天高く馬肥ゆる秋。字面通りの故事成語だが、何故馬なのか考えた事はあるだろうか。身近な家畜には違いないだろうが、それなら豚や牛、何なら家畜に限定せず食用にしていた鹿や猪でもいいはずだ。そこには、馬でなければならない理由が存在している。
この言葉は、日本ではなく古代の中国で生まれた。ここで言う馬とはただの馬ではなく、騎馬民族が保有していた馬だ。夏の間、青草をたっぷり食べた馬は肥えている。秋になるとそんな馬に乗った騎馬民族が収奪にやって来る、という意味なのだ。
とは言え、そんな剣呑な事情も今は昔。現在では、単に秋は晴天が多いだとか、つい食べ過ぎて太って困るからダイエット、のような長閑な理由で使われる事の方が多い。
ここ、新彼方高校でもその例に漏れず、天高く馬肥ゆる秋……と言うには少々過ぎているかもしれないがとにかく秋晴れのとある日に、第114回目となる体育祭が執り行われていた。
「あら凄い」
「マジではえーな、犬木。まさか姫に勝つとは」
種目は100m走。陸上競技では本来、形態別に分かれるが、あくまでも『遊び』という体の体育祭ではそこまでしない。従って人馬の君原も、他形態と共に走っていた。馬力も脚の数も違う以上は一位は確実だと思われたが、その下馬評を覆し、何と長耳人である犬木が一位になってしまったのだ。
「姫ちゃんは100mが9秒くらいでしたよね。人馬以外では世界記録でもそこまでではなかったと記憶していますが」
「男子でも9秒半くらいだったか? 女子だと10秒も切れてなかったはずだぞ」
2018年現在、男子の100m最速記録はウサイン・ボルトの9秒58、女子はフローレンス・グリフィス=ジョイナーの10秒49である。しかしこの世界には、ヤギのような脚を持つ牧神人が存在するので、二足歩行でももう少し記録は伸びるのではないかと思われる。
「姫~、ちょっとはマジメに走れよ」
「走ったよ~」
人類の速度議論を始めてしまったサスサススールと名楽を尻目に、獄楽が君原に咎めるような視線を送っていた。遊びとはいえ、負けるのは気に入らないようであった。
「んー……。ひょっとして姫」
「なあにあやちゃん?」
「ブラのサイズが合ってないんじゃないの」
「えっ」
セクハラまがいの皐月の言葉に、君原はびきりと固まった。どうも心当たりが、無い訳では無いようだった。
「またデカくなったんか。牛じゃねーんだからよ」
「な、なってないよぅ!」
恥ずかしがって大きくなった事を言い出しづらく、結果下着のサイズがそのまま、という流れではないかと思われる。あのサイズだと中々売っていない事もあるだろう。
「そう言われりゃ確かに随分揺れてたな」
「その揺れが気になって、無意識にブレーキがかかってしまったというコトでしょうか?」
覗き込む蛇の三つ目に、顔を赤くして俯いてしまう君原。女王しか生殖を行わない南極人には、この辺りの微妙な感情が感覚として掴みにくいようだった。
「うぅ……牛じゃないもん牛じゃないもん」
「すねてるところ悪いけど姫、合ってないんなら早急に何とかした方がいいわ。さもないと……」
「……さもないと?」
「垂れるわよ」
バックに雷が落ちたかの如き劇画調の表情で、君原が完全にフリーズした。古いパソコンのような、ガリガリガリという音が聞こえんばかりであった。垂れる心配の全くないサスサススールが、にょいんと首を皐月に向けた。
「垂れるのですか」
「年取ってからね。姫は大きいからまあ、大変な事になるでしょうねえ」
「哺乳類人は大変ですね」
「サスサスは垂れるモンがねーかんな」
「お前それ自爆してるって気付いてんのか?」
