マリアのこれまでの身の上を思い起こせば、言葉が詰まる。
「辛い過去を思い出させてしまったのならすまない。経験の有無を聞きたかっただけなんだ」
キャリーを組み立てるマリアの手が止まる。こちらに半分身体を向け、こちらを見遣ってくるマリアは、少々申し訳無さそうな顔で。
「すまなかったのはこちらのほうね。余計なことを言ったわ。ただ……調や切歌、それにマムがいて、幸せがないわけじゃなかった。だからそのことで胸を痛めてもらう必要はないわ」
「ああ……わかった」
気分を害させてしまったわけではないようで、内心で安堵した。けれど、マリアから向けられた困り笑いのような微笑みに心臓が落ち着かなくなるのを覚えて、視線を逸らすように隣の猫を見遣った。
マリアもまた組み立てを再開したらしく、声はその物音の合間に混じる。
「世話の仕方はネットで調べておいた。付け焼き刃の知識だけど、当面はそれで間に合うはず」
「そうか。私も後で見ておくとしよう」
「それで、飼い主を探すのに地域ネットワークへのアクセス方法を教えてほしいと緒川さんにお願いしたのだけど――」
マリアが言うには、緒川が諜報部で猫の飼い主を探してみますと言ったらしい。
事態の収拾に向けて忙しいこの時期に、リソースを割かせるわけにはいかないと辞退しようとするも、そんなに手間じゃありませんから大丈夫ですと通信機越しに爽やかに言われ、素直にお願いして連絡を待つことにしたのだという。
一般ネットワークは内閣情報調査室によっていつでも秘密裡に傍受できる状態となっていて、その情報を扱えるS.O.N.G.の諜報部なら本当に片手間程度の労力で飼い主を探し当ててしまうだろうことは想像に難くなかった。
カーペットの床に垂らされたリボンの端を追って、翼の足元で猫が白い後ろ頭を見せる。
さらにその向こうに、膝立ちの前屈みで用品を扱っているマリアの後ろ姿が見える。
猫の耳とマリアの髪型。その二つに形の類似性を見出して、思わず顔が綻んだ。
「マリアとこの子は似ているな」
「え?」
マリアが翼を振り返る。
同じタイミングで猫も同時に振り向いたものだから、軽く吹き出してしまった。
「いや、後ろ姿のシルエットが」
「なんのつもりの猫呼ばわり……」
マリアは少々憮然とした面持ちで軽く睨んでくる。ふ、と息をつきながら瞬きした後、浮かべた表情は挑むようなそれで。
「そうね。さらに言えば私も翼に拾われたようなものだから、そこも似ているわね」
「む、そういうつもりでは……」
「冗談よ」
気に障ってしまったと狼狽を覚えていると、マリアはすぐに表情を緩めて穏やかに笑った。
その笑みはたぶん、内心の狼狽が出たこちらの顔を見てのことなのだろう。気恥ずかしいきまりの悪さを感じていると。
「でも、誘ってくれたことに感謝しているのは本当よ」
率直な礼と共に、軽く微笑まれて。
「そう、か」
照れくささだけではない思いに駆られて、翼は視線を逸らすように足元の猫を見やった。
猫は無邪気にリボンにじゃれついてくる。マリアもまた作業を再開し、その物音を耳にする傍らで、意識は内に向いていく。
マリアはこの、居候という境遇にいつまでも甘んじることはしないだろう。なによりこの措置は、元より一時的なものだ。融通効く部屋が見つかればマリアはここを出て行く。飼い主が見つかればその元へ帰されるこの迷い猫のように。
リボンを追って、猫がソファの翼の座る隣に乗ってくる。
リボンを手指に巻き取って見掛けを無くしてしまい、揃えた指の先で顎下を撫でてやると、猫は差し出した手に靡くように額を擦りつけてくる。そんな姿を目にして、内心でため息する。
こちらの猫なら、簡単に撫でられるのに。
あちらの猫は、こんな風に懐いてくることはない。
近づくにしても、近づきあぐねて。
距離を、掴みかねていた。
ロンドンで、ライブが終わった後。たった数句だけ言葉を交わしたあの時が、事変を経た今は遠くに感じられてならない。
猫はふいに翼の手をするりと抜けて、リビングをととっと軽快に駆けて、マリアの手元に飛び込んだ。
「あっ、ちょっとっ」
