馬鹿とは、帝国において皇帝の代名詞。
馬鹿とはすなわち皇帝を示す言葉であり。
同時に、『困難を打破する希望』を意味していたりする。
けれど、だ。彼の場合、それが何時もそうだとは限らない。
だって馬鹿なので。
小さく息を吐くように、そっと筆を机の上においた。
気合を入れて考え直し、何度も見直した末に出した結論に、異論なんて挟まないでほしいのだが。
「お断りします」
真っ直ぐに見詰めてくる瞳に、アイリスはため息を何とか飲み込んで相手を見つめ返す。
執務室には冷たい風が吹き込んだように、室温が徐々に下がっていく。錯覚かもしれないが、彼女と相対しているとそう感じることがある。
長く黒い髪と、薄い藍色の瞳。美人というよりは美形、あるいは人形のように整った顔立ちをした女性。
感情が欠落したのではと噂されるほど、微笑みを浮かべたまま固定されたような彼女は、決して相手から視線を反らすことはない。
「あのね、深雪」
名を呼ばれ、彼女は小さく頷いて見せた。
「私が選ばれた理由は理解はできます。けれど、その茶番に付き合う理由が私には納得できません」
冷たい氷のような皇妃の中の、冷血漢。なんて言われているだけはあるか。
深雪・クロムウェル・エーテル。二十二歳の淑女は、淡々と感情のこもらない声で語る。
彼女を良く知らない人ならば冷たい印象を受けるのだが、アイリス達からしてみればこれは『怒りを無理やりに凍結して話している』だけで、彼女も感情はしっかりとある。
身内だけならば喜怒哀楽を素直に表現する女性なのだが、今は公務中で怒り心頭なので冷たい氷のような態度となったわけだが。
「貴方以外に『暇』な人がいないのよ」
「私も忙しい毎日を過ごしています」
「決済が終わっているのは、貴方だけなの、解る?」
「ええ、そうですね。皆さんが『手こずる』とは、何か別の理由があるのでしょうか?」
『手を抜いて押しつけていませんか』の口外の意味に、アイリスの片眉が僅かに上がった。
「面白い冗談ね、深雪。私が手を抜いたって言うのかしら?」
「いえ、天下の宰相どのは手を抜くことはないでしょう。けれど、『わざとぶつけること』くらいはされるでは、と疑っています」
「へぇ?」
「何か?」
ビシっと二人の目線がぶつかり合う。
身を切られるような空気の中、一触即発の様子な二人に対して、場の空気など知らないといった風にぶち壊すバカが一人。
「え、俺としては二人の着物姿みたいなぁって。あ、鬼のパンツでもいいか」
「黙れこの馬鹿夫!!」
「沈みなさい、痴れ者!」
そして今日も、『皇帝陛下への攻撃により執務室は全壊になりました』と。
「まったくもう。何処の世界に、『新作の着物発表会のモデルに妻を押すバカ』がいるのよ」
「そうです。何故、私が他人のために着物を着てファッションショーに出なければいけないのか」
「第一よ、百歩譲って新作モデルの話を持ってくるとしても、それを自分の妻に着せようと考える?」
「私達のスリーサイズを他人に教えてどうするというのですか」
次々に言葉が突き刺さる。不機嫌な二人の言葉は、テラの足元から頭の先を貫いていく。
「え、でもさ、俺は見たいよ。理由はそれだけ」
「馬鹿夫! だからってなんでテレビ局とか出版社まで説得してるのよ!」
「晴れ姿が見たい、理由は解ります。しかし、それは普通にモデルがやる仕事でしょう?」
「なんかマスコミすべてを巻き込んだって、どんだけ行動力発揮しているのよ」
「普段から私は、あまりこういったことを受けないことを知っているはずですが」
「経済効果まで計算して・・・・・ちょっと待ちなさい、何よこの経済効果。嘘でしょう?」
「アイリス、騙されては・・・・この数字、本当なのですか?」
フッ舞い上がってきた資料に書かれた数字に対して、アイリスと深雪はそろって食い付いた。
「不景気になりかけているとか、言われていたけど。これで一気に吹き飛ぶじゃない」
「私達は公務なので、それは税収として軍部に回せるのならば。来期の新型機配備の予算が浮きますね」
「新型機配備しても、おつりが来るわよ。ちょっと待って、情報部の新しいネットワーク構築にも、今回の映像を流すことで可能じゃないの?」
「確かに。その上で、警察機構の新人たちに対する訓練にもなりますね」
頭のいい二人が、今回の一件に対しての色々な『効果』について話をしている間、テラは隣にいる『逆さまになったアセイラム』に顔を向けていた。
「そんなにキツキツだったっけ?」
「はい。税金を上げるのはアイリスとしては、反対していましたから。安易な増税は、一時的な対応策でしかありませんので」
「ふ~~ん、新型機かぁ。情報ネットワークもヤバいの?」
「情報局のほうでは日々、科学技術の向上に対してのネットワーク配備は急務でしょうから」
「ほうほう。俺は純粋に皆の着物姿が見たいだけなんだけどなぁ」
