久しぶりに、幕之内一歩の恐怖を味わっていただければ。
『10月下旬、試合前』
『宮田一郎』
シューズの紐。
いつもどおり、一発で長さが決まった。
視線を感じて、顔を上げる。
「……どうかしたのかい、父さん」
「いや、落ち着いていると思ってな」
「よしてくれよ、父さん……オレに言わせれば、緊張なんて、余計なことを考える余裕がある証拠さ」
……今日の相手は、幕之内だ。
そんな余裕、あるわけない。
でも、このギリギリの感じが、たまらなく楽しみなんだ。
最初のスパーは、ど素人に追い詰められた。
3ヵ月後のスパーでは、見事にやられた。
あれから……2年か。
5月の復帰戦では、相変わらず不細工な試合をしていたが、そんなものは何の参考にもならない。
ふっと、父さんの表情に気付いて、苦笑した。
「心配しなくても、この試合が終わったら……アイツと決着をつけたら、もう、フェザーではやらないよ。やる理由がない」
「……そうか」
「というか、アイツとの試合そのものに反対されると思っていたよ」
フェザー級だけでなく、上下2階級まで含めた、国内トップクラスのパンチ力だろう。
今のオレにとって、危険な相手なのは間違いない。
「速水は、いいのか?」
「どういう意味だよ?」
「負けた相手にリベンジを果たしてから……という気持ちはないのか?」
「ない、とは言わないよ。でも、進んで戦いたい相手じゃないね」
「ほう」
父さんの浮かべた表情に、少しイラッとした。
「別にまぐれで負けたとは言わないし、速水の強さは認めるよ……でも、幕之内とは違うんだよ、父さん」
……うまく、言葉にはできない。
幕之内はこちらが自分をぶつければぶつけた分だけ返ってくる……ギリギリで、それがたまらない。
他の相手じゃ、あの感覚は味わえない。
こだわっているだけかもしれないけど、アイツは、幕之内は特別なんだ。
まあ、普段はうっとおしいだけだけどな。
対照的に、速水はたぶん……こちらがぶつければそれをひょいと避ける感じだ。
自分の全力をぶつけられる安心感のようなものはない。
熱くなれるような試合ができるとは思えないし、きっと楽しめない。
だから、わざわざ試合をやってみたいとは、思えないな。
タイトルマッチとかならともかく、ね。
「……あの、予告KOについてはどう思っているんだ?」
「あの時、速水はそんなこと一言も言ってなかったさ。記者が勝手に書いたものだってことぐらい、オレもわかってるよ」
「そう、アレは新聞記者が勝手に書いたものだ……ただ、速水がそれを実行しようとした意味はわかっているか?」
意味?
父さんを見つめた。
「おそらく、速水はスポンサーから1Rで倒せと要求されたんだろう」
「……は?」
「千堂との試合、ヴォルグ・ザンギエフの来日……新人王戦で、速水はかなり窮屈な戦い方を強いられていたんだろうな」
父さんが、言葉を続けていく。
「結局、スポンサーは速水から下りたらしいが……1Rで倒せと要求されて、その1Rで最初の1分を撒き餌に使った。その事実に、私は速水の精神的な強さと凄みを感じるがな。できれば、お前にもその凄みを感じて欲しいと思っている」
「……何が言いたいんだよ、父さん」
「ああ、すまんな。少し話が脱線したか」
父さんが視線を足元に落し、あらためてオレを見た。
「一郎。私は、自分のボクシングが完成品だなんて思ったことはない」
「……父さんのボクシングは、最高さ。こだわるなと言われても、オレは父さんのボクシングを目指すし、続けるよ」
「そうか……」
父さんが小さく頷く。
そして、ゆっくりと……自分のアゴをなで始めた。
一度砕かれたアゴ。
父さんを引退させ、全てを失わせた試合。
「この試合を受けた甲斐があったな」
「なんだよ……?」
「今日の試合……お前は絶望を感じるかもしれん」
「……オレが、幕之内に負けるって言うのか?」
