先に言っておきます。
強さ云々は、『速水の主観』です。
そして、勝負のあやを生む、相性を忘れてはいけません。
3連休の初日。
ヴォルグとのスパーリングの日。
……俺の目覚ましが優秀すぎる。
デンプシーロールにカウンターを入れたのに、止まらないって反則だろ……。
もう1発カウンターを入れたが、体勢を崩されてそれが限界。
規則正しいリズムでぶっ飛ばされた。
原作のデンプシー対策って、間違ってるんじゃないだろうか。
まあ、間違っているのは夢の中の幕之内なんだろうけど。
ため息をつき、朝食の準備をする。
ボクサーの体脂肪率は総じて低い。
栄養補給をせずに、ロードワークに出るのは危険だ。
筋肉の収縮運動には細胞の電荷物質のやり取りというか……まあ、暖機運転のための最初のエネルギー源が必要になる。
その基本は、炭水化物というか、糖であり、グルコース。
炭水化物が身体の中で加水分解されると、グルコースができる。
そして、心臓は筋肉の塊だ。
暖機運転の段階でのガス欠は、心臓麻痺の可能性がはね上がる。
痩せている人間は、目が覚めたら、ジュースを一口、あるいは飴玉をなめるのでもいい。
それだけで、かなり危険は避けられる。
人の身体は、思っているよりも丈夫だが、考えているよりも繊細だ。
奇跡のようなバランスで、人の命は成り立っている。
「こんにちはー」
あちこちから挨拶が返ってくる。
3連休の初日に、せっせとジムで汗を流しやがって……ほかにやること無いのかね。
これが、ブーメランか……。
まあ、仕方がない。
プロボクサーは、生活のための仕事と、ボクシングという仕事のダブルワークに加え、否応なしに生活としての雑事が食い込んでくる。
……正直、趣味に費やす時間は、ないよなぁ。
強いて言うなら、試合のあとの休養が自由な時間、か。
色恋関係も、難しいと言わざるを得ない。
『恋愛』を望む女性は、相手の男性にも同じだけの『恋愛』を望む傾向がある。
自分が費やしたのと同等の、『手間隙』をこちらにも求める。
それはまあ、女性に限った話でもないか。
苦労に対してのリターンを求める気持ち……それは多かれ少なかれ、誰もが持っている。
もしかすると、『努力は報われる』系の教育を施すこの国の人間は、その傾向が強くなるのかもしれない。
とまあ、仕事を『2つ』抱えているボクサーに、そういう女性の相手は正直きつい。
往々にして、若い女性はそうなりがちで……基本的に、ボクサーは若い。
プロのボクサーはわりと姉さん女房が多い気がする。
仕事をしている自立した女性を相手に、お互いの生活を尊重する感じの……まあ、プロボクサーもピンキリだから、これも独断と偏見になるが。
結婚するからボクシングを引退するなんてことも聞くし、就職を機に引退するという話も聞く。
ボクサーの仕事として、基本的に接客業はアウトだ。
雇用主がいくら理解があっても、客が嫌がる、あるいはぎょっとする可能性がある時点でどうしようもない。
ボクサーであることを明かして就職面接にのぞむと、敬遠される職種は多い。
実態はどうあれ、少なくはない人が、それを『暴力』の気配として受け取るからだ。
マイナスの可能性は、面接において当然不利になる。
俺の職場の社長は、音羽ジムの後援者だ。
若い頃、ファンになったボクサーが音羽ジムに所属していた関係らしい。
当時の音羽ジムの会長は、今の会長の伯父さんだったらしいが、人脈は受け継がれている。
もちろん、代替わりを機に失われた人脈もあるのだろうが、新たに生み出される人脈もあるわけだ。
