「暑い……」
日曜日は初夏の昼下がり。季節外れに気温が上がり、気怠さと不快指数が鰻登りの陽光の下、皐月は街を歩いていた。
「暑い……」
髪の毛が黒いので余計に暑い。ポニーテールに纏めているが、結構長いのもマイナスポイントである。かと言って切ると、何故か判で押したように『振られたの?』と聞かれるので、それが鬱陶しい皐月は短くしようとは思わなかった。
「暑い……」
全身から汗が噴き出しているが、最も酷いのは眼帯の裏だ。黒いせいで熱を吸収して熱いし、通気性もお世辞にも良いとは言えないため、蒸れるを通り越して濡れている。かといって外す訳にも行かない。仮にも女子だ、傷痕を晒して街を歩く気にはなれなかった。
「暑い……」
さっきから念仏じみて同じ事しか言っていないが、それも無理はない。一ヶ月は早い夏日は30℃を超え、しかも前日に雨が降ったため湿度まで高い。そんな日に外を歩けば、そりゃあ暑いとしか言えなくなるだろう。
「暑……ん?」
都合13回目の繰り返しになるかと思われたその言葉は、彼女の一つきりの瞳が見知った人影を捉えた事で中断された。
「あれは……」
公園のベンチに座る人馬と翼人。そしてその間には、小さな長耳人が三人に、同じく小さな人馬が一人。小さい方は知らないが、大きい方が誰なのかはよく知っている。皐月は彼女らに近づき言葉をかけた。
「委員長に姫? こんなところで奇遇ね」
片方は君原姫乃、もう片方は委員長こと
「あやちゃん?」
「あら、皐月さんじゃない。今日は奇遇が続くわね」
その言葉に一瞬何の事かと思ったが、どうやら二人は示し合わせて会っていた訳ではないようだと思い至る。まあ会うんなら子連れはない。彼女らの出会いもまた偶然だったのだろう。
「この子たちは? 妹さん?」
「私はそうだけど、君原さんの方はいとこだそうよ」
「「「こんにちはー!」」」
「はいこんにちは」
頭の上に獣のような耳をつけ、長い尻尾が装備されている三人の女の子たちが、声を揃えて挨拶してくる。同じ顔に同じ髪色、同じ服。どこからどう見ても三つ子であった。
「そっちは……人見知り?」
右に振られた皐月の頭が、小さな人馬に向けられる。しかしその小さな彼女は、君原の腕に捕まり、少々怖そうに皐月を見上げていた。
「ふみゅぅ……」
「ごめんねあやちゃん。ほらしのちゃん、怖くないよー。お姉ちゃんのお友達だよー」
「怖い……」
「私そんなに怖いかしら」
「目が怖いの……」
その言葉を最後に、しのちゃんと呼ばれた子は君原に強く抱き着いて固まった。君原が宥めてもすかしても全く動く気配がない。御魂が思わずといった風情で、皐月を見上げて声を漏らした。
「ああ……」
「何でそこで納得するのよ」
「その……ごめんなさい」
「何でそこで謝るのよ」
あからさまに視線を逸らす御魂。まあ面と向かって『その死んだ目が怖いんでしょ』とはさすがに言えまい。
「その顔のくろいの何?」
「がんたい? かいぞく?」
「かいぞくのおねーちゃんだ!」
今度は三つ子が騒ぎ始めた。皐月の右目を覆う眼帯で海賊を連想したらしい。白い医療用眼帯は使い捨てで不経済、耳が擦れて結構痛い、濡れると地味に困る、等といった理由から使っていない。代わりに本革性の黒い眼帯を着けているので、確かに海賊のそれと似ていると言えば似ている。
ちなみに海賊は皐月とは異なり、別に隻眼だから眼帯を付けていた訳ではない。船内は暗いので、その暗さにすぐ対応できるよう、眼帯で目を慣らしていただけである。
「海賊じゃあないわねえ」
「違うの?」
「じゃあなんでがんたいつけてるの?」
「にせものかいぞく?」
「海賊から離れて頂戴。こっちの目のところには傷があってね、それを隠してるのよ。たまに義眼が勝手にずれて白眼になっちゃうこともあるし」
「ぎがん?」
「えーとね、偽物の眼の事よ。本物の眼はなくしちゃったから、代わりに作り物の眼を入れてるの」
「なくしちゃったの?」
「なんでなくしちゃったの?」
