目が覚めて、感覚で寝坊を確信した。
……と思ったら今日は日曜日だ。時計を見るともうすぐ十二時を回りそうだったが、土日はバイトなども含めて何の予定も入れていないのでまったく問題ない。
布団から這い出て、とりあえず何か飲み物をと冷蔵庫へ向かう。と、違和感に気が付いた。何か……何かこう……落ち着かない。
原因がわかった。よくよく考えれば、今の俺はバッチリ寝間着を着ていた。通常なら、夜眠る時は肌着や下着以外は身に着けないタイプなのだけれど、なぜか昨夜の俺は寝間着で寝たようだ。
ハッ、と思い出す。せき止められていた記憶が決壊してなだれ込んでくるようだった。アニメみたいに、頭に雷が落ちる演出があった気さえする。寝ぼけていた頭が覚めてきて、いよいよ重要なことを思い出していく。
昨日の夜、俺は家に寝間着があったことでひどく安堵したのだ。なぜかって、それは俺が眠るよりも遅く、しかし起きるよりも早く、家に女性が来る可能性があったからだ。さすがにそんな状況でいつも通りの格好をして寝るわけにはいかない。
そしてその女性とは何者か。大学で新しくできた彼女とかだったら人生はバラ色だったんだろうけど、違う。来るのは魔女だ。窓をすり抜けたり、空を飛んだり、瞬間移動をしたり、なんかよくわかんない魔法でコミュニケーションを取ってくるような、そんな魔女が家に来る……!
それだけ聞くと恐ろしいことのようにも感じられるけれど、正直なんだかそこそこ友好的な感じがするし、何よりとてつもなく見た目がかわいいから悪い気はしなかったりする。が、魔女は友達でも彼女でもない。そんな気易く近づける存在ではないだろう。というか会って一日しか経ってない。
「あぁー……。うー……」
起き抜けの、自分でも謎なうめき声を上げながら、とりあえず俺は冷蔵庫の中の牛乳を飲んだ。すると、まるでそれを見計らったかのようにピンポーンとインターホンが鳴る。なんとなく誰が来たのかわかる。
玄関のドアを開けると、某女優に似た美少女が立っていた。知ってた。
「ただいま」
「お、おかえりなさい」
見た目のイメージよりも声が低い。魔女のご帰宅だった。
彼女は俺の横を通り抜けて家の中に入っていくと、まだ敷きっぱなしになっている布団をまじまじと見つめ始める。しまった、と思う。単純になんだか恥をさらしているようで恥ずかしい。
「これ、ちょっと寝てみてもいいか?」
「えっ」
相手が普通の女子だったら「こいつ俺のこと好きなのか……!?」と勘違いするところだった。しかし違う、魔女だぞ。何を考えているのかわからない。
「嫌ならいい」
「い、嫌ではないですけど。なにゆえ……?」
「現代の布団を味わってみたいのだ。…………え、布団だよなこれ?」
うなずいて答える。するとホテルではしゃいだ子どもがベッドにダイビングするみたいに、彼女は布団に飛び込んだ。ベッドじゃないから普通に痛いと思うし、下の階の人に怒られそうで、つまり出来ればそれはやめていただきたい。
「……うむ、案外普通だな」
「そうですか……」
あまり気に入らなかったらしい。が、魔女はそれでも自ら布団に包まれていった。絵面が絵面なので、何か自分がとんでもないリア充と化した錯覚に陥りそうになる。
「ところでキミの名前を聞いていなかったな」
修学旅行の夜に友達と話すがごとく、布団に入ったままの魔女が当然のように会話をもちかけてきた。見下ろす形になるとなんとなく気まずいので、俺は彼女から目をそらしつつ応じる。
「真です。布施真」
「フセ、マコトか。何と呼べばいい」
「なんでもいいですよ」
「ではマコト、キミに報告があるから聞いてくれ」
「は、はい」
重要なことを話し始めそうな雰囲気だったので、そらしていた視線を努めて彼女の方に戻していく。……やはりどう見ても、俺の布団で美少女が寝ている。口調と状況と目の前の光景のギャップで、なんというか、酔いそうだった。
「私はもう大体この時代の言葉を理解した。だから会話に困ることはないし、存分に話してくれていい。というか、昨日は迷惑かけたな」
「え、いや、全然平気でしたよ」
大した長話をしたわけじゃあないし、日本語の通じない人に駅までの道案内をしたわけでもないし、特に昨日苦労した覚えはない。コミュニケーションにまで魔法とやらを使う魔女からすると、違った認識になるのかもしれないけれど。
平気だったと伝えると、魔女は少しほほ笑んだ。相手が人間だったなら、俺の理性は今崩れ去っていたかもしれない。俺の布団で寝てる美少女がこっちを見てほほ笑んだのだぞ。これは事件だ。現場で起こっている。
