「という事で、第一弾が出来ました」
「思ったより早かったな」
「まあ知ってる物だからな」
数日後。皐月と名楽の二人が、トクトー家具店の主たるマリア・トクトーに、出来上がった『新商品』をお披露目していた。
「ほんで、これは何なん? 板に溝を入れただけに見えるねんけど」
マリアが半分期待、半分は訝しそうに見ているそれは、まさに彼女が言う通りの代物だった。大きさはさほどでもなくまな板程度で、それに横に何条もの溝が彫られただけの物だった。その溝にしたって少々――いや大分
「洗濯板だ」
「洗濯板?」
洗濯板。板に溝を彫るだけの単純極まりない品だが、発明されたのは1797年である。作るだけなら中世どころか古代でも可能なはずだが、存在しなかったのはやはり、発想が存在しなかったためであろう。
ちなみに洗濯板の溝は緩いU字になっている事が多いが、これは湾曲している部分に泡を溜めて汚れをより落ちやすくするためだ。今回作ったのは木の加工については門外漢の皐月なので、そこまで手は回っていない。
「こっちの洗濯は大変そうだったからね。余ってる板をもらって作ってみたのよ」
ここの洗濯は、水洗いした衣類を足で踏みつけ、力と体重で汚れを押し出すというものだった。石灰や玉ねぎの汁等を洗剤として使っているようだが、それにしたって重労働だ。洗濯板とて大変な事には変わりはないが、それでも足でやるよりはマシだろう。
「家具店なら板の仕入れも簡単だろ? 技術的にも難しいところはないから、量産は可能なはずだ」
「本当は脱水機とか洗濯機も欲しかったんだけどねえ」
「手回し式のがあったはずだが……ワタシらじゃさすがに作れんな」
「実績も何もないのに、ここの職人に頼むのもね……まあ簡単なのを思いつけてよかったわ」
皐月が普段より少々視線を下に向け、名楽を見ながら言った。彼女のどこを見て洗濯板を作る事を思いついたか、そこまでは言わない情けが皐月にもあった。実に麗しき友情と言えよう。
「んで、コレどーやって使うん?」
「じゃあ、実際に使ってみるか」
◆ ◆ ◆ ◆
「ええわ」
マリアが目を炯々と光らせ、洗濯板を見つめてうわごとの如く言葉を漏らした。実験という洗濯の結果、大層に気に入ったようであった。
「売れるわコレ……こうしちゃいられへん! すぐ――――」
「待った」
「――――グヘッ!」
洗濯板を掴んで駆け出そうとしたマリアの首根っこを、皐月が引っ掴んだ。必然的現象として、勢いのまま彼女の首は服に絞められ、妙な声と共に足が止まった。
「なにすんねん!! 殺す気かッ!!」
「あっゴメン。でも大切な事だったから」
「ほほう……それはウチの首より大事な事なんやろな……?」
青筋を立てたマリアが凄んだ。ここの主なのに、クビ(物理)になりそうだったので当然と言えば当然だったが、次に続く言葉を聞いてその怒りも引っ込んだ。
「皇都の人口を一万人、一家族を五人とすると、洗濯板は最低二千枚必要になる計算なんだけど、それだけの数を用意できるの?」
「数字は適当だが、増える事はあっても減る事はないぞ。売るのは皇都だけじゃねーからな」
「む」
国内は確実に、事と次第によっては国外にも売りに行く事になるだろう。となれば必要枚数は膨れ上がる。一万枚どころか十万枚を軽く超えても不思議はない。一家具店の手には少々余る。
「それにねえ、コレ絶対に真似されるわよ。私にも作れるくらいだもの」
「特許なんてないしな。あとはアレだ、最初は需要に対して供給が追い付かないから品薄になるだろうが、その後下手に量産したら余るぞ。そうそう買い替えるモンじゃないんだから」
「むむむ……」
腕を組んで考え込むマリア。指摘されればいちいち尤もな意見だった。高速で回転する、商売人としての頭が解決策をはじき出さんとするが、その思考を光のない隻眼が遮った。
「何より、
口調こそ軽かったが、その奥底には隠し切れない重みが沈んでいた。それを敏感に感じ取ったマリアは、まじまじと悪魔二人を見つめ返した。
「……あんさんら、商売にも詳しいんか?」
「いや、さすがに経験はないよ。多少知識があるってだけ」