後援者にも交友関係が存在するわけで、何らかの形で助力を願うことだってある。
そうして、ジムを後援する人とのつながりができていく。
そのつながりが、俺の就職だったり、アパートを借りるときに力を発揮することになる。
人とのつながりは財産だ。
当然だが、それはしがらみとなってデメリットをもたらすこともある。
俺もまた、昔ほど自由ではいられない。
とはいえ、真面目にボクシングに取り組み、仕事もきちんとやってれば、大きなひずみは生じない。
もちろん、職場でもジムでも、俺への陰口が完全に消えることはない。
これはある意味、仕方の無いことだろう。
ジムでいえば、俺は会長に目をかけられて、ひいきされている状態といえる。
当然、それを面白く思わない人間はいる。
というか、それが自然だ。
職場では、仕事に対して腰掛け状態と見られても仕方ない。
『ボクサーだから』という言い訳は、甘えになる。
ほかの人と同じだけの仕事をしても、色眼鏡で見られる。
周囲より仕事ができれば、生意気だと思われることもある。
人はひとりひとり、立場と価値観が違う。
何らかの形で、反発は生まれるものだ。
味方と敵対と中立の割合が、1対1対1になるのが正常な人間関係であり、普通のバランスであるというのは誰の言葉だったか……。
逆に考えれば、7割、8割の人間に支持される状態は、どこか歪んでいるといえる。
自分が何かを偽っているか、敵対者が常軌を逸しているか。
まあ、俺がやろうとしていることは、勝ち続けることで、ある種の『歪み』を生み出すことだ。
熱狂は、熱に狂うと書く。
もしかすると、俺に足りないものは……正常ではない『何か』なのかもしれないな。
基礎訓練。
フットワーク。
休日ということで、念入りにこなしていく。
「コ、コニチハ」
ヴォルグだ。
振り返り、挨拶を返す。
ヴォルグが俺を見て微笑む。
……ん?
ジムの中を見渡した。
挨拶に挨拶を返す。
それが、ない。
近くの、練習生2人を捕まえた。
「ジムに入るときは挨拶。挨拶されたら、挨拶を返すって、一番最初に教えられることだよな?ん?んん?」
目を逸らされたので、ちょいと物陰へ連れていく。
体育会系とか、そういう問題じゃない。
頭を抱えた。
なんというか、あの2人の主張を一言でいうと。
『だって、あいつのせいで速水さんは、階級を変える羽目になったんですよね?』
別にヴォルグのせいじゃないんだが、さすがに練習生にディープな事情を話すのもはばかられる。
しかし、この空気はまずい。
たぶん、あの2人の俺云々はおいといて、よそ者って意識がメインだろう。
俺だって、音羽ジムに来て半年から1年ほどは、妙な目で見られ続けたしな。
会長がいるときといないときで、露骨に空気が変わったっけ。
リングの上ならまだしも、普段のこの空気は、ヴォルグにとってよろしくない気がする。
俺は、ヴォルグを利用すると決めている。
だからこそ、放ってはおけない。
とりあえず、俺も練習生全員に顔を利かせられるわけではないので、できる範囲から。
「「「
「み、ミニャ ザブート……(私は、〇〇です)」
「ミニャ ざ、ザブート……」
「ミニャ ザブート……」
「コニチハ。私、ヴォルグ・ザンギエフ、デス」
まあ、この手の空気というか、雰囲気は一朝一夕ではどうにもならない。
ただ、言葉を交わせば情もわく……と思いたい。
それを目にすれば、周囲も少しずつ変わっていく……と思いたい。
しかし、拙いながらも、日本語をしゃべってるよなあ。
来日して2週間ほどなのに、ヴォルグって相当頭が良くないか?