猫はまとめ置かれていた包装にがさがさとじゃれついて、マリアが困ったふうに笑う。
微笑ましい情景を目にしながら、翼の手は空を握る。
猫のいなくなった右手に、言い知れない喪失を感じていた。
◇
翼は朝から出かけていった。その活動にカレンダー上の休日は関係がないようだ。マリア自身も一時期はそういう生活をしていたから、どういうものかは大体わかっていた。
S.O.N.G.勤務となったマリアは、今のところカレンダー通りの出勤予定が組まれているため今日は非番だった。そして自分の他にいる小さな居候のために、今日は一日部屋にいることに決めていた。
片付けと掃除、洗濯を終えて、遅い朝食を摂り終えれば時刻は既に真昼に近い。
洗い物まで片付けてソファに腰を下ろすと、背もたれに背を預けて天井を仰いだ。
誰もいない部屋で、一人。思い返せば、こんな時間は今までなかった。
外に出掛けずこうして一人部屋に残っていると、なんだか本当に室内飼いのペットになったような気がしてくる。
思いを馳せれば、影は現れて。膝に乗ってきた白い小さな同僚と戯れる。
喉を鳴らしながら腿の上で丸くなり、それを撫でながら、瞳を閉じた。
瞼の裏で思い返されるのは、これまでのこと。
ロンドンで翼と再会したこと。歌が好きな自分を思い出したこと。共に歌ったこと。
明らかになった翼の境遇のこと。確執のあった肉親に、夢を追うことを認められていたことを知ったこと。
それらを見て、感じたことを振り返る。
再び羽ばたいて望んだ空を飛ぼうとする、あの背中に。
わたしは何を見て、何を感じた?
わたしらしさ。わたしの根源は、何を求める? 何を求めている?
くらやみの中を漠と漂っていた光は、収斂して小さな輝きになる。
それは、胸の中で、保留にしていた答えそのものになって。
瞼を上げた。
◇
昨晩またも夜半となった帰宅を果たすと、マリアから猫の飼い主の連絡先が判明したことを聞かされた。ネットに迷い猫を探している旨の発信があったのが見つかったらしい。
翌日の朝、つまり今朝これから引き渡しというアポイントをマリアは取り、S.O.N.G.に出勤する途中で飼い主である老夫婦の自宅へ届けるのだという。
翼はそれより三十分ほど後の時間に緒川が迎えに来る予定になっているので、供をすることはかなわず見送るしかできない。
猫は寝床を兼ねていたキャリーにおとなしく収まった。
翼がかまってやった時間は半日にも満たない。だが、いざこうして別れるときがやってくると、寂しさを覚えてならなかった。それは、不自然なほどひどく。寂しさを覚える間もなくの別れだというのに関わらず。
「行きましょうか」
支度の整ったマリアが、キャリーを覗き込んで中の猫に話しかける。おとなしくしていることに安心し、キャリーを持つと玄関に向かった。見送るべく、翼もその後ろに付いていく。
ミュールに足を収めるマリアを、為す術なく眺めて。
「それじゃ、先に出るわ」
「ああ、――」
左手でキャリーを持って一旦振返ったマリアが怪訝そうな表情を浮かべなかったのは、上手く普段通りに微笑むことができたからだろう。
ドアを開けるべく、マリアが背を向ける。そしてマリアの後ろ姿が目に入った途端。自分の手からするりと抜け出ていった猫の後ろ姿が、脳裏を過ぎった。
いずれ自分の元を、去る存在。
確たる繋がりが、欲しかった。それを欲することは、身勝手なことだろうか。
何もしなければ、一昨日の夜のように、この手は空を掴むだけで。
――何もしなければこのままになる。このままでいられないなら、何かを為すべきだ。
脳裏に蘇る、ロンドンで自分に向けられたマリアの言葉。それに再び、動かされて。
翼の右手は空ではなく。後ろ手で残ったマリアの、キャリーを持つ左手首を握った。
「マリア、」
桃色の髪の流れる後ろ姿に向かって、言う。
「ここで暮らさないか? 今後も、一緒に」
マリアが、動きを止めた。
翼もまた、動かなかった。”何か”は既に果たした。自分にできるのは、結果を待つことだけだ。
審判を待つ気分でいる時間は、そう長くはなかった。
