速水龍一で始める『はじめの一歩』。   作:高任斎
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説明的な話が多くてすみません。


23:初冬、祭りの前。

 朝まずめに、夕まずめという言葉がある。

 もともとは、違う意味で使われていた言葉らしいが、今はもっぱら釣り人が使う。

 多少の時間のずれはあるかもしれないが、朝まずめは夜明けから陽が昇るまでの時間帯を指し、夕まずめは陽が沈み始める頃から暗くなるまでの時間帯を指す。

 そしてどちらも、魚を釣るには良い時間帯と言われている。

 

 あくまでも釣りに適した条件の目安でしかないが、一応根拠はある。

 

 夜から朝にかけて、明るくなり始めると水中の植物プランクトンが光合成を行うために浮上を始める。

 これを餌にする小さな魚が動き、その小魚を捕食する大きな魚が動く。

 これに対し、夕方から夜にかけて、暗くなると夜行性の動物プランクトンが行動を開始する。

 

 結局、水中における食物連鎖が活発になる時間帯、ということだ。

 

 まあ、潮の流れや水温など、いろんな要素があるし、釣り人には釣り人の、時間の都合と言うものがある。

 

 ……何が言いたいかというと、『釣り船幕之内』にお客さんがやってくる時間は、基本的に釣り人の都合で左右される。

 

 原作においてよく描写されていたのは、船に乗る釣り人のクーラーボックスをいくつも抱えた力仕事。

 あとは、揺れる船の上で、バランス力が鍛えられるといったところか。

 

 当然、ほかにも仕事は多い。

 お客様が帰った後の、船の甲板掃除。

 これは、真水を使って塩分を洗い流すというか、デッキブラシなどでゴシゴシとこする。

 この力を込めての清掃作業は、ダイレクトに広背筋を鍛えることができる。

 それも、下半身と連動しての動きの中で。

 

 帳簿はともかくとして、コマセの仕入れもある。

 船の燃料も仕入れる。

 まあ、これはどちらも漁協とのやり取りだろうが。

 

 漁船のエンジンは、基本的にディーゼルエンジンだ。

 なので、燃料は軽油を使う。

 大型の船だと、軽油と似た成分の重油を使うと聞いた記憶があるが、まあ釣り船程度の大きさなら関係ないだろう。

 小型の、船外機を使うような……モーターボートをイメージして欲しいが、あの場合はガソリンだ。

 

 船の片舷に4~5人が釣りをするスペースがあるのが遊漁船の一般的な大きさだが、全長が14~15メートルぐらいで、5トン(容積量)程度だったはずだ。

 直接見たことはないが、釣り船幕之内の船も、そのぐらいの大きさじゃないかと思う。

 

 余談だが、船は道路を走らないので自動車関連税がかからない。

 そのぶん漁協から安く買えるわけだが、当然一般人は買えない。

 漁業権を持つ者だけが、漁協から購入できる……幕之内の父親は漁師だったから、釣り船を始める以前から組合員だったはずだ。

 

 車の燃費は、ガソリン1Lで何キロ走るかを目安にするが、漁船の場合は1時間で何L使うかを目安にして語られることが多い。

 当然、速度や船の大きさ、そして船の形によって燃費は変わる。

 ただ、燃料費の高騰によって漁師に打撃というか、船を出すだけ赤字になるという現象が起こることから、船のメンテナンスと燃料費がコストの多くを占めていることは想像できる。

 

 

 

「……く、詳しいですね」

「釣りが好きな友人がいたからな」

 

 と、いったん言葉を切り……俺は、幕之内を見た。

 

「そもそも、俺の練習時間帯と合わせられるのか?」

「……難しいですね」

 

 俺の練習時間は、平日は仕事があるから基本的に夕方から夜にかけてになる。

 仕事が終わってからそのままジムに行って夜の10時ぐらいまで。

 

 幕之内の家は、朝まずめを狙う客の予約があれば、当然朝は早い。

 出航は4~5時ってところだろう。

 もちろん、その準備もある。

 逆に、夕まずめからの夜釣りを楽しむ客の予約があれば、深夜、日付が変わるような時間帯まで、船の清掃などの仕事がずれ込む。

 