サスサススールを見て納得したようにうんうんと頷く獄楽に、おまけのように流れ弾を食らった名楽が鋭いツッコミを入れた。南極人には授乳機能そのものが存在しないので、胸がないのはある意味当然なのだが、哺乳類人平原コンビにはそんな事情は一切ない。泣ける。
ちなみに垂れる原因としてはクーパー靭帯の劣化や損傷が有名だが、それだけという訳ではない。加齢に伴う女性ホルモンの減少や、妊娠出産に伴う身体のサイズ変動等々、様々な原因が絡み合って起こる事なのである。
とは言え一因には違いないので、若いうちから気を付ける事は必要だ。君原のサイズなら尚更に。水中で生活する事が多い人魚ならともかく、完全陸棲の人馬では、垂れてしまえばそれはそれはとんでもない事になるであろう。
「私にはピンとこない話なのですが、やはり大きい方がいいのでしょうか?」
「小さくても育児は可能なんだし、その辺は好みなんじゃないの」
「姫ほどじゃねーけど、菖蒲も結構あったよな」
「姫の隣だから目立たないだけで、ガタイはいいかんね。そりゃサイズだって相応になるさ」
「ガタイっつーか、筋肉の上に胸が乗ってるってカンジだったけどな」
「ほっといて頂戴」
鍛えた肉体を恥じる訳ではないが、やはり女子として思うところはあるようだ。軍人のように全身是筋肉、とはなっていないが、それでも腹筋バキバキになればさもありなん。
「というか何でこんな話になったんだっけ」
「姫ちゃんが100m走で負けたためでは?」
「姫の胸が揺れると、菖蒲の腹筋にダメージが行くのか……」
「そんな大風桶屋理論じゃないんだから」
姫が走ると胸が揺れ、胸が揺れると100m走に負け、100m走に負けるとブラのサイズが合っていない事がバレ、ブラのサイズが合っていない事がバレると胸の話になり、胸の話になると皐月の筋肉の話がポップし、筋肉の話がポップするとその持ち主の精神にダメージが行く。一分の隙もない完璧な理論だ。
問題があるとするならば、本格的にフリーズした君原の再起動の目途が立たない事くらいである。体育祭はまだ始まったばかりだというのに、先が思いやられる有様であった。
◆ ◆ ◆ ◆
「ほら姫、元気出せ。もう次の競技始まるぞ」
「うぅー…………垂れないよね……?」
「今から気を付けてれば大丈夫よ」
何かトラウマにでも直撃してしまったのか、へこんでしまった君原を励ましつつ、次の競技の綱引きに挑む。男女別で実施され、綱の中央に結びつけてある旗を倒した方の勝ちだ。
「それよりもう始まるわよ」
「つっても、姫と菖蒲の馬鹿力コンビがいるんだから余裕だろ」
「そ、そんなに力強くないよぉ!」
「姫はともかく、私はあんまり役に立たないと思うわよ」
「そうなん?」
「綱引きで重要なのは、腕力より体重……正確には、足裏の摩擦力だから」
相手を強く引っ張るためには、踏ん張らなければならない。それに必要なのは摩擦力であり、摩擦力を発揮するためには重い体重が必要なのだ。腕力が強くとも、体重が軽いと踏ん張れずにずるずると引き摺られてしまう。相撲取りが脂肪をつけて体重を増やすのと理屈は同じである。
「技術があればその限りじゃないかもだけど、そんなのないし」
「あとは重心を低くすれば有利になりますね」
「そういう意味では人馬は不利ね」
「屈めねーかんな」
人馬は構造上、中腰で屈んだまま綱を引くという動きが出来ないのだ。蹄の上の関節は内側にしか曲がらないので、屈んだら座り込むしかない。人馬は、二足歩行で言うなら常に指先で立っている状態であり、蹄の上の関節は指の付け根に相当するためである。
ちなみに後脚中央の逆関節っぽい箇所は
蹄は中指が巨大化して出来たもので、他の指は退化して消えた――――というのはこれまでの通説だったが、近年の研究では異説が出ている。その説によれば、五本指全てが融合して蹄となったらしい。これは馬の話だが、人馬もひょっとするとそうなのかもしれない。
