速水龍一で始める『はじめの一歩』。   作:高任斎

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サブタイトルでちょっと悩みました。

予約投稿だから天気はわからないけど、今日は七夕ですね。
ささやかなレベルでいいので、皆さんに何かいいことがありますように。




11:速水龍一の翼。

 千堂との試合から約1ヶ月。

 3月末に、俺の試合が組まれた。

 

 藤井さんには、その日程を少し心配されたが、俺からは何も言えない。

 音羽会長が何も言わないからには、言えることはない。

 しかし、3月末という年度末に合わせたスケジュールに、なんとなく感じるものはある。

 

 タイから呼んだのは、サウスポーのボクサーらしい。

 サウスポーか。

 アマチュアでは、2試合しか戦っていないから貴重な経験になるだろう。

 そして、その経験を与えてくれる会長に感謝だ。

 

 俺は、千堂戦のあと10日ほど安静に過ごし、残り2週間で体調を整えて試合に臨んだ。

 

 

 

 

 そして、試合当日。

 

 調子は、決してよくはない。

 千堂戦のダメージや疲労の自覚はないが、どうかな。

 まあ、これも経験と思おう。

 

 リングに上がる。

 

 こうしてリングの上に立つと、後楽園ホールに帰ってきたという感じがする。

 たった1試合、別の会場で試合をしただけなのにな。

 不思議な気分だ。

 

「「「「「速水くーん(さーん)!!」」」」」

 

 帰ってきたという気がする。

 というか、少し増えた気がする。

 手を振っておく。

 

「速水ーっ!新人王よかったぞー!」

「良くやったぞ!」

 

 手を振り、軽く左の連打を見せておく。

 

 実感する。

 俺の歩いてきた道を実感する。

 

「また海外から、かませ犬を連れてきたのか!」

 

 などとヤジも飛ぶ。

 

 ははは。

 俺の戦歴をチェックしているあたり、おっかけだろ。

 この時代は、まだポケベルの時代だ。

 ネットで検索なんてできないし、当然動画もない。

 情報が、貴重だ。

 俺のことを、そして対戦相手のことを覚えてくれている。

 感謝だ。

 

 うん。

 ここは。

 リングの上は、いいな。

 

 

 

 試合開始。

 

 中央でグローブをあわせ、向き合う。

 

 立ち姿はオーソドックス。

 ただ、サウスポーな分、違和感がある、か。

 

 相手の右。

 とりあえず、打たせる。

 それを見る。

 右のジャブ。

 その感覚を、その距離感を覚えていく。

 

 通常の左のジャブが、顔の正面に向かってくるイメージなのに対し、サウスポーというより、このボクサーの右ジャブは、俺の左目の視界の外から現れる感じがする。

 

 好きに打たせてみたが、今のところ、あまり脅威は感じない。

 セオリーを無視して、左と右、どちらにも回って、その反応を確かめた。

 ジャブに見るべきところがないなら、たぶん、怖いのは左の大砲。

 

 俺のほうから、左を伸ばした。

 相手の右とぶつかる。

 

 む。

 

 ジャブの打ち合いで、拳が、肘がぶつかる。

 なるほど、これはやりにくい。

 

 でも、まあ……動くガードと思えばいい。

 ガードの隙間を狙って、パンチをねじ込む。

 いつもやっていることだ。

 

 セオリーでは、サウスポー相手には、左に回って相手の正面にいきなり右を打ち込んでいくんだが……。

 当然、相手もそんな戦いには慣れっこだろう。

 サウスポーの右フックが、俺の視界の外から来るということは、逆に俺の左フックが、相手の視界の外から来るということだ。

 慣れてはいるだろうが、見にくいことには変わりはないだろうし、俺のパンチのタイミングをつかむまでは、うかつに動いてはこないだろう。

 

 少し、試すか。

 

 左手を、少し前に出す。

 イメージは、小橋君、あるいは沢村の構え。

 

 やってみて気づくことはある。

 

 俺の左手、グローブが相手に近いということは、盾のような働きをできる。

 そして、通常より相手の視界を削れる。

 