 そして、俺の休日は、基本的に釣り人となる客の休日でもあるわけで。

 

「休日は基本的に、船の予約が入ります」

「……だよなあ」

「ただ、冬になるとどうしても予約の客は減りますから、何とかなると思います」

「そうか、それは良かった……と言ったらダメか。『釣り船幕之内』にとっては、お客さんが少ないってのは、死活問題だろうし」

「ええ、まあ……そうですね」

 

 あらためて幕之内を見る。

 そして、鴨川会長の言葉を思い出す。

 

『小僧が、宮田との試合が終わってから腑抜けちょる……小僧は今が一番伸びる時期じゃというのに……この時期にどこまで伸びるかではなく、どこまで伸ばすかでボクサーとしての将来が決まってくる』

 

 情熱と、選手への愛情があふれる言葉。

 

 直接言えばいいのにと思うが……昔かたぎの日本人らしいといえば、らしい。

 

『ちょいと乱暴じゃが、小僧に刺激を与えたい』

『あの、鴨川会長……俺、幕之内くんと戦う立場なんですが?』

 

 俺がそういったら、鴨川会長ににやりと笑われた。

 

『貴様もどうせ戦うなら、腑抜けた小僧ではなく強い小僧のほうが良かろう?』

 

 まあ……いい性格をしてるよなあ。

 

 ボクシングスタイルの違いは承知で、俺が思うように練習させていいとまで言われたしな。

 まあ、1日2日の話だ。

『ぼくのかんがえたさいきょうの幕之内一歩』を実現できるわけじゃない。

 

 

 

 

 そして12月。

 結局、平日は都合があわず、休日の朝、幕之内が音羽ジムにやってきた。

 正確には、音羽ジムの入り口までやってきた……だが。

 

 それを教えてくれたのは、練習生の1人だ。

 

「あの、速水さん。なんか、入り口でうろうろしてるやつがいるんですが、入会希望者ですかね」

 

 ……付き添いも無く、初めての場所に入ってくることができる性格じゃなかったな、確かに。

 

 まずは会長に会わせる。

 後はトレーナーと、ジムにいたボクサーや練習生への顔合わせ。

 

 

「あ、あの、速水さん」

「ん?」

「速水さんと一緒に練習するっていうと、なぜかみなさんに優しい目で見られたんですが……」

「気のせい気のせい。練習そのものは、鴨川ジムのほうが厳しいと思うぜ」

 

 ……体力面はな。

 

 ヴォルグを除き、ほかの連中にいわせると俺の練習はとにかく細かくて理屈っぽいらしい。

 アドバイスは良く求められるが、1日一緒の練習をしようという人間はほとんどいない。

 

 

 柔軟体操。

 ランニングからストレッチ。

 

「……ずいぶん念入りにやるんですね?」

「平日がおろそかになっている分、な」

 

 ボクシングに限ったことじゃないが、身体の柔らかさというか、関節の稼動域を広くすることは重要だ。

 単純に考えても、動きを大きくできるし、変化もつけられる。

 自分の拳を相手に叩きつける距離が長くなる……もちろん、相応の筋力が必要になるが。

 

 そしてまた、ランニング。

 さっきのウォームアップのためのランニングではなく、心肺機能を高める、あるいは維持のためのもの。

 なので、幕之内にもマスクをつけさせた。

 

 800メートル走は鴨川ジムでやっているようだから……あえて別の練習を選んだ。

 

 インターバル走を、距離ではなく時間でやる。

 40秒ダッシュから10秒流して走る、50秒を4回で1セット。

 時間にすると、3分20秒。

 これを10セット。

 

「は、速水さん……」

「……どうした?」

「な、なんで、40秒ダッシュ、なんですか?」

 

 10セットやり終えてから疑問を口にするところが、実に幕之内らしい。

 

 40秒という時間でピンと来る人間もいるだろうが、いわゆる無酸素運動の限界点だ。

 ちなみに、無酸素運動は、呼吸を止めての無呼吸とは違う。

 筋肉を動かすエネルギー生成において、酸素を使わない運動を無酸素運動という。

 

