どこかで、ねぐらに帰る黒鶫が鳴いている。
私と犬夜叉は、摘んできた百合の花を“いざよい”とつたない字で刻まれた墓石の前に置いた。
そのまま並んで手を合わせる。
犬夜叉は毎日欠かさず参っていたが、私は最初に埋葬を手伝った時以来だった。
自分と彼女の関係がどうにもビミョーな気がして遠慮していたのだが、この地を離れるのに挨拶なしというわけにはいかない。
「ここが無事で良かったな」
「本当だね」
弟の言葉に、深く頷く。
十六夜の墓は、橙色の夕日を受けて、八年前から変わらぬ静けさで佇んでいる。
人と妖怪の垣根を越えて父を愛し、犬夜叉を生んだ、優しくて強い女性。そんな人の眠りが妨げられずに済んだ幸運を思えば――
屋敷が全壊して水没したなんて、些細なことである。
第十一話 誓いを交わしました
犬夜叉が抜き放った鉄砕牙は、巨大な牙に変化し、殺生丸の左腕を切り落とした。
……兄が敵に背を向ける姿など、今まで見た者はいないだろう。
その見物料が、慣れ親しんだ住居の、戦いの余波による喪失というのはまったくもって割に合わないが。
(まあ、仮に無事だったとしても、ここにはとどまれなかったけどね)
あの殺生丸が、自分に敗北を味わわせた相手を捨て置くことなど有り得ない。まして、鉄砕牙は兄が何よりも執着する父の形見。
雪辱を晴らしに来るのが確定している敵に、所在を掴ませたままにするなど愚の骨頂。
だから、私たちはここから旅立つ。
(ごめんなさい……でも、いずれまた戻ってきます)
かつて見た、病に侵されてなお美しかった姫君の姿を瞼に浮かべ、心の中で約束する。
私の追憶を読み取ったかのようなタイミングで、犬夜叉が言った。
「昔、薬を届けてくれたの、姉上だったんだろ」
「――知ってたの?」
「そうなんじゃないか、ってなんとなく。初めておれが人間になった姿を見た時、全然驚かなかっただろ。それどころか“寝ないんだったら手習いでもやれ”ってよ」
「こうしてお墓の字と比べると、今は少しマシになってるね」
「うわ、ムカつく」
顔を見合わせて、お互いぷっと吹き出す。
「ありがとな。……母上に、会ったら礼を言ってくれって頼まれてたのに、改まって確かめる機会が無かったぜ」
「――ありがたがられるほど、役には立たなかったでしょう」
ほろ苦い後悔の念に、目を伏せる。
あの当時、定められた結末を覆すのは不可能と見切りをつけた。
しかし、自分がもっと積極的に十六夜の寿命を伸ばすべく行動していたなら、あるいは犬夜叉は、あれほど早くに母を失わずに済んだのではないか。
生きた十六夜とともに、この土地で三人で暮らす――そんな未来すらあったかもしれない。かくも前世の記憶にある物語と、現実の時間軸が乖離した今となっては、そう思う。
忸怩たる気分で膝に顎を乗せていると、弟がむっとした様子で否定した。
「んなことねえよ。母上は、自分のこと幸せ者だって言ってたぜ。おれたちのことを思いやってくれる誰かが、この世にはいるんだって」
「……」
「母上は、薬を持ってきてるのが妖怪――父上と関わりのある相手だって薄々気付いてたのかもな。あれだけ罠仕掛けたのに一つも引っかからないなんて、人間ワザじゃねえし」
「改まって文句言う機会が無かったから今言わせてもらいます、アレは妖怪でも大変だった」
「う……まあそれはともかくっ、母上はいつか、おれがソイツに会えるって信じてたんだ。母上の死に顔が安らかだったのは――多分、ソイツがおれを助けてくれるって信じてたからだと思う」
「――――」
十六夜の最期。それは今まで考えたことがなかった。
母親の臨終の様子など尋ねて良いものではないと思っていたし……私自身が、知るのを避けていた。
(でも……そうか)
幼い半妖の子供を残して逝かなければならない母親の無念を、不安を、少しでも取り除くことができていたというのなら――私の行動は、無駄ではなかったのだろう。
「ありがとう。その話、聞けてよかった」
重い荷物を一つ下ろした心地で立ち上がり、背中を伸ばす。
長く一緒の時間を過ごしていても、言うべきなのに言いそびれた話、聞くべきなのに聞きそびれた話、というのは案外あるものだと実感した。