 相手の右ジャブを、左手ではじく。

 パンチの軌道に、グローブを置いてやると、やりにくそうだ。

 ステップを踏み、位置を変えようとする。

 追いかける。

 

 俺が何もしないのに、勝手に相手が乱れていく。

 雑な右のジャブに、左フックをかぶせた。

 すぐにバックステップ。

 

 左のロングフックが、空気を切り裂いた。

 

 ……なるほど、大砲だ。

 なかなかスリルのある、左のパンチ。

 まあ、千堂や幕之内ほどじゃない。

 

 また、右のジャブが飛んで来る。

 タイミングはつかんだ。

 左手を引き、構えを戻した。

 

 それを見て、相手の表情が、良くなる。

 相当やりにくかったんだろう。

 

 ジャブを手元へ引き込み、右手で斜め下方向へはじいた。

 相手の右肩の上から左フックをかぶせる。

 これで、相手の大砲は死ぬ。

 イメージとしては、右肩と右肘の関節を極めてやる感じ。

 俺の踏み込み足が、相手が振り返ろうとする動きを阻害する。

 

 また、右のジャブを横にはじく。

 左フックを警戒した相手の下から突き上げた……踏み込みが浅かった。

 フックよりも深く、足を絡めるぐらいに踏み込まないと。 

 

 うん?

 

 俺から逃げるように、距離をとられた。

 過敏な反応。

 何かある。

 

 少し様子見をして、1Rを終えた。

 

 

 

「厄介そうな相手だな」

「え?」

 

 思わず、会長の方を振り向いた。

 会長も俺を見る。

 

「……やりにくそうに見えたが?」

「いえ、たぶん次のRで終わります」

 

 会長にそう言って、俺は立ち上がった。

 

 千堂戦でつかんだあの感覚。

 速く正確に、だ。

 雑なパンチは、雑なダメージにつながる。

 

 

 

 リング中央。

 もう、相手がサウスポーという意識はない。 

 

 相手のジャブに、左フックをかぶせた。

 また右のジャブを伸ばしてきたので、左フックでアゴを叩く。

 

 どこか戸惑ったような表情の相手に。

 俺の太ももを相手の前足の横にぶつけるように踏み込み、突き上げた。

 そのまま右。

 相手の反撃の左は届かない。

 

 速く正確に。

 それだけだ。

 

 もう一度下から。

 ぐらつく相手のアゴを、再びアッパーで突き上げる。

 振り回してきた左をもぐりこんで、みぞおちを打つ。

 動きが止まったところを、アッパーで突き上げた。

 そして右を顔面に。

 

 上下の打ち分けに、まったくついてこれない。

 特に、下が見えていない。

 何かが欠けているというより、何かを失ったという感じがする。

 怪我か?

 

 まあ、今の状態では、確かにかませ犬だ。

 

 ガードを固めて突っ込んできたところを、ショートアッパーで迎撃。

 マウスピースが転がる。

 もう一度突き上げ、左右のフックをまとめると、両ひざを付いてリングに倒れた。

 

 目が死んでいる。

 たぶん、起き上がる体力ではなく、気力がない。

 

 そのまま俺は、ニュートラルコーナーで10カウントを聞いた。

 

 色々と学ぶべきところはあったが、プロ入りしてから、一番つまらない相手だった気がする。

 

 

 観客席に手を振って応え、俺はリングを下りた。

 何はともあれ、俺はこれで8回戦の資格を得たことになる。

 

 ちなみにこの試合は6回戦だから、ファイトマネーも多かった。

 チケットの枚数が増えただけなんだけどね。(遠い目)

 

 

 

 

 

 月は変わって4月の頭。

 

 俺は、会長室に呼ばれた。

 俺と目をあわそうとしない会長を見て気づく。

 

 ああ、良くない話だ……きっと。

 来るべきものがきた、か。

 覚悟を決める。

 

「速水……」

「はい」

「……ジュニアフェザー(スーパーバンタム)に階級を落としてくれないか」

 

 戸惑う。

 てっきり、スポンサーに切られたという話だと思ったのだが。

 

 先日の試合はしょっぱかったが、6戦6勝6KOで、新人王を獲った俺に、階級変更。

 減量が厳しくて階級を上げるならともかく、下げろとは……。

 

 ふと、思った。

 そういえば、原作の速水龍一は何故階級を下げたのか。

 自信家の天才ボクサーが、幕之内のいる階級から逃げようとするか?