「オイ、ホントに始まるぞ!」
そうして始まった綱引きは、君原の体重が全てを持って行った。あまりの勢いに、獄楽のインターセプトが入ったほどだった。物理法則には勝てなかったよ、というのが相手チームたる白組の言い分である。
男子の方は、人馬が二人もいる白組を抑え、小守と猫見のパワーが赤組に勝利を引きずり込んだ。物理法則仕事しろ、というのが相手チームの言い分である。
なお
そんな猫見と小守の怪力無双を見た獄楽が、端的に評価を下した。
「アホな分、全部の栄養が筋肉にいってんだな」
「まあ、そーかもな」
「単に各形態間の差異が縮小傾向にある、というコトでは?」
サスサススールが、近年の統計から見る事実を述べた。実際彼女の言う通り、形態による身体能力の差等は年々縮まってきているらしい。ただし骨格から異なる人馬、牧神人、人魚は除く。
「違う形態同士の結婚が増えたからだっけ?」
両親が異なる形態でも、子は基本どちらか片方のみの形態をとる。双方の特徴が混じり合う混合形態は稀だ。とは言えそれでも、遺伝子が受け継がれている事には変わりない。目に見えないところで、その遺伝子が形態間の差異を埋めているのではないか、という事であった。
「形態間平等政策の副産物、でしょうか」
「今の平等政策は、実施されてからまだ日が浅い……。精々が二~三世代、そんな短期間では大きな差は出ないんじゃないかしら。同じ形態と結婚する事例もまだまだ多いし」
いくら形態間平等とはいえ、『別形態と結婚しろ』と国が言う事は出来ない。裏にどんな理由があったとしても、『自由恋愛です』の一言で終わりである。そもそも形態間平等は異形態との婚姻を認める政策ではあるが、異形態と強制的に結婚させる政策ではない。
「オイ、危ない話はそんくらいにしとけよ。聞かれたらコトだぞ」
「全く言論の自由もないなんて、民主主義が聞いて呆れるわ」
「そういうところだよ菖蒲」
言論の自由がない? それは酷い誤解だ。この世界にも言論の自由は存在する。ただし、公共の福祉に反する場合はその限りではない、というだけだ。もちろん公共の福祉の中には、形態間平等が含まれる。
いや、この場合はこう言った方が良いだろう。各形態が平等である事は、太陽が東から昇るように自明の理なのだ、と。平等でない市民は存在しないし、平等を保障する民主主義に疑義を呈する市民もまた存在しない。
仮に存在したら? 存在しないのだからそんな心配をする必要はない。存在するとしたらそれは差別主義者で思想的反逆者に決まっているし、反逆者は市民ではない。従って、平等ではない市民は存在しない。完全で完璧なロジックである。
市民、平等は義務です。
市民、あなたは平等ですか?
◆ ◆ ◆ ◆
綱引きに続いてパン食い競争も終わり、昼休み。自前の揺れるパン二つでギャラリーを沸かせた鴉羽が、君原達の下へとやって来ていた。
「んふ、こーゆーのもいいですねー」
サラシを巻き、学ランの前を全開にした姿の君原達を見てご満悦だ。午後の応援合戦用のコスである。
「お前さんは着ないの? 好きそーじゃない」
「生徒会は実行委員会も兼ねてるのでムリなんですよぉ。だから残念です、色々ありえたのに」
名楽の問いに答える鴉羽の脳内はピンク色だ。御魂や若牧の学ラン姿でも妄想しているのであろう。今日も今日とて歪みなく自らに忠実な女であった。
「それにしても、いつ見てもスゴイですねぇ」
「あまり見ないで欲しいのだけれども」
鴉羽の目が、つつと皐月の腹に寄っていく。こちらもこちらで、今日も今日とてバッキバキだ。何と言うかもう、六つに割れてる時点で女の腹ではない。
「筋肉フェチだったんか?」