「商売は分からないけど道理と人の感情は分かる、ってとこかしら。全部分かるとまでは言わないけどね」
実際、皐月は人の『弱さ』がよく分かっていない。戦わなければ死ぬ、という状況で、戦わない戦えないという選択肢を選ぶ人間の『弱さ』を、本質的に理解する事が出来ない。戦えないのなら死ね、と臆面もなく言えるタイプだ。というか言った。
だがそれでも、人の持つ負の感情についてはよく知っている。何せ彼女の人生は、良くも悪くも――大体悪いが――その感情によって旋回して来たのだ。嫉妬の炎に身を焦がす者が何をするか、そんな事は考えなくともよく分かる、というものだ。
「ほな、どうしたらええと思うん?」
「いやそれはあなたが決める事じゃないの? そりゃ他の商会に話を持ち込んで連携するとか、選択肢は色々あるだろうけど、ここの主はあなただし」
「なるほど――――成功も失敗も、全てはウチ次第っちゅーこっちゃな!?」
「えーと……まあ、そうなるのかしら?」
拳を握りしめ燃えるマリアに、よく分からない方向に飛んだ話に首を捻る皐月。そんなマリアに向けて名楽が何かを言おうとしたが、商売人の動きの方が早かった。
「燃えて来たわ……やったるでー!」
今度こそ洗濯板を引っ掴むと、勢いのままに駆け出していくマリア。中途半端に上げられた名楽の手だけが、所在なさげにぽつねんと残されていた。
「…………大丈夫かね」
「さあ……。でも私達がやるよりはマシでしょ多分。餅は餅屋って言うし」
何から何まで自分達でやる必要はない。出来る者がいるのなら、任せてしまう事も必要だ。それが専門家であり、経験や実績があるのなら尚の事。
「私達はあくまでただの従業員。あれこれ口を出すのは筋が違うし、権限もない。なら任せるしかないでしょ」
「それはまあそうなんだが。大丈夫かねえ……」
◆ ◆ ◆ ◆
マリアは新商品発売に当たって色々と動いているが、二人には関わりのない……というか、関われない事であった。今はまだ、だが。
「あ゛ー……あ゛ーあ゛ーあ゛ー…………」
「うるさいぞ菖蒲」
そんな嵐の前の静けさのような、空いた時間を使って文字の学習に励んでいるのであるが、皐月は奇声を上げてグロッキーであった。大きな帽子で耳と角をまとめて隠した名楽が窘めるが、皐月は獄楽が乗り移ったかのようなやる気のなさと共に、ぐでっと机に突っ伏した。
「だってさあ……私には向いてないわよこれ……」
「記憶力はいいんだから頑張れよ」
音声は謎機能によって翻訳されるが、文章にまでは適用されない。従って一つ一つ地味に覚えていかなければならないのだが、これが難題であった。少なくとも皐月にとっては。
例えば、『I can fly.』という文章を音読すると、『アイ キャン フライ』だ。しかしこちらの文字で書いてあるそれを読み上げてもらうと、『私は飛べる』と
言文不一致かつ、中途半端に入って来る日本語要素が、皐月の理解を妨げていた。表音文字らしく、文字数が少ないのは救いではあったが、それでもすぐにどうこう出来るようなものではないのは明白であった。
「羌子は何で平気そうなのよ……」
「慣れかね。オヤジの手伝いで似たようなコトしてるから」
「ああ、ルポライターだっけ……」
その文章の添削をしているのが名楽だ。時には日本語以外の文章を扱う事もある。異世界でも役に立つ辺り、経験というものは中々馬鹿にできないものであった。あるいは、文系と理系の差なのかもしれなかった。
「ほれ、もうちょい頑張れ。付き合ってくれてるクラウス君にも失礼だぞ」
「い、いえ、僕の事は……」
気弱そうな様子で曖昧な態度を見せるのは、金髪碧眼の少年だった。少年といっても、この国の慣習的にはギリギリ成人している。顔つきはハゲことアルベルト・トクトーにそこはかとなく似ており、血の繋がりをどことなく感じさせた。
彼の名はクラウス・トクトー。マリア・トクトーの弟であり、トクトー家具店の従業員だ。そして皐月・名楽両名の、異世界語の教師でもあった。
とは言え、教師と言っても
「で、でも、お二人とも凄く飲み込みが早いですよ」
「そう……? でもそれを言うならあなたも中々だと思うわよ、下地があったにしてもね。これなら計算棒なしの計算もすぐ出来るようになるんじゃないかしら」