まあ、そうでなきゃ世界一にはなれないか。
俺は、ヴォルグを連れてジムにいるひとりひとりに、挨拶して回った。
古株の連中の一部には、俺という存在を煙たがっているのもいるのだが、こちらから挨拶して回るのを無碍にもできまい。
どんな形でも、顔をつなぐと言うのは大事だ。
特に、この国では。
……2、3、5、7、1、6、4、5、2……。
2つ前の数字を足していき、合計が10を超えたときは、1の位の数字と10の位の数字を足す。
それを頭の中で延々と繰り返しながら、答えの数字に対応したパンチをサンドバッグに打ち込んでいく。
もちろん、マスクはつけたままだ。
合計が10を超えるときに、わずかに動きが停滞する。
思考の工程が増えるからだ。
画面に映る矢印と同じ方向を指差す。
画面に映る矢印と、反対の方向を指差す。
これにかかる時間を計測すると、後者のほうが多く時間がかかる。
前者と後者の違いは、『矢印が指している方角の反対の方向を判断する』という部分。
つまり、矢印の認識、方向の認識……という工程に、新たにひとつ工程が加わることを意味する。
その分、時間がかかるのだ。
釣りのゲームで、魚が泳ぐのと逆の方向に竿を倒すというシステムがあるが、あれをイメージするとわかり易いかもしれない。
あれが苦手な人は、視点変更でキャラクターを逆方向から見るとゲームをクリアしやすくなる。
魚が泳いだ方向にレバーを倒す……逆の方角から見ているから、竿は逆の方向に倒れる。
つまり、思考の工程をひとつ減らせる分だけ、早く行動に移せる。
スポーツのセオリーは、パターン化することによって思考の工程を減らし、判断を早くするために生まれる。
まあ、それとは別に、思考速度を高める訓練によって、判断までの時間が短縮できると思いたい。
これがうまくいくかどうかはわからない。
自分を実験体にして、試行錯誤するしかない。
少なくとも、思考することで酸素消費量を増やし、心肺に負担をかける効果はある。
そんな俺を、ラムダが見ていた。
旧ソ連の、トップ指導者のひとり……といっても、俺が知るのは情報としてだけ。
正直、ラムダには、ヴォルグ以上に興味を持っている。
常識は時代とともに移り変わる。
たとえば、乳酸は筋肉の疲労物質だと長い間信じられていた。
しかし、実際は疲労状態を緩和する働きを持つものだと発表されたのは、前世では21世紀になってから。
筋肉が疲労することによって乳酸がたまることから誤解され、乳酸を調べることによってその長年の誤解が解けた……とされているが、実際は少し違う。
乳酸の働きそのものについては、それ以前から何度も発表はされていた。
それがいろんな理由で認められずにいたのが、ようやく認められたというか、公になったのが21世紀になってからというだけ。
そもそも、乳酸菌は有機体が生命維持の過程で行う新陳代謝において『乳酸』を産む菌類の総称だ。
筋肉の疲労物質とされていた乳酸を発生させる乳酸菌飲料を『身体にいい』と売り出されたのが、いつだったかを考えてみればいい。
21世紀になるよりもずっと前のことだ。
世間の常識の全てがそうとは言わないが、ある種の儚さはイメージできるだろう。
ドーピングが話題になってから、筋力トレーニングの理論が出回り始めたのも同じだ。
あれも、海外の理論とはずいぶんと違うものだが、日本ではあれが常識として語られ続けた。
情報は、選択され、タイミングを選んでばらまかれることが良くわかる一例だ。
俺がラムダに興味を持っているのは、まさにそこに理由がある。
国家の威信をかけたスポーツ選手の指導者には、かなり新鮮な情報や理論が入ってきてたはずだ。
少なくとも、日本の一般人レベルよりも遅れているとは思えない。
経験則も馬鹿にはできない。
自分を実験して確かめるよりも、多くの人間を見て、育てた人間の経験は宝石のように貴重だ。
理論と情報、そして経験をすり合わせていけば、正解に近いところにたどり着ける。
まあ、そのためにも……。
ヴォルグとのスパーで、いいところ、あるいは悪いところを見せたい。
良くも悪くも指導者は、素材を目にすれば手を伸ばしたくなる生き物だと俺は思う。
一言や二言のアドバイスでもいい。
それがもらえるなら……。
もらえたらいいな。
グローブは12オンス。
座布団と称される16オンスより軽いが、試合用よりは重くてクッションが効いている。
俺もヴォルグも、ヘッドギア着用。
予定は3R。
あくまでも、主役はヴォルグだ。