ゆっくりと、マリアが振り返る。手首を掴む翼の手を空いている右手で掴み、そして、剥がした。
向けられた翡翠の瞳が、真っ直ぐに翼を見据える。
「誰かに飼われるなんて、私の趣味じゃないの」
言葉が耳に届いて、意味を解して心に作用が起きるまで、やけに時間がかかった。
すっと、背筋を冷たいような何かが駆け下りる。
刹那遅れて、胸の奥がきゅっと引き絞られる感覚。
それは、極薄の氷の刃を心臓に差し入れられたかのように、冷たく鋭かった。
無意識に僅かに瞠った目は、張りつたようにマリアから視線を外せなくなる。
心は、凍りついたように固まって、映すものは空白ばかりで。
だから、気が付かなかった。
「でも――」
マリアに右の手首を掴まれたままだったということを。
「帰るところがあるというのは、悪くない」
マリアの手が手首を滑り、握手するかのように手指を掴まれた。
それを胸の高さまで上げて、捧げ持つようにされる。その様は、格式張った古い作法の誘いかけの仕草のようにも見える。
その少し上にあるマリアの顔を思わず見遣る。視線がぶつかり、その途端、マリアは穏やかに微笑んだ。
「だから、私からお願いする。私と一緒に暮らしましょう、翼」
一瞬あいた間の後に。
今度は別の意味で。今度こそ本当に目を瞠って。
触れていた手指で、マリアの手を、自分からも掴んだ。
「ああ!」
胸の奥から湧き上がった温かなものが、心臓に刺さっていた氷の刃を瞬く間に融かした。
顔が綻んだのが自分でもわかる。それで表情まで凍りついていたことが知れて、少し気恥ずかしくなる。けれど今はそういう感情で満ちているのだから仕方がないと諦めた。
束の間の後。降ろされ、離される二つの手。名残惜しさを覚えるが、マリアはもう行かなくてはいけない時間だった。
ふいに、離されたばかりのマリアの手がふと上がって、こちらの左の二の腕に触れてくる。
軽く摘んだ袖を、つと引かれた。上体が前に少し傾いた分だけマリアとの距離が縮まる。
一方のマリアは、一歩こちらに踏み出して。
「話は帰ってから、ね」
揺れる桃色が、視界を染めた。
人の肌熱が間近に感じられて、そのあと。右頬にもたらされる、柔らかい感触。
「それじゃ、またあとで」
マリアは踵を返すと、今度こそ振り返らずにドアを開けて玄関を出て行った。
それを無言で、突っ立ったまま見送って。
ドアが閉まってから数秒を経て、翼の身体は直立したまま真横に傾き、すぐそばの壁に肩が当って支えられた。
いまの、は。
無意識的に腕が持ち上がり、手がそこに触れる。
止まりかける思考をどうにか動かして、いま起きたことを思い返す。
端的に言えば。頬に口接けをされた。
散り散りになりそうな思考が、欧米風の挨拶にそういうものがあるという見解を導き出す。
生まれも育ちも西洋文化圏なマリアなら、たしかにそうした挨拶をしたとしても不思議はない。
けれども。
間近に迫ったとき一瞬見えたマリアの顔。そこに浮かんでいた微笑みが、ロンドンで見たものと同じで、胸の奥に押し込んでいたものが、単なる挨拶に留まらないと否定してくる。
それは主張を強め、みるみるうちに胸中に広がって――完全に蘇った。
ライブ後の、たった数句だけの言葉を交わしたあのときの。勃発した事変を前に内に秘めざるを得なくて、奥深くに仕舞い込むうちに取り出し難くなっていた、あのとき気持ちが。
ああ、これだ。
掴みかねていた距離感が、取り戻されたのを自覚する。
自覚したところで、先刻の出来事を思い返すと。ますますもって頭がふらつく思いがした。
駐車場で緒川と落ち合う段になったときも、翼は頭のふらつきが未だ抜け切れていなかった。
助手席に座り、走りだした車の中で、緒川の話す今日のスケジュールを聞く。こんな精神状態であっても予定はちゃんと頭に入るのだから、日頃の習慣は有難かった。
スケジュールを聞いているうち、心は徐々に落ち着きを取り戻していく。話が一段落するころには完全に落ち着いて、沈黙が落ちたところで、あの、前置きして切り出た。
「緒川さん。私、マリアと同居することになりました」
