犬兄弟の真ん中に転生しました   作:ぷしけ

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第二十二話

 

深更の隠れ里は、混乱を極めていた。

 

「武器の準備急げ! 弩――いや、砲筒だ!」

「バカ野郎! それより女子供を逃がさねえと!」

 

昼間は子供たちの笑い声が響いていた広場を、殺気立った怒号が飛び交う。

「くそっ、よりによってお頭がいない時に……!」

そう俺の隣で悪態をつくのは、先月嫁を貰ったばかりの幼馴染だ。

戦闘服に着替える間も惜しんで、野良着の上から最小限の防具のみを身につけている。

「お頭がいたって――」

言いかけて、慌てて口を噤んだ。

確かに、里長と数名の手練が砦を離れていたのは不運だった。

そのせいで指揮系統が混乱し、皆思い思いに叫び散らしている。

だが――

俺は妖気に満ちた夜空を見上げる。

 

大蛇、鬼、大蜘蛛……雲霞の如く押し寄せる妖怪の群れ。

 

あの大群を前に、たかだか統率の有無がどれほど意味を持つというのか?

変わらない、何も。

どんなにこちらが巧みに立ち回ったとて、覆せないほどの戦力差がある。

そもそも俺たち妖怪退治屋は依頼を受けて討伐に赴くのが仕事で、向こうから群れをなして襲って来るような事態は想定していないのだ。

自分も退治屋としてそれなりに経験を積んできたからわかる。わかってしまう。

この里は、今日で終わる。

良くて相討ちか。

誰ひとり助からない。明日の夜明けまでには、皆屍になっている。

「く、来るぞ!」

幼馴染が上ずった声で叫ぶ。

すでに妖怪一匹一匹の種類が判別できる距離だ。

俺は手にした槍を構え直した。

「先頭の牛鬼……あいつは俺がやるから、援護を頼む」

「はぁ!? バカ言え、無茶だ!」

その言葉は正しい。

俺程度の実力では、あの大群の一匹すら倒せまい。

槍を突き立てた次の瞬間には、相手の爪に引き裂かれ人の形も留めぬ肉塊になっているだろう。

――望むところだ。

俺には、里長の娘のように際立った戦いの才など無い。性格だって、同年代の仲間たちの中では臆病な方だと思う。

それでも俺が、今日まで退治屋としてやってこれたのは……この里の皆が好きだったからだ。

仲間たちの死に顔など見たくない。死ねば、そんなものを見ずに済む。

退治屋としての勇気とも矜持とも真逆の、卑怯な逃避へ向かって俺が一歩踏み出した、その瞬間。

 

「――――ッ!?」

 

颶風と共に巨大な獣が舞い降りた。

 

「雲母……? いや、違う」

自分たちを守るかのように立ちはだかる四足の影に、この里に住む猫又の名を呟いたものの、すぐに間違いだとわかった。

かの妖獣より何倍も大きな体躯。

毛皮は未踏の雪原もかくやの清らかな白銀で、篝火に照らされて神々しいような輝きを放つ。

見たこともないほど壮麗な犬の化生であった。

咆哮が夜気を震わせる。

それは海嘯にも雷鳴にも似て、高く低く響き渡る大音声。

あまねく者の心胆寒からしめる音色に、今まさに砦の防壁を越え、殺戮の限りを尽くさんとしていた魑魅魍魎が揃って動きを止めた。

 

――“来い”と。

 

化け犬の哮りは、そう告げていた。

ギチギチ、ガリガリと異形の者たちが牙を鳴らして白銀の獣を取り囲む。

奴らの眼には、予想だにしない成り行きに呆然とする俺たち人間の姿など映っていない。

無数の視線を一身に浴びながら、犬の妖怪は、その身を人型へと変じた。

月の光が乙女の姿を象ったかのような、儚くも高貴な美貌。

その華奢な背中は、先ほどまでの雲を衝く巨体の獣と比べて、あまりにも小さく頼りない。

しかして、他の妖怪など全て塵芥と嘲笑う桁外れの妖気は微塵も衰えず。

襲ってきた妖怪たちの放つ殺気は、いつしか完全に様変わりしていた。

目障りな退治屋を皆殺しにしてやろうという悪意に満ちた余裕が消え、恐怖に裏打ちされた切迫した闘志を、たった一体の白銀に向けている。

その異様さに、ようやく俺は理解する。

あの咆哮は挑発ですらない、絶対的な命令だったのだ。

 