 筋肉が最大筋力を維持できる時間は、わずか数秒に過ぎない。

 100メートル競走では、スタート、中盤、終盤と、速いランナーほど、別の筋肉を使って走る技術が高い。

 この使い分けができないランナーは、素質があってもどこかで壁にぶつかる。

 

 無酸素運動にも2種類あり、乳酸系と、非乳酸系に分かれる。

 いわゆる、筋肉に乳酸がたまる云々は、乳酸系のエネルギー生成を行う運動の強度だが、この乳酸系と非乳酸系の持続時間の限界をあわせたものが、ちょうど40秒ぐらいになる。

 この運動のエネルギー源になるのが、いわゆるグリコーゲンやクレアチンリン酸だ。

 

 運動強度をぐっと落とすと、エネルギー源は脂肪のほうが多く使われる。

 その脂肪を分解する際に酸素が使われるために、有酸素運動と言われる。

 ダイエットでおなじみの、軽い運動を長く続けて脂肪を燃やす……というあれだ。

 

 まあ、燃やすだけなら安静にしているときのエネルギー源が主に脂肪なんだけどな。

 まず食べる量を減らせというのは、どうあがいても正義だということがそれだけでわかる。

 

 同じインターバル走でも、乳酸耐性を高める強度と、最大酸素摂取量……心肺機能を高める強度は変化する。

 そして、俺と幕之内が今やったのは、いわゆる高強度インターバル。

 

 とりあえず、一番きつい。

 

 

「な、何を、言ってるのか、よくわかりませんが……とにかくすごいことは、わかりました」

「そ、そうか……」

 

 どうやら、俺と幕之内は違うタイプだ。

 

 座り込んでいた幕之内を無理やり立たせた。

 

「幕之内くん……歩くんだ。そのほうが、回復しやすい」

「は、はい……」

 

 しかし、初めてマスクをつけ、初めてのトレーニングを……よろけながらもこなせてしまうのか。

 俺と一緒に練習を……という連中は、マスク無しでも大抵ここでリタイアするんだがな。

 

 不慣れでも、疑問を持っていてもきっちり全力を出し切れる。

 やはり、幕之内のトレーニング適正は高い。

 

 まあ、幕之内は成長を続ける化け物と言うことか。

 

 ……何で俺は、化け物を強くする手助けをしてるんだろうか。(震え声)

 

 たぶん、深く考えたらダメだ。

 

 強いボクサーが、鎬を削りあう……そのためだ。

 そう、ボクシングを盛り上げるためだ。

 

 いい選手がいて、いい敵がいて、いいレフェリーがいて、いい観客がいて、その上で最善を尽くしてようやくいい試合ができる。

 

 うん。

 練習しよう、そうしよう。

 

 

 ジムに戻り、体幹トレーニングを行う。

 身体のひねりだけでメディシンボールを投げ合う。

 腹筋や背筋、そして首も。

 

 幕之内がいるから、ちょうど良い。

 身体を寄せて押し合う。

 

 ……いや、押された。

 

 身体のパワーではかなわないことがこれだけで実感できる。

 前世の体格なら勝てるはずだが、それは負け惜しみだ。

 

 どうせならと、クリンチワークの練習も追加した。

 

 クリンチは、逃げや休憩のためと思われているが、うまくやらないと逆に疲労がたまる。

 休みたいのに、休めない。

 相手に体重をかける。

 イメージとしては、やたら重みを感じる酔っ払い。

 身長が高い人間は相手にのしかかればいいが、身長が低い人間は一工夫必要だ。

 相手を持ち上げる、重心を崩す、引きつけて膝を曲げさせるなど、振り回して疲れさせるのも手だ。

 

 ただ、無理に振り払おうとすると、相手を投げてしまい……反則になる。

 そして、投げられた相手は、その間休める。

 相手に投げられるフリをして倒れこみ、時間を稼ぐのも技術といえる。

 

 

 こうして一緒に練習するとよくわかる。

 幕之内の体幹、特に足腰が強い。

 崩そうとすると力がいる。

 押そうとしても押せない。

 