「そう言ってもらえると助かるよ。……それで、ここからが重要かつ多少ややこしい説明なのだが」
かけ布団を手放して彼女が起き上がる。
「マコトには私の、無知の魔女の性質を知ってもらいたい。そして、その上で私に協力してもらいたい。まずは性質の説明を聞いてもらいたいのだが、そこまではいいか?」
この時の俺に、拒否権があったのだろうか。もしかすると「嫌です」と言えば、彼女はあっさりと去っていったのかもしれない。特に機嫌を悪くすることもなく、全部嘘だったかのように消えて、二度と現れなかったのかもしれない。
けれども俺にはこの時、首を縦に振る以外の選択肢なんて存在しないとしか思えなかった。そうしなければ、何か重大なチャンスを逃す気がした。
「はい」
「よかった。マコトが友好的で助かるよ」
本当に、本心から言葉通りのことを思っていそうな、やわらいだ表情を浮かべて。彼女は、人差し指を立てた。
りんごの雨が降った。
大きく、赤く、旨そうなりんごが、天井から湧いて出るかのように無数に降ってくる。床にぶつかり、一部は砕けて、果汁が飛び散る。その上にさらにりんごは降り注ぎ、無数のりんごがどんどん床を赤く埋め尽くしていく。
大量に降り注ぐりんごはただの一つも、俺や彼女の体の上に降ることはなかった。きっと落下してくる勢いで当たれば痛かっただろうが、実際にはせいぜいわずかに飛んでくる果汁の飛沫くらいしか、この肌で感じられることはない。
「一つ。私は私の目の届く範囲に限り、何でも思い通りにすることができる」
床を埋め尽くしていたりんごが消えた。テレビの電源を落としたみたいに、プツンという間で全部消え去った。床は元通りどころか、数分前よりも綺麗になっているように見えた。肌に飛んできた果汁まで消えていたように思う。
魔女がもう一本指を立てた。
「二つ。私は私の能力を、直接「知ること」には活用できない」
彼女の手元に今までなかったはずの双眼鏡が置かれていた。それを手慰むように撫でながら、説明は続く。
「双眼鏡を出すことは「知ること」ではない。これを使って遠くを見るのも、これを使って人を殴るのも、道具の使い道はすべて使い手の自由だからな。これを「知るための道具」と認識するのはその者の思い込みだ。だから双眼鏡は私でも作れる」
もう飽きたというように双眼鏡は放り投げられた。床に落ちることなく、壁に当たることもなく、それは跡形もなく消え去った。
「だが思わないか、何でも思い通りにできるのなら、自分の視力を引き上げて遠くの物を見ればいいのではないかと。何でも思い通りにできるのなら、それも当然出来るのではと思わないか?」
「それが、出来ないんですね……? 知ることになるから」
魔女が満足気にうなずく。
「私の能力、魔法は絶対に直接「知ること」には使えない。「見る」ことは「知る」ことだ。同じく聴力や嗅覚を魔法でいじることもできない。当然、慣れない言語を教科書や講師を無しに瞬時に理解することもできない」
だから外へ出たのか。本なり何なり、日本語を学べる物は世の中に腐るほどあるから。それを見て、魔法を使わずに知識を得るために。
しかしそれでも、知識を吸収する際に魔法は役に立っただろう。「知ること」のルールに触れなければ魔法で全てが思い通りになるのなら、彼女がどこへ立ち入ったところで咎める人は誰も現れないことになるから。双眼鏡の例と同じように、立ち入ることは知ることとイコールにならない。
しかしそうだとすると、この魔女は一日外で知識を吸収してきただけで現代の日本語を理解したらしい。そしてそのことについて魔法は使われていないということになる。
「だから外でいろいろ調べてきたんですね」
「その通り」
「でも、たった一日で覚えられたんですか……? 知ることに魔法は使えないのに」
「ああ、それは素でいける」
「へー……」
その言葉が嘘でないなら、彼女は化け物だ。
やっぱりと言えばその通りなのだけれど、魔法を抜きにしても魔女という存在は人間を逸脱しているらしい。いや、魔法の定義もよくわかってはいないわけだけれども。
「だが私にも限界はある。習得したのは現代語と、あとはこの時代にある物の大雑把な知識くらいだな。あの外で大量に走っていた車輪の四つついた物、あれは車というのだろう? まだそういった程度のことくらいしか覚えていない」
「なるほど」