「計算か……ソロバンでも作ってみるか?」
「九九ありきの代物だから広まらなさそうだけど……ちょっと影響が大きそうだから、よく考える必要があると思うわ」
ソロバンは、使い方さえ覚えれば誰でも使える。それはつまり、多数の凡人の能力を底上げ出来る、という事だ。となれば文官を量産する事で行政能力を向上させ、結果として上向いた国力を背景に戦争を始める、という事がないとは言い切れない。
もちろん杞憂で終わる可能性の方が高いのであろうが、考えない訳にもいかない要素であった。
「それもそうか。しかしこの調子なら期間次第だが、中一数学くらいまでは進めるかもな」
「三平方とか? 測量には使えるとは思うけど、家具店としてはどうなのかしら」
「数学的デザインとかで使えるんじゃないか? 3:4:5の三角形をロープで作れば、応用で平行四辺形や六角形も作れるしな」
理解の及ばない内容に目を白黒させるクラウスを余所に、悪魔達の話は進んでいく。
「そこまで進んだら、宿題を残してみるのも面白いかもね」
「宿題?」
「そうね例えば……フェルマーの最終定理とか」
「止めろよ? 絶対止めろよ?」
17世紀、フェルマーというアマチュア数学者が残した定理だ。尤も彼は『この余白は証明を書くには狭すぎる』と宣い、証明を残さなかった。そのためプロアマ問わず数多の数学者が証明に挑み――途中から懸賞金すら懸けられた――敗れ去って行った。完全な証明が成されたのは、実に350年以上も経った1995年の事である。
それもこれも、問題そのものは単純なせいだ。『nが3以上の自然数の時、 xn + yn = zn を満たす自然数の組 (x, y, z) は存在しない』というだけなのだから。理解だけなら、中学生程度の知識があれば出来る。しかし証明は死ぬほど難しい。一見全く無関係そうで、おまけに非常に複雑な定理を複数解く必要があるのだ。
うっかりこちらの世界に残そうものなら、大惨事になりかねない。成り行き次第だが、人生を棒に振る人間が量産される可能性は決して低くないのだ。名楽が止めるのも無理もない。
「それは『押すなよ、絶対押すなよ』的な……」
「ちげーよ!」
「何だか嫌な予感がするので、宿題は遠慮しておきます」
◆ ◆ ◆ ◆
史実において紙の発明は紀元前の中国だが、ヨーロッパへの伝播は遅く、10~16世紀頃だと言われている。だがこの国、エイガム魔法帝国において紙は普及しており、上等が羊皮紙、下等が紙、といった具合に使い分けが為されているのだ。
従って、皇城の一室で貴族達が書類に埋もれていても、何もおかしなところはない。いくら国の中枢と言っても書類量が過剰で、ゾンビの方がまだ血色の良さそうな顔色をしていても、それはそれである。
「警邏の方にもう少し人員を回せぬか? スケルトンをつけてくれるだけでもよい。スケルトンの数が限られているのは分かっているが、騎士の手が足りんのだ」
「スケルトンは街の清掃から外せん。やりたがる者が少ないのだ」
スケルトンとは、外見は人間の骨格標本そのものの、魔術で生み出される魔法生物だ。頭が悪く力も弱いが、創造主の命令には絶対服従で魔力が続く限り動けるので、奴隷も嫌がるような場所で使い倒されている。ハゲの使う竜骨兵の下位互換、と思っておけば大体間違いない。
「清掃なぞ、少しくらい削っても……」
「不浄は疫病を招き寄せる、と悪魔は言っていたではないか」
「むぅ……そうなれば我らも危うい、やもしれんか……」
「病は貴賤を問わんからな。かと言って、我らの足元で胡乱な者どもを蔓延らせる訳にもいかん。悩ましいところだ」
公衆衛生を取るか、治安維持を取るかの話し合いをしていたようだ。不潔にしていれば疫病リスクが上昇するし、さりとて皇都の治安を軽視する訳にもいかない。どこぞの管理出来てない局ではあるまいし、首都の治安がヨハネスブルクでは面子が丸潰れだ。
答えのない難問に頭を悩ませていると、すぐ近くの席から不吉を凝縮させたような呻き声が響いて来た。
「う、うぁ……! あ、あああああああぁぁぁあああ!!!!」