 試合ならそれを受け流すんだが、これは練習だ。

 幕之内の力を、存分に負荷として味わう。

 

 幕之内に抱きつかせ、それを振りほどこうとする。

 力ではなく瞬発力。

 そしてタイミング……のはずだが、(パワー)の前に屈した。

 

 正直、この手の練習は、力が弱いほうが倍疲れる。

 

「……だ、大丈夫ですか、速水さん」

「まあ、な」

 

 くそう、さっきと違って幕之内はもう息が整い始めてやがる。

 このフィジカルエリートめ。

 

 

 基礎練習を終えて、軽く水分と栄養補給。

 

 準備運動気味に、シャドーから練習を再開。

 

 リズムの確認。

 速度を上げていく。

 そして、同じ動きをゆっくりと繰り返して、フォームの確認。

 フットワーク。

 コンビネーション。

 ディフェンス。

 丁寧に、チェックしていく。

 

 

 柔軟体操をして身体をほぐす。

 休憩と疲労抜きの意味もある。

 

 そしてまた、別の練習へ。

 

 

 

 

 サンドバッグが縦に揺れる。

 俺だけじゃなく、ジムの中にいる人間の時間が止まった。

 

 ……いいなあ。

 

 自分が持っているもので戦わなきゃいけないとはわかっているが、やはりうらやましい。

 

「……フェザーのパンチじゃないよなぁ」

 

 どこか呆れたような会長の呟きに、激しく同意する。

 同意はするが、俺は俺だ。

 というか、無いものねだりをしても仕方がない。

 基礎トレーニングやフォームの修正である程度まではパンチ力は上がるが、それはあくまでも30や40の人間を100に近づけていくというだけのことだ。

 世界レベルで言うなら、100に近づけてようやく並というところ。

 

 世界レベルというのは、150や200のパンチを持っているヤツのことを言う。

 

 

「……幕之内くん」

「はい?」

「サンドバッグをただ叩くだけじゃ、ただの筋トレにしかならないぜ?相手のどこを殴るかを想定し、ちゃんと防御も意識しないと」

 

 そう一声かけてから、俺なりのやり方を見せた。

 

 幕之内はインファイターだが、俺はそうじゃない。

 右に、左に。

 ステップを踏んでからパンチを放ち、真正面でスウェイやダッキングをいれ、またサイドに回ってパンチを放つ。

 ワン・ツーでサンドバッグを突き放し、踏み込んで左フック。

 タイミングがずれると、サンドバッグに体当たりされる。

 

 前後左右の動きを繰り返し、パンチを上下に散らす。

 

「……と、まあ俺の場合はこんな感じだが」

「う、動きが多いんですね。まるで試合をやってるみたいで」

「相手が殴り返してこないのなら、試合も楽なんだけどな」

 

 試合に勝つための練習だ。

 漫然とやっていると、いつのまにか練習のための練習に成り下がってしまう。

 

 

 1分の休憩は、ゆっくりと動いてフォームをチェックする。

 ジャブ、ストレート。

 俺は色々と小細工をするタイプだから、こうして常にフォームをチェックする必要がある。

 

 ガードの隙間狙いや、狙いすました一撃に必要なのは、何よりも正確さ。

 それも、俺の意識と一致した正確さだ。

 

 

 気がつくと、幕之内に見られていた。

 

「……どうした?」

「いや、なんかすごく丁寧だなあと思って……」

「幕之内くんと違って、パンチが無いからな」

「そんな……今まで全部KO勝ちじゃないですか」

「……結果的に倒して勝っているだけさ。国内はともかく、世界に出たら俺のパンチはいいとこ……並ってとこだろう」

 

 仮に日本国内でナンバー1になっても、世界の国の数だけ国内ナンバー1がいる。

 天才と呼ばれる者も同じだ。

 日本で天才と呼ばれる者は、世界に出て、それぞれの国の天才と相対しなければならない。

 その天才達をなぎ倒して、ようやく自分が世界で一番の天才だと証明できる。

 

 それが、世界チャンピオンって存在だろう……俺はそう思う。

 

 スポーツというか、ボクシングではそれが顕著だ。

 野球やサッカーならポジションがあるが、ボクシングは……いや、階級があるか。

 そして、複数の団体もある。

 