「そーゆーコトじゃありませんけど。やっぱりどーしても目が惹かれるってゆーかー」
「まあ気持ちは分からんでもない」
「羌子まで……」
梅雨時の洗濯物のようにじっとりとした隻眼が、名楽と鴉羽をねめつけた。それを見た鴉羽が、慌てたように話題を逸らした。
「そ、そういえばセンパイたちは、恋人とか作る気はないんですかぁ?」
「何だいきなり」
「いえいえ、前からちょっと思ってたんですよぉ。センパイたちなら、その気になればよりどりみどりの色とりどりなんじゃないですぅ?」
無駄に色気たっぷりの甘ったるい声が君原達の間を通り抜けた。男ならふらっと行ってしまうのかもしれないが、この場にはそんな者は存在しないのでまさに無駄だった。当然一切なびかなかった君原が、困ったような顔で言った。
「うーん、今はそんな気にはなれないかなーって」
「受験もあるしな。大体オレが男作ってるトコなんか想像もつかねーよ」
「なら女を作りましょう!」
気のない言葉を吐く獄楽に、鴉羽がきらきらとした目を向けその手を取った。普段とは違う学ラン姿に、妙なところが妙に刺激されたようであった。
「女は尚更お断りだっつの」
「あん」
「なんで喜んでんだ……」
これまた当然全くなびかず、逆にデコピンを食らったが鴉羽は嬉しそうであった。呆れ顔を見せる名楽はスルーし、今度は皐月に水を向けた。
「菖蒲センパイはどーなんです? センパイなら相当モテるでしょう」
「前羌子のアニキに告白されてたしな」
「その話は止めてくれ……」
名楽が当時を思い出し、獣耳をぺたんと寝かせてへこんだ。鴉羽は詳しい話を聞きたいような素振りを見せたが、皐月が話し始めたのでそちらに意識を向けた。
「んー……希じゃないけど、私が男に愛を囁いてるとこなんて想像できないわ」
「それなら是非女に囁いて下さい」
「いやそれもないから」
にべもなく切り捨てられた鴉羽は、しゅんと竜人特有のエルフ耳と眉を下に落とした。しかし彼女は、いつものようにいつかの如く、無駄に不撓不屈な精神を発揮し、皐月の腹筋につつつと体を寄せた。
「誰にも初めてはあります、私が初めての女になります。だから純粋同性交遊しましょう」
「同性なら不純じゃないってか?」
「少なくとも動機は純粋に不純だな」
「腹筋触りながら何アホな事言ってんのよ」
「あぁん」
今度は皐月にデコピンを食らった鴉羽だったが、やはり嬉しそうであった。皐月は溜息をつくと、額を両手で押さえている鴉羽に念を押した。
「男でも女でも付き合う気はないからね? それに――――」
「それに?」
男だろうが女だろうが、それは皐月にとって等しく人間ではない。親愛を抱けど、恋愛には至らない。南米には両棲類人と付き合っている哺乳類人もいるが、それは特殊性癖というものだ。
万一付き合ったとしても、その結果として
そういう根と闇が深い事情があるのだが、さすがに違法ど真ん中ストレートなそれを口外する訳には行かない。従って皐月は、適当な誤魔化しの言葉を口にした。
「――――いや、何でもないわ。とにかく、彼女が欲しいなら他を当たって頂戴」
「うぅ、ザンネンですぅ。でも私はネコなのでぇ、欲しいのは彼女じゃなくて女のコの彼氏ですよぉ」
「心の底からどうでもいいわ」
◆ ◆ ◆ ◆
『では午後の部を始めます。まずは両軍の応援合戦から』
スピーカーから響く声が午後の始まりを告げ、応援合戦が開始された。そして即座に笑いの渦に包まれた。原因は、赤組の
「フレーフレー赤組!!!!」
顔を赤くして、半ばやけっぱちで声を張り上げているチア姿の生徒達。と言っても、女子ではない。女子は学ラン姿だ。つまり、チアガールならぬチアボーイである。小守を始めとした、むくつけき男どもがチアをやっているのだ。そりゃあ笑いも起ころうというものだ。
