かすかな葉ずれの音に、意識が覚醒した。
今夜こそ眠らずに待っていようとしたのが、知らないうちにウトウトしてしまったらしい。
凭れていた柱から身を起こし、外へと飛び出す。
月のない真っ暗闇が庭に広がっていた。
何も見えない。
――この朔の日の夜は、臭いも感じられない。
けれど、すぐそばの植え込みでがさりと枝が揺れる音がした。
おれは音のした場所に向かって、両手をいっぱいに広げて飛びつく。
「つかまえた!」
「フギャーーッ!」
「……なーんだ、猫か」
第五話 主人公を観察しました
朝。
おれは母上に昨夜の待ち伏せの結果を報告した。
「またダメだったよ、母上。薬はいつもの場所に置いてあったけど、誰もいなかった」
「そうですか……残念ですね」
母上は横になったまま、困ったように微笑む。
一年ほど前から、母上は日中もほとんど床について過ごすようになっていた。
けれどここしばらくは、以前より少し顔色が良くなったように思う。
半年ほど前の新月の晩のことだ。
人の気配がして外に出てみると、おれたちの部屋の前の廊下に見慣れない行李が置いてあった。
開けてみると、中には高価な薬とともに、滋養のある食べ物がたくさん詰まっていたので驚いた。
それ以来、毎月この奇妙な贈り物は続いている。
行李に顔をよせると、かすかに何か生き物の臭いがするように思うのだが、薬の臭いに紛れてしまってよく分からない。
(持ってこられたすぐあとなら、もっとニオイが残ってるかもしれないのに……)
この現象が始まった当初から、贈り主を確かめようと躍起になってあれこれ試してみたのだが、今のところすべて空振りに終わっている。
「……このひとは、おれに会いたくないのかな」
「犬夜叉――」
おれは半妖だ。
父上は、西国を支配する化け犬だったらしい。
強くて優しい、立派な方だったと母上は話してくれた。
でも、おれたちの周りにいる人々にとって、そんなことはなんの意味もないことだった。
人間にとって、おれは単なる物の怪の子供で――母上は、人でありながら物の怪と通じた裏切り者だった。
だから、おれたち母子はこの屋敷で、ひっそりと息を殺すようにして過ごさなくちゃならない。この広大な屋敷の、狭い離れで。
母上が病気になっても、薬師を呼ぶことも許されずにいたから、薬が届けられた時は本当に嬉しかった。
なのに、この贈り主は決して姿を見せようとしない。
半妖であるおれが月に一度、妖力を失って人間になる秘密の日。夜目も鼻も利かなくなる朔の日の夜に訪れては、知らぬ間に去ってしまう。
それがおれを疎ましく思っての行動なのだとしたら、母上を気遣ってくれるのはありがたい反面、とても寂しく感じる……。
「大丈夫。そんなことはありませんよ」
母上が身を起こして、おれの頭を撫でる。
「この方は、犬夜叉のことも思っています。姿を現さないのは、きっとこの方に、会いたくても会えない理由があるのでしょう」
そう言って差し出された、行李の中の包みの一つ。それは唐菓子だった。
「……うん」
口に入れると、サクサクとした歯ごたえと甘味に、顔がほころぶ。
そんなおれの様子を、母上は微笑んで見つめながら、しみじみと言った。
「私は、幸せ者です……。あの方は、私と犬夜叉を命をかけて守ってくれた。こうして病を得た今も、顔も知らない誰かが、私たちを思いやってくれている……」
細く、弱々しくなった母の腕が、それでも優しくおれを抱き締める。
「犬夜叉。いつかこの方に出会えたら、その時は、母の分までお礼を言ってくださいね。……私は無理でも、あなたはきっと会える……」
「うん。おれ、絶対このひとに会うんだ!」
おれは笑って頷いた。
贈り物が始まる前、おれは朔の夜が大嫌いだった。
自分が人間でも妖怪でもない中途半端な存在であることを嫌でも思い知らされる、半妖特有の現象だったから。
でも……次の朔の日は贈り主に会えるかもしれないと考えると、それまで妖力を失って心細いばかりだった夜が、おれはほんの少し楽しみになっていた。
このひとは、おれと母上を思ってくれている。
