二人の女子中学生が会話するだけ。
とある中学校の昼休み、騒がしい教室の窓際に二人の女子が座っていた。
「鈴っちさ」
短髪の女子が、目の前にいる友人に声をかけた。
鈴っちと呼ばれた長髪の少女──鈴鹿はおっとりとした口調で返した。
「なあに、馬場ちゃん」
「死海ってあるじゃん」
「あるねえ」
馬場は小麦色に日焼けした腕を組んで、なにやら難しい顔をしている。
テストの成績など下から数えた方が楽な彼女が何に悩んでいるのか。馬場と頭の出来がさほど変わらない鈴鹿には検討も付かなかった。ただのんびり微笑んでいる。
「死海ってやっぱり、入ったら死んじゃうのかな」
「ああー。どうなんだろうねえ」
「だって死の海だよ。常に障気を放ってたりするんじゃね」
「うーん、触れたところから体がどんどん腐って溶けちゃったりするのかな」
「ちょ、具体的なのは止めてよ。いかん。夏なのに鳥肌立った」
「あはは。馬場ちゃんの肌イボイボー」
「触るなー、暑いー、溶けるー」
鈴鹿は「暑いねえ」と同調してから窓の外の晴れ模様を見た。白熱している太陽とうず高く積もった入道雲を眺め「海で泳ぎたいなあ」と言う。
「死海で?」
「ううん、死海は怖いからいいや。ほら、溶けないにしても変な生き物がいそうだし」
「確かに。たぶん毒持った魚とかいるね」
「人面魚もいるかもねえ」
「鈴っちの発想はいちいちグロいな」
「えー。でもそこにしか棲んでない生き物がいたら面白いよ」
「そこにしか棲んでないか。そだね。じゃあ百メートルのサメとかどうよ」
「うわあ。エゲつないねえ」
「ん?でも百メートルってどのくらいだ。上手く想像できん」
「馬場ちゃん五十メートル走何秒だったっけ」
「あたし七秒四」
「じゃあ百メートルはその二倍デカイんだよ」
「ひゃーっ、でかい! めっちゃ強い!」
「絶対に逃げられないね」
談笑している二人のところに、眼鏡をかけた男子がやって来た。
「お前らな……」
「あん?おお、理一郎じゃん。どうしたの。連れションなら付き合わないぞー」
ガハハッ、と馬場が笑う。
理一郎は呆れたように長い溜め息をついてズレた眼鏡を中指で直した。
「さっきから死海がどうのこうの言ってたが、そもそも死海に生き物はいないぞ」
「えー、そうなのー?」
「塩分濃度が高くて生き物が棲息できないから死海と呼ばれるんだ。その原理は幾つかの要因が重なったもので、まず水の出口がないんだが」
理一郎が熱く語り始めたが、それを馬場が興味ないと言わんばかりに「そんなことよりさ」とバッサリ切り捨てた。
「あんたは死海にどんな生き物がいたら面白いと思う?」
「だからいないって言ってるだろ」
「別にいーじゃん。頭固いな」
「む、じゃあ新種の藻とか」
「ええー。つまらん」
正論を言えば頭が固いと言われ、話に付き合ったらつまらんと言われる。理一郎の口元が苛立たしげにヒクヒクと動いた。
「だったら……そうだな、ポセイドンならどうだ」
「何それ」と首をかしげる馬場に、鈴鹿が「私知ってる」と嬉しそうに言った。
「ドラクエモンスターズで持ってるよ、ポセイドン。何かね、イボ蛙みたいだった」
「蛙かあ。ダサいな。却下で」
「ロマンがないよ。ロマンが」
「こいつら……」
女子二人が真面目な男子を翻弄していると予鈴が鳴り、昼休みの終わりを告げた。しばらくして教室の扉が開いた。
入ってきた理科の教師が「席につけー」とやる気のない声をかける。
「ねえ先生」
馬場が今度は教師に話しかけた。
「死海ってあるでしょ。もし死海に生き物がいるとしたら、先生はどんな生き物を思い浮かべますか」
「死海?死海なあ……」
中年の教師は無精髭が生えた顎をじょりじょり擦ってから人差し指を立てた。
「歯医者かな。歯科医だけに。あっはっは」
夏だというのに冷たい空気が流れる。
「……ないわー」
「蛙の方がマシだね」
三人の生徒の白けた視線が、自分のギャグで笑う中年教師に注がれた。
▼
放課後になり、帰り道でも少女たちは死海について話していた。
川の土手沿いで少し前を歩く馬場は石ころを蹴飛ばして遊んでいる。
「そんでさー、人魚型のタイラントもいるの。心臓むき出しのやつ」
「死海もずいぶん賑やかになってきたねえ」
そうやって話していると、馬場がふと妙案を閃いたように満面の笑みを浮かべた。
「そうだ。大人になったら死海行こうよ。二人で!」
「おー。いいねー」
「仕組みは分からんけど理一郎の話だと海より塩辛いから何もしなくても浮けるらしいし、絶対楽しいよ」
「浮き輪いらないねえ」
「そんでそんで、そのままイタリアで食べ歩きしよう」
「え、イタリア?」
急に鈴鹿が立ち止まり、怪訝そうな顔をする。
「鈴っち、どうしたん」
「あのね馬場ちゃん。イタリアには死海、無いんだよ」
「えーっ、じゃあ何処にあるのさ。ヨーロッパ?」
「イスラエルとヨルダンの間」
「んんん?」
「アラビア半島だよ」
説明されても馬場はまるでピンと来ない。最後は思考を放棄して叫びだした。
「…………なんか難しそうなこと言ってるー!」
「えへへ。私、地名とかだけは得意なんだよねえ」
照れ臭そうに頭をかく鈴鹿に、馬場はさも悔しがるように唸って地団駄を踏んだ。
「ぐうう、同類だと思ってたのに……もういい、死海には私一人で行く! ちくしょー!」
馬場は拗ねて走り去ってしまった。
「待ってよー。私も行きたいよー」
追いかけようと鈴鹿も走るが、みるみるうちに馬場の背中は遠ざかっていく。
鈴鹿はすぐに息が上がってしまう。そしてついに足を止め、膝に手をついて諦めた。
「はあ、はあ……うーん、早く走れる方が良いと思うんだけどなあ」
そうしてトボトボ歩き始める。
鈴鹿は自分の運動音痴を改めて自覚し「そういえば泳げなかったなあ」とカナヅチなのを思い出した。
「一人で行っても絶対つまらないや」
すると、向こう側から馬場がすごい勢いで走って戻ってきた。
「ぜえーっぜえーっ」
鈴鹿の前で急停止し喘いでいる。何を言いたいのか「す、す、」と口に出しては息継ぎをする。
馬場の息が整うのを待ってから鈴鹿が「どうしたの」と問いかける。
「鈴っちさ、イタリア行ったら何食べたい?」
「えー、うーん、ピザかなあ」
「いいね、ピザ!」
馬場は汗だくの顔をあげて快活に笑った。
鈴鹿もつられて微笑む。
「あたしはラザニア食べたい! どんな料理か知らないけど!」
「あとチーズフォンデュも食べたーい」
「チーズはスイスっしょ」
「あ、そっかあ。じゃあスイスも行こうよ」
「行こう行こう!」
少女たちは喋りながら、また並んで歩き出した。
西陽が二人の影ぼうしを、どこまでもどこまでも、長く映していた。
<了>
癒されたかった。
彼女たちが将来、想像の中にしかなかった死海へ本当に遊びに行って、思いきり楽しめたら良いなあ。