テレビを見て「箱の中で人が喋ってる!?」となる段階は通り過ぎたわけだ。しかし今聞いた印象から想像すると、彼女は文字と物体のみを「知っている」感じがするので、例えば食べ物なんかは見た目と名前を知っていても味を知らなかったりするのかもしれない。
「ちなみに、魔女さんが封印される前の時代って、車の代わりに何か走ったりしてましたか?」
「あ、言い忘れたが私は元々日本の生まれだぞ。マコトも知っているだろう、馬だよ、馬。私の時代には馬が交通手段の一つだった」
絵に描いたような「過去から来た人」だった。なんとなくこの先に、ハンバーガーを食べて「こんなおいしい物が世の中にあったの……!?」ってアニメで世間知らずのお嬢様が言うみたな展開が待ち構えている気がしてきた。
「つまり魔女さんのことは、馬が走ってた時代からタイムスリップしてきた物凄く物覚えが早い人、と考えてもいいですかね……?」
「それで大体合ってるよ。ただ私は魔女だから、人間とは規格が違うところがあるかもしれないけどね」
自分が魔女であることに絶大な自信があるらしく、魔女であることを強調する時の彼女はなんだか少しうっとうしいくらいに誇らしそうだった。布団に飛び込んだ時のちょっと楽しそうな様子と誇らしげな様子が似ていたので、自尊心と好奇心をエネルギーにしてるタイプの人なのかもしれないと感じる。だとすると、どちらかといえば俺よりも旅行狂いの斗真に近いタイプだ。
「で、本題はここからだ。初めに言った通り私はマコトに協力してほしい」
アニメや漫画を見ていればわかる通り、人間よりはるかに大きな力を持った知的生命体が「協力してほしい」なんて言い出す時は必ずロクでもない要求をされると相場が決まっている。世界の半分をくれてやるから世界を支配するのに協力しろ、とか。
が、今日この瞬間ばかりは平気な気がする。会ってから二日目。たったそれだけの時間で何が理解できるんだという話ではある。しかし俺の目にはどうも、目の前の魔女が何かとんでもないことを企んでいるようには見えなかった。その予感が正しいことを祈って、口に出してみる。
「現代の観光とかにですか?」
魔女は口をポカンと開いて、目を見開いた。
「その通りだ。すごいな、心を読んでるみたいだ。……ん、ちょっと待て、時代が進んで人間がそういう能力を一般に身に着けていたり……?」
「してません。なんとなくです」
「勘がいいんだね」
表情で露骨な上機嫌を表して、ようやく魔女は俺の布団から飛び出した。飛び出してから、なぜかせっせと布団を畳んでくれた。それも、過去にホテルかどこかで務めていたのかと聞きたくなるほど綺麗に畳んでくれていた。
「あ、あれっ? ど、どうもどうもご丁寧に」
「あっちの押し入れにしまうので合ってるか?」
「あ、はい」
よっこらせ、とか言いながら布団を持ち上げて片付け始める魔女。予想外のことに頭が追い付かず状況に流されてしまう。
「で、答えは?」
押し入れに布団を突っ込みながら背中で問われる。長い付き合いの相手に、今日の昼食はどうするかと聞かれているような、あまりにも軽い雰囲気がこの部屋中を漂っていた。
「え……?」
「協力してくれるかい」
「協力って、具体的にはどんな……?」
すとーん、と勢いよく押入れの戸を閉めて振り返った魔女が、あごに手を当てかわいらしさを含んだうなり声を上げる。
「うーん……。協力的な態度でいてくれること、かなぁ」
「全然具体的じゃなくないですか」
「じゃあ、とりあえずここに住まわせてくれないか」
曲がり角で食パンくわえた美少女とぶつかった気分だった。俺の人生、ここから何かが始まるのか。
「えっ、いや」
「嫌なら嫌でもいい」
「嫌じゃないです! でも、え、逆にそっちはいいんですか……? ロクなおもてなしできないと思いますよ」
想像力をフル稼働させて女性の立場になって考えてみよう。一人暮らしの冴えない男子大学生と同居したところで面白いことは何一つないと思わないか。むしろ面白いどころかストレスになることの方が山のようにあると思う。魔女が人間の女性と同じ価値観で生きているのかはわからないけれど、姿かたちが人間なのでこちらとしては同じように気を遣うしかない。
「もてなしはいいよ。正直マコトに拒否された時は、自分で空いた土地に家を建てるだけだし」
「えっ」
とんでもないことを聞いてしまった。建築そのものは魔法の力で材料から作業労力から何から何まで賄えるとして、というかそもそも家がポンと出てくるものだとして、じゃあ土地はどうするつもりなのだろう。都合よく使われていない空き地を狙うか、さもなくば埋立地風に海上に新たな土地でも生成する気か……?