 そもそも、原作のアレも油断と慢心による敗戦といえるもの。

 アゴを壊したことが理由なら、そもそもボクシングをやめていたのではないか?

 

 何かがつながる。

 あるいは、パズルのピース。

 スポンサー。

 そして、音羽ジム。

 

「……ヴォルグ・ザンギエフ」

 

 俺のつぶやきに、音羽会長がはじかれたように顔を上げた。

 

「知ってたのか、速水?」

 

 そうか。

 ここにつながるのか。

 

 すとんと、胸に落ちてくるものがある。

 

 アマチュア世界王者。

 200戦以上の試合をこなして無敗。

 日本の高校生相手に無敗の俺とは桁が違う。

 確かな実力に、甘いマスク。

 昨年暮れのソ連崩壊、そして旧ソ連のエリートボクサーという話題性。

 俺との、商品価値の違い。

 俺との、能力の違い。

 

 同じフェザー級だからこその、『速水龍一』から『ヴォルグ・ザンギエフ』への切り替え。

 

 つまり、俺に対する要求というかハードルの高さがあがったのは……世界アマ王者の『ヴォルグ』という商品が現れたからか。

 

 もしかすると、ボクシングの世界王者のいない現状に、世界戦で連敗を続ける現状に業を煮やしたのかもしれない。

 日本人の世界王者ではなくとも、この国のジムに所属するボクサーが世界王者になることで妥協することを考えたのかもしれない。

 世界アマ王者のヴォルグ。

 確実で手っ取り早いと、『素人』ならそう考えても無理はない。

 

 まあ、そのあたりの理由や理屈はどうでもいい。

 

 俺も、他人を蹴落として上がってきた人間だ。

 蹴落とされることに思う部分はあるが、それを受け入れないのは片手落ちだろう。

 

 今問題なのは、俺の階級を落とす意味……。

 階級が別なら、かち合わない。

 メインはヴォルグだが、俺もサブとして……。

 

 なるほど。

 一番、泥をかぶったのは、会長か。

 泥をかぶってくれた。

 俺のために。

 

「別の階級にするから、スポンサーであり続けてくれと、頼んでくれたんですか?」

「お前は連続KO勝利中のホープなんだよ……はいそうですかと引き下がったら、うちのジムは業界でいい笑いものさ。決してお前のためだけじゃないし、それにスポンサーといっても、名目だけだ。ないも同然の扱いさ……恨んでくれていい。すまん」

 

 ヴォルグの件は、テレビ局そのものか、その関係者あたりがヴォルグの存在に目をつけ、関わりの深い音羽ジムに話を持ち込んだという形なんだろう。

 原作でも、千堂に負けてあっさりと切られたドライさは、いかにもそれっぽい感じがする。

 

 第一、音羽会長は人情派だしな。

 

 

 なら、せめて俺は笑おうか。

 なんでもないことのように。

 

「わかりましたよ、会長。伝説をつくる男には、挫折ってヤツがつきものですしね……つまり、俺は選ばれたってことでしょ?」

「速水……」

 

 会長が俺を見る。

 

 そんな顔、会長には似合いませんよ……という軽口を飲み込み、事務的な話に切り替えることにした。

 

「それで、俺の今後の予定はどうなります?」

「……未定だ。新人王を含めて連戦だったからな。少し休んで、それからランキングを上げるか……場合によっては、A級トーナメントに参加するか、だな」

「じゃあ、休養中にロシア語でも勉強しますかね。世界アマのヴォルグに話を聞くのも、勉強になりそうですし」

 

 会長が、笑った。

 