俺は、スパーリングパートナー。
2人に話しかけた。
『ラムダさん、ヴォルグ。リクエストはあるか?一応、インファイトからアウトボクシングまで、一通りこなせるつもりなんだが』
『ノー、速水。君の実力を知らない状態では、注文も何も無い。まずは、好きなようにファイトしてくれていい』
そう答えたのはラムダ。
そうか。
好きなように、ね。
それは……何をされても対応できるってことか。
実力の裏づけのある自信だな。
プロと違って、アマチュアは大会期間中に、毎日のように試合をする。
計量も、試合のある日は毎日行う。
試合前の対策に時間はかけられず、無名の相手や新星のごとく現れた選手なんかは、そもそも情報が手に入らない。
それら全てに対応し、一度も負けることなく勝ち続けてきたのが、ヴォルグという存在だ。
アマチュアにはアマチュアの、プロよりも厳しい部分がある。
原作知識はともかく、ヴォルグのデータは無いに等しい。
ヴォルグ(狼)の名から、上下のコンビネーションが白い牙と名づけられて恐れられていたこと、ぐらいか。
まあ、自分の目で見て、あるいは味わって、確かめるしかない。
条件は、同じ。
息を吸い、吐く。
心拍数は、高めか。
軽く、グローブをあわせ……距離をとる。
ヴォルグの構えを確認。
重心は後ろ足。
左の3連打から入った。
右を飛ばして、距離をとる。
ヴォルグに驚きは無い。
なんでもないように対応された。
ヴォルグの左。
右が空気を切り裂く。
挨拶は交わした。
……いくか。
出し惜しみは無しだ。
トップギア。
ステップを踏みながら、小刻みな連打を叩きつけていく。
手を出させる暇を与えない。
ただし、パンチの質は軽い。
これにどう対応するかで、ヴォルグの性格を知る。
ボクサーとしての性格。
俺を見ている。
少なくとも、見られてはいる、か。
この程度なら、あわてる必要は無い。
それでも、確認はする、と。
相手の戦力の分析から入る、理論派タイプか。
そして、こちらの戦力を見ながら、自分の戦力は見せない。
情報戦にたとえるなら、俺が圧倒されている。
10秒。
20秒。
俺の、見せかけの攻勢。
情報をさらけ出しながら、『攻めている』以外のポイントは奪えない。
まあ、そろそろだろ。
ヴォルグの前足。
あるかなきかの動き。
そこで、ジャブを変えた。
タイミングをずらす。
そして、ガードの隙間を狙う。
ヴォルグのスウェー。
それに、肩を入れて届かせた。
オープニングヒット。
リングの周囲で声があがる。
ただし、ヴォルグも、ラムダも、特に反応は無い。
ようやく、ヴォルグが足を使い出す。
何気ないステップ。
右に左に。
軽くフェイントをかけながら、近づいてくる。
腕、肩、目線。
ボクシングが始まる。
左の差し合い。
いや、打たされている。
少しずつ、少しずつ、俺の対応する時間を削られていく。
ガードのタイミング。
そして、パンチを出すタイミング。
間合い。
はっきりとはわからない何か。
技術戦では、俺のレベルが劣る。
それがわかるだけ、マシか。
ヴォルグの何気ない左。
ガードした手に、威力を感じる。
幕之内や千堂とは違う種類の、強打者。
パンチの威力そのものではなく、力を相手に伝えるのが上手い。
カウンターは、相手の勢いを利用するというより、相手が衝撃を逃がせないパンチを打つと表現したほうが正しい。
前足に重心が乗っているとき、後ろ足に重心がかかっているとき、姿勢の違いなどで、どの方向からの、どういうパンチが効くかが変わってくる。
相手の顔にパンチを入れたら、相手が大きくのけぞる。
見た目は派手だが、のけぞるという動きで威力を拡散されているともいえる。
こちらに向かって前かがみに前進してきたときに、顔にパンチを入れる。
大きくのけぞることはないかもしれない。
しかし、ダメージそのものはこちらの方が大きくなる。
背筋が寒くなる。
俺の動きだけじゃない。
重心移動と姿勢を予測して、効果的なパンチを出してくる意味。
既に、ボクサーとして丸裸の状態ってことだ。
じわじわと、圧力をかけられる。
少しずつ、俺の逃げ道がふさがれていく。
完全にふさがれる前に、踏み込んだ。
右のボディを打ちたい気持ちをぐっとこらえ、アッパーから入る。
ヴォルグが覚えたはずのリズム。
それを変える。
反撃の気配を感じ、距離をとる。
ヴォルグの手が止まったところを、再び踏み込む。
今度は素直にボディを打つ。
ガードがさがる。
ならば、上を……。
一瞬、視界が消える。
あれ?