「い、いかん!!」
「またデッカー卿が発狂しておられるぞ!」
「薬だ! 薬を持てい!」
「ただいま!!」
現代人から見ると微妙に地味だが、それでもこの国では最高峰の服を引きちぎらんばかりの勢いで、男が手足を振り回す。書類が山崩れを起こし、隣の男は暴れ馬を後ろから羽交い締めにし、侍女は慣れを感じさせる動きで急いで薬を取りに行く。
ここ最近の皇城において、日常と化した修羅場であった。嫌な日常もあったものである。
「あ、あぁ……」
「気が付かれたか、デッカー卿?」
「……すまない、少々取り乱したようだ」
「何、気にするな。私と卿の仲ではないか」
「バルツァー卿……」
見つめ合う二人。これが見目麗しき男女ならまだ絵にもなろうが、残念ながらむさいオッサン二人である。その雰囲気に吐き気を催したのかは定かではないが、侍女が二人の間に割って入って来た。
「あの、これを……」
彼女が差し出してきたのは、小さなプラチナ製のバッジであった。この国における貴族の証であり、貴族は常に服のどこかにつける事を義務付けられている。先程暴れたせいで外れてしまっていたようだ。
プラチナは銀より遥かに錆びにくく、金よりも硬い。貴族の象徴としてのバッジの素材としては適切と言える。ただしその融点は約1800℃で、鉄よりも300℃も高い。それでもこの国では、魔術を用いる事で、ごく僅かながら融かして加工する事が可能なのだ。魔法帝国の面目躍如と言えるだろう。
「あ、ああ……」
デッカー卿と呼ばれた男は、差し出されたそのバッジを見つめるだけで、どうしても手が伸びる気配がなかった。訝しんだ隣のバルツァー卿が声をかけた。
「如何された、デッカー卿」
「…………私は、何をやっているのだろうな」
「デッカー卿……」
漏らされたのは、質問への答えではなく独白であった。しかしその気持ちが分かってしまうバルツァー卿は、何も言う事が出来なかった。
「我らは、前の皇帝を排して取り巻きどもと共に奴隷に落とし、その後を襲った」
「それは、有翼の悪魔が……」
「煽動したのは確かにあの悪魔だ。しかし乗ったのは我らだ。我らは、それぞれ理由があるにしても、自らの意思で悪魔の言葉に乗ったのだ」
皇帝への恨みを晴らすためであったり、窓際に追いやられた鬱憤からであったり、私ならもっと上手く出来るという自負であったり、単に欲望を満たすためであったり。それぞれ理由は様々だったが、『有翼の悪魔』の下皆一丸となって、皇帝を奴隷に落としたのだ。
「それはよい。あの悪魔が皇帝……いや、元皇帝やその取り巻き共を殺さなかったのもまあよい。すでに
『有翼の悪魔』が皇帝とその取り巻きを殺さなかったのは、心情的なものと、『魔術師』をなるべく減らしたくない、という心理が働いていたからだと思われる。何しろこの国の特権階級は全て魔術師なのだ。魔術師が減れば、その分だけ元の世界への帰還が遠のいてしまう。
その思惑は上手く行き、『有翼の悪魔』は『異形の幼子』と共にこの国から姿を消した。となれば当然、負け犬連中を生かしておく理由はどこにもない。自身がいなくなった後は好きにしろ、という『有翼の悪魔』の言葉もあり、適切に処理はなされた。
「だが、これは……この惨状は、よいとは口が裂けても言えん……!!」
書類の海に溺れながら、デッカー卿は血を吐くように言葉を吐き出した。確かに彼の言う通り、誰がどう見ても多過ぎた。
「同感だ……全く同感だよデッカー卿……。だが、どうしようもないではないか。我らがやるしかないではないか」
「分かっている……分かっているのだバルツァー卿……! だが、だがそれでも、言わずにはおれんのだ……!!」
今の帝国を現代の会社に例えるならば、会長社長役員を追い出し、代わりに部長課長がその座についた、といったところである。当然回るはずがない。能力才能時間人手、そして何より、信頼が足りない。政治に必要なのは信頼であり、それは地味な努力を、日々真っ当に積み重ねる事でしか手に入らないものなのだ。