「はは、伝説を作る男は、言うことが違うな」

「そりゃもう。俺は、速水龍一ですからね」

「でも、世界を目指すなら、ロシア語より英語だろう」

「英語なら、簡単な会話ぐらいならできますよ」

「ほう、たいしたもんだ」

 

 笑顔で、軽やかに。

 そこが、リングの上のように会話をかわす。

 

「じゃあ、会長。俺はこれで……」

「ちょっと待て」

「はい?」

「この前の試合だが、お前……相手が弱く見えたのか?」

「……たぶん、どこか怪我を抱えてたんだと思いますよ。まあ、サウスポーだったなと言うぐらいの印象ですね。デビュー戦の相手のほうが面倒だったかな、と」

「そうか……なるほどな」

 

 会長が、小さく頷いた。

 何度も。

 

 良くわからなかったが、俺はちょっと笑って、会長室を後にした。

 汗を流している練習生たちに適当に声をかけ、ちょっとしたアドバイスもしつつ、俺は、ジムを出る。

 

 その足で、街を歩く。

 

 桜だ。

 春の陽気。

 空を見上げる。

 

 11月の幕之内から始まり、5ヶ月で4試合だ。

 先日の試合はともかく、きつい試合の連続だったのは確かなんだ。

 しばらく、身体を休めるか。

 

 そう、しばらく……休憩だ。

 

 目を閉じ、歩いてきた道を、振り返る。

 

 高校時代はボクシングを学んだ。

 デビュー戦は後楽園ホールの雰囲気を知った。

 メキシカンは世界のレベルの高さを垣間見せてくれた。

 

 新人王戦。

 

 幕之内に勝って。

 宮田に勝って。

 千堂に勝って。

 新人王を獲り、前評判どおりの活躍を見せた。

 

 原作ブレイクだ。

 なのに。

 

 手探りで歩いていた道。

 速水龍一のものだったはずの道。

 その道から、何者かにはじき出されたような奇妙な感覚。

 不快感に近い。

 

 もしかすると、フェザー級から、ジュニアフェザーに落とすことに不安を感じているのだろうか。

 減量は、やってみないとわからないが、たぶん平気だ。

 何を不安に感じる?

 

 確かめるように、言葉にしてみる。

 

「ジュニアフェザー……原作だと、真田の返上した王座をめぐって、小橋君と決定戦。そこで、アゴにもらって一発失神KOか」

 

 真田、真田一機。

 原作では、医者志望のボクサーで、ジュニアフェザーのタイトルを5度防衛だったな。

 たしかに、この前のチャンピオンカーニバルで、ジュニアフェザーの新王者を獲得してたっけな。

 今年から来年の秋にかけて、防衛戦を5度、タイトルを返上して幕之内と戦う……うん、時期的にも間違いないな。

 俺がいくら原作ブレイクを目指したとしても、所詮それは俺の周囲と、その影響範囲だけか。

 

 まあ、難しく考えることはない。

 ボクサーである以上、目指すはチャンピオンだ。

 ならば、普通に……次の目標は、真田一機であるべきだろう。

 

 

 これが、道のはずだ。

 それが、俺の前に続いている道のはずだ。

 歩けばいい。

 

 それでも、心の中で『違う』と叫んでいる俺を感じる。

 

 勝った俺がいる。

 勝ち続けた俺がいる。

 原作ブレイクした俺がいる。

 

 会長にあんなことを言いながら、心の中で割り切れていないのがわかる。

 

 他人を蹴落としてきた俺が、蹴落とされた。

 それだけだ。

 ただ、それだけ。

 

『君の試合を見て胸が熱くなったことはなかった』

 

 藤井さんの言葉。

 あれは、純粋にファンとしての言葉だろう。

 あるいは、ボクシングを盛り上げたいと語った俺へのアドバイス。

 

 戦い方を決めるのは俺だが、俺という商品を評価するのは他人だ。

 

 俺に、足りないものがあった。

 能力だけではない、スポンサーに、認めてもらえない何か。

 

 日本人であるという付加価値がありながら、俺の商品価値がヴォルグに劣った……。

 