「そうではない」
父さんが首を振る。
「幕之内は危険な相手で、お前は万全とはいえないが……それでも、お前の勝ちの目の方が高いだろう。私の言う絶望とは、勝負とは関係ない。そして……」
「そして……?」
『リスクを承知で、私は、お前にその絶望を知ってほしいために、この試合に賛成した』
父さんが、まっすぐにオレを見つめている。
冗談でもなんでもなく、本気で言っているのだろう。
「……試合の途中で『絶望』の意味を理解したなら、前もって知っていた分、立っていられるだろう」
そう言って、父さんは自嘲気味に呟いた。
「……甘いんだろうな、私は」
『幕之内一歩』
入場前に、鷹村さんの控え室に顔を出した。
「鷹村さん、行って来ます」
「おう……つまらねえ試合するんじゃねえぞ」
「はは、面白い試合になるかどうかはわかりませんけど……できるだけのことはやろうと思います」
鷹村さんがボクを見つめ……口を開いた。
「一歩よ、リングに上がったボクサーは、万全だ。万全じゃなきゃならねえ。覚悟を決めてから、リングに上がれよ」
覚悟、か。
宮田君のために。
自分のために。
この試合に向けて、迷惑をかけたみんなに、お世話になったみんなに。
「小僧、出番じゃ。行くぞい」
「はい」
前を行く、会長の背中。
メインの鷹村さんの前の、セミファイナル。
B級ボクサー同士の、A級昇格をかけた試合。
隣を歩く、八木さんを見た。
華やかな舞台とはいえないかも知れないけど。
全力を尽くします。
リングの上。
レフェリーの声。
そして、宮田君。
1勝1敗とは言うけれど、どちらも負けていた試合だった。
勝ったのは、アゴを掠めたラッキーパンチのおかげ。
そこを狙っていたのならともかく、宮田君が避けようとして、偶然そこを掠めただけだ。
宮田君に……一度は勝ちたい。
そう思った瞬間、身体が震えた。
そうだ。
これが最後。
この機会を逃すと……ボクは、もう宮田君に勝つことはできないんだ。
握った拳に、力がこもる。
速水さんの言う、覚悟はまだよくわからない。
それでも、今この瞬間が、宮田君に勝つ最後のチャンスだってことは、ようやく実感できた。
「小僧、わかっておるな?」
「はい」
「口に出せ、今すぐ」
「同じ攻撃を繰り返さないこと。攻撃は、小さく速く、鋭く。常に頭を動かすこと」
セコンドアウトの合図が鳴った。
「行ってこい、小僧」
「はい」
ゴングが、鳴った。
リングの中央。
向かい合い、実感した。
背が伸びている。
手を合わせ、離れた。
受身にならない。
そして、パンチを見せ過ぎない。
『宮田のおっかねえところは、学習能力の高さだ』
鷹村さんのアドバイス。
だったら、最初は、こちらのタイミングやリズムを覚える時間。
前に出て、こちらから手を出す。
踏み込んで、左を……。
……あれ?
顔の前に、壁がある。
じっとしているのに、身体が揺れている感覚。
……え、あ、あっ!
両手。
ボクシンググローブ。
壁じゃない。
押す。
顔を上げる。
レフェリー。
音が戻ってくる。
声。
「立てぇっ、立たんか、小僧ーっ!」
身体を起こす。
「ふざけんなっ!立てっ、幕之内!」
そうだ、まだ始まったばっかりじゃないか。
膝。
足。
「エイト!」
カウント8!?
立たなきゃ。
慌てずに、まっすぐ……立つ!
構える。
レフェリーを見る。
『貴様なら睨み付けるぐらいでちょうどいい』って、会長の言葉を思い出す。
ボクの手をレフェリーが持つ。
「やれます!」
まだ何も。
ボクは見せられてない。
「ファイッ!」
続行だ。
足元を確かめる。
大丈夫、踏ん張れる。
ボクの左に、カウンターを合わせられた。
たぶん、右。
この試合、最初のパンチに、いきなり合わせられた。
リズムを、タイミングを、学習するまでもないってことなのか?
ボクと宮田君との差は、そんなにあるのか?
