とある国の山間に、澄んだ湖を抱えた盆地がある。
その一帯の土地は、不可視の結界で守られ、人はおろか妖怪ですらたやすく入り込むことはできない。
湖の真ん中に建っているのが、私の屋敷だ。
そこで私は、
(あああああああ! やっちまった! やっちまったよコンチクショウ!!)
眠る犬夜叉を前にして頭を抱えていた。
(どうして、こうなった……)
もう犬夜叉には関わらない――そう決めてひと月も経たないうちにコレである。
あの時、私は確かに自分の中でケジメをつけたのである。
私は物語のスポットの当たらない、世界の片隅でひっそりと生きる。
犬夜叉にも殺生丸にも接触しなければ、それが叶うと思っていた。
今ですら私に無関心な兄は、顔を合わせなければ私の存在など思い出しもしないだろう。
心の中で犬夜叉に別れを告げて去る私の後ろ姿は、その一枚絵にスタッフロールが重なってエンディングテーマが流れていてもおかしくないくらいキマッていたと自負している。
(なのにどうして、もうちょっとだけ続いちゃってんの!?)
昨晩、大気の中に馴染みのある匂いを感じた。
馴染みのある犬夜叉の匂いと、複数の妖怪の臭いを。
――気づけば、考えるよりも先にその方向へ走っていた。
我に返ったのは、犬夜叉を取り囲んでいた妖怪たちを全て片付けたあとだった。
このまま振り返らず逃げ去りたい衝動がこみ上げ、それでも傷を負った犬夜叉の状態を確かめずにはおれず……おそるおそる後ろを向いた私の目からは、たぶんハイライトが消えていた。
犬夜叉は窮地を脱したことで気が緩んだのだろう、私の見ている前で意識を失ってしまった。
屋敷に連れ帰って傷の手当をした今は、寝具の中で健やかな寝息をたてている。
「……」
……。
…………。
………………。
――くいくいくいくい。
(……って犬耳に触ってる場合じゃなーーーーーーい!!)
第七話 弟ができました
自分で自分の手をつねりながら、犬夜叉を起こしてしまっていないか横目で窺う。
朝の光が、犬夜叉の寝顔を柔らかく照らしている。あどけない子供の顔だ。
その顔を眺めていると、早く今後の対処を考えなくてはならないのに、どうにも思考がまとまらなくなる――
――ぢゅ~。
バチン!
首筋に刺激を感じて手で叩くと、ブチッと何かが潰れる音がした。
掌から、豆粒大のひらべったくなったものが落ちる。
「冥加……」
「お久しゅうございます、月華様」
「久しぶり。ていうか、今までどこにいたの?」
「はい! 十六夜様が先日亡くなられて、犬夜叉様の行方がわからなくなっていたものですから、この冥加、夜を日についで探し回り――」
「“妖怪に襲われたんでびびって隠れてました”って?」
「う……」
蚤妖怪はなにやらもごもごと言い訳していたが、図星だろう。主人公の家来が、こんな頼りない奴しかいないとは。
誤魔化そうとしてか、冥加はわざとらしい明るい声を出した。
「ま、まあしかし、こうして月華様に助けていただけて安心しました! 純血の妖怪でありながらなんとお優しい……」
「――――」
その言葉は、さらに私の心に影を落とす。
(そう……妖怪は絶対に半妖を身内と認めない……)
半妖に情愛を示す妖怪は、その半妖の親のみ。その親とて、私たちの父のように卓越した力を持っていなければ、他の仲間から粛清されかねない。
それがこの世界の常識だ。
今こうしている私の方が間違っている――転生者としても、妖怪としても。
私は、犬夜叉を助けてはいけなかった。
(というより、なんで私が介入せざるをえない状況になってたワケ?)
なんで本編始まるより前に死にかけてるのか! 主人公補正ちゃんと仕事しろよ……と心の中で毒づいて、はたとある可能性に思い至る。
(それとも、私がせっかちすぎたの? ひょっとしてあそこから犬夜叉反撃のターンの予定だったの?)
思い返して見れば、あの時の犬夜叉は追い詰められてはいてもまだ目は死んでいなかったように感じる。
ピンチに陥ってからの覚醒、反撃によって勝利を収め、犬夜叉は自力で生きることを学ぶ――いかにも主人公らしい
無我夢中で割って入った私は、完全に余計なことをしたのだ。
(――いや、まだ間に合う。ここから修正できる!)
そう自分を奮い立たせると、眠る犬夜叉の背中に腕を回して抱き起こす。
「月華様? どうなさったので?」
「どうもこうもない。ウチでは飼えないから、拾った場所に戻してくる」
「なんとゆーことをっ!」
私の内心など知りもしない蚤妖怪は、犬の仔に対するような言い草に腹を立てて、私の肩で跳ねながら叫ぶ。
「犬夜叉様は、貴女様の弟君なのですぞ!」
「……それ、本当?」
「っ!?」
予想以上に回復が早かったのか、枕元で騒いだのがいけなかったのか――幼い声に割り込まれて、私は息を呑んだ。
犬夜叉が、目を覚ましている。
目をまん丸にして、自分を見上げている。
そのことに気づいた瞬間、私は犬夜叉から離れ、膝立ちのまま後ずさった。
「犬夜叉様~! お目覚めで、あ゛っ!」
冥加が、運悪く犬夜叉が寝具に突いた手の下敷きになるも、この場にそれを気にする者はいなかった。
犬夜叉は私しか見ておらず――私は自分という
「…………」
「…………っ」
ぺたぺた――と犬夜叉は四つん這いのまま寝具から這い出し私に近づいてくる。
私は同極の磁石のように、近づかれた分だけ膝でいざって距離を取る。
ぺたぺた。
――ずりずり。
ぺたぺた。
――ずりずり。
傍から見れば今の私は、マルチーズに怯えるサモエドだ。
けれど犬夜叉は、そんな私の醜態を笑うでも不気味がるでもなく、何かとても大切なものを確かめるように、
「おれの……姉上?」
そう呟いた。
………………ぐはぁっ!!!?!?!?!!!!!!!!!!