自分の目の届く範囲にしか魔法は使えず、知ることにも使えないというルール。勝手に土地を生成してその上に家も建てて、なおかつ生成されたそれらを「別にそこにあってもおかしくない物と認識させる」ことは、全ての人間に認識を狂わせる魔法をかけるという方法では範囲の都合上不可能だ。
だが、もしも家と土地そのものに認識を狂わせる魔法をかけられるとしたら、もしかして魔法で全てを解決出来てしまうのか……? 誰もそれを見ておかしいとは感じなくなるのか……?
この家は人間に違和感を与えません。もしそういう魔法が成立するのだとしたら、この魔女は本当に自力で衣食住のすべてを揃えられることになる。俺が協力を断っても大して困らないっていうのはマジだ。
でもそうなってくると逆に、一体全体俺に何を求めているのかが分からない。協力なんか必要ないじゃないか。
「いや、正直魔女さんがいいなら、ここに住んでもらうのは歓迎ですよ。でもそれで、俺って何かの役に立ちます?」
俺の必要性がどうにも薄いことは魔女本人も理解しているところなのか、まるで俺からその質問が来ることがわかっていたかのように彼女は即答する。
「案内人がほしいんだよ。頻繁に会うことになるなら、お互い居場所が近い方がいいだろう?」
近いにもほどがあるけど、余計なところにツッコミは入れないようにする。美少女が過剰に接近してくることは悪いことじゃないから。
「案内人ですか。でも、あれですよ。現代人が現代のことを全て把握しているかというと」
「わかってるよ。それはきっといつの時代でも変わらないのだろう。私はマコトが知っていることを教えてもらえればそれで満足だよ。それ以外のことは自力で調べるから。そういう意味での「協力的な態度でいてくれ」だ」
「教えられることを教えるだけでいいんですか……?」
「ああ。いじわるしなければそれでいい」
いじわるって、妙にかわいらしい言い回しだ。意味だけが俺の理解しやすい形で聞こえてくる魔法を使っているらしいけれど、今の言い回しは別の人が聞けば別の言葉に聞こえていたのだろうか。
まあ、それはともかく。いじわるせずに知っていることを教えてあげればいいだけ、その他のことは本人が自力で調べるから……ということになると、やはり相変わらず魔女にとっての俺の存在意義がわからない。
「いじわるなんかしませんよ。でも、それ結局俺いります? 魔女さんが自力で調べられないことで俺が知っていることなんて、たぶん何一つありませんよ」
「まあ、そうだろうな。だが一々自分で調べに行くよりも慣れた人間に教えてもらう方が早いし、無機質な文章から学ぶより面白味もある。だからマコトは必要だよ」
もしも魔女が書物から現代語を学習していたのなら、辞書は教科書として必ず用いたはずである。そう考えると無機質な文章というのがどんな物を指しているのか大体わかるし、そんな物とにらめっこするくらいなら確かに俺でも、たとえ相手が素人でも授業なり講義なりを受けたがるかもしれない。
気持ちはわかる。わかるが、なんだか拍子抜けするくらい人間的な感情を持っているらしい、魔女という存在は。
「なるほど。そういうことなら、できる限りの協力はします。でもあんまり期待しないでくださいね」
「ああ、助かるよ。それじゃあこれから、よろしく頼む」
手を差し出された。サムライがいた時代にも握手の文化はあったのだろうか。それとも昨日学んできたことなのか。……どちらでもいいけれど。
「ど、どうも」
若干、根拠のないおそろしさを覚えながらも握手に応じる。握った魔女の手は暖かくて、それから小さくてやわらかくて、もっと触れたくなるくらいすべすべしていた。
初めて、女の子の手を握った。
正直、努めて紳士的な表現で言って「高揚感を覚えた」。言ってもたかだか単なる手であるはずだが、女子の手にはなぜそこまでの魔力じみた魅力があるのだろう。もしかして本気で魔力がこもっているのだろうか、相手は魔女だしありえないことではない……。
「あ、そうだ」
握った手をあっけなく、なんの未練もなく手放した魔女が、本気で忘れていたかのように付け加えた。