 

 

 空を見上げた。

 鳥の姿。

 

 翼があれば。

 

 わけもなくそう思った。

 

 

 

 

 ふと、思い出す。

 

『宮田君との約束とは別に、速水さんの後を追いかけるつもりです。そして、今度こそ、アクシデント抜きにしてパンチを入れますから』

 

 幕之内の言葉。

 

『はは、待ってるぜ』

 

 俺の、速水龍一の返事。

 

「約束、か」

 

 

 俺の歩く道。

 その先にあるものが。

 その先の光景が。

 

 幕之内との約束を守るものになる可能性は……。

 

「一応、断りを入れておくのが礼儀だな……」

 

 

 

 

 

 

 

 鴨川ジムのドアを開いて挨拶。

 

「こんにちはー」

「あれ、速水じゃねえか。うちのジムに何しに来やがった」

 

 原作ではギャグ担当の青木さん。

 パンチパーマがトレードマークといっていいのか?

 まあ、特徴がありすぎる人だ。

 でも、リアルで考えるなら、原作どおりであるならば、間違いなくこの人の進む道は、ほかのボクサーたちの道しるべであると思う。

 方向性はともかく、努力と工夫を重ねる部分は尊敬できる人だ。

 

「はは、幕之内くんにちょいと用事がありまして」

「一歩に用事か?一歩なら、まだ来てないぜ」

 

 と、これは木村さん。

 外見は好青年で、中身もそんな感じ。

 まあ、高校時代は青木さんとつるんでヤンキーをやってたが、今は昔。

 そして、瞬間最大風速で人気を稼いで……お笑い担当になる予定の人。

 そうなるかどうかはわからないが。

 

 千堂をここに連れてきたときは、この2人はいなかったんだよな。

 原作でおなじみの人がポンポン出てくると、ちょっとうれしくなる。

 

 ぬっと、影が差した。

 

「誰かと思えば、小者じゃねえか。何しに来やがった」

 

 うれしくなる……はずだ。(震え声)

 

 ボクサーとしては認めるが、この人とは日常で関わりたくない。

 

「やるか?スパーやるか?」

「1週間前に試合やって、休養中です。勘弁してください」

「クソがっ!小者たちばっかり試合しやがって、スーパースターである俺様はろくに試合を組めないとはどういうことだ!」

 

 ああ、ミドル級はなぁ……。

 

 前世のように、ネットが世界をつないだ時代ならともかく、この世界の今の時代は、世界の中重量級より上の階級は、まず話そのものが回ってこない。

 

 ボクシングのショービジネスとしての本場ラスベガス。

 世界タイトルマッチってのは、基本的にラスベガスのホテルが主催するイベントだったという経緯がある。

 ギャンブルの街だ。

 世界中から金持ちが集まってくる。

 彼らがホテルのカジノに落とす金。

 ホテルに、宿泊客を、人を呼ぶためのイベント、ショーの一環。

 それが、高額のファイトマネーを生んだ。

 

 相手が日本人だと、客が呼べない。

 ラスベガスに集まる金持ち客の注目を集められないといったほうが正確か。

 世界ランキングを手に入れるためには、強い相手、できれば世界ランキング持ちの相手と戦うことが必要だ。

 なら、世界ランカーが、わざわざ日本人と戦うメリットはあるか?

 金は、当然ショービジネスの本場の向こうのほうが持っている。

 ランキング、金、名誉……その、どれも手に入らない相手を、対戦相手に選ぶメリットはない。

 

 つまり、世界ランキングを手に入れるための戦いにすら参加できない……それが、この世界というか、この時代の鷹村さんの置かれている状況といえる。

 逆に、ラスベガスの金持ち客が注目しない軽量級や、軽中量級の階級は、ほかと比較して金持ちの日本人にせっせとチャンスを与え、次々とカモられてるという、泣きそうな現実もあるのだが。

 

 ネットの普及を受け、放映権やその他のビジネスの発展で、対戦相手としての価値が上昇した結果……状況が変化したのが、前世の21世紀以降のボクシング事情だ。

 

