なんとなく一緒にしちゃったけど、多分うまく合体できたと思う。
多分だけど。
「……それこそ、怯えて噛み付いてくる犬みたいね、あなた」
当主の子供達だろうが下手に出るつもりはないと、この家に来た日に言ってやったら、姉の方が呆れたように返してきた言葉が、それだった。
「人間だって生きるために、下げたくもない頭を下げ、媚びなければならない時もあるんじゃないかしら。
譲れないものは、確かにある。
守るべきものは守りつつ、互いに適度に頭を下げあって暮らすのが、人間の社会だと思うのだけど?」
……互いに頭を下げあう…だって?
それは、どんな事も常に上に立たなければ生きて来れなかったおれにしてみれば、まったく理解できない考え方だった。
対等でいては、いつ踏み台にされるか判らない。
他人は蹴落として踏みつけて、手の届かない高みまで立たなければ、いつ足元を掬われるかわからないではないか。
甘やかされて生きてきた貴族の娘なんぞに何がわかる。
『それが人間の社会』だなどと、人間以下の暮らしを知らない、所詮は女の戯言だ。
──その、何も知らないお綺麗な顔が、絶望に歪むのを見たい。
その時、おれの心に広がった漠然とした感情は、分析すればそういう事だったと、後になってから気がついた。
・・・
ジョースター卿に取り入る事には成功した。
初日からある程度脅しつけて萎縮させたジョジョが、恐らくは普段ならしないのであろう初歩的なミスを、父親の前で勝手に披露してくれたお陰だ。
厳格なジョースター卿は、それまで恵まれた環境に居なかった筈のおれが、息子より学力も所作も優れているのは、息子の教育不足であると断じて、奴への対応を厳しくした。
そして、全てのことがおれには敵わないと判ると、ジョジョはますます萎縮していった。
賭けボクシングで小遣いを巻き上げ、大切なものを取り上げても、告げ口もできないほどに。
更におれは、ジョジョの友人たちをこちらに引きつけ、奴の悪評を流した。
それによりジョジョは心を閉ざして、自分の殻に閉じこもる事で周囲との壁を築いていき、信用できる者をなくした奴は、最終的には空っぽの腑抜けになる筈だった。
だがジョジョの心はなかなか折れなかった。
姉のジュリアが、最後には必ず奴を肯定する立場を貫いたからだ。
正直、邪魔だった。
あの女が居ては、ジョジョを完全に孤独に追いやる事はできない。
それでもおれやジョジョより5歳も年上と聞いていたし、貴族の女であれば少しの間一緒に暮らす事になったとしても、すぐにどこかに嫁いでいくだろうと高を括っていた。
だが本人はスコットランドの大学に進学する事を望み、そこで勉強して通訳の資格を得たら、ジョースター卿の仕事を手伝いたいと希望しているらしい。
それだと一時的にはこの家を出たとしても、おれがこの家の財産を法的に自由にできる年齢になる頃には、彼女はおれよりもずっと、卿の立場に近いところに居る事になるではないか。
そのジュリアはジョースター卿の実子ではなく、亡くなった夫人の従妹にあたる娘を引き取ったのだと聞かされた。
保護者だった祖母が病に倒れた時、そのどさくさで一度誘拐され、4年間、市井の末端の暮らしをしてきたのだと。
言われてみれば、儚げな見た目に反して肝の太いところや、自ら厨房に立っていかにも田舎っぽい菓子作りなんぞしているところを見て、淑女らしからぬところがあると思っていたが、それも所詮田舎貴族の娘だからだと思っていた。
蓋をあければ世の汚れを何も知らないお嬢様どころか、その汚れに一度は呑み込まれた女だった。
とどのつまり、目的はおれと同じという事だ。
女である限り、当主となる事まで考えてはいないだろうが、そこは女には女の登り方がある。
つまりはそれが本人の言う『生きるために媚を売る』という事なのだろう。
ならば、その芽を摘み取ってやるまでだ。
