十六夜に死の匂いを感じた夜から二十日あまり後。
ここ、人里離れた山奥の庵にも一人、死の気配を色濃く漂わせる人物がいた。
「師匠、薬湯を煎じましょうか?」
「いや、良い。自分の身体のことは自分でわかっとる。もはやこれまでよ……」
板の間に薄い筵を敷いただけの簡素な寝床に横たわるのは、私の剣の師匠――何を隠そう、人間の老人である。
……すいませんやっぱり隠します母や兄に知られたら今度こそ頭おかしいと思われてしまいます。
「お主と出会ったのは、もう五年も前になるかのう……ふふ、まったく、妖怪から弟子にしてくれと頼まれるとは思わなんだわい」
すでに真っ白になった頭髪の師匠は、天井を眺めながら感慨深げに呟く。
落ち窪んだ目には、最初に会った時から変わらない鋭い光が宿っている。けれど今その眼差しには懐かしむような色があった。
「……私も、あんなにあっさり了承してもらえるとは思いませんでしたよ」
この老人とは、かつて私が地上に自分の住まいを作ろうとあちこちをうろついていた時に知り合った。
妖怪退治を依頼された剣豪と、その討伐対象として。
第六話 師匠を看取りました
じつは、剣の修行に打ち込もうと地上に降り立ってすぐ、私は途方に暮れることになった。
素振りくらいしか修練の方法が思いつかなかったのである。
(まあ
刀を必殺技ブッパのためのツールとして扱うならそれでもいいのかもしれないが、私の場合それでは問題がある。
妖力を循環、制御し攻撃へ変換――という私の戦い方は、非常に集中力を要するのだ。
大火力の技を連発することは出来ないし、そもそも前世一般人の自分の棒振り芸では、技を発動するより前に敵にやられる確率が濃厚である。
そこで偶然出会ったこの老人――法力も霊力も持たない只人の身でありながら、剣の腕のみで妖怪退治を請け負って生計を立ててきた男にダメもとで頼んでみたのだ。
「なに、お主の眼を見れば悪い妖怪でないのはすぐにわかったからのう。己の人生の終わりに、技を誰かに伝えるのも一興と思うたのよ」
生涯独身で、ひたすら剣の道に邁進して来たという師匠は、飄々と笑う。
「あまり伝え甲斐のある弟子ではなかったでしょう」
「まあ、五年やそこいらではの。だがわしが持つ技は残さず教えたんじゃ、あとはお主の長い時間の中で高めていけば良いわい」
師匠はまた笑おうとして――今度は激しい咳込みにかき消された。
「――のう、月華。わしが死んだら、骸はこの山に埋めてくれ」
「…………」
「墓石も、何も要らぬ。ただわしのこの刀とともに埋めてくれるだけで良い」
「本当に、それだけでいいんですか?」
それはとても寂しいことのように思えて問うてみるも、師匠の答えに揺ぎはない。
「うむ、どうせ弔いに訪れる身内もおらぬ身じゃ。ずっと修行を続けてきたこの山がわしの母、ともに戦ってきたこの刀がわしの連れ合いよ」
そんな風に生きてきたことになんの悔いもない……それが感じられる声音だった。
「では、その後で私にしてほしいことはありませんか? そうだ、師匠が請け負ってきた妖怪退治の依頼を私が代わりに、とか」
くくっ、と老人は喉奥で笑いを噛み殺し、幼子を見るような顔をする。
「なんじゃ月華、妖怪のクセにわしが死ぬのが寂しいか?」
「べ、別にそんなんじゃありませんっ」
ツンデレキャラのごとき返答をしてしまったが、本当にそんなんではない。……ないったらない。
ただ私は、まがりなりにも剣を扱えるようにしてくれた師匠に、何一つ返せていないのだ。
師匠は、金にも酒にも女にも興味がない。
私は――師匠が自慢できるような優秀な弟子でもない。
正座した自分の膝に視線を落としていると、剣胼胝の出来た皺だらけの手が、私の手に重ねられた。
「ではのう、わしから最後の指導じゃ……心して聞けい」
「――は」
身を乗り出して傾聴の姿勢をとった私の目を、老人はまっすぐに見つめる。
「月華よ――お主は、自分で自分を縛るのをやめよ」
「え…………?」
戸惑う私に、師匠は訥々と続ける。
「お主は以前、この世界は居心地が悪いとこぼしておったな。だがの、お主を苦しめておるのは、お主自身よ。“己はこう在らねばならぬ”“己はこう振舞わねばならぬ”という枷に縛られておる……お主の剣を見ておれば、それがわかる」
「――――」