それでもこの国が回っているのは、皇族の血を引く男が玉座に座り、神輿となって人心の慰撫に努めたという点が大きい。奴隷になっていた元皇帝の遺産を食い潰している、とも言えるが細かい事は気にしてはいけない。皇帝は王と違って、勝った者勝ちのパワーイズジャスティスなのだ。
また、『有翼の悪魔』が統治システムを作り上げて行った事もある。彼女は自身で統治する事を選ばなかったが、その責任は果たして行ったのだ。外国人である事を考えれば、十分な貢献だと言えよう。
だがしかし、いくら上手く出来ていようが、新しいシステムが早々馴染むはずもない。政務をこなせる人材もまた不足している。ゆえにこそ、新しく支配者となった彼らは、夜も昼もなくこうして缶詰めになっているのだ。
「いくら権力があろうが! 金があろうが! 贅があろうが! 使う暇がないのでは何の意味もない……! 違うか、各々がた……!!」
まあどう見ても過重労働ではあったが。このままでは折角手に入れた力を使う前に、書類に溺れて溺死しかねない。過労死認定も労災もこの時代には存在しないので、死んだらそこまでである。最後にこの城を出たのはさて、いつだったか。
「――――落ち着け」
嫌な方に転がりかけた空気を、落ち着いた声が切り裂いた。厳めしい顔つきに、白いものが交じり始めた茶色の髪。『有翼の悪魔』を利用し利用され、この国の皇帝の座についた、ガブリエル・シュトラウスである。
「……陛下」
「デッカー卿よ、そちの言う事は全くもってその通りだ。余とて、このような事になるとは思っていなかったとも」
皇帝は自らの机の両脇にうず高く積まれた書類を見回し、苦笑した。彼とて政務の経験がない訳ではないが、この量になるのはさすがに予想外だったのだ。
「ならば……!」
「だがな、それでも。それでもやるしかないのだ。バルツァー卿の言った通りにな」
「ぅ……」
威厳の込められた目線と声に、デッカー卿は黙り込んだ。彼も分かっているのだ。自分達がやるしかないという事を。
「気持ちはとてもよく分かる。余も、何故このような事をしているのか、と思う時は正直ある。だがな、それは言ってはいかんのだ。少なくとも、公の場ではな」
本来はここでも言ってはいかんのだがまあ許せ、と言う皇帝に、自然に貴族達の視線が集まる。貫録と風格を併せ持つ声が、貴族達の意識を捉えていく。
「卿らは貴族だ。それも準貴族や木っ端貴族ではない。かつてはそうだった者もいるかもしれぬが、今この場ではそうではない。この国の頂点に位置する、大貴族だ」
皇帝は居並ぶ貴族達の顔を見渡した。彼らに自らの言葉が染み渡る僅かな間を待ち、皇帝は重々しく言葉を紡いだ。
「そして余は、その大貴族を束ねる皇帝だ。ならば我らには、義務がある。この国を導く者としての義務が。
この時代、教育とは高級品だ。貴族や皇族が高度教育を独占しているのは、民に余計な知恵をつけさせない方が統治しやすいという事もあるが、単純に国力が足りないためである。義務教育は余裕のある国の特権なのだ。
であるならば、貴族や皇族がその地位に応じた責任や義務を果たす事は、もはや必然である。何しろ、他に出来る者がいないのだ。やらねば滅ぶばかりである。
「この義務は、投げだす事は許されない。押し付けられたのではなく、自らの手で勝ち取ったのだから。権利と義務は表裏一体。事ここに至って、それを分からぬ者はここにはいないと余は信ずる」
兎にも角にも、この場にはそのような腐敗貴族や悪徳貴族はいない。常識的な範囲で悪事を働いている者はいるが、あまりにあまりな者は『有翼の悪魔』が弾いている。つまり、皇帝の言を理解できない者はこの場にはいない、という事であった。
「だがそんな事よりも、もっと直接的に、やらねばならぬ理由が我らにはある」
意表を突かれたような表情を見せる貴族達に向け、悪戯っぽい、剽げたような笑顔を見せて彼は言った。
「――――投げ出すのは、カッコ悪いだろう?」
一国の皇帝に相応しい、しかして優しく
「後世の、口だけ達者な歴史家どもに、『彼らは皇位を簒奪したが、愚かにも国を滅ぼした』なんて言われたくはないだろう?」
貴族と言っても、その人間性まで貴いという訳ではない。ちょっとした善行も悪行もするし、金は欲しいし女も欲しい。つまりはどこにでもいる俗物にして普通の人間という事なのだが、ゆえにこそ悪名は残したくなかった。