卿は厳格な紳士である。
『息子』の手のついた女を、間違っても後妻に迎える筈がないし、ましてそれをもう1人の息子に与える事もすまい。
彼女の薄い肩を引き寄せ、その唇を奪った瞬間。
右頬に鋭い感触が走り、生温かい液体が頬を伝うのがわかった。
反射的に唇を離し、そこに手をやる。
夕方の薄暗い廊下で、ランプの灯りの下では、その色までは判りにくかったが、その時おれの指に付着した液体から、微かに鉄の匂いがした。
少しの間隔を置いて、右の頬にじんじんとした痛みを感じる。
頬を打たれた?いや違う。この女は動いていない。
大体、これは明らかに切り傷だ。
今起きていることが信じられずに、女の顔を見返す。
──ジュリアは、おれを見ていなかった。
おれの右斜め後方あたりの虚空を、何か恐ろしいものでも見たような目で見つめていた。
その視線の先に反射的におれも目をやり、そこに何も無い事を確認する。
「…………なんなの、あれ」
その、おれの腕の中で恐らくは無意識なのだろうが、縋るようにおれのシャツの胸元を握りしめたジュリアの、その手の温もりにわけもなく優越感を覚えた。
「……何が?幽霊でもいたのかい?
意外と怖がりなんだな、姉さんは」
「見えなかったの、今の!?あれは、まるで……」
揶揄うようにそう言ってやると、弾かれたように上げられた顔の、鳶色の瞳が、次には瞠かれた。
「ディオ?血が出ているわ!」
…今気がついたのか。
本当におれを見ていなかったのだと、どこかがっかりしている自分の気持ちに戸惑いつつ、伸びてきた指先を何故だか避けて、おれは首を横に振る。
「…多分、皿の破片が飛んできたんだろう。
そんなことより、ジュリア……」
有耶無耶にされては堪らないと、おれは話をさっきの事に戻……
「そう、それよ!
何をおいても、食べ物を粗末にするのは許せないわ!
この床に落ちたスコーンとジャムと、この後掃除してくれる使用人の方と、あと割れたお皿にも謝りなさい、ディオ!!」
「……………は?」
……す前に、明後日の方向に飛び火した。
ええと、この女はこの状況で何を言っている?
「私たち人間は、食べる事で命を繋いでいるの!
あなただって、食うに困った経験くらいあるのでしょう?
今は困らない生活をしていても、食べ物への感謝を忘れてはいけないわ!!」
いや待て。
怒っているのはキスをされた事じゃなく、手作りの田舎菓子を床に落とされた事なのか?
それは貴族の令嬢としてありなのか!?
おれが混乱している間に、先ほどの皿の割れた音とジュリアの怒号に、何事かと使用人たちが駆け寄って来るのが、視界の端に映った。
「何を呆けているのディオ!?ごめんなさいは?」
「ごめんなさい」
その勢いに圧されて、つい鸚鵡返しにその言葉を口にするが、決してこの程度のことを悪いと思ったわけじゃない。
そうこうする間に、おれ達のやり取りを目にして大体の状況を察した年嵩のメイドが、すぐに掃除用具を手にしておれ達の間に入って『坊ちゃん、お嬢様、大丈夫ですよ』などと声をかけててきぱきとその場を片付けていき、そのメイドに労う声をかけてから、ジュリアは再びおれに視線を戻す。
「…これに懲りたら廊下でふざけるのは程々になさい。
ここはヤドリギの下ではないし、今日もクリスマスではなくてよ。
あと、傷はすぐに手当てなさいね。
せっかくの綺麗な顔に傷が残ってはいけないわ」
そう言っておれを見返した鳶色の目には、どこか呆れたような色が浮かんでおり、その後、着替えを促され若いメイドに手を引かれて引っ込んだジュリアの部屋の閉じられたドアを、おれは歯がみをして睨みつけることしか出来なかった。
ロンドンの貧民街で暮らしていた頃にはもう、大人の女たちから秋波を飛ばされていたおれにとって、それは酷く屈辱的だった。
──子供扱いするなッ!!