――“我と戦え。我を斃してみせよ。しからずんば死ね”

 

あまりにも隔絶した存在の発する気にあてられて、哀れな有象無象はこの場からの逃走はおろか、彼女を無視して人間を殺すという選択すら叶わない。

それは一方的な処刑であった。

雪崩れを打って襲いかかる妖怪の大群と、迎え討つ化け犬。

余人が見れば、誰もが後者が押しつぶされて終わると思うだろう。

しかし、実際には挑む魑魅魍魎いずれも、爪牙に銀髪の一筋すら捉えられぬまま、彼女が振るう刃に命を絶たれ次々に地に伏していく。

残像すら伴うその剣技は、俺たちが使う対妖怪の剣術によく似ていた。

人外の速度で振るわれる、人の業の極致。

まるでただ独り違う時間の流れの中に在るように、白銀の大妖怪は敵を屠りながら舞い踊る。

最後に残った鬼の首が転がった時、妖怪の屍で埋め尽くされた広場に影が差した。

「バカな……まだあんなに!?」

思わず、絶望の呻きが漏れる。

新たな妖怪の群れ、それも第一陣に倍する数が迫って来ていた。

いかな大妖怪とて、続けてあの数を相手にすることはできまい……そんな諦観とともに、死の舞踏を終えたばかりの彼女を見遣る。

彼女は――眉ひとつ動かさず、ゆるりと刀を天頂に構えた。

 

白い光の粒子が立ち昇る。

 

視認できるほどに膨大な妖力が、蛍火のように、花びらのように女妖怪の体を包み、刃へと収斂していく。

凄烈なる破壊の予兆に息を呑む俺たちを純白の輝きが照らし――次の瞬間、空へと奔った。

闇夜に赫耀たる大輪の花が咲き、百鬼夜行の軍団を呑み込む。

明滅する光と耳を聾する轟音の余韻が収まった時には、空を埋め尽くすかのようだった妖怪の群れは一匹も残っていなかった。

虚空に向けて放たれたただ一刀、その灼熱の妖力に包まれた妖怪は、地に落ちるだけの質量すら残さず塵となって消滅していく。

……ついに返り血の一滴すら浴びることなく敵を撃滅した白銀の乙女が、静かに納刀する。

「姫神さま」と誰かが呟いた。

もしかしたら、俺自身の声だったのかもしれない。

退治屋にとって、妖怪とは倒すべき敵であり忌むべき存在。けれど、俺はこの女妖怪の戦う姿を――美しいと思ってしまっていたから。

 

 

 

第二十二話 姉が揃いました

 

 

 

短い夏の夜が明けて、木漏れ日が眩しくなり始めた時分。

 

(ふふふ~、猫ちゃん可愛いよ猫ちゃん、ああ癒される……)

 

私は一人峠道を歩きながら、猫又をモフっていた。

妖怪の群れとの戦闘自体は容易く決着したものの、久しぶりに化け犬の姿に変化したら、やはり四足歩行がしっくりこなくて肩が凝った。

威嚇のために思いっきり吠えたせいで、喉もイガイガする(某島の伝説に語られる、口から火を噴く龍神の声真似なんて挑戦するんじゃなかった)。

だが、今腕に抱く小さな猫又の柔らかな毛並みは、昨晩の疲れを癒してくれる。

爪を引っ掛けないように注意しながら顎の下を擽ってやると、ゴロゴロと気持ちよさそうに喉を鳴らした。まったく、猫の妖怪がみんなこのくらい可愛けりゃ良いのに。

(にしても、犬夜叉たちはどこで道草くってんのかね)