「ケガしたの? それともびょうき?」
「怪我と言えば怪我だけど、ちょっと違うわねえ。昔……あなた達より少し上くらいの歳だったかしら、まあとにかくその頃にナイフで抉られたの」
さらっと告げられた言葉に、横で話を聞いていた高校生二人が凍結した。だがそれに気付く様子もなく、子供三人と皐月の会話は続く。
「ナイフ?」
「痛そう……」
「そうねー、痛かったわよー。まあその痛みで思いっきり暴れたらロープが緩んで自由になれたから、眼の代わりに命が助かったと思うしかないわねえ」
「なんでそんなことになっちゃったのー?」
「それは犯人に聞くしかないわねえ。ただ『お前の存在は形態間平等を侵害している!』とか言ってる頭がおかしいのだったし、何より油断してるところをやっちゃったから、もう聞くのは無理かなあ」
「そっかー、むりかー」
「がんたいのおねえちゃん、さいなんだったのね」
「私しってる、そーゆー人のことテロリストっていうのよ」
「あらよく知ってるわね。テロリストに人権はないから、見つけたら逃げるか殺すかしちゃいなさい。あ、でも、もちろんその前に大人の人を頼るのよ?」
「「「はーい!」」」
三人揃った声にようやく二人が解凍される。君原はオロオロしていたが、御魂の方は反射的に皐月の頭に手刀を叩き込んだ。
「痛いじゃない、何すんのよ委員長」
「子供になんて事教えてんの!」
「えー、事実じゃない」
マジで事実である。テロリストに人権はない。正確には、形態間差別を名分にするテロリストに人権はない。六法全書にもそう書いてある。
「こういう事は早めに教えとかないと、私みたいに隻眼になっちゃうわよー?」
「だとしても言い方ってもんがあるの!」
「いいじゃないのそのくらい。大体、かちかち山とかの童話の方がよっぽどエグいでしょうに」
狸は媼を殺してその皮を被って成り代わり、狸肉と偽って翁に食べさせる。兎は狸を騙して背中を燃やし、薬と偽り火傷に辛子を塗りこみ、泥船に乗せて溺れさせ、最後は櫂で叩き殺してめでたしめでたし。これが子供向けの童話として流通している事に戦慄を禁じ得ない。
いやまあある意味においては、桃太郎よりはマシなのかもしれないが。桃太郎は元々、『桃を食べて若返ったお爺さんとお婆さんが共同作業()を行い、その末に生まれた子』なのだ。
なので別に桃から生まれた訳ではない。『共同作業()ってなーにー?』と子供に聞かれたら、気まずいなんてものではないだろう。
「そういう問題じゃないの! それはそれ、これはこれ!!」
「ま、まあまあたまちゃん、そのくらいで……」
困った顔の君原が、ヒートアップする委員長を止めに入る。その時彼女らの横から、聞き覚えのある声がかけられた。
「おやおや、これはまた珍しい取り合わせだね」
「やっ」
クラスメイトの
朱池は、黒目黒髪の角人少女だ。ただその髪と瞳の色は、皐月よりは少し薄い。オカルト科学部という、何をするんだかよく分からない部活に所属しており、オタクである。それも結構気合が入っているオタクで、たまに徹夜で同人誌を描いて即売会に出したりしている、行動派オタクだ。
犬養もまた角人だが、珍しい事に一本しか角がなく、真っ直ぐなのが額に生えているのみだ。薄いオリーブ色の髪に、濃い青にも緑にも見える色の瞳が特徴的である。優しげな風貌であり、深窓の令嬢という言葉が似合う少女だ。実は家柄で言うなら朱池の方がよほど深窓の令嬢なのだが、全くもってそうは見えない。
そして双方同性愛者であり、恋人同士でもある。犬養の方は付き合う対象は男でも構わないようなのだが、朱池は割とガチだ。男嫌いという訳ではないが、ファッションレズでもない。ガチめのレズビアンである。
「そっちの子たちは二人の妹さんかな?」
「三つ子が委員長の妹で、人馬は姫のいとこだって」
「へぇ~」
朱池がこんにちはと挨拶しながら、まじまじと三つ子を見つめる。三つ子は不思議そうな顔で見返すのみだ。物怖じしない子たちである。
「
「父と母で形態が違うから」