「ねえねえあの子、ちょっと可愛くない?」
「薄い本がアツくなるわね……!」
もっとも、チア姿が似合ってしまっている男も若干名交じっているようだが。一部女子の視線が熱い。油汚れの如くねとついた欲望を隠そうともしていなかった。
「フレーフレー、し・ろ・ぐ・み!」
そんなごく一部の嗜好はともかく。白組女子チアは、負けじと声を張り上げる。だが完全にインパクトで負けてしまっており、旗色は悪いと言わざるを得なかった。
「――――オオオオォォォォッ!!!!」
そこに響いたのは、びりびりと大気を引き裂き震わせる咆哮だ。虎の如き雄叫びは、否応なしに場の注目をその発生源に引き付けた。
「押忍!!」
その機を逃さず、赤組女子で構成される応援団が声を揃えた。男女の衣装を逆転させ、チア男子でウケを、学ラン女子で凛々しさを狙う作戦だった。
「フレー! フレー! あーかーぐーみー!!」
その作戦は当たったようで、明らかに耳目がそちらに集まっていた。獄楽希・
「やっぱ凄い力だな」
「声もスゴイよね。人虎ってあんなカンジだったのかな」
名楽と隣り合って座る、長髪糸目長耳人の
「いえ、菖蒲さんの方が上だと思います。人虎は樹上からの奇襲攻撃が主なので、威嚇以外では吼える必要がありませんから」
「ん? サスサス人虎を見た事あるんか?」
「えっと……博物館に行った時、そのような説明文があったので」
名楽の訝しそうな様子に、サスサススールは内心慌てて誤魔化した。汗腺があったのならば、冷や汗をかいていた事だろう。幸いにして名楽は、応援合戦の観戦にすぐ戻ったため、彼女はほっと胸を撫で下ろした。
人虎はこの世界の人間の一形態だが、すでに絶滅している……というのは表向きの話。どうやったのかは不明だが、実は南極人は生きた人虎を確保しているのだ。当然機密である。その機密をうっかり漏らしかけたサスサススールは、随分と哺乳類人的になっているようであった。
「声と言えば姫もだな。よく通るし、パーツがデカいから見栄えもする」
「見栄えといったら章ちゃんと希ちゃんもだね。ホラ、息ピッタリ」
御魂家の三つ子もかくやの息の合い方だ。双子と見紛わんばかりにそっくりなので、画面映えも一入である。尤も章の方は牧神人と竜人の混合形態であり、髪の色とメガネという分かりやすい差異もあるので、見間違う事はないであろうが。
「こっちも負けるな!!」
白組の応援団長もまた、喉も裂けよとばかりに声を張り上げ、天井知らずに熱気は上昇していった。
◆ ◆ ◆ ◆
応援合戦の次は借り物競争だ。とは言ってもただの借り物競争ではない。いやルールは普通なのだが、借り物の題が全く普通ではないのだ。
「はいOKです」
禅問答かトンチかよ、と言わんばかりの題が出て来るのである。なお今OKが出た御牧が借りて来たのは御魂で、題は『世界一の男前、ただし男ではない』だ。納得のチョイスだが、借り物競争で出す題ではない。
そんな借り物競争で、自らの番となった
「サツキン来て!」
「私?」
手を取って皐月を引っ張って行く。ゴールすると彼女は、題の書かれた紙を実行委員に渡した。
「では証明を」
証明が要るような借り物競争のお題ってなんだ、と哲学的な事を皐月が考えていると、朱池がおもむろに彼女の胸を揉んだ。それはもうがっつりと。身長相応の大きさの塊が、朱池の手の動きに合わせてもにゅもにゅと形を変えた。
「何すんのよ……!」
「あぁっなんだか懐かしい感触ッ」
言うまでもなく、流れるような流れで朱池の頭が吊り下げられた。メキメキという音が聞こえてきそうなアイアンクローを見た実行委員が、頬を引きつらせながら宣言した。
「は、はい、OKです」
「お題は何?」
「こ、これです」