目の前に宮田君がいる。
手を出さなきゃ。
わかっている。
でも。
目がくらんだ。
殴られた感触が、後からやってくる。
ピーカブー。
アゴを守る。
でも、顔の上半分は……。
マウスピースを噛み締めた。
左を、耐える。
そうだ。
顔全部を守ることはできない。
速水さんとの試合で、それを学んだ。
避けようと思っても避けられない。
ガードだけでも守りきれない。
だから。
常に頭を動かす。
的を絞らせない。
当てさせない。
それでもダメな分は、歯を食いしばって耐える。
それが、ボクにできることの全て。
宮田君のジャブが届く距離は、ボクのパンチが届かない。
殴られたと思って殴り返しても、意味がない。
受け止める。
パンチの芯を外す。
空振りさせる。
いつもやっていること。
これまでやってきたこと。
前に出る。
ボクの距離まで近づく。
そこでもまだ、我慢する。
どうせ手を出しても出さなくても、殴られるんだ。
ギリギリまで前へ。
もっと、前へ。
ここだ。
届く。
「小僧ーっ!」
ああ、さっきはこれをもらったのか。
さっきは見えなかったし、わからなかった。
でも、今のは見えた。
見えたから、さっきよりもダメージは少ない。
頭を上げ、上体を起こす。
太ももを軽く叩く。
感触がある。
痺れもない。
大丈夫だ。
立てる。
カウント7で立ち上がり、聞かれる前に言った。
「やれます!」
まだまだこれからだ。
宮田君を相手に、倒されないですまそうなんて甘すぎる。
理由はわからないけど、とにかく、ボクの左のタイミングは、完全に宮田君につかまれている。
ジャブを出すために、別のパンチを出すことから始めなきゃ。
そして、そのために……ボクのパンチが届く距離まで近づく。
そこからだ。
低く構える。
右に、左に。
宮田君の姿を追って、その場で回転する。
……速水さんより、宮田君の方が素直な動きかもしれない。
でも、これなら……ある程度は読める、かな。
頭を振る。
前に出る。
宮田君がパンチを打つタイミング。
宮田君がステップを踏むタイミング。
そのタイミングで、ボクは前に出る。
宮田君が嫌がるタイミングを探す。
前に出ては突き放される。
突き放されても、前に出る。
1Rが終わった。
会長に、疑問をぶつけた。
「いきなり、カウンターを合わせられたんです。そんなに差があるんですか?そんなにわかりやすいんですか?」
会長はボクの目の辺りをチェックし、口を開いた。
「小僧。貴様は、宮田一郎を想定したシャドウを続けていたな?」
「はい」
「……つまりは、そういうことよ」
「え?」
「宮田一郎もまた、貴様との試合を想定して、シャドウを続けていた。貴様の試合を見て、修正を重ねながら、貴様の動きやリズム、タイミングを覚えこんだんじゃろう」
え、それって……。
ごつん、と会長の額が、ボクの額にぶつけられた。
「わかるか?同じではイカンのだ。宮田一郎の想定を超えろ。同じではなく、成長した姿を見せ付けろ……2度目のスパーを思い出せ。貴様も、宮田一郎も、お互いがお互いの想定を超えていった、あの試合のことをな」
想定を、超える。
成長を、見せる。
「立ち止まるな。成長を求め続けろ。前に進み、上を目指し続けろ」
「はい」
2R。
立ち止まらない。
頭を動かし続ける。
前に向かっていく。
まだ、ボクの距離にならない。
でも、ボクが手を出さない限り……芯にくるパンチはこない。
パンチが届く距離じゃダメなんだ。
だって、カウンターを狙っていない限り、宮田君は距離をとろうとする。
身体が密着するぐらい近くまで。
『同じではイカンのだ』
会長の言葉。
いつもと同じなら、踏み込みながら相手の右を避けて、肝臓打ち。
でも、宮田君は左を連打してくる。
踏み込んで左を出したら、カウンターで狙われる。
考える。
頭を動かす。
右に、左に。
宮田君の左。
これを……外に。
宮田君の左が、ボクの左頬を掠める。
反撃の来ないタイミング。
右をボディに。
……ダメだ。
躊躇している間に、距離をとられた。
宮田君の構えは、半身に近い。
肝臓打ちの感覚で、右のフックをボディに持っていくと背中に当たる。
反則打になる。
どうする。
まずは動く。
頭を動かし続ける。
そして前に。
さっきよりも前に。
宮田君の左に、少し慣れて来たかもしれない。
でも、まだ遠い。
宮田君の動きを止めたい。
ボディを狙いたい。
あれ、他になんかあったような?
動きを止める方法。
ああ、そうだ。
右フック。
それを、宮田君の肩に、押し付ける。
踏ん張ろうとする動き。
その瞬間、動きが止まる。
左アッ……。
危ない!