どこを見てるんだ、俺……。
わけのわからないまま、ガード。
腕に衝撃が来た。
防いだ。
痛みの認識。
膝に力が入らない。
もらった?
いつ?
何を?
視界。
ガードの隙間。
思考。
たぶん、もらったのは左のアッパー。
ボディのガードではなくて、アッパーを打つ準備。
踏み込んできたヴォルグに、左を叩きつけた。
続けて右の連打。
距離。
そして、一息。
はは、すげえや。
まっすぐは向かってこない。
俺の逃げ道をふさぐように。
あるいは、俺の反応を確かめるように。
軽やかなステップと、小さな動きでこちらをけん制してくる。
強い。
俺相手のスパーに限れば、明らかに伊達英二より強い。
余計なことを考えるな。
今は、目の前に集中。
応戦する。
しかし、追い込まれていく。
ちょっとした動き。
何気ないモーション。
見る人が見ればわかる、テクニックの数々。
意地でも、3R続ける。
細かいパンチ。
それを、ガードの隙間に。
あるいは、ガードの上から。
ダメージが抜けた。
ぐっと、前足に力を入れた。
ヴォルグに、それを見せた。
そこで、いきなりギアを落とす。
はじめて、ヴォルグの表情が変わった。
誘われたのがわかったのだろう。
ヴォルグの右をすかして、左フックを横っ面に引っ掛けた。
欲張らず、ロープ際から脱出。
また一息……つかせてくれない、か。
ヴォルグの左。
敢えて、俺は左を返さない。
待ちの姿勢。
フェイント。
駆け引き。
伊達英二のそれとは違うやりとり。
経験の不足を実感する。
俺は、こういうボクシングを、ほとんどしてこなかった。
いや。
そういう相手が、ほとんどいなかった。
たぶん、ヴォルグは、こういうボクシングを数え切れないぐらいしてきた。
そして、全てに勝利を収めてきた。
ヴォルグの戦場。
それが、楽しい。
また、左フックを引っ掛けた。
俺が出し抜いたのではなく、ヴォルグのブランクのせいだということがわかる。
万全ではない。
俺以上に、ヴォルグは万全じゃない。
右の連打で突き放す。
ヴォルグのパンチが割り込んでくる。
あっという間に、1Rが終わった。
たぶん、俺は笑っていたのだろう。
音羽会長が、『楽しんでこい』と言ってくれた。
ヴォルグのエンジンがかかってきたように思える。
近づいてきたヴォルグをひきつけ、いきなり右。
ガードさせて左フック。
とめられた。
きちんと修正してきた。
ボディへのパンチを叩き落す。
俺のアッパーが避けられる。
接近戦。
接近戦でありながら、押し引きがある。
連打の合間に、半呼吸あけて、こちらの反撃を誘う。
当然、カウンターの準備がある。
近づき。
離れ。
打ち合い。
めまぐるしく、状況が入れ替わる。
身体だけじゃなく、意識もトップギア。
はは、俺のやってきた練習は……ぬるいなあ。
同時に思う。
なあ、ヴォルグ。
俺は、お前の練習相手に足りているか?