…後日、ジョジョに仲のいい女友達が居ると判り、半ば八つ当たりで同じ事をしてやったら、泥水で口を洗われ、思わずカッとなって手をあげてしまった。
ジョジョの周囲には気の強い女しか居ないのか。
だが結果としてはちゃんと引き離せたので良しとする。
その際にジョジョの爆発力というか、思いもよらない精神的な強さを見せつけられ、痛く悔しい思いはさせられたが、己の欠点と共にこれらのことも、反省して次に繋げればいいだけの話だ。
☆☆☆
……ディオの悪ふざけでジャムが飛んで、汚れてしまったブラウスとスカートをメイドに着替えさせられながら、私はさっき見たもののことを思い返していた。
人間の上半身と、黒ヤギの頭部と下半身を持った、男の姿。
その姿は、古い本の挿絵で描かれたような、悪魔の姿そのものだった。
…その翌朝、私は原因不明の高熱を出して朝食の席で倒れ、それから1ヶ月以上もの間、ベッドから起き上がる事すら出来ず寝込むこととなった。
その間、ジョジョとディオが殴り合いの喧嘩をしたとか、ジョジョの愛犬のダニーが死んだとか(死因は教えてもらえなかった)、色々あった事を後になってから聞かされた。
ジョジョとディオはなんかいつの間にか仲良くなっており(というかディオが嫌がらせをやめたようだった)、時折2人で顔を見せに来てくれた。
また私の体調が戻った頃に、ずっと私の主治医でいてくれたペンドルトン
結局、スコットランドの大学に進学する許可を、私はお父様から得ることは出来なかった。
こちらから通える大学は女の入学を認めていないから、事実上進学への道は断たれた事になる。
「君の学びたいという気持ちは尊重したい。
だが、女性の進学と社会進出に対して、少しずつ門戸が開けて来てはいるものの、世間一般では未だ否定的である事も事実だ。
確かに家庭教師の報告でも、そしてわたし自身から見ても君は優秀で、わたしはそれを誇りに思っているが、未だ男社会である世間は、決して同じように見てはくれないのだ。
男よりも優秀な君に、何らかの悪意が注がれないとも限らない。
そんな時、ただ支えるだけの手すら届かない距離にいる君を、わたしは親としてどう助けたら良いのだね?
また今回のように、急な病に倒れないとも限らないし、そんな時にすぐに駆けつけられない距離に、君を置きたくない家族の気持ちを、どうか判ってくれないだろうか。
わたしは、君を失いたくないのだよ、ジュリア」
…そんなふうに懇願されてしまっては、私に抗う術はなく、私は語学関係の家庭教師の数を増やす事となったが、ある程度を過ぎると独学で勉強する他なくなった。
そうして時は流れ、弟たちが大学へ進学し、卒業も間近になった頃、お父様が病に倒れた。
気がつけば私がジョースター家にやってきてから9年、ディオが引き取られてから7年の月日が流れていた。
そして…………
・・・
「
おれは人間を超越するッ!