 絶対王者として君臨しながら、統一戦や複数階級制覇に乗り出さないリカルドは、どういう考えを持っているんだろうな。

 王者を名乗りたいならかかって来い……というような性格ではないと思うが、前世での世界王者乱立の時代を知っているだけに、リカルドのようなあり方をどこか痛快なものと思える。

 

 

 また軽く柔軟体操をはさみ、ミット打ち。

 

 ミット打ちなんだが……。

 

「え、やるんですか、村山さん」

「あのパンチは、ちょっと受けてみたくなるだろ」

 

 

 

 

 

「す、すみません。大丈夫ですか?」

 

 ミット越しに、肝臓にいいのをもらって村山さんが悶絶した。

 うん、村山さんにはこの言葉を贈ろう。 

 

 ……無茶しやがって。

 

 幕之内のパンチは、ボディへのパンチのほうが威力があるように思えるんだよな。

 足腰の連動というか、現状では一番体重が乗るんだろう。

 逆に、千堂のパンチは顔面のパンチのほうが重かったように思えた。

 

 まあ、今のうちだけなんだろうけど。

 

 

 

 

 

「基本は、ワン・ツーでいくぞ」

「はい」

 

 ラムダのミットボールもそうだが、ミット打ちも、日本と海外では色々と違う。

 日本の指導者のミット打ちは身体の近くに構えてパンチを受けるタイプが多い。

 人間の身体に対し、どの場所を、どの角度で攻撃するか……それを教えるのには、悪くない方法だと思う。

 ただ、身体の近くで構える分……どうしてもミットの取り回しが遅くなりがちだ。

 熟練したトレーナーは、切り返しも含めて速いが……少数だ。

 

 海外のミット打ちは、ミットを身体から離して受けるタイプが主流だ。

 それも、ミットを相手に向かってパンチを打つように動かす。

 それをパンチで迎撃する感じか。

 選手に対して攻撃も頻繁に行うし、全体的にスピーディーで、見栄えはいい。

 実践的な動きを養えるが、フォームのチェックという部分では少し厳しい。

 むろん、海外ではきちんと基礎練習でフォームが固まるまでは、ミット打ちをさせないとも聞く。

 

 俺が選んだのは、当然海外式のほう。

 村山さんの二の舞はごめんだ。

 

 俺が右のミットを出し、幕之内が左のジャブで打つ。

 そして、左のミットをごつい衝撃が貫いてくる。

 

「はいっ!」

 

 最初だから、掛け声をかけて、左フック。

 それを、幕之内がダッキングで避ける。

 そして、またワン・ツーから繰り返す。

 次は右フックを避けさせる。

 あるいは、左右のフックで、2度避けさせてから、ワン・ツーを打たせたり。

 

 リズムが良くなってきたところで、次へ進むことにした。

 

「じゃあ、次は、ワン・ツーからのコンビネーションを」

 

 ワン・ツーのあと、俺が少し下がりながら攻撃する。

 ダッキングしながら踏み込み、肝臓の位置を想定したミットに打ちこむ。

 そこから、同じ左でアッパーへとつなげていく。

 

 肝臓打ちから、同じような動きでアッパーへつなげるのが肝だ。

 肝臓打ちを食らったなら動きが止まるし、ガードしたなら嫌でも先のパンチが印象に残ってしまう。

 そこを、同じような動きからアッパーが襲う。

 肝臓打ちをアッパー気味に打てたら最高だが、踏み込みを低く入りすぎるとパンチを当てるまでの距離が開いてしまう。

 幕之内のパンチ力なら、強いパンチを打とうとする意識はいらない。

 細かく、最短距離を打ち抜く……それでいいだろうと思う。

 

 このアッパーをかわされたら、右のフックを返す。

 幕之内なら、ここまでは容易につなげられるはずだ。

 

「ストップ!今、ガードがさがった」

 

 左のダブル。

 今は、ボディからアッパーのダブルだが、身体のねじりの反動が使えないために、無意識に打ちやすい行動を選択してしまう。

 右手を下げることで、左のアッパーを打ちやすくしようとした。

 いわゆる、予備動作を作った。

 