宮田君の右を、上体を傾けて避けた。
一旦離れる。
そうだった。
攻撃は、小さく速く、鋭くだ。
同じ攻撃はしない。
頭を動かし続ける。
前に。
進み続ける。
踏み込む。
突き放される。
踏み込む。
距離をとられる。
もっと踏み込む。
左フックを引っ掛けられた。
2Rが終わった。
手も足も出ない。
でも、少しずつ……距離が縮まっている感覚はある。
「目は見えとるな?」
「はい」
「苦しいじゃろうが、今のままでええ。別の攻撃を見せれば、迷いが出る。迷いが出れば、いつもの攻撃にも反応が遅れる。いきなりは無理じゃ、我慢せえ」
「はい」
3R。
前に出る。
まず、距離を詰めなきゃ始まらない。
頭を振り続ける。
何度突き放されても。
何度逃げられても。
ボクには、それしかない。
それしかできない。
追いつけない。
宮田君のボクシングだ。
羽が生えたように、リングを舞う。
それでも、これは……万全じゃないんだ。
マウスピースを噛む。
前に。
1分1秒が惜しい。
ロープに。
コーナーに追い詰めたい。
するりと逃げられる。
……逃げられる?
距離をとろうとする動きが増えたのか?
前に。
見える。
宮田君の左が、見える。
慣れじゃない。
宮田君の速度が、わずかだけど、落ちてきた。
ボクはまだ、1発も宮田君にパンチを当てていない。
マウスピースを噛み締める。
何かを振り払うように前に。
宮田君の速度が落ちきる前に。
ボクのパンチを……。
祈るように繰り返す。
捕まえた。
ボクの距離。
届く。
当たる。
宮田君の速度が上がった。
違う、戻った。
誘われた。
すごいなあ、宮田君は。
なのに、なんで。
……そんな苦しそうに、パンチを出すんだろう。
頭を起こす。
上体を起こす。
太もも。
膝。
足の指の感覚。
大丈夫。
立てる。
カウント7まで待って、立つ。
構える。
「やれます」
レフェリーが、ボクの手を押さえようとする。
それに反発して力を入れた。
じっと、見られる。
「ファイッ!」
まだいける。
まだやれる。
頭を振り続ける。
前に出て、距離を詰める。
攻撃は、小さく速く、鋭く。
同じ攻撃はしない。
できることを全部。
やれることを全部。
宮田君に。
みんなに見せるんだ。
よし、行こう。
何度突き放されても。
何度逃げられても。
宮田君に向かって。
……3Rが、終わった。
『宮田一郎』
「……まだ動けるか、一郎?」
「平気さ」
一発もパンチをもらってはいないんだ。
まだ、動ける。
4R。
ゆっくりとリングの中央に……。
アイツが、近寄ってくるのを見る。
ダウンも奪っているし、オレの方が派手に攻めているように見えるんだろうな。
止まらないウィービング。
止まらない前進。
攻めるためじゃなく、守るために打たされている。
そんな気分だ。
左。
ガードの上。
左。
芯をはずされた。
無防備にオレの左を浴び続けてくれていたあの頃が懐かしいぜ、ホントに。
左。
かわされた。
踏み込まれる。
……っと!
左足のかかとの後ろにつま先を置かれそうになったのをかわした。
こんなこともできるようになったのか。
不器用なインファイター。
それ以外はできない。
そう、思っていたんだがな。
……いや、不器用なのは相変わらずか。
足で相手のフットワークを邪魔するのも。
右フックを相手の肩に引っ掛けるのも。
やろうと思えば、オレならもっと上手くできる。
ディフェンスだって、な。
左を突く。
幕之内の頭が跳ね上がる。
手ごたえは、ある。
あるんだ。
前進を続けるアイツにとっては、全部がカウンター気味のパンチになる。
もちろん、ジャブはジャブでしかない。
わかってはいても。
……ムカツク。
やはり、右しかないのか。
その右を、打つチャンスがなかなか来ない。
ただ前へ。
自分の距離になるまで。
自分の距離になっても。
そこからもう1つ、踏み込んでくる。
以前は、パンチが届く距離になったら慌てて攻撃してくるイメージだったんだけどな。
そこで我慢されると、カウンターのタイミングが取りづらい。
1Rは、やりやすかったんだけどな。
また、左を突く。
単調にも思える繰り返しが、精神と身体を削っていくのがわかる。
また、向かってくる。
前へ。
ただ、前へ。
亀のように。
猪のように。
踏み込まれた。
突き放す。
踏み込まれた。
左フックを引っ掛けて、まわした。
慣れか?
打ち疲れか?