実行委員に見せられた紙には、『リアル戦国無双』という文字が記されていた。朱池の頭にかかる圧力が無言で増した。
「潰れる潰れる潰れちゃうッ」
「何でこのお題で胸を揉むのかしら」
「サツキン捻くれてるからやってって言っても素直にやってくんないじゃん! それなら揉める分だけこの方法のがいいし!」
「冴えない遺言だったわね」
「やめてマジやめてホントに潰れるッミートソースになっちゃうぅッ」
朱池は頭を固定する手を掴みじたばたと足をばたつかせるが、ゴミを見るような視線の皐月の手はその程度では揺るがない。頭蓋骨が土壇場瀬戸際崖っぷちのその時、女らしい高い声が響き渡った。
「ミツ!」
「ミチ!」
声の主は、朱池の恋人の犬養であった。助けの手が来たと瞳を輝かせる朱池に、犬養は常の気弱そうな姿とは裏腹に、暴走機関車のような勢いで詰め寄った。
「も、もう私には飽きたの? 皐月さんの方がいいの……!?」
「えっ」
皐月の胸を揉みしだいていたのをばっちり見ていたらしい。どこの世界でも、蜘蛛の糸は切られる定めにあるようだ。やはりブッダはゲイのサディスト。
「違っ」
「そうだよね……皐月さん美人だし頭もいいし、運動もできるし。私なんかより魅力的だよね」
「誤解だよ! いやそうだけどそうじゃないんだよ!」
「いいの、ミツが幸せなら私はそれで。二人で、幸せにね……!」
「ミチ!!」
涙ながらに走り去る犬養。あまりの展開に皐月が思わず力を緩めると、朱池は脇目もふらずにその後を追いかけて行った。
「何だったのかしら……」
「さあ……」
嵐のように過ぎ去った修羅場にすっかり毒気を抜かれた彼女は、二人が走り去っていった方向を、微妙な顔で見つめるしか出来なかった。隣で実行委員の眼鏡少女も同じ顔をしていた。
◆ ◆ ◆ ◆
『本日最後の競技、学年別組対抗リレーです!』
「それじゃ行って来るわ」
「姫が行ければ良かったんだけどな」
「人馬は人数制限があるんだから仕方がなかろ」
腰を上げた皐月を見送る。リレーは男女でも分かれているので、まずは一年女子からだ。その待機場所で皐月がふと隣を見やると、見知った顔が目に入った。
「む」
「あら」
濃い茶色のショートヘア長耳人女子。陸上部の砲丸エース、
「今度は負けないぞ!」
「いきなりそれ……? というか、あなたに勝った事なんてあったかしら」
「何をとぼけるかっ! あの時の腕相撲での屈辱、片時たりとも忘れた事などない!」
「あー、そういやそんな事もあったわねえ」
一年の時に謎の腕相撲大会が執り行われ、その時皐月が東鉄に勝ったのだ。皐月の方は言われるまで忘れていたが、東鉄の方は忘れられない出来事であったようだ。
「帰宅部に負けて、私の砲丸選手としてのプライドはボロボロだ……。だから! 今日は勝つ!」
「腕相撲と短距離走はあんまり関係なくない?」
「細かいコトはいいんだ! 姫君といい勝負ができるほどの腕力があっても関係ないっ! 今日は私が勝つ!」
「結局勝ったのは姫だったじゃないの」
「あの時途中で力抜いただろ! 私の目は誤魔化せないぞ!」
「机から嫌な音が出たんだから仕方ないでしょうが」
左手で机の端を持ち、机の中央の右手で腕相撲、という形式だったので、力がかかり過ぎると真っ二つになってしまう危険性があったのだ。実際、小守と猫見の二人はそうして机一つを駄目にしている。
「くっ……あの力があって帰宅部とは……! なんで陸上部に入ってくれなかったんだ。全国優勝だって夢じゃなかったはずだぞ?」
「よんどころない家庭の事情ってことで」
「よんどころないんなら仕方ないな。世の中よんどころないコトばっかりだからな」
「あら素直」