 それを注意し、ゆっくりとした動作でガードがさがらない動きをさせる。

 

 

 なので、次は容赦なくミットで幕之内の横面をはたく。

 うん、ガードが甘い。

 

「また、下がってましたか……」

「右手じゃなく、頭を小さく振る意識をしたらどうだ?右手のガードは、顔にくっつける意識で」

「こ、こうですかね?」

 

 幕之内が動く。

 

 ……鴨川会長の苦労を、強く実感した。

 

 まあ、幕之内のパワーで、何でもできる器用さを持ち合わせていたらある意味チートか。

 俺は器用だが、幕之内のようなパワーがない。

 

 現実(リアル)ってのは、往々にしてこんなものだ。

 

 踏み込みの位置、足の幅。

 膝の角度。

 ガードの位置。

 

 それらを少しずつ変化させ、スムーズなコンビネーションが出せる姿勢を模索する。

 ミット打ちというより、コンビネーションのチェックだけで時間が経過した。

 

 

「コンニチワ」

 

 と、ヴォルグが来たか。

 

 一緒に練習するとはいえ、さすがに俺とヴォルグのスパーを幕之内に見せるのは無理だ。

 そもそも、俺がヴォルグのスパーリングパートナーをつとめているのは周知だが、スパーそのものはこれまでずっと非公開だったから、色々と問題がある。

 たぶん、鴨川会長もそのあたりはわかってくれるだろう。

 

 まあ、もう夕方だし、そろそろ切り上げるか。

 

 

 

「今日は、ありがとうございました」

「ああ。俺も面白かったよ」

 

 幕之内が俺を見る。

 

「……まだ、練習ですか?」

「ああ、軽く水分と栄養補給してから、色々とチェックして……ヴォルグとのスパーだ」

「す、すごいですね……朝から夜までですか」

「リングの上で楽をするためさ」

「……」

「というか、平日は仕事があるからな……だから、その分休日にしわ寄せが来る」

 

 長くやればいいってモノでもないが、俺の場合はこういうやり方に慣れている。

 考えながら練習していくぶん、どうしても時間が長くなる。

 

「鴨川会長にも言われたんじゃないか?日々の積み重ねだって」

「……はい」

「1日は24時間しかないから、どうあがいてもそれ以上は練習できない。食事を取る、風呂に入る、生活の糧を得るために働く。そうして残った時間をつぎ込むしかないだろう」

 

 時間をつぎ込むだけでは足りない。

 練習そのものを、深くするしかない。

 日常に、練習を結びつける。

 歩き方ひとつとっても、重心移動を確認できる。

 そうして、アスリートとしての、ボクサーとしての純度を高めていく。

 

 それを……他人に粉砕されるのが、スポーツの無常ってやつだ。

 俺に対して、そういう理不尽さを思った者も少なくないだろう。

 

 幕之内が俺を見つめ、もう一度頭を下げた。

 

「今日は、ありがとうございました」

 

 顔を上げる。

 少し、表情が変わっていた。

 

「ああ……次はどうする?」

「いえ……僕は僕でがんばっていこうと思います」

 

 また頭を下げてから、幕之内が帰っていった。

 ちょいと格好つけすぎだったかもしれないが、まあ、鴨川会長のリクエストには応えられたと思う。

 

 ジムの中に戻り、俺はもう一度マスクをつけた。

 

 ヴォルグがラムダの持つミットボールを叩いている。

 俺も、準備をしないとな。

 

 

 

 

 

 

 ヴォルグのスパーリングパートナーになってから、もう半年か。

 当然、お互いの手の内は知れている。

 様子見なんてことはほとんどなく、最初から激しい展開になる。

 

 無造作にけん制のジャブを打つと、タイミングを合わせてはじかれる。

 ヴォルグが、冴木との試合でやったあれだ。

 

 ボクシングのパンチでは、パンチを打った後の引き戻しの速さが重要になる。

 まっすぐ打ち、まっすぐ戻す。

 それを、ショートフックで横に軌道が流されたらどうなるか。

 