追い詰められていく。
右を打つチャンスを待つんじゃなく、右を打つチャンスを作る。
さっきのRでやったこと。
踏み込まれた。
わずかに、タイミングを遅らせる。
逃げ遅れた。
そう、思わせる。
もう一歩前に。
呼び込む。
幕之内の左。
オレの右。
2つが交差し、幕之内が倒れる。
息を吐く。
ニュートラルコーナーに立つ。
カウンターで鮮やかにダウンを奪った。
そう、見えるんだろうな。
……今のは失敗だ。
それでも、ダメージがないなんてことはないはずだ。
幕之内が、上体を起こす。
確かめるように、太ももを叩く。
レフェリーのカウントを聞いている。
その、ダウン慣れした仕草が、ムカツク。
そして。
当たり前のように。
なんでもないことのように。
立ち上がる姿が。
苛立ちと。
焦燥感と。
不安をかきたてる。
「ファイッ!」
続行の合図。
幕之内が、アイツが来る。
ピーカブー。
頭を振る。
前に出てくる。
ダウン直後だ。
なんで。
なんで、さっきと同じように動ける。
踏み込まれる。
突き放す。
踏み込まれる。
距離をとる。
また踏み込まれる。
左フックでまわる。
止まらない。
止められない。
ただ一撃で相手を倒す、芸術的な父さんのボクシング。
父さんのボクシングは、間違ってない。
だったら、間違っているのは、きっとオレの方で。
また、踏み込ませる。
幕之内の左を誘う。
右拳に力を込める。
右のカウンター。
幕之内がぐらついた。
倒れない。
打ち返してきた。
ブロック。
ガードした腕が痺れる。
距離をとった。
幕之内が、追いかけてくる。
『今日の試合……お前は絶望を感じるかもしれん』
このことか。
このことかい、父さん。
鴨川ジムでの、アイツとのスパー。
アイツ以外とのスパー。
プロデビュー。
オレのカウンターで倒れていった対戦相手。
それを見て、どこかで安心したオレがいた。
アイツだけが、特別なんだと。
新人王戦の間柴。
オレのカウンターをもらって、立ち上がった。
2度目のダウンも立ち上がってきた。
3度目のダウンも、立とうとした。
オレは、カウンターではなく、新人王ルールの2ノックダウン制で勝った。
気づいてはいた。
薄々、わかってはいたんだよ、父さん。
踏み込まれる。
突き放す。
突き放せない。
右で突き放す。
カウンターじゃない、普通の右。
崩されていく。
オレのボクシングが、崩されていく。
4Rが終わった。
コーナーへ戻る。
父さんが、迎えてくれる。
4回戦、6回戦クラスならともかく……その上を狙うなら。
オレのパンチは……軽いんだな。
椅子に座り、足元を見つめた。
「力んだな」
顔を上げ、父さんを見る。
「倒しきれなくて、ムキになって力んだ。それでタイミングが少しずれた」
そうじゃ、ないだろ……。
『幕之内の突進をさばくためにフットワークを重視して、パンチが手打ちになって軽くなっている』
『無意識に、幕之内との距離をとろうとしているな。ほんのわずかだが、ヒットポイントが遠くなっている』
さっきから、気休めは……やめてくれよ。
「それと……」
グローブを、太ももに叩きつけた。
「はっきり言ってくれよ。倒しても倒しきれない。すぐに回復されてしまう。オレのパンチは軽いんだって」
どこか、思いつめたような父さんの表情。
「今お前が感じている絶望は、ずっと昔に、私が乗り越えたものだ。もう一度言う。私は……現役だった頃も含めて、自分のボクシングが完成したなどと思ったことは一度もない」
「……」
「パンチの軽さを補うカウンターはある、ただし、リスクは高いぞ」
セコンドアウトの合図。
椅子から立ち上がる。
「今さらだよ。オレは、ボクサーなんだ」
「そうか……」
父さんが視線を足元に落し、もう一度『そうか』と呟いた。
そして、顔を上げた。
「……ずいぶん時間がかかったが、私も覚悟を決めよう」
5Rが始まる。
また、アイツが来る。
幕之内は。
ひたすら、前へ。
オレは。
ひたすら、左を突く。
愚直なのは、どっちだ?
1Rからずっと。
同じことの繰り返しだ。
何秒過ぎた?
いつまで続ければいい?