2Rを終えた。
楽しい。
そして、感謝。
スポンサーへの感謝。
ヴォルグを、この国につれてきてくれたこと。
3Rの合図とともに、飛び出していく。
ヴォルグの速度、タイミングに慣れてきた。
気のせいかもしれないが。
予定は3R。
終わる前に、一矢報いたい。
しかし、ヴォルグの動きがいい。
最初からトップギアの俺は、そろそろまずい。
というか、経験不足のボクシングで消耗した、か。
身長も、リーチもほぼ同じ。
それでも、ヴォルグの距離と俺の距離は少しだけ違う。
ストレートからアッパーまで。
全てにおいてレベルが高い。
ただ、アッパーが強い。
左も、右も。
俺の細かい連打の合間に割り込んでくる、このパンチが厄介だ。
それでも、何度も見れば多少は慣れてくる。
ヴォルグの左アッパー。
それを、右手で押さえて、左フック。
……そのつもり、だった。
……やられた。
すっかり、忘れていた。
上下のコンビネーション、ホワイトファングのことを。
いや、コンビネーションじゃないんだな、あれは。
あくまでも、状況に応じたパンチの組み合わせ。
ボクシングのワンツーは、左ジャブからの右ストレートの、基本的なコンビネーションパンチだ。
しかし、最初からワンツーを打とうとするのは、相手の事を無視しているといえる。
ワンツーの、ワンとツーの間に、『相手の状態』『どのパンチが有効か』などの判断をくだして、ツーを打つかどうか、あるいは別のパンチにつなげるかを決める。
つまり、ヴォルグは、あの時の俺に有効だと判断して、右の打ち下ろしをもってきた。
見事なぐらい、俺の死角から、意識の外から、耳を……いわゆる耳の裏、三半規管につながる部分を打ち抜かれた。
まあ、耳の裏と呼ばれてはいるが、ある意味硬い頭を殴りつけるわけだ。
威力があればあるほど、拳の保護という意味で、多用はできない。
12オンスのグローブと、ヘッドギアを通してなお、この威力か。
『……リュウ。大丈夫?』
『ああ、なんとか……最後のは、右のストレート?』
『フックです。スイング気味の』
『そうか』
立ってみる。
ふらつく。
まあ……ヴォルグの練習にはならないか。
3Rの途中だが、ここで打ち切ろう。
俺がそう言うと、ラムダが頷いた。
『すみませんでした、ラムダさん。ヴォルグのパートナーとしては不足でしたか?』
『いや、そんなことはない。速水、君はクレバーで勇敢なボクサーだったよ……ただ、あの時カウンターを狙ったのは不注意だったな』
苦笑するしかない。
あの時、狙ってしまった。
正確に言うと、ヴォルグに誘われた。
左フックの成功の記憶が、俺にあの選択をさせた。
おそらく、それも読まれた。
『何か、アドバイスをいただけますか?』
『……ヴォルグとのスパーは、君に経験を与えるだろう。ただ……』
『厳しい言葉への覚悟はできてますよ』
ラムダが俺を見つめ……言った。
『今日見た限りでは、君のボクシングには圧力が足りない……ヴォルグにのびのびとボクシングをさせた』
『……怖さが足りない?』
『ノー。怖さではなく、圧力だよ……相手の精神を削っていく何か、だ。それは、速さだったり、パンチの威力だったり、あるいは……相手を陥れる戦略だったりするが、ね』
『難しいですね』
『ヴォルグが相手なら、とは言っておくよ』
怖さではなく、圧力、か。
ボクシングは、集中力の削りあい。
今日の俺のボクシングでは、ヴォルグの集中力を削ることができなかった。
もしくは、不十分。
色々やろうとしすぎたか。
あるいは、真正面からいきすぎた。
まあ、ヴォルグとのボクシングを楽しんだ部分は確かにある。
純粋な勝負をしてなかったか。
なんにせよ、きれいにダウンをもらった。
練習を中断し、休憩する。
それにしても、だ。
原作では、幕之内があれに勝つのか。
……ちょっと想像できないんだが。
幕之内のことはともかく、あれが世界のレベル。
俺に足りないのは、『何か』ではない。
足りないのは、実力だ。
月並みな言葉が、頭に浮かぶ。
世界は広い、と。
ほろ苦い気持ちを抱えて、俺はヴォルグとの最初のスパーを終えた。
なお、音羽会長とラムダ、そして俺とヴォルグを交えて話し合った。
休日は、ヴォルグとのスパー。
余裕があれば、平日にも一度。
週に一度か二度のペースで、俺はヴォルグのスパーリングパートナーをつとめることになった。
大まかな状況説明も終わりました。
たぶん、文字数も安定してくると思います。
くどいようですが、もう一度。
強さ云々は、『速水の主観』です。
第二部を、ヴォルグの来日からではなく、疲労のピーク状態の伊達との『約半年振り』のスパーから再開したことをお忘れなく。
……どっちが勝つかわからない方が、ドキドキワクワクできますよね?