《……本当にそう思うのか?》
「え……?」
起き上がって、辺りを見回す。
誰もいない。
「幻聴か……」
いもしない相手の声が聞こえるようになるなんて、そろそろ会話形式のモノローグによる現実逃避もやめた方が良いのかもしれないな、あははー。
《いいや、私はここにいる。私がお前の力となってやろう》
「……」
声は変わらず、私の頭の中に響いてくる。
それに導かれるように、私は部屋を出た。
第二話 父上と話しました
遥か上空にあるこの屋敷の周囲は、常に雲で覆われている。
御簾を割って濡れ縁に出た私の前――白くけぶった庭の中央で、一本の剣が宙に浮いていた。
三尺を超える長大な諸刃の古代剣。
《化け犬の姫よ――私を手にせよ。この叢雲牙が、お前をこの世の覇者にしてやろう》
柄にはめ込まれた拳大の宝玉が、赤く妖しい光を放つ。
その光を目にした途端、私は声に促されるまま、その柄に手をかけていた。
(…………っ!?)
掻き回される。頭の中を禍々しいナニカに掻き回される。
《ほう、これはこれは……思った以上に面白い小娘よ。妖怪でありながら、お前の心はまるで――》
(やめろ……!)
叫ぼうとして、声が出ないことに気づく。
柄を握った手は、無数の蔦状のものが巻きついて、離すことができない。
一切の自由を奪われた中で、剣が発する言葉を聞く。
《私を受け入れよ。恐れも迷いも、叢雲牙の使い手には要らぬモノ。すべて捨て去れば良い。私に従え。さすればこの叢雲牙がお前を救ってやろう》
捨て去る?
恐れも迷いも何もかも――この剣の言いなりに?
それが私の救い?
(嫌だ……)
「嫌だ――――!!」
次の瞬間、全身を灼くような衝撃とともに、私の意識は途絶えた。
「……華! 月華! しっかりしろ、月華!」
誰かに揺さぶられて、瞼を開く。
久方ぶりに見る、父の顔があった。
「父上……? あれ、私、部屋にいたはずなのに……?」
「すまなかった。叢雲牙めが私の支配を抜け出して――」
「そううんが……?」
「憶えておらんのか?」
「はい、いったい何が……この傷はどうして……」
自分の腕を見下ろせば、ひどい有様だった。右腕は肩から手首にかけてズタズタに裂け、それを為した左手の爪には血と肉片がこびりついている。
まるで腕についた何かを無理やり引き剥がしたような傷だが、まったく心当たりがない。
ただ悪夢から醒めた直後のごとき厭な動悸と冷や汗が残るばかりだ。
「熱……っ」
右腕に異常な熱を感じて顔をしかめる。
骨が見えるほどに裂けていた傷の周囲で、瞬く間に組織が盛り上がり、薄皮がはられていく。
妖怪の治癒能力としても早すぎる回復に瞠目していると、その熱はさらに全身に拡がり、視界が真っ赤に――
「月華! 落ち着け、妖力を抑えろ!」
「――――」
肩を掴む、父の腕。
その力を感じているうちに、少しずつ、熱が引いていった。
「……そうか、そなたの妖力は、弱いのではなく、眠っていたのだな」
「は?」
「よく聞け、月華。そなたは、そなたの力を御せるようにならねばならん。――これから、刀々斎のところに行こう」
「ええっ?」
刀々斎。
その名はよく知っている。物語の中で、天生牙と鉄砕牙をつくった刀鍛冶だ。
それはいいのだが。
(私にも、刀を持たせるってこと? でも、刀をもらって、私は何をしたらいいの?)