おれたちは孤独じゃない。
そのことに気づかせてくれたこのひとに、朔の日をほんの少し好きにさせてくれたこのひとに、おれは心からありがとうと言おう。
「よぉし、さっそく次の罠を考えるぞー!」
次は必ず捕まえる――そう決意を新たにしたおれは、この時母が自分に願いを託したその意味を、まるで理解していなかった。
「はぁ……今回もギリギリだった……」
私は高い木の上から、寝殿造の屋敷を複雑な思いで見下ろしていた。
半年前。
気の迷いが高じて私は、それまであえて意識から締め出していた犬夜叉の消息を調べてしまった。
そして犬夜叉とその母親が親類の屋敷に身を寄せていることと、母親――十六夜が病に侵されていることを突き止めた。
そこでやめておけば良いものを、さらに私の精神状態は悪化し、その後毎月、ごんぎつねの真似事をしているのだが、薬を置いてくるたびに罪悪感が重くのしかかる。
なぜならこれは、原作に存在しない
原作知識を悪用して、犬夜叉の鼻が利かなくなる朔の日にしか近づかないから、直接姿を見られたことはない。
とはいえ、本来ありえない出来事を主人公にもたらしていることに違いはないから、限りなく黒に近いグレーゾーンだ。
おまけに、接触を避け続けられるかも心もとない。
匿名の贈り物などされたら、当然その正体を突き止めようとするとわかってはいた。
だが犬夜叉の熱意と行動力は、私の予想を遥かに超えていたのだ。
犬夜叉は毎回思いつく限りの罠をはっており――結果私は、柱の間に張り巡らされた糸に触れないように仰け反りながら進んだり、廊下に散らばった鈴を踏まないようにつま先立ちになって歩いたり、庭中にまかれた灰に着物を汚されたりした。
昨夜に至っては、何も仕掛けが見当たらなかったのでついに諦めたかと油断して近づき――直前で犬夜叉が柱の影で待ち構えていることに気づいて、そのまま数時間、犬夜叉が寝落ちするのを屋根の上で待ち続ける羽目になったのだ。
犬夜叉がもし現代に生まれていたなら、サンタクロースを捕まえようとしたに違いない。
――だが、そんなこんなも、きっと今回で終わり。
昨夜、犬夜叉たち親子が寝起きする部屋に近づいた時、十六夜の匂いの中に、かつて父と最後に会った時と同じ臭いを感じた。
単純に怪我をして血の臭いがするというだけではない、絶望を抱かせる臭い。
今ならわかる、あれは死の臭いだったのだ。
ロウソクの火が消えないように風よけを作ったところで、ロウソクの芯そのものが燃え尽きるのは防ぎようがない。
……結局、私のしたことは、定められた終わりをほんの少し先伸ばしにしただけだったのだろう。
だから、今回で終わらせなければいけない。
人間でもない、妖怪でもない、どっちにも行けない半妖の犬夜叉。
その境遇に、人間の記憶をもったまま妖怪に転生してしまった自分を勝手に重ね合わせた。
でもそれは大間違い。
犬夜叉には私なんかと違って、しっかりとした自分がある。
この半年間で、それがよくわかった。
犬夜叉はこれから先、長いこと独りで生きていくことになる。
自分の居場所は力ずくで手に入れるしかないと思い込み、裏切られ、悩み、傷つき、戦い――その果てに本当の意味での居場所を得るのだ。
そんな物語の主人公を、脇役ですらない異分子である私の自己満足にこれ以上付き合わせてはいけない。
屋敷に背を向けて、跳躍する。
今日の予定は、東の山に群れで住むという蛇妖怪の討伐だ。
勘を鋭くするために、目を瞑った状態で戦おうと決めている。
(――さようなら、犬夜叉)
この半年間は、楽しかった。
屋敷で貴族たちから除け者にされても、母親には笑顔を見せる犬夜叉の姿に励まされた。
私を捕まえようとあれこれ策をこらすのには閉口させられたけど、嬉しかった。
犬夜叉が、私に会いたがっている。
自分は孤独ではない。
かりそめとはいえそう思わせてくれた犬夜叉に、生きることにほんの少し前向きにさせてくれた犬夜叉に、私は心の中でありがとうと告げた。
姉弟の邂逅は次回に持ち越しです(土下座)