「家に帰った時に、『ちちうえ、おしごとはどうされたのですか?』なんて、我が子に言われたくはないだろう?」
この場の貴族全員は既婚者だ。この時代、結婚は義務ですらあるからだ。当然子供もいるが、皆が皆そこまで子煩悩という訳ではない。だが常識的なレベルでの愛情は皆持っている。
そんな我が子からの言葉を、後世の人間からの嘲りを、否応なしに想像してしまった貴族達は、言葉を詰まらせるしかなかった。
「だからな、これは我々がやるしかないのだ。我らが胸に宿る、一握りの矜持にかけてな」
そこまで言い切った皇帝は、話は終わりだと言わんばかりに再び書類に目を落とした。それを見た貴族達も彼に倣い、羽ペンという剣を手に、書類というドラゴンに無言で立ち向かい始めた。その背中には確かに、国を動かす貴族としての矜持が芽吹いていた。
「――――バッジをよこせ、ナターリア・シシリー」
半ば呆然と皇帝の話を聞いていたデッカー卿が、傍らに立ち続けていた侍女に目を向けた。強い光を宿した、鳶色の目だった。
「え……。私の、名前を……?」
「私を誰だと思っている。この国を統べる大貴族の一人だぞ。侍女の名前如き、覚えられぬとでも思っていたのか」
侍女は、放心したようにデッカー卿を見つめ続け動かなかった。その様子を見た彼は、瞳の光をさらに強くし、傲慢に鷹揚に、されど確かな覇気と共に言葉を重ねた。
「私は寛大だ。聞こえなかったようだからもう一度だけ言ってやろう。それを、その貴族の証たるバッジを返せ。必要なのだ、私にはな」
「――――はい!」
彼は差し出されたバッジをひったくるように掴むと再度服につけ、朋輩達と同じように書類との格闘を始めた。侍女はその背中に深々と一礼すると、部屋を退出して行った。
彼らは、前任者に比して有能という訳ではない。むしろ経験が足りない分、劣ってすらいるだろう。しかしその熱意と矜持は本物だ。俗物なれども無能ならざる彼らは、この国を運営する事が出来る。他国からの介入がない限りにおいてだが、皇都の混乱もきっと治まるに違いない。
だがそれは、今日ではないし明日でもない。時は待ってはくれないし、問題は解決されない限り、とめどなく山積されていく。それは即ち、皇都の混乱は今しばらく続く、という事を意味していた。
◆ ◆ ◆ ◆
「――――と、いう事になっておるようだ」
ハゲた魔術師が、自らが召喚した悪魔達に、皇城についての調査結果を伝えていた。皇帝以下の首脳陣は城にセルフ監禁状態だが、人の出入りはない訳ではないし、特に隠してもいないので、調べる事はさほど難しくはなかったのだ。
「あー……何と言うか、コメントに困る事態になってるわね」
「その、何だ……城の惨状はひとまず置いて、私らに関係あるトコを纏めるか」
名楽はぴっと指を一本立てて話し始めた。
「まず、ここ皇都の治安は、しばらく改善を見込めない」
「私にとっては直接的にはあんまり関係ないけど、羌子にとってはちょっとまずいわね」
何か事件にでも巻き込まれて、角と獣耳がバレでもすれば最悪だ。口封じにだって限度がある。かと言って、戦闘能力の低い名楽が自衛するというのは難しい。拳銃は最終手段だ。そう軽々しく使える代物ではない。
「菖蒲となるべく一緒にいるしかないかね。まあそれはともかく、商売の方にも関係ある話だな」
「治安が悪いと商売には悪影響しかないしねえ。気は進まないけど、私が用心棒をやる日も近いのかもね。あなたのスケルトンは弱いし……竜骨兵は出せないの?」
「ワシの消耗具合が違うのだ。人足として使う分にはスケルトンで十分であろうが。竜骨兵は、何かあったら出してやる」
労働力として、ハゲは店に一体のスケルトンを提供している。力は竜骨兵より弱く、子供以上成人女性未満といったところだが、命令に反抗する機能のない労働力は何かと役に立っていた。
「その話は後にしてくれ。んで、二つ目だ」
名楽が二本目の指を立て、二人の注目が集まった。
「城には、高確率で帰還術式が存在するだろう、ってコトだな」