御魂姉は翼人だが、妹三人は長耳人だ。抑制遺伝子が働くため、こういう兄弟姉妹は珍しくなく、違身形と称するのである。
「おねーちゃんたちはねーちゃんのトモダチ?」
「そーだよ」
「ちゅー……」
「ちゅー?」
「そーだちゅー!」
「ちゅーだよちゅー! すきすきちゅー!」
「おねーちゃんたちもう大きいから、すきすきでもちゅーしないの?」
「ええと、なんでちゅー?」
子供特有の唐突な話題転換である。単に皐月が来る前にキスの話をしていて、今それを思い出したというだけなのだが、朱池を戸惑わせるには十分だったようだ。
「ねーちゃん私たちとおとーたんにはちゅーするのに、大きくなったら女の子どうしではちゅーしないっていうのよ」
「ちゅーはすきなひとどうしでするのに、トモダチどうしですきすきでもちゅーしないって。ホントなの?」
「ははぁ、なるほどなるほど。そんな事ないよ、ホラ」
言うが早いか、朱池は流れるように犬養の腰を抱くと、そのままその唇を奪った。額の一本角を手でよけて邪魔にならないようにしている辺り、熟練の技を感じさせる。
「ほらね」
「すごーい、テレビみたーい!」
「なっ……」
スパァンと軽快な音が響いた。御魂が朱池の頭を、咄嗟に手に取ったネギでぶっ叩いたのだ。
「ぐげっ」
「子供の前で何やってんのよ! ネギが折れちゃったじゃないッ!」
「朱池はネギなのに私は手刀……差別だ差別だー」
「アナタはネギ如きじゃあ効かないでしょうが!!」
「カッタいなあ委員長。
「誰がオバサンよ!!」
「ちょ、ちょっとたまちゃん、人が見てるよ」
止める君原の目線の先には、興味津々に見つめる子供と、それを引っ張って遠くに行こうとしている母親が。しかしその程度では朱池はへこたれない。無駄にメンタルが強い。
「別にキスなんて恥ずかしいことじゃないでしょ。ロシア辺りじゃフツーの挨拶」
「ここは日本でロシアじゃないの。はぁ……なんで私のクラスメイトはこう、教育に悪いのが揃ってるのかしら」
委員長は朱池と皐月を交互に見て、これ見よがしに大きなため息をついた。
「ん? 皐月もなんかやったの?」
「そこで『も』を使わないで欲しいのだけれど。まあ大した事じゃあないわ、右眼を無くした経緯をちょっと教えてあげただけよ」
「右眼? そーいやいっつも眼帯してるけど、なんで?」
「テロリストにナイフで抉られて、その傷がまだ残ってるのよ」
「Oh……その歳でハードな人生送ってんねサツキン」
「だからテロリストからは逃げるか殺すかしましょう、って言ったら叩かれたわ」
「ざ、残念でもないし当然かなって……」
「大人しい顔して言うじゃないの犬養さん」
じろりとハイライトの無い瞳を犬養に向けるが、苦笑いを浮かべながら目線を外された。ぶっちゃけ教育への悪さは五十歩百歩である。どっちが五十歩かは言わぬが吉であろう。
「ねーちゃんねーちゃん、あの人たちちゅーしてたよ!」
「やっぱり女の子どうしでも、すきすきならちゅーするんだ!」
「忘れなさい」
すっぱり言い切る御魂の横で、君原がいとこにどう説明すべきか困っていたが、そんな空気を読むことなく朱池が子供たちに向かって言った。
「ねっ、大きくなっても好きな人にちゅーするのはいいことよ」
「ホント?」
「ホントホント」
「ねーちゃんはまちがい?」
「そうだね。君達はお父さんやお母さんにもちゅーするでしょ」
「ちょっと」
その言葉に反応した御魂が朱池に詰め寄り、その耳がぺたりと垂れて謝罪の言葉が出る。ちなみに皐月は事情を知らなかったが、先程の三つ子の話で父は出たのに母は出なかった事から、概ねの事情は察している。
しかしそれでもめげない無駄に不屈な朱池は、咳払いを一つしてから話を戻した。
「ゴホン……ただし、おくちチューはすきすきだけではだめなの。してもいいのは、特別なたった一人の人だけなの」
「?」
「それは、オトナになったらわかるコト?」
「まあそうだね」
「Hなコトなの!?」
「まー、そうかもね」