 

 

……事の発端は、昨日の夕刻まで遡る。

 

近隣の村を荒らす大百足の噂を聞きつけて赴いたところ一歩遅く、百足は退治され、四魂の欠片も持って行かれていた。

そこで私たちは“退治屋”と呼ばれる、物の怪退治を生業とする集団の存在を知ったのだ。

しかも、大百足から四魂の欠片を入手した退治屋は、四魂の玉を自分たちの里から出たものだと言っていたらしい。

この新情報を受けて、私たちは退治屋の村を探すため夜の山に分け入った。

「犬夜叉、退治屋の村から四魂の欠片を奪う気か?」

「ったりめーだろ」

「逆に退治されないといいですけどね」

「そーねー、むこうはプロみたいだし」

弟の言葉に、弥勒とかごめが冷めた調子でコメントする。

「まあ、そこは交渉でなんとかしないと。色々聞きたいこともあるし」

私と犬夜叉という妖怪姉弟だけでは門前払い待ったなしだろうが、弥勒は法師だし、かごめも人当たりが良い。どうにか穏便に欠片を譲ってもらい、玉の由来もわかれば御の字だ。

「やっぱり月華さんも、四魂の玉がどうして生まれたか知りたいの?」

「うん。それに……妖怪退治の専門家の知識にも興味がある」

 

絵に描いた鬼を操る地獄絵師と、人喰い仙人桃果人から、それぞれ一個づつ四魂の欠片を回収した後。

私たちは楓の村に戻り、五十年前に村を襲った妖怪について改めて調べることにした。

楓は姉を死に追いやった妖怪が再び玉を狙っていると知って狼狽しつつも、当時の出来事を細々と語り聞かせてくれた。

 

その中で挙がったのが、鬼蜘蛛という名だ。

 

隣国でさんざん悪事を働いて逃れてきたという、手負いの野盗。

全身にひどい火傷を負い、両足の骨は砕けてまったく動けなかったその男を、桔梗は村外れの洞穴にかくまい世話をしていたという。

そして桔梗の死から数日後、楓がそこを訪れた時には、洞穴は焼け落ちていた。

明かりの火が燃えて鬼蜘蛛は逃げることができず焼け死んだ……と楓は思っていたらしいが、奈落の手がかりを求める弥勒とともに数十年ぶりに洞穴に行くことになった。

そこで目にしたのは、草はおろか苔すら生えていない、妖怪が強烈な邪気を発した跡――動けぬ鬼蜘蛛が横たわっていた場所だった。

野盗鬼蜘蛛の邪悪な心に取り憑いた妖怪こそが奈落、というのが弥勒の考えである。

しかしそこから先、調査は手詰まりを迎える。

斉天たちからの報告に、奈落のような強い邪気を持った存在に繋がりそうなものはなく、旅の道中で遭遇した敵も、苦もなく倒せる雑魚ばかり。

 

妖怪退治屋も四魂の欠片を集めているのなら、奈落や四魂の玉について、こちらが把握していない情報を持っているかもしれない。

 

「だから犬夜叉、あんまり喧嘩腰にならないように気をつけて」

「けっ、向こうが問答無用で襲いかかったりしなけりゃな」

「だ、大丈夫よ、いくら妖怪退治が仕事だからって、何もしてない相手をいきなり攻撃したりしないと思――」

不意に、ざわりと生暖かい風が木々を揺らし、かごめの言葉が途切れた。

「なんでしょう……いやな風だ」

「! そ、空じゃっ!」

私たちが上空を仰ぐと同時、何かが月を覆い隠し、周囲の闇がいっそう濃くなった。

「妖怪の群れ!?」

姿も大きさもばらばらな魑魅魍魎が、雲と見紛うほどの大群となって空を渡っていく。

彼らの放つ濃密な妖気は地上まで伝播し、少女は短い悲鳴とともに身を震わせた。

「なにこれ……ただの妖気じゃないわ……」

「確かに……。禍々しさに気分が悪くなる」

「――殺気だ。奴らなにかを襲う気だぜ」

「追いましょう!」

弟が呟くと同時に、法師が決断する。

そのまま犬夜叉を先頭に、妖怪の群れの飛び去る方向へ向かって駆け出す――

 