倒すまで終わらないか。
時間の感覚が怪しい。
左を突く。
手ごたえがおかしい。
バックステップ。
違和感。
サイドステップ。
食いつかれた。
止められない。
逃げられない。
ガス欠か。
6Rなら、と思ったんだがな。
……なんて顔、してるんだよ。
お前のチャンスだぜ、幕之内。
幕之内の頭。
動き続けていた頭が、オレの胸に押し付けられた。
マウスピースを噛み締める。
腹に力を込める。
くるぞ。
肝臓。
衝撃が、背中に抜けた。
オレの意思を越えて、苦痛に身体が支配される。
上体が、折れる。
幕之内が、身体を起こすのが見えた。
見下ろされる視点。
幕之内の呼吸音が、聞こえた。
右フックが本命。
アッパーの可能性も少し。
悩むな。
決めろ。
そこに、自分を投げ出すのがカウンターだ。
両腕で腹を抱えたくなる気持ちを抑えて、アイツの右フックに左を合わせる。
幕之内の上体がのけぞる。
踏みとどまられた。
アイツの視線と、オレの視線が絡まる。
踏み込んでくる。
反応が遅れる。
左じゃ止められない。
右だ。
いつもの感覚で打っちまった。
鈍い。
アイツの顔が、右下に逃げていく。
オレの右が、アイツの髪をかすめて抜けていく。
くる。
マウスピース。
腹筋。
衝撃。
痛みに、身体の反射に逆らわず。
幕之内が身体を起こす前に。
のしかかるようにして抱きついた。
……鍛えたつもりなんだけどな。
腹の中に、拳の大きさの異物が放り込まれたような気持ち悪さ。
痛みと吐き気。
背中に痛みを感じるのは、錯覚なのか。
レフェリーが、オレとアイツをわけた。
痛みがまだ、腹の中でうねっている。
いつまでも続く予感。
ふざけたパンチだ。
再開。
幕之内が一歩前へ。
そこで、5Rが終わった。
幕之内の視線に背を向け、歩き出す。
3メートルほどの距離だってのに。
……遠いな。
椅子に座り、呼吸をする。
「……お前は、速度とタイミングでカウンターを打っている」
「間違っているのかい?」
「いや、お前がそれしか使ってないという話だ。試合で使う機会はほとんどなかったが、腕の重さで打つカウンターに、重心移動で打つカウンター、お前の知らないカウンターはいくらでもある」
「……聞いて、すぐに使えるものじゃなさそうだね」
「まあ、そうだな」
思わず笑ってしまい、父さんもまた微笑んだ。
「指導者らしく、今のお前にできることをアドバイスするとしよう」
父さんの手が、オレの腹に触れた。
「まだ動けるか?」
「ダメだね。ガス欠も合わせて、もう足はガタガタだよ。アイツを倒さなきゃ倒される、そういう状況さ」
父さんが、肩越しに幕之内のコーナーを見た。
「ポイントも、観客の評価も、こっちが圧倒的に有利のはずなんだがな」
再び、父さんがオレの腹に触れた。
「もう1発、耐えられるか?」
「それしかないなら、耐えてみせるよ」
「そうか……幕之内の肝臓打ちには、癖がある。近距離での打ち合いで放つ肝臓打ちではなく、パンチをかいくぐり、踏み込んで放つ肝臓打ちに、だが」
「……打たせろってのか?」
迎撃じゃなく?
「いいから聞くんだ。幕之内は、パンチに耐えるために、呼吸を止めてやってくる。耐えて、よけて、踏み込んで……肝臓打ちを当てると、相手の動きが止まる。そこで一旦、間を取ろうとする。頭を上げて呼吸をし、攻撃に移ろうとする」
説明が続く。
「頭を上げて、息を吐き、吸う。わかるか?その瞬間、攻撃に耐える意識が緩む。頭を上げることで、腹の筋肉が伸びる。狙うのは、幕之内が息を吐ききって、吸おうとする直前のタイミングだ。肺が膨らもうとする瞬間に、みぞおちに放り込め」
「……それで、倒せるの?」
「人は、息が詰まると呼吸を回復させようと神経に過剰な信号が送られる。そのタイミングで、内臓へ衝撃を与えると、迷走神経によって信号が脳に伝えられてパニックを起こし、動きが止まり無防備になる。これは、人間の反射的行動で、幕之内の頑丈さ、我慢強さとは関係無しに起きる……そこを仕留めるんだ」
パンチじゃなく、呼吸のタイミング。
それに、アイツが頭を上げるタイミングを重ねる。
これも、カウンターなのか。
「無理か?」
「……いや、難易度高いね」
アイツの肝臓打ちをもう一度、か。
耐えられなきゃ、耐えても、パンチが打てなきゃアウトか。
「……みぞおちへのパンチは、ストレートでいいんだよね?」
「ああ、この場合は、下から突き上げるより、正面か斜め上から突き下ろすほうが、起こりやすい」
「そうか」
セコンドアウトの合図に合わせて立ち上がる。
「なら、問題ないね」
6R。
足元を確かめながら、進む。
リングの中央。
幕之内。
ん?