 まあ、闇が深すぎる話はやめておこう。

 

 というか。

 

「ああ、試合してえ、試合してえ、試合してえよぉ!」

 

 などと大声を上げながら、バケツを蹴り上げる鷹村さんの姿を見ると……なあ。

 

 ため息をついていたら、木村さんに、肩を叩かれた。

 

「ストレスたまってるんだ……触れると危険ってやつだから、目を合わせるなよ」

 

 ははは、言われなくても。

 俺は小さく頷き、賛意を示した。

 

 

 いすに座って鴨川ジムの連中の練習を眺めていたら、声をかけられた。

 

「……なんじゃ、速水じゃないか」

「鴨川会長。お邪魔してます」

 

 立ち上がり、頭を下げておく。

 

「いまさらじゃが、千堂とは、ええ試合じゃったの」

「ありがとうございます……少しすっきりしない勝ち方だったんですがね」

「相性の悪い相手に打ち勝ったんじゃ、胸を張ってよいぞ」

 

 もう一度、頭を下げた。

 結局、千堂は夜には目覚めて、精密検査でも異常なしだったらしくて、ほっとした。

 そっちの原作ブレイクはごめんだからな。

 

「それで今日は、何の用じゃ?」

「ええ、幕之内くんに少し……謝らなきゃいけないことがありまして」

「なにか、あったのか?」

 

 ためらい。

 そして戸惑い。

 

 聞いて欲しいのだろうか、俺は。

 

 口を、開いた。

 

「階級を、ジュニアフェザーに落とすことになりました」

「なんじゃと?」

 

 鴨川会長が、俺を見る。

 

「……わけありか?」

「ははは……まあ、ヴォルグ・ザンギエフを、ご存知ですか?」

「知っておる。世界アマ王者の……」

 

 言葉が途切れる。

 

「うちのジムと、契約することになりました……あ、正式発表はまだなので、しばらくはここだけの話ということに」

「……うむ、そうか」

 

 それだけで、鴨川会長はある程度事情を察してくれたらしい。

 

「こんにちわー」

 

 タイミングよく、幕之内の登場だ。

 

「……って、速水さんじゃないですか。どうしたんですか、今日は」

「ああ、実はな……」

「速水よ、立ち話の内容ではない。ええから、会長室で話せ」

 

 

 

 

 

 

「……とまあ、細かい事情はともかく、俺と幕之内くんは別の階級になっちまうってことだ。すまないが、パンチをもらってやる約束は守れないってことを報告にきたわけだ」

「なんで……そんな」

「小僧!」

 

 鴨川会長の制止。

 

「音羽ジムには音羽ジムの都合がある。何よりも、速水が飲み込んでおるのじゃ……小僧がどうこう言う話ではないわ」

「……わかりました」

 

 ……果たせなかった約束、か。

 

 ふと、思った。

 つついてみようか、と。

 原作ファンなら、誰もが夢見た、あのカード。

 

「幕之内くん、最近宮田くんには会ったか?」

「え?いえ……」

 

 卒業式の後、会ってはいないのか。

 まあ、好都合だな。

 

「宮田くん、また少し背が伸びてたぜ……幕之内くんの言ってた『約束』だけど、早くしないと間に合わなくなるかもな」

 

 俺の言葉に、幕之内は首をかしげ、鴨川会長がうなった。

 

 俺は、宮田に会ってもいないし、背が伸びたかどうかも知らない。

 ただ、ボクサーに限ったことではなく、食事制限を強いられている成人前のスポーツ選手が、怪我などで休養中に身長が伸びてしまった話は聞いたことがあった。

 人間が摂取した栄養はまず生命維持活動のために消費され、その余剰分が成長や回復に消費される。

 

 子供の頃から父親の背中を追い続けてた宮田のボクシング生活……もしかすると、原作での間柴に負けた後の休養は、物心ついてから初めての休養だったのではあるまいか。

 原作の宮田の成長に伴う減量苦が……間柴に負けた後の休養期間にあったとすれば。

 