「……さて、犬夜叉」
「ん?」
目顔で弟に立つように促す。
何か不穏な気配を感じたのか、怪訝そうに従う弟と向かい合う。
「ここを発つ前に、あなたに言っておかなきゃならないことがある」
勢いよく犬夜叉の両肩に手を置くと、少年の体がビクッと強ばった。
「――今のあなたの実力で、兄上と戦うなんて自殺行為、二度としないこと」
「なっなんだよそれ……いででで!?」
無意識に力が入っていたらしい。私の爪が食い込む痛みに弟がもがくのを無視して続ける。
「鉄砕牙はたしかに変化した。でもそれを振るうあなたは刀の大きさと重さに振り回されていた。あんな状態で勝てたのは、犬夜叉に鉄砕牙を使いこなせるわけがないと高を括っていた兄上の不覚によるもの。同じ状態で次に戦ったら、太刀筋を見切られて、腕を奪われるのはあなたの方」
それが、剣の師としての私の忌憚のない評価だ。
結界に守られた土地を出て、数多の妖怪が跋扈する外界を行く前に、驕りの芽は摘んでおかなければ。
「たしかに私はあなたの心の牙を評価してるけど、無策で噛み付いちゃいけない相手ってのはいるの。兄上は間違いなくその最たるものなんだから。……心の強さに体が追いつく前に死んだら、何にもならない。そうでしょう?」
「わ、わかったわかった! ――くそっ、なんだよ、おれが折角……」
拗ねた表情で少年がぶつくさと独りごちる。
――私は、そんな弟を抱きしめた。
「うん、犬夜叉が私を助けるために頑張ってくれたのはわかってる。でも……それよりも私は、あなたが無事だったことの方が嬉しい」
「姉上……」
自分より高い犬夜叉の体温。弟が生きているという実感に身が震える。
犬夜叉と暮らすようになって以来、前世の記憶はどういうわけかひどく朧げになったが、それでも鍵になる言葉や出来事によって蘇ることがある。
兄の襲来は、その鍵となって私の脳裏に一つのシーンを思い出させた。
犬夜叉が、殺生丸の手に背中から腹まで貫かれる姿を。
現実の世界で弟があんな目に遭わされるのを見るくらいなら――
「……私が殺される方がずっといい……」
それは無意識にこぼれた、本心からの言葉だった。
腕の中で、少年の呼吸が乱れた――と思った次の瞬間、弟が激しく身をよじって、抱擁を解く。
「――――姉上のバカッ!!!!」
「バ……!?」
いやそりゃ最近こういうスキンシップは照れて嫌がるようになってたけどそんな全力で怒鳴ることなくない――などと的はずれな不平を鳴らしていた私の脳は、犬夜叉の顔を見て、兄と弟が対峙しているのを認識した時以上の衝撃を受けた。
眉を吊り上げて私を睨む犬夜叉の瞳から、透明な雫が溢れ、夕映えに照らされた頬を伝っている。
「自分が殺される方がいいって、何だよ、そんなつもりでアイツに喧嘩売ったのかよ。おれは、そんなことされてもちっとも嬉しくねえ! バカだ! 姉上は大バカだ!」
「――――」
「おれは、言われなくたってわかってる。自分がまだ姉上の足元にも及ばないってことも、外の世界は敵だらけで、あの殺生丸みたいな、半妖を見下す妖怪が普通で、姉上みたいなのが珍しいんだって、ちゃんとわかってる。でも――」
激情に息切れしながら、弟は叫ぶ。
「そんな世界でも、おれは立ち向かいたいって思ってるんだ! 強くなって、姉上と一緒に戦いたいって思ってるんだ! なのに――いつまでもおれを子供扱いするなよ。おれを、置いていこうとするなよ……ッ……!」
頭をハンマーで殴られた気分だった。
いや、実際、こんなシロップみたいな甘ったるい自己陶酔に浸った頭は一度カチ割った方が良いのだろうが……残念ながらこの場にハンマーは無く、そもそも両腕を、私にしがみついて嗚咽する犬夜叉に押さえられていた。
なので、せめてもの誠意として、心から謝罪する。
「……ごめんなさい、犬夜叉。あなたの言うとおり、私のほうが馬鹿だった」
何を賢しらに弟に説教していたのか。
全力を尽くしても及ばず死に至ることはあろう、しかし最初から己を捨石として敵に挑むなど――後先考えず敵に噛み付く犬夜叉よりよほどタチが悪い。