ジョジョ、おまえの血でだァーッ!!」
「ナイフを持っているぞ!やつを射殺しろッ!」
「石仮面!?何故君が持っている!!」
腕を吊っていた布を破り、その下から現れたナイフよりも、ディオがその腕の下に隠すように持っていた不気味な仮面に、ジョジョは気を取られていた。
……考える間もなく、私の身体がそこに滑り込めたのは、呆然とするジョジョの大きな身体に抱きつくようにして、お父様がディオの凶刃の前に、その無防備な背中を晒したからだった。
どこに当てれば、万が一でも助かるかとか、もう少し冷静ならば考えられただろうが、そもそも冷静であればこんな真似はしないなと、呑気な事を考えていた。
こんなにも間近に見たのは例のキスをされた時以来の、あの頃よりも随分大人びたディオの顔が、驚きに歪むのが見えた。
こんな顔をしていても綺麗なのはずるいと、余計な事を考えられるくらい、時間がゆっくりと流れていった。
…最初にお腹に衝撃がきて、次に熱。
それからじわじわと、痛みがそこから全身に広がって、それが耐え難いほどに高まった時、もはや自身の身体も支えきれぬまま、私はゆっくりと仰向けに倒れた。
「ジュリア!」
……愛しい人の声が、私の名を呼んで、背中が誰かに抱きとめられた。
☆☆☆
おれの振りかざしたナイフが貫いた感触が、固い筋肉のそれではない、女の柔らかな肉のそれだった事に、おれは少なからず動揺した。だが。
「ジュリア──ッ!!」
「ねえさんッッ!!!」
…虫ケラたちの叫び声が耳を震わして、ナイフを握るおれの手を、そのあたたかな飛沫が濡らし……おれは己の表情が、愉悦に緩むのがわかった。
いつだってそうだ。
いつもこの女はおれの邪魔をする。
だが、今日でそれも最後だ。
まさかこの女が最後の最後に、おれが世界の頂点に立つ、後押しをしてくれる事になるとは。
ナイフから手を離したおれは、その手を顔の上に持っていき、まだぬくもりの残るその赤い滴を、躊躇う事なく、顔に当てた冷たい仮面に塗りつけた。
…次の瞬間、仮面から飛び出した骨針が頭蓋骨を突き破った、その痛みと感触が、おれの人間としての最後の記憶だ。
おまえの血で、おれは人間を超越する。
☆☆☆
もはや自身の頭すら持ち上げる事ができず、背中だけを支えられてのけ反った私の視界の中に……異形が立っていた。
私の視界に逆さまに映るそれは、黒ヤギの頭部と下半身に、人の男の上半身を持っていた。
間違いない。あの時の悪魔だ。
それが私を、逆さまに見下ろしている。
否……あの時からずっとそれは、見えないながらも私のそばにいた。
何故だかわからないが、本能で私はそれを理解した。
悪魔でもなんでもいい。お願い。
私の命を全部あげるから。
だからお願い。
私の愛する人たちを、助けて。
あの、本物の悪魔の、思い通りにはさせないで。
心からの叫びに、異形が何故か、泣きそうな目をした気がした。
そして、全ての光が、私の視界から………消えた。
☆☆☆
ジョースター邸が炎に包まれ、崩れ落ちる光景を見つめ、涙を流したスピードワゴンが次に見たのは、荒んだ人生を送ってきた彼が生まれて初めて心の底から尊敬した青年が、窓を破って飛び出してくる姿だった。
「……生きている!
生きてるぞッ!この人は勝ったんだッ!!」
歓喜の叫びを上げながら、負傷した己の身体も忘れ、スピードワゴンが力一杯抱きすくめた青年の大きな身体は、何故か全身水浸しだった。
・・・
「樹里…おれは、もう諦めねえ」
アヴドゥルさんの説明を聞いた後、家に帰ろうとしたら、空条に呼び止められた。
「……なにを?」
「おれは絶対に、おまえを手に入れる。
おれの事しか考えられねーくらい、夢中にさせてみせる」
低い声が熱く紡ぐ言葉に、心臓がどきりと跳ねた。
……空条の緑色の瞳が一瞬、狂おしいほどに懐かしい、誰かの面影と重なって見えた。
ジョージ・ジョースター卿はこの時点でまだ生存していますが、ウインドナイツロッドの戦いの間は、ずっとペンドルトン医師の病院で静養しておりました。
ジョナサンとエリナの結婚式には出席し、新婚旅行の見送りにも来ていましたが、彼らの乗った客船が海上で爆発したとの報を聞いた直後、後日のエリナ救助の報を待たずに心不全で亡くなります。
小指に着けていた筈の夫人の形見の指輪は、亡くなった際の彼の指にはなく、後日ジュリアの墓の前に置かれているのが発見されました。