「いや、どう考えても間に合わないでしょコレ」

 

――ところを、その場に踏みとどまって声を掛けた。

 

「~~っ! 何か文句あんのか、姉貴!」

 

勢いよく踏み切ったまさにその瞬間、緊張感のかけらも無い声に呼び止められて、弟はつんのめるようにして止まる。

流石にすっ転びこそしなかったが、水を差された少年の機嫌は急降下だ。

他の面々も、鼻白んだ表情で振り返る。

……たとえKYの謗りを受けようとも、今は彼らをクールダウンさせなければ。

「あいつらの毒気にあてられた? 地べたを走って、空を飛ぶ相手に追いつけるはず無いじゃない」

これが障害物のない平地ならいざ知らず、今いるのは馬も歩けない急峻な山の中だ。

あの群れの目指す場所がどこであれ、私たちがたどり着く頃には目的を果たしているだろう。

「くっ……じゃあどうすんだ! あの高さじゃ、風の傷だって届くかわかんねえぞ!」

「それはもちろん――」

私はその場で地を蹴った。ひとっ飛びで大木の枝も届かない虚空に身を躍らせ、妖力を解き放つ。

 

変化(こう)すればいい!」

 

……自分の体の質量が一瞬で何百倍にも膨れ上がり、獣のカタチになるというのは、何度やっても妙な感覚である。

とはいえ、これで機動力の問題はクリアできた。

敵が事をなす前に迎え撃てるなら、あの程度の妖怪、どれほど集まろうと私一人で十分だ。

『私は先に行く。あなたたちは、ゆっくり来て』

化け犬形態に変じた私をポカンとした表情で見上げるかごめたちに言い置いて、夜空を翔る。

犬夜叉はともかく、人間がこんなド深夜に山道を走るのは危険だからね。

 

 

そして隠れ里を襲撃しようとしていた妖怪を殲滅し、弟たちを待っていたのだが。

(遅すぎるでしょ。もしかして道に迷ってる?)

夜明け頃には追いつくだろうと思っていた彼らが、日が高くなっても姿を現さないので、こうして私は迎えに行くことにしたのである。

その際に、里で飼われていたらしい猫又を連れ出したのは、本猫が仲間になりたそうにこちらを見ていたからだ。

――決して私が人目を気にせず存分にモフりたかったからとかじゃないです、はい。

「ん?」

風向きが変わって、その臭いに気付いた。

弟らと別れた地点とはまるきり違う方角から、犬夜叉たちの匂いを感じる。

そして、知らない誰かの血の臭いも。

猫又とのふれあいタイムの終わりを嘆きつつ、私はその方角に向かって駆け出した。

 

 