「協力してくれるお礼に、私に出来る範囲でマコトの願いを叶えてあげるよ」
「えっ」
「本当はこのことを交渉の材料にしようとしていたのだが、思ったよりスッと話が進んで忘れていた」
美少女と一緒に住んで、自分の知っていることを教えるだけ。たったそれだけのことを代償に、七つのボールを集めてもいないのにシェンロンが出現した。札を小銭に崩す目的で買った宝くじで億が当たるような、突然の受け止めきれない幸運だ。
そう、受け止めきれない。いきなりそんなことを言われて「じゃあ○○でお願いします」なんて言える人間そうはいない。もしかすると元々大したことのない人間は、どんな幸運に恵まれてもこうしてみすみすそれを逃すのかもしれない。
「いや、急にそんなこと言われても何も思いつかないっていうか、いや嬉しいですけど、叶えてほしいですけど」
「思いつかないってことないだろう、そんな無欲の悟りを開いてるのかマコトは?」
あきれたような目を向けられる。彼女は現代の「美少女」を模倣しているために俺よりも身長が低くなっているが、なんだか本質的には見下ろされている感じがした。
それと同時に、人間の欲を受け止めることに慣れているようなその余裕に溢れる態度は、もしかして遥か遠い過去で今と同じようなやり取りを誰かと交わしてきたのか……という想像をさせられる。それも一度や二度ではなく、何度も何度も。
「あ、別に願いはいくつでも叶えるぞ。厳選せずに言ってくれ」
「えっ」
シェンロンどころじゃあなかった。にわかには信じがたいが、俺は気付かぬ間に神を味方につけたらしい。いや、本当に味方になったのかたったの二日で判断しかねる部分はあるけれど、たぶん味方だろうこれは。とんでもないことだ。
「なんでもいいぞ。思いついた端から言ってみろ」
「なんでも……」
一瞬、美少女と同居することになった若い男性として至極当然の願い事が、俺の頭の中を駆け抜けていった。かなり詳細な、ピンクもしくは肌色の妄想として駆け抜けていった。
なんでもと言われて一瞬たりともその手のことを考えない同年代の男はいるのだろうか。いるとすればそいつはイカれている。が、そう考えるのは俺が男だからだ。魔女の魔法に「知ることができない」という制約がかかっていてよかった、でなければ俺の心の中なんか筒抜けだっただろうから。
今までの人生を紳士的に生きてきたかというと正直自信がない、というかたぶんダメだったと思う。けれどもこの時だけは、友好的な神に対してだけは、俺は最低限紳士的であるようにしようと決意する。そうしなければ俺は一瞬で人として腐り果ててダメになる。直感的にそう確信したから。
「……いや、やっぱり思いつかない」
「本当か? いま、二、三思いついた顔をしていなかったか?」
「してない」
内心ドキリとしたが、今のは自分でも驚くほど凛々しい顔つきで、自分でも驚くほどスパッと言い切れたと自負する。
「そうか……? じゃあまあ、思いついた時に言ってくれ。近くにいるのはそのためもあるわけだしな」
「なるほど。わかりました」
俺が理性を試される日々が続くわけだ。望むところだ、ダメだった時には魔法で煩悩そのものを消滅させてもらうしかあるまい。
と、意気込みを固めていたところで、重要なことを忘れていたことに気付いた。
「あっ、願い事あった」
「おお」
何とはなしに台所の方に目を向ける。ぶちまけたカップラーメンの中身がまだ排水溝のネットの中で死んでいるはずだ。早く取り換えて捨てよう。
「魔女さんは、俺が封印を解いたから出てきたわけですよね」
「そうだ」
「その、結局封印ってなんだったんです? なんで解けたんです?」
魔女が目を丸くする。表情の変化のが、仕草が、その一つ一つがいちいちかわいらしく見えてしまって、俺は容姿がもたらす残酷さを思い知る。俺も超絶イケメンに生まれていたら魔法なんて使えなくとも、今とはまったく別の人生を歩んでいたに違いない。
「封印についてのあれこれを聞くことが、マコトが叶えてほしい願いなのか……?」
「まあ、今のところ思いついたのは、そうです」
「……そうか」