翼がそう言うと、運転中の緒川の横顔が軽く綻んだ。
「そうですか。そうすると、今の部屋は二人ではやや手狭ですね。マリアさんの居住先ですが、シングル向けだけじゃなくファミリー向けの物件も探してあるので、後でリストを二人で見てみてください」
予想の斜め上な緒川の言に、翼は思わず目を瞠る。
「何故ファミリー向けまで?」
「そういう予感がしていたもので」
思わずため息がでた。
「……緒川さんには一生敵う気がしません……」
用意が周到過ぎる。未来予知も忍術の一つですと緒川が言い出したら、納得してしまいかねなかった。
「ただ、物件を抑えて入居はできても、実際に暮らし始めることはできないかもしれませんね」
「何故です?」
「当分先になるというか……翼さんはもちろんですが、マリアさんもアーティスト活動再開の可能性がありますから」
「え? どういうことですか?」
信号が黄から赤へ切り替わり、車はゆっくりと停車した。驚きの表情を浮かべる翼を、緒川が見遣る。
「マリアさんは事変勃発の際にS.O.N.G.への転属を果たしましたが、音楽活動は休止扱いとなっていて、米国政府とは有事が終われば活動を再開する約束になっていたようです。翼さんの活動再開については、トニー氏から打診の返事がありました。喜んで、だそうです。翼さんとマリアさんの二人がステージに戻ることを世界が待っている、と添えられていました」
「でも、マリアは……」
活動再開をトニーが快く受け入れてくれたことは当然、至極嬉しい。だが同時にマリアのことが気にかかって仕方がない。
「米国政府にプロパガンダとして音楽活動を強いられていましたが、そっちの方の問題はどうやらなくなりそうですよ。あとはマリアさん自身が決めることです」
「そう、なのですか……」
問題とは、マリアに歌姫を強制させていた力のことだ。その枷が取り払われる。そして、音楽活動をするしないは、マリアの意向次第。
「今日帰ったらマリアさんからお話を聞いてみてください。たぶん、結論を出しているはずです」
「はい――」
信号が青になって、車が動き出す。緒川はフロントグラスの方に視線を戻し、翼もまた車窓へと目をやった。
どう、転ぶのだろうか。
もちろん、マリアが望む道を取ることが一番だと思う。
けれど、生まれたままの感情を載せたマリアの歌をいま少し、近くで聞いていたいと思う気持ちがあるのは確かだった。
近くにいたいのは、マリアの歌なのか、マリア自身なのか――欲張りになったものだと、内心で自嘲する。
両方が、翼の願いだった。
◇
赤になった信号に従って車を停める。両手で握っているハンドルの円環のてっぺんに、マリアはこつんと額を落とした。
思い返すと、顔が熱くなって仕方がない。
玄関を出る前、こちらの返した誘いに応じた翼に、自分がしたこと。
その頬に、口接けしたことを。
……やり過ぎた、と思う。
一緒に居たいと願われていることが知れて、嬉しかった。けれど、なによりもあの時。ロンドンでライブを終えた後、たった数言だけ言葉を交わして別れたあのときの気持が揺り返すように戻ったことが、自分をあの行為に走らせた大きな要因に違いなかった。
思い切った行動をとっては、自分で動揺する。
我ながら呆れる。後悔先に立たずを地で行ってしまっている。どうしていつもこうなのだろう。
翼はあれを、どう受け取っただろう。親愛を示す挨拶程度に受け取っていてくれればいい、と思う。
そう考えるものの、自身の心にひっかかるものがあるのをマリアは感じていた。
本当にそうかと、問いかけてくるものが、心の奥にある。
動揺のあまり臆病にも及び腰になる自分と、それとのせめぎあいが、心で始まる。
心が、定まらない。
けれど、定まったことが一つある。
それは。
三日前、猫と出会った晩の昼間。
S.O.N.G.に初出勤だったその日、マリアはまず破壊から免れた本部の分離部に赴くように指示されていた。
ブリッジに入ると、司令官席の横に立つ弦十郎の後ろ姿が見えた。
「司令……」
「話は聞いている」
腕組みしたままの弦十郎がこちらを振り向く。