(あ、姉上って、私のこと、姉上って……!)
精神に、致命的な不意打ちをくらった気分であった。
「……?」
犬夜叉は相変わらず、こちらを見つめたまま首をかしげている。私の返事を待っているのか、頭の上でピクピクと動く犬耳。
こうかはばつぐんだ!
私の唇が、勝手に言葉を紡ぎだす。
「――い、犬……夜叉……」
「うん!」
……犬夜叉に耳はあっても尻尾はないはず。
だのになぜか、ちぎれんばかりに振られる子犬の尻尾が見える気がした。
「ええと、体は、もう大丈夫なの?」
犬夜叉はますます表情を明るくして頷く。
「うん、助けてくれてありがとう、姉上!」
「……っ……」
長年自分の内面を隠すことに尽力してきたせいか、私の表情筋は、動揺が激しくなればなるほど仕事を放棄する。
今はそれが幸いだった。嬉しいのか切ないのか恥ずかしいのかわからないグチャグチャになった私の感情を悟られずに済む。
これ以上目の前の子供を直視できず、私は、犬夜叉と一緒に持って帰っていた白木の箱を差し出す。大事に抱えていたのだろう、犬夜叉の匂いが強く残っていた。
「これは――あなたの母上?」
「あ……うん……」
それまでの元気が鳴りをひそめ、犬夜叉は膝に乗せた骨箱を沈んだ面持ちで見つめる。
この時代の人間の葬儀には詳しくないのだが、
「どうして、あなたが持っているの? 寺か何かに納めるものではないの?」
「……ダメなんだ」
悲しみと悔しさの入り混じった声だった。
「物の怪の子供を生んだ女の骨なんて、不吉だって、供養なんか出来ないって、みんな、そう言うんだ」
「――――」
「供養してもらえないと、母上が、成仏できないのに。母上が、父上に会えないのに……!」
そして自分も追い出されたのか、自分で飛び出したのか――どちらにしろ、十六夜の死後、ひとりでさまよっていたらしい犬夜叉は、胸の内を全て吐き出そうとするように続ける。
私は――
私は――手を伸ばして、犬耳の生えた頭をそろそろと撫でていた。
前世は一人っ子だったから、こんな風に小さい子の頭を撫でる機会なんてなかった。
緊張してしまって、触っているはずの耳や髪の感触が伝わってこない。
それでも、撫でる。ただそうしたいと思ったから。
こうしてそばにいると、まだかすかに血の臭いがする。
人間の血と、私にもよく似た妖怪の血が混じりあった臭い。
(……これが、犬夜叉の血の臭い……)
「――この屋敷の、南の対岸に楡の大木がある。そこなら、夏は木陰になるし、春にはまわりに花も咲く」
「え?」
唐突な私の言動に、戸惑ったように見上げてくる金の瞳。――ああ、
「そこに埋めて、あなたが毎日参ってあげれば、きっと母上にとっては、それが一番の供養になる。成仏できないなんてことはない」
「……おれ、ここに住んでいいの?」
犬夜叉は、おずおずと問うてくる。そこには、今までに見せたことのない怯えがあった。
「おれ、半妖だよ?」
「――――」
頭に乗せたままの手が震える。
犬夜叉は半妖として、人間にも妖怪にも受け入れられることなく過ごす。四魂の玉にまつわる物語が始まるまで、何年、否、何十年も。
それが、この世界の正しい流れ。
それが、前世の私が心躍らせた物語の開幕のために必要な前段階。
それが――
(それが、何なの?)
「――それが、何なの?」
震えが止まった。
手のひらから伝わってくる犬夜叉のぬくもり。
そのぬくもりの前に、私が今まで心に課していたもの全てが意味を失い消えていく。
だって私はもう、この子の血の臭いを、抱き上げた身体の小ささを知っている。
犬夜叉は紙面の中の登場人物ではなく、私はもはやそれを眺めていた読者ではない。
ふたり揃って、
前世現世ふくめて、当たり障りのない、無難な選択しかできなかった自分。
傷つけられること、非難されることを恐れるばかりで、何の情熱も持てなかった自分。
そんな私が初めて抱いた、たった一つの願い。
――私は、この子の味方になりたい。
自分の知る物語を自ら壊すということ。
妖怪として有り得べからざる行動をとるということ。
湧き上がるこの願いを前にして、そんなことは――
「そんなことは、何の意味もない。――あなたは、私の弟なんだから」
そうして私は、転生して初めて、心から微笑んでいた。