意外と攻めて来る三つ子に、さしもの朱池も若干たじろぐ。何かを言いたげに朱池を見る御魂に顔を向けた。
「何? うまく説明したじゃん」
「うまく……と言っていいのかしら、アレ」
「ま、まあいいんじゃないかな」
「ま、ほっぺにチューは好きな人みんなにしてあげな。ほら、こんな感じで」
朱池が御魂の頬にするりと口付ける。御魂は真っ赤になって、弾かれた栗のように飛びのいた。
「ちょっと!!」
「うへへ」
じゅるりと涎を拭い、今度は君原に狙いを定める。君原はビクリと背筋を戦慄かせるが、構わず朱池は距離を詰めた。
「えー、私達って友達だっけ~」
「やだなあ、親友じゃない」
宝くじに当たったら増えた親戚の如き面の皮の厚さに困り顔の君原に詰め寄るが、その朱池の口を下から伸びた小さな手が防いだ。
「だめー! ひめねーたんはしのだけがすきすきなの!」
「じゃあしのちゃんにちゅーしちゃお」
一体何がじゃあなのか。全く懲りない朱池は今度は
「いい加減になさい」
「もう時間だよ」
「じゃあこれで最後!」
我が辞書に懲りると学習という文字はぬぇ、とでも言い出しそうな朱池は、犬養に時間を告げられても全く怯まず、最後にダッシュで皐月に向かう。だがその頭を、がしりと皐月が引っ掴んだ。
「なーにが最後よ。というか私はレズじゃないから」
「あっちょっと力いれないで、今ゴリって言った頭蓋骨から変な音した」
めきめきめきと、朱池の頭を掴む皐月の右手に力が込められていく。朱池がその手を掴んで抵抗しようとしているが、全くもってこゆるぎもしない。
「うわぁ凄い、足が浮いてる……」
「さすがあの子に自分より力がある、と言わせるだけはあるわね……」
「いやホントにヤバイヤバイこめかみがヤバイ、何か変な光が見えてる見えてる」
「ちょうどいいわ、その光で浄化されてしまいなさい」
「浄化なんてされたら私死んじゃうから、煩悩と欲望を取ったら私消えちゃうから!」
「余裕ありそうね、もうちょっと行っとく?」
驚くべき事に、体格差があるとはいえ、人一人を腕一本で吊り上げてなお余裕があるようだ。朱池は小柄で細身なので、どう重く見積もっても50㎏はあるまいが、それでもゴリラ・ゴリラゴリラのメスゴリラの所業である。だがそこで、セコンド犬養からタオルが投げられた。
「皐月さん、その辺りで勘弁してあげてくれないかな……」
「しょうがないわね……というかあなたも恋人なら、きちんと手綱は握っておいてよ」
「えっとごめん、それはちょっと無理かなぁ」
「うぅ、頭が、頭がー……」
ようやく解放された朱池だが、頭を抱えて悶えている。自業自得なので同情する者はいない。それは腕を引っ張る恋人も同様だったようだ。
「ほら行こ、遅れちゃうよ」
「くそー、私のキスコレが……」
爛れた欲望を最先端ファッションショーのように言わないで頂きたい。訴えられたら負けそうである。
「まあいいや、また機会はあるだろうし! んじゃ、私達は退散するわ」
「バイバイ、Hなおねーちゃん」
「まったねー、私の子猫ちゃんたちー」
朱池は最後まで無駄に不撓不屈な精神と、ドドメ色に輝く欲望を見せつけ、投げキッスを残し犬養に引かれて去っていった。
「ったくもう……ネギがボロボロ……」
「ネギに何か恨みでもあるの?」
「アナタと朱池さんに恨みが出来そうよ……」
はあぁぁぁ、と地の底まで響くかの如き溜息をつく御魂。いつの間にやらきゃいきゃいと遊び始めたちびっ子たちを横目に、皐月が二人に告げた。
「じゃ、私もそろそろ行くから」
「あらそう、じゃあまた明日ね」
「あ、またねあやちゃん」
「ええ、またね」
皐月が立ち去った後、ちびっ子たちが有り余る元気に任せてひと騒動起こしてくれるのだが、それはまた別の話なのであった。
ほのぼのの中に垣間見える闇深。
これぞ「セントールの悩み」よ……。
「照和」は誤字ではありません。この巻だと「昭和」だったんですが、もっと新しい巻だと「照和」になってたので、そちらに合わせました。