 意図せずに体勢が崩れるため、無意識レベルでそれを修正しようと身体が動く。

 腕の引き戻しが、その分遅れる。

 流れた身体。

 そして、ノーガード。

 大振りしてくれたらありがたいが、相手はヴォルグだ。

 

 

 様子見はないが、その分、フェイントやけん制の時間が増えた。

 

 目線。

 そして、左を小さく。

 それでヴォルグを動かす。

 

 いきなり、ノーモーションの右ストレートをもっていく。

 ヴォルグの髪をかすめた。

 

 ヴォルグの左。

 

 かわして、右に回る。

 

 左のダブルがきた。

 ボディにきたそれをガード。

 足が止まる。

 

 大きくスウェイ。

 ヴォルグのアッパーが目の前を通過。

 

 左を返す。

 ヴォルグもしっかりとガードする。

 

 お互いに距離をとった。

 

 足を使う。

 そしてヴォルグも。

 今日のスパーに、ラムダからの注文はない。

 どうやら、今日はそういう気分らしい。

 

 左の差し合い。

 距離感、そして空間の奪い合い。

 

 お互いに目が慣れたところで、下から来た。

 右手で受け止め、左のショートフックを返す。

 

 ヴォルグの右手が、俺の左手をはじく。

 俺の上体が流れた。

 

 慌てず、ヴォルグとの距離を詰めた。

 密着してヴォルグの左を殺し、半身の体勢で、右をボディへ。

 そして俺も、ボディにお返しをもらう。

 

 接近戦。

 きわどいパンチの交差。

 あるいは、出どころをそのまま押さえる。

 

 肩と肩がぶつかる。

 地面を蹴り、押す……そしてすぐに退く。

 

 体勢を崩したヴォルグ。

 左を見せてから、右をボディへもっていった。

 もう一度左を見せ、また右をボディへ。

 

 ヴォルグが前かがみに……いや、肩で強く押された。

 

 右のアッパーで身体を起こされ、左をボディにもらう。

 

 分が悪い。

 そう判断して距離をとった。

 

 右が空を切る。

 横に回られた。

 

 ダッキングからサイドステップで、ヴォルグの左右のフックを避けた。

 

 左の連打。

 強弱を混ぜる。

 右。

 ヴォルグの肩へもっていった。

 それで動きを止め、今度こそ距離をとった。

 

 やはり、攻撃を意識すると少し押される。

 このレベルだと、防御で自分のリズムを作り、相手のリズムを壊すのが俺にはあっているのかもな。

 

 ガードを上げ、距離を詰めていく。

 

 集中。

 ヴォルグの全身を意識する。

 

 前足の荷重。

 来ると思ったときに、ステップを踏む。

 サイドから、連打を浴びせた。

 

 俺のやり口を知っているせいか、まずガードを固められた。

 そのまま距離をとろうとする。

 

 追う。

 ワン・ツー。

 

 たぶん、アッパー。

 

 どんぴしゃ。

 ヴォルグのグローブを、下からはねあげた。

 

 アッパーを流されて伸びた腹を一撃。

 追撃のアッパーはかわされ、ジャブで突き放された。

 

 ヴォルグの前進にあわせて、ボディストレートを打つ。

 和田の使っていたあれだ。

 大して威力のないパンチだが、カウンターで決まったときだけは別だ。

 

 ヴォルグが少し驚いた表情を浮かべ、また動き出す。

 

 手の内を知る相手とのスパーはやりにくい。

 しかし楽しい。

 ボクシングが、どんどん深くなっていく。

 

 

 

 

 

 スパーを終え、ラムダや音羽会長を交えて話し合う。

 

 まず、俺とヴォルグは、互いに気づいたことを指摘して、別の可能性を探る。

 それを元に、ゆっくりとした動きで、お互いの動きをチェックし……ラムダや会長が、何ができるか、何ができなかったかを語り合う。

 これは、技術面のチェックではなく、作戦というか戦術面でのチェックだ。

 

 ヴォルグの相手は伊達英二。

 そして、俺の相手は真田一機。

 

 事前に想定できる部分は、埋めておく。

 

 