 俺に負けた後……身長が伸びている可能性はある。

 

 まあ、間違ってたら勘違いですむ話だ。

 

「あの身長じゃあ、減量が厳しいはずだ。フェザー級にいられる時間は、それほど長くないかもしれない」

 

 言葉を切り、鴨川会長を見た。

 

「理想は、お互いが最高の状態で戦うことなんでしょうけど……本当の本当に、最高の状態で試合に臨めることなんて、ボクサーに限らず、スポーツ選手の競技生活でせいぜい2度か3度でしょう」

 

 鴨川会長が目をつぶった。

 しかし、その口が開くことはない。

 

 俺にできるのはこれが精一杯、か。

 どんな形でもいいから、実現して欲しいんだよなあ、このカード。

 

「じゃあ、俺はこのぐらいで」

 

 ぺこりと頭を下げて部屋を出ていこうとしたら呼び止められた。

 

「ちょっと待て、速水よ。少し話がある」

 

 

 幕之内がいなくなって、鴨川会長と2人きり。

 はて、何の話か?

 

 

「鴨川会長、話って何でしょう?」

「小僧との試合の、あの事故のことじゃ」

「……?」

 

 いまさら?

 何だろ?

 

「あの試合のあの場面、もちろんワシは勝つことだけを考えて小僧に指示を出した。リングに立っている以上、勝つことがすべてじゃ。じゃが、小僧が勝っていたらどうなっていたと思う?」

「どうって……俺が負けて、幕之内くんと宮田くんが決勝で……どっちが勝つかという話ですか?」

 

 鴨川会長が首を振った。

 

「そうではない……おそらく、多くの者が傷つく結果になっただろうと思う」

「……」

「『あの事故のせい』、『レフェリーの八百長』など……まあ、心ない者が、無責任にそうした言葉を口にするのは目に見えておる。ましてや貴様は、注目株じゃ……レフェリーやワシらへの悪意が集まっただろう」

 

 ……想像はできる。

 

「負けたことは口惜しい。じゃが、貴様に負けた後の小僧は、両足でまっすぐに立ち、前を向いておる。あの負けは、明日へとつながる敗戦となった」

 

 鴨川会長が、まっすぐに俺を見た。

 

「悔いの残る敗北はええ。それをバネにすることもできる……じゃが、悔いの残る勝利は厄介じゃ。いつまでもしこりとなって残り、心を苛む……特に小僧は、そういう性格をしておる」

 

 そして、鴨川会長が頭を下げた。

 

「良くぞ立ち、良くぞ勝った……そしてようも『自分のミス』と突っ張ねたものよ。貴様の背中が、小僧にまっすぐ前を向かせた……礼を言うぞ」

 

 鴨川会長を、見る。

 そして、答えた。

 

「わかりました。その気持ちは受け取ります。でも、俺はボクサーです。勝つためにやるべきことをやっただけです」

 

 ふと、思った。

 自分とレフェリーのことばかり考えてたが、あのとき、幕之内はあのアクシデントをどう思っていたのか?

 もしかすると、あれは焦りではなく、動揺だったのか?

 

「幕之内くんは……あのアクシデントにいつ気づいたんです?」

「貴様をダウンさせたときは、無我夢中だったようじゃな……何かおかしいとは思ったそうじゃが……すべてを知ったのは、試合が終わった後じゃ」

「そうですか……」

 

 あのときの、幕之内のパンチが雑になっていたことを思い出す。

 もちろん、ダメージや疲労、そして焦りもあったんだろうが……何か、腑に落ちないものを抱えて戦っていたのか。

 あれは……俺だけのアクシデントではなかったということだ。

 

「まあ、すべてを知った後……小僧は晴れ晴れとした顔で『速水さんはすごいです』と言っておったわ。闘争心のなさを嘆くべきか、そのまっすぐさをほめるべきか、悩むわい」

 

 そう言う鴨川会長の顔が、どこか誇らしげに見えたのは、俺の感傷かもな。

 