こないのか?
幕之内が、手を伸ばしてくる。
そうか、そうだったな。
これが、最終Rだったな。
オレとアイツの。
最後の、ラウンドだ。
手を伸ばす。
合わせる。
離れて、幕之内が構えた。
前へ。
突き放せないのがわかっていても。
左を突く。
受け止められる。
はじかれる。
オレの左をかき分けて。
アイツが踏み込んでくる。
違う。
右手でアイツの頭を押さえ、受け流した。
次か。
その次か。
アイツが振り向く。
前へ。
踏み込まれる。
踏み込ませる。
ダメだ。
身体を回し、なんとかやり過ごす。
そろそろ限界だな。
肝臓打ちを待つんじゃなく、打たせるしかないか。
右を空振りして、肝臓打ちを誘う。
腹の中をかき回されるような鈍い痛みが残っている。
息を吸い、吐く。
幕之内の前進。
踏み込みに合わせて、小さく右を動かす。
逃げていく頭。
ハーフスピードの右を放ちつつ、マウスピースを噛み締める。
腹に力を込めろ。
腹にめり込み、背中に抜ける。
上体が折れる。
幕之内の頭が上がっていく。
息を吐く音。
吐き終わる前に。
右足。
膝。
太もも。
右拳を握りこみ。
みぞおちめがけて、突き立てる。
「かはっ!」
幕之内の口から、声にならない何かがこぼれた。
腰が退けている。
両腕が、中途半端な高さに落ちる。
無防備。
こんな風になるのか。
踏み込んで……。
オレの左が伸びていく。
十分に踏み込めなかった左。
その分、距離感も怪しい。
届いた。
軽い手ごたえ。
それでも、幕之内の身体が後ろに倒れていく。
受身を取る気配もなく、幕之内の後頭部がキャンパスで跳ねた。
少し遅れて。
「ゴホッ、ゴホッ!」
幕之内が、腹を押さえて咳き込む。
足を引きずりながら。
腹の痛みに耐えながら。
ニュートラルコーナーへ向かう。
今ので、アイツは5度目のダウンか。
それでも、仕留められなかった。
呼吸を繰り返す。
腹の痛みが、いつまでも尾をひいている。
足元の感覚。
回復はしない。
回復はできない。
手を握る。
なら、十分さ。
幕之内が、オレを見ていた。
……不思議そうな顔をしやがって。
さっさと立てよ。
立ち上がる。
続行。
残り時間は見ない。
判定は、趣味じゃない。
オレは、最後まで倒しにいく。
アイツが来る。
オレも、前へ。
左。
ガードではじかれた。
踏み込まれたタイミングで、右を叩きつける。
突き放せない。
スウェー。
幕之内のパンチが、鼻先を掠めた。
殴られた腹が疼いている。
スウェーは危険だ。
腕が重い。
かわせない。
見えているのに、反応できない。
ガードを固める。
右に、左に、身体を振られる。
自分の羽がむしられていく感覚。
できること、やれることが、どんどん減っていく。
至近距離。
アイツのパンチに合わせた。
一瞬だけ、動きを止められる。
一瞬だけだ。
ガードの上から、頭を揺さぶられた。
「小僧!時間がないぞ!」
……鴨川会長の声。
ボディへの衝撃。
痛みで意識が引き戻される。
幕之内の右。
大振りだ。
拳を突き出す。
また、一瞬だけ動きを止められた。
倒せない、か。
ボディ。
上体が折れる。
幕之内の足が見えた。
グローブが視界に飛び込む。
衝撃。
ライトの光。
身体が浮く感覚。
背中に、何かがぶつかる。
立たなきゃ。
腹の痛み。
転がる。
頭を上げる。
立てる。
立つぞ。
ゴングの音。
待てよ、早すぎる。
まだ……オレは。
上体を起こして、レフェリーを探す。
幕之内の背中。
なんだ?
何を見てる?