戸惑っている間に、父は背を向けて歩き出していた。
その背に追いすがって、せめてもの抵抗として問いかける。
「少し休まれた方が良いのでは? 父上もお怪我をなさっているのでしょう?」
自身の血の臭いに紛れて気づくのが遅れたが、確かに父の体から血の臭いがする。
おそらく、かなりの深手だ。
「――なればこそ、急がねばならん」
「……」
父は、振り返らない。
手負いの気配など一切感じさせない堂々とした立ち姿。その背中のなんと大きなことか。
「月華よ、強くなれ。己の意思で、進むべき道を見出す強さを得るのだ。その果てにこそ、そなたの幸福がある」
――私は言葉もなく、ただ頷いた。
鞘から抜き放った刀身に、自分の金の瞳が映る。
長さはおよそ二尺。鏡のように磨きぬかれた刃先をもつ、細身の美しい刀だ。
正眼に構え、吸気を丹田に落とし込む。
全身を巡る妖力の流れを制御し、伝播させる。柄を握る手から、刀へと。
驚くほど自然に、妖力が循環するのを感じた。
刀と手の境界が意味を失う。
まるで、欠けていた歯車が噛み合ったような感覚だ。
そのまま妖力を刀の切っ先に収束させ――刹那、振り下ろす。
一条の白い光が、轟音とともに雪の降りた山肌を貫いた。
「どうじゃ、気に入ったか? 月華」
納刀し、老妖怪に向き直る。
「ええ。感謝します、刀々斎殿」
この刀鍛冶が作り上げた、私の妖力を制御し斬撃の威力へと変換する剣――私なんかの牙が材料ではロクな武器にならないのではと憂慮していたが、その出来栄えは上々だった。
銘を、顕心牙という。
……三日前にイキナリ犬歯を引っこ抜かれた時は本気で殺意を覚えたけれど、許してあげよう。
「礼なら親父殿に言いな。わしは頼まれた通りにしただけよ」
だらしなくはだけた胸元を掻きながら言う老妖怪に、私はふと、気になっていたことを訊いてみる。
私が刀を持つことになったあの日、父の口から出た言葉。
「父上の刀は、すべてあなたが打たれたのですよね。……叢雲牙という刀のことを教えてもらえませんか」
「ああ? 叢雲牙だと? ありゃわしじゃない。犬の大将が昔から持ってたもんさ。……なんでそんなことを訊く?」
「いや、なんとなく……」
庭先で私が倒れる前に何があったのかは未だに思い出せない。
ただ“叢雲牙”という剣の名は、なにか不吉なものとして心に残っていた。
「犬の大将が持っておられるのは、天下覇道の三剣……いずれ劣らぬ名剣じゃが、叢雲牙には気をつけろ。あれには太古の邪な悪霊がとり憑いておるんじゃ」
「天下覇道の、三剣……」
天生牙はひと振りで百の命を救う。
叢雲牙はひと振りで百の亡者を呼び戻す。
鉄砕牙はひと振りで百の敵を薙ぎ払う。
……今更だけど、父上、チート過ぎない? 犬妖怪っていうか犬神の域じゃない?
「――怖くないのかな」
ふと、そんなことを呟いていた。
「ん?何がだよ」
「そんな凄い力を持つことが。だって、どの剣も世界の理を壊しかねない力じゃない。どうしてそんな力を持って、父上は平気なの? 世界を変えてしまう力を三つも持っていて、怖くないの?」
己の刀を手にしたものの、この力を如何にすれば、私は父の言う“進むべき道”を見出せるのだろう。
私は自分の存在が、この『犬夜叉』という物語の世界を変えてしまうことが恐ろしくてたまらないのに――
「あー、おい、おいおい、月華」
刀々斎が、困ったように両手を振っていなす。
「そういうことは親父殿に直接訊けよ。わしはただの刀鍛冶だぜ?」
「…………たしかに」
なにはともあれ、せっかく、自分の剣を手に入れたのだ。
今なら以前よりもう少し胸を張って、父と話せるかもしれない。
そうすれば、父のことがもっと理解できるだろう。
もう一度刀々斎に頭を下げて、私は屋敷への帰路を急いだ。
――けれど、結局、父と言葉を交わしたのは、あの日が最後になった。
父は私が顕心牙を受け取ったその夜、人間の女と、生まれたばかりの子供を救い、炎の中に消えた。