「やるべきことをやる……それでいいんじゃないですか?」

「そうじゃな、貴様がレフェリー相手に、時間稼ぎをしたことも含めてな」

 

 一瞬の間。

 

「あ、ばれてました?」

「試合が終わった後にな……ふん、強かな男よ」

 

 鴨川会長は少し笑って……最後に、真顔に戻って。

 

「腐るなよ、速水」

 

 頷きかけて……気づいた。

 

 幕之内の試合の件ではなく、おそらくこちらが本命。

 この言葉を言うために、引き止めてくれたのだ、きっと。

 

 まっすぐに立ち、前を向いて……か。

 

「……まだ成長中の青い果実ですからね。腐るのは10年早いですよ」

「ふん、嫌いじゃないわい、貴様のような男は」

 

 そして俺は、会長室を出て、鴨川ジムを後にした。

 

 きて、良かったと思った。

 何気ない言葉。

 ちょっとした出会いが、何かを変えることもある。

 

「速水さん」

 

 振り返る。

 幕之内。

 

「あの、考えてたんです。まだ、速水さんが約束を破ったとか、守れないって言うのは少し違うかなあと」

「んん?」

 

 何?

 何の話?

 

 幕之内が、俺を見る。

 

「速水さんがジュニアフェザーで勝ち続ければ、いずれ2階級制覇とか狙うんですよね?それなら、またフェザー級で試合することだって……だからそこで、その、僕と、戦ることだって、できるんじゃないかと」

 

 どこか恥ずかしげに言う幕之内の姿に、俺は納得するような気持ちになった。

 

 やっぱり、勝とうが負けようが主人公だわ、幕之内は。

 

 それ、王者になるって宣言だけど、たぶん気づいてないよなあ。

 そして、原作では俺はもちろん、幕之内も……。

 

 まあ、いいか。

 どちらにしろ……勝たなければ、始まらない。

 勝ち続ければ、また何かが変わるだろう。

 その先に……。

 

 そういう原作ブレイクは、ありだろう。

 

 俺は、笑みを浮かべて幕之内を見た。

 

「はは、じゃあ(世界で)待ってるぜ」

「はい。僕もがんばって(日本王者を)目指します」

 

 

 手を振って別れた。

 

 

 勝ち続ければ、交わるかもしれない道。

 遠い約束だ。

 

 

 

 

 

 

 川の土手を歩きながら、あらためて空を見あげた。

 

 鳥が飛んでいる。

 

 鳥の翼を羨んでどうする。

 俺は人で、速水龍一だ。

 

 与えられたものを精一杯使って、戦うしかない。

 

 翼はなくとも、俺には足がある。

 ならば歩こう。

 歩いていこう。

 ただ前へと。

 

 ここからだ。

 ここから、また始めよう。

 あの日、はじめの一歩を踏み出したように。

 

 俺の、速水龍一の。

 

 再出発(リスタート)だ。

 




はい、第一部完!
すぐにエンディング曲を流そう!(選曲は各自お好みで)

試合とは別の場所で挫折を味わい、そこからの切り替えと言うか再出発ですね。
ちょいと、鬱な展開になってしまって申し訳ないです。

衝動的に書き始めてから展開を考えるという状態だったにしては、ここまではきれいにまとまったかなという気がします。
『ここで終わったほうが美しい』なんて囁きも聞こえてきますが、一応スポンサーを悪者にして伏線も張りましたし、原作の戦力インフレを上手く表現できなくなるあたりまでは続けたいですね。(震え声)

第二部は、みんな大好き『ヴォルグ』が来日するところからを予定してます。
『伊達』と『ヴォルグ』の日本タイトルマッチを書いてみたいと思ってるのですが(悪魔のささやき)、その場合、主観というか『語り手は誰になるのか』という部分など、いろいろと問題山積みです。

とりあえず、色々と考えたいのでしばらく時間をください。
目標としては8月に再開できればいいなあと。
そしてまた、区切りのいいところまで連続更新の感じでいきたいです。
とはいえ、私はいきなりネタが落ちてくるタイプでもあるんですが。

しばしのお別れです。

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