時計。
残り時間は、ない。
あぁ、そうか。
最終ラウンド。
3分、過ぎたのか。
ダウンカウントは、そこで……。
試合は、終わった。
終わったんだ。
はは。
間柴のときと同じか。
オレは。
オレは……また、ルールで勝ちを拾った。
判定は3対0。
父さんに肩を借りて立っているオレが勝者で。
自分の足で立っているアイツが敗者か。
オレは、笑えずにいる。
アイツは、笑っている。
握手を求められて、手を出す。
……。
……。
「なあ、いつまで握ってるつもりだ?」
「あ、ご、ごめん」
勝者が敗者にかける言葉はないって言うけど。
敗者が擦り寄ってくる場合は、どうすりゃいいんだろうな。
同じか。
突き放す。
話すことなんて、ないしな。
「じゃあな、幕之内」
「宮田君。ボクは、見てるから。ずっと応援してるから」
……そういう発言をするから、鷹村さんたちにからかわれるんだよ。
右手を上げ、背を向ける。
父さんに肩を借りたまま、歩き出す。
「……父さん」
「なんだ?」
「……せっかく教えてくれたのに、できなかったよ」
「足が、動かなかったか」
リングを降りる。
「……カウンターを、教えてくれるんだよね?」
「ああ……さっきも言ったが、リスクは高い。失敗すれば、私のようになる」
「どうして、今まで教えてくれなかったんだ?」
「教えてもそれを実行する能力が不足していたことと……おまえ自身が、今のカウンターに満足していたこと」
一旦言葉を切ってから、ぽつりと、父さんが呟いた。
「私が、その覚悟を決められなかったこと……だな」
父さんが、アゴに手をやる。
「カウンターに威力を求めれば、拳や手首、肘や肩を怪我する可能性は高まる。そして、失敗した時のリスクも高い……私が、いい例だ」
「……」
「志半ばで道を絶たれて、それでも生きていかねばならない地獄……そんなものを、お前に味わわせる可能性を、私は恐れた」
「……オレはボクサーで、父さんの息子なんだ」
「歩き続けてなお、手が届かない……それも地獄か」
父さんが、笑う。
「どちらの地獄が、マシかな?」
「アイツを、幕之内をダシにしたんだな……」
「そうでもしないと、お前は……固執し続けたはずだ」
そうか。
ああ、そうだな。
立ち止まり、リングの方を振り返る。
同じように、通路の途中で振り返っていたアイツと目が合った。
リングの上でだけ、交差する道。
オレとアイツは、別の道を歩いている。
しまらない結果になったが……。
あばよ、幕之内。
背を向ける。
歩き始める。
オレの隣には、父さんがいる。
とりあえず、この時点で2人を戦わせると、どうしても宮田が新しい武器を手に入れるためのイベント的なお話にならざるを得ないかなと。
2人の試合を形にして投稿できたことに、良くも悪くも安堵したのが本音です。
もう、リテイクしなくていいんだ……と。(遠い目)
リテイクしまくってる時に感じたのですが、一歩の試合は、展開に変化をつけられない、描写に変化をつけられない、単調になっていく……おう、もう。
これを一歩視点で書くと、相手の変化に敏感だと一歩らしくないし……絵として視覚的な強みのある漫画はともかく、文章なら色々できる主人公の方が書きやすいのだなと実感しました。
それゆえの途中での視点変更と、周囲の思惑と、宮田の状況、心情を絡めて……こういう形に押し込んだので、二人の戦いを心ゆくまで……と思っていた人には物足りなく、もやっとする結末だったのではないかと思います。
サブタイトルは、ドリームマッチじゃなく『交差点』の方が良かったかも。
まあ、書き手としての力不足といわれたらそれまでですが……これからも精進を重ねたいと思いますが、現状ではこうなりました。
何らかの形で楽しんでいただけたのなら幸いです。
呼吸に合わせてみぞおちを突く……は、武術系で散見できる技で、ボクシングをやっていた方も、『余裕があれば、クリンチの時に狙っていく』と言ってました。(余裕がないからクリンチするとは言ってない)
柔道でも、寝技にまぎれて肘で強く押すとか……目に見えない攻防があるそうです。
とはいえ、危険なので真似はしないでください。
迷走神経は、脳に直接つながっている神経の1つで……まあ、エロ要素もあるので、調べると面白いかもしれません。(目逸らし)
気付いた人もいるかもしれませんが、話の中にこっそりと速水も登場してます。
まあ、指定席A(お値段1万円)を購入して、ドリームマッチにワクテカ状態だったのが、1R20秒ほどで終わりかけたら、叫びたくもなるかなと。
あと、宮田の父親は速水への評価が高いです。