命を擲ってでも誰かを救うと言えば聞こえは良いが、それは遺される者の嘆きを考えない、無責任な自己満足なのだ。
相手の命は救えても、心は救えない。
(そうだ……私はまだ死ねない。死にたくない)
弟を独りにしたくない、世界に叛いてでも、犬夜叉の味方になりたい――それが私の願いだ。
その願いを遂げようと思うなら、私はあらゆる手段を講じて生きなければならない。
真に誰かを守りたいと願うなら、まず自分を守らなければならないのだ。
「あなたを置いて死のうなんて、もう絶対考えないから、泣かないで」
「泣いてねえっ」
「……そう」
顔を伏せたまま間髪入れずに返す声はまだ掠れていたが、それでも少しずつ落ち着きを取り戻しているようだった。
その意地っ張りな声に、本当に犬夜叉は大きくなったのだ、と感じる。
犬夜叉の言葉は、全て正しい。
私が思う以上に、この少年は自分の頭で色んなことを考えられるようになっていたのだ。
それに気づけなかったのは、弟に自分の意志で進む道を決められるように育ってほしいと望みながら、そこに私の覚悟が伴っていなかったせいだろう。
弱い者は虐げられ、異なる者は疎まれる残酷な世界に、弟を立ち向かわせる覚悟が。
しかし犬夜叉はもう、安全な巣の中で、私の羽の下で守られる雛鳥ではないのだ。
私が盾となって危険から遠ざけようとしたところで、弟はそれを喜ばない。
犬夜叉が望むのは――共に剣を執って戦うことだ。
「犬夜叉……私はあなたの親がわりはもうやめる。あなたを守って、自分だけ戦うなんてもうしない」
「…………」
弟は私の言葉を黙って聞いている。
「これから先、戦う時は一緒に戦う。私の力をあなたに貸すと同時に、あなたの力を私は借りる。二人一緒に生き残るために戦って勝つ……世界に立ち向かう相棒になる。だから、今日のことは許してくれる?」
犬夜叉は水干の袖で乱暴に顔を拭いながら頷いた。
「……ああ、いいぜ」
「ありがとう」
「絶対だからな、約束だぞ」
念押しして、立てた小指を差し出してくる。
指切りは、犬夜叉が小さい頃から続く、明日は何が食べたいだの、何をして遊びたいだのを決めた時の習慣だ。
いつもどおり指を絡めようとして、ふと止める。
「……指切りで約束ってのも、もう子供っぽいね」
「っ! そそそそうだよなおれも前からそう思ってたぜ! でも姉上がしたそうだから仕方なく付き合ってやってたんだ!」
犬夜叉が真っ赤になって手を引っ込め、言い訳する。――これは笑ってはいけないヤツだ。
「うん、そうだね。でも、もっと良い約束の仕方があった」
「……どんなだよ」
「昔、師匠から教えてもらったの。……金打っていうんだけど」
それは、金属製の物を打ち合わせて誓いの印とする習わしだ。
女なら鏡、僧侶なら鉦などだが――武人は、刀だ。
「命を賭けて戦う者にとって、武器は自分の分身のようなもの。自らの魂にかけて誓いを立てるなら、それは何があっても破られない、破ってはいけない。もし破ったら、その時はその刀で斬り殺されても異存はない――そういう覚悟の証なの」
私には顕心牙があり、犬夜叉は今日、鉄砕牙を己がものにした。
共に戦うことを決めた旅立ちの日に、これほどふさわしい誓約法はあるまい。
「おおー……」
犬夜叉も、不機嫌に顰めていた眉を解き、感心したような声を漏らす。かすかに頬も紅潮しているようだ。
――大人かと思えば子供で、ひねくれているかと思えば素直。
「やっぱり
「ん? 何か言ったか?」
「いや何も。ほら、刀を抜いて」
抜き放った顕心牙の峰に額を押し当て、誓句を紡ぐ。
「――顕心牙にかけて誓う。私はこれから、犬夜叉を背に庇うのではなく、肩を並べて共に戦う者として在ることを」
「ああ、おれも誓う。おれはこの鉄砕牙で、姉上と一緒に戦って強くなる」
弟が鉄砕牙を掲げて応じる。
宵の明星が輝く紫紅の空の下で。
私たちは、互いの牙を打ち鳴らした。
金打は現実世界では江戸時代の風習ですが、この世界には既に存在する、という設定でお願いします。
皆様お待ちかね(?)姉貴呼びは次回、原作編からです。