その真剣な顔つきに話の重大さを予感して、心の内で身構える。
「音楽活動の休止は有事の間に限られていたそうだな。さっそくあちらさんから君を音楽活動の現場に戻せという要請がきた。だが、断ることもできるぞ」
「え?」
断る。思いもよらなかったその選択肢に、虚を衝かれて思わず聞き返した。
マリアの反応が満足いったのか弦十郎はうむと頷いて、一転して表情を崩し穏やかな顔になる。
「米国の連中が未成年装者の情報を盾に君にアイドルを強いていたことはこちらも把握している。が、安心していい。米国政府の手の者が何かしてこようが、俺たちが水際で食い止めてみせる。八紘兄貴の後ろ盾もある、S.O.N.G.所属の装者を連中の好きにはさせんさ。まあこちらの動向もあちらに筒抜けだろうが、脅しの材料に事欠かないのはこちらも同じでね」
弦十郎は肩を竦め、軽く手を広げておどけるような仕草を取った。化かし合いは今にはじまったことではない、とでも言うように。
いかつい顔が、子供のやるそれのように、にやっと笑って。
「音楽活動を続けるも続けまいも、君次第というわけだ。どうする?」
信じ難いという思いと、信じたいという思いと。解放感と、歓喜と、躊躇いと不安と。様々な思いが頭を駆け巡って。
「私は――」
あのとき保留にした回答は、今は胸の内にある。
心は、定まっていた。
自分の歌が、誰かの慰撫になるのなら歌いたい。
歌が好きな自分を思い出した今、歌で誰かの助けになりたいというこの夢を、これから始めたい。
そして。
先に立つ羽撃いて飛ぶあの姿を、声を。近くで見て、聞きたいと同時に願うのは、欲張りだろうか。
翼と自分とは、自分が帰る場所であり、自分も翼の帰る場所でありたい。
心の奥に仕舞いこんだあの気持ちを、本物にしたいと、思うのだ。
※おまけ
時刻は夜の九時を回った頃。
玄関のドアが開かれる音がして、マリアはついソファから腰を上げた。
今日、弦十郎に伝えた自分の意志を翼にも話そうと、気持ちは心なしか浮き足立っていた。
翼がリビングに入ってくる。
「おかえり、翼」
口を噤んだままマリアの前に立った翼は、何か決意を滲ませるような表情を浮かべていて、じっとこちらを見据えてくる。
どうした、と言いかけたところ。両肩に手を載せられ、おもむろに身を引き寄せられた。
「え――」
そして。
「ただいま、マリア」
頬に、柔らかな感触がもたらされ。
翼はすぐに離れていった。
一瞬遅れて、頬に口接けされたのだと理解する。
「つ、翼、なにを……!」
身も心もよろめいて、翼を見遣ると。
「なにをって、挨拶だ」
「それはわかる!」
マリアの驚きぶりが気に障ったのか、少々ムキになり気味に翼が答える。
マリアも動揺のあまり、今朝の自分からの行為を棚に上げにして受け答えた。
翼は色白の頬をかすかに朱に色づかせ、うつむき加減に目を逸らしながら言う。
「欧米文化圏では親しい相手にこう挨拶するのだと私も知っている。人それぞれ仕方が違うということもな。今朝はマリアにこうされたから、これがマリアの仕方なのだと思ったのだが……違っていたか?」
「それはっ……」
やや上目遣いで目を合わせられ、今度はマリアが目を逸らした。
言えない。思いの丈あまってついやってしまったなどとは。
目まぐるしく頭を働かせ、咄嗟に思いつけた理由を口にする。
「こ、これから同居人になるわけだから、その……そう、家族的な挨拶のつもりだった」
「……そうだったのか」
翼は口元に手をやり、思案顔になって。一瞬だけの考えこむ仕草ののち、マリアを見遣る。
頬の赤は、何故かますます鮮やさを増して。
「では毎日、出掛けと帰りに、あの挨拶を行うのだな?」
「あ、――」
結局、あれは二人の間で交わされる挨拶ということに、落ち着けさせざるを得なかった。
タイトルは某ラノベのもじりから。
マリつば&猫っていいな、と思いついて考えていたネタなはずなのに猫活躍してなさすぎでした。同棲してる二人が猫を飼う的な甘い話にできなくて申し訳。
魔法少女事変終了後のマリつばの展望予想的な話として楽しんでいただけたのなら幸いです。