なぜか気まずそうに魔女が目をそらす。俺の言葉をほとんど理解していなかった時にも申し訳なさそうにしていた彼女だが、普段はいかにも高位の存在らしい態度なのになぜ時々そういった顔を見せるのだろう。親しみやすさを演出する戦略ではないと信じたい。
「いや、マコトは本当に無欲なのだな。正直見くびっていたよ。すまない」
「えっ、いやいやとんでもないです」
本音を言えばあんなことやこんなことをしたいので、そんな聖人みたいな扱いをされると良心が圧死する。酸欠になる。
「で、私の封印が解けた原因についてだな。マコトは石か何かを温めなかったか?」
「石?」
これくらいの、と魔女が指で「おっけーマル」のサインを作る。俺を世界の支配者にしてくれと願えば同じサインと共に「オッケー!」とか言われかねないので良くも悪くもおそろしい。
ともかく、石というと思い切り心当たりのある物が一つある。斗真からもらった土産の石だ。結果としてだけれど、やつは俺の家に魔女を置いていったことになる。
「ああ、温めたというかカップラーメンのフタに乗せましたけど」
「それが条件だったんだよ。私の封印された石を温めること、それが封印を解く条件」
「え、温めるって、そんな軽くでいいんですか」
後入れスープの袋に「フタの上で温めてください」と書いてあることがあるけれど、カップ麺のフタで温められるのってそれくらいの物だぞ。直接火で炙ったとかならまだしも、こんな強力な魔女の封印がそんな簡単に解けてしまっていいのか。封印した人は何を考えているんだ。
「軽くでよかったみたいだね。まあ私、結構強い魔女だし。あんまり強く封印されたりはしないよ」
そういうものなのか。
「それだと逆に、よく今まで封印解けませんでしたね」
何百年も前に石の中に封じ込められて、カップ麺のフタの上程度の熱を一度も受けずに今の今まで存在してきたことになる。ただの石ころでそれは奇跡に近いのではないか。
「氷漬けにされていたからね」
「えっ、氷……?」
「ああ。あれがどこだったのかは私にもわからないけれど、封印されている間ずっと氷の中にいたことだけは覚えている」
氷の中にある何の変哲もない石を、わざわざ発掘しようと考える人はいるだろうか。というかそもそも氷の中に石があるとわかっていたとして、それの発掘に乗り出す人は少ないだろうに。俺が今魔女と話しているこの状況は常識がどうだという以前に、確率的に奇跡と呼べることなんじゃなかろうか。
斗真はあの石をどこで、どうやって手に入れたのだろう。本人は見た目何の変哲もない石を「いい感じ」と言っていたが、あいつは何か知っていたのか……?
「そうだったんですね。ずっと氷の中に……」
「ああ、だからマコトには感謝している。またこうして外に出て自由に動けるなんて思わなかったから」
だから、なんでも願いを叶えてくれるというのか。彼女には俺のことが恩人のように映っているのか。石を持ってきたのは斗真なのに、俺だけが恩人に見えているのか。
彼女がここへ住むことは本人の言っていた通り利便性の理由もあるのだろう。けれども、俺に教えてほしいことがあるなら、別に遠くから瞬間移動でその都度来れば手間はそんなにかからないはずだ。俺は女子と同居するにあたって気を遣わなければと思っていたが、気を遣われているのはこちら側なのではないか。
魔女は恩人の願いをできるだけ早く、できるだけ多く叶えてやるために、それっぽい理屈を付けて恩人の傍にいようとしているのではないか。だからこそ恩人に拒否されればあっけなく去るのではないか。同じように、俺が恩人でないとわかったなら、彼女はあっけなくここから消えて二度と帰らないのではないか。
人としての意地で下世話な欲望を抑え込んだ俺の理性は、それだけで限界だった。それ以上に無欲な状態ではいられない。俺も人間だから。きっと魔女が想像する通りの、きっと魔女が今まで見てきた通りの、欲で動く生き物だから。
「感謝なんてそんな、偶然ですよ」
「謙虚だな、せっかくの機会だ、魔女に恩を売るくらいのことはしてもいいのだぞ?」
「あはは。とんでもないです」
俺は、斗真のことを魔女に話さないと決めた。