「今のお主は、短い紐で繋がれた犬よ。同じ場所をぐるぐる回るばかりで、どこへも行けぬ。せっかく人間より永い命を持っておるのに、それではあまりにつまらんだろう。……妖怪のお主は怒るかもしれんが、わしは一度も、“人々を妖怪から守らねばならぬ”なんぞという理由で妖怪を退治したことはない。全ては剣のため、わしが心から剣の道を極めたいと願ったがゆえのこと」
私の手を握る老人の手に、力が増した。
「お主はもっと、己の心を自由にしてやれ……己の成したいことを成して、初めて……真に成すべきことは、見つかるの、だから……っ……」
「師匠!」
ひゅうひゅうと苦しげな喘鳴に喉を震わせながら、それでも老人は穏やかな表情だった。
「ああ……お主らに比べれば短い命じゃが、輪廻の輪というものがあるのなら、また、この世に生まれて来たいものよ……」
あります、と私が唯一自信を持って言える言葉を返す。
「生まれ変わったら、また師匠は、剣を極めるんですか……?」
「いいや……剣は、この生で充分に極めた……なんの未練もない……次の世では……普通に、嫁を娶って……お主のような子供を持つのも……悪く、ない……やも――――」
稲妻のごとく疾く鋭い剣を振るってきた師匠の腕――そこに漲っていた力が抜けていく。
「――――」
私は師匠の名を知らない。
師匠が名乗らなかったから。
私の知る物語には微塵も登場せず、歴史書にも記されることのない無名の剣豪――けれどたしかにこの世界に生きた一つの命の終わりを、私は見届けた。
師匠の遺言に従って埋葬を済ませると、妖力を纏って紺碧の夜空に舞い上がる。
何処へ行こうという目的があるのではない、ただ、遠くへ行きたかったから。
(師匠に、自分が犬妖怪だなんて言った覚えは無かったんだけどな……)
だが案外、師匠なら言わずともわかったのかもしれない。
私に、あれほど正鵠を射た助言をくれた師匠なら。
父に続いてまた一人、自分に大切な言葉をくれた存在を失った。
「紐で繋がれた犬……か」
私だって自由になれるものならなりたい。
己を縛る枷を断ち切りたい。
師匠のように、悔いのない生だったと微笑みを浮かべて死にたい。
(でも……どうすれば…………)
老人の眠る山は、夜の闇に黒く沈み、ただ静かにそこに在る。
答えのない問いに嘆息したその時――
「…………っ!?」
夜風に乗って、馴染みのある匂いを感じた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」
鬱蒼とした竹林の中を、おれは走っていた。
もうどれだけ走り続けているのか、どこに向かっているのかもわからない。
でも決して止まれない。
後ろから追ってくるモノたちの、ゾッとするような血腥い臭いは、少しも遠ざかっていないから。
《くっくっく……半妖の肉とは珍しや》
《わしは脳みそが喰いたいのう》
「……っ!」
藪に突っ込むと、細かい枝葉が目に刺さりそうになる。
両手が使えればもっと楽に逃げられるけれど、今腕に抱えているものは絶対に手放せない。
……母上のお骨だから。
「!」
突然、背中に灼けるような痛みと衝撃を受けておれは倒れた。
白木の箱が地面に転がる。
手を伸ばして拾おうとするも、それより早く、眼前に牛ほどの大きさの蜘蛛が降り立ってきた。
「く……っ」
鎌からおれの血を滴らせる大蟷螂が、赤い目玉を光らせる百足の化物が、おれを取り囲む。
竹の間をくぐり抜けた大蛇が、待ちきれないとばかりに大顎を開いて迫り来る――
(ち、ちくしょう……!)
その刹那。
「――――?」
一陣の風が吹き抜けた。
……少なくとも、おれにはそうとしか認識できなかった。
けれども、その風の後には、大蛇も、他の化物どももいなくなっていた。
いや、正確には、いなくなったわけではない。
その体は、ある。
みな真っ二つに斬られた死体になって転がっている。
見れば周りに繁っていた竹も、残らず伐採されて鋭利な断面を晒している。
そうしてぽっかりとあいたその空間の中心で――ひとりの女の人がおれに背を向けて立っていた。
甲冑を纏う、ほっそりした身体。
肩に流れるその髪は白銀。
雲間から差し込む月明かりを受けて、ほのかな光を放っている。
「――――」
ゆっくりと振り向いた横顔が、おれを見つめる。
冴え冴えとした……けれどどこか寂しげな金色の瞳。
母上が寝物語に聞かせてくれた、月から来たお姫様のようだとぼんやり思った。