「あっ、月華さんだわ! 月華さーんっ」

山の中腹あたりまで降りたところで、セーラー服の少女が大きく手を振っているのが見えた。

奇妙なことに、木々が広範囲にわたってなぎ倒されている。

地面に蹲っているのは弥勒と、黒い装束に身を包んだ、血の臭いのする見知らぬ娘だった。

腕の中の猫又が、みぃ、と鳴いて怪我をしているらしい娘に駆け寄る。

「雲母……おまえ、生きていたの……」

娘はその毛皮を血の気の失せた指先で撫でながら、険しい目つきをかすかに和ませた。

「おっせーぞ、姉貴」

弟が眉間にシワを寄せて文句をつけてくる。

「そんなこと言われても。――いったい何があったの?」

問いながら、周囲を見回す。

まず目につくのは、周囲の地面と色の違う大量の土くれと、狒々の毛皮の切れ端。

そして苦しげな様子で横たわる法師に、オロオロする七宝。

……うん、かろうじて戦闘があったらしいことはわかるけど、それ以上のことが全くわからん。

「弥勒様が、虫の毒にやられて大変なの。この女の子も、ひどい怪我してるからどこかでちゃんと手当したいんだけど……」

「それなら、この先に人里があるからそこに行きましょう。妖怪に襲われたばっかりでごたついてるけど、死人は出てないし、寝床くらいは提供してくれると思う」

「ん? それってコイツが言ってた退治屋の里のことか? 滅ぼされたとか聞いたんだが」

「――――」

……なんか、お互い情報を交換する必要があるらしい。

 

 

弟たちと合流して戻ると、私たちは怪我をした少女と共に、里長の住まいに案内され、手厚く歓待を受けた。

「皆の衆、犬神様がお戻りになられたぞーっ!」

「里をお救いくださった姫神さまじゃ、おもてなしの準備を!」

手厚すぎるくらいに。

「大人気じゃのう、月華」

……久しぶりのソロ活動だからって、調子に乗るんじゃなかった。やっぱり私は小市民だ。もっとほどほどの感謝と、ささやかな賞賛でいい。

「月華さんが助けたのが、あたしたちの探してた退治屋の里だったのね」

「けっ、一人でカッコつけやがってよー」

「置いてったからって拗ねないでよ。私が全速力で飛んだら人間は振り落とされちゃうし、夜の山の中にかごめと助平法師を放置するわけにいかないでしょ」

「拗ねてねえ。姉貴がドジ踏んでねえか気になっただけだ」

「あなたじゃあるまいし。にしても、そっちの方が大変だったみたいね」

「うん。……弥勒様は体の具合どう?」

「頂いた毒消しの薬が効いてきたようで」

弥勒は縁側の柱に身を凭れさせながらも、先刻より安らいだ表情で答える。

 