「自分じゃどうにもならないコトってのはあるからな。皐月は本当に片目みたいだが、それでも陸上競技ならほとんど関係ない。勧誘もされただろうに入部しなかったって事は、そういう事なんだろう」
思わずまじまじと東鉄を見つめてしまった皐月を、不審そうな色を湛えたブラウンの瞳が見返した。
「なんだ?」
「いや、意外な言葉が出て来たから」
「私をなんだと思ってたんだ!?」
「猪と闘牛を足して割らない感じの熱血系?」
「誰が赤いマントにあしらわれる直情径行ぼたん鍋まっしぐらだッ!」
「そこまでは言ってないけど」
「くっ……その余裕顔も今だけだ! とにかく、勝つのは私だからな!!」
そうこうしているうちに一年女子のリレーが終わっていた。犬木無双であった。男子もあっという間に終わり、二年女子、即ち皐月達の出番がやって来た。
「あ、あやちゃんが走るよ!」
「おー、陸上部でもないのに相変わらず速いな。マンガとかだと、パワータイプは動きがノロかったりするもんだが」
「そりゃ長距離の話だな、短距離なら筋肉ついてる方が速いぜ。もちろん限度はあるけどな」
「あ、私それ知ってます。赤筋と白筋の差ですよね?」
「そうそれそれ」
赤筋は遅筋とも言い、瞬発力や最大筋力は控えめだが、持久力のある筋肉だ。鍛えてもあまり太くならない。マラソンランナーが細身なのはそのせいだ。
白筋は速筋とも言い、持久力はないが、瞬発力のある筋肉だ。鍛えると丸太のように太くなる。ボディビルダーや短距離走選手がムキムキなのはそのせいだ。とは言え、あまり太すぎると重さが邪魔になったり関節の可動域が狭くなったりと弊害もあるので、競技によって適量は変わる。
皐月のように腹筋バキバキなら、身体の浅層にある白筋が発達しているという事なので、短距離走が速くなる。もちろん専門に訓練を積んだ者には及ぶまいが、それでも人一人を片手でぶら下げる腕力がある。脚力はそれを上回るので、遅いはずがないのであった。
「ま、負けた……」
「いやリレーなんだから、スタートから時間差あったじゃない……」
負けて落ち込む東鉄が、その発想はなかったという顔になった。どうも勝つ事だけに意識が向きすぎて、前提条件が忘却の彼方であったようだった。真っ直ぐなのはいいが、少々真っ直ぐすぎる女であった。
◆ ◆ ◆ ◆
「終わった終わった!」
「勝てて良かったですね」
「まー勝ったからどう、ってコトもないけどね」
体育祭終了後。三々五々散っていく人波の中、普段の五人が自然に集まって歩いていた。
「皆この後はどうするの?」
「特に予定はないね」
「右に同じく」
「私もです」
「私もそうね……なら姫の下着でも見に行く?」
「えっ」
意地悪そうな顔をした皐月に、君原の
「お、いいんじゃね? 成長具合を確かめっか」
「希ちゃんッ!?」
「成長具合は置いとくにしても姫、サイズが合ってないんなら買い替えは必要じゃない?」
「そ、そうだけど、何も皆で行かなくても……。ホラ、二人は下着のサイズなんて考えなくてもいいでしょ?」
「よし今すぐ行こうそうしよう」
「おう行くぞ姫逃げんなよ」
「えぇ~!?」
盛大に墓穴を掘り抜いた君原を、一瞬で真顔になった名楽と獄楽が引き摺っていった。丑の刻の橋姫もかくやの勢いで目が据わっていた。げに残酷なりしは格差社会であった。
「いつになく迫力がありましたが、大丈夫なのでしょうか……」
「ほっときゃそのうち頭も冷えるでしょ」
若干心配そうなサスサススールに、割と気楽そうな皐月。その対照的な二人の後ろには、仲直りしたのか普段より明らかに距離が近い朱池と犬養に、それを羨ましそうに見つつ若牧にちょっかいをかける鴉羽、何故か再びチア姿になっている小守と、形容しがたい混沌が広がっていた。
つまりは、いつも通りの日常という事であった。
後日談の方はあと一~二話で終わる予定。