 真田のボクシングの軸になっているのは、ワン・ツーだ。

 ワン・ツーを主体に、様々な攻撃へとつなげていく。

 中間距離をもっとも得意にしているイメージ。

 

 接近戦が苦手というのではなく、相手の全身を目で確認して判断したいのだろう。

 

 退くべきときは退き、行くべきときに行く。

 良くも悪くも、無駄のないボクシング。

 

 相手を研究して対策を考えるのは、まだ初歩でしかない。

 相手もまた、自分を研究して対策を考えるから……相手が自分をどう分析し、どういうボクシングをしてくるかを読む必要が出てくる。

 

 過去の試合の分析にしても、まず相手選手の分析からはじめなければならない。

 相手選手をどう分析して、このファイトプランを選択したか。

 それを繰り返すことで、真田というボクサーの中身が見えてくる。

 

 パンチが強い、足が速いというのは、所詮カタログスペックだ。

 そのスペックをどう運用してくるか……読み合いというのは、そこから始まる。

 

 真田が俺をどう分析し、どういう戦い方を挑んでくるか……それを読みきらないことには、本当の作戦は立てられない。

 これはボクシングに限ったことではないし、スポーツに限ったことでもない。

 社会人としての取引や交渉など、誰もが普通にやっていることだ。

 

 自分の都合を押し付けるだけでは、同じように誰か他人の都合を押し付けられたときに窮地に陥る。

 

 だからこそ、スポーツでは、ボクシングでは、自分だけの強みを求める。

 自分の強みは、自分の都合を相手に押し付ける材料となるからだ。

 

 

「……会長。俺が真田に対してどういう作戦を考えるかわかります?」

「試合開始直後の奇襲だろ」

 

 ……むう。

 

「宮田戦を除き、1Rから勝負をかけた試合はない。その宮田戦にしても、最初は様子見だったしな……意表をつくとするなら、それしかないだろ」

「ということは、読まれやすいですか」

 

 ヴォルグとラムダに聞いたら、ほぼ同じ答えが返ってきた。

 

『タイトル戦と言うのは、普段と違うことをやりたいと多くのボクサーが考える。スタミナの不安の件が加われば、1Rからの奇襲は、かなり可能性が高いと判断しておかしくない』

 

 ふむ……もう一ひねり必要か。

 

 奇襲といっても、ダメージではなく、タイミングによるフラッシュダウンでいい。

 1Rでダウン点も含めて2ポイントの差がつけば……真田はポイントを取るために前に出てくるしかない。

 

 長期戦を想定して逃げ回ったら、俺は追いかけない。

 スタミナ云々は、動き回ってこそだからな。

 観客からのブーイングはすさまじいだろうが、相手が逃げ、俺が追いかけなかったらポイントの差はつかない。

 

 最初にわかりやすくポイントを奪うということは、そういう意味だ。

 

「会長、チャンピオンカーニバルの日程が発表されるのって、いつです?」

「対外的には、年が明けてからだな……早い日程の試合の選手には、そろそろ連絡が来るはずだ」

 

 

 原作では、鷹村さんのミドルから開幕だったか。

 確か、減量をミスって……大丈夫だよな?

 

 開幕のカードには注目の試合をもってくるだろうから……やはり、ミドル級か、あるいは……。

 

 俺は、ヴォルグを見た。

 

「リュウ?」

「いや、もしかすると……フェザー級から始まるかもなと」

「いつでもいいよ」

 

 ヴォルグが笑う。

 そして、その拳を握りこむ。

 

『エイジ・ダテに勝つ準備は、できているから』

 

 

 今は12月で、まだ冬が始まったばかり。

 ヴォルグは、この国の冬を暖かいと言う。

 

 ヴォルグの試合に歓声を飛ばした後楽園ホールのファン。

 伊達英二との試合では、それらが全て……敵に回ると思ったほうがいい。

 

 試合前と試合中はともかく、せめて、ヴォルグが伊達英二に勝った後……拍手と歓声が送られる程度には、この国がロシアからやってきた朴訥な少年にとって暖かいものであることを俺は願う。

 




焦らしているわけじゃ……ないんですよ。(目逸らし)

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