私が飛び去ったあと、犬夜叉たちは狒々の皮を被った謎の妖怪に襲撃を受けたらしい。

そいつを追っていった先で待ち構えていたのが、退治屋の娘・珊瑚だった。

弥勒が風穴で吸い込んだ虫の毒で行動不能になり、犬夜叉もまた、妖怪専門の退治屋の戦法に多少手こずったらしいが……彼女を取り押さえ、謎の妖怪も風の傷で粉砕した。

「で、これがその中から出てきた人形、と」

私の手元には、木切れを雑に削って髪の毛を巻きつけたヒトガタがある。

「傀儡の術です。われわれが戦っていた妖怪は作り物……本物は安全な場所でそいつを操っていたのでしょう」

「アイツに四魂の欠片を仕込んで、死ぬまで戦わせようとしたことといい、いけすかねえ奴だぜ」

「……すまない。あたしが奴の口車に乗ったばっかりに」

犬夜叉が眉間に皺を寄せて吐き捨てるのに、開いた襖の向こうから少女の声が返ってきた。

隣室で手当を受けていた退治屋の娘である。

「珊瑚ちゃん、まだ動くのはおよしよ!」

彼女の枕元についていた中年の女が気遣わしげに嗜めるが、少女は毅然と首を振った。

「あたしは里長の娘だよ。お客人にちゃんと挨拶しないと」

幾分おぼつかない足取りながらも、私たちの前にやって来て跪坐すると、深々と頭を下げる。

「この里を守ってくれたこと、父上に代わって礼を言わせて欲しい。それからあんた達を襲ったことにもお詫びを」

「フン、てめえなんざおれの敵じゃなかっ――ぐぇっ」

余計なことを言おうとした弟の脇腹に肘鉄を喰らわす。

「ごめんなさい、通訳します。“気にしなくていいよ、大丈夫だから”って」

「――怪我をなさっている娘御に時間を割いていただくのは心苦しいのですが、お話を伺ってもよろしいですか?」

優秀な通訳・かごめ(バウリンギャル)が執り成すのに続いて、弥勒が口を挟む。

「ああ。なんでも訊いてよ」

珊瑚は、強い光を湛えた双眸で見返す。

弟らの話によると、彼女は“犬夜叉が里を襲った”と吹き込まれ、瀕死の重傷を負った体を四魂の欠片で無理矢理に動かして戦いを挑んで来たらしい。

顔色は優れないものの、今の彼女の凛冽とした佇まいは、とてもそんな深手を負った者とは思えない。並外れた気力と生命力の持ち主である。

「この傀儡を用い、あなたを唆した妖怪……その者の名を知っていますか」

弥勒は、いつになく張り詰めた声で問う。

……予感があったのだろう。毒虫の巣などという、自分の風穴を封じる周到な手口を用意する敵が、何者か。

 

「――奈落。城の若殿は、そう呼んでいた」

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

武蔵の国より遥か西に、『不帰(かえらず)の森』と呼ばれる忌地があった。

 

二百余年も昔、日ノ本の武士と異賊の争いの裏側で起こった妖怪の戦いの最後の地である。

大陸から眷属を率い、この国を支配せんとした妖怪の名は、飛妖蛾。

それを迎え討ち、己が牙で以て封印した化け犬の名は、闘牙王。

何人も立ち入れぬ樹海は、大陸妖怪の首魁を一族郎党諸共に封じ続ける。この世の終わりまで――そのはずであった。

 

「く……くくく……」

 

常闇に閉ざされた森の深奥に、蜘蛛がいた。

蛾を貪り喰い尽くした蜘蛛――背中に蜘蛛の形の火傷跡を持つ男――は、かつての大妖怪の、亡骸とも言えない残骸に腰掛けて満足げな忍び笑いを漏らす。

それに応えるように、もう一つの声が闇を震わせる。

 

《――ようやく雌伏の時は仕舞いか。あまりに退屈ゆえ、他の主を探そうかと思っておったわ》

「ほざけ。五十年前に四魂の玉をとり逃がしたのは、貴様が封印を破るだけで力を使い果たしたせいであろう」

 

黄泉の国から吹く風のように不吉な音色の声を、男は微塵も臆することなく受け流し、逆に嘲弄する。

 

「貴様とて、随分と昂ぶっている様子。さしずめ、待ち人来たれりといったところか?」

 

投じた視線の先には、髪も着物も真っ白な童女。

胸前に携えた鏡に浮かぶのは、ここではない別の場所の景色だ。

 

《確かに、あの者とはいささか因縁がある。予想以上の成長であったが》

 

遠見の鏡が映し出す白銀を見つめて、男は昏い緋色の双眸を細める。

 

「“神殺しの化け犬”、“闘牙女王”……この国最強の大妖怪の名は伊達ではないということだな」

《安穏としてはおれぬぞ? これで退治屋の里の欠片はあちら側に渡った。あの世とこの世の境に隠された欠片も手に入れ、残るは彼奴らの持つ欠片のみだというのに》

「かような(はかりごと)とも言えぬ戯れを破れぬようでは、喰らう価値もあるまい」

 

嘯きながら、男が深い闇色の光を滲ませる半球の輝石を掌中で弄ぶ。

 

「我が覇道の糧となるその日まで、せいぜい束の間の平穏を楽しませてやろうではないか、か弱き人間の仲間とやらと共に。それこそが、愚かなる大妖怪を蝕む楔となろう」

 

《……然り。だがかの天上の花を堕とすには、まだ駒が足りぬ、さらなる趣向を凝らさねば。腕の見せどころだぞ? 我が使い手よ》

 

「ふん。そちらこそ、わしを失望させてくれるなよ――我が剣」

 

冥府の入口の如く瘴気に満たされた森に、禍津の者たちの哄笑が響いていた。

 

 

 




月に叢雲花に風

次回、番外編を挟んで第三章になります。
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