ハゲの話からすると、そういう事になる。二人にとっては、何よりも重要な事であった。
「その前にあなたに聞いておきたいんだけど」
「何だ」
「権力が欲しいって話だったけど、城に仕官はしないの? 話からすると、今なら簡単に入り込めそうよ?」
そも、魔術師貴族制の始まりは、魔術師なら読み書き計算が可能だから、という事に端を発する。魔術師だから偉いといったような選民思想ではなく、文官を求めるための制度だったのだ。従って、ハゲが応募すれば即採用されるだろう。最初は準貴族からだが。
ちなみに、ごく稀に読み書き計算とは無関係に、生まれつき魔術を使える者も存在する。だがそういった者達は例外なく強力な魔術を行使出来るので、どっちにしろ取り込む価値はあるのだ。
「最初はそのつもりもあってこの国に来たのだがな……。いくら権力を持とうが、使う暇がないのであれば意味があるまい。明らかに労苦と見合っておらんわ」
「罰ゲームより酷そうだからな……」
「多分本来は現地で判断するような、細かい事まで上げてるせいなんでしょうけど……それにしたって、さすがに、ねえ」
揃いも揃って、何とも
「ま、ハゲが城に行く気がない、ってのは分かったけど」
「ハゲではない」
「それならこれからどうするの? 後は金と女とか言ってたわよね?」
「当面はマリアに協力する事になるな。新商品とやらを売り出すのであろう? どれほどの物かは知らんが、売れれば金は入って来るだろうよ」
真っ当に売れれば、おそらくハゲが想定している程度では済まないと思われるが、まあ知らぬが花である。どうせすぐ知る事になるのだし。
「そういうお主らはどうなのだ? 術式はおそらく城にある。忍び込んで奪って来ればいいのではないか?」
「なぁんで二人してそういう事言うかなあ……。城に忍び込むとか無理に決まってるでしょうが」
その言葉を聞いたハゲは、酷く驚いた表情となった。
「なぬ? どういう事だ?」
「いやどうもこうも……泥棒じゃないんだから、そんなスキルは私にはないわ。段ボールもないし、私に出来る事と言ったら気配を消すくらいがせいぜいよ」
「お前さんのその段ボールに対する情熱は何なんだ……」
「…………なるほど、完全なる戦闘特化の悪魔という事じゃな?」
「いやそういう訳じゃ……まあいいわめんどくさい」
皐月が、面倒になるとブン投げるという悪癖を発揮した。名楽は呆れたようなジト目で彼女を見ていたが、何も言う気はないようであった。皐月はそんな視線を見なかった事にすると、パンと手を打ち鳴らした。
「さて! 方針としては、皆ひとまず商売に専念する、って事でいいわね?」
「城の方は気になるが、今はどうしようもないからな。差し当たってはそれでいいと思う」
「選択肢が増えた、くらいに考えておいた方がいいでしょうね。気になるのは私も同じだけど」
ハゲが仕官しない以上、手っ取り早く城から帰還術式を得る、という事は不可能であろう。尤も、仕官したらしたで無間書類地獄に落ちると思われるので、術式を探す暇があるのかは甚だ疑問であったが。
「ワシもそれで異存はない。大商人となり、金の力に物を言わせるのも一興か」
「メディチ家でも目指すのか?」
「何だそれは?」
「昔存在した大商人。最盛期は国ですら頭が上がらず、後には一国の主にすらなった銀行家だ」
「ほう……」
ハゲが明らかに興味を見せた。仕官の道が実質的に
「ならばワシも、そのメディチ家とやらに倣う……いや! 超えてみせるとしよう! 何、このワシならば容易い事だろうよ!」
フハハハハと高笑いするハゲの横で、悪魔達が声を潜めてこそこそと話をしていた。
「メディチ家はそこまで行くのに何代もかかったし、最終的にはコケたんだが……」
「黙っておきましょう。やる気に水を差す事もないわ」
何はともあれ、やる事は決まった。目的は違えど道筋は一つ。同床異夢でも手段が同じなら、協力し合う事も可能である。義理人情ではなく利害得失で繋がった二人と一人だが、地獄の悪魔とその召喚者としては、実に健全な関係であると言えた。
誰かセントールとアイマスのクロス書いてくれないかなあ……。
244様、誤字報告ありがとうございました。