簀巻きにされて逆さづりにされているテラは、ケラケラと笑っていた。
貴方はそうでそうね、とアセイラムはため息交じりに答えながら、横目で色々と話が膨らんでいる二人を見つめる。
頭がいいとは、こういった時に厄介なものだ。自分のプライドとか羞恥心とかよりも、利益がどれだけ生まれて周りの不利益がどれだけ削られるかを考えてしまう。
頭がいいではなく、寝っからの仕事人間は、というべきかもしれないが。
やがて、アイリスと深雪はじっと黙った後、何かを堪えるように拳を握りしめ、やがて項垂れた。
「お願い、深雪」
「致し方ありません、アイリス。共に地獄に落ちましょう」
ガシリと二人は手を握り合い、その後にニヤリと笑って振り返った。
「でもそうね、八つ当たりは必要よね?」
「もちろんです、アイリス。八つ当たりは必須です」
ドロドロと黒くとおぞましい何かを背負った二人は、ゆっくりとテラへと近づいていく。
「ねえ、旦那様?」
「最愛の夫として妻のストレスの発散に付き合って頂けますか?」
質問の形をしているのに、拒否権などない言葉に対して、テラは逆さまのままで笑顔を浮かべた。
「もちろんだよ♪。ついでに軍部全員参加の演習にしようぜ」
とても清々しい笑顔で告げたテラに、決して悪気があったわけではない。
単純に、『いい訓練になりそうだから、全員のレベルアップをしてやろう』程度の話だったのだが。
後に、帝国軍人の一人は語る。
『あれは、鬼だ』、と。
帝国軍全軍対、四つの騎士団による強制参加の合同演習は、その後に興味本位で覗いたテレビクルーによって帝国中に流された。
精強なる帝国軍、その一人一人が地獄を彷徨う映像は。
藍色に染めた装飾のない和服を纏い、長い黒髪を後ろで纏めた深雪は、自らの執務室のイスに腰掛けていた。
撮影など二度と引き受けない。もし今度あったら、騎士団に全力戦闘をさせてやると固く誓いながら。
「よ、深雪」
「貴方に当たることは無意味でしょうね」
気楽な笑顔で挨拶してくる元凶に、彼女は小さくため息をつく。
「ま、たまにはいいじゃん。着物も和服も似合っているし」
「似合う似合わないの問題ではありませんよ、テラ。私は貴方の妻ですから」
「ん?」
知っていると顔を向けるテラに、彼女は柔らかく微笑む。
「着飾った姿を見せるのは、貴方のみです。他に見せるものなど、一つもありません」
「ん、知っている」
「ならば、何故?」
知っているのならば、自分が他の人間い『そういった姿を見られるのが嫌なこと』を理解しているはずなのに。
どうして今回の話を持ってきたのか。
目線で問いかける深雪に対して、テラは少し照れた様子で答えた。
「たまにさ、自慢したくなるんだよ。俺の妻はこんなに綺麗だって」
「・・・・・」
不意討ちだ、と深雪は思った。
そんな風に言われたら怒るに怒れないではないか、と。
「ずるい御人ですね」
「ごめん」
小さく謝る彼に、深雪は仕方がないかと笑顔を向けたのでした。
深雪・クロムウェル・エーテル。
年齢は二十二歳。
漆黒の髪に薄い藍色の瞳。
テラ曰く、『夜空のような包み込む髪色に、明け方の空のような瞳』。
帝国内において軍部の元締めのような役職を持っている。帝国軍総司令官以外で全軍に対して命令が下せる立場。
同時に情報局や警察機構の元締めであり、この三つに対しての強制査察権を有している。
滅多なことでは権利を行使しないので、『最終的な安全装置』みたいなもの。
ちなみに、帝国軍、情報局、警察機構の年間予算は彼女のサインがないとおりないで、それぞれのトップは彼女をどうやって説得するかを常に考えているらしい。
深雪が許可すれば、アイリスは横やりを入れないので、本当に彼女が予算を握っていることになる。
身体能力は平均より少し高いくらいだが、雪菜やクトリに比べるとかなり弱く見える。
メテオラと同じような後方支援タイプだが、実行数ではメテオラに劣っている。しかし、その魔法の作用範囲では彼女を超えている部分があるため、魔法合戦になると周辺被害がかなりひどいことになる。
彼女が保有している『黒夜騎士団』は、魔法戦を得意としているというわけではなく、どちらかといえば搦め手を好む編成になっている。
遠距離から魔法や砲撃を行いつつ、周辺を包囲、あるいは敵軍の中へ侵入しての『トップ打ち取り』が彼女の基本戦術だったりする。
身内以外では感情を抑えて離すので、『冷たい人形』、『氷の女王』とか言われており、一部からは『踏んでください、女王様』なんて言われてたりもする。
テラの奥様方の中では、珍しいくらいのクール系、見た目だけはだが。
身内だけなら感情を素直に出す、年相応の淑女。
こんな馬鹿は、どれだけ探してもここだけ。
ひっかきまわして、引っ張り廻して、不幸なんて知らないとばかりに蹴とばして、絶望なんてくだらないと滅ぼす破壊神みたいな。
そんな馬鹿が、この国の皇帝なので諦めてください。